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第15章 アルゴリス地方の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2026.2.16

1 はじめに

アルゴス地方にギリシア人がはじめて住んだのは、BC1750年に発生した「オギュゴス時代の大洪水」の時であった。パルナッソス山の北側を西から東へ流れるケピソス川の上流に住み、洪水によって居住地を失った人々は新天地を目指した。

イナコスの2人の息子たち、アイギアレオス (または、アイゼイオス)とポロネオスに率いられた人々はペロポネソス半島へ移動した。

アイギアレオスは半島北部の海岸地方に、ポロネオスはさらに南へ進んで平野の端の小高い丘(後のラリッサ)の東側に定住した。[1]

アイギアレオスは、アイギアレイア (後のシキュオン)の町を創建し、ポロネオスは、ポロネオス (後のアルゴス)の町を創建した。[2]

この章では、アシネ、クレオナイ、コリントス、エピダウロス、ヘライオン、ヘルミオネ、ミデイア、ナウプリア、ネメア、オルネアイ、プリウス、テネア、テュリンス、トロイゼンについて記述している。

 

2 アシネの歴史

2.1 アシネの創建

BC1230年、パルナッソス山近くに住んでいたドリュオプス人の一部は、ヘラクレスに追われて、ミュケナイの町のエウリュステウスのもとへ逃れた。エウリュステウスは、彼らをナウプリアの町の近くの土地に住まわせ、ドリュオプス人はアシネの町を創建した。[3]

 

2.2 アシネの破壊

BC745年、アルゴス王エラトスは、スパルタ人との戦いの後で、スパルタ人に味方したアシネの町を攻撃して破壊した。[4]

アシネの町に住んでいたドリュオプス人は、ラケダイモンに逃げ込み、メッセニア地方の沿海の土地を与えられた。[5]

 

3 クレオナイの歴史

3.1 クレオナイの創建

BC1251年、ペロプスの子アトレウスは、ミデイアの町から北北西へ約20kmの所へ移住して、クレオナイの町を創建した。[6]

アトレウスがミデイアの町から移住したのは、ヘラクレスがテバイの町から、ヘラクレスの父アンピュトリオンの旧領テュリンスの町へ移住した頃であった。[7]

アトレウスの移住は、ヘラクレスと共にテバイの町に住んでいたリキュムニオスが、リキュムニオスの父エレクトリュオンが住んでいたミデイアの町へ帰還したことが原因と思われる。

 

3.2 ヘラクレスへの加勢

BC1243年、ヘラクレスは、エレイア地方のヒュルミナの町からイストモスの町へ向かう途中のアクトールの2人の息子たち、クテアトスとエウリュトスをクレオナイの町で襲撃して殺した。[8]

この時、アトレウス率いるクレオナイ人がヘラクレスに加勢した。[9]

アトレウスの父ペロプスは、ヘラクレスの母アルクメナの母リュシディケ (または、エウリュディケ)の父であった。[10]

つまり、アトレウスはヘラクレスの祖母の兄弟であった。

 

3.3 クレタ島からの嫁入り

BC1235年、アトレウスの子プレイステネス (または、プリステネス)は、クレタ島のミノスの子カトレウスの娘アエローペ (または、エリピュレ)を妻に迎えた。[11]

プレイステネスが住むクレオナイの町から約10km離れたプリウスの町には、ミノスの娘アリアドネの子プリアソス (または、プリアス)が住んでいた。[12]

プリアソスは、アエローペの従兄であった。この親戚関係が、クレオナイの町に住むプレイステネスとクレタ島に住むアエローペの遠距離婚を成立させたと推定される。

 

3.4 ミュケナイへの移住

BC1217年、ミュケナイの町のエウリュステウスがヘラクレイダイとの戦いで死んだ。[13]

アトレウスは、エウリュステウスの跡を継いでミュケナイの町へ移住した。[14]

アトレウスは、クレオナイの町を兄弟クレオニュモス(または、クレオネス)に任せた。クレオニュモスの名前に因んで、町はクレオナイと呼ばれた。[15]

 

3.5 アテナイへの移住

BC1109年、ヘラクレイダイの一人、ヘラクレスの子クテシッポスの曾孫アガメディダスがクレオナイの町の支配者になった。[16]

クレオナイの町の住人は、アテナイの町へ逃れ、その後、プリウスの町から逃れた人々と共に、小アジアへの植民団に加わった。彼らは、コロポンの町のパラロス (または、パッポロス)に率いられて、ミマス半島にクラゾメナイの町を創建した。[17]

 

3.6 ミュケナイからの亡命

BC468年、アルゴスの町がミュケナイの町を占領し、ミュケナイの町の住人の一部は、クレオナイの町へ逃げ込んだ。[18]

クレオナイの町には、ヘラクレイダイの帰還後もアカイア人が住んでいたと推定される。

 

4 コリントスの歴史

4.1 コリントスの創建

BC1407年、クストスの子アカイオスの2人の息子たち、アルカンドロスとアルキテレスは、シキュオンの町のゲラノールの子ラメドンと戦って勝利した。[19]

アルカンドロスに加勢したアイオロスの子シシュッポスは、シキュオンの町の東側にエピュラ (後のコリントス)の町を創建した。[20]

シシュッポスは、アカイオスの従兄弟であった。

 

4.2 コルキスへの移住

BC1390年、エーゲ海に発生した大津波によって、コリントスの町も被災した。

シシュッポスの子アイイテスは、被災した人々を率いて、黒海東岸のパシス川付近のコルキス地方へ移住した。[21]

 

4.3 アルキダメアの子ブノス

シシュッポスの子アイイテスの跡を継いだのは、ブノスであった。[22]

ブノスは、コリントスの町にヘラ神殿を創建した。[23]

シシュッポスの家系はテッサリア地方のデウカリオーンの後裔で、ヘラ信仰には縁がなかった。

恐らく、ブノスの母アルキダメアは、アルゴスのヘラ神殿の巫女であり、一時、アルゴスの町を占拠していたゲラノールの子ラメドンの娘と思われる。[24]

シキュオンの町とアルゴスの町の戦いの後で、アルキダメアは、シシュッポスの子アルモスに嫁ぎ、息子ブノスが生まれたと推定される。[25]

 

4.4 アロエウスの子エポペウス

ブノスの跡を、アロエウスの子エポペウスが継いだ。[26]

シキュオン王エポペウスは、コリントスの町をも支配することになった。[27]

エポペウスの息子は、マラトンのみが知られている。[28]

 

4.5 エポペウスの子マラトン

マラトンはアッティカ地方へ移住した。パウサニアスは移住の原因を、エポペウスの横暴だと伝えている。[29]

しかし、マラトンは、第6代アテナイ王エレクテウスの娘と結婚しており、その結婚が移住の原因であった。[30]

そして、その結婚は、BC1352年にエレクテウスとエウモルポスの子インマラドスとの戦いで、マラトンがエレクテウスに味方したのが縁であった。[31]

エレクテウスの前のアテナイ王パンディオンは、クストスの子イオンから支援を受けて、エウモルポスと戦った。[32]

マラトンは、イオンの父クストスの兄弟アイオロスの子シシュッポスの子アロエウスの子エポペウスの息子であった。

マラトンとエレクテウスの娘との間には、2人の息子たち、シキュオンとコリントスが生まれた。[33]

 

4.6 コリントスの継承者

マラトンの子コリントスがエピュライアの町を継承して、町はコリントスと呼ばれるようになった。[34]

パウサニアスは、コリントスに跡継ぎがいなかったため、コリントス人はイアソンの妻メディアを迎えたと伝えている。[35]

しかし、系図を作成すると、コリントスとメディアの生年差は、60年以上ある。

アポロドロスは、メディアと同時代のグラウケの父、コリントス王クレオンの名前を伝えている。[36]

恐らく、コリントスの跡をクレオンが継承したと思われる。[37]

リュカイトスの子クレオンは、エポペウスの兄弟の孫と推定される。[38]

 

4.7 メディアとイアソンの時代

4.7.1 テッサリアからの移住

アイソンの子イアソンの妻メディアは、テッサリア地方のアイソニス (または、アイソン)の町に住んでいた。

アイソニスの町は、アイソンがパガサイ湾近くに創建した町であった。[39]

BC1247年、メディアはイアソンと共に、コリントス人から招かれて、アイソニスの町からコリントスの町へ移住した。[40]

コリントス人がメディアを招いたのは、メディアがコリントスの町の創建者シシュッポスの後裔であったからであった。

コリントス人に招かれたのは、メディアであったが、コリントスの町を治めたのは、メディアの夫イアソンであった。[41]

 

4.7.2 リュキアへの移住

BC1241年、シシュッポスの子グラウコスの子ベレロポンテス (または、ヒッポノス, ベレロポン)は、コリントス地方のイストモスの町からリュキア地方のクサントスの町へ移住した。彼は、クサントスの町を治めるイオバテスの娘ピロノエと結婚した。[42]

これより前に、パンディオンの子リュコスがリュキア地方へ移住していた。[43]

イオバテスは、パンディオンの子リュコスの息子で、周辺の異民族(ソリュモイ)に対抗するためにベレロポンテスを呼び寄せた。[44]

ベレロポンテスの母エウリュノメの父ニソスは、イオバテスの父リュコスの兄弟であった。[45]

つまり、ピロノエは、ベレロポンテスの又従妹であった。

 

4.7.3 コルキュラへの移住

イアソンとメディアがコリントスの町に住んでから10年後、メディアは死んだ。[46]

BC1237年、イアソンはヘラクレスと共にギリシア北西部へ遠征して、スケリア (後のコルキュラ)島へ移住した。[47]

 

4.8 アイオロスの子シシュッポスの時代

イアソンの跡をアイオロスの子シシュッポスが継承した。[48]

シシュッポスの子オルニュティオンの妻の名前を伝えている史料はない。

しかし、コリントスの町の外港に名前を与えた、2人の息子たち、レケスとケンクリアスの母ペイレネがオルニュティオンの妻であったと推定される。[49]

パウサニアスは、ペイレネの父がオイバロスであり、ペイレネはアケロイオス河神の娘であったと伝えている。[50]

BC1237年、オルニュティオンはコリントス人を率いて、イアソンの遠征に参加した。オルニュティオンは遠征中、アカルナニア地方のアケロイオス川近くに住んでいたテロンの子オイバロスの娘ペイレネを妻にした。[51]

 

4.9 シシュッポスの子オルニュティオンの時代

4.9.1 レカイオンとケンクレアイの創建

オルニュティオンは、コリントス湾に面したレカイオンの町と、サロニコス湾に面したケンクレアイの町を創建した。それらの町の名前は、オルニュティオンの2人の息子たち、レケスとケンクリアスに因む名前であった。[52]

2つの町の建設は、BC1220年頃と推定される。

 

4.9.2 ポキスへの移住

BC1230年、オルニュティオンの子ポコスは、コリントスの町からポキス地方のティトレアの町へ移住した。[53]

 

4.10 オルニュティオンの子トアスの時代

コリントスの町は、ホメロスの『軍船目録』で、ミュケナイの指揮下にある町として登場する。[54]

しかし、コリントス人は、アカイア人のトロイ遠征に参加しなかったと思われる。

 

4.11 ヘラクレイダイの帰還

4.11.1 ドーリス人との戦い

BC1075年、コリントスの町は、ヘラクレイダイの一人、ヒッポタスの子アレテス率いるドーリス人に攻められた。そのとき、オルニュティオンの子トアスの子ダモポンの子プロポダスの2人の息子たち、ドリダスとヒュアンティダスがコリントス人の王であった。ドリダスとヒュアンティダスは、王位をアレテスに譲って、彼らは町に住み続けた。

しかし、コリントスの町の主な住人であったアイオリスは抵抗し、アレテスはソリュゲイオンの丘に陣を構えて戦い、抵抗した住人を町から追い出した。コリントスの町は、アイオリスの町からドーリス人の町になった。[55]

 

4.11.2 アンタソスの子メラス

アレテスは、アカイア地方のゴヌッサの町からコリントス攻略に協力したアンタソスの子メラスを共住者にした。BC657年にコリントスの町の僭主となったエイティオンの子キュプセロスは、メラスの後裔であった。[56]

また、メラスは、エポペウスの子マラトンの子シキュオンの娘ゴヌッサの後裔であった。[57]

 

4.11.3 メガラの創建

BC1074年、ペロポネソスへの帰還を完了したヘラクレイダイは、アテナイの町へ侵攻した。アテナイ王メラントスの子コドロスは戦死したが、アテナイの町は勝利した。[58]

ヘラクレイダイは、アテナイの町から帰る途中、メガラ地方に住んでいたイオニア人を追い出して、ドーリス人のメガラの町を建設した。[59]

このとき、コリントスの町のアレテスがドーリス人の遠征隊を率いたとも伝えられる。[60]

しかし、アレテスの父ヒッポタスの父ピュラスの父アンティオコスは、アテナイの10部族のひとつアンティオキスの名祖であった。ドーリス人の遠征隊を率いたのはアレテスではないと思われる。

 

4.12 ドーリス人の支配

アレテスの後、コリントス人を支配したのは、イクシオンから、アゲラス、プリュムニス、バッキスへと続くヘラクレイダイであった。[61]

バッキスは、足が不自由であったが、政治的才能があり、3人の娘たちと、7人の息子たちがいた。[62]

バッキスの後裔は、バッキアダイと呼ばれるようになった。[63]

バッキスの後、アゲラス、エウドモス、アリストメデス、アゲモン、アレクサンドロス、テレステス、アウトメネスがコリントス人を支配した。[64]

アウトメネスの後、90年間、毎年1人を選んで、町を委ねていたが、プリュタネスのときに、キュプセロスによって、バッキアダイは追放された。[65]

 

4.13 エイティオンの子キュプセロスの時代

BC657年、アイティオン (または、エイティオン)の子キュプセロスは、コリントスの町の僭主になった。[66]

キュプセロスの父方の先祖は、アレテス率いるドーリス人に協力して、コリントスの町に住んでいたアンタソスの子メラスであった。

メラスはシキュオンの娘ゴヌッサの後裔であった。[67]

つまり、キュプセロスは、コリントスの町の創建者シシュッポスの後裔であり、アイオリスであった。

 

4.14 脱落がない系譜

ヘラクレイダイの帰還後、アルゴスの町やスパルタの町などの支配者の系譜には、BC10世紀頃に約4世代の脱落がある。

しかし、コリントスの町の支配者の系譜は、アレテスの後も矛盾なく、BC7世紀のキュプセロスの時代まで続いている。

アテナイ王の系譜以外で、唯一、コリントスの町の支配者の系譜は、BC11世紀以降でも脱落がない。

これには、コリントスの町の創建者シシュッポスから続く支配層が、町に住み続けていたことが影響していると思われる。

また、叙事詩人アンピリュトスの子エウメロスの存在も大きかった。

エウメロスはバッキアダイに所属し、エウメロスの祖父の祖父は、プリュムニスの子バッキスであった。

「コリントス史」を書いたエウメロスは、アレテスからバッキスに至る系譜も調べることができたと推定される。

 

5 エピダウロスの歴史

5.1 エピダウロスの創建

BC1635年、ニオベの子アルゴスの子エピダウロスは、アルゴスの町から東側の海の近くへ移住して、エピダウロスの町を創建した。[68]

それ以前、エピダウロスの町は、エピカロスと呼ばれるカリア人の住む町であった。[69]

 

5.2 テュリンスによる支配

BC1368年、アバスの子プロイトスは、彼の兄弟アクリシオスとの戦いで、ヘライオン, ミデイア, テュリンスの町と共にアルゴス地方の沿海地方を領することになった。[70]

それまで、エピダウロスの町はアルゴスの町の支配下にあったが、テュリンスの町の支配下になった。

 

5.3 ミュケナイによる支配

BC1330年、ダナエの子ペルセウスは、ミュケナイの町を創建して堅固な城壁で囲んだ。[71]

ペルセウスは、テュリンスの町とミデイアの町も支配していたが、エピダウロスの町もミュケナイの町の支配下にあったと思われる。

 

5.4 アイギナからの移住

BC1287年、アクトールの子アイアコスは、テッサリア地方のディアの町からアイギナ島へ移住した。[72]

このとき、アイギナ島に住んでいたのは、アッティカ地方のオイノエの町から島に入植したイオニア人であった。彼らは、クストスの子イオンの後裔に率いられて、エピダウロスの町へ移住した。[73]

 

5.5 アスクレピオスの誕生

BC1260年、医神アスクレピオスが、イスキュスとプレギュアスの娘コロニスの息子として誕生した。

パウサニアスは、アスクレピオスがエピダウロスの町で生まれたと記している。[74]

エピダウロスの町は、プレギュアスの先祖の地であった。[75]

恐らく、プレギュアスの母がエピダウロスの町で生まれたと思われる。

後に、エピダウロスの町でアスクレピオス信仰が盛んになって、エピダウロスの町でアスクレピオスが誕生したという伝承が生まれた。

ストラボンによれば、アスクレピオスは、テッサリア地方のトリッカの町を流れるレタイウス川の畔で生まれた。[76]

 

5.6 ペリントスの創建

BC1170年、エピダウロスの町のペリントスは、オレステスの遠征に参加して、ペリントスの町を創建した。そのペリントスの町は、トラキア地方の町ではなかった。[77]

これより少し前、ヒュッロスの子クレオダイオス率いるドーリス人が、ドーリス地方からペロポネソスへ侵入して、ミュケナイの町を破壊した。ドーリス人は、エピダウロスの町へも侵入して、土地が荒廃した。[78]

 

5.7 アテナイへの移住

BC1102年、アンティマコスの子デイポンテスは、アルゴスの町からドーリス人を率いてエピダウロスの町を攻めた。クストスの子イオンの後裔ピテュレウスは、デイポンテスに町を譲り渡した。[79]

ピテュレウスは、エピダウロスの住人を率いてアテナイの町へ移住した。[80]

デイポンテスは、アッティカ地方のテトラポリスから同行したイオニア人をエピダウロスの町に定住させた。[81]

 

5.8 テュリンスからの移住

BC468年、テュリンスの町は、アルゴスの町に攻められて、住人の一部は、エピダウロスの町へ移住した。[82]

 

6 ヘライオンの歴史

6.1 ヘラ神殿の創建

ニオベの子アルゴスは、テュリンスの町に自生していた梨の樹でヘラ神像を作った。[83]

BC1620年、アルゴスの子ペイラス (または、ピラントス)は、ヘラ神殿を創建した。[84]

ペイラスは、彼の娘カリテュイア (または、カッリチアス)をヘラ神殿の最初の巫女にした。[85]

 

6.2 エレウシスへの移住

BC1580年、カリテュイアの子トロキロスが、アルゴスの町からエレウシスの町へ移住した。トロキロスは、エレウシスの町にヘラ神殿で行われていた祭儀を持ち込んだ。[86]

 

6.3 イアソスの時代

トリオパスの子イアソスの娘イオも、ヘラ神殿の巫女であった。[87]

BC1560年、イオは、彼女の父イアソスと共にエジプトへ移住した。[88]

イオは、エジプトでは、イシスと呼ばれた。[89]

 

6.4 ダナオスの時代

BC1430年、イオの後裔ダナオスは、エジプトからアルゴスの町へ移住して来た。[90]

ダナオスの娘ヒュペルメストラはヘラ神殿の巫女になった。[91]

 

6.5 ラメドンの時代

BC1408年、ダナオスによって、アルゴスの町から追放されたゲラノールの子ラメドンがシキュオンの町からアルゴスの町に攻め込んで、町を支配した。[92]

ラメドンの娘アルキダメアは、ヘラ神殿の巫女になった。[93]

アルキダメアの子ブノスは、コリントスの町にヘラ神殿を建立した。[94]

 

6.6 プロイトスの時代

BC1368年、アバスの子プロイトスは、彼の兄弟アクリシオスと和解して、テュリンス、ヘライオン、ミデイアの町、およびアルゴス地方の沿海地方を領することになった。[95]

プロイトスは、シキュオンの町の海岸の近くにヘラ神殿を創建した。[96]

 

6.7 ペルセウスの時代

BC1330年、ペルセウスはミュケナイの町を創建して、堅固な城壁で囲んだ。[97]

このときから、ヘライオンの町は、アルゴスの町のプロイトスの子メガペンテスではなく、ミュケナイの町のペルセウスの支配下に置かれたと推定される。

 

6.8 ステネロスの時代

ペルセウスの子ステネロスが父からミュケナイの町を継承した。[98]

ステネロスの娘アルキュオネは、ヘラ神殿の巫女になった。[99]

 

6.9 エウリュステウスの時代

ステネロスの子エウリュステウスは、父からミュケナイの町を継承した。[100]

エウリュステウスの娘アドメテは、ヘラ神殿の巫女になった。[101]

アルゴスの町とミュケナイの町は、ヘラ神殿をめぐって争っていたが、少なくともエウリュステウスの時代まではミュケナイの町の管轄にあった。[102]

 

7 ヘルミオネの歴史

7.1 ヘルミオネの創建

BC1700年、ポロネオスの子エウロプスの子ヘルミオンは、アルゴスの町から南東の海の近くへ移住して、ヘルミオネの町を創建した。[103]

ヘルミオネの町は、ペロポネソス内で、シキュオン、アルゴス、ミュケナイの町に次いで古い町であった。それ以前、そこには、カリア人が住んでいた。[104]

 

7.2 パルナッソス近くからの移住

BC1230年、パルナッソス山近くに住んでいたドリュオプス人の一部は、ヘラクレスに追われて、ヘルミオネの町へ移住して、新しいヘルミオネの町を創建した。[105]

 

8 ミデイアの歴史

8.1 ミデイアの創建

AD12世紀の修辞学者ツェツェスは、ダナエの子ペルセウスがミデイア (または、ミデイア)の町を創建したと伝えている。[106]

しかし、パウサニアスは、ペルセウスの祖父アクリシオスの時代に、既にミデイアの町があったように記している。[107]

恐らく、ペルセウスの子エレクトリュオンが住んだ頃は、ミデイアの町は、別な名前で呼ばれていたと思われる。

エレクトリュオンの妻ミデイアの名前に因んで、ミデイアの町と呼ばれるようになったと思われる。[108]

 

8.2 ヒッポダミアの亡命

BC1287年、ペロプスの妻ヒッポダミアが夫に追放されて、ピサの町からミデイアの町へ逃れて来た。[109]

エレクトリュオンの妻リュシディケ (または、エウリュディケ)は、ヒッポダミアの娘であった。[110]

ヒッポダミアはミデイアの町で死んだ。後に、ヒッポダミアの遺骨はオリュンピアに埋葬された。[111]

 

8.3 エレクトリュオンの死

BC1277年、エレクトリュオンは、彼の兄弟ヘリウスや彼の甥アンピュトリオンと共にギリシア北西部へ遠征した。[112]

この遠征で、エレクトリュオンと彼の息子たちが死に、息子リキュムニオスと娘アルクメナが残された。[113]

アンピュトリオンは、彼の従兄弟たち、リキュムニオスとアルクメナをテバイの町に呼び寄せて、アンピュトリオンは、アルクメナと結婚した。[114]

ミュケナイの町のステネロスは、ペロプスの2人の息子たち、アトレウスとテュエステスをミデイアの町に住まわせた。[115]

 

8.4 リキュムニオスの帰還

BC1251年、ヘラクレスは、テバイの町から彼の父の旧領テュリンスの町へ移住した。

リキュムニオスも彼の父の旧領ミデイアの町へ帰還した。[116]

ヘラクレスがテュリンスの町からペネウスの町へ移住したとき、ヘラクレスの同行者たちの中に、リキュムニオスの名前はなかった。[117]

それまでミデイアの町に住んでいたペロプスの子アトレウスは、北へ移住して、クレオナイの町を創建した。[118]

 

8.5 ヘラクレイダイの帰還

BC1215年、ヘラクレイダイは、エウリュステウスとの戦いの後、ヘラクレスの子ヒュッロスに率いられて、ペロポネソス半島へ侵入した。[119]

ヘラクレスの母アルクメナと彼女の弟リキュムニオスは、父の旧領ミデイアの町へ帰還した。[120]

リキュムニオスは、ミデイアの町で死んだ。[121]

 

8.6 トロイ戦争後のミデイア

ミデイアの町は、ホメロスの軍船目録に登場しない。[122]

また、ヘラクレイダイの帰還の伝承にも登場しない。

しかし、ストラボンは、テュリンスの町と共にミデイアの町もアルゴスの町によって滅ぼされたと記している。[123]

テュリンスの町がアルゴスの町によって破壊されたのは、BC468年のことである。[124]

BC1173年、ヒュッロスの子クレオダイオス率いるドーリス人は、ミュケナイの町を攻めて、町を破壊した。[125]

このとき、ミデイアの町もドーリス人によって破壊され、その後、再建されたと思われる。

 

9 ナウプリアの歴史

9.1 ナウプリアの創建

BC1405年、ダナオスの娘アミュモネの子ナウプリオスは、テュリンスの町の近くにナウプリアの町を創建した。[126]

ナウプリアの町の住人は、ダナオスと共にエジプトから移住して来た人々であった。[127]

 

9.2 町の名前の由来

ストラボンは、ナウプリアの名前は、町の位置に由来しており、ナウプリオスは町の名前を元に創作された人物だと記している。ストラボンは、ホメロスがナウプリアの町やパラメデスに言及していないことを、その証拠としている。また、ストラボンは、アミュモネの子ナウプリオスがトロイ戦争の時代に生きているはずがないと記している。[128]

しかし、ストラボンは、ナウプリオスが二人いることを知らなかった。

トロイ戦争の時代のナウプリオスは、アミュモネの子ナウプリオスの子プロイトスの子レルノスの子ナウボロスの子クリュトナイオスの息子であった。[129]

ナウプリアの名前は、町の創建者ナウプリオスの名前に因んで名づけられたと思われる。

 

9.3 クレタからの嫁入り

BC1234年、クリュトナイオスの子ナウプリオスは、クレタ島からカトレウスの娘クリュメネを妻に迎えた。[130]

これより前に、クリュメネの姉妹アエローペ (または、エリピュレ)がアトレウスの子プリステネスと結婚していた。[131]

ナウプリオスとクリュメネの遠距離婚は、プリステネスとアエローペとの結婚が縁と思われる。

 

9.4 エウボイアへの移住

BC1225年、クリュトナイオスの子ナウプリオスは、アカイア人に追われて、エウボイア島のカルキスの町へ移住した。[132]

この時、ナウプリオスの子パラメデスも父と一緒にカルキスの町へ移住したと推定される。

これより少し前、ペラスゴイ文字を発明した叙事詩人リノスがカルキスの町で死んだ。[133]

パラメデスは、カルキスの町でペラスゴイ文字を学んで、アルファベットに新たな文字を追加した。[134]

ナウプリオスがトロイから帰還途中のアカイア人を欺いて、エウボイア島近くで難破させたという逸話が作られたのは、ナウプリオスがエウボイア島に住んでいたからと思われる。

 

9.5 トロイ戦争の時代

ホメロスの軍船目録にナウプリアの町は登場しない。

トロイ遠征物語で、ナウプリオスの子パラメデスが出発したのは、ナウプリアの町ではなく、コルモスからであった。[135]

トロイ戦争の時代、ナウプリアの町は、町と呼ばれる規模ではなかったのかもしれない。

 

9.6 アルゴスによる占領

BC669年、ナウプリアの町はアルゴス人に攻められて、アルゴス領になった。ナウプリア人は、スパルタ人がメッセニア人に勝利した後で、メッセニア地方南西部のモトネの町を与えられた。[136]

 

10 ネメアの歴史

10.1 ネメアの創建

BC1247年、アルゴスの町に内紛が起こって、タラオスの子アドラストスは、シキュオンの町のポリュボスのもとへ亡命した。[137]

このとき、タラオスの子プロナクスは、アルゴスの町からシキュオンの町とコリントスの町の境を流れるネメア川の上流へ移住して、町を創建した。[138]

プロナクスは、コリントスの町のアイオロスの子シシュッポスの娘ネメアを妻に迎えて、町の名前をネメアにした。[139]

プロナクスの子リュクルゴスは、ネメアンゼウスの祭司であった。[140]

 

10.2 ヒュプシピュレの嫁入り

プロナクスは、トアスの娘ヒュプシピュレを2人目の妻として迎えた。

トアスは、クレタ島のミノスの娘アリアドネの息子であった。[141]

トアスは、ナクソス島からレムノス島へ移住して、娘ヒュプシピュレが生まれた。[142]

レムノス島で生まれたヒュプシピュレが、ネメアの町のプロナクスと結婚した経緯は、次のようであったと推定される。

レムノス島で疫病が蔓延して、幼いヒュプシピュレを残して、彼女の両親が死んだ。[143]

ヒュプシピュレは、彼女の父トアスと共にナクソス島からレムノス島へ移住した人々に連れられて、ナクソス島へ移住した。

BC1250年、ナクソス島のディオニュソスの神官オイナロスと彼の妻アリアドネは、ディオニュソスの儀式を広めるために、ペロポネソスへ遠征した。[144]

ヒュプシピュレは、オイナロスとアリアドネの孫娘であり、祖父母と共にペロポネソス内の各地を廻った。

この遠征には、アリアドネの子プリアソス (または、プリアス)も参加していた。プリアソスは、アルゴス地方のプリウスの町のクトノピュレと結婚して、プリウスの町に住んだ。[145]

ヒュプシピュレの祖母アリアドネは、旅の途中、アルゴスの町で死に、ヒュプシピュレは、叔父プリアソスの養女になって、プリウスの町に住んだ。[146]

BC1233年、ヒュプシピュレは、ネメアの町に住むタラオスの子プロナクスに嫁いだ。[147]

 

10.3 レムノスへの移住

BC1188年、ヒュプシピュレの子エウネオスは、ネメアの町からアカイア人のトロイ遠征に参加した。アカイア人がイリオンの町との戦いに敗れて、各地へ移住した後、エウネオスは、レムノス島に定住した。[148]

エウネオスの祖父トアスは、レムノス島の支配者であった。[149]

エウネオスは、当時、レムノス島に住んでいたミニュアス人を従わせるために、自分は、イアソンとヒュプシピュレの間の息子だという噂を広めた。[150]

 

11 オルネアイの歴史

11.1 オルネアイの創建

BC1277年、アイゲウスによってアテナイの町から追われたオルネウスは、アルゴス地方のプリウスの町の近くへ移住して、オルネアイの町を創建した。[151]

パウサニアスは、オルネウスの父をエレクテウスだと伝えている。[152]

オルネウスの父が第6代アテナイ王エレクテウスであるとすれば、オルネウスの子ペテウスの子メネステオスは、ケクロプスの子パンディオンの養子アイゲウスと同時代である。しかし、トロイ戦争時代のメネステオスの同時代人は、アイゲウスではなく、彼の孫であった。したがって、ここでのエレクテウスは、第8代アテナイ王パンディオンの別名と思われる。したがって、オルネウスはアイゲウスの義兄弟であった。

 

11.2 トロイ戦争時代

トロイ戦争時代、オルネアイの町はミュケナイの町の支配下であった。[153]

その後、オルネアイの町はアルゴスの町の支配下になった。[154]

 

11.3 オルネアイの滅亡

BC415年、ラケダイモン人は、オルネアイの町にアルゴスの町から亡命した貴族派を居住させた。[155]

その後、アルゴス人はオルネアイの町を攻め、町を完全に破壊した。[156]

ストラボンの時代、オルネアイの町に住む人はいなかった。[157]

 

12 プリウスの歴史

12.1 プリウスの創建

ホメロスは、プリウスの町をアライテュレアの町と呼んでいる。[158]

しかし、ストラボンは、アライテュレアの町から約6kmの所にプリウスの町が建設されたと記している。[159]

アライテュレアの町より前の時代の町もあり、最初の町の創建者は、アラスであった。[160]

アラスが創建した町は、プリウスの町から1km離れた、後にケレアイの町となる場所にあったと思われる。そこには、アラスの墓があった。[161]

アラスが町を建設したのは、BC1350年頃と推定される。

 

12.2 アラスの系譜

アラスの娘アライテュレアの子プリアスの妻は、エポペウスの子マラトンの子シキュオンの娘クトノピュレであった。[162]

つまり、アラスの父は、アロエウスの子エポペウスの同時代人であった。

恐らく、アラスの父は、エポペウスの兄弟、ホプレウス、または、ニレウスのいずれかと推定される。[163]

彼らの父アロエウスは、コリントスの町の創建者シシュッポスの息子であった。[164]

 

12.3 シキュオンからの嫁入り

BC1303年、アライテュレアの子プリアスは、シキュオンの町からシキュオンの娘クトノピュレを妻に迎えた。[165]

 

12.4 ナクソスからの婿入り

BC1250年、ディオニュソスの儀式を伝える集団がペロポネソスを訪問した。[166]

集団を率いたのは、ナクソス島のディオニュソスの神官オイナロスと彼の妻アリアドネであった。

彼らを招いたのは、アルゴスの町のアミュタオンの子メランプスであった。[167]

その頃、プリアスの子ポリュボスは、彼の母方の祖父シキュオンの跡を継いで、シキュオンの町に住んでいた。プリアスには、ポリュボスの他に、プリアスの跡を継いだ息子がいた。しかし、彼には娘クトノピュレしかいなかったため、プリウスの町を継ぐ者がいなかった。

オイナロスの子プリアソス (または、プリアス)は、クトノピュレと結婚して、プリウスの町を継承した。[168]

プリアソスとクトノピュレは、エピュラ (後のコリントス)の町の創建者シシュッポスを共通の先祖としていた。

両者を仲介したのは、メランプスであったと思われる。

メランプスは、クトノピュレの叔父ポリュボスの娘リュシアナッサの夫タラオスの伯父であった。

 

12.5 プリウスとナクソスの関係

プリアスの父オイナロスの父は、アロエウスの子オトス、あるいは、彼の兄弟エピアルテスであったと推定される。オトスとエピアルテスは、ボイオティア地方のアンテドンの町からナクソス島へ移住した。[169]

オトスとエピアルテスは、当時、ストロンギュレ (後のナクソス)と呼ばれていた島の名前をディアに改名した。[170]

ディアは、女神ヘラの娘ヘベの別名で、プリウスの町やシキュオンの町で信奉されていた。[171]

 

12.6 プリアスの息子たちの時代

BC1243年、プリアスの子ダメオンは、ヘラクレスのエリス攻めに参加して、アクトールの子クテアトスに討ち取られた。[172]

その後、ダメオンの兄弟アンドロダマスは、シキュオンの町へ移住した。[173]

プリウスの町には、アイオリスが住んでいたが、アルゴスの町の支配下になったと思われる。

パウサニアスは、ヘラクレイダイの帰還前のプリウスの町の住人は、アルゴス人であったと記している。[174]

 

12.7 ヘラクレイダイの帰還

BC1087年、テメノスの子パルケスの子レグニダスは、アルゴスの町とシキュオンの町のドーリス人を率いてプリウスの町へ遠征し、住民から受け入れられてプリウスの町の王となった。

ドーリス人との共住に反対したプリウスの町の指導者ヒッパソスは、サモス島へ移住した。[175]

また、プリウスの町の住人の一部は、クレオナイ人と共に、小アジアへ渡り、ミマス半島にクラゾメナイの町を創建した。[176]

 

13 テネアの歴史

13.1 テネアの創建

テネアの町の確認できる最初の住人は、プリアスの子ポリュボスであった。[177]

ポリュボスは、プリウスの町に住んでいたが、東南東へ移住して、テネアの町を創建したと推定される。[178]

ポリュボスが創建者であれば、テネアの町の創建は、BC1282年頃であった。

 

13.2 テバイからの嫁入り

BC1282年、ポリュボスは、テバイの町からライオスの娘ペリボイアを妻に迎えた。[179]

 

13.3 テバイからの移住

BC1279年、ライオスの子オイディプスが、ポリュボスの養子になって、テバイの町からテネアの町へ移住して来た。[180]

恐らく、跡継ぎがないポリュボスが妻の弟を養子に迎えたものと思われる。[181]

 

13.4 シキュオンへの移住

BC1276年、ポリュボスは祖父の跡を継いでシキュオン王になり、テネアの町からシキュオンの町へ移住した。[182]

オイディプスは、ポリュボスの跡を継いでテネアの町を治めた。

 

13.5 テバイへの移住

BC1238年、ボイオティア地方でスピンクスの反乱が起こり、オイディプスは、コリントス人を率いて反乱を鎮圧して、テバイの町へ移住した。[183]

 

13.6 テネドスからの移住

オイディプスのテバイへの移住には、テネアの町の住人の一部も同行したと思われる。

オイディプスが去った後、テネアの町は、西隣のクレオナイの町のアトレウスの支配下になった。

BC1186年、アトレウスの孫アガメムノンは、トロアス地方のテネドス島から逃れて来たトロイ人をテネアの町に住まわせた。[184]

このとき、町の名前が、テネドス島の支配者キュクノス (または、キュグノス)の子テネス (または、テネス)に因んで、テネアと名付けられた。[185]

 

13.7 テネドスへの移住

BC1170年、アガメムノンの子オレステスは、アミュクライの町のペイサンドロスと共にテネドス島へ遠征して、ペイサンドロスは島に入植した。[186]

このとき、テネアの町の住人の一部は、オレステスに同行して、テネドス島へ帰還したと思われる。

 

13.8 シシリーへの移住

BC733年、コリントスの町のヘラクレイダイの一人アルキアスは、シシリー島南東部へ移住してシケルを追い出してシュラクサの町を創建した。[187]

アルキアスが率いた移民のほとんどは、テネアの町の住人であった。[188]

つまり、シュラクサの町の初期の住人は、トロイ人であった。

 

14 テュリンスの歴史

14.1 テュリンスの創建

BC1645年、ニオベの子アルゴスの子テュリンスは、アルゴスの町から南東の海の近くへ移住して、テュリンスの町を創建した。[189]

BC1610年、テュリンスの兄弟ペイラスは、アルゴスの町のヘラ神殿を創建した。[190]

ヘラ神像は、ニオベの子アルゴスがテュリンスの町に自生していた梨の樹から作った。[191]

 

14.2 テュリンスの支配者の変遷

BC1387年、アバスの子プロイトスは、アルゴスの町からアクリシオスを追放して、テュリンスの町はプロイトスの支配下に入った。[192]

BC1370年、アバスの子アクリシオスは、アルゴスの町からプロイトスを追放して、テュリンスの町はアクリシオスの支配下に入った。[193]

BC1368年、プロイトスは、彼の妻ステネボイアの父アンピアナクスの援助を得て、テュリンスの町を占拠した。[194]

プロイトスとアクリシオスは和解して、テュリンスの町はプロイトスが領した。[195]

プロイトスはリュキア地方からキュクロペスを招いてテュリンスの町の城壁を強化した。[196]

BC1343年、アクリシオスの孫ペルセウスは、プロイトスを殺害して、セリポス島へ逃れた。[197]

BC1339年、アクリシオスが死に、プロイトスの子メガペンテスは、テュリンスの町からアルゴスの町へ移り住んだ。

BC1332年、ペルセウスは、セリポス島から帰還して、テュリンスの町を占拠した。[198]

BC1330年、ペルセウスは、ミュケナイの町を創建して、テュリンスの町を彼の息子アルカイオスに任せた。[199]

BC1287年、アンピュトリオンは、アルカディア地方のペネウスの町のグネウスの娘ラオノメを妻に迎えた。[200]

BC1280年、アルカイオスが死に、彼の息子アンピュトリオンがテュリンスの町を継承した。

BC1278年、アンピュトリオンは、テバイの町のスパルトイから招かれて、テュリンスの町からテバイの町へ移住した。[201]

BC1251年、アンピュトリオンの子ヘラクレスは、テバイの町からテュリンスの町へ移住した。 [202]

BC1243年、ヘラクレスはテュリンスの町からアルカディア地方のペネウスの町へ移住した。[203]

この後、ミュケナイの町のエウリュステウスの息子が、テュリンスの町を治めたと思われる。

 

14.3 ロドスへの移住

BC1215年、ヘラクレスの子ヒュッロス率いるヘラクレイダイがペロポネソスに帰還するが、翌年、彼らはアッティカ地方のトリコリュトスの町へ撤収した。[204]

ペロポネソスに残留したヘラクレスの母アルクメナの兄弟リキュムニオスは死に、ヘラクレスの子トレポレモスはテュリンス人を率いて、ロドス島へ移住した。[205]

ホメロスは、テュリンス人がミュケナイ人ではなく、アルゴス人の指揮下にトロイに遠征したと伝えている。[206]

 

14.4 テュリンスの滅亡

BC468年、テュリンスの町は、ミュケナイの町と共にアルゴスの町に滅ぼされた。[207]

テュリンス人は、エピダウロスの町や、アルゴス地方湾入り口東側のハリエイスの町へ移住した。[208]

 

15 トロイゼンの歴史

15.1 トロイゼンの創建

BC1430年、ダナオスと共に、エジプトからギリシアへ移住して来たオロスは、アルゴス地方の南東部に定住し、その地方はオライアと呼ばれるようになった。[209]

 

15.2 ピサからの移住

BC1287年、ペロプスの2人の息子たち、ピッテウスとトロイゼンは、ピサの町からアイティオスのもとへ移住して来て、アンタスの子アイティオスと共住した。[210]

ピッテウスは人々を集めて町を作り、彼の兄弟の名前に因んで、その町をトロイゼンと名付けた。[211]

 

15.3 アテナイからの亡命

BC1264年、パラスの息子たちによって、アテナイの町から追放されたパンディオンの養子アイゲウスは、トロイゼンの町のピッテウスのもとへ亡命した。[212]

ピッテウスは、アイゲウスの2人目の妻カルキオペの父カルコドンの兄弟カネトスの妻ヘニオケの父であった。つまり、アイゲウスは妻カルキオペを通して、義姉弟の父であるピッテウスを頼って亡命したと思われる。[213]

あるいは、メガラの町のペロプスの子アルカトオスが、自分の兄弟ピッテウスを紹介したのかもしれない。[214]

 

15.4 テセウスの誕生

BC1263年、アイゲウスとピッテウスの娘アイトラとの間に、息子テセウスが誕生した。[215]

アイゲウスは、当時55歳と推定され、アイゲウスとアイトラとは正式な結婚ではなかった。[216]

 

15.5 アッティカへの移住

BC1262年、アイゲウスは、トロイゼンの2人の息子たち、アナプリュストスとスペットスの協力を得てアテナイの町へ帰還した。[217]

トロイゼンの2人の息子たち、アナプリュストスとスペットスは、アッティカ地方にアナプリュストスの町とスペットスの町を創建した。[218]

 

15.6 ヘラクレスの訪問

BC1256年、トロイゼンの町で養育されていたアイゲウスの子テセウスは、ピッテウスの屋敷で、ピッテウスを訪問したヘラクレスを見た。[219]

ピッテウスは、ヘラクレスの母アルクメナの母ニキッペの兄弟であった。

 

15.7 アテナイへの移住

BC1247年、テセウスは、トロイゼンの町からアテナイの町へ移住した。[220]

テセウスは、ピッテウスの跡継ぎとして、トロイゼンの町に住んでいたが、アイゲウスに跡継ぎがいなくなり、アイゲウスはテセウスをアテナイの町へ呼び寄せた。

 

15.8 アテナイからの移住

BC1241年、テセウスは、アンティオペから生まれた息子ヒッポリュトスをピッテウスの跡継ぎにするためにトロイゼンの町へ移住させた。[221]

 

15.9 エピゴノイのテバイ攻め

伝承では、ヒッポリュトスは、戦車の手綱が野生オリーブ樹に引っ掛かって、戦車が転覆して死んだと伝えられている。[222]

しかし、次のことから、ヒッポリュトスは、ディオメデスと共に、BC1205年、エピゴノイのテバイ攻めに参加して戦死したものと推定される。[223]

1) トロイゼンの町にディオメデスが創建したヒッポリュトスの神苑があった。[224]

2) ヒッポリュトスは、ディオメデスと同世代であった。

3) トロイ戦争時代、トロイゼンの町は、ディオメデスの支配下にあった、

 

15.10 ヘラクレイダイの帰還

BC1107年、アリストマコスの子テメノス率いるドーリス人は、アルゴスの町を占領した。[225]

アルゴスの町の支配下にあったトロイゼンの町は、ドーリス人を共住者として受け入れた。[226]

 

15.11 小アジアへの植民

BC1070年、アルキュオネの子アンタスの子アイティオスの後裔アンテスは、トロイゼンの町からカリア地方へ移住して、ハリカルナッソスの町とミュンドスの町を創建した。[227]

彼らの移住の原因は、ペロポネソスに発生した飢饉であった。[228]

アンテスの移民団は、アルゴスの町のテメノスの子ケイソスの子アルタイメネスが率いた移民団に含まれていた。[229]

アルタイメネスの移民団は、ロドス島の3つの町、リンドス、イアリュソス、カメイロスや、クニドスの町、コス島にも入植した。[230]

これらの町と、ハリカルナッソスの町を含めた6つの町は、ドーリスの5市と呼ばれるようになった。[231]

 

おわり

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