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古代ギリシア年表(BC1249-1200)

Create:2025.11.3, Update:2025.11.3

BC1249年、AriadneはArgosで死に、その地に埋葬された。[Paus.2.23.8]
BC1249年、Augeasは、Elisで競技会を開催した。[FGrH.Nr333.F118, Home.Il.11.655]
** 競技会の開催地は、Elisではなく、Olympiaと思われる。[Paus.5.8.3]
BC1248年、Heraclesは、TirynsでOechaliaのEurytusの息子Iphitusを殺害した。[Apo.2.6.2, Diod.4.31.3]
** この当時、EurytusがいたOechaliaとは、Euboeaではなく、MesseniaのOechaliaであった。
BC1248年、Heraclesは、Heraclesは悪病に襲われ、Neleusに罪の清めを依頼して拒否される[Diod.4.31.4]
BC1248年、Heraclesは、SpartaのHippocoonに罪の清めを依頼して拒否される[Paus.3.15.3]
BC1248年、Heraclesは、Sparta近くのAmyclaeのDeiphobusにより罪の清めを行う[Diod.4.31.5]

< Heracles’s Lydia period (3年間) >
BC1248年、Heraclesは、LydiaのOmphaleの下で奉仕した。[Apo.2.6.3, Diod.4.31.5, Herod.1.7, Tzetzes.2.420]
** Heraclesは、Iphitusを殺した後で病気になり、神託により、奴隷になることを求められた。[Apo.2.6.3, Diod.4.31.5, Tzetzes.2.420]
** Heraclesは、Omphaleの下で3年間奉仕した。[Apo.2.6.2, Tzetzes.2.420]
** 当時、過失により人を殺した者は、他人のもとで一定期間奉仕するという決まり事があった。[Plut.QuestGr.37]
** Heraclesが奉仕していた間に、Argonautsの遠征、Calydonの猪狩り、Theseusの地峡での功業があった。[Apo.1.9.19, 2.6.3]
** Omphaleの居住地は、LydiaのHyllus川が流れるTimolus山の麓であったと思われる。[Home.20.379, Paus.1.35.8, Strabo.13.4.5]
BC1248年、Naubolusの子Iphitusは、神託を得るためにDelpiを訪問したJasonを案内した。[Apo.1.9.16, Apollo.1.207, Home.2.517]
BC1248年、Argonautsの遠征[Apo.1.9.16-28, Hyginus.14]
** Theseusは16歳でAthensへ行く前年に、Troezenから参加した。[Paus.1.27.8]
** 遠征は、Aegeusの治世中(BC1288-1240)であった。[Euseb.Chron.183]
** 遠征は、Minyansにより行われたが、後に当時の英雄が加わったように改められた。[FGrH.Nr8.F3]
** 金毛羊皮とは、黄金ができる手順が書かれた巻物であった。[Para.Anony.F3]
** Hylasの出身地Oechaliaは、Trachisにあった。[Hyginus.14, StephByz.O487.18, Strabo.10.1.10]
** BC6世紀、Italy半島南部の町CrotonのOrpheusが『Argonautica』を書いた。[Suda.omicron.657]
** BC2世紀、AlexandriaのDionysius of MityleneもArgonautsについて書き、それをDiodorusが引用した。[Diod.3.52.3, Suda.delta.1175]
** Jasonの仲間は、54人。[Diod.4.41.2]
** BC3世紀の叙事詩人Apollonius of Rhodesの『Argonautica』には登場しないLaertesがDiodorusに登場する。[Diod.4.48.5]
BC1248年、Aeneusの子Cyzicusは、先祖を追い出したThessaliansと知って、Argonautsの遠征隊と戦って戦死した。[Apollo.1.936, Apollo.1.961, FGrH.Nr70.F61, Hyginus.16, Hyginus.273]
BC1248年、Polyneicesは、OedipusとEuryganeiaとの間の息子として、CorinthのTeneaで生まれた。[Paus.2.20.5, Hyginus.243]

BC1247年、Carmanorの娘Chrysothemisは、the competition to sing the Pythian Apollon hymnで勝利した。[Paus.10.7.2]
BC1247年、Melampusの子Mantiusは、Aetoliaから帰還し、兄弟AbasやBiasの後裔をArgosから追放した。[Pind.Ne.9.10から推定]
** Mantiusの子Oecles(or Oecleus)やMantiusの孫Amphiarausも、AetoliaからArgosへ移住した。
** この後のHeraclesのElis攻撃にArgivesが参加していることから、Mantiusの帰還にEurystheusが協力したと思われる。
BC1247年、Talausは、Amphiarausに殺害された。[Schol.Pind.N.9.30b]
BC1247年、Talausの子Adrastusは、Melampusの後裔Amphiarausと争って、SicyonのPolybusのもとへ亡命した。[Apo.3.6.2, Paus.2.6.6]
** PolybusはAdrastusの母Lysianassaの父であった。
BC1247年、Talausの子Pronaxは、ArgosからSicyonとCorinthの境を流れるNemea川の上流へ移住してNemeaを創建した。[Apo.3.6.4から推定]
** Pronaxは、CorinthからAeolusの子Sisyphusの娘Nemeaを妻に迎えて、町の名前をNemeaにした。[Apo.1.9.13, Paus.5.22.6から推定]
BC1247年、Melampusの子Abasの子Polypheidesは、父と争って、AchaiaのHyperesiaへ移住した。[Home.Od.15.220]
** Polypheidesの移住は、Argosの内紛が原因と思われる。Hyperesiaの近くには、Argivesが創建したPelleneがあった。[Paus.7.26.12]
** Polypheidesは、Eleusisにも住んでいた。[FGrH.Nr333.F116]
** BC1580年にCallithyiaの子TrochilusがEleusisへ移住した後で、ArgosとEleusisは交流があったと思われる。[Paus.1.14.2]
BC1247年、Melampusの子Abasは、ArgosからThessalyのLarisa近くのPhyllusへ移住した。[Strabo.9.5.5]
** Abasの子Idmonは、ArgosからArgonautsに参加した。それまでは、Abas一家は、Argosに住んでいたと思われる。[Apollo.1.139]
BC1247年、Melampusは、孫Coeranusと共に、Megaraへ移住した。[Paus.1.43.5とPaus.1.44.5から推定]
** Melampusは、Alcathousを清めるためにMegaraを訪問したのではなく、Argosの内紛によって、移住したと思われる。[Paus.1.43.5]
BC1247年、Peleusは、DolopesのAmyntorと戦って勝った。Peleusは、Amyntorの子Crantorを人質として預かり、自身の盾持ちとした。[Ovid.Meta.12.341]
** Amyntorは、DolopesのActorの子Ctimenusの息子と思われる。つまり、Peleusの従兄弟であった。
** Ctimenusの2人の息子たち、EurydamasとEurytionは、Argonautsの遠征に参加した。[Hyginus.14]
BC1247年、Theseusは、TroezenからAthensへ行く途中で功業を行った。[Apo.3.16.1 - E.1.4, Plut.These.15]
** Theseusは、TroezenからArgonautsの遠征に、AthensからCalydonの猪狩りに参加した。[Hyginus.14, Apo.1.8.2]
** Theseusは、Heraclesの名声をずっと前から聞き知り、自分も功業を熱望していた。[Plut.These.6]
** HeraclesがLydiaのOmphaleのもとにいたので、Greeceは乱れていた。[Plut.These.6]
** Theseusは、16才になった時、その岩を押上げ、父が置いた剣とsandalsを取り出して、旅に出た。[Paus.1.27.8]
** 剣とsandalsは、男子の旅の必需品であった。Odysseyの6か所に登場する。[Home.Od.2.1, 4.306, 16.80, 17.1, 20.125, 21.340]
BC1247年、JasonとMedeaは、Corinthiansから町を任された。[Paus.2.3.10]
** JasonがCorinthusの跡を継いだ。[Paus.2.3.10]
** しかし、Euripidesに登場するCreonがCorinthusの跡を継ぎ、JasonはCreonの跡を継いだと思われる。[Medea.20]
** Jasonは、BC1237年にHeraclesと遠征するまで、10年間Corinthに住んでいた。[Apo.1.9.28]
BC1247年、Oeneusの子Meleagerは、Idasの娘Cleopatra(or Halcyone)と結婚した。[Paus.4.2.7]
BC1247年、Daedalionの子Philammonは、Pythia祭で賛歌を歌う競技会で勝利した。[Paus.10.7.2]

BC1246年、Calydonian boar hunt [Apo.1.8.3, Home.9.544, Hyginus.173, Paus.8.45.6-7, Strabo.10.3.6]
** AetoliansとCuretesとの間の激戦は、6日間続いた。[Bacchy.5.100]
** Argosからは、PleuronのThestiusの娘Hypermnestraを母に持つ、Oeclesの子Amphiarausのみが参加した。
BC1246年、Peleusは、Calydonの猪狩りでPhthiaのEurytionを誤って殺し、Peliasの子Acastusによって清められた。[Apo.1.8.2, Apo.3.13.2]
BC1246年、Alcathousの子Ischepolisは、Calydonの猪狩りで死んだ。[Paus.1.42.6]
BC1246年、MegaraのAlcathousは、Ischepolisの死を知らせようとした自分の息子Callipolisを殺した。[Paus.1.42.6]
** Melampusは、Alcathousを清めるためにMegaraを訪問した。[Paus.1.43.5]
** Alcathousの息子たちの死と、MelampusのMegaraへの移住をCalydonの猪狩りと絡めて作られた作り話と思われる。
** MelampusのMegara移住は、Argosの内紛が原因と思われる。
BC1246年、CalydonのOeneusは、AetoliaのOlenusのHipponousを攻めて陥落させ、Periboeaを戦利品とする。[Apo.1.8.4]
BC1246年、Aenianiansは、Ixionや彼の息子Peirithousが率いるLapithsによって、Dotiumから追われた。[Strabo.9.4.10, Strabo.9.5.22]
** Aenianiansの一部は、MolossiaのAuas川付近へ移住し、Parauaeiと呼ばれるようになった。[Plut.QuestGr.13]
BC1246年、LarisaのIxionの子Peirithousは、CentaursをPelion山から追い出した。[Apo.2.5.4, Diod.4.70.3, Paus.5.10.8]
** CentaursのCheironは、ThessalyのIolcus北東のMount Pelion周辺に居住していた。[Apo.2.5.4]
** Centaursの一部は、Peneius源流のAethicesの地方へ移住した。[Strabo.9.5.19]
** PeleusもCentaursとの戦いに参加した。Peleusの盾持ち、DolopesのAmyntorの子Crantorは戦死した。[Ovid.Meta.12.341]
** Peirithousは、Pelion山周辺を自領とした。[Strabo.9.5.19]
BC1246年、Perrhaebiansは、Lapithsに追われて、Peneius川の源流付近へ移住した。[Strabo.6.2.4, Strabo.9.5.12, Strabo.9.5.19]
BC1246年、Theseusは、Lapithsに味方して、Centaursと戦った。[Plut.These.29]
** 戦いの発端であるPeirithousの婚礼の場には、Theseusも同席していた。[Diod.4.70.3]
** Peirithousの妻Hippodameiaの父Butesは、Theseusの義理の従兄弟と思われる。
BC1246年、Theseusは、貢物の一人としてPhalerumからCreteへ行った。[Paus.1.1.2, Paus.1.22.5, Plut.These.15]
** 9年目ごと、3度目の貢納であった。[Plut.These.15, 17] Minosとの戦いはBC1264年(1回目貢納)、BC1255年(2回目貢納)
** Creteの王位は、9年を1期としていた。[Paus.3.2.4]
** MegaraのAlcathousの娘Periboeaも貢物の一人。[Paus.1.17.3; 1.42.2] Scirusの娘の子Menesthesも貢物の一人。[Plut.These.17]
** Minos自身が貢物の男女を迎えに来た。貢物を乗せる船はAtheniansが用意し、舵取りはSalamians。[Plut.These.17]
** Atheniansの若い男女がCreteへ送られたのは、競技会の勝者に与えられる奉公人としてであった。[Plut.QuestGr.35, Plut.These.16]
** 彼らの子孫は、Bottonを指導者としてMacedoniaへ移住し、Bottiaeansと呼ばれるようになった。[Plut.QuestGr.35, Plut.These.16]
** Aristotleも「Constitution of Bottiaea」の中で、若い男女は奴隷としてCreteへ送られたと述べている。[Plut.These.16]

< Heracles’s Tiryns period (2年間) >
BC1245年、Heraclesは、Omphaleの下での奉仕を終えて、Tirynsへ帰った。[Apo.2.6.4]
BC1245年、HeraclesはIolausと共に、IolcusのPeliasの子Acastusが開催した葬送競技会に参加した。[Apo.3.13.2, Hyginus.273, Paus.5.17.9]
** Hyginusは、開催順に記している中で、Argonautsの遠征中の競技会の次に紹介している。[Hyginus.273]
BC1245年、Sisyphusの子Glaucusは、Peliasの葬送競技会で、馬に踏まれて死んだ。[Hyginus.250, Hyginus.273, Paus.6.20.19]
BC1245年、Hodoedocusの子Calliarusは、LocrisのCynusの近くにCalliarusを創建した。[StephByz.K349.8]
BC1245年、Idasは、CalydonからAreneへ帰還した。[推定]
BC1245年、Minos死去。
** 伝承では、Minosは、Sicily島西南部のCamicus川付近で、Sicaniの支族CamicのCocalusによって殺された。[Diod.4.79.2]
** TheseusとPhaedraとの結婚当時、Creteの支配者はDeucalionであった。[Diod.4.62.1]
** Herodotusは、Minosの死の2世代後にTrojan Warがあったと伝えている。[Herod.7.171]
BC1245年、Ariadneの子Staphylusは、Naxos島からPeparethos島へ移住した。[Diod.5.79.2, Ps-Scym.566]
** Staphylusには、兄弟Peparethusも同行し、Staphylusが島を去った後、島の名前がPeparethosになったと思われる。
BC1245年、Minosの娘Ariadneの子Oenopionは、Naxos島からChios島へ移住した。[Diod.5.79.1, Paus.7.4.8]
** Oenopionの息子たち、Talus、Euanthes、Melas、Salagus、Athamasも父と共にChios島へ移住した。[Paus.7.4.8]
BC1245年、Ariadneの子Enyeusは、Naxos島からRhodes島対岸のCyrnusへ移住した。[Diod.5.79.2, Schol.Home.Il.9.668]
BC1245年、Neleusの息子たちは、PylusからEleia地方南部のLepreatic Pylusへ移住した。[Strabo.8.3.7]
BC1245年、Carystusの子Petraeusの子Zarexは、CarystusからDelosへ移住した。[Zarexの子AniusがDelosの祭司であったことから推定]
BC1244年、Laomedonが死んだ。[Dictys.4.22, Home.20.220, Hyginus.89]
BC1244年、Troyの王位争いに敗れた者が、Miletusへ亡命した。[wiki: Milawata letterから推定]
** Miletusへ亡命したのはPriamで、一時、Troy王に即位したのは、Phaenodamasの孫Aegestusだと思われる。
** Aeneasの父Anchisesは、Hattusili IIIに攻められて、Aegestus(Acestes)と共にSicilyへ逃れたと推定される。
** Aeneasは、Sicilyで生まれたと思われる。Aeneasは、高齢のAnchisesの息子であった。[FGrH.Nr2.F39]
BC1244年、Philoctetesは、Italy半島南部のCroton地方のMacallaに定住した。[AristCorp.27.107, Strabo.6.2.5, TzeAdLyco.921-2]
** Poeasの子Philoctetesは、Sicily島へ向かうAegestusに案内されて、Anchisesと共に航海していた。[Strabo.6.2.5]
** Philoctetesの移住は、Magnesia地方のMeliboeaで内乱が発生したためであった。[Strabo.6.1.3]
BC1244年、MysiansやTeucriansが、ThraciaからIonia海に及ぶ大遠征を行った。[Herod.7.20]
** Mygdonは、Antenorに味方して居住地を追われて、Paeonia地方へ移住した。[Diod.5.64.4とHerod.5.12-15とHerod.7.20から推定]
** この時、MygdoniansがPaeoniaに定住した。[Diod.5.64.4, Herod.5.12-15]
** Mygdonと一緒にIdaean Dactyliが、Europeに渡った。[Diod.5.64.4]。彼らは、後に、Midasの富を掘り出す技術者になったと思われる
** Troyに遠征したのは、Mygdonの後裔と思われる。[Dares.18, Home.2.848, Home.21.136, Strabo.7.8.2]
** BC490年、Paeoniansの一部(Siropaeonians, Paeoplians)は、Dariusの将Megabyzusによって、Asiaへ移住させられた。[Herod.5.12-15]
BC1244年、Heraclesは、Iliumへ遠征した。[Apo.2.6.4, Diod.4.32.3, Dares.2-3, Ovid.Meta.11.200, Tzetzes.2.440]
** 遠征参加者、Heracles、Telamon、Oecles[Apo.2.6.4, Diod.4.32.3-5]
** 遠征参加者、Heracles、Telamon、Peleus、Castor、Pollux、Nestor[Dares.3]
** Argonautsの遠征の際に立ち寄ったTroy沖でLaomedonに酷い扱いをされた復讐として遠征した。[Dares.2]
** この時、Heraclesは仲間を集めるために、lettersを送った。[Dares.3]
** Laomedonの娘Hesioneは、Telamonに与えられた。[Apo.2.6.4, Ovid.Meta.11.200]
** CyprusのSalamis創建時の住民は、Trojansであった。[Athen.256b]
** Salamisを支配するTeucerの後裔が、住民を従わせるために、Teucerの母をHesioneだとする話を創作したと思われる。[Apo.3.12.7, Hyginus.97]
** この話に真実味を持たせるためにHeraclesが必要であったものと思われる。
BC1244年、Heraclesは、Iliumからの帰路にCos島のAstypalaeaの子Eurypylusと戦った。[Apo.2.7.1, Tzetzes.2.440]
** HeraclesとCos島の話は創作と思われるが、仮にあったとすれば、つぎのようなことであったと推定される。
** Cos島の支配者Meropsが、娘Clytiaの夫Eurypylusに追われた。[Calli.Hym.4.153]
** Heraclesは、Meropsを帰還させるためにEurypylusと戦った。[FGrH.Nr333.F78]
** この時、Heraclesを負傷させたChalcodonは、Eurypylusの息子であった。[Apo.2.7.1, ComTheocId.7.5]
 
BC1244年、Heraclesは、Cos島を去り、Phlegraで巨人と戦って破った。[Apo.2.7.1, Tzetzes.2.440]
** ItalyのCampaniaのPhlegra[Diod.4.21.7, Strabo.6.3.5]、Chalcidice半島のPhlegra[Strabo.7.8.3]、場所不明のPhlegra[Apo.2.7.1, Tzetzes.2.440]。いずれにしても創作と思われる。
BC1244年、Heraclesは、Paros島に住むMinosの子Eurymedonらと戦った。[Apo.2.5.9]
** Heraclesの第9番目の功業の出来事であるが、AmazonやParos島、Thasus島での話はすべて創作と思われる。
BC1244年、Minosの子Androgeusの息子たち、AlcaeusとSthenelusは、Paros島からThasus島へ移住した。[Apo.2.5.9]
BC1244年、Eleia南部のPylusのNeleusの息子たちは、Chaaの領有権を巡ってArcadiansと戦った。[Home.Il.7.132, Paus.8.11.4, Strabo.8.3.21]
** このときのArcadiaの王はLycurgusであったが、高齢のため、PsophisのCepheusが代理であったと思われる。[FGrH.Nr333.F158]
** あるいは、Lycurgusは陣中で病死したと思われる。Lycurgusの墓がTegeaではなく、Chaaの近くのLepreusにあった。[Paus.5.5.5]
BC1244年、Augeasの長男Phyleusは、ElisからAcarnaniaのDulichium(Dulichia)へ移住した。[Apo.2.5.5, Diod.4.33.4, Home.Il.2.625]
** Phyleusが移住したDulichiumは、Echinades諸島の島ではなく、Cephallenia島西部のPaleisであったと思われる。[Paus.5.5.5]
BC1244年、Talausの子Adrastusは、Demonassaと結婚した。[Hyginus.71]
** 彼らの娘DeipylaをBC1243生まれとしなければならないため、この年の結婚と推定した。
BC1244年、Augeasは、Olympiaで競技会を開催した。[Paus.5.8.3]

BC1243年、Alcmenaは、再婚したRhadamanthusと死別して、BoeotiaからTirynsのHeraclesのもとへ移住した。[Diod.4.33.2から推定]
** HeraclesがTirynsからPheneusへ移住したとき、母Alcmenaも一緒にいたので、この頃、同居したものと思われる。[Diod.4.33.2]
BC1243年、Heraclesは、最初のElis攻めの軍を準備した。[Apo.2.7.2]
** Elis攻撃は、報酬未払いが原因とするのは創作と思われる。[Diod.4.33.1, Paus.5.1.9]
BC1243年、Augeasは、Heraclesの動きを知り、Actorの息子たち、CteatusとEurytusを将に任命した。[Apo.2.7.2, Paus.5.1.10]
BC1243年、Heraclesは、ElisのAugeasと戦うが勝敗が付かなかった。[Diod.4.33.1, Apo.2.7.3, Paus.5.2.1]
** Phliusの子Dameonも参加したが、Actorの子Cteatusに討ち取られた。[Paus.6.20.16]
** Diodorusは、この戦いの後で、Heraclesは、AchaiaのOlenus市のDexamenusのもとに滞在したと伝えている。[Diod.4.33.1]
** しかし、Dexamenusの双子の娘たちの夫は、Actorの息子たちであり、敵方の家へHeraclesが滞在したとは思えない。[Paus.5.3.3]
BC1243年、Heraclesが病気になり、休戦した。[Apo.2.7.2]
BC1243年、Heraclesが病気であるのを知ったActorの息子たちに攻撃されて、多くの者が殺された。[Apo.2.7.2]
BC1243年、Heraclesの異母兄Iphiclesは、ArcadiaのPheneusで戦いの傷が原因で死んだ。[Apo.2.7.3, Paus.8.14.9]
** Iphiclesは、Lacedaemonでの戦いで戦死したという伝承もある。[Plut.Mor.492d]
BC1243年、Amarynceusが死去。EleiaのBuprasiumで葬送競技会が開催された。[Home.Il.23.624]
** Amarynceusは、ElisのAugeasの盟友であったが、Heraclesとの戦いには登場しない。[Paus.5.1.10]
** 葬送競技会が開催されたとすれば、Heraclesとの戦いが開始されて、Actorの双子の息子たち殺される前までの間である。
BC1243年、Heraclesは、HyrminaからIsthmusへ向かう途中のActorの息子たち、CteatusとEurytusをCleonaeで襲撃して殺した。[Apo.2.7.2, Diod.4.33.4, Paus.5.2.1]
** Aelianusは、Heraclesに加勢したCleonaans 360人が戦死したと伝えている。[Aelia.4.5]
** しかし、Actorの息子たちの母Molioneが犯人捜しをしたことから、少人数による暗殺規模であったと思われる。[Paus.5.2.2]
** Pausaniasは、Heraclesが彼らを矢で殺したと伝えている。[Paus.2.15.1]
** 当時、Cleonaeは、創建者Atreusが住んでいた。Atreusの父Pelopsは、Heraclesの母方の曽祖父であった。
** ElisがArgosに襲撃犯の処罰を求めたとき、HeraclesはTirynsにいたので、Cleonaeでの襲撃は、HeraclesがTirynsから追放される前であった。[Paus.5.2.1]

< Heracles’s Pheneus period (5年間) >
BC1243年、Heraclesは、AlcmenaとIphiclesとIolausと共にTirynsからArcadiaのPheneusへ移住した。[Diod.4.33.2]
** Elisからの要求にEurystheusが耐えられずに、Heraclesを退去させたと思われる。
** この頃のEurystheusは、息子たちが成年に達しておらず、勢力がなかったと思われる。
BC1243年、Philammonの子Thamyrisは、Pythia祭で賛歌を歌う競技会で勝利した。[Paus.10.7.2]
BC1243年、Ampycusの子Mopsusは、Oechaliaから北北東へ移住して、Gyrtonの近くにMopsiumを創建した。[Hyginus.14, Strabo.9.5.22]

BC1242年、Nestorは、OrchomenusからClymenusの娘Eurydice(or Anaxibia)を妻に迎えた。[Home.Od.3.452, Hyginus.97, Apo.1.9.9]
BC1241年、Theseusは、Minosの娘Phaedraと結婚した。[Diod.4.62.1]
** Minosの子DeucalionはAtheniansと同盟を結ぶために、PhaedraをTheseusに嫁がせた。[Diod.4.62.1]
** Minotaur伝説は、Theseusが競技会でMinosの子Asterius(別名Minotaur)に勝ったことからできた逸話と思われる。[Apo.3.1.4, Paus.2.31.1]
** Cerameicus区の名祖Minosの娘Ariadneの子Ceramusは、Theseusの妻Phaedraと共にAthensへ移住したと思われる。[Paus.1.3.1]
** Ceramicusは、Potters Quarter(陶工たちの区)であった。[Pliny.35.45.1]
** Cerameisは、陶工の工芸品とCeramusに由来する。[Suda.ka.1360]
BC1241年、Theseusは、CreteからAthensへ帰還する途中、Delos島に立ち寄った。[Plut.These.21]
** Delos島の祭司は、Theseusの父Aegeusの父Chironの子Carystusの子Zarexであったと推定される。[Plut.These.21]
BC1241年、TheseusとAmazonsのAntiopeとの間の息子Hippolytusは、祖父Pittheusの跡継ぎとなるためにTroezenへ移住した。[Diod.4.62.1]
BC1241年、Pelion山から追い出されたCentaursは、ArcadiaのPholoe山を根城にして山賊行為をしていた。[Apo.2.5.4]
BC1241年、Heraclesは、Pholoe山のCentaursと戦った。[Apo.2.5.4]
** この戦いは、HeraclesがTegeaのCepheusに協力したもので、以後、Heraclesは、Arcadiansを戦力として加えた。
BC1241年、CentaurのChironは、ArcadiaのMaleaで死んだ。[Apo.2.5.4]
BC1241年、Heraclesは、EleusisのEumolpusによって、Centaurs殺害の罪を清めた。[Apo.2.5.12]
BC1241年、Heraclesは、Argives, Thebans, Arcadiansから構成される、2回目のElis遠征軍を準備した。[Paus.5.3.1]
** AchaiaのDymeのEpeiansもHeraclesのElis遠征に参加した。[Strabo.8.3.9]
** Argivesは、Mantiusの子OeclesとAmphiarausが率いていたと思われる。
** Argosの内紛で、MelampusとBiasの後裔は、Oeclesの家族しかArgosにいなかった。
BC1241年、Glaucusの子Bellerophontesは、IsthmusからLyciaのXanthusへ移住して、Iobatesの娘Philonoeと結婚した。[Apo.2.3.2, Tzetzes.7.850]
** Iobatesは、Pandionの子Lycusの息子で、周辺の異民族(Solymi)に対抗するためにBellerophontesを呼び寄せたと思われる。[Strabo.12.8.5]
** Bellerophontesの母Eurynomeの父Nisusは、Iobatesの父Lycusの兄弟であった。BellerophontesとPhilonoeは又従兄妹であった。
** ProetusはIobatesに手紙を書いた。[Apo.2.3.1] ProetusはBellerophontesより100以上前の人物、手紙も書けなかったと思われる。

BC1240年、Heraclesは、ElisのAugeasと戦って、町を占領した。[Apo.2.7.2, Diod.4.33.4, Paus.5.3.1]
** EleiaのPylusやPisaも、Elisに加わって防戦した。[Paus.5.3.1]
** HippocoonもNeleusに味方した。[Apo.2.7.3]
BC1240年、Heraclesは、Elisに加勢したPisaへの遠征は神託により中止した。[Paus.5.3.1]
** ElisへPisaが加勢したことについて、ApollodorosやDiodorusに記述がなく、Pausaniasのみが伝えている。実際はなかったと思われる。
** Pelops亡き後、Elisが、Pisaに代わってOlympiaを支配下に置いて、競技会を開催するなど、Pisaにも影響力を及ぼすようになった。
** EurystheusがPisaからの請願を受けてHeraclesにElisを攻めさせたと推定される。[Apo.2.4.5, Paus.5.8.3]
** EurystheusとHeraclesは、PisaのPelopsの後裔であった。
BC1240年、Heraclesは、PylusのNeleusと戦って、町を占領した。[Apo.2.7.3]
** Heraclesに破壊されたPylusは、MesseniaのPylusではなく、Elis近くのPylusであった。
** Pausaniasは、HeraclesがEleiaのPylusに遠征したと伝えている。[Paus.6.25.2]
** Pausaniasは、Heraclesに滅ぼされPylusの廃虚がEleiaにあったと伝えている。[Paus.6.22.5]
** Neleusの12人いた息子はNestorを除いてすべて殺された。[Aelia.4.5, Apo.2.7.3, Strabo.8.3.28]
BC1240年、Heraclesは、Augeasの子PhyleusをElisに呼び戻した。[Diod.4.33.4]
** Heraclesは、Phyleusの願いを聞き入れて、Augeasを許すと共に捕虜も返すという寛大な処置をした。[Paus.5.3.3]
BC1240年、Heraclesは、Eleia南部のLepreusの支配者Lepreusを一騎打ちで殺した。[Aelia.1.24, Athen.412a]
** Lepreusは、HeraclesがElisのAugeasに報酬を要求したときに、Heraclesに敵対した人物。[Aelia.1.24]
BC1240年、Heraclesは、MesseniaのStenyclerusで、Neleusの子供たちと誓を交した。[Paus.4.15.8]
** 誓約したのは、GereniaにいたNestorおよび戦死したNeleusの息子たちのそのまた息子たちのことと思われる。
** Heracleidaeの帰還時、HeraclesがNestorにPylusを預けたという大義を掲げた。[Paus.2.18.7]
** 不正な籤引きと同様に、Doriansが広めた創作と思われる。HeraclesはMesseniaに足を踏み入れてはいないと思われる。
BC1240年、Evanderは、ArcadiaのPallantiumから植民団を率いてRomeへ移住して、Pallantiumを創建した。[Antiq.1.31.1-4, Paus.8.43.2]
** 60th year before the Trojan war. [Antiq.1.31.1]
** FaunusはEvanderを受け入れ、土地を分け与えた。[Antiq.1.31.2, Ita.6.579, Just.43.1]
** ArcadiansがalphabetをItalyへ持ち込んだ。[Antiq.1.33.4, Euseb.Chron.269, Hyginus.277, Livius.1.7]
** EvanderがItalyへ伝えたのは、Greek alphabetではなく、Homerの頃まで使われていたPelasgic lettersと思われる。[Diod.3.67.5]
** Evanderの移民団は、Elisの外港Cylleneから出発した。[DionyGuide.34]
** AD2世紀の叙事詩人Dionysius of Alexandriaは「Italy半島の西側のTyrrheniansの次に住むPelasgiansはCylleneから来た」と伝えている。[DionyGuide.34]
** Evanderは、TegeaからOlenusを結ぶ大街道を利用してElisの北西にあるCylleneに陸路で移動したと思われる。
** Tegea、Heraea、Olympia、Elis、Olenusは、古代の大街道(the Arkadhia road[LeakeM.1.023])であった。
BC1240年、Evanderに同行したEpeansやPheneusの人々は、Sicelsを追い出してSaturnianの丘に居住した。[Antiq.1.34.2, Antiq.2.1.4]
BC1240年、Evanderに同行した兄弟Catillus, Coras, Tiburnusは、Tiburを創建した。[Solinus.2.6, SerCVAene.7.670]
BC1240年、Sicelsは、PelasgiansとAboriginesによって追われてItaly半島南部へ移住した。[FGrH.3.228]
** ArgosのAlcyoneの女司祭職26年目で、Trojan Warの2世代前であった。(1186+27*2=1240) [Antiq.1.22.3, FGrH.3.228]
** Alcyoneの就任は、BC1265年。(1240+26-1=1265) Alcyoneが、18歳で就任したとすれば、BC1283年生まれ。
** Alcyoneは、MycenaeのSthenelusの子Eurystheusの姉と思われる。[Apo.2.4.5, Diod. 4.12.7]
BC1240年、Sicels、Oenotriansに追われてSicily島へ移住した。[Antiq.1.22.3, Strabo.6.1.6]
** この時、MorgetesもSicily島へ移住して、Morgantiumを創建した。[Strabo.6.2.4, Strabo.6.1.6]
** Troy戦争の3世代前、ArgosでAlcyoneが神職を務めた26年目[Antiq.1.22.3]
** 移住したSicelsの指導者は、Stratonであった。[Antiq.1.22.5]
** 移住したのは、Ausoniansであり、指導者は、Sicelusで、部族と島に彼の名前を与えた。[Antiq.1.22.3]
BC1240年、Pelasgiansは、Sicelsの移住に伴う混乱でSicily島からAcarnaniaへ移住した。[Paus.1.28.3, Diod.19.53, Strabo.9.2.3]
BC1240年、Geryonesの孫Noraxは、Sardinia島南東部に島で最古のNoraを創建した。[Paus.10.17.5]
BC1240年、Phocusの子Crisusは、NaubolensesからDelpiの近くへ移住して、Cirra (後のCrisa)を創建した。[Euri.Scho.Or.33.1]

BC1239年、Heraclesは、Olympiaで競技会を開催した。[Apo.2.7.2, Paus.5.8.3]
** Heraclesが競技会を開催したのは、Athens王Aegeusの治世中であった。[Euseb.185]
** 歴代の実力者が開催していたOlympia競技会の開催は、EurystheusにHeraclesに対する敵対感情が生じる原因になったと思われる。
BC1239年、Aegeusが死去。TheseusがAthens王になった。[Diod.4.61.8, Plut.These.24]
BC1239年、Heraclesは、AmyclaeとSpartaでHippocoonと戦って勝利した。[Apo.2.7.3, Diod.4.33.6, Tzetzes.2.450]
** HeraclesがHippocoonを攻めたのは、伝承では、罪の清めを依頼して拒否されたなどがある。[Paus.3.15.3]
** 実際は、TegeaのCepheusからの要請に応じた戦いであったと思われる。
** Hippocoonの息子たちの半分はSpartaに住み、彼と残りの息子たちはAmyclaeに住み、IcariusはPharisに住んでいた。[Paus.3.14.7, 3.15.1]
** Hippocoonとの戦いで、Cepheusと彼の17人の息子たちは戦死した。[Apo.2.7.3, Diod.4.33.6]

BC1238年、Sphinxの反乱が、Thebesに迫り、Creonの息子Haemonが戦死した。[Apo.3.5.8]
BC1238年、Oedipusは、Corinthiansを率いてThebesに帰還し、Sphinxの反乱を鎮圧した。[Paus.9.5.10, Paus.9.26.2]
** Sphinxとの戦いには、Oedipusの息子たち、EteoclesとPolyneices は参加せず、Adrastus はOedipusに同道したと思われる。
** Sphinxの反乱とは「海の民」の一部と思われる。
** Sphinxは、多数の船でAnthedon沖に現れ、Anthedonの西南西約27kmの標高550m位の山に拠点を置いて周辺を荒らした。[Paus.9.26.2]
** Boeotiansは、treacheries「裏切り、反逆」を riddles「なぞなぞ」(Athen.456bを参照)と呼んでいた。[August.City.18.13]
BC1238年、Adrastusは、Amphiarausと和解して、Argosへ帰還した。[FGrH.Nr12.F29, Dic: Amphiaraus]
BC1238年、Talausの娘Eriphyleは、Amphiarausと結婚した。[Apo.1.9.13, Diod.4.65.6, Hyginus.71]
** 結婚が和解の条件であった。[Pind.Ne.9.15]
BC1238年、Bellerophontesは、Troadに侵攻したAmazonsと戦うために遠征した。[Home.Il.6.191, Strabo.12.8.6]
** Bellerophontesの遠征は、Hittiteからの命を受けたもので、Hittiteの影響力が弱まる前と思われる。
** 恐らく、Lycia地方のBellerophontesもHittiteの支配下に入り、Wilusa (Troy)への応援のために派遣されたものと思われる。
** この結果、Lyciansの一部は、Aesepus川近くのZeleia周辺に定住して、Troad地方にもLyciaが誕生した。[Strabo.12.4.6]
** Eleia地方のLepreusからLycia地方へ移住したCauconesも、このとき、黒海南岸のTieium近くへ移住したと思われる。

< Heracles’s Calydon period (3年間) >
BC1238年、Heraclesは、ArcadiaのPheneusに5年間居住した後で、AetoliaのCalydonへ移住した。[Diod.4.34.1]
** Heraclesは、多くのArcadiansと行動を共にしていたため、Eurystheusに敵とみなされないようにPeloponnesusを出たと思われる。[Diod.4.34.1]
** Eurystheusは、妻の祖父で、Arcadiaの支配者Lycurgusを通して、Pheneusから去るようにさせたと思われる。
BC1238年、Heraclesは、CalydonのOeneusの娘Deianeiraと結婚した。[Diod.4.34.1]
BC1238年、Heraclesは、Calydonで大規模なAchelous川の灌漑地を造成した。[Diod.4.34.1, 4.35.3, Strabo.10.2.19]
** Heraclesが灌漑したのは、Paracheloitis(Achelous川の河口近くの氾濫地帯)と思われる。[Strabo.10.2.19]
** Achelous川は、Calydonから西にあるPleuronやCuretesのさらに西を流れていた。Oeneusの支配はその地まで及んでいたと思われる。
BC1237年、HeraclesはCalydoniansを率いてThesprotiansの地へ向けて遠征し、Phyleusを殺して、Ephyraを占領した。[Apo.2.7.6, Diod.4.36.1]
** Thesprotiansの地は、Acarnaniaの北西にあり、中心地はEphyraであった。後に、Dodonaも支配地域に入った。[Strabo.7.7.11]
** Heraclesが、MolossiansのAidoneusに捕らわれていたTheseusを放免させたという伝承がある。[Plut.Thess.35]
** この伝承では、Heraclesの生存中に、TheseusはAthens王としての権力を失っている。しかし、Heraclesの死後、TheseusはEurystheusの攻撃に対して、Heraclesの息子たちに加勢している。[Diod.4.57.6]
** この遠征には、Augeasの子Phyleusも協力して、Ephyraと敵対関係にあったEuphetesから胸当てを贈られている。[Home.Il.15.531]
** この遠征には、Jasonと息子たちも参加し、Mermerusは戦死したが、PheresはEphyra、JasonはCorcyra島を得た。[Paus.2.3.9]
** Trojan Warの前に、Ephyra に住むPheresの子Mermerusの子IlusをOdysseusが矢に塗る毒を求めて訪問した。[Home.Od.1.261]
** この遠征には、Icariusと2人の息子たち、AlyzeusとLeucadiusも参加したと思われる。[Strabo.10.2.9]
** この遠征には、CorinthのSisyphusの子Ornytionも参加したと思われる。[Paus.2.3.11から推定]
** この遠征には、Melampusの子Abasの子Coeranusの子Polyidusも参加したと思われる。PolyidusはCorinthに住んでいた。[Home.Il.13.663]
** PolyidusはAcarnaniaのDulichiumに住むPhyleusの娘Eurydameiaと結婚した。[FGrH.Nr333.F115]
** この結婚を可能にしたのは、Phyleusの遠征参加であったと思われる。
** この遠征は、最遠の地Corcyra島に入植したJasonの発案と思われる。
** Oedipusと共にThebesに遠征したJasonが各地を荒らしていたSphinx(海の民)からCorcyra島付近の豊かさの情報を得たと思われる。

BC1237年、Jasonは、CorinthからCorcyra島へ移住した。[Paus.2.3.9]
** Jasonの移住の動機は、妻Medeaの死であったと思われる。
** Jasonの移住には、Medeaが産んだMermerusやPheresも同行した。[Paus.2.3.9]
BC1237年、Heliusの子Taphiusは、Echinades諸島からTaphos島へ移住した。[Apo.2.4.5から推定]
BC1237年、Aeolusの子Sisyphusは、JasonからCorinthを継承した。[Home.Il.6.144, Paus.2.3.11]
BC1237年、Telonの子Oebalusは、Teleboansを率いてAcarnaniaからItaly半島のCapreae(near Neapolis)へ移住した。[Dic:Oebalus, Virg.Aene.7.713]
** OebalusはAchelous川近くに居住し、彼の娘Peireneは、Sisyphusの子Ornytionの妻になった。[Paus.2.3.11と川の名前と年代から推定]
BC1237年、Icariusの息子たち、LeucadiusとAlyzeusは、LeucasとAlyziaを創建した。[Strabo.10.2.9]
** 当時、Leucasは島ではなく、半島であった。[Strabo.1.3.18, PsScylax.34]

BC1237年、Heraclesは、Ephyraに滞在中、IolausにSardinia島への植民を指示した。[Apo.2.7.6]
** Heraclesは、MaeoniasのSardinia島などへの入植について、Omphaleから聞き知っていたものと思われる。[Herod.1.94, Strabo.5.2.2]
** Sardinia島入植については、神託に従ったという伝承もある。[Diod.4.29.3]
BC1237年、HeraclesとDeianeiraとの間に、息子Hyllusが誕生した。[Paus.3.18.11]
BC1237年、Tyndareusは、AetoliaからSpartaへ移住した。[Apo.2.7.3, Diod.4.33.5, Tzetzes.2.450]
** Heracleidaeの帰還時、Heracleidaeは、先祖のHeraclesがTyndareusにSpartaを預けたという大義を掲げた。[Paus.2.18.7]
** Tyndareusは、Heraclesによって帰還させられたことになっているが、HippocoonやIcariusがいなくなったSpartaへ自らの意志で帰還したと思われる。
BC1237年、Tyndareusの息子たち(Dioscuri)は、AndaniaのLeucippusの2人の娘たちを奪い、自分たちの妻にした。[Paus.3.18.11]
** この後、Andania近くのOechaliaのEurytusも追い出されているので、Leucippusは戦死し、娘たちは捕虜になったと思われる。
** Dioscuriは、Therapneに住んでいた。[Pind.Py.11.54]
BC1237年、MesseniaのOechaliaのEurytusは、SpartaのTyndareusに攻められて、追放された。[Paus.3.18.11]
BC1237年、Eurytusは、Euboeaへ移住して、3番目のOechaliaを創建した。[Strabo.10.1.10]
** Eurytusは、父Melaneusに因むMelaneis (後のEretria)をも創建していた。[Strabo.10.1.10, StephByz.E276.3]
BC1237年、The Battle of Nihriya
** Tudhaliya IVは、Assyria王Sulmanu-asared Iと戦って敗れた。[wiki: Battle of Niḫriya]
BC1237年、Electryonの子Celaeneus<Piyama-Radu>の反抗が終わった。[wiki: Piyama-Radu]
** Piyama-Raduの反抗は、Muwatalli II(BC1295-72)からTudhaliya IV(BC1237-09)まで続いた。[wiki: Piyama-Radu]
** Hittiteの力が弱まって、Asia Minorへの関与が弱まり、Hittiteに反抗する必要がなくなったと思われる。
** Telephus率いるArcadiansのMysia移住がそれを物語っている。
BC1236年、Hattusili IIIは、Piyama-Raduが反乱を起こしていたYalandaを破壊した。[wiki: Yalanda]
** Hattusili IIIは、Piyama-Raduの兄弟Lahurziの待ち伏せに遭遇するが、撃退した。[wiki: Yalanda]
** Yalandaは、Ahhiyawaの領土の境界にあるWallarimaの西にある。[wiki: Yalanda]
** Wallarimaは、Arzawaの南の境界付近の海岸にある。[wiki: Wallarima]
BC1236年、Milawata letter (CTH 182)
** Hittite王、恐らく、Hattusili III(BC1265-35)から属国のMilawata王に宛てた書簡[wiki: Milawata letter]
** Hittite王は、Wilusa王のWalmuをHittiteに引き渡すように要請した。[Milawata letter]
** Priamと王位を争った者は、Laomedonの息子の一人と思われる。
** Miletusには、Laomedonの娘Hesioneが嫁いでいる。Wilusaで王位を争った者がMiletusに逃げ込んだと思われる。
** 書簡の受取人の父は、Hittite王に敵対していたが、Hittite王が受取人を王に据えた。[wiki: Milawata letter]
** 受取人の父とは、Miletus<Atpa>で、Hittiteとの戦いで死んだと思われる。
** Piyama-Raduを過去の人物として言及している。[wiki: Milawata letter]

BC1236年、SicyonのPolybusは、在位40年目で死んだ。[Euseb.175]
BC1236年、Polybusの娘Lysianassaの子Adrastusは、祖父からSicyon王を継承した。(4年間)[Euseb.175, Paus.2.6.6]
BC1236年、Iolausは、Thespiusの娘たちの息子たちを率いてAthensを出発した。[Diod.4.29.1, Paus.1.29.5]
BC1236年、Iolausは、Sardinia島北東部にOlbiaを創建した。[Paus.10.17.5]
BC1236年、HeraclesとDeianeiraの間に、息子Ctesippusが生まれた。[Apo.2.7.8, Hesiod.98]
BC1236年、Peleusは、IolcusのPeliasの子 Acastusを殺したMinyansを追放した。[Apo.3.13.7, FGrH.Nr333.F62, Strabo.9.5.15]
** Iolcus破壊の原因は、IolcusのAcastusの僭主化に反発したMinyansの反乱であった。[Strabo.9.5.15]
** BC511年、Hippiasの亡命先候補としてIolcusの名前が登場する。[Herod.5.94]
** BC290年、Demetrias創建時、Iolcusは、町として存続していたが吸収された。[Strabo.9.5.15]
** Straboは、Iolcusが破壊されたままだと記しているが、町の中心部分と思われる。[Strabo.9.5.15]
** BC5世紀の抒情詩人PindarはIolcusを破壊したとき、PeleusがThetisを捕らえたと伝えている。[Pind.Ne.3.30, FGrH.Nr333.F62]
** Thetisは、Acastusの息子の妻であったと思われる[FGrH.Nr333.F62から推定]
BC1236年、Iolcus周辺にいたMinyansは、Lemnos島へ移住した。[推定]
** 後にPelasgiansによって、追放されるMinyansがLemnos島に住み着いたのは、このときと推定される。
BC1236年、Pheraeに住んでいたPheresの子Admetusは、EuboeaのTamynaeへ亡命した。[FGrH.Nr325.F9から推定]
** ThessalyのPheraeにもAdmetusの母であるMinyasの娘Periclymeneと共へ移住したMinyansがいた。
** Peliasの娘Alcestisの夫Admetusも反乱に巻き込まれて、Alcestisの前夫Hippasusの子Theseusのもとへ亡命した。[FGrH.Nr325.F9]
** Hippasusの死後、Alcestisは息子Theseusを連れて、Admetusと再婚した。[FGrH.Nr325.F9]
BC1236年、Arcesiusの子Laertesは、ParnassusのAutolycusの娘Anticliaと結婚した。[Apo.E.3.12, Hyginus.97]
** Anticliaの父Autolycusの母Philonis(or Chione)の父は、Pandion。
** Laertesの父Arcesiusの父Cephalusの父は、Pandion。
** つまり、LaertesとAnticliaは又従兄妹であった。

BC1235年、Cercaphusの子Ormenusは、Iolcusの南東にOrmeniumを創建した。[Strabo.9.5.18]
** Ormenusは、Lapithsであったが、IolcusのMinyans追放に加勢して、the Pagasaean gulf周辺に進出できたものと思われる。
** Ormenusの母は、Myrmidonの娘Eupolemiaであった。Peleusは、Ormenusの母方の従兄弟Aeacusの息子であった。
BC1235年、Heraclesは、Oeneusの家で彼の親戚のArchitelesの子Ennomus(Eurynomus)を過失により殺害した。[Apo.2.7.6, Athen.410f, Diod.4.36.2, Tzetzes.2.450]
** HeraclesとDeianeiraとの結婚から3年後であった。[Diod.4.36.2]
BC1235年、Heraclesは、Trachisへ行く途中、Calydonの東のEvenus川で、CentaurのNessusを殺害した。[Apo.2.7.6, Diod.4.36.5, Strabo.10.2.5, Tzetzes.2.450]
** Centaursの生き残りNessusは、AetoliaからPhocisやThessalyへ通じる要衝の地で山賊行為をしていた。
BC1235年、Daedalusの子Iapyx率いる移民団は、CreteからItaly半島南東部へ移住した。[Herod.7.170, Pliny.3.102, Strabo.6.3.2, Strabo.6.3.6]
** Iapyxは、Hyriaを創建したと伝えられるが、Messapusが創建した町と思われる。[Messapusの出身地Hyriaから推定]
** 伝承では、IapyxがGlaucusを探していたことになっている。[Athen.523a]
** Iapyxは、Bottonらと同じ植民活動をしていたと思われる。[Strabo.6.3.2, Strabo.7.8.2]
BC1235年、Botton率いるCreteの移民団は、Adrias海から陸路でMacedoniaへ移住して、その地に定住した。[Strabo.6.3.2, Strabo.7.8.2]
** Pellaの少し北に、Aeolusの子MacedonとCecropsの娘Oreithyiaの子Europusが創建したEuropusがあった。[StephByz.E287.14]
** Bottiaeansは、Argeadaeに追われてChalcidiansの地に隣接した土地へ移住。Thucydidesの時代もそこにいた。[Thucy.2.99]
** BottiaeansはBithyniaに植民市を建設した。最初Ankore, 次にAntigoneia, そして、Lysimachosの妻Nikaiaに因んでNikaiaとよばれた。[StephByz.N474.17]
BC1235年、Minosの子Cleolausは、CreteからItaly半島東南部へ移住した。部族は彼の息子Daunusに因んで、Dauniiと呼ばれた。[Solinus.2.6]
** Cleolausの子Daunusの娘Euippeは、Tydeusの子Diomedesと結婚した。[Ovid.Meta.14.500, Dic: Daunus]
BC1235年、Minosの子Deucalionの子Idomeneusは、CreteからCalabriaへ移住した。[SerCVAene.3.121から推定]
** Calabriaは、Messapia, Iapygia, Salentinaの別名。[Strabo.6.3.5]
** Idomeneusは、Iapyxと一緒に, CreteからItaly半島へ移住したと思われる。
BC1235年、Pierusの子Oeagrusは、Boeotia地方のThespiaeからOlympus山近くのPimpleiaへ移住した。[Nonnus.13.428]

< Heracles’s Trachis period (12年間) >
BC1235年、Heraclesは、CalydonからDryopesの地を通り、TrachisのCeyxのもとへ到着した。[Apo.2.7.7, Diod.4.36.5, Paus.1.32.6]
** Eurystheusが、ArgosのOeclesの子Amphiarausを通じて、Calydonに対してHeraclesを追い出すように迫ったと思われる。
** BC1247、Melampusの子Mantius、息子Oecles、孫AmphiarausがArgosに帰還する際に、Eurystheusが協力したと思われる。
** Ceyxは、Myrmidonの子Actorの息子で、Heraclesの親友であるPatroclusの父Menoetiusの兄弟と思われる。[Home.2.681, Paus.1.32.6]
** Ceyxが率いるMeliansは、Ossa近くのDotium平原からLapithsに追われたAenianiansの支族と思われる。[Apo.2.7.7, Strabo.9.5.22]
BC1235年、Atreusの子Plisthenesは、CreteからCleonaeに、Catreusの娘Aerope (or Eriphyle)を妻に迎えた。[Apo.3.2.2, Euri.Scho.Or.5.1, Dictys.1.1]
** CreteとCleonaeの遠距離婚を可能にしたのは、Phliusに住むPhliasusであったと推定される。
** Catreusの娘AeropeとAriadneの子Phliasusは、Minosを共通の祖父とする従兄妹であった。
BC1235年、Pelopsの子Thyestesは、Cythera島で死んだ。[推定]
** BC1217年、Eurystheusが死んで、AtreusがMycenaeを継承したとき、Thyestesは既に死んでいたと思われる。
BC1235年、Cercaphusの子Ormenusは、ItonusからIolcusの東側へ移住して、Ormenionを創建した。[Strabo.9.5.21]
BC1234年、Oedipusは、MycenaeのSthenelusの娘Astymedusaと結婚した。[FGrH.Nr333.F95]
** CreonはHeraclesとの確執もありArgives嫌いであった。[Dic:Creon]
** この結婚は、OedipusがThebesを追放された原因であったと思われる。
** Oedipus がCorinthのTeneaにいた頃、MycenaeのAstymedusaとは面識があったと思われる。
BC1234年、Heraclesと、EphyraのPhyleusの娘Astyocheとの間に、息子Toepolemusが生まれた。[Apo.2.7.8, Home.2.653]
BC1234年、Achillesは、PeleusとThetisとの間の息子として、Phthiaで誕生した。[Pind.Py.3.100]
BC1234年、Clytonaeusの子Naupliusは、Catreusの娘Clymeneを妻に迎えた。[Apo.2.1.5, Dictys.1.1]
BC1233年、Thoasの娘Hypsipyleは、Nemeaに住むTalausの子Pronaxに嫁いだ。[Apo.3.6.4から推定]
BC1233年、HeraclesとDeianeiraとの間に、息子Hoditesが生まれた。[Diod.4.37.2, Paus.4.30.1, Apo.2.7.8, Hesiod.98]
BC1232年、Talausの子Adrastusは、Sicyonを4年間支配して、Argosへ帰還した。[Euseb.175, Paus.2.6.6]
BC1232年、Iolausは、Greeceへの帰国の途中で、Sicily島に滞在した。[Diod.4.30.3]
** DaedalusがいたSicily島中南部のCamiciの地と推定される。[Strabo.6.2.6]
BC1231年、Iolausは、Sardinia島からTrachisに帰還した。[Diod.4.30.3]

BC1230年、HeraclesとDeianeiraの間に娘Macariaが生まれた。[Paus.1.32.6, Plut.Pelo.21]
BC1230年、Ornytionは、Corinthian gulfに面したLechaeumと、Saronic Gulfに面したCenchreaeを創建した。[Paus.2.2.3]
BC1230年、Ornytionの子Phocusは、CorinthからPhocisのTithoreaへ移住した。[Paus.2.4.3]
BC1230年、OrmeniumのAmyntorの子Phoenixは、PhthiaのPeleusのもとへ亡命して、Dolopiaを与えられた。[Home.9.430, Strabo.9.5.11]
** Peleusは、Phoenixの父Amyntorの父Ormenusの母Eupolemeiaの兄弟Actorの子Aeacusの息子であった。
** つまり、Peleusは、Phoenixの父Amyntorの又従兄弟であった。
** Phoenixの亡命は、父Amyntorとの争いが原因であった。[Home.Il.9.430-]
** Phoenixは、PeleusからCtimeneを与えられた。[StephByz.A388.17]
** Phoenixは、Phthiaとの国境に近いDolopiaのCtimeneに住んでいた。[Home.Il.9.484, StephByz.A388.17]
BC1230年、Heraclesは、Dryopiansを追放した。[Diod.4.37.1, Herod.8.43, Paus.4.34.9-10]
** Diodorusは、Delphiの神殿に不敬を働いたDryopesの王Phylasを殺し、Dryopiansを追放したと記している。[Diod.4.37.1]
** HerodotusとPausaniasは、Delphiには触れず、DryopiansがHeraclesに追い出されたと記している。[Herod.8.43, Paus.4.34.9-10]
** Pausaniasの「Delphi略奪史」にも記載なし。[Paus.10.7.1]
** Dryopiansを追い出した後の土地は、Meliansに与えられた。[Diod.4.37.1]
** つまり、Dryopiansと争っていたMeliansにHeraclesが加担して、Dryopiansを追放したと思われる。
** Dryopiansは、HeraclesとMeliansに追われた。[Diod.4.37.1, Herod.8.43]
** Dryopiansは、Spercheius川一帯の諸地域からDryopisに進出して来た。[Strabo.8.6.13, Strabo.9.5.9]
** Heraclesに殺されたPhylasの3代前のDryopsは、Parnassus周辺のLycoritaeの隣にDryopsを創建した。[Paus.4.34.9]
** Heraclesに追い出されたDryopiansは、Eurystheusのもとへ逃げて、ArgolisにAsineを創建した。[Diod.4.37.2]
** 後に、Dryopiansは、Argivesによって、Asineから追われてLacedaemonへ移住した。[Paus.4.8.3]
** Hermioneには、Heraclesに追われたDryopiansが住んでいた。[Herod.8.43]
** Phylasの父は、Cragaleusと思われる。[Antoninus.4]
** BC4世紀のAthensの政治家Aeschinesの演説「against Ctesiphon」(107)にDelphiを冒涜したCragalidaeが登場する。
** Diodorusは、Heraclesに追われたDryopiansがEuboea南東部にCarystusを創建したと記している。[Diod.4.37.2]
** Diodorusは、Carystusと、その近くにあるStyraとを混同しているようである。
** Heraclesに追い出される前に、Dryopiansは、EuboeaにStyraを創建していた。[Paus.4.34.11]
** Dryopiansの一部は、Ceos島近くのCythnos島にも移住したと思われる。[Herod.8.46]
** Theiodamas (or Theodamas)の子Euphemusは、Lemnos島へ逃れた。[Euphemusの子孫がLemnosに住んでいたことから推定]
BC1230年、Ariadneの子Oenopionの子Euanthesは、Chios島からThraciaのIsmarusへ移住した。[Home.Od.9.193, Diod.5.79.2]
** Euanthesは、Cariansによって、Chios島から追い出されたと推定される。[Paus.7.4.9]
BC1230年、TegeaのTelephusは、彼の母Augeと共にPergamusのあるMysiaへ移住した。[Paus.1.4.6, Strabo.12.8.4]
** Arcadiansと称する住人がPergamusにいたことから、Tegeaの住人の集団移住と思われる。[Paus.1.4.6]
** Telephusは、妻の父TeuthrasからMysiaを継承して実力者になった。[FGrH.Nr327.F19]
** Pergamusの近くには、Arcasの子Azanの息子が創建したAzaniaの住人が移住している。[Paus.8.4.3, Paus.10.32.3]
** Arcadiansの移住先は、Larisa近くを流れるHermus川の上流にあるAzanoiと思われる。
** Azanの息子は、Augeの父Lycurgusの父Aleusの従兄弟であった。
** Azaniaの住人の移住を創建の2世代後とすれば、彼らはTelephusの移民団の中にいて、分かれてAzanoiへ定住したと推定される。
** Mysiaは、Hittiteの属国Seha River Landの領土であったが、最早Hittiteの支配は及んでいなかったと思われる。
** Tegea近くのSchoenusのAtalataの子Parthenopaeusも移住に参加していた。[Hyginus.100]
** 史実は、TelephusがTeuthrasと戦って、捕虜になった彼の娘Argiopeを妻にしたと思われる。[Diod.4.33.12]
** AugeとTeuthrasの間に、息子Teuthraniusが生まれ、TroyでAjaxに殺されたというのは、作り話と思われる。[Dictys.2.3]
** TelephusとArgiopeの間の息子Eurypylusが生まれ、Troy側としてAchaeansと戦ったというのも、作り話と思われる。[Dictys.2.3]
BC1230年、Ariadneの子Staphylusは、Peparethos島を兄弟Peparethusに譲って、CariaのBybastusへ移住した。[Apo.E.1.9, Parthe.1]
BC1230年、Rhadamanthusの子Erythrusは、Chios島の対岸にErythraeを創建した。[Diod.5.84.3, Paus.7.3.7]
** 伝承では、Erythrusは、Creteから移住したことになっているが、Chios島から移住したと思われる。[Paus.7.3.7]
BC1230年、Minosの子Catreusの子供たち、AlthaemenesとApemosyneは、CreteからRhodesへ移住した。[Apo.3.2.1]
BC1230年、Minosの娘Acacallisの子Amphithemisは、CreteからLibyaへ移住した。[Apollo.4.1485から推定]
BC1230年、Minosの娘Acacallisの子Oaxosは、TarrhaからIda山の近くへ移住して、Oaxosを創建した。[StephByz.O482.10]
BC1230年、Minosの娘Acacallisの息子たち、PhylacidesとPhilanderは、Tarrhaの近くにElyrusを創建した。[Paus.10.16.5から推定]
BC1230年、Thamyrisの娘Menippeは、Chalcidice半島北部からOlympus山近くのPimpleiaに住むOeagrusのもとへ嫁いだ。[Nonnus.13.428, Tze.1.300]
** OeagrusとMenippeは、Aeolusの子Magnesを共通の先祖とする同族であった。

BC1228年、Aeacusの子Peleus(52)は、Phthiaで死んだ。
** Peleusは、HeraclesとLapithsとの戦いに登場しない。
** Homerは、PeleusがAchillesをTroyへ送り出したと伝えている。もし、それが本当であれば、Peleusは92歳。[Home.Il.11.762]
** Peleusが死んだ時、Achillesは、6歳。
** Achillesは、Phthiaの西南西約55kmのDolopia地方のCtimeneに住むPhoenixのもとで養育された。[Home.Il.9.484, StephByz.A388.17]
BC1227年、Heraclesは、Aegimiusからの要請でLapithsと戦い、Gyrtonの王Caeneusの子Coronusを殺した。[Apo.2.7.7, Diod.4.37.3]
** このとき、Aegimiusは、Dorisの土地の3分の1と王権を約束した。[Diod.4.37.3]
** Aegimiusは、Heraclesの死後、Hyllusを養子にした。[Strabo.9.4.10]
** Hyllusは、Dorians 3部族の一つの首領となっているので、3分の1の土地と住人を割譲されたと思われる。
** Heraclesの軍中には、TrachisのCeyxがいた。[Apo.2.7.7]
** Ceyxは、Ajaxの父Telamonの父Aeacusの異母兄弟であり、Telamonの叔父であった。
** Telamonは、叔父Ceyxと共にHeraclesの遠征に参加したと思われる。
** Coronusが死に、Coronusの娘Lysidiceは捕虜になり、後に、Telamonの子Ajaxと結婚することになったと推定される。
BC1227年、Heraclesは、Lapithsに味方したDryopesの王Laogorasを殺した。[Apo.2.7.7, Tzetzes.2.460]
** Dryopesは、Heraclesに敗れて各地に逃れたが、Lapithsの地に逃れて抵抗していた者たちを一掃したものと思われる。
BC1227年、Heraclesは、ItonusでPelopiaの息子Cycnusと一騎打ちをして討ち取った。[Apo.2.7.7, Diod.4.37.4]
BC1227年、Heraclesは、Iolcus近くのOrmeniumの支配者Ormeniusと息子Amyntorと戦って討ち取った。[Apo.2.7.7, Diod.4.37.4]
** LapithsではないPhylaceのProtesilausは、Heraclesに協力したか、中立を保って、湾の西側を南のAntronまで領土にした。[Strabo.9.5.7]
BC1227年、Heraclesは、Lapithsとの戦いを終えて、Trachisに帰還した。[Apo.2.7.7]

BC1226年、Oeneusの子Tydeusは、Adrastusのもとへ亡命して、Adrastusの娘Deipylaと結婚した。[Apo.1.8.5, Hyginus.97]
** Oeneusの母Aeoliaは、Adrastusの父Talausの父Biasの姉であり、TydeusとAdrastusは、Amythaonを共通の曾祖父とする又従兄弟であった。
BC1225年、Oedipusは、Thebes から追放されて娘Antigoneと共に、AthensのTheseusのもとへ亡命した。[Apo.3.5.9]
** Antigoneの息子MaeonもAthensに同行したと思われる。
** Heracleidaeの帰還の頃、ThebesにAthensのAegeusの血を引くAegeidaeがいたという伝承がある。[FGrH.Nr70.F16]
** Maeonの妻は、Aegeusの孫娘であったと推定される。
** EteoclesとPolyneicesは、協議の結果、Thebesを交代で治めることになった。[Apo.3.6.1]
BC1225年、Oedipusの子Polyneicesは、ArgosのAdrastusのもとへ亡命した。[Apo.3.6.1, Paus.9.5.12]
** Adrastusは、Polyneicesの父Oedipusの養父Polybusの娘Lysianassaの息子であった。
** つまり、Polyneicesは義理の従兄弟Adrastusのもとへ亡命した。
BC1225年、Oedipusの子Polyneicesは、Adrastusの娘Argiaと結婚した。[Hyginus.72, Paus.9.5.12]
** Adrastusは、Sicyonで暮らしていたときに、CorinthにいたPolyneicesと面識があったと思われる。
BC1225年、Helenは、Tyndareusの娘として、Spartaで誕生した。[Apo.3.10.6, Paus.5.19.3]
** Helenの母は、Tyndareusが帰還後に娶った若い妻で、遺児となったHippocoonの娘、または、孫娘と思われる。
BC1225年、Phyleusの子Megesは、Cephallenia島から、Heliusの子Taphiusが移住して住人の少なくなったEchinades諸島へ移住した。
** Megesは、Echinadesの一番大きな島を故郷と同じDulichiumと呼んだ。[Home.Il.2.625, Home.Il.15.518, Apo.2.4.5, Apo.2.4.7から推定]
BC1225年、Clytonaeusの子NaupliusはAchaeansに追われて、Euboea島のChalcisへ亡命した。[Plut.QuestGr.33]
BC1225年、Teucerは、Salamis島からCyprus島へ移住して、Cinyrasの娘Euneと結婚した。[Paus.1.3.2, TzeAdLyco.450]
BC1225年、Thamyrisの子Musaeusは、Chalcidice半島北部からThebesへ移住した。[Suda.mu.1295から推定]

BC1224年、Heraclesは、Oechaliaへの遠征のために、Arcadians、Melians、Locriansを招集した。[Apo.2.7.7]
** Heraclesの遠征動機は、EurytusがEuboeansから貢納を強制していたからであるという説もある。[Athen.461f]
** 実際は、LapithsであるEurytusがThessalyのLapithsに協力して、Heraclesと戦っていたと思われる。
** ThessalyからEurytusと共にOechaliaへ逃れたLapithsは、かなりの数であったと思われる。
** Rome時代には、Eretria領内にOechaliaがあり、Heraclesが破壊した町の名前を残していた。[Strabo.10.1.10]
BC1224年、Heraclesは、EuboeaのOechaliaに住んでいたEurytusを攻めた。[Apo.2.7.7, Diod.4.37.5]
** Eurytus自身と彼の息子たち、Toxeus、MolionおよびClytiusは戦死、娘Ioleは捕虜になった。[Apo.2.7.7, Diod.4.37.5, Hyginus.31]
** TrachisのCeyxの子Hippasusが戦死した。[Apo.2.7.7]
** Heraclesの母の腹違いの弟Licymniusの息子たち、ArgiusとMelasが戦死した。[Apo.2.7.7]
BC1224年、Heraclesは、Oechaliaから船でEuboeaのCenaeum岬に着き、生贄式を行った。[Apo.2.7.7]
BC1224年、HeraclesとDeianeiraの間に、息子Gleneusが生まれた。[Diod.4.37.2, Paus.4.30.1, Apo.2.7.8, Hesiod.98]
** Gleneusの乳母Abiaが、Heracleidaeの帰還に参加していたことから、Gleneusは末子と思われる。[Paus.3.15.10, Paus.4.30.1]

BC1223年、Heraclesは、TrachisのHeracleaと呼ばれる町を創建した。[Athen.462a]
** Heracleaは、HeraclesがLydiaから呼び寄せたCylicranesが盗賊集団と化したため、居留地を破却して、新たに建設された。
** Heraclesの遠征には、Lydians(Kylikranoi, Cyliks)がつき従っていた。[Athen.461f]
BC1223年、HeraclesはHyllusに、成人したらIoleと結婚するように遺言した。[Apo.2.7.7]
BC1223年、Heraclesは、Trachisで死んだ。[Apo.2.7.7]
** Heraclesは、52歳の生涯であった。[Cleme.Exho.2.25, JeromeChro.1196]
** Heraclesは、背は低いが、強い精神力を持っていた。[Pind.Is.4.50]
** 小さな身長、剛毛の髪、大きな力、スリムで、しなやかで、暗く、鉤鼻、明るく輝く目、そして長くまっすぐな髪。[Cleme.Exho.2]
** Heraclesの死因は不明であるが、過労が持病を悪化させたことによる病死と推定される。
BC1222年、Oeneusの娘Gorges(or Gorge)は、CalydonからAmphissaのAndraemonに嫁いだ。[Apo.1.8.1, Hyginus.97, Paus.10.38.5]
BC1220年、Arcesiusの子Laertes率いるCephalleniansは、Leucas半島のNericusを攻略した。[Home.Od.24.375, Strabo.1.3.18, Strabo.10.2.8]
BC1220年、AmazonsがAthensに侵入した。
** Amazonsの侵入は、AdrastusのThebes攻めの5年前であった。[Parian.Marble.21]
BC1220年、HyllusはAegimiusの養子となり、Doriansの3部族の一つHylleisの始祖になった。[FGrH.Nr70.F15, Strabo.9.4.10]
** HeracleidaeがDoriansの地へ行ったのは、Hyllusが死んだ後である。
** Pamphyli、Dymanes、Hylleis [FGrH.Nr70.F15]
BC1220年、Sisyphusの子Ornytionの2人の息子たち、LechesとCenchriasがLechaeumとCenchreaeを創建した。[Paus.2.2.3から推定]

BC1219年、Hyllusは、Ioleと結婚した。[Apo.2.8.2]
BC1219年、Tyndareusが死に、Dioscuriが跡を継いだ。[Paus.3.1.5]
BC1218年、Oedipusは、Athensで死んだ。[Apo.3.5.9, Paus.1.28.7]
** OedipusはThebesに埋葬され、その後、Athensに改葬された。[Paus.1.28.7]
BC1218年、Oedipusの葬送競技会がThebesで開催され、Talausの子Mecisteusが活躍した。[Home.23.676, Paus.1.28.7]
** Adrastusの娘ArgeaはOedipusの葬儀に参列した。[Hesiod.CW.F24]
** Polyneicesは、Eteoclesと争っており、妻Argeaを弔問に行かせたと思われる。
** Mecisteusの母Lysianassaの父Polybusは、Oedipusの養父であり、OedipusはMecisteusの義理の叔父であった。
** AmphiarausはOedipusを埋葬した一人であった。[Hesiod.CW.F99]
** PolyneicesがEteocles に招かれてThebesに戻ったのは、Oedipusの死後であった。Polyneicesの妻の弔問がきっかけと思われる。
BC1218年、Eurystheusは、CeyxにHeraclesの子供たちを追い出さなければ武力に訴えると脅した。[Diod.4.57.3, Paus.1.32.6]
BC1218年、Heracleidaeは、TrachisからAtticaへ移住した。[Diod.4.57.4, Paus.1.32.6]
** Heracleidaeが住んでいたのは、Tricorythus [Diod.4.57.4, 4.58.3, 4.58.5, 7.7.1]、Marathon [Paus.1.32.6]
** Theseusの妻の一人Iopeは、Iolausの妹であり、TheseusとIolausは、義兄弟であった。[Plut.These.29]
BC1217年、Eurystheusは、Heracleidaeが住んでいたAthensへ攻め込んで、Iolausに討ち取られた。[Apo.2.8.1, Paus.1.44.10, Strabo.8.6.19]
** Heraclesのすべての息子たちが成人して、Heraclesの栄光のために若者たちに誇りの精神が芽生えたときであった。[Diod.4.57.5]
** ArgosのHera神殿の巫女、Eurystheusの娘Admeteは、Samos島に逃れた。[Athen.15.672a]
** ArgosとMycenaeはHera神殿をめぐって争っていたが、Eurystheusの時代にはMycenaeの管轄にあった。[Diod.11.65.2]
** Eurystheusの治世は、45年間であった。[JeromeChro.1308]
BC1217年、Atreusは、Mycenaeを継承して、CleonaeからMycenaeへ移住した。[Diod.4.58.2]
** Atreusが創建したCleonaeは、兄弟Cleonymusを住まわせ、この時、町の名が変わった。[FGrH.Nr2.F3, Paus.2.15.1]
** << AtreusがMycenaeを継承した理由 >>
** Eurystheusの死後、後継者がいなくなり、神託がPelopsの子を王とすべしと告げた。[FGrH.Nr333.F133]
** EurystheusがHeracleidaeを攻めるために出発するとき、AtreusにMycenaeを託した。[Dic:Atreus, Thucy.1.9]
** Atreusは、Perseusの娘Autochtheの息子であったと推定される。[Dic:Perseus]
** したがって、Atreusには、祖父Perseusが創建したMycenaeの相続権があった。
BC1216年、Iolausは、Athensで移民を集めてSardiniaへ移住した。その後、IolausはSardiniaで生涯を終えた。[Paus.9.23.1]
** Iolausは、AdrastusのThebes攻めのときには、Greeceにいなかったと思われる。
** Atheniansは、SardiniaにOgryleを創建した。[Paus.10.17.5]
BC1216年、Oedipusの子Polyneicesは、Eteocles に招かれてThebesに戻った。その後、再びArgosへ亡命した。[Apo.3.6.1, Paus.9.5.12]

BC1215年、不慮の死を遂げたThebes攻め参加予定者Lycurgus(or Lycus)の子Opheltes(or Archemorus)を偲んで第1回Nemean gamesが開催された。[Apo.3.6.4, Cleme.Exho.2, Euseb.Pra.2.6, Hyginus.14, Hyginus.74, Hyginus.273, Paus.8.48.2, Pindaros.1]
** Nemean gamesは5年ごとに開催された。[Hyginus.74]
** Pronaxの子Lycurgusは、Nemean Zeusの祭司であった。[TzeAdLyco.373]
BC1215年、Thebesを追放されたPolyneicesに同行して、Tydeusが、Mycenaeを訪問した。[Home.4.364]
** Mycenaeは援軍を出すことを承諾したが、不吉な前兆により援軍を出さないことに決した。[Home.4.364]
** Perseus創建時からMycenaeは、Argosとは、敵対関係にあった。
** 当時のMycenaeは、AtreusかThyestesの支配下にあったが、応対者の名前が逸話に登場しない。Tydeusらの訪問は作り話と思われる。
** Eurystheusが死んで、Mycenaeには、遠征に参加される勢力もなかった。
BC1215年、Seven Against Thebes [Apo.3.6.1, Hyginus.70, Paus.9.9.1]
** Argos側の援軍には、ArcadiansやMesseniansがいた。[Paus.9.9.2, Paus.2.20.5]
** PharaeのDioclesの2人の息子CrethonとOrtilochusと思われる。
** Thebes側の援軍には、Phociansや、Minyan地方のPhlegyansがいた。[Paus.9.9.2]
** Adrastus以外の将たちは戦死した。[Apo.3.6.8, Paus.9.9.3]
BC1215年、Tydeusは、Thebesへ使者としての帰り、Thebes勢に襲われるが、逆襲して、Haemonの子Maeonのみが生還した。[Home.4.364]
BC1215年、Astacusの子Melanippusは、Amphiarausに討ち取られた。[Apo.3.6.8]
BC1215年、EteoclesとPolyneicesは、戦死した。Eteoclesの子LaodamasがThebes王に即位して、Creonが後見人になった。[Paus.1.39.2]
BC1215年、Theseusは、Thebesと和議を結び、放置されていたArgivesの遺体を葬った。[Aelia.12.27, Plut.These.29]
** Pausaniasは、TheseusがThebesと戦って遺骸を運んだ、あるいは、戦いはなく、Thebesが許したとも伝えている。[Paus.1.39.2]
** BC4世紀の弁論家Isocratesは、AthensがThebesに脅しをかけたと伝えている。[Isocra.Pan.170]
** 将官はEleusisに、兵はEleutheraeに埋葬された。[Plut.These.29]
** BC6世紀にEleutheraeは、Athens領となることを希望した。[Paus.1.38.8]
** この頃から、EleutheraeはThebesよりもAthensに好意をもっていたと思われる。
BC1215年、Amphiarausの御者Batonは、IllyriaのEncheleae近くのHarpyiaへ移住した。[Polyb.Fr.2.34]
** Illyriaの指導者Batonとの混同と思われる。[Strabo.7.5.3]
BC1215年、Oenopionの子Euanthesの子Maronは、ThraciaのIsmarusの近くにMaroneiaを創建した。[Diod.1.20.2]

< 1st return of Heracleidae >
BC1215年、Hyllusは、Peloponnesusに侵入して、各地を占領した。[Apo.2.8.2]
** 戦力の回復していないMycenaeは籠城し、Hyllusが占拠したのは、MideiaとTirynsと思われる。[Pind.Ol.7.20, 75, Strabo.8.6.11]
BC1215年、Pelopsの子Alcathousは、Megaraで死んだ。[Paus.1.42.4から推定]
BC1215年、Telamonの子Ajaxは、Salamis島からMegaraへ移住し、Alcathousの跡を継承した。[Paus.1.42.4]

BC1214年、Heracleidaeは、Peloponnesus各地に悪疫が発生したため、Tricorythusへ撤収する。[Apo.2.8.2, Diod.4.58.4]
** Hyllusは、「3度目の収穫の後に帰還するように」との神託を得た。[Apo.2.8.2]
** Mycenaeの勢力回復や、Hyllusと異母兄弟Tlepolemusとの仲間割れが撤収の原因と思われる。
** TlepolemusはHyllusらと共に撤収せずに、Rhodesへ移住した。[Apo.2.8.2, Diod.4.58.7]
BC1214年、Alcmenaは、Megaraで死んだ。[Paus.1.41.1]
** Alcmenaの埋葬場所をArgosにするかThebesにするかで争いが起った。[Paus.1.41.1]
** しかし、AlcmenaはMideiaの生まれで、Argosとは無縁であった。
** また、Thebesには、AmphitryonやAlcmenaの孫たちの墓があったが、埋葬はできなかったものと思われる。
** Alcmenaは、BoeotiaのHariartos領のOcaleaeにある、Rhadamanthusの墓の傍らに葬られた。[Plut.Lysa.28]
** Alcmenaの墓は、BC4世紀にSpartaのAgesilaus(BC399-358)によってSpartaへ改葬された。[Plut.Mor.577e]
** Alcmenaの墓には、Egypt文字に似た古代文字(Cretan hieroglyphs)が書かれた青銅板があった。[Plut.Mor.577e]
** Agesilausは、その青銅板の碑文の写しをEudoxus of Cnidusに託して、Egyptの王Nectanabisに送って、解読した。[Diogenes.8.87.]
BC1213年、Tlepolemusは、Rhodesへ移住した。[Apo.2.8.2, Diod.4.58.7, Diod.7.7.1, Home.Il.2.662, Strabo.14.2.6]
** Tlepolemusは、Lindus、Ilysus(Ialysus)、Cameirusを創建した。[Diod.4.58.8, Strabo.14.2.6]
** Tlepolemusは祖母の弟Licymniusと残留していたが、Licymniusは病死し、Mycenaeに圧迫されて、Rhodesへ移住したと思われる
** LicymniusがArgosで死んだと伝えているもの[Diod.4.58.7, Diod.7.7.1, Paus.2.22.8]
** Tlepolemusは、ArgosではなくMideaに滞在し、Tirynthiansと共にRhodesに渡った。[Pind.Ol.7.20, 75]
** Tirynthiansの中には、Eurystheusの兄弟Iphitusの息子と推定されるLebesもいて、Creteに定住した。[Pind.Ol.7.75から推定]
** TirynsのAcropolisは、Licymniusに因んでLicymnaと呼ばれていた。Licymniusの墓は、そこにあったと思われる。[Strabo.8.6.11]
BC1213年、Lycomedesの娘Deidamiaは、Thessaly地方のPhthiaのAchillesのもとへ嫁入りした。[Dictys.4.15, Hyginus.123]
BC1212年、Neoptolemusは、AchillesとLycomedesの娘Deidamiaと間の息子として生まれた。[Apo.3.13.8, Dictys.4.15, Epic.Cypria.1, Hyginus.97]
** Neoptolemusは、Scyros島で生まれた。[Strabo.9.5.16, Sopho.Philo.220]
BC1211年、Theseusの妻Phaedraが死んだ。[Diod.4.63.2]

< 2nd return of Heracleidae >
BC1211年、Hyllusは、神託を「3年待って帰還せよ」と解釈し、Peloponnesusに向けてTricorythusを出発した。[Apo.2.8.2]
BC1211年、Atreusは、Tegeatansや他の民族を彼の部隊に加えて、Heracleidaeと会戦するために進軍した。[Diod.4.58.2]
BC1211年、Hyllusは、Isthmusで、TegeaのEchemusと一騎打ちをして討ち取られた。[Diod.4.58.4, Herod.9.26]
** Heracleidae側が総大将を出しているのに、Peloponnesus側が総大将ではなく、援軍に来た者を出しているのは、不自然である。
** Thyestesが追放したAgamemnonとEchemusとは、お互いの妻を通して義兄弟であった。
** HyllusとEchemusの一騎打ちは、創作で、Hyllusは合戦で戦死したと思われる。
** Hyllusの墓は、Megaraにあった。[Paus.1.41.2]

BC1211年、Heracleidaeは、Aegimiusのもとへ行き、父が預けていた土地を要求して、Doriansの地に住み着いた。[Diod.4.58.6]
** Hyllusの軍にはIoniansもいたと思われ、その中に戦死した者たちがいて、Tricorythusに居づらくなったと思われる。
** Athensの名祖の一人で、HeraclesとDryopesのPhylasの娘Medaとの間の息子Antiochusはそのまま住み続けた。[Paus.1.5.2から推定]
BC1211年、HeraclesとDeianeiraの娘Macariaは、Theseusの子Demophonの妻になって、Athensに残った。[JeromeChro.1148から推定]

BC1210年、Theseusは、IdasからTyndareusの娘Helenを預かって、Aphidnaeに匿った。[Diod.4.63.2, Plut.These.31]
** 当時、Helenは、7歳[FGrH.Nr4.F168b]、10歳[Diod.4.63.2]、12歳[Apo.E.1.23]であった。
** IdasとTheseusの友Peirithousは、Hippotesの子Aeolusの子Lapithesを共通の祖とする同族であった。
** Lapithesの子Aeolusの子Perieresの子Aphareusの子Idas。Lapithesの子Periphasの子Antionの子Ixionの子Peirithous。
** IdasとTheseusも、Peirithousを介して親交があったと思われる。[Plut.These.30]
BC1210年、Theseusは、Thesprotisへ出かけてAthensを留守にした。[Paus.1.18.4, Paus.2.22.6, Paus.3.18.5, Plut.These.31]
** ThesprotisのAornumには死者を呼び出す神託所がある。Theseusは死んだ妻Phaedraを呼び出すために行った。[Paus.9.30.6]
BC1210年、Theseusの2人の息子たち、DemophonとAcamasは、EuboeaのChalcisのElephenorのもとへ亡命した。[Aelia.4.5, Plut.These.35]
** Theseusが息子たちを避難させた。[Plut.These.35] DemophonとAcamasは、Menestheusに追放された。[Aelia.4.5]
** Chalcodonの子Elephenorは、Aegeusの妻Chalciopeの兄弟であった。つまり、Theseusの義母の兄弟であった。
BC1210年、Dioscuriは、AthensのAphidnaeを占領し、HelenをLacedaemonへ連れ戻した。[Paus.2.22.6]
** Megareusの子Timalcusも遠征に参加してTheseusに討ち取られたとされるが、Theseus不在で戦いもなかった。[Paus.1.41.3-4, Paus.3.18.5]
BC1210年、Dioscuriは、Eleusisの秘儀に入門するため、Aphidnusの養子になった。[Plut.These.33]
**Athens市民でない者が秘儀に入門するためには、Athens市民の養子になる必要があった。
** Persia戦争の頃には、Greeksであれば入門できるようになった。[Herod.8.65]
BC1210年、Theseusは、Athensに帰るが、住民の反感を抑えられず、GargettusでAtheniansへの呪詛を行う。[Plut.These.35]

BC1209年、TheseusはScyros島へ亡命するが、Lycomedesに殺害された。[Paus.1.17.6, Plut.These.35, Plut.Cimon.6]
** Theseusは、Lycusの偽の中傷により追放されて、Lycomedesに嫉妬されて殺された。[Suda.th.368]
BC1209年、Menestheusが、Athens王に即位した。[Euseb.185]
** HeracleidaeがTricorythusからDoriansの土地へ移住したため、Theseusが劣勢になったと思われる
** DioscuriがMenestheusに協力した。[Paus.1.17.5]
** DioscuriがMenestheusを連れ戻した。[Apo.E.1.23]
** DioscuriがMenestheusに勧められて、Athensを攻めた。[Plut.These.32]
** DioscuriがMenestheusに王位を与えた。[Aelia.4.5]
** 史実は、Helen奪還のためにAthensに来たDioscuriを、Theseusの留守中に政権奪取を画策したMenestheusが利用したのだと思われる。
BC1209年、Tyndareusの息子たち、CastorとPolydeuces(Dioscuri)は、Messeniansと戦って死んだ。[Apo.3.11.2]
** Pausaniasは、Dioscuriが父Tyndareusの跡を継いだように記している。[Paus.3.1.5, 3.17.2]
** しかし、彼らには息子がおり、その後、娘婿MenelausがSpartaを継承するのは困難である。
** Dioscuriが父より先に死んで、TyndareusがMenelausにSpartaを任せたとする伝承の方が妥当。[Apo.3.11.2]
BC1209年、IdasとLynceusは、Tyndareusの息子たちと戦って死んだ。[Apo.3.11.2]
** IdasがCastorを殺した。[Apo.3.11.2]
** その後の戦いで、PolydeucesがLynceusを殺した。[Apo.3.11.2, Paus.3.14.7, Paus.4.3.1]
** IdasがPolydeucesを殺し、Idasも死んだ。[Apo.3.11.2, Paus.4.3.1]
** DioscuriがMenestheusのAthens王即位を助けたので、IdasとLynceusが死んだのは、この頃と思われる。[Aelian.4.5, Paus.1.17.5]
BC1209年、Nestorは、Idasの跡を継いで、MesseniaのArene近くへ移住して、Pylusを創建した。[Paus.4.3.1, Paus.4.3.7]
** Nestorは、Idasの娘婿として、Idasの跡を継いだと思われる。
BC1209年、Tyndareusの娘Clytaemnestraは、MycenaeのAgamemnonに嫁いだ。[Tzetzes.1.460, Paus.2.22.3]

BC1205年、EpigoniのThebes攻め[Apo.3.7.2, Diod.4.66.1, Paus.9.9.4, Paus.9.5.13]
** AdrastusのThebes攻めの10年後、Eteoclesの子Laodamasの治世であった。[Apo.3.7.2]
** Amphiarausの子Alcmaeonが指揮した。[Apo.3.7.2, Diod.4.66.1]
** Polyneicesの子供たちが指揮した。[Paus.9.33.1]
** Polyneicesの子Thersanderが指揮した。[Paus.7.3.1]
** Thebes側の援軍は、Thebes周辺の諸市であった。[Paus.9.9.4]
** Argos側の援軍は、Messenians、Arcadians、Corinthians、Megariansであった。[Paus.9.9.4]
** Theseusの子Hippolytusは、戦車が転覆して引きずられて死んだ。[Apo.E.1.19, Diod.4.62.3, Paus.2.32.10]
** HippolytusはEpigoniに参加して戦死したものと思われる。[Paus.2.32.1]
** TroezenにDiomedesが創建したHippolytusの神苑があった。HippolytusとDiomedesは同世代であった。
** EpigoniのThebes攻めの後、Thebesの勢力は、次の理由によって、急減したと思われる。
** 1) Argivesとの戦いによる戦死や、各地(Illyria, Euboea, Acarnania, Asia Minor)への移住による人口の急減。
** 2) Argivesが去った後での、Argos出身のThersanderや息子Tisamenusの統治の困難さ。
** その証拠に、EpigoniのThebes攻めの後、Thersanderの子Tisamenusの子AutesionがThebesを去るまでの動静はほとんど不明である。
BC1205年、Epigoniは、Argosから海路でAulisに上陸した。ThebansがGlisasで待ち受けて、戦いになった。[Paus.9.5.13]
BC1205年、Polyneicesの子Thersanderは、Thebes王に即位した。[Paus.9.5.14]
** BC1324年にAmphionがThebesを城壁で囲んでから、Epigoniに占領されるまで、Thebesは少なくとも2度占領された。
1) BC1300年、Eurymachus率いるPhlegyes[FGrH.Nr333.F41]
2) BC1256年、Clymenusの子Erginus率いるMinyans[Apo.2.4.11]
BC1205年、Thebesから逃れた人々は、Alalcomenae近くのTilphossaeumに集まった。[Diod.4.66.5]
BC1205年、予言者Tiresiasは、Thebesから逃れる途中でTilphusaの泉で死んだ。[Apo.3.7.3]
** Tiresiasは、Argivesに連れられてDelphiへ行く途中、Haliantiaで死んだ。[Paus.7.3.1, Paus.9.33.1]
** Tiresiasの娘Mantoは、戦利品の中で最良のものとして、Delphiへ連れて行かれた。[Apo.3.7.4]
BC1205年、Tiresiasの娘Mantoは、Amphiarausの子Alcmaeonの捕虜になった。[Apo.3.7.7]
** 後に、AlcmaeonとMantoとの間に、息子Amphilochusと娘Tisiphoneが生まれた。[Apo.3.7.7]
BC1205年、Eteoclesの子Laodamasは、ThebesからIllyriaのEncheleansのもとへ移住した。[Herod.5.61, Paus.9.5.13, Paus.9.8.6]
BC1205年、Thebansの一部は、Illyriaへ行かずに途中で分かれて、ThessalyのHomoleへ移住した。[Paus.9.8.6-7]
BC1205年、Thebansの一部は、Euboea北部にHestiaea(Histiaea)を創建した。[Apo.3.7.3]
BC1205年、Thebansの一部は、Copais Lake南西のAlalcomeniaやTilphosium山にArgivesが退去するまで隠れていた。[Diod.19.53]
BC1205年、Adrastusは、EpigoniのThebes攻めに同行し、帰る途中、Megaraで死んだ。[Paus.1.43.1]
BC1205年、Thebes西方約5kmのCabeiraeaのPelasgiansは、Athensへ移住した。[Herod.2.51, Paus.9.25.7]
BC1205年、Atreusの孫Menelausは、SpartaのTyndareusの娘Helenと結婚した。[Hyginus.78, Paus.2.22.6]
BC1205年、Menelausは、義父TyndareusからLacedaemonの王位を譲渡された。[Apo.3.11.2, Apo.E.2.16, Hyginus.78]
** Tyndareusは、Dioscuriより先に死んでいたと推定される。MenelausがTyndareusから王位を譲られたという伝承は作り話と思われる。
** AgamemnonがLaconia地方をMycenaeへ併合して、Laconia地方をMenelausが領有した。[Strabo.8.6.10]
BC1205年、Carmanorの子Eubulusの娘Carmeの娘Britomartisは、Crete島からAegina島へ移住した。[Antoninus.40]

BC1204年、Alcmaeonは、Acarnaniaへ遠征してArgos(後のArgos-Amphilochicum)を創建した。[Strabo.7.7.7, Strabo.10.2.25]
** Alcmaeonは、Mantoらの捕虜を連れて、Illyriaを目指すが、途中Achelous川河口付近にAstacusを創建した。[Strabo.10.2.21から推定]
** Diomedesの協力者は、Alcmaeonではなく、Capaneusの子Sthenelusであった。[Hygnius.175]
** AlcmaeonのAcarnania遠征の動機は、捕虜がIllyria行きを希望したからであったと思われる。
** the Peloponnesian warの頃のAstacusのtyrant Evarchusは、Epigoniの捕虜の中にいたSpartiの後裔と思われる。[Memnon.12.1から推定]
** Alcmaeonは、Melampusの後裔で、息子たちAcarnanとAmphoterusの後裔がHesiodに予言術を教えたと思われる。[Paus.9.31.5]
** Hesiodは、Naupactusから東へ15kmほどのOineonで殺害された。[Plut.Mor.969e, Thyc.3.96]
** Hesiodは、AcarnaniaとBoeotiaを往復していたと思われる。
** Thermopylaeの戦いに参加したAcarnania出身の予言者Megistiasは、Melampusの後裔であった。[Herod.7.221]
** Alcmaeonの弟Amphilochusもこの遠征に参加し、以後、Argosには帰らなかったと思われる。[Apo.3.7.7]
** Thucydidesは、AmphilochusがTroy遠征に参加したと記している。[Thucy.2.68]
** しかし、つぎの理由で、Alcmaeonの弟Amphilochusは、Troy遠征に参加していなかったと推定される。
** 1. 兄弟でEpigoniのThebes攻めに参加しているのに、兄の遠隔の地での町の創建に弟が参加しないはずがない。
** 2. 兄Alcmaeonが、Agamemnonからの要請を断り、弟だけがTroy遠征に参加したとは思われない。
** 3. HomerがAmphilochusについて言及していない。
** 4. Homerは、Argosの将を3人列挙している。[Home.Il.2.557]
** (1) Argos 3王家の本家Anaxagoridae[Paus.2.30.10]    Capaneusの子Sthenelus
** (2) Bias王家Biantidae[Dic: Bias]のTalausの子Adrastusの子Aegialeusの子Cyanippusの代理のDiomedes
** (3) Bias王家のTalausの子Mecisteusの子Euryalus
** AmphilochusのTroy遠征が真実であれば、Argos 3王家のひとつMelampodidae[Paus.6.17.6]の将として名前が挙がっているはずである。
** 5. 兄Alcmaeonには多くの妻子の名前が伝えているが、Amphilochusの妻子は不明であり、若くしてGreeceから離れたと思われる。
** 6. 多くの史料で、Asia MinorのColophonで生まれて、CiliciaのMallusで死んだ、兄AlcmaeonとMantoの息子と混同されている。

BC1203年、ThebesのThersanderは、Epigoniに追われて、Homoleへ逃れた人々を呼び戻した。[Diod.19.53, Paus.9.8.7, Strabo.9.2.3]
BC1203年、Atreusが死に、AgamemnonがMycenae王になった。[Euseb.177]
** Agamemnonの在位18年目にTroyが陥落した。[Cleme.Str.1.21, Tatian.39]
** Agamemnonは、30年(35年)間Mycenaeを統治し、在位18年目にTroyが陥落した。[Euseb.Chron.179, (JeromeChro.1197)]
** AgamemnonとMenelausは、Lacedaemoniansを率いて、Mycenaeに帰還した。[Tzetzes.1.460]
** 彼らは、Thyestesと彼の息子AegisthusをLaconia湾の沖に浮かぶCythera島に住むように命じた。[FGrH.10.11, Tzetzes.1.460]
** Thyestesは、Cythera島で死んだ。[Home.Od.4.512から推定]

BC1202年、Oeneusは、Agriusの息子たちに追われて、CalydonからArgosのDiomedesのもとへ亡命した。[Paus.2.25.2]
BC1202年、Diomedesは、Aetoliaへ遠征し、Calydonを追われた祖父Oeneusの仇を討った。[Paus.2.25.2]
** Diomedesの協力者は、Amphiarausの子Alcmaeon[Apo.1.8.6, Strabo.10.2.25]ではなく、Capaneusの子Sthenelus[Hygnius.175]
** Sthenelusは、Diomedesの親友であった。[Hygnius.257]
** Oeneusの敵であるPleuronのParthaonの子Agriusの息子たちは、Alcmaeonとは、従兄弟の孫同士の関係であった。
** Alcmaeonが親族を相手の戦いに協力したとは思えない。
** DiomedesのAetolia遠征は、EpigoniのThebes攻めの後であった。[Strabo.7.7.7]
** OeneusはTrojan War前に死んでいたので、DiomedesのAetolia遠征はTrojan War前であった。[Home.Il.14.117]
** Diomedesは、AmphissaのOeneusの娘婿AndraemonにAetoliaを任せた。[Apo.1.8.6]
** Diomedesが戦ったのは、Agriusと彼の息子たち[Antoninus.37]
** Thestius一族とAgrius一族は、Aetoliaの内陸部へ逃れて、ThestiaとAgriniumを創建した。[LeakeN.1.155]
** ThestiaやAgriniumは、数で最大のEurytaniaに属していた。[LeakeN.2.623]
** ThestiaやAgriniumは、BC218 年にMacedonia王Philip 5世がAetoliansを攻めたときに存在していた。[Polyb.5.7]
BC1202年、Alcmaeonは、Achelousの娘Callirhoeと結婚した。[Paus.8.24.9]
** Alcmaeonの父Amphiarausの父Oeclesの妻Hypermnestraは、Aetolusの子Pleuronの後裔であり、Callirhoeも母方の先祖はPleuronであった。
BC1202年、Agamemnonは、Argosを攻めて、Mycenaeの支配下に置いた。[Strabo.10.2.25]
** Agamemnonは、Argivesの多くがDiomedesと共にAetoliaへ遠征中を狙った。[Strabo.10.2.25]
BC1202年、Oeneusは、Calydonを娘婿Andraemonに任せ、孫のDiomedesと共にArgosへ行って死んだ。[Apo.1.8.6, Paus.2.25.2]
** Oeneusは、孫のDiomedesと共にArgosへ行く途中、ArcadiaでAgriusの息子たちに殺されたという伝承もある。[Apo.1.8.6]

BC1200年、Nestorは、ThessalyのTriccaのAsclepiusを訪問した。[Strabo.1.1.16から推定]
** IdasからMesseniaを継承したが、領内のLapithsが、彼に従わなかったために、ThessalyのLapithsの有力者を利用したと思われる。
** PharaeのDioclesの娘AnticleiaとAsclepiusの子Machaonとの婚姻を仲介したと思われる。[Paus.4.3.1]
** Nestorは、Troyで戦死したMachaonの遺骨を持ち帰って、Gereniaに埋葬した。[Paus.3.26.9-10]
BC1200年、Asclepiusの子Machaonは、MesseniaのPharaeからDioclesの娘Anticleiaを妻に迎えた。[Paus.4.30.3]
BC1200年、Tanagra周辺のGephyraeansは、Chaeresilausの子Poemanderの孫Poemanderに追われて、Athensへ移住した。[Herod.5.57, Paus.9.20.1]
** EpigoniのThebes攻めの少し後でGephyraeansは、Boeotiansに追われてAthensへ移住した。[Herod.5.61]
** BC1415年にEumolpusに追われたAtheniansをGephyraeansが受け入れた借りを返したものと思われる。[Suda.Delta.1395]
BC1200年、Lebesの子Rhaciusは、CreteからAsia Minorへ移住して、Colophonを創建した。[Paus.7.3.1]
** MopsusがColophonを創建したという説もある。[PompoMela.1.88] Trojan War時代には、Colophonという町はなかったことになる。
BC1200年、Eurystheusの娘Admeteは、Samos島へ移住した。[Athen.15.672a]
** Admeteは、ArgosのHera神殿の巫女であった。[Newton.139]
** Admeteは、LebesとCreteへ行ってから、Rhaciusと共にAsia Minorへ向かい、Samos島へ移住したと思われる。
BC1200年、Dardanusの子Zacynthusは、ArcadiaのPsophisからZacynthus島へ移住した。[Paus.8.24.3]
** ArcadiaのPsophisは、EpigoniのThebes攻めの頃はPhegiaと呼ばれていた。Troy遠征には、Zacynthus島から参加していた。
** したがって、Zacynthusの移住は、この頃と思われる。[Paus.8.24.8, Home.Il.2.631]
BC1200年、Agamemnonは、LaconiaをMycenaeに併合して、MenelausがLaconiaを領有した。[Strabo.8.6.10]






 

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