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第9章 小アジア植民(BC1170-1043)

Create:2025.10.30, Update:2025.10.31

AsiaMinorS.png

1 はじめに

1.1 Trojan War前の入植地
Asia Minorは、古くから、Hittiteの勢力が及んでいて、ギリシア人の入植地は、Miletusの町やLycia地方のXanthus川付近、および、その周辺の島々に限られていた。

BC13世紀の後半、Hittiteの勢力が衰えてくると、Arcadia地方のTegeaの町からMysia地方への入植が行われた。[1]

また、Boeotia地方からColophonの町への入植もあった。[2]


1.2 Trojan War後の入植地
BC12世紀になり、Hittiteが滅亡し、Hittiteの属国Wilusa (Troy)も、Trojan Warを経て、勢力を失った。

これらの後で、ギリシア人による本格的なAsia Minorへの植民活動が始まった。

最初に、Doriansの侵攻によって、土地を荒廃させられたAchaeansが、Asia Minor北部へ入植した。Herodotusは、Ionia地方よりAeolis地方の方が豊沃であったと伝えている。[3]

次に、Doriansの侵攻によって、Peloponnesusから追い出されたIoniansが、Attica地方やEuboea島を経由して、Asia Minor中部へ入植した。

最後に、Doriansが飢饉から逃れて、PeloponnesusやMegara地方から、Asia Minor南部へ入植した。

AchaeansやIoniansの移住は、複数回に及ぶものであった。


1.3 ギリシア人の入植地

BC16世紀から、ギリシア人は、Anatolia半島の沿海地方全般にわたって、植民活動を行っていた。BC13世紀の後半、Hittiteの勢力が衰えてくると、ギリシア人が真っ先に入植したのは、Mimas半島の南北の土地であった。Aeolis地方やIonia地方の町も、Mimas半島の南北に集中して、建設された。

その地方の土地や気候が、ギリシア人に適していたのだと思われる。

 

2 AchaeansのAeolis植民 (1170-1055 BC)

2.1 Aeolis植民の開始時期

Straboは、AeolisのAsia Minorへの植民活動は、Ioniansより4世代早く始まったと伝えている。[4]

Aeolisへの最初の植民は、Agamemnonの子Orestesによるものであった。

そして、Ioniansの植民活動の最初の遠征は、BC1073年にAthensの町のPrytaneumから出発したCodrusの子Neileusによるものであった。

Neileusは、Melanthusの子Codrusの息子であり、MelanthusとOrestesの子Tisamenusは、同時代人であるので、OrestesはNeileusより3世代前となる。

3世代で100年として計算しているHerodotusに従えば、Aeolis植民の開始は、BC1170年と推定される。[5]

 

2.2 Orestesの植民

BC1170年、Agamemnonの子Orestesは、Amyclaeの町のPeisanderと共にTenedos島へ遠征して、Tenedosの町を創建した。[6]

Peisanderの母方の祖父は、Thebes攻めの守将Melanippusであった。[7]

また、Orestesの遠征には、Epidaurusの町のPerinthusも同行し、Perinthusの町(Thracia地方の町ではない)を創建した。[8]

 

2.3 Orestesの植民の原因

2.3.1 Doriansの侵入

Agamemnonが死ぬと、Hyllusの子Cleodaeusは、Doriansを率いて、Mycenaeの町を攻めて、町を破壊した。[9]

あるいは、Agamemnonは、Doriansとの戦いで死んだと思われる。

Agamemnonが死んだのは、彼の治世30年目のBC1173年であった。[10]

近年の考古学調査で、BC12世紀のMycenaeの町に破壊された痕跡が確認されている。[11]

Doriansは、TirynsやMideaの町も破壊した。[12]

また、Doriansは、Amyclaeの町やEpidaurusの町へも侵攻して、土地が荒廃した。

Aristotleは、Trojan War以後、Mycenaeの町は乾燥して不毛になったと伝えている。[13]

この気候変動と土地の荒廃が、AchaeansのAsia Minorへの植民の原因と推定される。

 

2.3.2 Trojan War

PeisanderのTenedos島への入植と、Hectorの息子たちによるIlium奪還が同時期であり、つぎのように推定される。

BC1186年、Antenorの息子たちによって、Iliumの町を奪われたHectorの息子たちは、Achillesの子Neoptolemusに連れられて、Molossiansの地へ逃れた。[14]

BC1170年、Hectorの息子たちは、Iliumの町を攻めて、Antenorの息子たちから町を取り戻した。[15]

この時、Hectorの息子たちは、各地に逃れていた同胞を結集した。

その中には、Tenedos島からArgolis地方へ逃れて、AgamemnonによってTeneaの町に居住させられたTrojansもいた。[16]

彼らは、Agamemnonの子Orestesに率いられて、Iliumの町の攻略にも参加したと推定される。

戦いの後で、Teneaの町のTrojansの一部は、Tenedos島へ帰還した。

さらに、Orestesは、Amyclaeの町の土地を失った人々をPeisanderに率いらせて、Tenedos島へ入植させた。

 

2.4 Penthilusの植民

Orestesの死後、Orestesの子Penthilusは、移民団を率いて、Asia Minorへ渡った。

BC1126年、Penthilusは、Boeotia地方のAulis港を出港し、Lesbos島を占領して植民した。[17]

かつて、Lesbos島はPelasgia島と呼ばれて、Argosの町のTriopasの子Xanthusが率いて入植したPelasgiansが居住していた。その後、Aeolusの子Macareusが入植し、Lapithusの子Lesbosが移民団を率いて入植し、島は、Lesbos島と呼ばれるようになった。島に住んでいたPelasgiansの一部は、本土へ移住して、島にはAeolisが多くなった。[18]

Penthilusには、彼の異母兄弟Tisamenusの子Cometesも同行して、Aeolis地方へ移住した。[19]

また、Tisamenusは、Boeotiansだけの移民団を率いたこともあった。[20]

 

2.5 CleuesとMalausの植民

BC1126年、Lesbos島へ向かうPenthilusの後から、Dorusの子CleuesとMalausの遠征隊も続くはずであったが、彼らの居住地に長く留まっていた。[21]

Aristomachus率いるHeracleidaeのPeloponnesus帰還の推移を見ていたものであった。彼らは、Penthilusよりもかなり遅れて出発した。[22]

CleuesもMalausもAgamemnonの曾孫で、Locris地方やMt. Phricium付近に住んでいた。[23]

CleuesとMalausの移民団は、Lesbos島の対岸の本土へ移住して、Larisaの町やその周辺に住んでいたPelasgiansを追い出して、Phryconian Cymeの町を創建した。[24]

BC1186年、Iliumの町から逃れたAtheniansが、Cymeの町の近くのElaeaの町に定住していた。[25]

Larisaの町の周辺に住んでいたPelasgiansは、Lethusの息子たち、PylaeusとHippothousに率いられた強大な部族であったが、Trojan Warで弱体化していた。[26]

 

2.6 Penthilusの子Archelausの植民

BC1100年、Penthilusの子Archelaus (or Echelas)は、Achaeansの移民団を率いて、Anatolia半島北西部のDascyliumの町の周辺へ移住した。[27]

BC680年、Candaulesの次のLydia王Dascylusの子Gygesは、Dascyliumの町の出身であった。[28]

Lydia王Gygesは、Ionia地方の町を次々と攻略するが、Ioniansは、Achaeansの敵であったからであった。[29]

 

2.7 Grasの植民

Orestesの後裔による植民活動は、Heracleidae帰還後も行われ、Lacedaemoniansは、Penthilusの子Archelausの子Grasの植民活動を支援した。[30]

Aeolis地方への移民の中には、Spartaの町の古くからの住人であるLacedaemoniansも含まれていたものと思われる。支配者が代わってもSpartaの町とその植民地との繋がりは維持されていたものと思われる。

BC1055年、Archelausの子Grasは、Granicus川まで遠征し、Lesbos島を再占領して、Mysia地方とIonia地方の間のAeolis地方を領有した。[31]

 

2.8 Aeolisの12市

BC5世紀の歴史家Herodotusによれば、Aeolis12市は、つぎのとおりである。

Phryconian Cyme、Larisa、Neonteichus、Temnus、Cilla、Notium、Aegiroessa、Pitane、Aegaeae、Myrina、Gryneia、Smyrna。[32]

しかし、Smyrnaは、後に、Ionia地方の町になった。

 

2.9 Aeolisの名称

2.9.1 名称への疑問

Aeolis地方の名称は、Aeoliansに因んでいるようである。[33]

しかし、Aeolis地方への植民を主導したのは、Agamemnonの後裔たちであり、Achaeansであった。

Achaeansの始祖は、Hellenの子Xuthusの子Achaeusであった。[34]

また、Aeoliansの始祖は、Hellenの子Aeolusであった。[35]

つまり、AchaeansとAeoliansは、Hellenesの支族ではあったが、Achaeansは、Aeoliansの支族ではなかった。[36]

何故、Aeolis地方は、Achaia地方と呼ばれなかったのであろうか。

 

2.9.2 名称決定理由

Aeolis地方と呼ばれたのは、その地方最大の町Phryconian Cymeの住人の多くがAeoliansであったからと思われる。[37]

Cymeの町の住人は、Locris地方のPhricium山周辺からAsia Minorへ移住した人々であった。[38]

Phricium山周辺には、多くのAeoliansが住んでいた。[39]

彼らは、Thessaly地方に侵入したThesprotiansに追われて、Phricium山周辺へ逃れて来たAeoliansであった。[40]

Argolis地方やLaconia地方に住んでいたAchaeansの多くは、Peloponnesus北部のAchaia地方へ移住し、Asia Minorへ移住したAchaeansは少なかった。

一方、Agamemnonの後裔に率いられて、Phricium山周辺からAsia Minorへ移住して、Cymeの町の建設に参加したAeoliansは、もの凄い数であった。

つまり、Aeolis地方の住人は、AchaeansよりAeoliansの方が多かったので、Aeolisと呼ばれるようになったのだと思われる。

 

3 IoniansのAsia Minor植民 (1073-43 BC)

第17代Athens王Codrusが死ぬと、長男Medonが父の跡を継いだ。他の兄弟は、Neileusと共に植民団を率いてAthensの町に溢れた人々を受け入れる土地を探して遠征することになった。[41]

移住先は、Trojan Warの後で、Achaeansが入植したAeolis地方より南の地方であった。

その地方には、CariansやLelegesが住んでいた。[42]

Lelegesの王は、Cadmusの異母兄弟Phoenixの娘Astypalaeaの子Ancaeusであった。[43]

Lelegesは、Cariansと混血したギリシア人であった。[44]

 

3.1 Ioniansの植民活動の期間

IoniansのAsia Minorへの植民は、BC1073年から数回にわたって行われた。

Apollodorus of Athensは、Ioniansの移住から最初のOlympiad(BC776)まで267年間あったと伝えており、BC1043年がIoniansの移住が完了した年になる。[45]

Castor of Rhodesは、Heracleidaeの帰還からIoniansの移住までは、60年間であったと伝えている。[46]

Spartaの町のOrestesの子Tisamenusが、Heracleidaeに町を明け渡したのが、BC1104年と推定される。

したがって、Castorの説が、Ioniansが移住を完了した年とすれば、Apollodorus の説とほぼ合致する。[47]

 

3.2 Ioniansの他の植民参加者

Asia MinorのIonia地方への移住者の大半は、古くからPeloponnesus半島北部に住んでいて、Achaeansに追われて、Athensの町へ移住したIoniansであった。

しかし、つぎの種族もIoniansと共にAsia Minorへ移住した。[48]

 

3.2.1 Abantes

Euboea島から移民団に参加したAbantesは、Ioniansに次いで大きな比重を占めていた。[49]

Abantesは、元々はArgosの町に住むPelasgiansであった。Danausの娘Hypermnestraの子AbasがPhocis地方に創建したAbaeの町からEuboea島へ移住したChalcodonの父Abasの名に因んでAbantesと呼ばれるようになった。[50]

AbantesとIoniansとは種族的には、まったく結び付きがないが、つぎの点から密接な繋がりがあったものと思われる。

1) 第9代Athens王Aegeusの妻の一人Chalciopeが、Abasの子Chalcodonの娘であった。[51]

2) 第10代Athens王Theseusの息子たちがChalcodonの子Elephenorのもとへ避難した。[52]

 

3.2.2 Minyans

BC1188年、Phocis地方のHyampolisの町のHyantesがOrchomenusの町に侵入した。町から追い出されたMinyansは、Aeolusの子Athamasの後裔であるAthamasに率いられてIonia地方へ移住してTeosの町を創建した。[53]

Minyansの一部は、Athensの町に受け入れられて、Munychiaに住んだ。[54]

BC1126年、Thessaly地方のArneの町からBoeotia地方にBoeotiansが帰還し、Coroneiaの町のPelasgiansを追い出して、Orchomenusの町も併合した。[55]

このとき、Athensの町に住んでいたMinyansは、Orchomenusの町へ帰還した。

しかし、Minyansの一部は、Athensの町に残留していて、その後、Ioniansの植民活動に加わった。[56]

 

3.2.3 Cadmeians

Thebesの町の最後の王Xanthusの祖父Damasichthonの祖父Peneleusの後裔Philotas率いるCadmeiansもIoniansと共へ移住した。[57]

 

3.2.4 その他の種族

Ioniansと共に、Dryopians、Delphiansを除くPhocians、Molossians、Arcadians、Epidaurusの町の新しい住人であるDoriansも移住に参加した。[58]

 

4 Ioniaの12市

Ioniansは、Achaeansに追われる前に、Peloponnesus半島北部にあった12の町の数と同じ数の町をAsia MinorのLydia地方やCaria地方の沿岸部に創建した。[59]

Ioniansが入植する前は、Ephesusの町以南の地方にはCariansが住み、北の地方にはLelegesが住んでいた。[60]

12市とは、Miletus, Ephesus, Erythrae, Clazomenae, Priene, Lebedus, Teos, Colophon, Myus, Phocaea, Samos, Chiosであった。[61]

その後、Smyrnaの町が加わった。[62]

 

4.1 Miletus

4.1.1 Ioniansの移住前

4.1.1.1 最初のGreeks

Cadmusの兄弟Phoenixの娘Astypalaeaの息子Ancaeusは、Lelegesの王であった。Ancaeusの妻Samiaは、Maeander河神の娘であった。[63]

古い時代には、Miletusの町はLelegeisと呼ばれて、Lelegesの居住地であった。[64]

以上のことから、Ancaeusは、Maeander川の流れるMiletusの町を支配していたと推定される。

Lelegesとは、特定の種族に属さない混血した人々に与えられた名前であった。[65]

つまり、Ancaeusが支配した人々は、先住民のCariansと共住して、混血したGreeksであった。[66]

Ancaeusの孫と思われるAnaxが父の跡を継いで、Miletusの町は、Anactoriaと呼ばれた。[67]

 

4.1.1.2 Hittiteへの従属

BC1318年、Hittite王Mursili IIは、Miletusの町を攻めて、占領した。[68]

この戦いの原因は、Miletusの町がHittiteに反抗していたUhha-Zitiと同盟を結んでいたからであった。[69]

Anaxの子Asteriusは、Miletusの町の前に浮かぶLade島近くの島へ逃れて死んだ。[70]

また、Anaxの息子と思われるCleochusは、Uhha-Zitiの軍に合流した。

その後、Cleochusは、Mursili IIとの戦いに敗れて、Uhha-Zitiの子Piyama-Kuruntaと共にHittite軍の捕虜になった。[71]

その後のCleochusの消息は不明であるが、Miletusの町の近くのDidymaeumに墓があった。[72]

Cleochusの娘AriaはCrete島へ逃れ、彼女に息子Miletusが生まれた。[73]

 

4.1.1.3 Hittiteからの独立

BC1295年、Ariaの子Miletusは、Minosの兄弟Sarpedonの協力を得て、Crete島からAsia Minorへ移住して、祖父の旧領を回復した。[74]

Miletusの息子は、Laomedonの娘Hesioneを妻に迎えて、Troyとの関係を深めた。[75]

 

4.1.1.4 再び、Hittiteへ従属

Miletusが死ぬと、Miletusの町は、再び、Hittiteの属国になった。

しかし、Miletusの息子は、父がHittite王に敵対していたが、Hittite王によって、そのままMiletusの町を任せられた。[76]

Miletusの息子が許されたのは、彼の妻がTroy王Laomedonの娘であったからと推定される。

 

4.1.1.5 Trojan War時代

Peleusの子Achillesは、Miletusの町を攻めて、Lelegesの王Trambelusを殺した。 [77]

Trambelusの母は、Laomedonの娘Hesioneであり、彼は、Miletusの息子からMiletusの町を継承していた。[78]

 

4.1.2 Ioniansの移住

BC1073年、Codrusの子Neileusは、Athensの町が派遣した正式な移民団として、Prytaneumから新天地に向けて出発した。[79]

Neileusの移民団は、女性を含まない若者たちの集団であった。[80]

Athens王Codrusの継承権を争ったNeileusの入植地Miletusの町は、Ionia地方の王都にはなれなかった。[81]

Miletusの町が王都になれなかったのは、その町がIonia地方の外れにあったことや、その町の住民が、Ioniansではなかったからであった。Miletusの町の住人は、Codrusの父Melanthusと共にAthensの町へ移住して来たMesseniansであった。[82]

後に、Miletusの町の賢人Thalesは、Miletusの町をIonia地方の中心都市にするべきだと主張した。[83]

Neileusに同行したPasiclesの子Philistusは、Miletusの町の近くのScolopoeisの地に、EleusisのCeresの神殿を建立した。[84]

 

4.2 Myus

BC1080年、Codrusの庶子Cydrelus(or Cyaretus)は、Neileusと仲違いして、Miletusの町からMaeander川を少し遡った土地へ移住してMyusの町を創建した。[85]

 

4.3 Ephesus

4.3.1 Ioniansの移住前

Troyan War当時は、Alopeの町と呼ばれ、CariansやLelegesが住んでいた。[86]

Hittite文書に登場するArzawaの首都Apasaは、Ephesusの町の古い名前のようである。[87]

BC1318年、Apasaは、Hittite軍に攻められて陥落し、住人は追放された。[88]

その後、Samos島の奴隷1,000人がEphesusの町に定住した。[89]

BC1150年、Smyrna率いるAmazonsがEphesusの町に攻め込み、神殿を焼き払った。[90]

AmazonsのOtreraが、Seven wonders of the worldに数えられる、Dianaの神殿を建立した。[91]

多くの史料が、AmazonsがEphesusの町を創建したと伝えている。[92]

しかし、いずれの創建者もGreeksではなかった。

 

4.3.2 Ioniansの移住

BC1068年、Codrusの子Androclusが、CariansやLelegesを追い出して、Ephesusの町を創建し、Ephesusの町は、Ionia地方の王都となった。[93]

その後、Ephesusの町のSmyrna地区に住んでいた人々が、町から北へMeles川を越えた所へ移住して、Smyrnaの町を建設した。[94]

BC1053年、Androclusは、Cariansに攻められたPrieneの町を救援するため、Ephesiansを率いて駆け付けて勝利するが、Androclusは戦死した。[95]

その後、Androclusの息子たちと他のEphesiansとの争いが生じて、敵対者はTeosの町やMysia地方のCarineの町から植民者を受け入れて対抗した。その結果、Ephesiansは5つの部族になった。つまり、本来のEphesiansの他に、Bennaeans、Euonymous、Teians、Carineansである。[96]

 

4.4 Lebedus

BC1068年、Codrusの子Andraemonが、Cariansを追い出して、Lebedusの町を創建した。[97]

Andraemonは、その後、Colophonの町の支配者Promethusが兄弟Damasichthonを殺して、Naxos島へ移住した後で、Colophonの町をも統治したと推定される。[98]

 

4.5 Colophon

4.5.1 Ioniansの移住前

BC1200年、Crete島からLebesの子Rhaciusが移民団を率いて、Chios島とSamos島の間の本土側へ移住し、Colophonの町を創建した。[99]

LebesはMycenianであり、Mycenaeの町のSthenelusの子Iphitusの息子と思われる。[100]

BC1196年、RhaciusがColophonの町に住んで間もなく、Epigoniの捕虜になったBoeotia地方の人々が移住して来て、Cretansと共住した。彼らの中にいたThebesの町の予言者Tiresiasの娘Manto(or Daphne)は、Rhaciusと結婚し、Calchasを凌ぐ予言者となる息子Mopsusを産んだ。[101]

BC1186年、Trojan Warの後で、Thessaly地方から遠征に参加したPeirithousの子Polypoetesや、Coronusの子Leonteusは、故郷へ帰還せずにColophonの町に定住した。[102]

 

4.5.2 Ioniansの移住

BC1065年、Codrusの2人の息子たち、DamasichthonとPromethusがIoniansを率いてColophonの町へ移住し、Cretansに共住を許された。[103]

Ioniansの移住時、Rhaciusの後裔がColophonの町を治めていた。その後、住人の多くがIoniansになったためか、あるいは、Ionian Leagueへの加入のためにか、Codrusの2人の息子たちがColophonの町を治めることになった。[104]

BC1060年、Promethusは、Damasichthonを殺して、Naxos島へ移住した。[105]

Promethusが死に、Naxos島から運び込まれたPromethusの遺骸をColophoniansは、町へ迎え入れた。[106]

Herodotusは、Persian Warの時代、Naxos島には、Athensの町出身のIoniansが住んでいたと記している。[107]

Ioniansの植民活動は、Asia Minorだけではなく、Aegean Seaにも及んでいたと思われる。

BC6世紀、Promethusの後裔Ceyxの娘CydippeがNaxos島に住んでいた。[108]

BC600年頃のColophonの詩人Mimnermusは、Pylus出身のAndraemonがColophonの町を創建したと伝えている。[109]

恐らく、PromethusがDamasichthonを殺して、Naxos島へ移住した後で、Codrusの子AndraemonがColophonの町を治めたと思われる。

 

4.6 Priene

BC1060年、Miletusの町のCodrusの子Neileusの子Aepytusが、Ioniansを率いてPrieneの町を創建した。[110]

BC1053年、Prieneの町はCariansに攻められ、Ephesusの町からAndroclusが救援に駆け付けて勝利するが、Androclusは戦死した。[111]

BC1043年、Hippalcimusの子Peneleusの後裔PhilotasがThebesの町から移民団を率いて来て、Prieneの町を再建した。[112]

BC2世紀の伝記作者Satyrusによって、the Seven Sagesの筆頭に上げられるTeutamesの子Biasは、この時の入植者の後裔であった。[113]

初期のPrieneの町の住人には、Achaia地方のHelice出身者が多く含まれていた。Panioniumは、Heliconian Neptuneに捧げられたものであった。[114]

 

4.7 Teos

4.7.1 Ioniansの移住前

BC1188年、Thraciansに追われたOrchomenusの町の住人の一部は、Aeolusの子Athamasの後裔Athamasに率いられてIonia地方へ移住してTeosの町を創建した。[115]

Teosの町のすぐ東側には、Colophonの町があり、EpigoniのThebesを攻めで、捕虜となったBoeotia地方の人々が、少し前に、その地へ移住していた。[116]

 

4.7.2 Ioniansの移住

BC1065年、Codrusの庶子Nauclusに率いられたIoniansが最初にTeosの町に入植した。

BC1060年、Nauclusの弟DamasusやMelanthusの曾孫Apoecusに率いられたIonians、それにBoeotianのGeresが率いるBoeotiansがTeosの町に入植した。[117]

 

4.8 Erythrae

4.8.1 Ioniansの移住前

BC1260年、Rhadamanthus (or Rhadamanthys)の子ErythrusがCrete島から移民団を率いて、Chios島の対岸へ移住して、Erythraeの町を創建した。Erythraeの町には、Cretansに友好的なCariansや、Sarpedonと共へ移住して、Lyciansと呼ばれていた人々が共住した。[118]

BC5世紀の歴史家Hellanicusは、Codrusの子NeileusがErythraeの町を創建したと伝えているが、古い町を再建したものと思われる。[119]

 

4.8.2 Ioniansの移住

BC1060年、Codrusの庶子Cnopusが、Ionia地方のすべての町から人々を集めて、Erythraeの町に連れて行って共住し、町はCnopopolisと呼ばれた。[120]

Erythraeは、Boeotia地方の同名の町の植民市とも伝えられる。[121]

 

4.9 Clazomenae

BC1050年、Asiaに渡ったIoniansが、Colophonの町のParalus (or Parphorus)を指導者に招いて、最初、Ida山麓に町を建設した。しかし、この町を放棄して、Colophonの町の近くにScyppiumの町を建設した。その後、まだ人が住んでいない土地にClazomenaeの町を創建した。[122]

Clazomenaeの町のIoniansの大部分は、Heracleidaeに追われたArgolis地方のCleonaeの町やPhliusの町に住んでいたAchaeansであった。Clazomenaeの町が、Ionian League加盟していることから、Paralusは、Codrusの後裔と思われる。[123]

 

4.10 Phocaea

BC1073年、Euctemonの2人の息子たち、PhilogenesとDamonは、Codrusの子Neileusの最初の移民団と共に航海していたが、途中で、Neileusと別れた。[124]

PhilogenesとDamonは、Phociansを率いて、Aeolis地方南部のまだ人が住んでいない土地へ移住して、Phocaeaの町を創建した。[125]

その土地は、BC1126年、Agamemnonの曾孫MalausがLocris地方のPhricium山麓に住んでいた人々を率いて移住して創建したCyme Phriciumの町の支配下にあった。彼らは、同郷のよしみで、協定を結んで、土地を分け与えられた。[126]

後に、Phocaeansは、Ionian Leagueへの加盟を申し出たが、Codrusの後裔を王に迎えることが加盟の条件であった。そこで、Phocaeans は、Erythraeの町やTeosの町からCodrusの後裔たち、Deoetes、Periclus、Abartusを王に迎えた。[127]

Phocaeans がIonian Leagueに加盟したのは、海運が発達して、Cymeの町と利害関係が生じたためで、BC9世紀と推定される。[128]

 

4.11 Samos島

4.11.1 Ioniansの移住前

BC1365年、Macareusの子Cydrolausは、Lesbos島からSamos島へ移住した。[129]

BC1248年のArgonautsの遠征物語に、Samos島からAstypalaeaの子Ancaeusが、兄弟であるMiletusの町のErginusと共に登場している。[130]

BC1213年、ArgosのHera神殿の巫女であったEurystheusの娘Admeteは、Samos島へ移住した。[131]

 

4.11.2 Ioniansの移住

BC1095年、Pityreusの子Proclesが、Epidaurusの町からAthensの町へ移住した人々を率いて、Samos島に入植して、Samosの町を創建した。[132]

Samosの町は、Tembrionが創建し、その後、Proclesがこれを再建した。[133]

BC1087年、Heracleidaeに追われたArgolis地方のPhliusの町の指導者Hippasusは、Samos島へ移住して来た。有名なPythagorasは、Hippasusの後裔であった。[134]

 

4.11.3 島からの追放と帰還

BC1065年、Proclesの子LeogorusがCariansと組んで、Ioniansに対して陰謀を企んでいるという理由で、Androclus率いるEphesiansが島に攻め込んだ。

Samiansの一部は、Samothrace島へ移住し、残りは、Leogorusと共に本土に渡り、島の対岸のAmazonsのAnaea埋葬の地やMycale半島へ移住した。[135]

Samothrace島へ移住したSamiansの一部は、Propontis海の北岸にPerintusの町を創建した。[136]

BC1055年、Samiansは、島からEphesiansを追い出して、島を取り戻した。[137]

SamiansがIonian League加盟したのは、この後であった。

Ionia地方の4つの方言のうち、Samiansだけが独特な方言を話していた。[138]

 

4.12 Chios島

4.12.1 Ioniansの移住前

BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Aeolisに追われて各地へ移住した。[139]

Pelasgiansの一部は、Chios島へ移住した。[140]

BC1370年、Aeolusの子Macareusの長男は、Lesbos島からChios島に入植した。[141]

BC480年、Greeceに進攻したXerxesの軍勢には、Chios島のPelasgiansも含まれていた。Macareusと共にPeloponnesusからLesbos島へ移住し、その後、Macareusの長男と共にChios島へ移住したPelasgiansの後裔たちであった。[142]

BC1245年、Minosの娘Ariadneの子Oenopionは、Naxos島からChios島へ移住した。[143]

Oenopionの息子たち、Talus、Euanthes、Melas、Salagus、Athamasも父に同行した。[144]

BC1230年、Oenopionの子Euanthesは、Chios島からThracia地方のIsmarusの町へ移住した。[145]

 

4.12.2 Ioniansの移住

BC1060年、Euboea島のHistiaeaの町のAmphiclusが、Chios島に入植した。[146]

BC1020年、Amphiclusから4代目のHectorが、Chios島からAbantesやCariansを追い出して、Ionian Leagueに加盟した。[147]

Pausaniasは、なぜHectorがIonian Leagueに加盟できたのか理由が分からないと記しているが、Hectorが治める住民がIoniansであったからであった。[148]

Hectorの祖Amphiclusは、Athensの町から移民団を率いてEuboea島へ渡ってEllopiaの町を創建したEllopsの兄弟であった。[149]

Ellopsは近隣のHistiaeaの町も支配下に置き、Amphiclusは町の住人や、次々にAthensの町から移住して来る人々を率いて、Chios島へ移住した。[150]

Ellopsは、Xuthus (or Ion)の息子であり、Phoeniciansの支族Gephyraeansに属していた。[151]

BC1415年、EumolpusがAttica地方に侵入し、Atheniansは、一時、Gephyraeansが居住するBoeotia地方のTanagra近くまで避難し、Gephyraeansに受け入れられた。[152]

BC1200年、Tanagra周辺のGephyraeansは、Boeotiansに追われて、Athensの町へ逃げ込み、市民として受け入れられた。[153]

Athensの町へ亡命したGephyraeansを率いたのは、SpartiのAstacusの息子たち、Ismarus、Leades、Amphidicusであり、Ellopsの父Xuthusは、彼らの後裔であった。[154]

 

4.12.3 Chiosの創建

Chios島がIonian Leagueに加盟後、Egertiusが移民団を率いて来て、Chiosの町を建設した。[155]

 

4.13 Smyrna

4.13.1 Ioniansの移住前

Herodotusは、Atysの子Tyrrhenusが移民団を率いて、SmyrnaからItalyへ船出したと伝えている。これは、BC1318年の出来事であり、当時、Smyrnaの町は、存在していなかった。[156]

その土地には、Lydia王Melesに因んで名付けられたMeles川が流れ、Lelegesが住んでいた。[157]

 

4.13.2 Smyrnaの創建

BC1075年、Codrusの嫡出子Androclusが、CariansやLelegesを追い出して、Ephesusの町を創建した。[158]

その後、Ephesusの町のSmyrna地区の住人は、Mimas半島の北の付け根にあるMeles川の北側へ移住して、Smyrnaの町を建設した。[159]

 

4.13.3 Smyrnaの創建前の状態

その地方は、Trojan War以前、Lethusの2人の息子たち、PylaeusとHippothousを指導者とするPelasgiansが住んでいた。[160]

BC1126年、Agamemnonの後裔Malausが、Epicnemidian Locris地方の Phricius山周辺に住んでいたAeolisを率いて、Mysia地方に植民した。彼らは、Hermus川流域のLarisaの町周辺に住んでいたPelasgiansを征服して、Cymeの町 (Phryconian Cyme or Cyme Phriconis)を建設した。[161]

Pelasgiansは、Samos島近くのMycale半島付近まで支配し、CariansやLelegesと共住していた。[162]

Pelasgiansを追い出したCymeの町の人々の居住範囲は、Meles川近くまで及んでいた。

Herodotusは、Smyrnaの町の建設者をAeolisだと伝えているが、彼は、Cymeの町の住人が、Smyrnaの町を創建したと勘違いしていたと思われる。[163]

 

4.13.4 Smyrnaの創建時期

Smyrnaの町の創建は、Asia Minorの海運が盛んになった頃と推定される。

Cymeの町は、町の創建から300年後に、他の町より遅れて、港の使用料を取立てたと伝えられる。[164]

つまり、Asia Minorで海運が盛んになり、港を利用する船の数が多くなったのは、BC826年より前であった。

海運が盛んになると、EphesiansがAeolis地方や黒海地方と交易するためには、Mimas半島を大きく迂回する必要があった。

Alexander the Greatは、Mimas半島の根元に運河を作ろうとしたが成就しなかった。[165]

そこで、Mimas半島の南の付け根に住んでいたEphesiansは、北の付け根に、Smyrnaの町を創建した。

つまり、Smyrnaの町を創建は、Asia Minorで海運が盛んになったBC9世紀と推定される。

 

4.13.5 Cymeとの戦い

それまで、Meles川までを自分たちの土地と思っていたCymaeansは、Smyrnaの町を攻めて住人を追い出した。追い出されたSmyrnaeansは、彼らの母市Ephesusの町の手前にあるColophonの町に避難した。その後、Smyrnaeansは、Colophoniansの援助を得て、Smyrnaの町を奪還した。[166]

この時、Cymeの町から移住して、Smyrnaの町に住んでいたMaionの子Melesigenesは、人質として、Colophonの町に住まわせられた。彼は、後に、Homerと呼ばれる叙事詩人になった。[167]

 

4.13.6 Ionian Leagueへの加盟

Herodotusは、最初、Aeolis地方の町として創建されたSmyrnaが、Colophoniansに奪われたと伝えているが、一連の出来事の後半しか知らなかったようだ。[168]

BC733年頃、Smyrnaの町は、Lydians (恐らく、Alyattesの子Ardysの治世)の攻撃で破壊され、以後、村落の状態が続いた。

約400年後、Antigonusは、Alexander the Greatの命によって、Meles川の南側に新しいSmyrnaの町を建設した。[169]

BC688年、Smyrnaの町からOlympicに選手が参加している。[170]

Pausaniasは、その当時、Smyrnaの町はIonia地方の町であったと記している。[171]

Smyrnaの町は、最後にIonian Leagueに加盟し、13番目のIonia地方の町になった。[172]

 

5 DoriansのCaria植民 (BC1070)

5.1 飢饉の発生

BC1070年、Peloponnesusで飢饉が発生した。[173]

Temenusの子Ceisusの子Althaemenesは、DoriansとPelasgiansを率いて、Argosの町からRhodes島へ移住して、Lindus、Ialysus、Cameirusの町を創建した。[174]

Althaemenesの植民団には、建設されたばかりのMegaraの町に住むDoriansも含まれていた。[175]

また、Althaemenesの植民団には、Anthasの子Aetiusの後裔Anthes率いるTroezenの町の住人も含まれていた。[176]

Anthesは、Caria地方に入植して、Halicarnassusの町とMyndusの町を創建した。[177]

Althaemenesの植民団の一部は、Cnidusの町やCos島へも分散した。[178]

Rhodes島の3つ町と、Halicarnassus、Cnidus、Cosは、Doric Hexapolisと呼ばれるようになった。[179]

 

5.2 植民の規模

Althaemenesの植民団の一部は、Crete島へも植民していた。[180]

BC4世紀の歴史家Ephorusは、Althaemenesが率いたDoriansが、Crete島に10市を建設したと伝えている。[181]

Doriansが入植したのは、Rhodes島、Cos島、Caria地方を合わせると、17の町であった。

当時、Aeolis地方やIonia地方の植民活動はほぼ終わっており、Doriansが植民可能なAsia Minorの土地は、Caria地方しかなかったものと思われる。

 

おわり

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