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古代ギリシア年表(BC1299-1250)

Create:2025.11.3, Update:2025.11.3

BC1299年、Pelopsは、Olympiaで競技会を開催した。[Paus.5.8.2]
BC1299年、Saturnusの子Picusは、TestrunaからRomeの南へ移住して、Laurentumを創建した。[Euseb.Chron.283]
BC1299年、Iasiusの子Amphionの娘Phylomacheは、OrchomenusからIolcusに住むCretheusの子Peliasのもとへ嫁いだ。[Apo.1.9.10]
BC1298年、Amythaonの子Biasは、Megapenthesの娘Lysippeと結婚した。[Apo.2.2.2]
** Megapenthesの子Argeusは、Mycenaeを恐れて、当時、Eleiaの盟主であったAmythaonの息子に妹を嫁がせたと思われる。
BC1297年、MycenaeのPerseusの子Sthenelusは、Amphidamasの娘Antibiaと結婚した。[FGrH.333.68]
BC1297年、ElisのEurycydaの子Eleiusは、ArcadiaのAmphidamasの娘Nausidameと結婚した。[Hyginus.14]
BC1297年、Minosは、Tauric ChersoneseからPasiphaeを妻に迎えた。[Apo.1.9.1, Apo.3.1.2, Diod.4.77.1]
BC1296年、Trosの子Ilusが死に、Laomedon<Alaksandu>が跡を継いだ。[wiki: Alaksanduから推定]
** Laomedonは、即位時にMursili II(BC1321-1295)と条約を締結したと思われる。[wiki: Alaksandu]
BC1296年、Persesの娘Hecate (or Idyia)は、Tauric ChersoneseからColchis地方に住んでいたPerseisの子Aeetesのもとへ嫁いだ。[Diod.4.45.3, Hyginus.25]
** Aeetesは、Hecateの父の兄弟であった。
BC1295年、Damasistratusは、Plataeaを創建した。[Apo.3.5.8とPaus.10.5.4から推定]
** Damasistratusは、Tanagraの創建者Poemanderの父Chaeresilausの弟と思われる。
BC1295年、Pandionは、Metionの息子たちによってAthensを追われて、Megaraへ亡命した。[Apo.3.15.5, Paus.1.5.3, Paus.1.39.4]
BC1295年、Scyriusは、Cychreusの跡を継ぐため、Scyros島からSalamis島へ移住した。[Plut.These.10から推定]
** ScyriusとCychreusは、Athens王Cecropsの息子と思われる。Scyriusの妻は、Cychreusの娘Charicloであった。[Plut.These.10]
BC1295年、Macedonia にMiezaとBeroeaが創建された。[StephByz.M452.1]
** MiezaとBeroeaは、Aeolusの子Macedonの子Beresの娘たちの名前であった。[StephByz.M452.1]
BC1295年、Laomedonは、Phaenodamas(or Hippotes)によってIliumから追放された。[wiki: Trattato di Alaksanduから推定]
BC1295年、Laomedon<Alaksandu>は、Phaenodamasを殺して、Troy王に即位した。[Antiq.1.52.2, Lycoph.Cassa.1115]
** Phaenodamasの娘たちは、Sicily島へ移住した。[Antiq.1.52.2, Lycoph.Cassa.1115]
** Alaksanduは、正当な継承者ではない。Alaksanduは、Kukkunniと血縁関係がないかもしれない。[wiki: Alaksandu]
正当な継承者ではないのは、Alaksanduか、Kukkunniか。
** Alaksanduは必ずしもKukkunniの血縁者ではない[wiki: Alaksandu]
** KukkunniがAlaksanduの祖先であり、おそらく女系であると述べています。[wiki: Kukunni(ウクライナ語、ロシア語)]
** 誰かが彼から王位を奪ったため、Alaksanduが王位に留まるためにはHittiteの介入が必要だった[wiki: Kukunni(伊)]
** Alaksanduが王位に就くか王位に留まるためには、Hittiteの介入が必要だった[wiki: Alaksandu(伊)]
** LaomedonがIlusの息子だとする伝承は作り話かもしれない。[Diod.4.75.4, Home.20.220]
** Alaksanduは、Mursili II(BC1321-1295)とMuwatalli II(BC1295-72)と協定を締結している。[wiki: Alaksandu]
** AlaksanduとMuwatalli IIの協定書の中で、Sehaの王は、Manapa-Kuruntaであると記している。[wiki: Manapa-Tarhunta]
BC1295年、Minosは、TroadからCreteへ移住した。[Plato.Gor.524aとPlut.Mor.121cとSuda.mu.1092から推定]
** MinosとRhadamanthusは、Creteではなく、Asiaで生まれた。[Plato.Gor.524a, Plut.Mor.121c, Suda.mu.1092]
** Rhadamanthusは、Chios島に定住したと思われる。
** Minosは、Trosや彼の息子たち(Ilus, Assaracus)と交流があった。[Suda.mu.1092]
** Minosは、Assaracusに味方してLaomedonと戦ったが、戦いに敗れて、Troadから去ったと思われる。[Suda.mu.1092から推定]
BC1295年、Perseusの子ElectryonはEthiopiaから追われて、Peloponnesusへ帰還し、Mideaを任せられた。[Paus.2.25.9から推定]
** このとき、Electryonの子Celaeneus<Piyama-Radu>と彼の兄弟の数人は、Asia Minorに残ったと思われる。
BC1295年、Electryonの子Celaeneus<Piyama-Radu>が反抗を開始した。[wiki: Piyama-Radu]
** Piyama-Raduの反抗は、Muwatalli II(BC1295-72)からTudhaliya IV(BC1237-09)まで続いた。[wiki: Piyama-Radu]
BC1295年、Piyama-RaduがSehaの支配下のLazpa(Lesbos島)を攻撃した。[wiki: Manapa-Tarhunta letter]
** Lesbos島は、BC1560年にTriopasの子XanthusがArgosから無人のLesbosに植民した。[Diod.5.81.2]
** BC1389年にAeolusの子Macareusが、IoniansやPelasgiansを含む移民団を率いて、Lesbos島へ入植した。[Diod.5.81.2 - 4]
** Trojan Warの時代には、Priamの娘Laodiceの夫HelicaonがLesbos島に住んでいた。[Apo.3.12.5, Home.Il.3.121, Paus.10.26.7]
BC1295年、Saturnusの子Picusは、Saturniaから南東へ移住して、海岸近くにLaurentumを創建した。[Euseb.283]

BC1294年、Ariaの子Miletus<Apta>は、CreteからAsia Minorへ移住して、Miletusを創建した。[Apo.3.1.2, Paus.7.2.5, Strabo.12.8.5]
** Minosの兄弟Sarpedonも、CreteのMilatosからMiletusの建設に参加した。[Strabo.12.8.5]
** このとき、島に逃れていたCariansやLelegesは、Cretans(Ariaの子Miletus)の援助で、本土に帰還した。[Strabo.12.8.5]
** 一族は先住民Solymiから、Termilaeと呼ばれた。[Herod.1.173]
BC1294年、Amythaonは、Olympia競技会を開催した。[Paus.5.8.2]
BC1294年、Oedipusは、LaiusとJocastaとの間の息子として生まれた。[Diod.4.63.5, Paus.9.5.10]
BC1293年、Trosの子Ilusは、Ethiopiaを攻撃して、EthiopiaをTroyの支配下に置いた。[Laomedonの後裔がEthiopiaを支配していたことから推定]
** Ethiopiaは、Ilusの妻Eurydiceの父Adrastusに与えられ、その地方は、Adrasteiaと呼ばれるようになった。[Strabo.13.1.13, StephByz.A28.4]
BC1293年、Aeolusの子Cercaphusは、Peneius川付近からItonusへ移住した。Cercaphusは、PhthiaのMyrmidonの娘Eupolemeiaを妻に迎えた。[Apollo.1.51, Strabo.9.5.18]
BC1293年、Amythaonの子Biasは、Neleusの娘Peroと結婚した。[Apo.1.9.13, Apollo.1.118]
BC1293年、Perseusの娘Autochtheは、Pelopsと結婚した。[TzeAdLyco.494から推定]
** AtreusとThyestesの母は、Hippodamiaではなく、Autochtheであったと思われる。
BC1292年、Amythaonが死去した。
BC1292年、MelampusとBiasは、Eleiaの南へ移住して、Lepreatic Pylusを創建した。[Home.Od.15.220とStrabo.8.6.10から推定]
** MelampusとBiasは、Argosへの移住する前、Pisatis、Triphyliaに住んでいた。[Strabo.8.6.10]
** MelampusとBiasは、PylosからArgosへ移住した。[Herod.9.34]
BC1291年、Aesonは、PhylaceからPhylacusの娘Alcimedeを妻に迎えた。[Apollo.1.45, Hyginus.14]
BC1291年、Scyriusは、SicyonからSicyonの娘Salamisを妻に迎えた。[Apo.3.12.7, Diod.4.72.4, Paus.1.35.2]
** ScyriusとSalamisには、息子Cychreusが生まれた。
BC1290年、Melampusは、Argeusの子AnaxagorasからArgosの1/3を割譲された。[Apo.2.2.2, Diod.4.68.4, Paus.2.18.4, Herod.9.34]
BC1290年、Biasは、AnaxagorasからArgosの1/3を割譲された。[Paus.2.18.4]
** Anaxagorasは、MelampusとBiasをArgosに住まわせて、勢力を増すMycenaeに対抗した。[Diod.4.68.5]
** MelampusとBiasは、Anaxagorasの叔母たち、IphianeiraとLysippeの夫たちであった。[Apo.2.2.2, FGrH.333.114, Diod.4.68.5]
** Melampusが治した女人の狂気とは、酒乱[Ovid.Meta.15.307]、または、便秘[Plin.25.47]と思われる。
BC1290年、MesseniaのOechaliaのMelaneusに、息子Eurytusが生まれた。[Paus.4.3.10, Hesiod.CW.F79]
BC1290年、Perseusの子Heliusは、Laconia湾岸にHelosを創建した。[Paus.3.20.6, Strabo.8.5.2]

BC1290年、Manapa-Tarhunta letter (CTH 191)
** Manapa-Tarhunta (Seha River Landの王)からHittite王Muwatalli II(BC1295-72)に宛てた書簡[wiki: Manapa-Tarhunta letter]
** Piyama-RaduがTroyを攻撃し、Manapa-TarhuntaがTroyに加勢するがPiyama-Raduを追い出すことに失敗した。[CTH 191.3]
** Piyama-RaduがLazpa(Lesbos島)を攻撃した。島にはManapa-Tarhuntaの部下がいたが、Piyama-Raduに合流した。[CTH 191.4]
** Lazpaの職人集団がMiletusのAtpaのもとへ亡命した。[CTH 191.4]
** Hittite軍がSehaに到着して、Wilusaを攻撃するために進んだ。[CTH 191.3]
** Hittite軍がWilusaに向かったのは、Troy近くに居座っているPiyama-Raduを攻めるためと思われる。[wiki: Piyama-Radu]
** MiraのKupanta-Kuruntaが職人集団の帰還について、Atpaと交渉した。[CTH 191.4]

BC1289年、Sarpedonは、MiletusからLycia<Lukka lands>へ移住した。[Herod.1.173]
** BC1277年、Sarpedonは、Lycusに土地を分けているので、それ以前にMiletusからLyciaへ移住していた筈である。
BC1288年、Actorの子Aeacusは、ThessalyにDiaを創建した。[StephByz.D229.1]
BC1287年、Actorの子Aeacus、DiaからAegina島へ移住した。[StephByz.D229.1から推定]
BC1287年、第8代Athens王Pandionは、亡命先のMegaraで病死した。[Paus.1.5.3-4]
BC1287年、Pandionの養子Aegeusは、Megaraにおいて、第9代Athens王に即位した。[Paus.1.5.4]
BC1287年、Alcaeusの子Amphitryonは、PheneusのGuneusの娘Laonomeと結婚した。[Apo.2.4.5とPindaros.170とPaus.8.14.9から推定]
BC1287年、Aeacusは、Megaraの継承をめぐるPandionの子NisusとPandionの娘婿Scironとの争いを裁いた。[Paus.1.39.6]
** Aeacusの2人の妻の父Scyrius(or Sciron or Chiron or Scirus)は、Pandionの養子Aegeusの実父であった。[Apo.3.12.6, Apo.3.15.5, FGrH.333.60, Hyginus.14, Paus.2.29.9, Plut.These.10, Plut.These.35]
** つまり、AeacusとAegeusは義兄弟であり、NisusやScironもAegeusを通して義兄弟であった。恐らく、当時Athens王であったAegeusが、義兄弟同士の争いを、義兄弟の中でも敬虔な人物として有名であったAeacusに仲裁させたものと思われる。[Apo.3.12.6]
BC1287年、Pelopsの子Chrysippusが死んだ。[Paus.6.20.7]
BC1287年、Pelopsの2人の息子たち、PittheusとTroezenは、後のTroezenの土地へ移住した。[Paus.2.30.9]
BC1287年、Pelopsの子Alcathousは、Megaraへ移住して、Pylasの子Scironの娘Pyrgoと結婚した。[Paus.1.43.4]
BC1287年、Pelopsの子Letreusは、Pisaから海岸近くへ移住して、Letriniを創建した。[Paus.6.22.8]
BC1287年、Thyestesは、Atreusと共に、Triphylia地方のMacistusへ移住した。[Euri.Scho.Or.5.1]
** Thyestes、Atreusは、まだ幼少なので、彼らの母と共へ移住したと思われる。
BC1287年、Hippodamiaは、PelopsによってPisaから追い出されてMideaへ亡命した。[Paus.6.20.7]
** Hippodamiaの娘Eurydice (or Lysidice)の夫ElectryonがMideia王であった。[Diod.4.9.1, Paus.2.25.9]
** 後にElisは神託に従い、Hippodamiaの遺骨をOlympiaまで運んだ。[Paus.6.20.7]
** Hippodamiaの遺骨は、Mideaにあったので、彼女はPelopsより先に死んだと思われる。
** HippodamiaからChrysippusを殺すように諭されたAtreusとThyestesが殺し、HippodamiaはPelopsに責められて自害した。[Hyginus.85, 243]
** HippodamiaからChrysippusを殺すように諭されたAtreusとThyestesが拒否して、Hippodamia自らが殺した。[Plut.Mor.313e]
** Hippodamiaと息子たちがChrysippusを殺した。[Euri.Scho.Or.5.1, FGrH.Nr4.F157]
** PelopsがChrysippusを殺した。[Dic:Atreus(Schol.Thucy.1.9)]
** Hippodamiaと彼女から生まれた息子たちは、Pelopsによって、Pisaから追い出されたと思われる。
** その原因は、PelopsとAtreusの母との結婚と思われる。

BC1286年、Iphiclesは、Alcaeusの子Amphitryonの息子として生まれた。[Apo.2.4.11, Hyginus.173, Paus.8.14.9]
BC1286年、Thestiusは、MesseniaのAndaniaからPerieresの娘Deidamia (or Leucippe)を妻に迎えた。[SchoOnApoRhod.1.201]
BC1285年、Lysianassaは、PolybusとPeriboeaとの間の娘として生まれた。[Paus.2.6.6]
BC1285年、Phorbasの子Actorは、OlenusからElis西部の海の近くへ移住して、母の名前に因んだHyrminaを創建した。[Paus.5.1.11]
BC1285年、Aegeusは、MegaraからAthensに帰還してMetionの息子たちを追放した。[Paus.1.5.4]
BC1285年、叙事詩人Linusは、Phoenician languageとPhoenician lettersを学んで、Pelasgic lettersを考案した。[Tacit.Ann.11.14から推定]
BC1285年、Troezenが死ぬと、Pittheusは、近くのHypereaやAntheaを併合して、Troezenを創建した。[Paus.2.30.9]
BC1285年、Actorの子Daedalionは、PhthiaからParnassus山の近くへ移住した。[Paus.4.33.3とPaus.8.4.6から推定]
BC1285年、Emathionの子Galadrusは、EmathiaからPieria地方へ移住して、Galadraeを創建した。[TzeAdLyco.1342, Steph.G196.5]

BC1282年、Sicyonの娘Chthonophyleの子Polybusは、Phliusから東南東へ移住して、Teneaを創建した。[Strabo.8.6.22から推定]
BC1282年、Polybusは、Periboeaと結婚した。[Apo.3.5.7, Hyginus.66]
** OedipusがPolybusの養子になっていることから、Periboeaは、Labdacusの子Laiusの娘で、Oedipusの姉と推定される。[Apo.3.5.7]
** TeneaとThebesは離れているが、Polybusの祖父Sicyonの祖父EpopeusとThebesの縁で婚姻が成立したと思われる。
** Epopeusの子Ismenusは、Amphionと共に、Laiusの後見人Lycusと戦った。LaiusにとってEpopeusの一族は、恩人であった。
BC1281年、Pleuronの子Agenorは、Calydonの娘Epicasteと結婚した。[Apo.1.7.7]
BC1280年、Pyttiusは、ThessalyからEleiaへ移住してBuprasiumを創建した。[Paus.5.1.11, Strabo.8.3.8]
** Pyttiusの子Amarynceusの子Dioresの子Automedonは、Achillesのcharioteerであった。[Dictys.2.34]
** AutomedonはMyrmidonsの一員であり、PyttiusはMyrmidonの子Actorの息子と思われる。[Dictys.2.34]
** Buprasiumは、Alesiumの丘の近くにあった。[Home.11.737]
** ElisからOlympiaまで通じる街道沿いのSalmoneの近くにあった。[Strabo.8.3.10]
** Pyttiusの出身地Phthiaは、Salmoneの創建者Salmoneusの出身地の近くであった。PyttiusはSalmoneusを頼って、Eleiaへ移住した。
BC1280年、Daedalionは、Parnassus山の近くへ移住した。[Daedalionの子AutolycusがParnassusに住んでいたことから推定(Paus.8.4.6)]
** Daedalionは、TrachisのCeyxの兄弟であった。[Ovid.Meta.11.289]
** Trachisは、Myrmidonsの町であり、CeyxはMyrmidonの子Actorの息子と推定される。[Home.Il.2.681]
** つまり、Daedalionの父は、Myrmidonの子Actorであったと思われる。
BC1280年、Perieresの子Aphareusは、Andaniaを弟Leucippusに任せて、自分はMessenia西海岸へ移住して、Areneを創建した。[Paus.4.2.5]
** Idasは父Aphareusの跡を継いでAreneに住み、LynceusはPapaeに住んでいたと思われる。[FGrH.Nr790.F50]
BC1280年、PellenとGonussaの息子は、Pelleneの近くに、Gonussaを創建した。[Newton.Chro.62から推定]
BC1280年、Manapa-Tarhuntaの跡をMasturiが継いだ。[wiki: Seha River Land]
** Masturiは、Manapa-Tarhuntaの息子と思われる。[wiki: Seha River Land]
** Muwatalli II(BC1295-72)がMasturiの継承を支持した。[wiki: Seha River Land]
BC1280年、Chironの子Carystusは、Salamis島からEuboea南東部へ移住してCarystusを創建した。[StephByz.K362.13, TzeAdLyco.580]
BC1280年、Perseusの子Alcaeus死去。Alcaeusの子AmphitryonがTirynsを継承した。
** Alcaeusの兄弟Electryonが参加したBC1277年のTeleboansの地への遠征に、Alcaeusが参加していない。
BC1280年、Abasの子Canethusは、ChalcisからEuboea北部へ移住してCerinthusを創建した。[Apollo.1.77から推定]
BC1280年、Antionの子Phlegyasは、Larisaの近くにGyrtonを創建した。[Strabo.9.5.21から推定]
** Phlegyasの跡を継いだIxion(別名Gyrton)に因んで、Phlegyasが創建した町は、Gyrtonと呼ばれた。[Dic: Gyrton, StephByz.G215.20]

BC1279年、Oedipusは、CorinthのPolybusの養子になった。[Apo.3.5.7とStrabo.8.6.22から推定]
** Oedipusには先に生まれた兄弟が何人かいたために、養子に出されたと思われる。[Paus.9.26.3]
BC1279年、NeleusとPeliasは共同で、Olympiaで競技会を開催した。[Paus.5.8.2]
BC1279年、Deionの子Cephalusは、妻Procrisを殺してThebesに亡命した。[Apo.2.4.7, Strabo.10.2.20]
** Cephalusは、the Areopagusで裁かれて追放刑に処せられた。[FGrH.Nr4.F169a]
** Cephalusは、Procrisを偶発的出来事で殺した。[FGrH.Nr333.F34]
** 過失殺人はAreopagusの管轄外で、CephalusのProcris殺害は創作である。Cephalusは彼の義兄弟Aegeusに追放された。[推定]
BC1279年、Deion<Deioneus>の子CephalusはThebesから依頼されて、HaliartusのAlopekosと戦って勝利した。[Plut.Lysand.29, Tzetzes.1.560]
** Cephalusは、AtticaのThoricusに住んでいた。[Apo.2.4.7, FGrH.Nr333.F34]
** Hyginusは、Deioneの子CephalusをAtheniansの王の一人に名前を挙げている。[Hyginus.48]
** 他の史料[Apo.3.15.5, Paus.1.39.4, Strabo.9.1.6]では、Pandionの息子と記されているNisusを、HyginusはDeionの息子だと伝えている。[Hyginus.198]
** したがって、Cephalusは、Pandionの息子と思われる。[Hyginus.48, 198から推定]
** Cephalusは、Minosの将CynasをAlopekosと戦わせた。[Tzetzes.1.560]
** Alopekos(or Alopecus)は、Haliartusの創建者Haliartusの孫で、Hippomenes(or Oncestus)の子Megareusの従兄弟と思われる。
** Haliartusは、ThebesとOrchomenusの中間に位置し、両者の係争地であった。
** BC395年には、SpartiのNeochorusが住んでいた。[Plut.Lysand.29, Plut.OraDelp.27]
** The Teumessian fox[Ovid.Meta.7.762, Paus.9.19.1]、あるいは、Teumesian lion[Statius.4.74]とは、Alopekosのことと思われる。
** Alopex(狐)と綽名されたThebesの有力者が、Teumesionの丘を占拠してThebesを攻撃したが、Cephalusが救った。[Palaepha.5]
** Haliartusには、Foxの丘とも呼ばれるAlopecusの丘があった。[Plut.Lysand.29]
** 狙った獲物を逃さない犬Laelapsとは、Minosの将Cynasのことであったと思われる。[Hyginus.189]

BC1278年、Minosの娘Ariadneは、CreteからNaxosのDionysusの神官Oenarusのもとへ嫁いだ。[Plut.These.20]
BC1278年、Amphitryonは、Spartiから招かれて、Thebesへ移住した。[Pind.Py.9.80]
** Amphitryonが叔父Electryonを誤って殺害して、追放されたとするのは作り話と思われる。[Apo.2.4.6]
BC1278年、Pieriaに住むPierusの娘Calliopeは、Bisaltiaに住むCharopsの子Ismeniusのもとへ嫁いだ。[Paus.9.30.4, Tze.1.300]

BC1277年、Neleusは、OrchomenusのAmphionの娘Chlorisを妻に迎えた。[Diod.4.68.6, Hyginus.97, Paus.9.36.8, Home.Od.11.281]
** Chlorisには、多くのMinyansが同行してPylusへ移住した。[Strabo.8.3.19]
** Minyansは、HeraclesによってPylusが破壊された後、Lepreatic Pylusの近くのTriphyliaへ再移住した。[Strabo.8.3.19]
BC1277年、Amphitryonは、Deionの子Cephalusらと共にTeleboansの地へ遠征した。[Apo.2.4.7, Paus.1.37.6, Pind.Ne.10.10, Strabo.10.2.14]
** Perseusの子HeliusのGreece北西部への移住に、兄Electryonと甥Amphitryonが協力し、Cephalusが参加した。[推定]
** Heliusは、Laconia湾岸にHelosを創建していた。[Paus.3.20.6, Strabo.8.5.2]
BC1277年、Perseusの子Heliusは、Echinades諸島に入植した。[Apo.2.4.5, Apo.2.4.7]
BC1277年、Cephalusは、Cephallenia島に入植した。[Paus.1.37.6]
BC1277年、遠征で、Electryonと息子たちが死に、遺児となったAlcmenaとLicymniusをAmphitryonがThebesへ引き取った。[Apo.2.4.8]
BC1277年、Perseusの子Sthenelusは、MideaをAtreusとThyestesに任せた。[Apo.2.4.6]
** AtreusとThyestesがSthenelusの妻の兄弟であったからというよりも、姉妹Autochtheの息子だからと思われる。
** Hippodamiaは、6人の息子を産んだ。[Pind.Ol.1.89]
** Atreus was the firstborn. [Tzetzes.1.420] the eldest, Atreus. [Euri.Scho.Or.5.1]
** Thyestes as the firstborn(長子、最初に生まれた), the second-born, Atreus. [Euri.Scho.Or.12.3]
** つまり、AtreusとThyestesの母は、Hippodamiaではなく、Perseusの娘Autochtheであった。
** AtreusとThyestesがMideaの主となったとき、Hippodamiaは既に死んでいたと思われる。
BC1277年、Amphitryonは、Thebesの神殿にTeleboansから得た鼎を奉納した。[Herod.5.59]
BC1277年、Pandionの子OrneusはAegeusに追われて、Phliusに近いArgolisの辺境へ移住して、Orneaeを創建した。[Paus.2.25.6]
** Pausaniasは、Orneusの父をErechtehusとしている。[Paus.2.25.6]
** Orneusの父が第6代Athens王であるとすれば、Orneusの子Peteusの子Menestheusは、(Erechtehusの子)Cecropsの子Pandionの子Aegeusと同時代である。
** しかし、MenestheusはTrojan War時代の人物であるが、Aegeusは、それ以前の人物である。
** Trojan Warは、Aegeusの孫の時代であり、ここでのErechtehusは、第8代Athens王Pandionの別名と思われる。
BC1277年、Pandionの子LycusはAegeusに追われて、MesseniaのAreneのAphareusを訪問して、Andaniaで密儀を行った。[Paus.4.2.6]
BC1277年、Pandionの子Lycusは、MesseniaからAsia Minorへ渡り、LyciaのMilyasのSarpedonのもとへ移住した。[Herod.1.173]
** SarpedonはLycusに土地を分け与えた。この後、Lycusに因んでLyciaと呼ばれた。[Herod.1.173]
BC1277年、Oeneusの子PeteusはAegeusに追われて、AtticaのStiriaからPhocisへ移住して、Stirisを創建した。[Paus.10.35.8]
BC1277年、LebadusはAegeusに追われて、AthensからBoeotiaのMideiaへ移住した。MideiaはLebadeiaと呼ばれるようになった。[Paus.9.39.1]
** BoeotiaのLebadeiaと、ArcadiaのLycaonの子Lebadusを関連付ける伝承がある。[Plut.QuestGr.39]
** Aegeusに追われたPandionの子Oeneusの子Peteusは、Lebadusの兄弟と思われ、OeneusがLebadusの父と思われる。
** Lebadusと共に、Carmanorと彼の息子Eubulus (or Phoenix)もMideiaへ移住したと思われる。
BC1277年、Aegeusに追われた人々が、ArcadiaのAleusの子Cepheusを頼ってOrchomenus近くのCaphyaeへ移住した。[Paus.8.23.3]
** Caphyaeは、Capysの孫Aeneasが創建したという伝承があるが、Romeの庇護を受けるための創作と思われる。[Antiq.1.49.1, Strabo.13.1.53]
BC1277年、Pandionの子TeuthrantusはAegeusから逃れて、Boeotiaへ移住してThespiaeを創建した。[StephByz.Th310.9から推定]
BC1277年、Iasiusの子Amphionの娘Chlorisは、OrchomenusからEleiaのPylusに住むCretheusの子Neleusのもとへ嫁いだ。[FGrH.Nr333.F117, FGrH.12.21, Hyginus.97, Paus.9.36.8]
BC1277年、Cretheusの子Peliasは、Argosに住むBiasの娘Anaxibiaを妻に迎えた。[Apo.1.9.10]

BC1276年、Amphitryonは、従妹Alcmenaと結婚した。[Apo.2.4.8, Herod.2.145]
BC1276年、Polybusは、祖父Sicyonの跡を継いで王になり、CorinthのTeneaからSicyonへ移住した。[Euseb.175, Paus.2.6.6]
** Oedipusは、Sicyonへ移住したPolybusの跡を継いでTeneaの村を治めたと思われる。
BC1276年、CorinthのOedipusは、Hyperphasの娘Iocastaと結婚した。[FGrH.Nr333.F95]
** OedipusのTenea継承を正当化するための結婚で、HyperphasはCorinthの支配層の人物と思われる。
BC1276年、Perseisの子Aeetesの娘Circeは、Colchis地方からSauromataeの地の王のもとへ嫁いだ。[Diod.4.45.4]
BC1276年、Ixionは、Diaと結婚して、息子Peirithous (or Pirithous, Perithous)が生まれた。[Diod.4.69.3, Apo.1.8.2, Strabo.9.5.19]

< Heracles’s Thebes period (24年間) >
BC1275年、Heraclesは、AmphitryonとAlcmenaとの間の息子として、Thebesで生まれた。[Herod.6.53, Paus.5.8.3, Apo.2.4.5]
** HeraclesとIphiclesは、双子であったという伝承があるが、作り話と思われる。[Arist.HA.7.4.15, Pind.Py.9.75, Pliny.7.49, Solinus.1.60]
BC1275年、Eurystheusは、Sthenelusの息子として、Mycenaeで生まれた。[Apo.2.4.5]
** EurystheusとHeraclesは同年生まれであった。[Apo.2.4.5, Home.Il.19.95]
BC1275年、Actorの子Ctimenusは、PhthiaからDolopia地方のXynian湖近くへ移住し、Ctimeneを創建した。[Apollo.1.65から推定]
BC1275年、Actorの子Perieresは、Spercheius川の近くへ移住した。[Home.16.168から推定]
BC1275年、HyettusはArisbasの子Molurusを殺して、ArgosからBoeotiaへ移住して、Hyettusを創建した。[Paus.9.36.6]
** Hyettusは、Hippotesの子Aeolusの子Salmoneusの娘Tyroの子Amythaonの子Biasの息子と思われる。
** Hyettusは、Minyasの子Orchomenusから土地を分け与えられた。[Paus.9.36.6]
** Orchomenusは、Sisyphusの子Almusの娘Chrysogeneiaの子Chrysesの子Minyasの息子であった。
** つまり、Hyettusは、同じHellenesのOrchomenusを頼って移住した。
** Arisbasは、Argos宗家のMegapenthesの息子と思われる。ArisbasをBiasやMelampusの息子とするのは、年代的に無理である。
BC1275年、Peliasの娘Euadneは、IolcusからPhocisに住むCephalusの子Canesに嫁いだ。[Diod.4.53.2]
BC1274年、Kadeshの戦い (HittiteとEgyptの戦い)
** Hittiteの援軍としてLukka lands(Lycia)からも参戦している。[wiki:Lukka lands]
** BC1277年、Sarpedonは、Lycusに土地を分けているので、それ以前にMiletusからLyciaへ移住していた筈である。
** Kadeshの戦いに部隊を派遣したのは、Sarpedon以前にHittiteと関りのあったSolymiであったと思われる。
BC1272年、Myrmidonの子Erysichthonの娘Mestraは、Tricaに住むDeimachusの子Autolycusに嫁いだ。[Ovid.Ibis.413]
BC1270年、Aethusaの子Eleutherの子Iasiusの子Chaeresilausの子Poemanderは、Eleutheraeから移住してTanagra創建した。[Paus.9.20.1]
** Poemanderは、Gephyraeansと共住していた。
** Poemanderの孫Poemanderが、BC1200年にTanagra周辺からGephyraeansを追い出した。[Herod.5.61]
** EpigoniのThebes攻めの少し後でGephyraeansはBoeotiansに追われてAthensへ移住した。[Herod.5.61]
BC1270年、MiraのKupanta-Kuruntaは、Miletus<Atpa>にCelaeneus<Piyama-Radu>の身柄の引き渡しを要求した。[wiki: Miletus]
BC1270年、叙事詩人Linusは、ThebesからEuboea島のChalcisへ移住した。[Diogenes.1.4, Suda.lambda. 568]
BC1270年、Presbonの子Clymenusは、Minyasの子Orchomenusの跡を継いで、Orchomenus王になった。[Paus.9.37.1]
BC1270年、Minyansは、PylusからEleia地方南部のTriphylia地方へ移住した。[Strabo.8.3.19]
BC1268年、PelopsがPisaで死去した。[Paus.5.13.4]
BC1268年、Jasonは、Aesonis (or Aeson)に住むMinyansと共にColchisへ遠征した。[FGrH.Nr8.F3から推定]
** Athamasの子PresbonがColchisからBoeotiaへ帰還した後も両者の間に交流があったと思われる。
** その航海術を持ったMinyansと共に、JasonがColchisへ遠征したと思われる。[Paus.9.34.8]
BC1268年、Jasonは、Aeetesの娘Medeaと結婚した。[Diod.4.46.4, Paus.2.3.11]
BC1268年、Heraclesの異母兄Iphiclesは、Pelopsの子Alcathousの娘Automedusaと結婚した。[Apo.2.4.11]
** IphiclesとAutomedusaの結婚は、Perseusの息子たちとPelopsの娘たちの結婚の後の世代の結婚であった。
** IphiclesはPerseusの曾孫であり、AutomedusaはPelopsの孫娘であった。
BC1268年、Daedalionの子Philammonは、Parnassus山の近くからChalcidice半島北部へ移住した。[Paus.4.33.3とStrabo.7.8.3から推定]
** Philammonの妻Argiopeは、Odrysianであった。[Paus.4.33.3]
BC1268年、Aethalidesは、父からItonusを継ぎ、IolcusのPeliasの娘Pelopiaと結婚した。[Apo.2.7.7, Tzetzes.2.460]

BC1267年、Iolausは、IphiclesとAutomedusaとの間の息子として、Thebesで生まれた。[Apo.2.4.11]
BC1267年、Calydonの子Oeneusは、Thestiusの娘Althaeaと結婚した。[Apo.1.8.1, Diod.4.34, Strabo.10.3.6]
BC1266年、Calydonの娘Protogeniaは、Amphissaに住むAetolusの子Andraemonに嫁いだ。[Apo.1.7.7から推定]
BC1266年、HyrminaのPhorbasの子Actorは、Aetolia地方のPleuronからMolusの娘Molioneを妻に迎えて、双子の息子たち、CteatusとEurytusが生まれた。[Apo.2.7.2, Paus.5.2.1]
BC1265年、Amphitryonは、Heraclesをthe temple of Apollo Ismeniasの1年任期の祭司にして、青銅の鼎を奉納した。[Paus.9.10.4]
BC1265年、Corinth王Marathonの子Corinthusが死んだ。[Paus.2.3.10]
BC1265年、Dexamenusの子Hipponousは、AchaiaのOlenusからAetoliaへ移住して、Olenusを創建した。[Strabo.8.7.4]
** Olenusの近くのPleuronは、Dexamenusの兄弟Actorの妻Molioneの出身地であった。[FGrH.333.79]
BC1265年、Oebalusの子Tyndareusは、SpartaからAetoliaへ移住した。[Apo.3.10.5, Strabo.10.2.24, Paus.3.1.4]
** Hippocoonが、TyndareusとIcariusを追放した。[Apo.3.10.5, Strabo.10.2.24]
** HippocoonがTyndareusを追放した。[Paus.3.1.4]
** Tyndareusの自発的な移住であり、Tyndareusと一緒へ移住したのは、Icariusではなく、Idasであった。
** Tyndareus は、PleuronのThestiusに嫁いだ異父姉妹のDeidamiaを頼って移住したと思われる。
BC1265年、Idasは、PleuronのEvenusの娘Marpessaと結婚した。[Apo.1.7.8, Paus.4.2.7]
** Tyndareusは、Pleuronへ行く前にAphareusのもとへ行き、同年代のIdasも一緒にPleuronに行ったと推定される。[Paus.3.1.4]
** Idasの母Areneは、Tyndareusの姉であった。つまり、IdasはTyndareusの甥であった。
BC1265年、Aethusaの子EleutherはCithaeron山近くへ移住して、Eleutheraeを創建した。[StephByz.E265.10]
BC1265年、Mursili III(Urhi-Teshup)は、叔父Hattusili III(即位前)を攻撃した。[wiki: Mursili III]
** WilusaとAhhiyawaはMursili IIIを支援したが敗れ、Wilusaは独立した。[wiki: Piyama-Radu(galega語)]
BC1265年、Polybusの娘Lysianassaは、SicyonからArgosのTalausに嫁入りした。[Paus.2.6.6]
BC1265年、Minosの息子たち、Eurymedon、Nephalion、Chryses、Philolausは、CreteからParosへ移住した。[Apo.2.5.9, Apo.3.1.2]
BC1265年、Metionの子Eupalamusの子DaedalusはAegeusに追われて、Crete島へ移住した。[Apo.3.15.8, Hyginus.244, Paus.1.21.4, Tzetzes.1.490から推定]
** Daedalusが、Minosの子AndrogeusとPallasの息子たちとを結び付けたと推定される。
BC1265年、Pyrgeusの子Lepreusに率いられたCauconesは、Eleia地方南部へ移住して、Lepreusを創建した。[Paus.5.5.4]

BC1264年、Melampusの子Mantiusは、Calydonへ亡命した。[Apo.1.7.7およびOeclesとHypermnestraと結婚から推定]
** Calydonは、Mantiusの父Melampusの姉妹Aeoliaの嫁ぎ先であった。[Apo.1.7.7]
BC1264年、Mantiusの子Oeclesは、PleuronのThestiusの娘Hypermnestraと結婚した。[Diod.4.68.5, Hyginus.70, Paus.6.17.6]
** Thestiusは、Mantiusの叔母Aeoliaの夫Calydonの兄弟Pleuronの息子であった。つまり、OeclesとHypermnestraは、義理の又従兄妹。
BC1264年、Labdacusの子Laiusは、PhocisのPanopeusの近くのthe Cleft Roadで死んだ。[Apo.3.15.7, Paus.10.5.4]
** Rome時代、PhocisのPanopeusにPhlegyansが住んでいた。[Paus.10.4.1]
** BC1215年にPhlegyansは、Thebesに味方するために、the Minyan countryから来た。[Paus.9.9.2]
** PlataeaのDamasistratusがLaiusの遺体を葬った。[Apo.3.5.8, Paus.10.5.4]
** Damasistratusの妻は、Asopus河神の娘Tanagraの姉妹Plataeaと思われる。[推定]
** Damasistratusの父Iasiusは、Laiusの後見人Amphionの兄弟であった。[Paus.9.20.1からの推定]
** LaiusはPlataeaのDamasistratusと共にPanopeusのTityusと戦い、戦死したと思われる。
BC1264年、Creonは、Thebes王に即位した。[Apo.3.5.8, Hyginus.67]
** Laiusには多くの息子たちがいたと思われる。Creonは王ではなく、Laiusの息子の後見人であったと思われる。
BC1264年、Minosの子Androgeusは、Aegeus治下のAthensで殺害された。[Apo.3.15.8, Diod.4.60.5]
** Aegeusは、Androgeusが自分の政敵Pallasの息子たちと親密であったために殺害した。[Diod.4.60.4-5]
** Minosの子AndrogeusはLaiusの葬送競技会参加のためにThebesに赴く途中であった。[Apo.3.15.7]
** AndrogeusはMarathonの雄牛に殺された。[Apo.3.15.8, Paus.1.27.10]
** Androgeusは、戦争中に殺された。[Hyginus.41]
** この後、MinosとMegaraの戦いは伝えられているが、MinosとAthensの戦いは不明である。
BC1264年、Minosは、Pandionの子Nisus治下のMegaraを攻撃した。[Apo.3.15.8]
BC1264年、AtheniansはMinosと、9年目ごとに、若い男女7人ずつを貢納することで、和議を結んだ。[Plut.These.15]
BC1264年、Minosは、Ceos島を攻撃して、捕虜にしたDexitheaを妻にした。[Apo.3.1.2, Bacchy.1.180]
** Dexitheaは、AristaeusがCeos島に残した子供の子孫と思われる。[Diod.4.82.4] 
BC1264年、Pandionの子Nisusは、Minosとの戦いで戦死した。[Apo.3.15.8, Paus.1.39.5]
BC1264年、Hippomenesの子Megareusは、OnchestusからMegaraに駆け付けて、Minosと戦って戦死した。[Apo.3.15.8, Paus.1.39.5]
BC1264年、Minosの兄弟Rhadamanthusは、Onchestusへ移住した。[Apo.2.4.11, Plut.Lysa.28]
** MinosとThebesは、良好な関係にあった。[Apo.3.15.7, Tzetzes.1.560]
BC1264年、Pelopsの子Alcathousは、Megara王を継承して城壁を造成した。[Paus.1.41.6, Paus.1.42.4]
** Alcathous の最初の妻Pyrgoの墓がMegaraにあったことから、つぎのように推定される。[Paus.1.43.4]
** Pyrgoは、Nisusと王権を争った、Pylasの子Scironの娘であった。Nisusと娘婿Megareusがともに戦死して、Megaraの跡継ぎが絶えた。
** Pyrgoの夫AlcathousがMegaraを継承して、妻Pyrgoが死んだ後で、Nisusの孫娘Euaechmeを妻にした。
** AlcathousはNisusの死後、Minosと和議を結んだ。Alcathousの娘Periboeaも貢物となった。[Paus.1.17.3; 1.42.2]
BC1264年、Aegeusは、TroezenのPittheusのもとへ亡命した。[Apo.3.15.8, Euri.SupW.1から推定]
** Alcathousは、Pallasの息子たちによって追放されていたAegeusに亡命先としてTroezenのPittheusを紹介したと思われる。
BC1264年、Minos、Aegina島にCretansを入植させる[Strabo.8.6.16から推定]
BC1264年、Elatusの子Ampycusは、従兄弟Aeolusの子Melaneusが創建したOechaliaへ移住した。[Hyginus.14]

BC1263年、Theseusは、AegeusとAethraとの間の息子として、Troezenで生まれた。[Apo.3.16.1, Euseb.185, Hyginus.14]
** Aethraの父Pittheusが神託に従って、Aegeusに嫁がせた。[Euri.SupW.1]
** Aegeusの帰還を手助けしたのは、TroezenからAtticaへ移住したTroezenの2人の息子たち、AnaphlystusとSphettusと思われる。[Paus.2.30.9]
** SphettusはTheseusの治世に1つにまとめた12の町の中にあるので、少なくともSphettusの移住は、Theseusの時代以前と思われる。[Strabo.9.1.20]
BC1263年、Amphiarausは、OeclesとHypermnestraとの間の息子として生まれた。[Home.Od.15.220, Hyginus.70, Paus.6.17.6, Diod.4.68.5]
** Amphiarausは、Calydonian Boar HantへはArgosから参加した。[Apo.1.8.2]
** Amphiarausは、AdrastusのThebes攻めの時には、Pylosから参加した。[Hyginus.70]
BC1262年、Aegeusは、Troezenの息子たち、AnaphlystusとSphettusの協力を得て、Athensへ帰還した。[Paus.2.30.9から推定]
BC1262年、Troezenの子Anaphlystusは、AtticaにAnaphlystusを創建した。[Paus.2.30.9]
BC1262年、Troezenの子Sphettusは、AtticaにSphettusを創建した。[Paus.2.30.9]
BC1262年、Heraclesは、音楽の師Ismeniusの子Linusを殺害した。[Aelia.3.32, Paus.9.29.9]
** 叙事詩人Linusの父は、Amphimarusである。Heraclesと叙事詩人Linusは同時代に生きていたが面識はなかったと思われる。
BC1262年、Picusが死去して、FaunusがLaurentumを継承した。[Euseb.Chron.283]
BC1262年、MycenaeのSthenelusが死去した。[推定]
BC1262年、Sthenelusの子Eurystheusは、Mycenae王に即位した。[Euseb.Chron.179, Strabo.8.6.19]
** Eurystheusの治世は、45年間であった。[JeromeChro.1308]
BC1262年、Locrusの子Opusは、LocrisにOpusを創建した。[Pind.Ol.9.65]
** Locrusの名前に因んで、Locrusの住む地方は、Locris、地方に住む人々は、Locriansと呼ばれるようになった。[Ps-Scym.587]
BC1262年、Actorの子Menoetiusは、PhthiaからLocrisへ移住して、Opusの創建に参加した。[Pind.Ol.9.65]
** Menoetiusは、Opusの信任を得て、町を任せられた。[Pind.Ol.9.65]
** Menoetiusは、Heraclesの友人であった。[Diod.4.39.1]
BC1262年、EuboeaのCriusの息子は、Delphiの神域や周辺を荒らして討ち取られた。[Paus.10.6.6, Paus.10.7.1]
** Criusの息子を殺したのはApolloであった。[Paus.10.6.6] Apolloは、Orchomenusの娘Elareの子Tityusを殺した。[Apo.1.4.1]
** 以上のことから、Criusの息子は、Elareの子Tityusと推定される。
** Tityusの墓は、Panopeusにあった。[Paus.10.4.5]
** Tityusの娘Europaは、Cephisus 川の近くに住んでいた。[Pind.Py.4.45]
** 以上のことから、Tityusは、父Criusが住むEuboeaから祖父が住むOrchomenusの近くへ移住して、Panopeusに住んでいた。
** Tityusを殺したApolloは、以下のことから、Carmanorの子Eubulus (or Phoenix)と推定される。
** CarmanorはApolloを清めた。[Paus.2.30.3] ApolloはCarmanorの家でMinosの娘Acacallisと結婚した。[Paus.10.16.5]
** Carmanorの子Eubulusの娘Carmeの娘Britomartisは、女神Dictynna (or Aphaea)になった。[Paus.2.30.3]
BC1262年、Carmanorと彼の息子Eubulusは、Crete島西南部のTarrhaへ移住した。[Paus.10.16.5]

BC1261年、Pieriaに住むAcessamenusの娘Periboeaは、Mygdoniaに住むMygdonの子Axiusに嫁いだ。[Home.Il.21.136]
** Acessamenusは、Aeolusの子Magnesの子Pierusの息子と思われる。

BC1260年、Asclepiusは、Triccaで誕生した。[Strabo.14.1.39]
BC1260年、Aeacusは、AthensやGreeceの干ばつで雨乞いを行った。[Cleme.Str.6.3, Diod.4.61.1, Paus.1.44.9, Paus.2.29.7, Paus.2.30.4]
BC1260年、Heraclesの従兄弟で、Licymniusの子OeonusがHippocoonの息子たちに殺された。[Diod.4.33.5, Paus.3.15.4]
BC1260年、AthensのAegeusは、9年ごとに若い男女7人ずつを人質として島へ送ることを条件にMinosと和睦した。[Diod.4.61.3]
** 2回目は、BC1251。3回目は、BC1242。Theseusは、21歳。
BC1260年、Elatus(or Eilatus)の子Ischysは、Triccaの住人を追放した。[Plut.Lucu.23, Strabo.12.3.11から推定]
BC1260年、Deimachusの子Autolycusは、TriccaからPontus海南岸のSinopeへ移住した。[Plut.Lucu.23, Strabo.12.3.11]
** Autolycusは、BC1268年、Jasonの遠征に参加して、Pontus海方面を知っていたと思われる。[Apollo.2.946から推定]
BC1260年、Opusの子Cynusは、Opusの近くにCynusを創建した。[Strabo.9.4.2]
BC1260年、Aeneusの子Cyzicusは、Propontis海のHerron島にCyzicusを創建した。[StephByz.K391.4]

BC1258年、Iphiclusの子Protesilausは、Phylaceの北東のIolcusからAcastusの娘Laodamiaを妻に迎えた。[Hyginus.103]
BC1258年、Amphitryonは、Boeotiaに侵入したEuboeaのChalcisのChalcodonと戦って、勝利した。[Paus.9.19.3]
** Chalcodonの子Elephenorは、Troy遠征に参加しているので、Chalcodonの死の直前に生まれたと推定される。
** Chalcodonの娘Chalciopeは、この頃、AthensのAegeusと結婚した。[Apo.3.15.6, Athen.556f]
** 後に、Theseusの息子たちは、Chalciopeの弟Elephenorのもとへ避難した。[Plut.These.35]
BC1257年、Heraclesは、Cithaeronの獅子を退治した。[Apo.2.4.9]
BC1257年、Heraclesは、BoeotiaのThespiaeの王Thespiusの歓待を受けた。[Apo.2.4.9]
BC1256年、Heraclesは、父Amphitryonと共にTroezenのPittheusを訪問した。[ErginusのThebes攻めに彼らがいなかったことから推定]
** Pittheusは、Heraclesの母Alcmenaの母Eurydice (or Lysidice)の兄弟であった。
BC1256年、Theseusは、TroezenのPittheusの家で、獅子の皮を敷いて座っているHeraclesを見た。[Paus.1.27.7]
** Pittheusは、Theseusの母方の祖父であった。
BC1256年、Presbonの子Clymenusは、OnchestusでThebesのCreonの子Menoeceusの御者Perieresに殺された。[Apo.2.4.11]
** 殺されたClymenusの娘で、Troyの戦士最年長Nestorの妻Eurydiceは、長女であったことから、この頃の出来事だと思われる。[Home.Od.3.452]
** AmphitryonとHeraclesは、旅に出ていて、Thebesにいなかったと思われる。[Apo.2.4.9から推定]
BC1256年、Minyansの王Clymenusの子Erginusは、Thebesに攻め込んで勝利して、Thebesに20年間の貢納を課した。[Apo.2.4.11]
BC1256年、Heraclesは、Minyansの王Erginusと戦って勝利した。[Apo.2.4.11, Diod.4.10.5, Strabo.9.2.40]
** Heraclesが成人すると、Thebansは貢納から解放され、Minyansは戦いに敗れた。[Paus.9.37.2]
** ErginusとThebesは、和議を結んだ。[Paus.9.37.3]
BC1256年、Oedipusの息子たち、PhrastorとLaonytusは、Erginusとの戦いで戦死した。[FGrH.Nr333.F95]
** OedipusがThebesへ帰還する前なので、Oedipusの息子たちは、Corinthから駆け付けたと思われる。
BC1256年、Heraclesは、Erginusとの戦いでの勝利を記念して、ThebesのArtemisの神殿に獅子の石像を奉納した。[Paus.9.17.2]
BC1256年、Amphitryonは、Erginusとの戦いで戦死した。[Apo.2.4.11]
BC1256年、Oebalusの子Icariusは、Orsilochusの娘Dorodocheと結婚した。[FGrH.Nr333.F128]
BC1256年、Oebalusの子Icariusは、Spartaの南にPharisを創建した。[Paus.4.16.8とFGrH.Nr333.F128から推定]
** Pharisは、Pharaeとも呼ばれていた。[Paus.4.16.8]
** Orsilochusの母Telegoneの父Pharisは、Messenia湾に流れ込むNedon川の河口近くに、Pharaeを創建した。[Paus.4.30.2]
** Icariusは、創建した町を妻Dorodocheの出身地Pharaeと同じ名前、あるいは、Pharaeの創建者Pharisの名前で呼んだと思われる。
BC1256年、Megareusの子Hippomenesは、Onchestusから追い出されてArcadiaへ移住した。[Apo.3.9.2, Hyginus.185]
BC1256年、BoeotiaのSchoenusのSchoeneusは、Thebesから圧迫されて、Arcadiaへ移住した。[Paus.8.35.10, Plut.Lysa.29.7, Tzetzes.1.560, Strabo.9.2.22]
BC1256年、Onchestusの子Plataeusの子Copaeusは、Onchestusから追い出されてCopais Lake対岸へ移住して、Copaeを創建した。[StephByz.K401.12から推定]
BC1256年、Opusに属していたLarymnaがBoeotia地方に属するようになった。[Paus.9.23.7]
BC1256年、Aeacusの子Phocusは、Aegina島からPhocis北西部のNaubolenses(後のDrymaea)の近くへ移住した。[Paus.10.1.1, 10.33.12]
BC1256年、Aeacusの子Telamonは、Aegina島からSalamis島へ移住して、Cychreusの娘Glauceと結婚した。[Diod.4.72.7]
** PeleusとTelamonは、それぞれ別の場所からArgonautsに参加した。[Apollo.1.90]
BC1256年、Aeacusの子Peleusは、Aegina島からPhthiaのActorの子Eurytionのもとへ移住した。[Apo.3.13.1]
BC1256年、Peleusは、Eurytionの娘Antigoneと結婚して、娘Polydoraが生まれた。[Apo.3.13.1]
** Antigoneの父Eurytionの父Actorは、Peleusの父Aeacusの父であり、AntigoneはPeleusの従兄妹であった。[Apo.3.13.1]
BC1256年、Laomedonの子Tithonusは、Persesの孫娘Cissiaを妻にした。[Strabo.15.3.2, Dictys.4.4, Apo.3.12.4, Diod.4.75.4]
BC1256年、Minosの娘Ariadneの子Thoasは、Naxos島からLemnos島へ移住した。[Diod.5.79.2]

BC1255年、Oedipusは、Hyperphasの娘Euryganeiaと結婚した。[FGrH.Nr333.F95]
** OedipusとEuryganeiaとの結婚は、Erginusとの戦いの1年後であった。[FGrH.Nr333.F95]
BC1255年、Heraclesは、Creonの娘Megaraと結婚した。[Apo.2.4.11, Diod.4.10.6]
BC1255年、Iphiclesは、Creonの娘Megaraの妹と結婚した。[Apo.2.4.11]
** Iphiclesも戦いに大きく貢献した結果であると思われる。
** Iphiclesの2人の息子たちは、Heraclesの子供たちと一緒に死んだ。[Apo.2.4.12]
** Amphitryonの墓の隣には、Heraclesの子供たちの墓があった。[Paus.1.41.1]
** 以上のことから、IphiclesとCreonの娘との結婚は、実際はなかったのかもしれない。
BC1255年、Alcmenaは、Thebansから栄誉を授けられた。[Diod.4.58.6]
BC1255年、Alcmenaは、Rhadamanthusと再婚し、HariartosのOcaleaeに居住した。[Apo.3.1.2, Apo.2.4.11, Plut.Lysand.28]
BC1255年、DelphiのThemisの神託所が、Apolloの神託所になった。[Paus.10.16.5, Paus.10.23.2, Paus.1.4.4]
** PhemonoeがApolloの最初の女性予言者となり、はじめて6脚韻詩で神託を吟調した。[Paus.10.5.7, Newton.Chro.143]
BC1252年、Amphitryonの娘Laonomeは、Theiodamas(or Theodamas)の子Euphemusに嫁いだ。[Tzetzes.2.610]
BC1252年、Eurystheusは、TegeaのAmphidamasの娘Antimacheと結婚した。[Apo.3.9.2]
** Antimacheの父Amphidamasの父Lycurgusの父Aleusは、Eurystheusの父Sthenelusの妻Antibiaの父Amphidamasの父であった。
** つまり、Eurystheusは、父Sthenelusの妻Antibiaの従兄妹Amphidamasの娘Antimacheと結婚した。
BC1252年、Cretheusの子Peliasの娘Alcestisは、Messenia地方のOechaliaのEurytusの子Hippasusへ嫁いだ。[FGrH.Nr325.F9]
BC1251年、Heraclesは、Megaraとの子供3人とIphiclesの子供2人を死なせた。[Apo.2.4.12, Diod.4.11.1]
** Pindarは、息子8人と伝えているが、多過ぎと思われる。[FGrH.Nr333.F14, Pind.Is.4.50]
** Heraclesの子供たちは、恐らくMegaraの失火による火事で死んだと思われる。[Apo.2.4.12から推定]
BC1251年、HeraclesはMegaraを離縁して、IolausにMegaraと結婚させた。[Apo.2.6.1, Diod.4.31.1]
** Heraclesは、Megaraとの結婚を「神から祝福されない結婚」と思ったようである。[Paus.10.29.7]

< Heracles’s Tiryns period (3年間) >
BC1251年、Heraclesは、Thebesから彼の父Amphitryonが領していたTirynsへ移住した。[Apo.2.4.12, Diod.4.10.6]
** 神託により、Heraclesは、Eurystheusのもとで功業をすることになった。[Apo.2.4.12]
BC1251年、Licymniusは、Thebesから彼の父Electryonが領していたMideaへ移住した。[Apo.2.4.8, Diod.4.33.2から推定]
** LicymniusはAlcmenaと共にThebesへ行き、Heraclesと共に行動していた。[Apo.2.4.8]
** HeraclesがTirynsを去った時に同行した人々の中に、Licymniusの名前がない。[Diod.4.33.2]
** MycenaeのEurystheusは、Argosに対抗するために、身内であるHeraclesやLicymniusを喜んで迎えたと思われる。
BC1251年、Pelopsの子Atreusは、Mideaから北へ移住して、Cleonaeを創建した。[FGrH.Nr2.F3, FGrH.Nr333.F20]
BC1251年、Pelopsの子Thyestesは、MideaからCythera島へ移住した。[FGrH.10.11とTzetzes.1.460とHome.Od.4.512から推定]
** AtreusとThyestesの移住は、LicymniusのThebesからMideaへの帰還が原因と思われる。
** Licymniusは、HeraclesとOechaliaのEurytusとの戦いの前には、Heraclesと合流している。[Apo.2.7.7]
** Cythera島は、交易拠点として重要であったと推定される。
BC1251年、Carmanorの娘Chrysothemisは、Pythia祭で賛歌を歌う競技会で勝利した。[Paus.10.7.2]
BC1250年、ArcadiaのLycurgusは、Triphylia地方のAreneのAreithousと戦って、Areithousを討ち取った。[Home.7.8, FGrH.Nr333.F158]
BC1250年、Heraclesは、Eleusisの秘儀に入門するため、AthenianのPyliusの養子になった。[Apo.2.5.12, Plut.These.33]
** Eleusisの応対者は、Orpheusの子Musaeus[Diod.4.25.1]、Eumolpus[Apo.2.5.12]、不明[FGrH.Nr334.F20]
** Heraclesを応対した人物は、密儀を定めた大司祭Eumolpusの父で、Antiophemusの息子のMusaeusと思われる。

BC1250年、Melampusは、GreeceにDionysusの儀式を紹介した。[Herod.2.49]
BC1250年、Minosの娘AriadneとOenarusは、Dionysusの儀式を広めるため、Naxos島からPeroponessusを訪問した。[Paus.2.23.8, Paus.3.13.7]
** Dionysusを招いたのは、Amythaonの子Melampusと思われる。[Herod.2.49]
** Choreaの墓がArgosにある。[Paus.2.20.4] Choreaは、Leucippusの娘の一人で、Naxos島の王Smerdiusの姉妹と思われる。[Diod.5.51.3]
** OenarusとAriadneが率いた訪問団は、Messeniaも訪問した。[Paus.4.31.4]
** OenarusとAriadneに同行した女人の合葬墓もArgosにあった。[Paus.2.22.1]
BC1250年、OenarusとAriadneとの間の息子Phliasusは、跡継ぎの絶えたPhliusを継承した。[Paus.2.6.6]
** Phliasusは、父Oenarusを通して、Phliusの創建者と繋がりがあった。
** Lemnos島に住んでいたThoasの娘Hypsipyleは、両親が死んで、孤児になり、Phliasusの養女になったと思われる。
** Lemnos島へは、Thoasと共にNaxos島から移住した人々がいて、Dionysus(Oenarus)の遠征に参加したと思われる。
** Hypsipyleの両親は、疫病で死んだと推定される。Lemnos島で疫病が猛威を振るった。[Thucy.2.47]
BC1250年、Hodoedocusの子Oileus(or Oeleus)は、LocrisのCynusの西方にNarycusを創建した。[Hyginus.14]
BC1250年、Actorの子Ceyxは、PhthiaからOeta山麓へ移住して、Trachisを創建した。[Home.Il.2.681から推定]
BC1250年、Pierusの子Linusの子Pierusは、MacedoniaのPieriaからThespiaeへ移住した。[Paus.9.29.3]
BC1250年、Phocusの子Panopeusは、Naubolenses(後のDrymaea)からPanopeusへ移住した。[Paus.10.4.1]
** Phocusの子Panopeusは、Naubolusの子Iphitusと一緒へ移住したと推定される。
** Iphitusは、Panopeusの兄弟Crisusの妻Antiphateiaの兄弟であった。つまり、PanopeusとIphitusは義兄弟であった。
** Panopeusには、Naubolusの父Ornytusの兄弟と思われるCriusの子Tityosが住んでいたが、Thebesとの戦いで死んだ。
BC1250年、Ornytusの子Naubolusの子Iphitus(or Perimedes)は、NaubolensesからPanopeusへ移住した。[Apollo.1.207から推定]
** Phocusの子Panopeusの名前に因んで、Panopeusと呼ばれるようになった。[Paus.10.4.1]
** Iphitusは、JasonがArgonautsの遠征を前にしてDelpiを訪問した際に案内役を務めた。[Apo.1.9.16, Apollo.1.207, Home.2.517]
** したがって、IphitusがPanopeusへ移住したのは、Argonautsの遠征より前である。
BC1250年、叙事詩人LinusはChalcisで死に、その地に埋葬された。[Diogenes.1.4, Suda.lambda. 568]
BC1250年、Hattusili IIIは、Ahhiyawa王へCelaeneus<Piyama-Radu>の身柄の引き渡しを要求した。[wiki: Tawagalawa letter]
BC1250年、Eleia南部のLepreusに住むCauconesは、Lepreusの横暴に耐え切れずにLyciaへ移住した。[Strabo.断片.63]
BC1250年、Tawagalawa letter (CTH 181)
** Hattusili III(BC1265-35)からAhhiyawa王に宛てた書簡[wiki: Tawagalawa letter]
** Tawagalawaは、Ahhiyawa王の兄弟[wiki: Tawagalawa letter]
** Lukkaでの反乱が失敗して、Ahhiyawaへ逃亡したPiyama-Raduの身柄の引き渡しを要求した。[wiki: Tawagalawa letter]
** Hittiteに反抗する活動を抑制するようにAhhiyawa王に要請している。[wiki: Tawagalawa letter]
** Hittiteから命令ではなく、依頼。AhhiyawaがHittiteと同等の勢力を持ったと思われる。[wiki: Tawagalawa letter]
** Troyをめぐって、HittiteとAhhiyawaはかつて敵対していたが、現在は、良好な関係にあった。[wiki: Tawagalawa letter]
BC1250年、Priamは、Amazonsに攻められたPhrygiaに援軍として駆け付けた。[Strabo.12.3.24, Strabo.12.8.6, Home.3.181]
** Priamは、Amazonsと戦っていたOtreus(Laomedonの妻Placia (or Leucippe)の父)とMygdonに援軍として駆け付けた。[Home.3.181]
BC1250年、Teucerは、Aeacusの子Telamonの息子として誕生した。[Apo.3.10.8, Hyginus.97, VellePat.1.1.1, Strabo.14.6.3]
** Teucerの母は、TroyのLaomedonの娘Hesioneと伝えられる。[Apo.3.12.7, Hyginus.97]
** この伝承は、Trojansと共にSalamisを創建したTeucerの後裔が、住民を従わせるために流布した作り話と思われる。[Athen.256b]
** Teucerの母は、Telamonの最初の妻、Cychreusの娘Glauceと思われる。
BC1250年、Minosの子Androgeusの子Alcaeusは、Crete島からParos島へ移住した。[Diod.5.79.2]
BC1250年、Charopsの子Ismeniusの子Linusは、BisaltiaからThebesへ移住した。[Paus.9.29.9から推定]
** Linusの母Calliopeの兄弟Linusの子Pierusは、BoeotiaのThespiaeに住んでいた。[Paus.9.29.3]





 

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