
第10章 アテナイの青銅器時代の歴史
Create:2025.10.30, Update:2026.2.16
1 はじめに
BC1750年、パルナッソス山近くのケピソス川の上流で大洪水が発生した。[1]
洪水で居住地を失ったエクテネスは、アテナイ人の先祖オギュゴスに率いられて、コパイス湖近くへ移住した。[2]
BC1580年、エクテネスは、一部を残して、コパイス湖近くから各地へ移住した。[3]
1.1 テッサリアへの移住
エクテネスの一部の人々は、ヘレンの父デウカリオーンの祖父に率いられて、コパイス湖近くからテッサリア地方へ移住した。彼らは、テッサリア地方に最初に住んだギリシア人であった。
後に、ヘレンの兄弟アンピクテュオンやヘレンの子クストスが、アテナイ王の娘と結婚していることが、両者が同じエクテネスに属していたことを証明している。
恐らく、デウカリオーンの祖父と初代アテナイ王ケクロプスの父は、兄弟であったと推定される。
1.2 エジプトへの移住
クラナオスの祖父であり、恐らく、初代アテナイ王ケクロプスの父であった人物はエジプトのナイルデルタへ移住してサイスの町を創建した。[4]
BC4世紀の歴史家オリュントスのカリステネスやBC3世紀の歴史家アテナイのファノデモスは、アテナイ人がサイスの町の人々の先祖だと記している。[5]
移住当時、ケクロプスは16歳と推定され、ギリシア語の他にも異なる言語を話し、ディファイエス (二つの形)という呼び名があった。それは、「2つの言葉を話す」という意味であった。[6]
ケクロプスが話した「他の言語」とは、フェニキア語であったと推定される。
ナイルデルタに住んでいたギリシア系の住人は、ギリシアからエジプトへの航路の途中にあるフェニキア地方と繋がりがあった。つぎの4つのことから彼らの関係が推測される。
1) ケクロプスの娘ヘルセは、フェニキア地方のテュロスの町へ嫁入りした。[7]
2) アゲノールの子ポイニクスは、ヘルセの後裔と思われるオイネウスの娘ペリメデを娶った。[8]
3) ポイニクスは、テュロスの町の王であった。[9]
4) エジプトを追われたアゲノール一家は、テュロスの町の近くのシドンの町へ移住した。[10]
ケクロプスは、ボイオティア地方のトリトン川のほとりにエレウシスとアテナイの町を創建したと伝えられることからも、ボイオティア地方に縁があったことがうかがわれる。[11]
また、ケクロプスの父には、オギュゴスという名前の兄弟がいて、エジプトにテバイの町を創建した。[12]
そのテバイの町は、カドモスが生まれた町であり、ナイルデルタにあったと推定される。[13]
2 初代アテナイ王ケクロプスの時代 (1561-1511 BC)
2.1 エジプトからの移住
BC1562年、ケクロプスは、アッティカ地方南東端のスニオン岬の北約25kmの海辺にあるミュリヌスの町に上陸した。[14]
次のことから、ケクロプスの移住は、津波によって居住地を失ったことが原因と推定される。
1) ケクロプスは、エジプトのサイスの町からアッティカ地方へ来た。[15]
2) サイスの町は、海沿いにあった。[16]
3) ケクロプスは、大災害の後で、アッティカへ移住した。[17]
4) ケクロプスのアテナイ王即位は、BC1561年であった。[18]
5) BC1560年頃に、テラ島で大規模な噴火があったことが判明している。[19]
ケクロプスは、多くの人々と共に移住して来たと推定される。
ミュリヌスの町に住んでいたコライノスは、メッセニア地方へ移住し、メッセニア湾入り口の西側の半島にコロニデスの町を建設した。[20]
ケクロプスは、アテナイの町の北東約15kmにあるアトモネイスの町の王アクタイオスの娘アグラウロスと結婚した。[21]
2.2 ケクロプスの治世
BC1561年、ケクロプスはケクロピアの町(後のアテナイの町のアクロポリス)を創建した。[22]
その後ケクロプスは、ボイオティア地方のアラルコメナイの町の近くを流れるトリトン川の近くにエレウシスとアテナイの町を創建した。[23]
2.3 ケクロプスの子エリュシクトン
エリュシクトンは、デロス島での祭儀を終えて、アッティカ地方へ帰る途中に死去し、ミュリヌスの町のすぐ南にあるプラシアイの町に埋葬された。[24]
デロス島の古い呼び名オルテュギアは、エリュシクトンが名付けた。[25]
エリュシクトンは、デロス島からエイレイテュイアの木彫女神像を持ち帰って、アテナイの町のエイレイテュイア神殿に奉納した。[26]
2.4 ケクロプスの娘ヘルセ
BC1562年、ケクロプスの娘ヘルセは、エジプトからアテナイの町への旅の途中で、フェニキア地方のテュロスの町に嫁いだ。[27]
ヘルセの子ケパロスの子ティトノスの子パイトンの子アステュノオスの子サンドコスは、山地キリキア地方へ移住して、ケレンデリスの町を創建した。[28]
3 第2代アテナイ王クラナオスの時代 (1511-1502 BC)
3.1 クラナオスの移住
BC1511年、ケクロプスが死ぬと、ケクロプスの甥と推定されるクラナオスがその跡を継いだ。[29]
クラナオスはエジプト生まれで、BC1515年頃にエジプトからアッティカ地方へ移住して来た。[30]
クラナオスは、ケクロプスから命じられて、先祖オギュゴスがかつて住んでいたボイオティア地方のトリトン川の近くにアテナイの町とエレウシスの町を創建した。[31]
3.2 クラナオスの娘アッティス
クラナオスの娘アッティス (別名アテナ)は、トリトン川の近くで育った。[32]
ホメロスは、アテナの名前にアラルコメナイを添えており、アッティスはトリトン川の近くのアラルコメナイの町に住んでいたと推定される。[33]
ヘロドトスは、クラナオスの時代のアテナイの町の住人はクラナオイ人と呼ばれるペラスゴイ人であったと述べている。[34]
クラナオスは、アルゴスの町からエジプトへ移住したイオの息子であり、イオと共にエジプトへ移住したペラスゴイ人がクラナオスと共にアテナイの町へ移住したと思われる。[35]
ヘロドトスは、アテナがトリトニス湖の近くの生まれであり、その湖の近くの住人は、獣のように交わって女性を共有していたと伝えている。[36]
7 世紀の年代記作家アンティオキアのヨハネは、それまで、人々は獣のように交わって、一人の親(母)しかいなかったが、ケクロプスが夫婦の概念を定めて、2人の親(父と母)を持つようにさせたと伝えている。[37]
ケクロプスは、エジプトのサイスの町の出身であり、クラナオスの娘アッティスも、サイスの町で生まれたと思われる。[38]
3.3 アッティスの夫
クラナオスの跡をアンピクテュオンが継ぎ、アンピクテュオンの跡をクラナオスの娘の息子エリクトニオスが継承している。
しかし、クラナオスには息子ラロスがいて、ラロスにも息子ケレウスがいた。[39]
アンピクテュオンの跡をクラナオスの息子が継がずに、クラナオスの娘の息子が継いだのは、エリクトニオスがケクロプスの曾孫であったのが、その理由だと思われる。
つまり、アッティスの夫であり、エリクトニオスの父は、ケクロプスの子エリュシクトンの息子であったと推定される。[40]
彼は、ヘパイストスという名前で、伝承に記している。[40-1]
BC1511年、ケクロプスが死去したとき、ケクロプスの子エリュシクトンは、それより前に死んでいた。[40-2]
クラナオスの娘アッティスと結婚していたヘパイストスが、ケクロプスの跡を継ぐべきであったが、クラナオスがアテナイ王に即位した。[40-3]
3.4 王位簒奪
次のことから、クラナオスは、ケクロプスから王位を簒奪したと推定される。
1) デウカリオーン時代の洪水は、クラナオスがケクロプスからアテナイ王位を継承した年に発生した。[40-4]
2) 洪水を逃れて、デウカリオーンは、彼の息子たち、ヘレンやアンピクテュオンと共に、アテナイに避難した。[40-5]
3) デウカリオーンの墓は、アテナイの町にあった。[40-6]
4) アンピクテュオンは、クラナオスの娘と結婚した。[40-7]
つまり、クラナオスがケクロプスから王位を継承した状況は、つぎのように推定される。
BC1511年、テッサリア地方に住んでいたデウカリオーン一家は、洪水で居住地を失い、同族を頼って、アテナイの町へ避難して来た。クラナオスは、デウカリオーンの協力を得て、ケクロプスを殺害して、第2代アテナイ王に即位した。既に、ヘパイストスと結婚していたクラナオスの娘アッティスは夫に連れられて、エジプトへ逃れた。エジプトで、彼らの息子エリクトニオスが生まれた。[40-8]
クラナオスは、娘をデウカリオーンの子アンピクテュオンに嫁がせた。[40-9]
デウカリオーンは、アテナイの町で死んだ。[40-10]
ケクロプスは、ケクロピアの町に埋葬された。[40-11]
3.5 アレオパゴス
BC1510年頃、アクロポリスの近くにある泉の近くでハリロティオスが、ケクロプスの娘アグラウロスの娘アルキッペを辱め、アルキッペの父がハリロティオスを殺した。
アルキッペの父は、アレスの丘で裁かれ、無罪となった。[41]
アレオパゴスの最初の裁判であった。[42]
4 デウカリオーンの子アンピクテュオンの時代 (1502-1492 BC)
BC1503年、クラナオスの別の娘は、テッサリア地方のデウカリオーンの子アンピクテュオンと結婚した。[43]
この遠距離婚を成立させたのは、クラナオスとデウカリオーンの血縁関係であったと思われる。
クラナオスの祖父とデウカリオーンの祖父は兄弟で、それぞれ、ボイオティア地方からエジプトやテッサリア地方へ移住したと推定される。[44]
BC1502年、アンピクテュオンは、義父クラナオスを追放した。クラナオスはアテナイの町とスニオン岬の中間にあるランプトライの町まで逃れ、その地で死んだ。[45]
5 アッティスの子エリクトニオスの時代 (1492-1442 BC)
5.1 エジプトからの移住
BC1492年、エジプトで成人したクラナオスの娘アッティスの子エリクトニオスは、祖父の無念を晴らすためにエジプトからアテナイの町へ移住して来た。彼はアテナイ人の支持を得て、アンピクテュオンを追放してアテナイ王に即位した。[46]
5.2 テトラポリスの建設
テッサリア地方に住むデウカリオーンの子ヘレンには、3人の息子たち、アイオロス、クストス、ドロスがいた。[47]
ヘレンの跡を継いだアイオロスとドロスは、クストスを追放した。[48]
BC1470年、クストスはアテナイの町へ移住して、エレクテウスの娘クレウサと結婚した。[49]
クストスは、エレクテウスが追放したアンピクテュオンの甥であった。
BC1465年、クストスは、周辺から人々を集めて、オイノエ、マラトン、プロバリントス、そしてトリコリュントスという4つの町を建設した。[50]
5.3 アンピクテュオンの消息
アテナイの町を去った後のアンピクテュオンの消息は、不明である。
テバイの歴史を書いたリュコスは、アンピクテュオンの子ティトノスの娘イオダマの娘テーベが、アイギュプトスと結婚したと伝えている。[51]
このアンピクテュオンが、第3代アテナイ王アンピクテュオンと同一であれば、ティトノスの母は、クラナオスの娘と推定される。
アイギュプトスは、イオの子エパポスの娘リビュアの子ベロスの息子であった。
テーベは、イオの子クラナオスの娘の子ティトノスの娘イオダマの娘であった。
つまり、アンピクテュオン本人、あるいは、彼の息子ティトノスが、エジプトへ移住したと推定される。アンピクテュオンの妻であるクラナオスの娘は、エジプト生まれであった。
6 エリクトニオスの子パンディオンの時代 (1442-1402 BC)
6.1 エウモルポスとの戦い
BC1415年、エウモルポスがアッティカ地方に攻め込み、アテナイ人はボイオティア地方のタナグラの町近くへ避難した。[52]
クストスの子イオンがアテナイ人の推挙を受けてポレマルコスになり、エウモルポスと戦って休戦に持ち込んだ。その後、エウモルポスはエレウシスに定住しているので、エウモルポスが優勢であったと推定される。[53]
6.2 家系の断絶
この戦いでエリクトニオスの子パンディオンの息子たちは死に絶え、パンディオンの跡を継ぐ息子がいなくなったと推定される。その理由として、古代史料に次のような記述がある。
1) ヒュギーヌスやアポロドロスは、パンディオンの子エレクテウスがエウモルポスと戦いの後で死に、彼の家系は断絶したように記している。[54]
2) デモステネスは、カイロネイアの戦いの直後に行われた演説の中で、エレクテウスの娘が供儀された後で、エレクテウスの一族は絶滅したと記している。[55]
3) AD12世紀の修辞学者ツェツェスは、2人目のケクロプスの父エレクテウスからエレクチドス(または、エレクテイダイ)が始まったと記している。[56]
6.3 エウモルポスと戦ったエレクテウス
BC2世紀の年代記作者カストールは、エリクトニオスの子パンディオンには、2人の息子たち、エレクテウスとケクロプスがいたと伝えている。[57]
エレクテウスは、戦勝を祈願して娘たちを供儀したが、本人もエウモルポスとの戦いで死んだと思われる。パウサニアスは、アテナイの町にあったエレクテウスとエウモルポスが戦っているブロンズ像を見て、エウモルポスではなく、彼の息子インマラドスだと記している。[58]
しかし、エレクテウスの対戦相手は、インマラドスの父エウモルポスであったと推定される。
6.4 クストスの子イオン
エウモルポスとの戦いで、息子たちを失ったパンディオンは、クストスの子イオンにアテナイ人の指揮権を委ねた。[59]
イオンは、パンディオンの姉妹クレウサの息子であり、イオンはパンディオンの甥であった。[60]
イオンが率いたのは、アテナイ人の他に、かつて、クストスと共にアッティカ地方からアイギアロス (後のアカイア)地方へ移住した人々であった。[61]
また、少し前に、テッサリア地方からクストスの子アカイオスと共へ移住して来たアカイア人も、イオンの軍中にいたと思われる。[62]
7 第6代アテナイ王エレクテウスの時代 (1402-1352 BC)
古代史料は、エレクテウスの父が第5代アテナイ王パンディオンだと伝えているが、前述したように、パンディオンの家系は断絶した。
エレクテウスは、パンディオンの孫、もしくは、パンディオンの孫娘の夫とも考えられるが、次の理由から、パンディオンの娘の息子と推定される。
1) パンディオンの甥イオンが跡を継いでいないので、血縁関係のないパンディオンの孫娘の夫がパンディオンの跡を継いだとは考えられない。
2) エレクテウスがエレクチドスの始祖になっているので、パンディオンの息子の息子がパンディオンの跡を継いだとは考えられない。
7.1 エレクテウスの妻プラクシテア
BC1392年、エレクテウスは、ブラシモスとディオゲニアとの娘プラクシテアと結婚した。[63]
ディオゲニアの父ケピソスは、後のタナグラの町の近くに居住していた。当時、そこには、カドモスと共にボイオティア地方へ移住して来たゲピュライオイが住んでいたが、ケピソスは、彼らの指導者であったと推定される。[64]
エウモルポスがアッティカ地方に侵入したときに、アテナイ人がゲピュライオイの居住地に避難して、それが縁で彼らの結婚が成立したと思われる。[65]
この結婚の時にプラクシテアと一緒へ移住したゲピュライオイが、フェニキア文字をアテナイの町にもたらした。
7.2 エレクテウスの娘オリテュイア (または、オレイテュイア)
7.2.1 ボレアスとオリテュイアの伝承
ボレアスがオリテュイアを攫ったという伝承がある。この伝承について、哲学者ソクラテスは、オリテュイアがイリッソス川で遊んでいたときに、北風に吹かれて岩から落ちて死んだと理解していた。ストラボンもソクラテスに賛同している。[66]
しかし、史実はつぎのようであったと推定される。
BC1390年、エレクテウスの娘オリテュイアは、ボレアスと共にアテナイの町から新天地を求めて旅立った。彼らは、北風に吹かれて南へ移住したのではなく、北風の住処である北の地への移住であった。
ボレアスは、トラキア地方のヘブロス川を遡り、さらに支流のレギニア川を遡って、移住の適地を見つけた。レギニア川は、古くは、エリゴン川と呼ばれ、ハイモン山のすそ野にあった。[67]
ボレアスの居住地は、現在のトルコ北西部のイプサラの町の近くであった。
7.2.2 ヒュペルボレオス人とデロス島とアテナイの関係
7.2.2.1 供え物の伝達路から見た関係
BC1365年、ボレアスとオリテュイアの息子たち、ゼテスとカライスは、黒海西岸のイステル川(現在のドナウ川)の中に浮かぶペウケ島へ移住した。[68]
そこは、ヒュペルボレオス人の住む土地であり、そこから供え物がデロス島へ届けられた。[69]
ヘロドトスが伝えているドドナ経由の伝達路では、エウボイア島南東部のカリュストスの町を経由していた。[70]
カリュストスの町は、アイゲウスの父スキロスの子カリュストスがBC1280年にスキュロス島から移住して創建した町であった。カリュストスの子ペトラエウスの子ザレクスは、ミノスの娘アリアドネの子スタピュロスの娘ロイオ (または、クレオウサ)と結婚して、息子アニオス (または、アニオン)が生まれた。アニオスは、デロス島のアポロの祭司になった。[71]
また、パウサニアスが伝えている、ヒュペルボレオス人の地からデロス島への伝達路では、アッティカ地方のプラシアイの町を経由している。[72]
いずれの伝達路とも、アテナイの町がヒュペルボレオス人とデロス島との間に深く関わっていた。
7.2.2.2 アポロとエイレイテュイア信仰から見た関係
レトの子供たち、アポロとアルテミスが生まれたとき、エイレイテュイアがお産を助けた。[73]
ヒュペルボレオス人は、そのお礼のために供え物をデロス島へ届けた。[74]
初代アテナイ王ケクロプスの子エリュシクトンは、デロス島からエイレイテュイアの木彫女神像を持ち帰り、アテナイの町のエイレイテュイア神殿に奉納した。[75]
エリュシクトンは、デロス島からの帰途の航海中に死に、アッティカ地方のプラシアイの町に埋葬された。プラシアイの町は、パウサニアスが伝えている伝達路の中継地であった。[76]
エイレイテュイアは、クレタ島のクノッソスの町の近くにあるアムニソスで生まれた。[77]
そこには、エイレイテュイアの洞窟があった。[78]
その洞窟から北極星を目指して、約230km航海するとデロス島に着くことができる。
デロス島はクレタ島とアテナイの町を結ぶ航路の重要な中継地点であった。[79]
アイゲウスの子テセウスもクレタ島からの帰途、デロス島に立ち寄っている。[80]
7.2.2.3 ボレアスの素性
アテナイの町とヒュペルボレオス人との関係や、ボレアスの娘キオネの子エウモルポスの墓がエレウシスの町にあったことから、ボレアスの父はブテスと推定される。ブテスは、第6代アテナイ王エレクテウスの双子の兄弟で、アテナイの町の神官になった。[81]
したがって、オリテュイアとボレアスは、従兄妹同士であった。
7.3 エウボイアへの移住
BC1360年、エレクテウスの子パンドロスは、エウボイア島へ移住して、カルキスの町を創建した。[82]
後に、パンドロスの兄弟ケクロプスもエウボイア島へ移住することになるが、パンドロスの移住も兄弟間の争いが原因と推定される。
パンドロスは、名前が判明している「エウボイア島の最古の住人」であった。
8 エレクテウスの子ケクロプスの時代 (1352-1312 BC)
8.1 エウボイアへの移住
BC1320年、ケクロプスは、エウボイア島へ移住した。[83]
支配者の突然の移住は、内紛を原因とすることがある。リュンケウスの子アバスのポキス地方移住や、メランプスの子アバスのテッサリア地方移住の例がある。[84]
ケクロプスは、彼の兄弟メティオンとの争いによって、彼の息子たち、キュクレウス、スキュリオス、パンディオンと共にアテナイの町から追放された。
ケクロプスは、エウボイア島のカルキスの町に住む彼の兄弟パンドロスのもとへ移住した。[85]
ケクロプスとメティオンの争いは、何世代にも渡って続いた内紛の発端になった。[86]
8.2 メガラ、サラミス、スキュロスへの移住
ケクロプスの3人の息子たち、キュクレウス、スキュリオス(または、スキロン, キロン, スキロス)、パンディオンは、つぎのように各地へ移住した。
8.2.1 サラミスへの移住
キュクレウスは、サラミス島へ移住した。[87]
後に、キュクレウスは、アテナイ人から神々と同等の尊敬を受けた。[88]
8.2.2 スキュロスへの移住
スキュリオスは、スキュロス島へ移住した。[89]
スキュリオスは、キュクレウスの娘カリクロの夫であり、彼らの娘エンデイス (または、エンダイス)は、アイアコスと結婚した。[90]
BC1295年、キュクレウスが跡継ぎを残さないで死ぬと、スキュリオスは彼の息子にスキュロス島を任せて、サラミス島へ移住した。
スキュリオスの子アイゲウスは、彼の叔父パンディオンの養子になった。[91]
アイゲウスの子テセウスがアテナイの町からスキュロス島へ逃れたのは、アイゲウスの領地があったからである。[92]
8.2.3 メガラへの移住
BC1318年、パンディオンは、メガラの町のクレソンの子ピュラスのもとへ移住して、彼の娘ピュリアと結婚した。[93]
移住前、パンディオンは、アッティカ地方のトリコスの町に住んでいた。[94]
8.3 人身御供の廃止
アテナイの町の10部族の名祖たちの一人レオスは、飢饉に襲われたアテナイの町を救うために自分の娘たちを犠牲にした。レオスは、エレクテウスがエレウシスとの戦いの際に、彼の娘たちを犠牲にしたのに倣ったと伝えられる。[95]
エレクテウスの子ケクロプスは、自分の姉妹たちや、レオスの娘たちが供儀されるのを見て、命のあるものではなく、菓子を代わりに供儀するようにした。[96]
アテナイ人が人身御供をしなくなったのは、BC14世紀の後半であった。
9 ケクロプスの子パンディオンの時代 (1312-1287 BC)
BC1312年、パンディオンは、妻ピュリアの父ピュラスの助力を得てアテナイの町へ帰還して、第8代アテナイ王に即位した。
BC1295年、パンディオンは、メティオンの息子たちによってアテナイの町を追われて、メガラの町へ亡命した。[97]
パンディオンの墓がメガラにあったことから、パンディオンの息子たちがアテナイの町に帰還してメティオンの息子たちを追い出したのは、パンディオンの死後であった。[98]
10 パンディオンの養子アイゲウスの時代 (1287-1239 BC)
BC1287年、パンディオンが死に、彼の息子たちの中で最年長のアイゲウスが、メガラの町でアテナイ王を継承した。[99]
BC1285年、アイゲウスはアテナイの町へ帰還して、メティオンの息子たちを追放した。[100]
10.1 内紛
BC1277年、アイゲウスと、義兄弟たちとの間の争いが起こった。
アイゲウスは、パンディオンの息子たちの中で最年長ではあったが、養子であった。[101]
アイゲウスに追われたパンディオンの息子たちは、つぎのように各地へ移住した。
10.1.1 リュキアへの移住
パンディオンの子リュコスは、メッセニア地方のアレネの町のペリエレスの子アパレウスのもとへ逃れ、その後、リュキア地方へ移住した。[102]
リュコスは、メッセニア地方のアンダニアの町で密儀を執り行った。[103]
10.1.2 アルゴス地方への移住
パンディオンの子オルネウスは、アルゴス地方のプリウスの町の近くへ移住して、オルネアイの町を創建した。[104]
10.1.3 ポキスへの移住
パンディオンの子オイネウスの子ペテウスは、アッティカ地方のスティリアの町からポキス地方へ移住してスティリスの町を創建した。[105]
10.1.4 ボイオティアへの移住
ペテウスの兄弟と思われるレバドスは、ボイオティア地方のミデイアの町へ移住し、町はレバデイアと呼ばれるようになった。[106]
パンディオンの子テウトラントスは、ボイオティア地方へ移住してテスピアイの町を創建した。[107]
10.1.5 アルカディアへの移住
アルカディア地方へ移住して、カピュアイの町に住み着いた人々もいた。[108]
10.1.6 アカルナニアへの移住
10.1.6.1 ケパロスの父
パンディオンの娘プロクリスの夫ケパロスもアイゲウスによって追放された。
多くの伝承は、ケパロスの父をデイオン (または、デイオネオス)と伝えている。ヒュギーヌスは、デイオンの子ケパロスはアテナイ人の王であったと伝えている。ケパロスはトリコスの町の王であった。[109]
トリコスの町は、アイゲウスの子テセウスが一つにまとめた12の町の一つであり、パンディオンもその町に住んでいた。[110]
ヒュギーヌスは、多くの伝承がパンディオンの息子だと伝えているメガラ王ニソスを、デイオンの息子だと伝えている。[111]
つまり、ケパロスの父は、デイオン (または、デイオネオス)という別名を持つアテナイ王パンディオンであった。
10.1.6.2 ケパレニアへの移住
ケパロスは、アルカイオスの子アンピュトリオンと共にテレボアイ人の地へ遠征した。[112]
ケパロスは、イオニア海で最大の島へ移住して、島はケパレニアと呼ばれるようになった。[113]
10.1.7 クレタへの移住
メティオンの子エウパラモスの子ダイダロスはアイゲウスに追われて、アテナイの町からクレタ島へ移住した。[114]
ダイダロスと共に、パンディオンの子パラスの息子もクレタ島へ移住して、ミノスの子アンドロゲウスと親しくなったと推定される。
10.2 ミノスとの戦い
BC1264年、クレタ島のミノスの子アンドロゲウスがテバイの町で開催されるラブダコスの子ライオスの葬送競技会へ行く途中、キタイロン山麓のオイノエの町で殺害された。[115]
ディオドロスは、アンドロゲウスがアイゲウスの政敵パラスの息子たちと親密であったために殺害されたと伝えている。[116]
ヒュギーヌスは、アイゲウスとミノスとの戦闘中にアンドロゲウスが死んだと伝えている。[117]
恐らく、アイゲウスと義兄弟との戦いの後で、彼らの次の世代であるパラスの息子たちがアンドロゲウスを介して、ミノスの援助を得て、アイゲウスに戦いを挑んだものと思われる。
その後、ミノスの本格的な侵攻を受けたアイゲウスは、パラスの息子たちにアテナイの町から追い出され、彼の義兄弟ニソスが住んでいたメガラに逃れた。メガラは、パンディオンの時代からの亡命先で、アイゲウスの味方が多くいたと思われる。[118]
しかし、ミノスとの戦いでニソスが戦死して、アイゲウスはトロイゼンの町のピッテウスのもとへ逃れた。[119]
10.3 トロイゼンへの亡命
アイゲウスがトロイゼンの町のピッテウスを亡命先に選んだのは、つぎの2つの理由であった。
1) 姻戚関係
ピッテウスの娘ヘニオケは、カルキスの町のカルコドンの兄弟カネトスの妻であった。
カルコドンの娘カルキオペは、アイゲウスの妻であった。[120]
つまり、アイゲウスは、彼の妻カルキオペのいとこの父ピッテウスを頼ったものと思われる。
2) アルカトオスの紹介
ペロプスの子アルカトオスの最初の妻ピュルゴの墓がメガラにあった。[121]
パンディオンの子ニソスがミノスとの戦いで戦死した後、アルカトオスがメガラを継承した。[122]
以上のことから、ピュルゴは、かつてニソスと王権を争ったクレソンの子ピュラスの子スキロンの娘であったと推定される。[123]
戦時の指揮権が与えられていたスキロンの娘の夫アルカトオスは、ミノスに攻められたメガラにいたはずである。[124]
アルカトオスは、自分の兄弟ピッテウスをアイゲウスに紹介したと推定される。[125]
この亡命中にアイゲウスは、ピッテウスの娘アイトラと出会うが、当時54歳と推定されるアイゲウスとアイトラとは正式な結婚ではなかった。[126]
後に、跡継ぎがいなくなったアイゲウスが、アイトラが産んだ彼の息子テセウスをアテナイの町へ呼び寄せたというのが、史実と思われる。[127]
10.4 アテナイへの帰還
BC1262年、アイゲウスは、トロイゼンの町からアテナイの町へ帰還した。アイゲウスの帰還には、ピッテウスの兄トロイゼンの2人の息子たち、アナプリュストスとスペットスが協力した。彼らの名前に因んだ2つの町がアッティカ地方に創建された。[128]
スペットスの町は、ストラボンが伝えているテセウスが1つにまとめた12の町の中に含まれているが、アナプリュストスの町は含まれていない。ストラボンは、11の町の名前しか記載していないが、もう1つは、アナプリュストスの町だと思われる。[129]
アイゲウスは、ミノスに貢納を約束して関係を改善したが、パラスの息子たちとの争いは続いていた。[130]
10.5 アイゲウスの息子たち
アイゲウスの息子は、テセウスのみが伝えられている。アイゲウスは、少なくとも3人の女性と結婚し、その他にも多くの女性たちと同棲したと伝えられている。[131]
アイゲウスが追放したペテウスは、アイゲウスの義兄弟オイネウス(オルネウス)の息子であった。[132]
アイゲウスは、オイネウスよりも年長であり、アイゲウスにもペテウスと同じくらいの年齢の息子たちがいても不思議ではない。
恐らく、アイゲウスには、名前が伝えられていない多くの息子たちがいたが、義兄弟たちとの戦いで死んだのではないかと思われる。
11 アイゲウスの子テセウスの時代 (1239-1209 BC)
11.1 アテナイ王即位前
11.1.1 トロイゼン時代
BC1263年、テセウスはトロイゼンの町で生まれ、祖父ピッテウスのもとで育てられた。テセウスが7歳の頃、ヘラクレスがピッテウスの屋敷を訪問した。[133]
ペロプスの子ピッテウスは、ヘラクレスの母アルクメナの母リュシディケ (または、エウリュディケ)の兄弟であった。[134]
つまり、ヘラクレスが祖母の兄弟を訪問したとき、ヘラクレスの又従兄弟のテセウスがいたことになる。そのとき、テセウスは初めてヘラクレスを見た。当時、19歳のヘラクレスは、テセウスに強い感動を与え、その後のヘラクレスの活躍は、テセウスを彼の信奉者にした。[135]
11.1.2 アテナイへの移住
テセウスは、高齢で跡継ぎのないアイゲウスによってアテナイの町へ呼び寄せられた。[136]
そのとき、テセウスは、16歳であった。[137]
テセウスは、アルゴ船の遠征物語にトロイゼンの町からの参加者として登場する。[138]
また、テセウスは、カリュドンの猪狩りの物語にアテナイの町からの参加者として登場する。[139]
この2つの出来事は、ヘラクレスがリュディア地方のオンパレの下で3年間奉仕している間に起きた。[140]
つまり、アルゴ船の遠征物語はBC1248年、カリュドンの猪狩りの物語はBC1246年の出来事であり、テセウスがトロイゼンの町からアテナイの町へ移住したのはBC1247年であった。
11.1.3 クレタとの結婚同盟
BC1241年、テセウスは、ミノスの娘パイドラを妻に迎えた。この少し前にミノスが死んで、跡を継いだミノスの長男デウカリオーンは、アイゲウスとの同盟を結ぶために妹のパイドラをテセウスに嫁がせた。[141]
テセウスとパイドラとの結婚による同盟締結によって、アテナイの町からクレタ島への貢納は廃止されたと思われる。
アテナイの町から若い男女がクレタ島へ送られたのは、競技会の勝者に与えられる奉公人とするためであった。彼らの子孫は、ボットンを指導者としてマケドニア地方のペッラの町の近くへ移住し、ボッティアイア人と呼ばれるようになった。アリストテレスは、若い男女は奴隷としてクレタ島へ送られたと述べている。[142]
ボットンがペッラの町の近くに定住したのは、既にアテナイ人に縁のある人々が住んでいたからであった。ペッラの町の近くのエウロプスの町は、アイゲウスの養父パンディオンの父ケクロプスの娘オレイテュイアの子エウロプスが創建した町であった。[143]
11.1.4 クレタからの移住
ミノスの娘パイドラの嫁入りには、彼女の姉アリアドネの子ケラモスと共に多くのクレタ人がアテナイの町へ移住して、ケラモスは、ケラメイコス区の名祖となった。[144]
このとき、クレタ島の陶器作りの技術がアテナイの町に持ち込まれ、ケラメイコス区は、陶工たちの街と呼ばれるようになった。[145]
11.1.5 テセウスの結婚
テセウスの妻は、パイドラの他にも、数多く伝えられているが、その中で、真実と思われるのは、ヘラクレスの異母兄弟イピクレスの娘イオペとの結婚である。[146]
イオペは、ヘラクレスの甥イオラオスの姉妹であった。
ヘラクレス死後、エウリュステウスに追われて行き場を失ったヘラクレスの息子たちをアテナイの町が受け入れたのは、イオラオスとテセウスが義兄弟であったからである。[147]
また、イストモスの町のシニスの娘ペリグネとの結婚も真実のようである。[148]
彼らの息子メラニッポスの英雄神社が、アテナイの町のメリテ区にあった。[149]
11.1.6 ケンタウロスとの戦い
テセウスは、ケンタウロスと戦ったと伝えられている。[150]
この伝承は、テッサリア地方からケンタウロスを追い出したイクシオンの子ペイリトウスとテセウスの交友関係から生じた創作と思われる。[151]
ペイリトウスとケンタウロスとの戦いはあったが、テセウスは参加していないと思われる。
ペイリトウスの妻ヒッポダメイアの父ブテスの父テレオンの父パンディオンは、テセウスの父アイゲウスの養父であり、ヒッポダメイアは、テセウスの父方の従兄弟の娘であった。
後に、ペイリトウスの後裔がテッサリア地方を追われて、アテナイの町へ亡命した際、アテナイ人は、先祖の友誼によって彼らを受け入れた。[152]
ペイリトウスの後裔は、アテナイの10部族の一つ、オイネイスになった。[153]
11.2 アテナイ王時代
11.2.1 アテナイの統合
BC1239年、アイゲウスが死に、24歳のテセウスが跡を継いだ。[154]
テセウスは、パンディオンの子パラスの息子たちとの戦いに勝利した。[155]
テセウスは、それまで、12の町に分かれて争いの絶えなかったアッティカ地方の町を1つにまとめた。[156]
ストラボンは、ケクロピア, テトラポリス, エパクリア, デケレイア, エレウシス, アピドナ, トリコス, ブラウロン, キュテロス, スペットス, ケピシアという11の町の名前を挙げている。もう一つは、スペットスの町と同時期に創建されたアナプリュストスの町と推定される。[157]
テセウスの権力掌握には、父アイゲウスと共にトロイゼンの町からアテナイの町へ移住して、2つの町を作ったアナプリュストスとスペットスの力が大きかった。2人は、テセウスの母アイトラの父方の従兄弟であった。[158]
アイゲウスの屋敷は、アテナイの町のアクロポリスのすぐ東側のデルピニオンにあったことから、ケクロピアが11の町を吸収して統合したものであった。[159]
11.2.2 エウリュステウスとの戦い
BC1218年、テセウスはトラキスの町を追い出されたヘラクレスの子供たちを受け入れて、アッティカ地方のトリコリュトスの町に住まわせた。[160]
テセウスの妻たちの一人イオペは、ヘラクレスの子供たちの保護者イオラオスの妹であり、テセウスとイオラオスは、義兄弟であった。[161]
BC1217年、エウリュステウスがミュケナイ人を率いて、ヘラクレイダイが住むアテナイの町へ攻め込んだが、エウリュステウスや彼の息子たちは戦死した。[162]
11.2.3 サルドへの植民
BC1216年、エウリュステウスが死んで、ヘラクレスの息子たちの脅威が取り除かれると、イオラオスは、アテナイ人から移民を募ってサルド島へ2回目の植民に旅立った。イオラオスは、サルド島で生涯を終えた。[163]
11.2.4 7将のテバイ攻め
BC1215年、アドラストス率いるアルゴス人がテバイの町を攻めたが、アテナイの町は関与しなかった。しかし、テバイ人に敗れたアドラストスに頼まれて、戦死者の遺体の引き取りの許可を得るために、テバイの町へ使者を派遣した。
BC4世紀の弁論家イソクラテスは、アテナイの町がテバイの町に脅しをかけたと伝えている。[164]
当時、他の町を圧倒する勢力のあったミュケナイ王エウリュステウスの軍勢を破ったアテナイの町をテバイの町は脅威に感じていたものと思われる。
11.2.5 ドーリスへの移住
BC1211年、ヘラクレスとデイアネイラの長男ヒュッロスは、ペロポネソスへの帰還を試みるが、イストモスで待ち受けていたペロポネソス勢に敗れ、ヒュッロスは戦死した。[165]
ヘラクレイダイは、トリコリュトスの町を出て、ドーリス地方のアイギミオスのもとへ移住した。[166]
ヒュッロスの軍にはイオニア人も従軍していて、その中に戦闘で犠牲になった者たちがいて、ヘラクレイダイはトリコリュトスの町に居づらくなったためであった。
11.2.6 メネステオスとの戦い
テセウスによる権力の統合は、それぞれの町を支配していた者たちの反発を招き、エレクテウスの子オルネウスの子ペテオスの子メネステオスは、彼らを扇動した。[167]
このエレクテウスは、パンディオンの父ケクロプスの父ではなく、パンディオンの別名であった。パンディオンの養子アイゲウスの子テセウスの子デモポンは、メネステオスと共にトロイ戦争時代の人であることから、そのように推定される。
メネステオスがテセウスへの反抗を準備していたとき、テセウスは少し前に死んだ妻パイドラのために、テスプロティス地方のアオルノンにある死者を呼び出す神託所へ旅した。[168]
11.2.7 メネステオスの蜂起
テセウスが留守にしたアテナイの町へラケダイモンからディオスクロイが彼らの妹ヘレネを連れて帰るために現れた。メネステオスは、これを利用して蜂起した。
BC1210年、テセウスの2人の息子たち、デモポンとアカマスは、エウボイア島のカルキスの町のエレペノールのもとへ逃れた。[169]
伝承では、テセウスが息子たちを避難させたとも伝えられるが、2人は成人であり、自らの意志で行動した。[170]
カルコドンの子エレペノールは、アイゲウスの妻カルキオペの兄弟であった。つまり、エレペノールは、テセウスの義母の兄弟であった。[171]
11.2.8 ディオスクロイの侵入
当時、7歳、10歳、あるいは、12歳とも伝えられるヘレネを、50歳のテセウスが誘拐したと伝えられている。[172]
実際は、イダスがテュンダレオスの娘ヘレネを誘拐してテセウスに預かり、テセウスがヘレネをアピドナイの町に預けていたものであった。[173]
イダスとテセウスの友ペイリトウスは、ヒッポテスの子アイオロスの子ラピテスを共通の祖とする同族であり、イダスとテセウスにも親交があったと思われる。[174]
古代の史料は、ディオスクロイの実力を過大に評価しているが、ミュケナイ王エウリュステウスを破ったアテナイの町にとっては取るに足らないものであった。
11.2.9 テセウスの最期
BC1209年、テスプロティス地方からアテナイの町へ戻ったテセウスは、住民の反感を抑えられず、スキュロス島へ渡った。[175]
彼の息子たちがエウボイア島へ行ったことは、テセウスは知らなかった。テセウスが彼の息子たちの消息を知っていれば、スキュロス島ではなくカルキスの町へ行ったはずである。
スキュロス島には、テセウスの父アイゲウスの所領があった。テセウスに居座られて、地位を奪われることを恐れたリュコメデスは、テセウスを殺した。[176]
リュコメデスは、アキレスの妻デイダミアの父であり、ネオプトレモスの祖父であった。[177]
リュコメデスは、アイゲウスの実父スキュリオスの孫であり、テセウスの従兄弟と推定される。[178]
12 ペテウスの子メネステオスの時代 (1209-1186 BC)
テセウスを追放して、ペテウス (または、ペテオス)の子メネステオスが第11代アテナイ王に即位した。
12.1 トロイ遠征
伝承では、メネステオスは、パレロン港からアテナイ人を率いて、トロイへ遠征したと伝えられている。[179]
しかし、メネステオスの権力は盤石ではなく、テセウスの息子たちによって奪われる可能性があり、メネステオスがトロイへ遠征したとは思われない。
恐らく、メネステオスは、若干の部隊をトロイ遠征に参加させて、本人は、アテナイの町に残っていたと思われる。
12.2 エウボイアからの帰還
BC1188年、エウボイア島のカルキスの町へ亡命していたテセウスの息子たち、デモポンとアカマスがアテナイの町へ帰還して、アテナイ人を掌握した。
メネステオスは、メロス島へ逃れて、その島で死んだ。[180]
12.3 ボイオティアからの移住
BC1188年、トラキア人に追われたオルコメノス人がアテナイの町へ逃れて来た。
彼らは、ムニュコスに受け入れられて、ムニュキアに定住した。[180-1]
ムニュコスは、デモポン (または、アカマス)とラオディケの息子であった。[180-2]
12.4 トロイからの帰還
BC1186年、トロイへ遠征したアカイア人は、イリオンの町との戦いに敗れた。
アテナイの町へ帰還できないアテナイ人は、イタリア半島南部のスキュレティオンの町へ移住した。[181]
また、アイオリス地方のキュメの町近くのエライアの町へ移住したアテナイ人もいた。[182]
12.5 テッサリアからの移住者
BC1186年、テッサリア地方へテスプロティア人が侵入して、彼らに追い出されたギュルトンの町のイクシオンの子ペリトウスの後裔が率いる人々は、アテナイの町へ逃れた。
BC4世紀の歴史家エポロスによれば、アテナイ人は、テセウスとペリトウスとの親交を考慮して彼らを受け入れ、後にペリトイダイと呼ばれる土地を分け与えたという。[183]
つまり、当時のアテナイの町を支配していたのは、テセウスを追放した人々ではなく、テセウスの子デモポンであった。
また、テッサリア地方のフェライの町からも、エウメロスの子ゼウキッポスの子アルメニオス (または、ハルメニオス)が、アテナイの町へ逃れて来た。[184]
アテナイの町で生まれたアルメニオスの娘ヘニオケは、メッセニア地方のペンチロスの子アンドロポンポスに嫁ぎ、息子メラントスが生まれた。メラントスは、第16代アテナイ王になった。[185]
メラントスの母や妻は、アテナイ人であったとパウサニアスが伝えている。[186]
13 テセウスの子デモポンの時代 (1186-1153 BC)
メネステオスを追放して、テセウスの子デモポンが第12代アテナイ王に即位した。
13.1 テセウスの遺骨の帰還
プルタルコスは、アテナイの将軍キモンがスキュロス島を攻略した時、テセウスの遺骨をアテナイの町へ持ち帰ったと伝えている。[187]
それは、テセウスの死後、739年後であった。
しかし、アテナイの町へ帰還したテセウスの息子たちがテセウスの消息を調べないはずがない。
スーダ辞典は、テセウスを殺したリュコメデスはアテナイ人によって殺され、テセウスの遺骨はアテナイの町へ持ち帰られたと伝えている。[188]
13.2 デモポンの妻
AD5世紀の神学者ヒエロニムスは、デモポンの子オクシュンテスがヘラクレスの後裔だとする説もあると伝えている。[189]
もしこれが真実であれば、デモポンの父テセウスは、ヘラクレスと同世代なので、デモポンの妻であり、オクシュンテスの母である女性がヘラクレスの娘でなければならない。
デモポンの妻は、つぎの理由からヘラクレスの娘マカリアであったと推定される。
BC1218年、ミュケナイの町のエウリュステウスが、トラキスの町のケユクスにヘラクレス一家を追い出さなければ武力に訴えると脅した。ヘラクレスの子供たちは、アッティカ地方のテトラポリスの一つトリコリュトスの町に転居した。[190]
その町には、ヘラクレスとデイアネイラとの間の娘マカリアの名前に因んだ泉があった。[191]
エウリュステウスは、ヘラクレスの子供たちが次々成人するのに危機感を募らせたと伝えられており、マカリアも結婚適齢期であった。[192]
同じくデモポンも結婚適齢期であり、同じ地域に住んでいたので、ヒエロニムスが伝える説は真実であると思われる。
マカリアの後見人イオラオスの姉妹イオペは、デモポンの父テセウスの妻たちの一人であった。[193]
イオラオスが、マカリアを義兄弟テセウスの息子デモポンに引き合わせたと推定される。
14 デモポンの子オクシュンテスの時代 (1153-1141 BC)
デモポンの跡を継いで、デモポンの子オクシュンテスが、第13代アテナイ王に即位した。[194]
15 オクシュンテスの子アペイダスの時代 (1141-1140 BC)
オクシュンテスの跡を継いで、オクシュンテスの子アペイダスが、第14代アテナイ王に即位した。[195]
アペイダスは、彼の異母兄弟テュモイテスに殺された。[196]
16 オクシュンテスの子テュモイテスの時代 (1140-1111 BC)
アペイダスを殺して、オクシュンテスの子テュモイテスが、第15代アテナイ王に即位した。[197]
16.1 ボイオティアへの帰還
BC1126年、ムニュキアに住んでいたオルコメノス人がボイオティア地方へ帰還した。[197-1]
彼らの中にいたテロの子カイロンは、当時、アルネと呼ばれていた町へ移住して、町はカイロネイアと呼ばれるようになった。[197-2]
17 アンドロポンポスの子メラントスの時代 (1111-1095 BC)
17.1 メラントスのメッセニア時代
多くの史料が、メラントスはピュロス王だと伝えている。[198]
しかし、メラントスはメッセニア地方のピュロスの町には住んでいなかった。
メラントスは、ペリクリュメノスの子ペンチロス(または、ボロス)の子ボロス(または、ペンチロス)の子アンドロポンポスの息子であった。[199]
アパレウスの子イダスが死んだ後で、ネレウスの子ネストルがメッセニア地方の支配権を継承した。[200]
ネストルや彼の息子たち、トラシュメデスとアンティロコスは、ピュロスの町に住んでいた。[201]
メラントスは、ネレウスの長男ペリクリュメノスの直系の子孫であり、ネストルの子孫ではなかった。メラントスはピュロスの町にではなく、アンダニアの町に住んでいたと思われる。[202]
メラントスは、ピュロスの王ではなく、メッセニア人の王であった。[203]
17.2 メラントスのアテナイへの移住
17.2.1 移住先の決定
メラントスは、デルポイでどこに住むべきかを神に問うて、エレウシスのあるアテナイの町へ行くことになったと伝えられている。[204]
古代の作家は、動機などが不明の場合、「神託により」と記すことが多い。メラントスが何故、移住先にアテナイの町を選んだのか神託以外の理由を伝えている史料はないが、つぎのような理由があった。
パウサニアスは、メラントスの母も妻もアテナイ人であったと伝えており、メラントスは、テュモイテスの娘婿であったと思われる。[205]
テッサリア地方のフェライの町の住人は、テスプロティア人に追われて、エウメロスの子ゼウキッポスの子アルメニオスに率いられてアテナイの町へ移住した。[206]
アルメニオスの娘ヘニオケは、メッセニア地方のアンドロポンポスに嫁ぎ、息子メラントスが生まれた。[207]
系図を作成すると、移住時のメラントスは50歳を超えており、メラントスの跡を継いだ息子コドロスも30歳を超えていた。当時テュモイテスは、在位30年目であり、娘婿にアテナイ王を継がせたものと思われる。
17.2.2 エレウシス
BC1111年、メラントスが最初に行ったのはエレウシスの町であった。メッセニア地方とエレウシスの町は深い関係があった。[208]
BC1385年、エレウシスに住むピュロスの子ケライノスの子カウコンがアンダニアの町に住むメッセネを訪問して、大女神の祭儀を伝えた。[209]
ピュロスの妻ケライノは、メッセネの姉であり、カウコンは、メッセネの姉の孫であった。[210]
BC1275年、パンディオンの子リュコスも、アレネの町やアンダニアの町で、大女神の祭儀を執り行った。[211]
この祭儀は、メラントスの時代以降も、メッセニア戦争の時代まで脈々と受け継がれていた。[212]
17.3 メラントスの在位期間
BC2世紀の年代記作者カストールは、ケクロプスからテュモイテスまでのアテナイ王の統治期間は、450年間であったと伝えている。しかし、歴代の王の統治年数を合計すると429年間になり21年足りない。[213]
カストールは、デモポンの子オクシュンテスが12年、オクシュンテスの子アペイダスが1年、アペイダスの異母兄弟テュモイテスが8年と、それぞれの統治年数を伝えている。しかし、その前後の王たちの統治年数に比べて、3人で、21年は少な過ぎる。[214]
カストールは、メラントスの統治年数を37年と伝えているが、そのうちの21年はメッセニア王としての統治年数であったと思われる。
アテナイ王としてのメラントスの統治年数は16年で、テュモイテスの統治年数は29年であったと推定される。
18 トゥキュディデスの見解
BC5世紀の歴史家トゥキュディデスは、アッティカ地方の繁栄は、難民の流入による人口増加によってもたらされたものだと述べている。さらに、トゥキュディデスは、それ以前のアッティカ地方には、内紛がなかったとも述べている。[215]
しかし、初代アテナイ王ケクロプスから、クラナオス、アンピクテュオン、エリクトニオスへと続く王位継承争いがあった。また、2世代に渡るエレウシスとの戦いがあった。
さらに、第7代アテナイ王ケクロプスの時代から、パンディオン、アイゲウス、テセウスの時代へと続く、兄弟間の戦いがあった。そして、クレタ島のミノスとの戦いもあった。
青銅器時代のアッティカ地方は、内紛の連続であった。
おわり
