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第27章 アイトリア地方の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2026.2.16

1 はじめに

アイトリア地方に最初に住んだギリシア人は、エンデュミオンの子アイトロスが率いて、エリスの町から、その地に移住した人々であった。彼らが移住したとき、アイトリア地方にはクレテスが住んでいた。[1]

ストラボンは、カドモスに追われたヒュアンテスの一部が、ボイオティア地方からアイトリア地方へ移住したと伝えている。[2]

クレテスは、名前を変えたヒュアンテスであったと推定される。

アイトロスの子プレウロンと、クレテスの女性との結婚は、アイトリア地方の長い抗争の原因になった。

 

2 エンデュミオンの子アイトロスの時代

2.1 エリスからの移住

BC1320年、エレイア地方のエリスの町のエンデュミオンの子アイトロスは、エペイオイ人を率いて、ペロポネソス半島から北へ海を渡った。[3]

アイトロスは、サルモネの町のサルモネオスによって、エリスの町を追われた。[4]

アイトロスはエリスの町の王であったが、彼の後に王となったのは、彼の姉妹エウリュキュダの息子エレイオスであった。[5]

エレイオスの父は、サルモネオスの子アレクトール (または、アレクシノス)であったと推定される。[6]

つまり、エリスの町の権力争いがあり、自分の孫を王位に就けようとしたサルモネオスがアイトロスや彼を支持する人々をエリスの町から追放したと思われる。

 

2.2 プレウロンの創建

アイトロスは、アケロイオス川とエウエノス川の間の、クリオン山麓に定住し、プレウロンの町を創建した。[7]

その地は、クレテス族の地と呼ばれ、先住民クレテスがいた。[8]

アイトロスは、クレテスと戦って勝利したが、クレテスを遠方に追い払うことはできなかった。[9]

アイトロスが入植した地方は、彼の名前に因んでアイトリア地方、その地方に住む人々は、アイトリア人と呼ばれるようになった。[10]

 

2.3 アイトロスの妻

アイトロスは移住前に、ポルバスの娘プロノエと結婚して、2人の息子たち、プレウロンとカリュドンが生まれていた。[11]

アイトロスの妻プロノエは、ラピトス (または、ラピテス)の子ポルバスの娘であった。[12]

ラピトスは、ラピタイの始祖であり、ミマスの子ヒッポテスの子アイオロスの息子であった。

アイトロスは、ミマスの子ヒッポテスの子アイオロスの子アイトリオスの子エンデュミオンの息子であった。

つまり、アイトロスとプロノエは、又従兄妹同士であった。

 

3 アイトロスの子プレウロンの時代

3.1 プレウロンの結婚

プレウロンは、クレテスのドロスの娘クサンティッペ (または、デモニケ)を娶り、父の跡を継いで、プレウロンの町に住んだ。[13]

クサンティッペは、この時代によく見られる戦争捕虜のようでもあるが、その後のアイトロスの後裔とクレテスの関係を見ると、両者の和睦のための結婚であったようだ。

 

3.2 カリュドンの創建

プレウロンの兄弟カリュドンは、プレウロンの町から東南東へ約12kmの所に移住して、カリュドンの町を創建した。

アイトロスと共にエリスの町から移住して来たエペイオイ人 (アイオリス)は、クレテスの居住地と隣接するプレウロンの町に住んでいた。しかし、彼らは次第にクレテスに圧迫され、カリュドンの町へ移り住むようになった。[14]

 

3.3 エレイアからの嫁入り

BC1301年、危機感を抱いたカリュドンは、父アイトロスをエリスの町から追い出したサルモネオスに代わってエレイア地方の覇者になったピュロスの町のアミュタオンの娘アイオリアを妻に迎えた。[15]

アイオリアに随行して、エリスの町から多くのアイオリスがカリュドンの町へ移住したと推定される。

アイオリアは、カリュドンの父アイトロスの父エンデュミオンの父アイトリオスの兄弟サルモネオスの娘テュロの子アミュタオンの娘であった。つまり、アイオリアは、カリュドンの3従兄妹であった。

 

4 プレウロンの子テスティオスの時代

4.1 ディオメデスの祖父オイネウスの父

4.1.1 伝承上のオイネウスの父

伝承では、オイネウスの父は、つぎのように伝えられている。

ホメロスは、アグリオスとメラスの父ポルテウス。 [16]

ヒュギーヌスは、パルタオン。 [17]

アポロドロスは、プレウロンの子アゲノールの子パルタオン。 [18]

アントニヌス・リベラリスは、ポルテウス。 [19]

パウサニアスは、ポルタオン。 [20]

 

4.1.2 もう一人のオイネウス

パウサニアスは、トロイ占領後に、オイネウスがディオメデスの許へ帰った際、庶出の娘モトネが生れたというメッセニア地方のモトネの伝承を記している。[21]

しかし、オイネウスの孫ディオメデスは、トロイに行く前に結婚しており、トロイ戦争の後のオイネウスは、曾孫がいても不思議ではない年齢である。高齢のオイネウスに娘が生まれたとは信じられない。[22]

また、ホメロスは「軍船目録」の中で、オイネウスは既に死んでいると記している。[23]

これらの伝承を総合すると、プレウロンの子アゲノールの子パルタオンにオイネウスという名前の息子がいたことは事実のようであるが、ディオメデスの祖父とは別人と思われる。

 

4.1.3 オイネウスの父の推定

モトネの伝承に従えば、パルタオンの子オイネウスは、ディオメデスと同世代であり、ディオメデスの祖父オイネウスは、パルタオンの子オイネウスの祖父アゲノールと同世代である。

従って、ディオメデスの祖父オイネウスは、プレウロンの息子、または、プレウロンの兄弟カリュドンの息子と推定される。

また、クレテスとカリュドン人との間に争いが起こり、オイネウスの子メレアグロスがプレウロンの子テスティオスの息子たちを殺したと伝えられている。[24]

つまり、カリュドンの支配者オイネウスは、クレテスの血を引いていないことになる。

したがって、ディオメデスの祖父オイネウスの父は、アイトロスの子プレウロンではなく、アイトロスの子カリュドンだということになる。

アイトロスの子プレウロンは、クレテスのドロスの娘クサンティッペを妻としており、その息子たち、アゲノールやテスティオスは、クレテスであった。[25]

 

4.1.4 オイネウスの結婚

BC1267年、オイネウスは、プレウロンの町のテスティオスの娘アルタイアを妻に迎えた。[26]

 

4.2 テスティオスの父

オイバロスの子テュンダレオスの妻レダの父テスティオスについては、パウサニアスのみが、プレウロンの子アゲノールであると伝えている。[27]

しかし、つぎの理由からテスティオスの父はアゲノールではないと思われる。

テスティオスの父がアゲノールであるとすれば、アゲノールの子ポルタオンは、テスティオスの兄弟になる。[28]

カリュドンの猪狩りの物語に、テスティオスの息子たち11人のうち9人の名前が登場するが、ポルタオンの5人の息子たちは登場しない。

その物語には、アイトロスの子カリュドンの子オイネウスの息子たちが登場するので、テスティオスは、オイネウスと同世代ということになる。

テスティオスは、カリュドンの町と戦っていたプレウロンの町の支配者であり、テスティオスの父は、カリュドンの兄弟プレウロンであったと推定される。[29]

 

4.3 ロクリス・オゾリスへの嫁入り

BC1266年、カリュドンの娘プロトゲニアは、アンピッサの町に住むアイトロスの子アンドライモンに嫁いだ。[30]

カリュドンは、プレウロンの町に対抗するために、東側に隣接するロクリス・オゾリス人の勢力を味方に付けようとしたものと推定される。

 

4.4 オレノスの創建

BC1265年、デクサメノスの子ヒッポノウスは、アカイア地方のオレノスの町からアイトリア地方へ移住して、オレノスの町を創建した。[31]

その町の近くにあるプレウロンの町は、ヒッポノウスの父デクサメノスの兄弟アクトールの妻モリオネの出身地であった。[32]

 

4.5 スパルタからの移住

BC1265年、オイバロスの子テュンダレオスは、スパルタの町からプレウロンの町へ移住した。[33]

プレウロンの町のテスティオスは、アパレウスの姉妹デイダミア (または、レウキッペ)の嫁ぎ先であった。[34]

デイダミアは、テュンダレオスの異父姉妹であった。[35]

 

4.6 メッセニアからの移住

テュンダレオスは、アイトリア地方へ行く前にメッセニア地方のアレネの町へ行った。アレネの町に住んでいたアパレウスの子イダスは、テュンダレオスと同世代であり、2人は一緒に移住した。[36]

イダスの母アレネはテュンダレオスの姉妹であり、イダスはテュンダレオスの甥であった。

イダスは、プレウロンの町のエウイノスの娘マルペッサと結婚した。[37]

伝承では、イダスがマルペッサを奪って、エウイノスに追いかけられたが、エウイノスはイダスを捕まえられず川に身を投げ、その川はエウイノスと呼ばれるようになった。[38]

エウイノス川は、プレウロンの町からカリュドンの町を越えた所を流れており、イダスは、プレウロンの町からカリュドンの町へ逃げ込んだと思われる。

後に、イダスの娘は、カリュドンの町のオイネウスの子メレアグロスと結婚した。[39]

 

4.7 アルゴスからの移住

アルゴスの町でヒュイットス事件が起きて、メランプスの2人の息子たち、アバスとマンティオスの対立が生じた。[40]

BC1264年、メランプスの子マンティオスは、アバスによって、アルゴスの町から追われて、叔母アイオリアの嫁ぎ先であるカリュドンの町へ逃れた。[41]

マンティオスの子オイクレウスは、プレウロンの町のテスティオスの娘ヒュペルメストラと結婚して、息子アンピアラオスが生まれた。[42]

 

5 カリュドンの子オイネウスの時代

5.1 イダスの娘の結婚

BC1247年、イダスの娘クレオパトラ (または、ハルキュオネ)は、カリュドンの町のオイネウスの子メレアグロスと結婚した。[43]

 

5.2 アルゴスへの移住

BC1247年、メランプスの子マンティオスは、息子オイクレスや孫アンピアラオスと共に、カリュドンの町からアルゴスの町へ帰還した。[44]

この後、アイトリア地方では、カリュドンの町とプレウロンの町との間で戦いが始まる。

2つの町に縁があるマンティオスの子オイクレスと彼の妻ヒュペルメストラがいなくなったことで、2つの町の争いが再燃したと思われる。

また、プレウロンの町出身のイダスの妻マルペッサは、自殺したとも伝えられており、このことが戦いの原因に関係しているのかもしれない。[45]

 

5.3 カリュドンとプレウロンの戦い

BC1246年、アイトロスの入植時代から続く、入植者と先住民の争いは、後世に語り継がれるほどの戦いになった。アイトリア人とクレテスとの間の激戦は、6日間続いた。[46]

 

5.3.1 カリュドンの猪狩りの物語

カリュドンの猪狩りの物語には、アルゴ船の遠征に参加した多くの英雄たちが登場する。[47]

古代ギリシアの9歌唱詩人の一人に数えられるバッキュリデスも、クレテスとアイトリア人との戦いを伝えている。しかし、彼の詩には、英雄たちは登場しない。BC5世紀には、多くの英雄たちが追加される前の物語が残存していたと思われる。[48]

 

5.3.2 戦いの参加者

オイバロスの子テュンダレオスとアパレウスの子イダスも、この戦いに参加した。

テュンダレオスはプレウロン側、イダスはカリュドン側であった。後に、テュンダレオスとイダスは、戦いの舞台をペロポネソスに移して、メッセニア地方とラコニア地方の戦いになった。[49]

 

5.3.3 オレノスの破壊

カリュドンの町のオイネウスは、アイトリア地方のオレノスの町を攻めて陥落させ、ヒッポノウスの娘ペリボイアを捕虜にした。[50]

ストラボンは、オレノスの町を破壊したのは、アイオリスだと記している。[51]

オイネウスは、アイオリスの支族エペイオイ人の支族アイトリア人に属しており、ストラボンが記すアイオリスは、オイネウスのようでもある。

しかし、アイトリア地方のオレノスの町の名前は、ホメロスの『軍船目録』に登場するので、オイネウスが破壊者ではない。[52]

オレノスの町の破壊者は、トゥキュディデスが記している、BC5世紀にカリュドンの町とプレウロンの町に住んでいたアイオリスと推定される。[53]

 

5.3.4 戦いの勝敗

カリュドンの町のオイネウスが勝利して、プレウロンの町やクレテスを支配下に置いた。

8年後、ヘラクレスは、アケロイオス川の河口近くのパラケロイティス地方の干拓をしてオイネウスを喜ばせた。[54]

当時のオイネウスの支配は、カリュドンの町から西へ、プレウロンの町やクレテスの居住地を遥かに越えて、アカルナニア地方との境になっているアケロイオス川まで及んでいた。[55]

アケロイオス川の名前は、アンピアラオスの子アルクマイオンの時代の後であり、ヘラクレスの時代には、テスティオス川と呼ばれていた。[56]

 

5.3.5 プレウロンの住人

戦いに敗れたテスティオスの後裔は、プレウロンの町から内陸部へ移住して、テスティアの町を創建した。[56-1]

プレウロンの町には、プレウロンの子アゲノールの子パルタオンが住み続けた。

 

5.4 メッセニアへの移住

BC1245年、アパレウスの子イダスは、カリュドンの町からメッセニア地方のアレネの町へ帰還して、父の跡を継いだ。[57]

 

5.5 アルカディアからの移住

BC1238年、アンピュトリオンの子ヘラクレスは、アルカディア地方のペネウスの町からカリュドンの町へ移住して来た。[58]

この少し前に、ヘラクレスはエリスの町と戦っていたが、アルゴス人を率いたマンティオスの子オイクレスも戦いに参加していた。[59]

ヘラクレスは、オイクレスからカリュドンの町のオイネウスを紹介されたと推定される。

オイクレスの妻ヒュペルメストラは、テスティオスの娘であり、オイネウスは、彼女の姉妹アルタイアの夫であった。[60]

つまり、オイネウスは、オイクレスの義兄弟であった。

また、オイクレスの父マンティオスの父メランプスは、オイネウスの父カリュドンの妻アイオリアの兄弟であった。[61]

つまり、オイネウスは、オイクレスの祖父の義兄弟の息子でもあった。

 

5.6 テスプロティアへの遠征

BC1237年、カリュドン人はヘラクレスに率いられてテスプロティアへ遠征して、エピュラの町を占領した。[62]

カリュドンの町と遠く離れたエピュラの町との間に利害関係はなく、ヘラクレスの遠征にカリュドン人も参加したというものであった。

 

5.7 スパルタへの移住

BC1237年、テュンダレオスは、アイトリア地方からスパルタの町へ移住した。伝承では、ヘラクレスがヒッポコーンとの戦いの後で、テュンダレオスをスパルタの町に呼び戻したことになっている。[63]

しかし、テュンダレオスのスパルタの町への帰還は、ヒッポコーンやイカリオスがいなくなり、オイバロスの跡を継ぐ者がいなくなったからであった。

アイトリア地方で生まれ育ったテュンダレオスの2人の息子たち、カストールとポリュデウケスもスパルタの町へ移住した。多くの伝承は、アルゴ船の遠征にディオスクロイがスパルタの町から参加したと伝えている。しかし、ディオスクロイが本当に遠征に参加したのであれば、スパルタの町からではなく、プレウロンの町からであった。

 

5.8 トラキスへの移住

BC1235年、ヘラクレスは、カリュドンの町からトラキスの町へ移住した。[64]

伝承では、ヘラクレスがオイネウスの親戚の子供を過失により殺害したことが原因でカリュドンの町を去ることにしたと伝えられている。 [65]

しかし、このヘラクレスの転居も、カリュドンの町でのヘラクレスの更なる勢力拡大を危惧したミュケナイの町のエウリュステウスの意志が働いたと思われる。このエウリュステウスの思惑をオイネウスに伝えたのは、カリュドンの町で生まれて、アルゴスの町に住んでいたオイクレスの子アンピアラオスであったと推定される。オイネウスとオイクレスは、お互いの妻を通して、義兄弟であった。[66]

 

5.9 アルゴスへの亡命

BC1226年、オイネウスの子テュデオスは、アルゴスの町のタラオスの子アドラストスのもとへ亡命した。[67]

オイネウスの母アイオリアは、アドラストスの父タラオスの父ビアスの姉であり、テュデオスはアドラストスの又従兄弟であった。

テュデオスは、アドラストスの娘デイピュラと結婚して、息子ディオメデスが生まれた。[68]

 

5.10 アンピッサへの嫁入り

BC1222年、カリュドンの町のオイネウスの娘ゴルゲス (または、ゴルゲ)は、ロクリス・オゾリス地方のアンピッサの町のアンドライモン (または、アンドラウモン)のもとへ嫁いだ。[69]

オイネウスの姉妹プロトゲニアの夫は、アンピッサの町に住むアイトロスの子アンドライモンであった。[70]

アンドライモンとゴルゲスには、息子トアスが生まれた。[71]

 

5.11 アルゴスへの亡命

BC1202年、オイネウスは、アグリオスの息子たちによって、カリュドンの町から追われて、アルゴスの町のディオメデスのもとへ亡命した。[72]

オイネウスの娘婿ヘラクレスは既に死亡していたが、アンピッサの町には、娘婿アンドライモンがいた。当時、アルゴス人はテバイの町を陥落させて、アルゴスの町の名声はオイネウスのもとへも届いていたと思われる。オイネウスは、息子テュデオスは既に死亡していて、孫ディオメデスを頼っての亡命であった。

 

5.12 ディオメデスの遠征

BC1202年、オイネウスの子テュデオスの子ディオメデスは、アイトリア地方へ遠征して、カリュドンの町を追われたオイネウスの仇を討った。[73]

 

5.12.1 遠征の参加者

ディオメデスの遠征の協力者は、アンピアラオスの子アルクマイオン、あるいは、カパネウスの子ステネロスであったという異なる伝承がある。[74]

アルクマイオンの母ヒュペルメストラは、プレウロンの町のテスティオスの娘であり、アルクマイオンが親族を相手の戦いに参加したとは思えない。[75]

ステネロスはディオメデスの親友であり、ステネロスがディオメデスの遠征に協力したと思われる。[76]

また、ロクリス・オゾリス地方のアンピッサの町のアンドライモンも遠征に参加した。

アンドライモンは、オイネウスの娘ゴルゲスの夫であり、ディオメデスの父テュデオスの義兄弟であった。[77]

戦いの後で、ディオメデスは、アンドライモンにアイトリア地方を任せた。[78]

この遠征には、オイネウスも同行して、再び、アルゴスの町へ帰ったという伝承もある。[79]

しかし、それでは、オイネウスを帰還させるために行った遠征の意味がなくなる。オイネウスは、これより前に死去していて、ディオメデスはオイネウスの復讐のために遠征したと推定される。

 

5.12.2 アグリオスの後裔

ディオメデスに敗れたアグリオスの後裔は、プレウロンの町から内陸部へ移住して、アグリニオンの町を創建した。[80]

アグリニオンの町は、アイトリア人の中で最大の人口を有するエウリュタニア人に属していた。[81]

トゥキュディデスは、エウリュタニア人のことを、アイトリア人の中でも、難解な言語を話し、生肉を食べる、最も未開な部族であったと記している。[82]

アグリニオンの町は、BC218年にマケドニア王ピリッポスがアイトリア人を攻めたときにも存在していた。[83]

 

5.13 アカルナニアへの嫁入り

BC1202年、アケロイオスとメルポメネ(または、ステロペ)との娘カリロエは、プレウロンの町からアカルナニア地方のアルゴス・アンピロキコンの町に住むアルクマイオンへ嫁いだ。[84]

アルクマイオンの父アンピアラオスの父オイクレスの妻ヒュペルメストラは、カリロエの母メルポメネの父パルタオンの従兄妹であった。

 

6 アンドライモンの子トアスの時代

6.1 トロイ戦争

アンドライモンとゴルゲとの息子トアスは、アイトリア人を率いてトロイ遠征に参加した。[85]

トアスの部隊には、アンピッサの町を含むロクリス・オゾリス地方の人々も含まれていたと思われるが、ホメロスはアンピッサの町に言及していない。

トアスは、アイトリア人を治めるために、アンピッサの町から多くのアイオリスを連れてカリュドンの町へ移住したと推定される。[86]

トロイ戦争時代のアンピッサの町は、人口が少なかったと思われ、イリアスの原作者は、当時の実態を知っていたと推定される。

 

6.2 イタリアへの移住

BC1184年、テュデオスの子ディオメデスは、アルゴスの町からアイトリア地方を経由して、イタリア半島東岸に移住して、アルギュリッペの町を創建した。[87]

ディオメデスは、ダウノス人の王ダウニオス(または、ダウノス)の娘エウイッペと結婚して、2人の息子たち、ディオメデスとアンピノモスが生まれた。[88]

ディオメデスは、さらに、アルピの町やベネベントンの町を創建した。[89]

ディオメデスと共に移住したアイトリア人は、イタリア半島南東部にブルンディシオンの町を創建した。[90]

 

7 トアスの子ハイモンの時代

7.1 イタリアからの移住

BC1150年、ディオメデスの死後、彼の息子アンピノモスは、イタリア半島からアイトリア地方へ移住して来た。[91]

トアスの子ハイモンは、アンピノモスを受け入れ、彼の息子とアンピノモスの娘テュリアを結婚させたと推定される。

テュリアの子キュクノスは、プレウロンの町の近くに住んでいた。[92]

 

7.2 アルゴスへの移住

BC1120年、アンピノモスの息子と思われるエルギヌスは、祖父ディオメデスの故郷アルゴスの町へ移住した。[93]

BC1110年、エルギヌスは、ヘラクレイダイがアルゴスの町を攻囲していたときに、アルゴスの町にあった都市の守護神パラディオン神像を盗み出して、テメノスに協力した。[94]

エルギヌスとテメノスには、カリュドンの町のオイネウスを共通の先祖とする血縁関係があった。

 

7.3 エリスへの移住

BC1105年、トアスの子ハイモンの子オクシュロスは、アイトリア人を率いて、アイトリア地方からエリスの町へ移住した。[95]

カリュドンの町やプレウロンの町に残ったのは、アンピッサの町から移住したアイオリスと、ディオメデスの死後、彼の息子アンピノモスと共にイタリア半島から移住してきたアイトリア人であった。

 

8 ヘラクレイダイ帰還後の時代

その後、アイオリスとアイトリア人の間で争いが生じて、ディオメデスの後裔は、アケロイオス川の西側、つまり、アカルナニア地方へ移住した。

アカルナニア地方には、エピゴノイに敗れてテバイの町から移住した人々がアスタコスの町を作って住んでいた。また、アルゴスの町から移住した人々は、アンブラキアn湾の近くにアルゴス-アンピロキコンの町を創建して住んでいた。[96]

ディオメデスの後裔は、自らをオイニアダイと呼び、アイトリア人ではなく、アカルナニア人の一員となった。[97]

カリュドンの町やプレウロンの町の住人は、他のアイトリア人と区別するために、自らをアイオリスと呼んでいた。[98]

 

9 ペロポネソス戦争時代

9.1 オイニアダイの攻防

BC459年、スパルタ人との戦いで、イトメ山に籠城していたメッセニア人は、ラケダイモン人に追われて、ロクリス・オゾリス地方のナウパクトスの町へ移住した。[99]

ナウパクトスの町は、アテナイ人がスパルタ人への憎悪のため、ロクリス・オゾリス人を追い出して手に入れ、メッセニア人に提供したものであった。[100]

ナウパクトスの町のメッセニア人は、アテナイ人の好意に報いろうとして、アテナイ人に敵対していたオイニアダイの町を包囲し、休戦の上、住人を退去させた。[101]

居住地を追われたオイニアダイは、他のアカルナニア人の協力を得て町を包囲し、8か月後に町を奪還した。

BC455年、アテナイの町のペリクレスは、オイニアダイを除くアカルナニア人を味方に引き入れ、翌年、アイトリア人を従えてオイニアダイの町を包囲するも攻略できなかった。[102]

BC424年、アテナイ人はオイニアダイを加えてアカルナニア人同盟を結成した。[103]

 

9.2 カリュドンの住人

BC405年、アイゴスポタミの海戦でアテナイ人に勝利したスパルタ人は、ナウパクトスの町からメッセニア人を追放した。[104]

BC389年、カリュドンの町に住むアカイア人が、アカルナニア人やボイオティア人と同盟しているアテナイ人に圧迫されて、スパルタ人の援助を要請したと伝えられている。[105]

恐らく、ナウパクトスの町からメッセニア人を追い出したスパルタ人が、カリュドンの町からも住人を追い出してアカイア人に与えたものと思われる。[106]

つまり、アンドライモン、あるいは、彼の息子トアスと共にアンピッサの町からアイトリア地方へ移住したアイオリスは、BC405年にスパルタ人によって追放されたと推定される。

しかし、彼らの多くの住人はそのまま住み続けていたようである。

BC29年、ニコポリスの町建設にあたって、ローマ皇帝アウグストスがアイトリア人を居住地から立ち退かせて新市へ移住させようとした時、住人の大半はアンピッサの町へ亡命した。[107]

 

10 オイニアダイのその後

BC331年、オイニアダイの町はアイトリア人に攻められ、町は破壊され、住人は追放された。[108]

このアイトリア人は、アケロイオス川を挟んで東側、つまり、アイトリア地方に住むクレテスと推定される。ストラボンが列挙するローマ時代のアイトリア人の種族の名前に、クレテスがある。[109]

このクレテスの攻撃は、スパルタのアギス3世が主導するマケドニアへの反乱に呼応した行動と思われる。[110]

BC324年、アレクサンドロス大王が発した「追放者復帰王令」は、オイニアダイを追放して自領としていたアイトリア人が強く反発した。彼らは、サモス島を市民に分け与えていたアテナイ人と共に、反マケドニアの急先鋒となった。[111]

ローマ時代にも、オイニアダイの町の名前は残っていたようであるが、その住人については、詳しくは不明である。[112]

BC1320年、エリスの町のアイトロスの入植に始まるクレテスの戦いは、1000年近く続いたことになる。結局、最後まで同じ土地に住み続けたクレテスの勝利であった。

 

おわり

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