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第12章 シキュオンの青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2026.2.16

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1 はじめに

BC2世紀の年代記作者カストールは、シキュオン王は、アイギアレオスから959年間続いたと伝えている。[1]

AD4世紀の歴史家エウセビオスは、カストールからの情報を基にして、シキュオンの町の創建は、アテナイの町より約533年、アルゴスの町より235年早かったと述べている。[2]

しかし、他の史料から得られる情報と合わせて考えると、シキュオンの町の創建は、アルゴスの町と同時期である。

カストールは、歴代のシキュオン王、26人の名前と統治期間のみを記している。

シキュオンの町は、初代アイギアレオスから途切れることなく、平穏に王朝が続いたように見えるが、青銅器時代のシキュオンの町には、波乱に満ちた歴史があった。

 

2 イナコスの後裔とテルキネス族による支配

2.1 アイギアレイアの創建

BC1750年、イナコスの子アイギアレオス (または、アイゼイオス)は、パルナッソス山近くのケピソス川上流からペロポネソス北部の海岸地方へ移住して、アイギアレイア (後のシキュオン)の町を創建した。[3]

アイギアレオスの兄弟ポロネオスは、さらに南へ進んで、ポロネオス (後のアルゴス)の町を創建した。[4]

 

2.2 アイギアレオスの系譜

パウサニアスは、アイギアレオスの子エウロプスの子テルキスの子アピスという系譜を伝えている。[5]

パウサニアスは、カストールが作成した親子関係の記載がないシキュオン王のリストを参照している。

エウロプスとアピスは、アイギアレオスの兄弟ポロネオスの息子たちであった。[6]

 

2.3 後継者争い

初期のシキュオンの町には、つぎのような後継者争いがあったと推定される。

アイギアレオスには、子供がいなかったとする伝承がある。[7]

しかし、アイギアレオスには、息子リュカオンがいたとする伝承もある。[8]

実際は、アイギアレオスには、息子リュカオンがいたが、リュカオンは父より先に死んだと思われる。

BC1708年、アイギアレオスが死に、彼の跡を継ぐ者がいなかった。

アイギアレオスの兄弟ポロネオスは、自分の息子をアイギアレオスの後継者にして、エウロプスが第2代シキュオン王になった。[9]

BC1702年、シキュオンの町の有力者テルキン (または、テルキス)は、エウロプスから王位を簒奪して、第3代シキュオン王になった。[10]

ポロネオスは、シキュオンの町を攻めて、テルキン率いるテルキネス族と戦うが撃退された。[11]

 

2.4 アピスとの戦い

BC1700年、ポロネオスが死に、彼の息子アピスが第3代アルゴス王になった。[12]

BC1690年、アピスは、シキュオンの町を攻めて、テルキネス族と戦って勝利し、町を占領した。[13]

アピスは、第3代シキュオン王テルキンを追放して、第4代シキュオン王になった。[14]

アピスは、ペロポネソスの支配者になり、ペロポネソスはアピスの名に因んでアピアと呼ばれるようになった。[15]

 

2.5 クレタへの移住

アピスとの戦いに敗れたテルキネス族の一部は、テルキンの子クレスに率いられて、クレタ島へ移住した。[16]

クレスは、クレタ島のエテオクレタ人の王になった。[17]

その後、テルキネス族の一部は、オピウッサ島に渡り、島はテルキニス (後のロドス)島と呼ばれるようになった。[18]

 

2.6 アルゴスによる支配

アピスは、彼の姉妹ニオベの子ペラスゴスとアイギアレオスの子リュカオンの娘デイアネイラとを結婚させて、ペラスゴスにシキュオンの町を統治させた。[19]

ペラスゴスと共に、多くのペラスゴイ人がアルゴスの町からシキュオンの町へ移住した。

BC1665年、テルキンと彼の息子テルキオンはアピスを殺して、シキュオンの町は、アルゴスの町から独立した。[20]

 

2.7 イタリアへの移住

ペラスゴスとデイアネイラとの息子リュカオンは、キュレネと結婚して、2人の息子たち、オイノトロスとペウケティウスが生まれた。[21]

BC1635年、オイノトロスとペウケティウスは、彼らの祖父ペラスゴスと共にアルゴスの町からシキュオンの町へ移住して来た人々の子孫を率いて、新天地を求めた。

オイノトロスとペウケティウスは、シキュオンの町を出発してイタリア半島に入植した。[22]

 

2.8 クレタからの移住

シキュオンの町がアルゴスの町から独立して、テルキネス族が町を支配すると、クレタ島へ移住したテルキネス族との交易が盛んになった。

アルゴス地方湾とシキュオンの町とを結ぶ交通の要衝の地にあったミュケナイの町にもテルキネス族が住み着いたと思われる。

 

2.9 アルゴスの内紛

BC1601年、アルゴスの町に住んでいたニオベの子アルゴスの後裔の間で、争いが生じた。

アルゴスの子クリアソスの子ポルバスは、アルゴスの子ペイラソスの子トリオプスから王位を簒奪した。トリオプスに味方したアルゴスの子エクバソスの子アゲノールの子アルゴスは、ミュケナイの町へ移住して、町はアルギオンと呼ばれるようになった。[23]

アルゴスは、many-eyed、あるいは、All-seeingと呼ばれ、先見の明がある優れた人物であった。[24]

 

2.10 ミュケナイとの姻戚関係

BC1601年、アルゴスは、第7代シキュオン王トゥリマコスの娘イスメネを妻に迎えた。[25]

BC1576年、アルゴスの子メッサポスは、第8代シキュオン王レウキッポスの娘カルキニアを妻に迎えた。[26]

レウキッポスが死ぬと、ミュケナイ の町に住むメッサポスは、第9代シキュオン王になり、シキュオンの町をミュケナイ の町の支配下に置いた。[27]

 

3 ミュケナイによる支配

3.1 アルゴスとの戦い

BC1560年、アルゴスの子メッサポスがアルゴスの町を攻め、シキュオンの町に住むテルキネス族も攻撃に参加した。アルゴスの町に住んでいたペラスゴイ人は、各地へ移住した。[28]

この戦いの後で、ミュケナイの町は、アルカディア地方に住むペラスゴイ人を除いて、ペロポネソス半島に住む人々の大半を支配することになった。

 

3.2 ダナオスの出現

BC1430年、プレムナイオスの子オルトポリスの時代に、ダナオスがエジプトからアルゴスの町へ移住して来た。[29]

ダナオスは、BC1560年にアルゴスの町から追われたイアソスの娘イオの後裔であった。

アルゴスの町を支配していたステネラスの子ゲラノールは、ダナオスに追われて、シキュオンの町へ逃れた。[30]

このとき、ミュケナイの町は、ゲラノールの兄弟エウリュステウスが支配していた。[31]

ミュケナイの町も、ダナオスによって破壊され、ミュケナイの町の住人は、シキュオンの町へ逃れた。

 

3.3 アルゴスの占領

BC1408年、ゲラノールの子ラメドンは、シキュオンの町のオルトポリスの協力を得て、アルゴスの町を占領した。[32]

ダナオスの跡を継いだリュンケウスが死に、リュンケウスの子アバス (または、トリオパス)が父の跡を継いでから、5年目であった。[33]

アバスは、アルゴスの町からポキス地方へ移住してアバイの町を建設した。[34]

 

3.4 アカイア人との戦い

BC1407年、アカイオスの2人の息子たち、アルカンドロスとアルキテレスは、アルゴスの町を占拠していたラメドンを追い出した。[35]

シキュオンの町のオルトポリスは、ラメドンに味方して、アルカンドロスと戦った。

アルカンドロスに味方したのは、ロクリス地方のデウカリオーンの子マラトニウスやアイオロスの子シシュッポスであった。[36]

 

3.5 戦いの結果

デウカリオーンの子マラトニウスは、オルトポリスの娘クリュソルテを妻にして、第13代シキュオン王になった。[37]

しかし、カストールが記したシキュオン王の系譜にあるマラトニウスは、形式的なものであった。

実質的にシキュオンの町を支配したのは、アイオロスの子シシュッポスであった。

シキュオンの町の支配者は、テルキネス族からアイオリスになった。

 

4 アイオリスによる支配

シシュッポスは、シキュオンの町の東隣にエピュラ (後のコリントス)の町を創建し、両方の町を統治した。[38]

 

4.1 シシュッポスの後のシキュオン

シシュッポスの死後、シキュオンの町は、シシュッポスの子アロエウスが継承し、コリントスの町は、シシュッポスの子アイイテスが継承した。[39]

アロエウスの跡を、彼の息子エポペウスが継いだ。[40]

エポペウスはシキュオンの町に住み、コリントスの町をも支配した。[41]

 

4.2 エポペウスの妻メトペ

4.2.1 メトペの系譜

テバイの町のすぐ東側を南から北へ流れるイスメノス川の名付け親は、メリアの子イスメノスであった。それ以前、イスメノス川は、ラドン川と呼ばれていた。[42]

また、プリウス地方のアソポス河神はラドンの娘メトペと結婚し、ボイオティア地方の川の名親となった息子イスメノスが生まれた。[43]

ラドンの娘メトペ (または、メリア)には、もう一人の息子テネロス (または、ペラスゴス, ペラゴン)がいた。[44]

テネロスは予言者であり、コパイス湖の東方プトオス山に神託所を開設した。[45]

テバイ攻め時代のテバイの町の予言者エウイレスの子テイレシアスは、カドモス時代のスパルトイの一人ウダイオスの後裔であった。[46]

また、テバイの町で、アンピュトリオンの妻アルクメナの出産に立ち会ったテイレシアスの娘ヒストリスも、予言者であった。彼女の父テイレシアスは、エウイレスの息子ではなく、メトペの子テネロスの息子と思われる。[47]

以上のことから、メトペの父ラドンは、エウイレスの子テイレシアスの先祖であり、ラドンの父は、カドモスと共にカドメイアに住み着いたスパルトイの一人ウダイオスと推定される。[48]

 

4.2.2 メトペの夫

メトペの夫、つまり、プリウス地方のアソポス河神は、つぎの理由からアロエウスの子エポペウスと推定される。

1) メトペの息子イスメノスは、エポペウスが住んでいたプリウス地方からボイオティア地方へ移住して、イスメノス川の近くに定住した。[49]

イスメノス川は、ラドン川と呼ばれていた。[50]

恐らく、その川の名前は、メトペの父ラドンに因んで名付けられたと思われる。[51]

2) アソポス河神の娘ハルピナ (または、ハルピネ)は、アルカディア地方西部のヘライアの町に嫁いだが、その町の近くを流れる川の名前はラドンであった。[52]

ハルピナが結婚した頃、プリウス地方からアソポス川が流れ込むシキュオンの町の支配者は、エポペウスであり、ハルピナの父アソポス河神は、エポペウスと推定される。

つまり、メトペの夫は、エポペウスであり、彼らの娘ハルピナがヘライアの町の近くを流れるラドン川に、彼女の母の故郷の川と同じ名前を付けたと推定される。

 

4.3 エポペウスとアンティオペについて

4.3.1 史料出現

ホメロスの作品に、アンピオンとゼトスの母としてアンティオペは登場するが、エポペウスは登場しない。[53]

ヘロドトスの著作には、アンティオペもエポペウスも登場しない。

ロドス島のアポロニオスの著作には、アンピオンとゼトスの母アンティオペは登場するが、エポペウスは登場しない。[54]

年代記作者カストールやヒエロニムスの著作には、シキュオン王エポペウスは登場するが、アンティオペは登場しない。[55]

ディオドロスの著作には、シキュオン王エポペウスは登場するが、アンティオペは登場しない。[56]

ヒュギーヌスの著作には、エポペウスではなく、アンティオペと結婚して、リュコスに殺されるエパポスが登場する。[57]

アポロドロスの著作には、アンティオペがシキュオンの町のエポペウスのもとへ逃れて結婚し、テバイの町のリュコスがシキュオンの町を攻めて、エポペウスを殺したと伝えている。[58]

アイザック・ニュートンは、パウサニアスと同じように伝えている。[59]

 

4.3.2 パウサニアスの記述

パウサニアスは、シキュオンの町のエポペウスと、エポペウスの子マラトンについて、つぎのように記している。

コリントス王ブノスが死ぬと、シキュオン王エポペウスがコリントスの町をも支配した。[60]

エポペウスがアンティオペを誘拐したので、テバイ人はシキュオンの町へ攻め込んだ。この戦いで、エポペウスは負傷したが、勝利した。

ニュクテウスは負傷し、死に臨んで兄弟のリュコスに復讐を頼んだ。

アンティオペは、テバイ人によって、テバイの町まで連れて行かれる途中でアンピオンとゼトスを産んだ。[61]

ヘリウスの子アロエウスの子エポペウスの子マラトンが、父の無法と横暴を逃れてアッティカ地方の海沿いの地へ移住した。そして、エポペウスが死ぬとマラトンは、彼の息子たちに王国を分け与え、再びアッティカ地方へ帰った。[62]

エポペウスとアンティオペの伝承は、意図的に、テバイの町の基礎を築いたアンピオンとゼトスをシキュオンの町に結び付けようとしているようである。

 

4.3.3 エポペウスとテッサリア

パウサニアスは、「エポペウスがテッサリアから来て王国を獲得した」と伝えている。[63]

系図を作成すると、同じ頃に、テッサリア地方のアルネの町に、イタリアからアイオロスの娘メラニッペの子ボイオトスが帰還して、アイオロスの跡を継いでいる。[64]

エポペウスは、アイオロスの娘カナケの息子であり、ボイオトスと同じく、アルネの町のアイオロスの孫であった。[65]

恐らく、エポペウスは、アルネの町のアイオロスの養子になり、ボイオトスが帰って来たために、テッサリア地方からシキュオンの町へ戻ったものと思われる。

 

4.4 アッティカからの移住

BC1321年、エポペウスが死ぬと、彼の息子マラトンは、アッティカ地方からシキュオンの町に戻り、シキュオンの町とコリントスの町を継承した。[66]

マラトンの2人の息子たち、シキュオンとコリントスは、アソピアの町とエピュライアの町を分け与えられて、それぞれの町は、シキュオンの町とコリントスの町と呼ばれるようになった。[67]

マラトンの妻は、第6代アテナイ王エレクテウスの娘であった。[68]

つまり、マラトンの跡を継いで、シキュオン王になったシキュオンは、エレクテウスの孫であった。

 

4.5 テネアからの移住

BC1276年、マラトンの子シキュオンの跡を、彼の娘クトノピュレの子ポリュボスが継いだ。[69]

ポリュボスは、コリントス地方のテネアの町に住んでいたが、町を彼の養子オイディプスに任せて、シキュオンの町へ移住した。[70]

 

4.6 アルゴスへの嫁入り

BC1263年、ポリュボスの娘リュシアナッサは、アルゴスの町のビアスの子タラオスのもとへ嫁ぎ、息子アドラストスが生まれた。[71]

リュシアナッサとタラオスは、ミマスの子ヒッポテスの子アイオロスを共通の先祖としていた。

タラオスは、アイオロスの子サルモネオスの娘テュロの子アミュタオンの子ビアスの息子であった。

リュシアナッサは、アイオロスの娘カナケの子エポペウスの子シキュオンの娘クトノピュレの子ポリュボスの娘であった。

 

4.7 タラオスの子アドラストス

BC1247年、アルゴスの町のタラオスの子アドラストスは、メランプスの後裔アンピアラオスと争って、シキュオンの町のポリュボスのもとへ亡命した。[72]

ポリュボスは、アドラストスの母リュシアナッサの父であった。

BC1238年、アドラストスは、アンピアラオスと和解して、アルゴスの町へ帰還した。[73]

BC1236年、ポリュボスが死に、ポリュボスの孫アドラストスは、シキュオン人から招かれて、町を治めた。[74]

BC1232年、アドラストスは、シキュオンの町に4年間住んだ後で、アルゴスの町へ帰還した。[75]

 

5 アドラストス以降のシキュオン

アドラストスが去った後のシキュオン王の系譜は、2通り存在する。

 

5.1 カストールの記述

アドラストスの跡をポリュペイデス、ペラスゴス、ゼウキッポスが王になり、その後、アポロ・カルネイオスの司祭がシキュオンの町を支配した。[76]

カストールは、3人の王の統治期間の合計を82年とし、BC1150年からドーリス人の支配が始まったように伝えている。

 

5.2 パウサニアスの記述

アドラストスの後にイアニスコス、パイストス、ゼウキッポス、ヒッポリュトス、ラケスタデスが王になった。ラケスタデスの時代に、テメノスの子パルケス率いるドーリス人に攻められたが、ラケスタデスもヘラクレイダイの一人であったので、共住した。[77]

パウサニアスは、パイストスがヘラクレスの息子だと記している。しかし、それが本当であれば、ミュケナイ王エウリュステウスに追い出されていた筈である。パイストスは、母の名前も不明であり、ヘラクレスの息子ではないと思われる。[78]

 

5.3 王制の廃止

BC1109年からシキュオンの町は、ドーリス人によって支配された。

ドーリス人の支配になってからは、王の支配ではなく、司祭がシキュオンの町を支配した。[79]

シキュオン王の統治期間を、カストールの年代記は、959年、ヒエロニムスの年代記は、962年、スーダ辞典は、981年であったと記している。[80]

しかし、実際は、BC1750年からBC1109年までの641年間であった。

 

おわり

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