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第30章 トラキア地方の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2026.2.16

1 はじめに

ペロポネソス半島は、ギリシア人が入植したとき、ほぼ無人であったが、トラキア地方には多くの先住民族がいた。

ギリシア人は、トラキア地方へ多くの入植をしているが、一度に多くの町を建設するような大規模な人々の移動はなかった。

トラキア地方に入植したギリシア人は、周辺の先住民族と交じり合い、ストラボンは、彼らを一様にトラキア人と呼んでいる。

この章では、トラキア、マケドニア、パイオニア地方の青銅器時代の歴史について記述する。

 

2 トラキアの歴史

2.1 アルカディアからの移住

BC1430年、アルカディア地方中央部に洪水が発生して、被災した住人は、新天地を求めて移住した。リュカオンの子オルコメノスの娘エレクトラの子ダルダノスは、サモトラケ島に移住した。[1]

この時、ダルダノスの兄弟エマチオンは、カルキディケ半島を過ぎた所のトラキア地方に入植した。エマチオンは、シトニア地方の支配者になった。[2]

 

2.2 フェニキアからの移住

BC1426年、アゲノールの子カドモスは、フェニキア地方のシドンの町からサモトラケ島を経由して、カルキディケ半島の北のトラキア地方へ移住した。カドモスは、パンガイオン山付近で金鉱を発見した。[3]

金鉱を発見したのは、カドモスに同行していたイダ山のダクテュロスとも呼ばれるテルキネス族であった。[4]

カドモスの母テレパッサは、その地で死んだ。[5]

 

2.3 ボイオティアやポキスへの移住

BC1420年、大津波に襲われたカドモスや、トラキア地方に住んでいたテレウスは、居住地を追われて、南下した。

カドモスは、ボイオティア地方へ移住してカドメイア (後のテバイ)の町を創建した。[6]

テレウスは、ポキス地方のダウリス付近へ移住した。[7]

テレウスは、第5代アテナイ王パンディオンの娘プロクネ (または、プログネ)と結婚した。[8]

テレウスは、トラキア人だと伝えられている。[9]

しかし、ペラスゴイ人であったアテナイ王の娘と結婚していることから、テレウスは、ダルダノスの移民団と途中で分かれて、トラキア地方に入植したペラスゴイ人であったと思われる。

もしかすれば、テレウスは、エマチオンやダルダノスの兄弟であったかもしれない。

 

2.4 アテナイからの移住

BC1390年、大津波に襲われたアテナイの町から、ボレアスが移民団を率いて、サモトラケ島向かいの本土の内陸へ移住した。[10]

ボレアスは、ヘブロス川を遡上し、支流のレギニア川を遡って、移住の適地を見つけた。レギニア川は、古くは、エリゴン川と呼ばれ、ハイモン山の麓にあり、サルペドン岩が近くにあった。[11]

ボレアスの居住地は、現在のトルコ北西部のイプサラの町の近くであったと推定される。

 

2.5 エレウシスからの移住

BC1390年、エウモルポスの子ケリュクスは、ボレアスの移民団に参加して、エレウシスの町からトラキア地方へ移住した。[12]

ケリュクスの入植地は、ヘブロス川付近と推定される。

次のことから、ケリュクスの妻は、ボレアスとオリテュイアの娘キオネと推定される。

1) キオネの子エウモルポスはトラキア人を率いて、アテナイ人と戦っていたエレウス人に味方するために駆け付けた。[13]

キオネは、第6代アテナイ王エレクテウスの娘オリテュイアの娘であった。[14]

2) エレウシスにキオネの子エウモルポスの墓があった。[15]

3) ケリュクスの子エウモルポスの子孫は、エレウシスで入信式を創始した大祭司であった。[16]

 

2.6 アナトリアからの移住

2.6.1 サルミュデッソスの創建

BC1380年、ベロスの子ピネオスは、キュジコスの町近くのエチオピア人の地から黒海南西岸へ移住して、サルミュデッソスの町を創建した。[17]

ベロスは、ボレアスと共に移民団を率いて航海し、ボレアスと別れてエーゲ海からヘレスポントス海峡の奥へ侵入した。ベロスは、プロポンティスに入り、キュジコスの手前のアイセポス川河口付近に入植した。[18]

ピネオスは、ダナエの子ペルセウスの妻アンドロメダの父ケペオスの兄弟であった。[19]

サルミュデッソスの町は、ボレアスの居住地を流れるレギニア川の源流近くにあった。

 

2.6.2 オドリュサイの名祖

BC5世紀の歴史家フェレキュデスは、ピネオスの2人の息子たち、テュノスとマリアンデュノスが、テュノイ人とマリアンデュノイ人に名前を与えたと伝えている。[20]

また、ビテュニア地方で生まれたルキウス・フラウィオス・アッリアノスは、テュノスとマリアンデュノスの父親をオドリュサイの名祖オドリュソスだと伝えている。[21]

つまり、ピネオスは、オドリュソスという別名を持つ、オドリュサイの始祖であったと思われる。

恐らく、ピネオスの後裔が、サルミュデッソスの町から西側へ居住地を広げて行ったと思われる。

 

2.7 ガレプソスの創建

BC1375年、タソスの子ガレプソスは、タソス島の向かいの本土へ移住して、ガレプソスの町を創建した。[22]

ガレプソスの祖父キリクスは、アゲノールの息子で、エジプトからフェニキア地方のシドンの町を経由して、トロアス地方のイダ山近くのテーベの町へ移住した。

キリクスの子タソスは、テーベの町からタソス島へ移住した。[23]

彼の移住には、冶金技術に優れたイダ山のダクテュロスも同行したと思われ、タソス島は、金の産出で有名であった。[24]

タソスの子ガレプソスは、さらに金鉱を求めて本土へ移住したと推定される。

ガレプソスの町の近くのカスプテ・ヒュレには、金鉱床があった。[25]

 

2.8 サルミュデッソスへの嫁入り

BC1370年、ピネオスは、ボレアスの娘クレオパトラを妻に迎えた。[26]

ピネオスの父ベロスとクレオパトラの父ボレアスが同じ移民団にいた。

ベロスとボレアスは、それぞれ遠く離れた土地に定住したが、その後も、交流していたことが分かる。

 

2.9 ケリュクスとキオネの結婚

BC1370年、エウモルポスの子ケリュクスは、ボレアスの娘キオネを妻に迎えた。[27]

ケリュクスとボレアスは、移民団を率いて、一緒に移住した仲間であった。

 

2.10 黒海西岸への移住

BC1365年、ボレアスの息子たち、ゼテスとカライスは、ヒュペルボレオス人の地へ移住した。[28]

ヒュペルボレオス人の住む島は、後に、アレクサンドロス大王がトラキア地方に攻め寄せたときに、トリバッロイ人が逃げ込んだ川の中にある島であった。その島は、黒海西岸に注ぐイステル (現在のドナウ)川の7つの河口のうち、一番大きい聖なる口と呼ばれる河口から22km遡上した所にあった。その島は、周囲が崖になっていて、ペウケと呼ばれていた。[29]

トリバッロイ人は、アレクサンドロス大王と友好関係を結んだ後も、彼が島へ上陸することを許さなかった。[30]

 

2.11 エレウシスへの遠征

BC1352年、エレウシスの町のエウモルポスの子インマラドスと第6代アテナイ王エレクテウスとの戦いがあり、2人とも戦死した。[31]

キオネの子エウモルポスは、トラキア地方からエレウシスの町を応援するために駆けた。[32]

 

2.12 エレウシスへの移住

BC1350年、エレウシスの町のエウモルポスが死に、エウモルポスの子ケリュクスは、祭儀を継承するため、トラキア地方からエレウシスの町へ移住した。[33]

インマラドスの死後、エレウシスの祭儀は、インマラドスの父エウモルポスが執り行っていた。[34]

 

2.13 サルミュデッソスから各地への移住

BC1350年、ピネオスの息子たちは、サルミュデッソスの町から各地へ移住した。

 

2.13.1 ビテュニアへの移住

ピネオスの子ビテュノスは、サルミュデッソスの町からボスポラス海峡を渡ったところへ移住した。[35]

その地方は、最初にベブリュキア、その後、ミュグドニアと呼ばれていたが、ビテュノスの名前に因んでビテュニアと呼ばれるようになった。[36]

 

2.13.2 マリアンデュニアへの移住

ピネオスの子マリアンデュノスは、ビテュノスよりもさらに東側の黒海南岸へ移住した。[37]

その地方の住人はマリアンデュノイ人と呼ばれるようになり、その地は、後にヘラクレアの町になった。[38]

 

2.13.3 パプラゴニアへの移住

ピネオスの子パプラゴン (または、パプラゴノス)は、マリアンデュノスよりもさらに東側の黒海南岸へ移住した。その地方は、パプラゴンの名前に因んでパプラゴニアと呼ばれるようになった。[39]

 

2.13.4 プリュギアへの移住

ピネオスの子テュノスは、サルミュデッソスの町からボスポラス海峡を渡って、アスカニア湖の南西のオリュンポス山付近へ移住した。[40]

その地方の住人は、テュノスの名前に因んでテュノイ人と呼ばれるようになった。[41]

テュノスの母イダイアは、トロイ王国の始祖ダルダノスの娘であった。テュノスの子エイオネオスの子キッセウス (または、デュマス)の娘ヘクバ (または、ヘクベ)は、ラオメドンの子プリアモスの妻になった。[42]

 

2.14 タウリケ・ケルソネセ (現在のクリミア半島)への移住

BC1345年、ピネオスの2人の息子たち、ポリュメデスとクリュティウス (または、プレキッポスとパンディオン)は、サルミュデッソスの町から黒海北岸のタウリケ・ケルソネセへ移住した。[43]

 

2.15 エチオピアからの嫁入り

BC1332年、ベロスの入植地エチオピアに住むベンテシキュメの娘ダエイラは、トラキア地方に住むキオネの子エウモルポスのもとへ嫁いだ。[44]

ベンテシキュメは、ベロスの子ケペオスの娘と思われる。[45]

エウモルポスとダエイラとの結婚から、キオネの父ボレアスとベロスが同じ移民団にいて、その後も両者の間に交流があったことが分かる。

 

2.16 エレウシスへの移住

BC1315年、キオネの子エウモルポスは、祭儀を継承するため、トラキア地方からエレウシスの町へ移住した。[46]

エウモルポスの子アンティオペモスの子ムサイオスの子エウモルポスは、入信式を創始して、大祭司となり、彼の後裔は、エウモルピダイと呼ばれるようになった。[47]

 

2.17 イスマロスの創建

BC1310年、キオネの子エウモルポスの子イスマロスは、トラキア地方のヘブロス川とネストス川の間の海の近くにイスマロスの町を創建した。[48]

イスマロスの妻は、トラキア人の王テギュリウスの娘であった。[49]

恐らく、テギュリウスはキコニア人であり、ベロスの子ピネオスの後裔であったと思われる。

詩人オルペウスは、オドリュサイ人であり、キコニア人であった。[50]

つまり、キコニア人は、オドリュサイ人の支族であったと思われる。

イスマロスの町は、キコニア人の町であった。[51]

オイノピオンの子エウアンテスがイスマロスの町へ移住して来る前は、キコニア人が住んでいた。[52]

 

2.18 メトネからの移住

BC1301年、メトンの子カロプスは、マケドニア地方のメトネの町からトラキア地方のビサルティアへ移住して来た。[53]

メトンは、オリュンポス山近くに住むアイオロスの子マグネスの息子で、メトネの町の創建者であった。

 

2.19 ピエリアからの嫁入り

BC1278年、ピエロスの娘カリオペは、ピエリアの町からビサルティアに住むカロプスの子イスメニオスのもとへ嫁いだ。[54]

カロプスは、カリオペの父ピエロスの兄弟メトンの息子であった。

 

2.20 パルナッソス近くからの移住

BC1268年、ダイダリオンの子ピラモンは、パルナッソス山の近くからカルキディケ半島北部へ移住して来た。[55]

ピラモンの妻アルギオペは、オドリュサイ人であった。[56]

 

2.21 テバイへの移住

BC1250年、カロプスの子イスメニオスの子リノスは、ビサルティアからテバイの町へ移住した。[57]

リノスの母カリオペの兄弟リノスの子ピエロスは、ボイオティア地方のテスピアイの町に住んでいた。[58]

 

2.22 キオスからの移住

BC1230年、アリアドネの子オイノピオンの子エウアンテスは、キオス島からトラキア地方のイスマロスの町へ移住した。[59]

エウアンテスとエウモルポスの子イスマロスとの間に親族関係はない。

エウアンテスは、カリア人によって、キオス島から追い出されたと推定される。[60]

 

2.23 ピンプレイアへの嫁入り

BC1230年、タミュリスの娘メニッペは、カルキディケ半島北部からマケドニア地方のピンプレイアの町に住むピエロスの子オイアグロスのもとへ嫁いだ。[61]

オイアグロスとメニッペは、アイオロスの子マグネスを共通の先祖とする同族であった。

オイアグロスとメニッペには、叙事詩人オルペウスが生まれた。[61-1]

 

2.24 テバイへの移住

BC1225年、タミュリスの子ムサイオスは、カルキディケ半島北部からテバイの町へ移住した。[62]

ムサイオスは、オイアグロスの子オルペウスの弟子であった。[62-1]

 

2.25 マロネイアの創建

BC1215年、オイノピオンの子エウアンテスの子マロンは、イスマロスの町の近くにマロネイアの町を創建した。[63]

マロンは、イスマロスの町のアポロの神官であった。[64]

マロネイアは、キコニア人の町であった。[65]

 

2.26 マケドニアへの移住

BC1190年、マロンの子マケドンは、マロネイアの町からマケドニア地方へ移住した。[66]

マケドニア地方の名前は、マロンの子マケドンの名前に因んでいるという伝承があるが、アイオロスの子マケドンに因むとする伝承の方が妥当である。[67]

 

2.27 レムノスからの移住

BC495年、レムノス島に住んでいたペラスゴイ人は、キモンの子ミルティアデスに追われて、カルキディケ半島へ移住して、クレオナイ, オロピュクシス, アクロトオイ, ディオン, テュッソスの町に定住した。[68]

ペラスゴイ人を率いたのは、ヘルモンであった。[69]

その後、ペラスゴイ人の一部は、スキュロス島へ渡った。[70]

また、ペラスゴイ人の一部は、カルキディケ半島から内陸へ移動して、パイオニア地方の近くへ移住した。

BC429年当時、パイオニア人の隣には、シンティ人が住んでいた。[71]

シンティ人とは、アッティカ地方のブラウロンの町で娘たちを略奪した後で、レムノス島に住むペラスゴイ人に付けられた呼び名であった。[72]

ストラボンは、トラキア地方のシンティ人がレムノス島に住みついたと、逆に記している。[73]

 

2.28 トラキア人の系譜

トラキア地方に最初に住んだのは、エレクトラの子エマチオンであり、住人は、ペラスゴイ人であった。[74]

その後、ボレアスやケリュクスに率いられたペラスゴイ人やアイオリス人が入植した。

彼らと同じ時期に、アナトリア半島に入植したベロスのもとからベロスの子ピネオスがアカイア人を率いて入植した。[75]

ボレアス、ケリュクス、ベロス、それに、先住民族との混血によって、オドリュサイ人やキコニア人が誕生したと思われる。

エウアンテスに率いられて、キオス島から入植したクレタ人は、キコニア人と共住した。[76]

トロイ戦争より前の時代、ペラスゴイ人、アイオリス人、クレタ人がトラキア地方へ入植したが、多くの先住民族と共住したと推定される。

 

3 マケドニアの歴史

3.1 テッサリアからの移住

BC1350年、アイオロスの2人の息子たち、マグネスとマケドンは、テッサリア地方のアルネの町からオリュンポス山近くへ移住した。マケドンは、マケドニア地方に住んだ最初のギリシア人であり、彼は、マケドニアの名付け親になった。[77]

 

3.2 テッサリアへの移住

BC1330年、マグネスの子グラピュロスは、オリュンポス山近くからテッサリア地方のボイベイス湖の近くへ移住して、グラピュライの町を創建した。[78]

 

3.3 メトネの創建

BC1320年、マグネスの子メトネは、オリュンポス山近くからテルマイオス湾北西岸へ移住して、メトネの町を創建した。[79]

但し、当時は集落程度で、メトネの町と呼ばれるようになったのは、エレトリア人が共住するようになってからと思われる。エレトリア人は、トロイ戦争時代にコルキュラ島に入植していたが、BC734年、コリントス人によって島から追放された。エレトリア人は、故郷のエウボイア島のエレトリアの町へ行ったが、上陸を阻止された。トラキア方面へ向かう途中、メトネの町に住み着いた。[80]

 

3.4 エマチアの創建

BC1315年、マケドンの子エマチオンは、海の近くにエマチアの町を創建した。[81]

 

3.5 ピエリアの創建

BC1310年、マグネスの子ピエロスは、オリュンポス山の北側にピエリア (後のリュンゴス)の町を創建した。AD12世紀の修辞学者ツェツェスは、エマチオン (または、ヘマチオン)の子アエロプスが最初にピエリアを統治したと伝えている。[82]

 

3.6 エウロプスの創建

BC1305年、アイオロスの子マケドンとケクロプスの娘オレイテュイアの子エウロプスは、オリュンポス山近くからルディアス川とアクシオス川の間の土地(後のペッラの少し北)へ移住し、エウロプスの町を創建した。[83]

 

3.7 ベリスの創建

BC1305年、マケドンの子ベレスは、オリュンポス山近くから移住して、マケドニア地方にベリスの町を創建した。[84]

 

3.8 パイオニアからの嫁入り

BC1302年、マグネスの子ピエロスは、パイオニア地方からパイオンの娘エウイッペを妻に迎えた。[85]

ピエロスは、エウイッペの祖父エンデュミオンの従兄弟であった。

 

3.9 ビサルティアへの移住

BC1301年、メトンの子カロプスは、メトネの町からトラキア地方のビサルティアへ移住した。[86]

 

3.10 ミエザとベロイアの創建

BC1295年、マケドニア地方にミエザの町とベロイアの町が創建された。ミエザとベロイアは、アイオロスの子マケドンの子ベレスの娘たちの名前であった。[87]

 

3.11 ガラドライの創建

BC1285年、エマチオンの子ガラドロスは、エマチアの町からピエリア地方へ移住して、ガラドライの町を創建した。[87-1]

 

3.12 アケッサメナイの創建

BC1280年、ピエリアの町に住むアケッサメノスは、マケドニア地方にアケッサメナイの町を創建した。[88]

アケッサメノスは、マグネスの子ピエロスの息子と思われる。

 

3.13 ピエリアからの嫁入り

BC1261年、ピエリアに住むアケッサメノスの娘ペリボイアは、ミュグドニアに住むミュグドンの子アクシオスに嫁いだ。[89]

 

3.14 ボイオティアへの移住

BC1250年、ピエロスの子リノスの子ピエロスは、ピエリアの町からボイオティア地方のテスピアイの町へ移住した。[90]

ピエロスは、ヘリコン山にムーサ諸女神の神域を造営して、ムーサ女神を9柱と定めた。[91]

ピエロスは、有名な詩人オルペウスの祖父であった。[92]

ストラボンは、ピエロスをトラキア人だと記しているが、ピエロスは、ヘレンの子アイオロスの血を引くアイオリス人であった。[93]

 

3.15 クレタからの移住

3.15.1 ボットンの入植地

BC1235年、ボットンを指導者とするクレタ島の移民団がマケドニア地方に定住した。[94]

ボットンは、アテナイの町からクレタ島のミノスのもとへ亡命したダイダロスの息子であったと推定される。[95]

ボットンは、兄弟イアピクスと共に、移住先を探してクレタ島を出航した。

イアピクスは、イタリア半島東南部へ入植した。[96]

ボットンは、一部の人々を率いて、マケドニア地方へ移住した。[97]

ボットンの入植地は、テルマイオス湾へ注ぐアクシオス川の西方、ハリアクモン川の北方の土地であった。[98]

 

3.15.2 先住者

後のペッラの町の少し北に、アイオロスの子マケドンとケクロプスの娘オレイテュイアとの息子エウロプスが創建したエウロプスの町があった。[99]

ボットンの移民団には、アイゲウスの時代にアテナイの町からクレタ島へ送られたアテナイ人が含まれていた。[100]

また、エウロプスの町の住人には、オレイテュイアの嫁入りに伴って移住したアテナイ人が含まれていた。

ボットンは、エウロプスの母オレイテュイアの父ケクロプスの子パンディオンの娘メロペ (または、アルキッペ)の子ダイダロスの息子であった。[101]

つまり、エウロプスは、ボットンの祖母の従兄であった。

ボットンの入植地は、ボッティアイア地方、そこの住人はボッティアイア人と呼ばれるようになった。[102]

 

3.15.3 カルキディケへの移住

BC6世紀頃、ボッティアイア人は、勢力を増したアルゲアダイに追われて、カルキディア人の地に隣接した土地へ移住した。[103]

ボッティアイア人は、ビテュニア地方のアスカニア湖東岸に入植して、アンコレの町を創建した。[104]

 

3.16 ボイオティアからの移住

BC1235年、ピエロスの子オイアグロスは、ボイオティア地方のテスピアイの町からオリュンポス山近くのピンプレイアの町へ移住した。[105]

 

3.17 トラキアからの嫁入り

BC1230年、ピエロスの子オイアグロスは、カルキディケ半島北部に住んでいたタミュリスの娘メニッペを妻に迎えた。[106]

オイアグロスとメニッペは、アイオロスの子マグネスを共通の先祖とする同族であった。

 

3.18 トラキアからの移住

BC1190年、マロンの子マケドンは、トラキア地方のマロネイアの町からマケドニア地方へ移住した。[107]

マロンは、ミノスの娘アリアドネの子オイノピオンの子エウアンテスの息子であった。

マケドンと共にマケドニア地方へ移住した人々は、クレタ人であり、彼らの移住先は、ボッティアイア地方であったと思われる。

 

3.19 トロイ戦争時代

BC1188年、ラオメドンの子プリアモスが死に、アンテノールの息子たちは、トロイへ遠征して、イリオンの町を占領した。

ミュグドンの後裔も、トロイへ遠征した。[108]

アンテノールとテアノの息子イピダマスは、マケドニア地方に住んでいた。[109]

アンテノールの息子たちは、BC1170年に、ヘクトールの息子たちによって、イリオンの町を奪還されるまで、トロアス地方を支配した。

 

3.20 カラノスの入植

BC750年、ペイドンの子カラノスは、アルゴスの町から移民団を率いて、ベルミオス山近くのエデッサ (後のアイゲアイ)と呼ばれていた土地へ移住した。[110]

カラノスがベルミオス山近くを移住先に選んだのは、初めて度量衡を定めたペイドンの銀貨鋳造の影響があったと思われる。[111]

ベルミオス山には、ミダスの富を生んだ鉱床があった。[112]

また、少し離れたパイオニア地方では、土地を耕していても金塊が見つるほどであった。[113]

カラノスは、近隣の土地に先住していたキッセウスと戦って勝利した。[114]

このキッセウスは、イリアスに登場するイピダマスの母方の祖父キッセウスの後裔と推定される。[115]

先祖のキッセウスは、マケドニア地方に住んでいた。[116]

 

3.21 プリュギアへの移住

BC670年、カラノスの子コイノスの子ティリムモスの子ベルディカスは、近隣の土地に先住していた人々を追い出した。[117]

ベルミオス山近くに住んでいたゴルディアスの子ミダスは、ブリゲス族を率いて、プリュギア地方へ移住した。[118]

ピエリア人は、パンガイオン山近くのパグレスの町へ移住した。[119]

 

3.22 ミュケナイからの移住

BC468年、アルゴス人に攻められたミュケナイ人は、ミュケナイの町からマケドニア地方のアミュンタスの子アレクサンドロスのもとへ逃れた。[120]

アレクサンドロスは、ヘラクレイダイを率いてアルゴスの町の支配者になったテメノスの後裔であった。[121]

アルゴスの町から攻められたミュケナイ人がテメノスの後裔アレクサンドロスを頼って亡命するのは、矛盾しているようである。

しかし、当時、テメノスの後裔は、アルゴスの町の支配者ではなくなっていた。[122]

 

3.23 マケドニア人の系譜

3.23.1 初期の住人

マケドニア地方に最初に住み、地方の名前の由来ともなったのは、アイオロスの子マケドンであり、住人は、アイオリス人であった。[123]

マケドンと彼の兄弟マグネスの後裔は、マケドニア地方の各地へ居住地を広げて、ピエリア人やエマチア人と呼ばれるようになった。[124]

その後、ボットン率いるクレタ人が移住して来て、彼らはボッティアイア人と呼ばれるようになった。[125]

また、パイオニア地方から移住して来て、ベルミオス山近くに住み着いたミダスの先祖もいた。

ミダスは、ミュグドンの後裔であり、住人は、ペラスゴイ人であった。

 

3.23.2 カラノス移住後の住人

ペイドンの子カラノスがアルゴスの町から移住して来た後で、それまで、マケドニア地方に住んでいた住人は、他へ追いやられた。[126]

しかし、その後のマケドニア地方の住人がドーリス人になったわけではなかった。

カラノスの時代のアルゴスの町の住人には、次の人々が含まれていたと思われる。

1) ヘラクレスが率いていたアカイア人、アルカディア人、リュディア人

2) ヘラクレスの子供たちと共にアッティカ地方からドーリス地方へ移住したイオニア人

3) ヘラクレイダイと共にドーリス地方からアルゴスの町へ移住したドーリス人、カドメイア人

その後、アルゴス人に追われたミュケナイ人がマケドニア人に合流した。[127]

 

3.23.3 領土拡張で取り込まれた住人

カラノスの後裔の領土拡張で、居住地を追われずに、マケドニア地方に取り込まれた住人も多かった。その中には、パラウアイアもいた。[128]

パラウアイアは、テッサリア地方のドティオンに住んでいたが、ラピタイに追われて、ピンドス山地のアイティキアへ移住した。[129]

パラウアイアは、アイニアネス人の支族ケンタウロスであった。[130]

アイニアネス人は、隣保同盟に名前を連ねるギリシア人であった。[131]

 

4 パイオニアの歴史

4.1 エリスからの移住

BC1320年、エンデュミオンの子パイオンは、エリスの町からパイオニア地方へ移住した。[132]

同じ頃、エンデュミオンの父アイトリオスの兄弟マグネスの子メトネは、マケドニア地方にメトネの町を創建していた。[133]

恐らく、メトネが、従兄弟エンデュミオンの子パイオンを呼び寄せたと思われる。

その証拠に、パイオンの娘エウイッペは、メトネの兄弟ピエロスと結婚した。[134]

パイオンの入植地は、ストリュモン川の上流ではなく、もっと海に近い土地であったと思われる。

 

4.2 ピエリアへの嫁入り

BC1302年、パイオンの娘エウイッペは、パイオニア地方からピエリアの町に住むマケドンの子ピエロスへ嫁いだ。[135]

ピエロスは、エウイッペの祖父エンデュミオンの従兄弟であった。

 

4.3 ビサルティアへの嫁入り

BC1278年、ピエロスの娘カリオペは、ピエリアの町からビサルティアに住むカロプスの子イスメニオスのもとへ嫁いだ。[136]

カロプスは、カリオペの父ピエロスの兄弟メトンの息子であった。

 

4.4 アナトリアからの移住

4.4.1 アンテノール

BC1244年、トロアス地方で、トロスの子イロスの後裔と、トロスの子アッサラコスの後裔の戦いがあった。戦いに敗れたアッサラコスの子カピュスの子アイシュエテスの子アンテノールは、パイオニア地方へ移住した。[137]

 

4.4.2 ミュグドン

アンテノールに味方したミュグドンも、ミュシア・オリュンペネ地方からパイオニア地方へ移住した。[138]

ミュグドンの子キッセウスの娘テアノは、アンテノールの妻であった。[139]

ミュグドンと一緒にイダ山のダクテュロスも、ヨーロッパに渡り、ミュグドンの後裔ミダスの富を掘り出す技術者となった。[140]

 

4.5 トラキアへの移住

ストリュモン川流域に住んでいたパイオニア人は、プロポンティスの北岸へ遠征してペリントスの町を攻略した。[141]

ペリントスの町は、サモス島を追い出されて、サモトラケ島へ逃れたサモス人の一部が、BC1060年に創建した町であった。[142]

このパイオニア人は、ミュシア・オリュンペネからパイオニア地方へ移住したミュグドンの後裔と推定される。ペリントスの町は、昔、ミュグドニアと呼ばれていた。[143]

このパイオニア人の遠征は、ペリントスの創建からダレイオス1世の時代までの間の出来事であった。[144]

 

4.6 アジアへの移住

BC490年、パイオニア人の一部(シリオパイオネス人、パイオプライ人)は、ペルシア大王ダレイオスの将メガバゾスによって、アジアへ移住させられた。[145]

 

4.7 パイオニア人の系譜

パイオニア地方に最初に住み、地方の名前の由来ともなったのは、エンデュミオンの子パイオンであり、住人は、アイオリス人であった。[146]

パイオンの娘エウイッペは、ピエリアの町に住むマグネスの子ピエロスへ嫁ぎ、息子アケッサメノスが生まれた。[147]

アケッサメノスの娘ペリボイアは、ミュグドンの子アクシオスに嫁いだ。[148]

ミュグドンと共に、アナトリア半島からパイオニア地方へ移住して来たアンテノールは、ミュグドンの子キッセウスの娘テアノと結婚した。[149]

ミュグドンは、ミュシア・オリュンペネ地方に居住していたドリオネスであり、ドリオネスの先祖は、アルゴスの町に起源を持つペラスゴイ人であった。[150]

また、アンテノールは、カピュスの子アイシュエテスの息子であり、彼の先祖ダルダノスは、アルカディア地方に起源を持つペラスゴイ人であった。アンテノールと共に、クレタ島に起源を持つトロイ人もパイオニア地方へ移住した。

トロイ戦争時代、アンテノールやミュグドンの後裔は、トロアス地方へ帰還した。

その後、パイオン、ミュグドン、アンテノール一族の姻戚関係によって生じた指導者がパイオニア人を支配した。アイオリス人、ペラスゴイ人、トロイ人が、先住民族と混血して、パイオニア人という独自の種族が誕生した。

 

おわり

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