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第34章 レムノス島の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2026.2.16

1 はじめに

レムノス島の名前は、女神に由来し、古くはアイタリアと呼ばれていた。[1]

BC5世紀、レムノス島には、ヘパイスティアの町とミュリナの町があった。[2]

しかし、青銅器時代のレムノス島には、伝承に残るような町はなかった。

 

2 クレタからの移住

BC1431年、イダ山のダクテュロスとカベイロイは、トロアス地方からインブロス島、サモトラケ島と共にレムノス島へ移住した。[3]

イダ山のダクテュロスは探鉱のため、カベイロイは信仰を広めるために島へ移住した。

彼らは、BC1435年、イダ (または、イドテア)の子テウクロス (または、テウクロス, テウクロス)率いるテルキネス族と共にクレタ島のアプテラの町からトロアス地方へ移住して来たと推定される。[4]

イダ山のダクテュロスとカベイロイは、テルキネス族に属していた。[5]

 

3 テッサリアからの移住

BC1390年、テッサリア地方に住んでいたペラスゴイ人は、アイオリスに追われて各地へ移住した。ペラスゴイ人の一部は、テッサリア地方からレムノス島やインブロス島へ移住した。[6]

 

3.1 レムノスからリュディアへの移住

その後、レムノス島やインブロス島のペラスゴイ人の一部は、シレノスの子マネスに率いられて本土へ移住して、リュディア地方に定住した。[7]

彼らは、ペラスゴイ人からマイオニア人に名前を変えた。

 

3.2 リュディアからレムノスへの移住

BC1318年、ヒッタイト王ムルシリ2世は、リュディア地方を含むアルザワ地方を征服した。[8]

アテュスの子テュッレノスが率いるマイオニア人は、リュディア地方からイタリア半島の西海岸地方へ移住した。[9]

しかし、テュッレノスの移住には、18年程の時間のズレがある。

つぎのように、イタリア半島とレムノス島の関係は深く、テュッレノスは、レムノス島に一度定住した後で、イタリア半島へ向かったと推定される。

1) テュレニア海の島(現在のエルバ島)は、レムノス島の古い名前と同じく、アイタリアと呼ばれていた。[10]

2) 古代世界に4つあった迷宮が、エジプト とクレタ島以外に、レムノス島とエトルリアに迷宮があった。[11]

3) レムノス島は、テュレニア島とも呼ばれていた。[12]

 

3.3 レムノスからイタリアへの移住

BC1300年、アテュスの子テュッレノスは、マイオニア人と共にイタリア半島の西海岸地方へ移住した。[13]

彼らには、レムノス島に住んでいたイダ山のダクテュロスも同行したと推定される。

イダ山のダクテュロスは、テュレニア海のアイタリア島へ渡って銅山を発見した。[14]

島の鉱山は、銅が枯渇した後、鉄鉱石も産出するようになった。[15]

 

4 ナクソスからの移住

BC1256年、アリアドネの子トアスは、ナクソス島からレムノス島へ移住した。[16]

トアスには、娘ヒュプシピュレがいた。[17]

レムノス島には、女たちが男たちを皆殺しにして、ヒュプシピュレのみが、父トアスを助けたという伝承がある。[18]

ヒュプシピュレは、幼くして両親と死別しているが、彼らの死は、レムノス島で発生した疫病が原因と推定される。

BC5世紀の歴史家トゥキュディデスは、人々に語り継がれる大規模な疫病災害がレムノス島であったことを伝えている。[19]

 

5 ペロポネソスへの移住

BC1250年、孤児になったヒュプシピュレは、レムノス島に住むディオニュソスの信奉者と共に、ナクソス島のディオニュソスの神官オイナロスと、彼の妻アリアドネの遠征に参加した。[20]

ミノスの娘アリアドネは、ヒュプシピュレの祖母であった。[21]

ヒュプシピュレは、遠征に参加したアリアドネの子プリアソスの養女になり、プリウスの町に住んだ。[22]

ヒュプシピュレは、プリウスの町からネメアの町に住むタラオスの子プロナクスに嫁いだ。[23]

 

6 テッサリアからの移住

6.1 ミニュアス人の島

BC1236年、イオルコスの町に住んでいたミニュアス人が反乱を起こした。[24]

ミニュアス人は、テッサリア地方から追放されて、レムノス島やインブロス島へ移住した。[25]

ミニュアス人は、アルゴ船の遠征参加者の代名詞になった。[26]

レムノス島は、アルゴ船が遠征したコルキス地方とテッサリア地方を結ぶ最短経路に位置していた。

レムノス島は、ミニュアス人の島になった。

 

6.2 ミニュアス人の起源

クレテウスの子ネレウスがボイオティア地方のオルコメノスの町からアンピオンの娘クロリスを妻に迎えたとき、多くのミニュアス人がエレイア地方へ移住した。[27]

これと同じく、オルコメノスの町からテッサリア地方へ嫁いだ花嫁と共に多くのミニュアス人がイオルコスの町やその周辺の町へ移住した。[28]

オルコメノスの町からテッサリア地方へ、つぎのような嫁入りがあった。

1) BC1317年、ミニュアスの娘クリュメネは、ピュラケの町に住むピュラコスのもとへ嫁いだ。[29]

2) BC1301年、ミニュアスの娘ペリクリュメネは、フェライの町に住むフェレスのもとへ嫁いだ。[30]

3) BC1299年、イアシオスの子アンピオンの娘ピュロマケは、イオルコスの町に住むクレテウスの子ペリアスのもとへ嫁いだ。[31]

4) BC1291年、ミニュアスの娘クリュメネの娘アルキメデは、アイソニス(または、アイソン)の町に住むヒッポコーンの子アイソンのもとへ嫁いだ。[32]

 

7 ドリュオピアからの移住

BC1230年、ヘラクレスとの戦いに敗れたドリュオペス (または、ドリュオプス人)は、ドリュオピア地方からエウボイア島やアルゴス地方へ移住した。[33]

この時、テイオダマス (または、テオダマス)の子エウペモスは、レムノス島へ逃れた。[34]

エウペモスは、レムノス島で結婚したラマケとの間に、息子レウコパネスが生まれた。[35]

 

8 ネメアからの移住

BC1188年、ヒュプシピュレの子エウネオスは、アキレス率いるアカイア人によるトロイ遠征に、アルゴス地方のネメアの町から参加した。

BC1186年、アカイア人は、イリオンの町との戦いに敗れて、各地へ移住した。

エウネオスは、ペロポネソスへ帰らず、レムノス島に定住した。[37]

かつて、エウネオスの祖父トアスは、レムノス島の支配者であった。[38]

エウネオスは、当時、レムノス島に住んでいたミニュアス人を従わせるために、自分は、イアソンとヒュプシピュレの間の息子だという噂を広めた。[39]

 

9 アテナイからの移住

BC1115年、ペラスゴイ人は、アテナイの町から追放されて、レムノス島へ移住して来た。[40]

 

9.1 移住の経緯

それより前、ペラスゴイ人は、ボイオティア地方から追放されて、アグロラスとヒュペルビオスに率いられて、アテナイの町へ逃れた。彼らは、アテナイの町で、城壁の築造や土地の開墾をしたが、アテナイ人によって、追放された。[41]

 

9.2 シンティ人

ペラスゴイ人は、アテナイ人を恨んで、アッティカ地方のブラウロンの町から乙女たちを略奪して、レムノス島へ連れ帰った。[42]

それ以降、レムノス島の住人は、「シネスタイ」(害する)という意味のあるシンティ人と呼ばれるようになった。[43]

ストラボンは、トラキア地方のトラキア人がレムノス島へ渡って、シンティ人と呼ばれるようになったと記している。[44]

ストラボンは、ホメロスやトゥキュディデスから情報を得て、そのように理解したようである。

ホメロスは、シンティ人をレムノス島の原住民のように伝えている。[45]

トゥキュディデスは、パイオニア地方の隣りにシンティ人が住んでいたと記している。[46]

実際は、レムノス島でシンティ人と呼ばれたペラスゴイ人が、カルキディケ半島を経由して、パイオニア地方の近くへ移住したと思われる。

 

10 ラコニアへの移住

BC1115年、レムノス島に住んでいたミニュアス人は、ペラスゴイ人に追われてラコニア地方へ移住した。[47]

 

10.1 ヘロドトスの記述

ヘロドトスは、「ラケダイモン人は、ミニュアス人がディオスクロイと一緒にアルゴ船の遠征に参加した人々の子孫であるという理由で彼らを受け入れた」と伝えている。[48]

ディオスクロイは、その当時のラケダイモン人の王ティサメノスの母ヘルミオネの母ヘレネの兄弟であった。[49]

しかし、このヘロドトスの記述は、次のことから、作り話と思われる。

1) アルゴ船の遠征は、物語であって、ディオスクロイは航海していない。

2) ミニュアス人は、アルゴ船の遠征物語に登場する英雄たちの子孫ではない。

3) レムノス島で、アルゴ船が子孫を残したという伝承も作り話である。[50]

 

10.2 ピロノモス

この時、移住したミニュアス人の中に、ピロノモスがいた。[51]

ピロノモスは、ティサメノスの側近となったが、ヘラクレイダイの帰還時には、彼らと裏取引して、ティサメノスにアカイア地方への移住を説得した。[52]

ティサメノスが退去した後、ラコニア地方は、エウリュステネスとプロクレスに割り当てられた。[53]

ピロノモスは、彼らからアミュクライの町を任せられた。[54]

 

10.3 レウコパネスの後裔

また、レムノス島からラコニア地方へ移住したミニュアス人の中に、エウペモスの子レウコパネスの後裔がいた。[55]

レウコパネスの後裔は、ラケダイモン人に受け入れられて、テラスの移民団に参加して、テラ島へ入植した。[56]

エウペモス から17世代目の子孫、ポリュムネストスの子バットスは、テラ島から植民団を率いてリビュアへ移住してキュレネの町を創建した。[57]

 

10.4 キュジコスへの移住

BC1115年、レムノス島に住んでいたミニュアス人の一部は、アナトリア半島北西部のキュジコスの町へ移住した。[58]

キュジコスの町の住人は、ドリオネスであり、彼らの先祖は、テッサリア地方に住んでいたペラスゴイ人であった。[59]

BC1248年、キュジコスの町に逗留したミニュアス人の船がキュジコスの町の住人に襲撃されるという事件が発生した。[60]

レムノス島を追い出されたミニュアス人は、その事件を覚えていて、自分たちの先祖を襲撃したドリオネスが住むキュジコスの町へ移住して、彼らを追い出した。[61]

キュジコスの町を追われたドリオネスは、イダ山南側のアンタンドロスの町へ移住した。[62]

 

11 ラコニアへの移住

BC1075年、ペラスゴイ人の男性とアテナイ人の女性から生まれた子供たちが、レムノス島からラコニア地方へ移住した。[63]

 

11.1 ヘロドトスの記述

ヘロドトスは、BC1115年のミニュアス人の移住と、BC1075年のペラスゴイ人の移住を1つの物語にして、記述している。[64]

前者と後者は、次の点で異なっている。

1) ラコニアへ移住した時期

前者は、ヘラクレイダイの帰還前であった。[65]

後者は、ヘラクレイダイの帰還後であった。[66]

2) ラコニアからの移住先

前者は、アウテシオンの子テラスに率いられて、テラ島へ移住した。[67]

後者は、ポッリスやデルポスに率いられて、クレタ島やメロス島へ移住した。[68]

ポッリスやデルポスは、テメノスの子ケイソスの子アルタイメネスと一緒に行動していた。[69]

 

11.2 ラコニアからエレイアへの移住

ヘロドトスは、エレイア地方南部に6つの町を創建したのは、ミニュアス人だと伝えている。[70]

しかし、そのミニュアス人をレムノス島から追い出したのは、ペラスゴイ人であった。[71]

そのペラスゴイ人は、アテナイの町のヒュメットス山麓に住んでいて、アテナイ人によって、追い出された。[72]

つまり、レムノス島からラコニア地方へ逃れたミニュアス人が、6つの町を創建できたとは、思われない。

ミニュアス人より後に、レムノス島からラコニア地方へ逃れて来たペラスゴイ人が、ドーリス人に従属していたヘイロテスと共に、6つの町を創建したと推定される。[73]

 

12 ペラスゴイ人の退去

12.1 ミルティアデスの攻撃

BC495年、レムノス島は、へレスポントスのケルソネセの僭主であるキモンの子ミルティアデスの攻撃を受けた。[74]

ヘロドトスは、アテナイの町からレムノス島へ移住して、悪事を働いたペラスゴイ人がアテナイの町に謝罪して、アテナイ人から島を要求されたと伝えている。その際、ペラスゴイ人は、北風を受けた船に乗って、1日で島に到達できたら島を明け渡すと約束したという。[75]

ミルティアデスは、レムノス島の住人に、島からの退去を迫った。[76]

ヘパイスティアの町の住人はミルティアデスの要求に従ったが、ミュリナの町の住人は、門を閉ざして、ミルティアデスに抵抗した。[77]

結局、ミュリナの町の住人もミルティアデスに屈服した。[78]

ディオドロスは、ペルシアに対する恐怖心から、住人自らミルティアデスに島を引き渡したと伝えている。[79]

 

12.2 逸話の真偽

次のことから、ヘロドトスが伝えているペラスゴイ人とアテナイ人の約束は、作り話と思われる。

1) 620年前の約束を双方が覚えているとは思えない。

2) ミルティアデスが出航したケルソネセのエライウスから北風に吹かれてレムノス島には到達しない。レムノス島は、エライウスの西南西方向にある。[80]

3) レムノス島の住人は、ペルシアに対する恐怖心から島を捨てたという伝承がある。[81]

 

12.3 カルキディケへの移住

レムノス島に住んでいたペラスゴイ人は、ヘルモンに率いられて、カルキディケ半島へ移住した。[82]

ペラスゴイ人は、クレオナイ, オロピュクシス, アクロトオイ, ディオン, テュッソスの町に定住した。 [83]

この後、5つの町に定住したペラスゴイ人の一部は、スキュロス島へ渡った。[84]

また、ペラスゴイ人の一部は、パイオニア地方の近くへ移住した。

BC429年、パイオニア人の隣には、シンティ人が住んでいた。[85]

 

13 レムノスの住人の変遷

BC1431年、テルキネス族がレムノス島の最初の住人になった。

BC1390年、テッサリア地方からペラスゴイ人が移住して来て、テルキネス族と共住した。

その後、ペラスゴイ人の一部は、本土へ移住し、マイオニア人やクレタ人が一時的にレムノス島に定住した。

BC1236年、テッサリア地方からミニュアス人が移住して来て、レムノス島はミニュアス人の島になった。

BC1115年、アテナイの町からペラスゴイ人が移住して来て、ミニュアス人を島から追放した。

BC495年、ミルティアデスがペラスゴイ人を島から追放して、レムノス島はアテナイ人の島になった。

 

14 カミニアの石碑

19世紀の終わり頃に、エトルリア文字に似た文字が刻まれた石碑が、レムノス島で発見された。カミニアの石碑と呼ばれた、この石碑の製作者を推定してみる。

 

14.1 アテナイから移住したペラスゴイ人

BC1115年にアテナイの町から来たペラスゴイ人は、次のようにして、レムノス島の住人になった。

BC1560年、トリオパスの子ペラスゴスの娘ラリッサ率いるペラスゴイ人は、アルゴスの町からテッサリア地方へ移住した。[86]

BC1390年、テッサリア地方に住んでいたペラスゴイ人の一部は、イタリア半島へ移住した。[87]

BC1300年、イタリア半島に住んでいたペラスゴイ人の一部は、シシリー島へ移住した。[88]

BC1240年、シシリー島に住んでいたペラスゴイ人は、アカルナニア地方へ移住した。[89]

BC1188年、アカルナニア地方に住んでいたペラスゴイ人は、ボイオティア地方へ移住してコロネイアの町に定住した。[90]

BC1126年、ボイオティア地方に住んでいたペラスゴイ人は、アテナイの町へ移住した。[91]

BC1115年、アテナイの町に住んでいたペラスゴイ人は、レムノス島へ移住した。[92]

つまり、彼らの先祖は、BC1390年から90年間、イタリア半島に住んでいたが、テュレニア人の始祖テュッレノスに追われた人々であった。彼らの先祖は、エトルリア語を習得することは不可能であった。

多くの伝承が、アテナイの町からレムノス島へ移住した人々をテュレニア人と呼んでいる。[93]

 

14.2 テュレニア人のイタリアからの移住

BC1075年からBC500年頃までのレムノス島の情勢は不明である。

しかし、この期間に、レムノス島がテュレニアと呼ばれていたことは間違いない。

アテナイの町からレムノス島へ移住したペラスゴイ人は、テュレニア人と呼ばれる以前のマイオニア人によって、イタリアを追われた人々であり、テュレニア人ではなかった。

BC1300年、アテュスの子テュッレノスと共にレムノス島からイタリア半島の西海岸地方へ移住したマイオニア人(ペラスゴイ人)は、テュレニア人と呼ばれるようになった。[94]

BC1300年からBC500年頃までの間に、イタリア半島の西海岸地方からレムノス島へ移住して来たテュレニア人がいたと思われる。

彼らに因んで、島はテュレニア、島の住人はテュレニア人と呼ばれるようになった。

 

14.3 石碑の製作者

カミニアの石碑の製作者は、各地を経由して、アテナイの町からレムノス島へ移住したペラスゴイ人ではなく、直接、イタリアからレムノス島へ移住して来たテュレニア人と推定される。

テュッレノスの死後、強力な指導者が現れず、テュレニア人の町の中には、近隣部族に追い出されて、海賊になったテュレニア人もいた。[95]

その中には、彼らの先祖が、昔、住んでいたレムノス島へ移住した人々もいたと思われる。

レムノス島は、ヘレスポントスの入り口に位置し、海賊の出撃基地としては、最適な島であった。

テュレニア人が、イタリアからレムノス島へ移住して来たのは、BC9世紀以降と推定される。

その頃、小アジアでは、海上交易が盛んになって、港の使用料を徴収するようになった。[96]

 

おわり

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