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第23章 ボイオティア地方の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2026.2.16

1 はじめに

1.1 恵まれた立地条件

ギリシアの中でボイオティア地方だけが3つの海に出る港があったと、BC4世紀の歴史家エポロスが述べている。つまり、イタリアやシシリー方面への海、マケドニアやヘレスポント方面への海、キュプロスやエジプト方面への海であった。[1]

20世紀初頭の英国の詩人で考古学者のスタンレー・カッソンは、ケピソス川が流れ込むコパイス湖を中心としたボイオティア地方はギリシア発祥の地であり、豊かな土壌のため、他に依存しない自己完結型の地方であったと記している。[2]

 

1.2 多くの種族の混住

BC3世紀の旅行家ヘラクレイデス・クリティコスは、ボイオティア地方のそれぞれの町の欠点を列挙した格言を紹介している。彼は、ギリシアの他の地域から人々がボイオティア地方へそれらの欠点を持ち込んだと述べている。[3]

ボイオティア地方へは、エジプト、フェニキア地方、アルカディア地方、テッサリア地方、マケドニア地方、アテナイの町、アルゴスの町、コリントスの町、クレタ島、サモトラケ島、ロドス島から人が流れ込んだ。

ボイオティア地方ほど、多くの種族が入り混じった地方は、ギリシアの他の地方には見られない。

 

1.3 町の名前の由来

パウサニアスは、ボイオティア地方のほとんどの町の名前が女性の名前に由来していると記している。[4]

しかし、女性の名前に由来する町は、アスクラ, アウリス, ミデイア, プラタイア, タナグラ, テバイ, テスピアイ, チスベであり、8つであった。

男性の名前に由来する町は、それより多く、17の町があった。

つまり、アラルコメナイ, アンテドン, アスプレドン, カイロネイア, コパイ, コロネイア, エレウテライ, ハリアルトス, ヒュイットス, ヒュリア, レバデイア, レウクトラ, メデオン, オルモネス, オンケストス, オルコメノス, スコイノスである。

 

この章では、次の町の歴史について記述する。

アラルコメナイ, アンテドン, アスクラ, アウリス, カイロネイア (アルネ), コパイ, コロネイア, エレウテライ, エウトレシス, ハリアルトス, ヒュリア (エウボイア), ヒュシアイ, レバデイア, レウクトラ, メデオン, オカレアイ, オンケストス, プラタイア, スコイノス, タナグラ, テスピアイ.

なお、アクライピオン、アスプレドン、ヒュイットス、ミデイア、オルモネス (アルモネス)、プレギュアスについては、オルコメノスの青銅器時代の歴史の中で記述している。

テバイ (カドメイア)、オルコメノス (アンドレイス)については、個別の章で記述している。

 

2 カドモス移住前のボイオティア

2.1 エクテネスの定住

BC1750年、パルナッソス山の北側を西から東へ流れるケピソス川の上流で、長期間にわたる大洪水が発生した。オギュゴス時代の大洪水である。[5]

ケピソス川の流域で暮らしていた人々は、新たな土地を求めて、各地へ移住した。

オギュゴス率いるエクテネスは、ケピソス川の河口近くにできた大きな湖の南側へ移住した。[6]

エクテネスの居住地の範囲は、西はヘリコン山の北麓から、東はエウリポス海峡近くまでの広範囲に及んだ。[7]

テバイの町の一番古いオギュギアイ門の名前は、オギュゴスに因んで付けられた。[8]

 

2.2 エクテネスの各地への移住

BC1580年、オギュゴスから6世代目のとき、ヒュアンテス、テンミケス、アオニア人に圧迫されて、エクテネスは、一部を残して、各地へ移住した。エクテネスは、アッティカ地方やテッサリア地方、そして、海を渡ってエジプトへ移住した。[9]

テッサリア地方へ向かった人々を率いたのは、ヘレネスに名を与えたヘレンの父デウカリオーンの祖父であった。エジプトへ向かった人々の中には、初代アテナイ王となるケクロプスも含まれていた。

第2代アテナイ王クラナオスの娘は、デウカリオーンの子アンピクテュオンと結婚した。

第4代アテナイ王エリクトニオスの娘クレウサは、デウカリオーンの子ヘレンの子クストスと結婚した。

これらの結婚は、テッサリア地方へ向かった人々とエジプトへ向かった人々との親戚関係を証明している。[10]

エクテネスの名前で呼ばれていたボイオティア地方の住人は、エクテネスが去った後で、ヒュアンテス、あるいはアオニア人と呼ばれるようになった。[11]

 

2.3 エクテネスの再定住

エジプトへ移住したオギュゴスの子孫は、ケクロプスを指導者として、アッティカ地方に再移住した。

ケクロプスの甥と思われるクラナオスは、ケクロプスより遅れてエジプトから渡来した。

クラナオスは、オギュゴスが昔住んでいたボイオティア地方のトリトン川の近くに居住した。[12]

当時、クラナオスの娘アッティスは、アテナの異名を持つ幼子であった。[13]

トリトン川のほとりには、ケクロプスがクラナオスに命じて建設させたエレウシスの町とアテナイの町があったが、コパイス湖に水没した。[14]

しかし、BC4世紀にアレクサンドロス大王の命を受けたカルキスの町の鉱山師クラテスが地下水路の詰まり物を除去した。水位が下がったコパイス湖の中からアテナイの町が現れた。[15]

 

3 アラルコメナイの歴史

ホメロスは、アテナの名前にアラルコメナイを冠しているが、アラルコメナイの町はアテナ生誕の地であった。[16]

ケクロプスがアラルコメナイの町の近くを流れるトリトン川のほとりにアテナイの町とエレウシスの町を創建したと伝えられるが、実際にその地に住んだのはクラナオスであったと思われる。[17]

クラナオスの娘アッティス(別名、アテナ)は、トリトン川のほとりで育った。[18]

BC86年、ローマの将軍スッラは、アラルコメナイの町を破壊し、アテナ神殿にあった象牙造りのアテナ神像を略奪した。[19]

パウサニアスの時代には、崩れた神殿はツタに覆われていた。[20]

アラルコメナイの町は、山の急斜面にある小さな町で、その下の平地にアテナ神殿があった。[21]

 

4 アンテドンの歴史

BC1420年、アトラスの娘アルキュオネの子アンタスは、アンテドンの町を創建した。[22]

アルキュオネには、2人の息子たち、ヒュリエウスとヒュペレノールがいた。[23]

ヒュリエウスは、ヒュリアの町に住んでいたことから、アンテドンの町のアンタスとは、ヒュペレノールの別名であったと思われる。[24]

アンタス (別名ヒュペレノール)の父は、アルカディア地方からサモトラケ島を経由してボイオティア地方へ移住して来たメガッサレスと思われる。したがって、アンテドンの町に最初に住んだギリシア人は、アルカディア人であった。[25]

その後、アイオリスであるシシュッポスの子アロエウスの子アロエウスが、シキュオンの町からアンテドンの町へ移住して来たと推定される。

推定の根拠の一つは、アロエウスとイピメデイアの2人の息子たち、オトスとエピアルテスの墓がアンテドンの町にあったと伝えられていることである。[26]

もう一つは、アロエウスの妻イピメデイアと娘のパンクラティスがトラキア人によって、テッサリア地方のプティオティスの近くから拉致されたと伝えられることである。

彼女たちが拉致された場所は、シキュオンの町ではなくアンテドンの町と思われることである。[27]

この当時、テバイの町から北北東へ約12kmの所に、アタマスの子スコイノスが創建したスコイノスの町があったが、アンテドンの町は、そこからさらに北東へ約12kmの海岸の近くにあった。[28]

アタマスの子スコイノスは、シシュッポスの子アロエウスの子アロエウスにとっては、父の従兄弟であった。[29]

また、アロエウスの父の兄弟アイイテスは、コルキスへ移住しており、アンテドンの町は、コルキスへ向けての航海に適した位置にあった。[30]

 

5 アスクラの歴史

BC1332年、アスクラの子オイオクロスは、アロエウスの2人の息子たち、オトスとエピアルテスと共に、アソポス川源流付近にアスクラの町を創建した。[31]

オイオクロスの母アスクラは、シシュッポスの子アロエウスの娘で、アスクラの夫は、シシュッポスの子テルサンドロスの子ハリアルトスであったと思われる。

ハリアルトスは、アタマスの養子で、ハリアルトスの町の創建者であった。[32]

オイオクロスは、ハリアルトスの町から南へ移住して、アスクラの町を創建した。

オイオクロスに協力した、アロエウスの息子たちとは、シシュッポスの子アロエウスを共通の祖父とする従兄弟同士であったと推定される。

 

6 アウリスの歴史

パウサニアスは、アウリスの町の名前がオギュゴスの娘の名前に因んだものだという伝承を記している。[33]

その伝承が真実であれば、アウリスの町の創建は、BC1720年頃で、アウリスの町は、ボイオティア地方で最古の町になる。

アウリスの町の港は、多数の艦船の集結に適していた。

BC1205年、エピゴノイ率いるアルゴス人は、アルゴスの町から海路でアウリスの町に上陸した後で、テバイの町へ進軍した。[34]

BC1188年、アカイア人のトロイ遠征に参加する船がアウリス港に集結後、トロイへ向かった。[35]

BC1126年、オレステスの子ペンチロス率いる植民団に参加する船がアウリス港に集結後、小アジアへ向かった。[36]

BC396年、スパルタ王アゲシラオス2世は、アウリス港から小アジアへ出発した。[37]

 

7 カイロネイア (アルネ)の歴史

BC1186年、テッサリア地方のアルネの町に住んでいたボイオティア人は、ギリシア北西部からテッサリア地方に侵入したテスプロティア人に追われて、ボイオティア地方へ移住した。

予言者ペリポルタスやペネレオスの子オペルテスに率いられたボイオティア人は、ボイオティア地方の西部辺境の地に定住して、町をアルネと呼んだ。[38]

BC1126年、オペルテスの子ダマシクトンは、テバイの町に住むカドモスの後裔アウテシオンを追い出し、オルコメノスの町をも併合して、ボイオティア地方全域を支配下に置いた。[39]

このとき、オルコメノスの町の一部の住人は、テロの子カイロンに率いられて、ボイオティア人が退去したアルネの町に移住して、町の名前をカイロネイアに変えた。[40]

カイロネイアの町は、亡命中のアテナイの町から帰還したオルコメノス人が創建したと思われ、テロの祖父イオライス(または、イオラオス)は、プレスボンの子クリュメノスの後裔であったと思われる。[41]

イオライスの時代にトロイ戦争があり、オルコメノスの町からも遠征に参加した。イオライスは戦士の年齢に満たないためにオルコメノスの町に残っていた。手薄になったオルコメノスの町にトラキア人が侵入して、町を占拠した。[42]

また一部のオルコメノス人は、アテナイの町に受け入れられて、ムニュキアに住んだ。[43]

イオライスの娘レイペピレネ(または、レイペピレ)は、アンティオコスの子ピュラスと結婚し、娘テロが生まれた。[44]

アンティオコスは、ヘラクレスとドリュオペスのピュラスの娘メダとの間の息子で、アテナイの町の名祖の一人であった。[45]

したがって、テロの子カイロンと共にカイロネイアの町の創建者となった住人は、3世代に渡ってアテナイの町で亡命生活をしていたオルコメノス人であった。

しかし、カイロネイアの町の近くのレバデイアの町やスティリスの町には、アテナイの町からの移住者が住んでおり、オルコメノスの町とアテナイの町の対立にカイロネイアの町も巻き込まれた。[46]

BC424年、カイロネイアの町は、ボイオティア領オルコメノスの町の管轄下にあった。

アテナイ人は、カイロネイアの町の内部から反乱を起こさせようとしたが失敗し、カイロネイアの町はボイオティア人によって救われた。[47]

 

8 コパイの歴史

BC1256年、オルコメノスの町とテバイの町の戦いがあり、オルコメノスの町が敗れた。[48]

オンケストスの子プラタイオスの子コパイオスは、オンケストスの町から追い出されてコパイス湖の北へ移住して、コパイの町を創建した。[49]

 

9 コロネイアの歴史

9.1 トロイ戦争以前

BC1371年、テルサンドロスの子コロノスがコパイス湖の南西にコロネイアの町を創建した。コロノスはアタマスの養子になって、領地を分け与えられたと伝えられる。アタマスが彼の兄弟シシュッポスの子テルサンドロスの子コロノスを呼び寄せて、入植させたものと思われる。[50]

BC1325年、アンピオンとゼトスのテバイ攻めのときに、ボイオトスの子イトノスと共にコロネイアの町の住人も参加したと思われる。

テバイ攻めには、ロクリス地方のピュスキウスとマイラとの間の子ロクルスも姉妹テーベの夫ゼトスとの縁で参加した。マイラの父プロイトスは、コロネイアの町の創建者コロノスの兄弟であった。[51]

コロネイアの町の近くには、イオニアン・アテナの神域があった。[52]

イオニアン・アテナは、アンピクテュオンの子イトノスに由来するもので、コロネイアの町付近以外では、テッサリア地方のイトノスの町や、フェライの町とラリッサの町との間、そして、アルネの町の近くにあった。[53]

アルネの町は、ボイオトスが祖父アイオロスから受け継いだ町であり、イトノスの町は、ボイオトスの父イトノスが創建した町であった。[54]

また、アンピクテュオンの子ピュスキウスの子ロクルス率いるレレゲスも、アンピオンとゼトスによるテバイ攻めに参加した。[55]

戦いの後で、ロクリス地方のレレゲスも、ボイオティア人と共にコロネイアの町の共住者となったと思われる。アリストテレスは、レレゲスがボイオティア地方を領したと伝えている。[56]

レレゲスとは、特定の種族に属さない混血した人々のことだと、ハリカルナッソスのディオニュソスが記している。[57]

アルゴス人、テバイ人、アルカディア人、ピサ人、それに、プティア人が、ロクリス人と共にオプスの町を建設して混住し、レレゲスと呼ばれるようになった。[58]

アリストテレスが記しているレレゲスは、そのロクリス人にボイオティア人が混血した人々のことを意味しているようである。

BC1188年、トロイ遠征で手薄になったコロネイアの町に、ペラスゴイ人が侵入して住民を追い出し、町を追われた人々は父祖の地であるテッサリア地方のアルネの町へ逃れた。[59]

2年後、アルネの町はテスプロティア人の侵入を受けて、住民の一部は、ペネレオスの子オペルテスと共にボイオティア地方へ帰還した。しかし、彼らはコロネイアの町を奪還することができずに、後のカイロネイアの町となる土地に定住して、アルネの町を創建した。[60]

テッサリア地方のアルネの町には多くの住人が、ペネスタイと呼ばれる奴隷身分となって残留し、3代目まで住み続けた[61]

 

9.2 トロイ戦争以後

トロイ戦争の60年後、テッサリア地方のアルネの町に残留していた人々も町を追い出され、ボイオティア地方へと逃れた。彼らは、先に帰還していた人々と共に、オペルテスの子ダマシクトンを指導者として、コロネイアの町を占拠していたペラスゴイ人を追い出し、近くのオルコメノスの町をも併合した。[62]

さらに、ダマシクトンは、ティサメノスの子アウテシオンをテバイの町から追い出して、その後、ボイオティア地方と呼ばれる地方全域を支配下に置いた。[63]

ダマシクトンは、ボイオティア人の名祖であるアイオロスの娘メラニッペの子ボイオトスの後裔であり、ボイオティア人の総領であった。地方の名称がボイオティアとなったのは、彼がテバイの町の主となった後のことであった。[64]

 

10 エレウテライの歴史

BC1370年、アイトーサの子エレウテルは、ヒュシアイの町からキタイロン山を南に越えて移住して、エレウテライを創建した。[65]

エレウテライの町は、カドモスの移民団に含まれていた者たちの後裔によって建設された町で、ボイオティア地方にあった。[66]

その後、エレウテルの子イアシオスの子カイレシラオスの子ポイマンドロスが東へ移住して、タナグラの町を創建した。[67]

後に、テバイの町の支配者は、カドモスの後裔から、ボイオティア人になったが、エレウテライの町の住人は、彼らに従わなかったようである。

ホメロスの軍船目録に、エレウテライの町やタナグラの町は、登場しない。

アドラストスによるテバイ攻めのとき、テバイの町のクレオンは、戦死した将兵たちの遺体の埋葬を禁止した。テセウスは、テバイの町から将兵たちの遺体を引き取り、将官はエレウシスの町に、兵士はエレウテライの町に埋葬した。[68]

既に、この頃からエレウテライの町は、アテナイの町に好意を寄せており、後に、アッティカ地方の町になった。[69]

 

11 エウトレシスの歴史

BC1345年、アンピオンとゼトスは、エレウテライの町からキタイロン山を北に越えて移住した。

彼らは、テバイの町をヒュプシスタイ門から出てレウクトラの町へ向かって約14km進んだ所にエウトレシスの町を創建した。[70]

エウトレシスの町は、テスピアイの町とプラタイアの町を結ぶ街道沿いにあり、アンピオンとゼトスによる城壁で囲まれていた。[71]

 

12 ハリアルトスの歴史

12.1 ディオニュソスの誕生

カドモスの娘セメレの子ディオニュソスは、ハリアルトスの町にあるキッスサの泉で生まれてすぐ乳母に洗われたと伝えられている。[72]

後に、トラキア人の捕虜となったテバイ人が、ハリアルトスの町でディオニュソス神に助けられたとも伝えられ、ディオニュソスのハリアルトス生誕地説に真実味を与えている。[73]

しかし、ディオニュソス誕生時、ハリアルトスの町は創建されておらず、そこにはヒュアンテスが住んでいた。[74]

恐らく、カドモスとヒュアンテスとの戦いは、長期にわたり、セメレはヒュアンテスの捕虜となってディオニュソスを生んだと思われる。

 

12.2 ハリアルトスの創建

BC1370年、テルサンドロスの子ハリアルトスは、ハリアルトスの町を創建した。ハリアルトスは、アタマスの養子であった。[75]

 

12.3 テバイとの戦い

BC1279年、ハリアルトスの町のアロペコスとテバイの町との戦いがあった。テバイ人は、アテナイの町から逃れて来たデイオン (または、デイオネオス)の子ケパロスに戦いを任せた。ケパロスは、ミノスの将キュナスをアロペコスに差し向けて、勝利した。[76]

このアロペコスは、テルサンドロスの子ハリアルトスの孫で、ミノスとの戦いで死んだヒッポメネス (または、オンケストス)の子メガレウスの従兄弟と思われる。

ハリアルトスの町は、オルコメノスの町とテバイの町との中間に位置し、必然的に両者の勢力が衝突したと思われる。

BC1256年には、ハリアルトスの町から少しテバイの町寄りのオンケストスの町で、ミニュアス人の王クリュメノスがテバイ人に殺される事件が起きた。[77]

 

12.4 ペルシア戦争

パウサニアスは、ペルシア戦争でハリアルトスの町がギリシア側に味方したため、ペルシア人によって破却されたと伝えている。[78]

しかし、ヘロドトスは、ペルシア大王クセルクセスに土と水を献じなかったのは、ボイオティア人の中でプラタイア人とテスピアイ人だと伝えている。[79]

ヘロドトスは、テバイ人がプラタイアの町とテスピアイの町は敵方だと進言したために、ペルシア軍に焼かれたと伝えている。[80]

ヘロドトスは、ペルシア戦争について詳細に伝えているが、まったく、ハリアルトスの町について言及していない。また、クセルクセスが主力部隊を率いてボイオティア地方に侵入したとき、アミュンタスの子アレクサンドロスは、町に危害が加えられないようにマケドニア兵を各町に配置した。

パウサニアスは、プラタイアの町かテスピアイの町のことをハリアルトスの町の出来事と勘違いしたのではないかと思われる。

 

12.5 ハリアルトスの破壊

BC424年、デリオンの戦いで、ハリアルトスの町はアテナイの町に敵対してボイオティア人の戦列の中央でコロネイア人やコパイ人と共に戦った。[81]

BC395年、スパルタ人とテバイ人との戦いの舞台となったハリアルトスの町には、スパルトイがいた。

トロイ戦争の60年後にテッサリア地方のアルネの町から移住して来たボイオティア人がテバイの町の支配者になった後で、ハリアルトスの町もその支配下に入ったと思われる。[82]

BC171年、マケドニアとローマの戦いで、ハリアルトスの町はマケドニアに味方したため、ローマの執政官ルクレティウスによって町は破壊された。ハリアルトスの町の住民約2,500人は奴隷として売られ、町の領土はアテナイの町に与えられた。[83]

 

12.6 ケクロプスの英雄廟

パウサニアスは、ハリアルトスの町にパンディオンの子ケクロプスの英雄廟があったと記している。ハリアルトスの町がアテナイ領になってから、町が古くからアテナイの町の支配下にあったかのように見せるために造営したと思われる。[84]

しかし、ケクロプスは一般的な伝承ではエレクテウスの息子である。英雄廟の造営者は、BC2世紀のカストールの年代記を参照したものと思われる。[85]

カストールは、第7代アテナイ王ケクロプスを第5代アテナイ王パンディオンの子エレクテウスの兄弟と記している。[86]

 

13 ヒュリア (エウボイア)の歴史

13.1 エウボイアの創建

カドモスが移民団を率いて立ち寄ったサモトラケ島には、少し前に、ダルダノスに率いられてアルカディア地方から移住して来たペラスゴイ人がいた。彼らの中に、メガッサレス一家もいて、カドモスの移民団に参加した。メガッサレスの妻アルキュオネは、カドモスの妻ハルモニアの母エレクトラの妹であった。[87]

BC1420年、メガッサレスは、エウボイア島への渡り口付近のボイオティア地方の土地に定住して、エウボイアと呼ばれる町を創建した。

アポロドロスは、ヒュリエウスの息子たち、ニュクテウスとリュコスは、プレギュアスを殺害して、「エウボイア」から「ヒュリア」へ逃亡したと伝えている。[88]

次のことから、「エウボイア」は、アウリスの町近くのヒュリアの町の古い名前で、「ヒュリア」は、キタイロン山麓のヒュシアイの町と推定される。

1) ヒュリエウスの息子たちは、ヒュリエウスの名前に因むヒュリアの町に住んでいた。[89]

2) キタイロン山麓のヒュシアイは、ヒュリアとも呼ばれていた。[90]

 

13.2 ヒュリアの創建

メガッサレスの息子と思われるヒュリエウス (または、クトニオス)は父の跡を継いで、エウボイアの町のすぐ近くにヒュリアの町を創建した。[91]

メガッサレスをヒュリエウスの父と推定したのは、つぎの理由からである。

メガッサレスの名前は、アポロドロスがシリアからキリキアへ移住して、ケレンデリスの町を創建したサンドコスの妻パルナケの父であり、ヒュリアの王として伝えているだけである。

サンドコスは、初代アテナイ王ケクロプスの娘ヘルセから5代目の子孫であった。[92]

アテナイ王の在位から逆算するとケクロプスは、BC1596年生まれと推定され、1世代間を男25年、女20年とすれば、サンドコスは、BC1445年生まれと推定される。

したがって、サンドコスの妻パルナケの父メガッサレスは、BC1465年生まれと推定される。

一方、ニュクテウスはヒュリエウスの息子であり、ニュクテウスの娘ニュクテイスの夫は、カドモスの子ポリュドロスであった。[93]

つまり、ニュクテウスはカドモスと同世代であり、 ニュクテウスの父ヒュリエウスは、カドモス時代のスパルトイのひとりで、クトニオスとも呼ばれていた。[94]

また、ニュクテウスが建設したヒュシアイの町は、ヒュリアの町の植民市であったことから、ニュクテウスの父ヒュリエウスは、ヒュリアの町に住んでいたと思われる。[95]

以上のことから、ヒュリエウスの父は、アポロドロスがヒュリアの王として伝えているパルナケの父メガッサレスと推定される。[96]

 

13.3 イタリアへの移住

BC1390年、メッサポスは、ヒュリアの町からイタリア半島東南部へ移住した。[97]

メッサポスは、メガッサレスとオルコメノスの娘アルキュオネとの息子ヒュリエウスの息子と推定される。[98]

メッサポスが入植したペウケティア地方は、メッサピア地方と呼ばれるようになった。[99]

メッサピア地方には、ヒュリアの町があった。ヘロドトスは、その町の創建者をダイダロスの子イアピクスと伝えているが、メッサポスが創建した町と思われる。[100]

 

14 ヒュシアイの歴史

BC1390年、大津波がエウリポス海峡近くの町を襲い、ヒュリアの町も被災した。ヒュリエウスの2人の息子たち、ニュクテウスとリュコスは、ヒュリアの町から南西方へ約33km離れたキタイロン山麓にヒュシアイの町を創建した。[101]

ニュクテウスとリュコスがプレギュアスを殺害して、エウボイアからヒュリアの町に逃れたという伝承がある。[102]

ヒュリアは、ヒュシアイを指した呼び名だとも伝えられ、このエウボイアは島ではなく、アウリス付近の地名で、恐らく、ヒュリアの町の古い名前と思われる。[103]

 

15 レバデイアの歴史

15.1 レバデイアの創建

BC1260年、レバドスは、アテナイの町からミデイアの町へ移住して、ミデイアの町の下方にレバデイアの町を創建した。ミデイアの町の住人は、レバデイアの町へ移り住んだ。[104]

レバデイアの町の西南西11kmのポキス地方のスティリスの町は、アテナイの町のアイゲウスに追われたオイネウスの子ペテウスが創建した町であった。レバドスは、ペテウスの兄弟で、彼と同じ時期に、アイゲウスに追われて移住したものと推定される。[105]

BC1209年、オルネウスの子ペテウスの子メネステオスがアイゲウスの子テセウスを追い出してアテナイ王に即位した。[106]

その時、アテナイ人は、レバデイアの町からアテナイの町へ戻ったと推定される。

 

15.2 トロイ戦争

トロイ戦争の時代、レバデイアの町にはボイオティア人が住んでいたようであり、ボイオトスの子イトノスの子アルキリュコスの子アルケシラオスは、ボイオティア人を率いてトロイへ遠征した。[107]

アルケシラオスの従兄弟ラクリトスの子レイトスは、アルケシラオスの遺骨を持ち帰って、レバデイアの町に埋葬した。

したがって、レバデイアの町は、オルコメノスの町やコロネイアの町とは異なり、トラキア人やペラスゴイ人に占領されなかったものと思われる。[108]

 

15.3 トロポニオスの神域

レバデイアの町は、トロポニオス神に捧げられた町であった。[109]

このトロポニオスは、オルコメノス王エルギヌスの息子で、アガメデスと兄弟であり、デルポイの神殿などを建築した名工であったとも伝えられている。[110]

しかし、エルギヌスの死後、トロポニオスやアガメデスではなく、エルギヌスの兄弟の後裔が王位を継承しているので、エルギヌスの息子たちは、創作された人物と思われる。[111]

トロポニオスには子供たちがいて、娘の名前はヘルキュナであった。[112]

トロポニオスの神域がいつ頃からあったのかは定かではないが、少なくとも、BC7世紀には既に有名な神域であったことは確かである。

第2次メッセニア戦争で、アリストメネスが紛失した楯をトロポニオスの神域から取戻し、後にアリストメネスはレバデイアに楯を奉納したという伝承がある。[113]

また、BC6世紀にリュディア王クロイソスが神託を試すために使者を送った神託所の一つに、トロポニオスの神託所も名前が挙がっていた。[114]

BC1世紀、ローマの将軍スッラがレバデイアの町を荒らし、神託所から宝物を持ち去った。[115]

パウサニアスが伝えているレバデイアの町にあったトロポニオスの木彫神像がミノスと同時代のダイダロスの作品に間違いなければ、トロポニオスは既にBC13世紀には神として崇められていたことになる。[116]

 

16 レウクトラの歴史

レウクトラの町の名付け親は、レウクトラの戦いより前の時代に、その地でラケダイモン人に乱暴されて自害したことで有名になった娘の父レウクトロスだと伝えられる。[117]

BC371年のレウクトラの戦いより前の時代のレウクトラの町については、不明である。

恐らく、アンピオンとゼトスが創建したエウトレシスの町か、テスピアイの町の人々が住んでいた小さな集落であったと思われる。[118]

 

17 メデオンの歴史

BC1150年、ピュラデスの子メドンは、キッラの町から東へ移住して、ポキス地方にメデオンの町を創建した。[119]

ホメロスは、軍船目録の中で、ボイオティア地方のメデオンの町の名前を挙げているが、その町はアガメムノンの時代には存在していなかった。[120]

ボイオティア地方のメデオンの町の名前は、ポキス地方のメデオンの町の名前に因んで名付けられた。[121]

ホメロスが「堅固な城塞」と形容しているメデオンは、トロイ戦争より、少なくとも2世代以上後に創建された。

 

18 オカレアイの歴史

BC1263年、ミノスとアテナイの町との戦いで、ハリアルトスの町のメガレウスがメガラの町に加勢して戦死した。[122]

この戦いの後で、ミノスの兄弟ラダマンティスがオカレアイの町へ移住した。[123]

このとき、クレタ島から移住した人々は大きな集団であったと思われる。

オカレアイの町には、クレタ島産のステュラクスの樹の群生があった。[124]

ハリアルトスの町では、テオダイシアというクレタ島の祭りが催されていた。[125]

BC1256年、ミニュアス人とテバイ人との戦いでは、ラダマンティスは、テバイの町に加勢して、勝利に貢献したと思われる。この戦いで戦死したアンピュトリオンの妻アルクメナは、ラダマンティスと再婚した。[126]

BC4世紀にスパルタ王アゲシラオスは、ラダマンティスの妻アルクメナの墓をスパルタの町へ改葬した。

その時、アルクメナの墓に、エジプト文字に似た古代文字が書かれた青銅板があるのを発見した。[127]

アゲシラオスは、その青銅板の碑文の写しをクニドスのエウドクソスに託して、エジプトの王ネクタナビスに送って解読した。[128]

 

19 オンケストスの歴史

19.1 オンケストスの創建

オンケストスの町の周辺には、カドモスによって、テバイの町の周辺から追い出されたヒュアンテスが住んでいた。その後、ヒュアンテスは、アイオリス人が、コロネイアの町やハリアルトスの町を建設したため、コパイス湖の西側へ移動した。[129]

オンケストスの町はハリアルトスの町に隣接し、系図を作成するとハリアルトスの町の創建者ハリアルトスと、オンケストスの町に住むメガレウスとの間は、1世代の余白がある。

メガレウスの父の名前は、ヒッポメネスともオンケストスとも伝えられるが、ハリアルトスの町を出て、オンケストスの町を創建した人物と思われる。[130]

BC1320年、ハリアルトスの子ヒッポメネスは、ハリアルトスの町から東南東へ移住して、オンケストスの町を創建した。[131]

 

19.2 オンケストスからの移住

BC1263年、ヒッポメネスの子メガレウスは、ミノスとの戦いで、メガラの町のニソスに援軍として駆け付けて戦死した。ニソスは、メガレウスの妻イピノエの父であり、メガレウスの姉妹ハブロテの夫でもあった。[132]

BC1256年、ミニュアス人の王クリュメノスが、オンケストスの町でテバイの町のクレオンの子メノイケウスの御者ペリエレスに殺された。[133]

クリュメノスの子エルギヌスは、テバイの町に攻め込み勝利するが、その後の戦いで、テバイの町に敗れた。[134]

オンケストスの町を父メガレウスから継承したヒッポメネスは、テバイ人、あるいは、ラダマンティスと共に移住して来たクレタ人に圧迫されて、アルカディア地方へ移住した。[135]

また、オンケストスの子プラタイオスの子コパイオスも、コパイス湖対岸へ移住してコパイの町を創建した。[136]

 

20 プラタイアの歴史

20.1 トロイ戦争以前

プラタイアの町の創建者は、テバイの町のラブダコスの子ライオスの遺体を葬ったプラタイア王ダマシストラトスと推定される。[137]

プラタイアの町の名前は、アソポス河神の娘プラタイアに因むとされる。プラタイアは、同じアソポス河神の娘と伝えられるタナグラと同年代と思われる。[138]

タナグラの夫は、アイトーサの子エレウテルの子イアシオスの子カイレシラオスの子ポイマンドロスで、キタイロン山の南麓のエレウテライの町に住んでいた。[139]

BC1295年、ダマシストラトスは、カイレシラオスの弟で、エレウテライの町からキタイロン山を北に越えた土地にプラタイアの町を創建した。[140]

これより前に、エレウテルの2人の息子たち、アンピオンとゼトスがエレウテライの町からキタイロン山を北に越えて、エウトレシスの町を創建していた。[141]

アンピオンは、ライオスの後見人であり、ダマシストラトスの伯父であった。伝承では、ダマシストラトスが偶然ライオスの遺体に出会ったように伝えられているが、ライオスと共に行動していたものと思われる。[142]

ダマシストラトスの先祖アイトーサは、ヒュリアの町のヒュリエウスの妹であり、プラタイアの町の住人は、アルカディア地方に祖先を持つペラスゴイ人であった。[143]

プラタイアの町には、アンドロクラテス、レウコン、ピサンドロス、ダモクラテス、ヒュプシオン、アクタイオン、ポリュイドス、キュライオスという支配者がいたようであるがいつの時代かは不明である。[144]

 

20.2 トロイ戦争以後

BC1126年、テッサリア地方のアルネの町に住んでいたボイオティア人が、テバイの町を占領した。[145]

ボイオティア人は、ボイオティア地方全域に居住範囲を広げたが、プラタイアの町の住人は、ボイオティア人に追い出されずに、そのままであったと推定される。[146]

BC517年、プラタイアの町は、テバイの町との間に土地の境界をめぐって争ったが、同盟を結んでいたアテナイの町の助力によって、アソポス川をテバイの町との間の境にした。[147]

この恩に報いるため、BC490年、アリムネストスは、プラタイア人 1,000人を率いてアテナイの町へ駆け付けて、マラトンの戦いに参加し、アテナイ軍の左翼を守った。[148]

プラタイア人がいなければ、アテナイの町のミルティアデスは、スパルタからの援軍を待つことになり、戦いの趨勢は予想が付かなくなっていたかもしれない。[149]

BC480年、テバイ人がペルシア軍にプラタイアの町は敵方だと進言したために、テスピアイの町と共にプラタイアの町はペルシア軍に焼かれた。[150]

BC479年、ギリシア軍は、プラタイアの戦いでペルシア軍に勝利し、クレオンブロトスの子パウサニアスは、プラタイアでの戦勝を記念して、プラタイアの領土の不可侵を宣言した。[151]

プラタイア人は、プラタイアの戦いでアテナイ人の戦列の中にいたと思われる。[152]

BC431年、レオンティアデスの子エウリュマコスは、テバイ人を率いてプラタイアの町を占領しようとして失敗し、捕虜になって処刑された。[153]

BC429年、プラタイアの町は、ペロポネソス同盟勢に包囲された。[154]

籠城者は、プラタイア人 400人、アテナイ人 80人、婦女子 110人であった。[155]

BC427年、プラタイア人 212人が包囲を脱してアテナイの町へ避難したが、残りの籠城者は、食糧が尽きて投降した。プラタイア人 200人以上、アテナイ人 25人は処刑され、婦女子は奴隷として売られた。[156]

BC421年、アテナイの町に避難していたプラタイア人に、アテナイの町が奪ったカルキディケ半島のスキオネの町が与えられた。[157]

その後、スキオネの町に住んでいたプラタイア人は、スパルタのリュサンドロスによってカルキディケ半島を追われてアテナイの町へ戻った。[158]

この出来事は、アテナイの町がペロポネソス同盟に降伏したBC404年からリュサンドロスが死去したBC395年の間と推定される。

BC387年、プラタイア人はアンタルキダスの和約によりプラタイアの町へ帰還することができた。[159]

BC374年、プラタイアの町はテバイ人に占領され、住人はアテナイの町へ避難した。[160]

BC338年、カイロネアの戦いの後で、マケドニア王ピリッポスは、テバイ人に追放されてアテナイの町へ避難していたプラタイア人を町へ帰還させた。[161]

アレクサンドロス大王は、プラタイアの戦いの際に、プラタイア人が領土をギリシア軍に献じた行いを賞賛して、プラタイア人に返還することを宣言した。[162]

BC316年、アンティパトロスの子カッサンドロスは、アレクサンドロス大王によって破壊されたテバイの町を再建した。テバイの町へ帰還したテバイ人は、プラタイア人と和解した。[163]

テバイ人が執拗にプラタイア人を攻撃したのは、アルゴスの町がミュケナイの町を破壊した理由と同じく、嫉妬によるものかもしれない。[164]

 

21 スコイノスの歴史

BC1380年、アタマスの子スコイネオスは、アクライピオンの町からテバイの町とアンテドンの町の間へ移住して、スコイノスの町を創建した。[165]

スコイノスの町の創建者をアタマスの子スコイネオスと明示している伝承はない。

次のことから、推定される。

1) スコイノスの町の中をスコイノス川が流れていた。[166]

2) スコイノス川は、アタマスの子スコイネオスに因んで名付けられた。[167]

BC1256年、オルコメノスの町とテバイの町の戦いがあり、オルコメノスの町が敗れた。[168]

アタマスの子スコイネオスの後裔スコイネオスは、スコイノスの町から追い出されてアルカディア地方へ移住した。[169]

 

22 タナグラの歴史

22.1 フェニキアからの移住

BC1420年、フェニキア地方からカドモスに同行したゲピュライオイは、タナグラ周辺を割り当てられて定住した。[170]

ゲピュライオイの定住地は、ボイオティア地方を西から東へ流れるアソポス川の下流域であった。

 

22.2 エウノストスの英雄廟

BC6世紀のアンテドンの女流詩人ミュルティスが書いた抒情詩は、タナグラの町のケピソスの子エウノストスのことを伝えている。[171]

エウノストスの父ケピソスは、第6代アテナイ王エレクテウスの妻プラクシテアの母ディオゲニアの父と推定される。エレクテウスの時代、タナグラの町はまだ創建されておらず、ゲピュラの町と呼ばれていた。[172]

ゲピュラの町には、カドモスと共にボイオティア地方へ移住して来たフェニキア人の支族ゲピュライオイが住んでいた。[173]

BC1415年、アッティカ地方に侵入したエウモルポスに追われて、アテナイ人は、ゲピュラの町の近くへ避難して、ゲピュライオイに受け入れられた。[174]

この避難が、エレクテウスとプラクシテアとの婚姻を成立させたと思われ、プラクシテアの祖父ケピソスは、ゲピュライオイの首領であったと思われる。[175]

プラクシテアに同行してアテナイの町へ移住したゲピュライオイは、アテナイの町へフェニキア文字をもたらした。

その後、フェニキア文字から、ホメロスの師プロナピデスの時代まで使用されていたペラスゴイ文字が発明された。[177]

古代のアテナイ人は、ペラスゴイ人であった。[178]

ミュルティスの時代、タナグラの町のエウノストスの英雄廟には、その由緒が記された銘板があったのかもしれない。

 

22.3 タナグラの創建

BC1270年、カイレシラオスの子ポイマンドロスは、キタイロン山南麓のエレウテライの町からゲピュラと呼ばれていた地方へ移住して、彼の妻の名前に因んだタナグラの町を創建した。[180]

 

22.4 ヒュリエウスの子オリオン

ヒュリエウスの子オリオンは、エウリポス海峡近くのヒュリアの町で生まれた。[181]

オリオンの子ドリュアスは、アドラストスのテバイ攻めのとき、タナグラの町から弓兵1000人を率いて、テバイの町へ駆け付けた。[182]

オリオンの娘メキオニケ(または、メキオニカ, メノディケ)とドリュオピア地方に住むテイオダマスとの間の息子ヒュラスは、ヘラクレスの侍童であった。ヒュラスの兄弟エウペモスの妻ラオノメは、ヘラクレスの姉妹であった。[183]

エウペモスの後裔ポリュムネストスの子バットスは、リビュアのキュレネの町の創建者となった。[184]

オリオンの墓は、タナグラの町にあった。[185]

星座に名前を与えたオリオンは、クレタ島のミノスの娘エウリュアレの子オリオンだとする伝承もあるが、タナグラの町に関係するヒュリエウスの子オリオンの方が妥当と思われる。[186]

タナグラの町に定住したフェニキア人が、バビロン人から伝えられた「天の狩人(the heavenly hunter)」という星座をギリシア人に伝え、ギリシア人は、オリオンをその星座の名前にしたと思われる。

 

22.5 アテナイへの移住

BC1200年、タナグラの町周辺に定住していたゲピュライオイは、カイレシラオスの子ポイマンドロスの孫ポイマンドロスに追われ、アテナイの町へ移住した。[187]

エピゴノイのテバイ攻めによって、カドモスと共にボイオティア地方へ移住して来た人々の後裔が他に移住して、新参のボイオティア人との間の勢力の均衡が崩れた結果であった。

アテナイ人がゲピュライオイを受け入れたのは、エウモルポスに追われたときの恩返しでもあった。第6代アテナイ王エレクテウスの姻戚関係によって、アテナイ人とゲピュライオイは、古くから交流があった。[188]

 

22.6 アカイア人の攻撃

プルタルコスは、ペレウスの子アキレス率いるアカイア人が、遠征参加を拒否したタナグラの町を攻撃したことを伝えている。[189]

この遠征は、トロイ遠征とは異なる遠征と思われ、テッサリア地方のプティアの町に住むアキレスの影響力が、ボイオティア地方にまで及んでいたことが分かる。

 

22.7 トロイ遠征

恐らく、タナグラの町は、トロイ遠征に参加しなかった。

ホメロスの『軍船目録』にボイオティア地方からの軍勢にグライアの町の名前が挙がっており、その町が、タナグラの町の別名だとする説もある。[190]

つまり、極めて長生きしたタナグラの町の名祖タナグラをグライア(老女)と呼んだことから町の名前も、一時期、その名前で呼ばれたというのである。[191]

しかし、好んで古い名前を使用したホメロスが一時的な名前を採用したとは思えない。

タナグラの町を古い名前で呼ぶのであれば、ホメロスは、タナグラより古い時代の名称ゲピュラと呼んでいたと思われる。[192]

 

22.8 トロイ戦争以後

BC456年、ボイオティア人とアテナイ人との戦いにタナグラ人も参加して敗れ、町の城壁は破壊され、タナグラの町はアテナイの町の支配下に入った。[193]

ボイオティア地方で、ローマ時代まで存続していたのは、タナグラの町とテスピアイの町だけであった。[194]

 

23 テスピアイの歴史

23.1 アテナイからの移住

BC1275年、第8代アテナイ王パンディオンの子テウトラスは、義兄弟アイゲウスから逃れてボイオティア地方へ移住してテスピアイの町を創建した。[195]

その地には、BC1325年、テッサリア地方からボイオティア地方へ移住して来たボイオトスの子イトノスの後裔を指導者とするボイオティア人が住んでいた。トロイ遠征にイトノスの子アレイリュコスの2人の息子たち、アルケシラオスとプロトイノールがテスピアイの町から参加した。[196]

ボイオティア人は、テバイの町のカドメイア人との間に争いがあったので、テウトラスと共に移住して来たアテナイ人を共住者として、歓迎した。しかし、後にボイオティア人がカドメイア人に代わってテバイの町の支配者になると、この共住が争いの原因になった。恐らく、アテナイ人を祖先とする住人がボイオティア人より多くなり、テバイの町から攻撃されることになった。

 

23.2 マケドニアからの移住

BC1250年、ピエロスの子リノスの子ピエロスが、マケドニア地方のピエリアからテスピアイの町へ移住して来た。[198]

ピエロスは、有名な詩人オルペウスの父オイアグロスの父であった。[199]

ピエロスのことをストラボンは、ヘリコン山をムーサ諸女神の神域にしたトラキア人と伝えている。[200]

 

23.3 サルドへの移住

BC1236年、ヘラクレスは、テスピウスの孫たちを甥イオラオスに率いらせて、サルド島へ植民させた。[201]

この植民には、アテナイ人も参加して、サルド島北東部にオルビアの町を創建した。[202]

イオラオスの植民団はアテナイの町が単独で送り出した最初の遠征隊であり、プリュタネイオンから出発したアテナイ公認の正式な植民団であった。[203]

ヘラクレスは、テスピアイの町の近くの牛飼場にいたことがあり、テウトラスの子テスピウスとは親交があった。[204]

BC1188年、イトノスの子アレイリュコスの2人の息子たち、アルケシラオスとプロトイノールは、テスピアイの町からトロイ遠征に参加した。[205]

 

23.4 テッサリア人の侵入

BC594年、ラッタミュアス率いるテッサリア人がボイオティア地方に侵入した。

ラッタミュアスは、テスピアイの町の近くでテバイ人と戦い、戦死した。[206]

このテッサリア人は、少し前に隣保同盟の一員として、ポキス地方のキッラの町攻略に参加した人々であった。

この時、テスピアイ人は、ケレッソスに逃げ込んで難を逃れた。[207]

テッサリア人が侵入したのは、レウクトラの戦いの200年以上前のことであった。[208]

 

23.5 ペルシア人の侵入

BC480年、ボイオティア人の中でプラタイア人とテスピアイ人は、ペルシア大王クセルクセスに土と水を献じなかった。[209]

テルモピュライの戦いには、テバイ人が400名参加したのに対して、テスピアイ人は700名が参加した。[210]

ディアドロメスの子デモピロスに率いられたテスピアイ人は、テルモピュライでスパルタ人と運命を共にし、ハルマティデスの子ディテュラムボスが勇武で名を馳せた。[211]

テバイ人がペルシア人に、テスピアイの町は敵方だと進言したために、テスピアイの町はプラタイアの町と共にペルシア軍に焼かれた。[212]

このとき、テスピアイ人はペロポネソス半島へ退避していた。[213]

 

23.6 その他

BC479年、1800人のテスピアイ人が、プラタイアの戦いに参加した。[214]

BC424年、テスピアイ人は、タナグラの町近くのデリオンの戦いに参加して、アテナイ人と戦った。テスピアイ人は、戦いの勝利に貢献したが、全滅した。[215]

BC423年、テバイ人は、以前からアテナイ人と親しかったテスピアイの町の城壁を取り壊した。[216]

BC414年、テスピアイ人の民衆派が政権奪取に失敗して、一部はテバイ人に捕まり、他はアテナイの町へ亡命した。[217]

BC413年、ラケダイモン人のシシリー遠征にテスピアイの町からヘゲサンドロスが参加した。[218]

BC374年、テバイ人はプラタイアの町を占領し、テスピアイの町を略奪した。[219]

BC371年、テスピアイ人は、レウクトラの戦いの前に戦列を離れて帰還したため、戦いの後で、テバイ人によって町から追放された。[220]

しかし、ボイオティア地方で、ローマ時代まで存続していたのは、タナグラの町とテスピアイの町であった。[221]

 

おわり

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