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第52章 その他の種族の系譜

Create:2025.10.30, Update:2026.2.16

1 はじめに

ギリシアの伝承に登場する種族の大部分は、オギュゴスかイナコスの後裔であった。

テッサリア地方に住んでいたペッライボイ人やアイニアネス人 (マリア人, ケンタウロス)も、オギュゴスの後裔と推定される。

例外は、テルキネス族とデルポイ人であった。

レレゲス (または、レレゲス人)は、ギリシア世界の広い範囲で、伝承に登場するが、それらは、同じ種族ではなかった。

また、ギリシア人ではない、ゲピュライオイもギリシアの歴史に深く関与していた。

 

2 ペッライボイ人について

ペッライボイ人は、デウカリオーンの子アンピクテュオン が招集した隣保同盟の一員であった。[1]

隣保同盟の構成員は、デルポイ人を除いて、ヘレンの父デウカリオーンの後裔であった。

つまり、ペッライボイ人もデウカリオーンの後裔であり、ヘレネスの支族であったと思われる。

ペッライボイ人は、テッサリア地方のドティオンやオッサ山付近に住んでいた。[2]

BC1246年、ペッライボイ人の一部は、ラピタイに追われて、ペネイオス川の源流付近へ移住した。[3]

その後もペッライボイ人は、ラピタイと共住して、ドティオン周辺に住み続けた。[4]

BC1186年、ペッライボイ人は、テッサリア地方に攻め込んで来たテスプロティア人と戦ったが敗れた。[5]

ペッライボイ人は、ペネスタイ(農奴)としてテスプロティア人に従属して住み続けた。[6]

BC5世紀のペルシアのギリシア進攻に際して、ペッライボイ人は、ペルシア大王に土と水を献じた。[7]

 

3 アイニアネス人について

アイニアネス人 (または、エニエネス人)は、デウカリオーンの子アンピクテュオン が招集した隣保同盟の一員であった。[8]

隣保同盟の構成員は、デルポイ人を除いて、ヘレンの父デウカリオーンの後裔であった。

つまり、アイニアネス人もデウカリオーンの後裔であり、ヘレネスの支族であったと思われる。

アイニアネス人は、テッサリア地方のドティオンやオッサ山付近に住んでいた。[9]

BC1246年、アイニアネス人の一部は、ラピタイに追われて、オイタ山の近くへ移住した。[10]

アイニアネス人の一部は、モロッソス人の地のアウアス川付近へ移住して、パラウアイアに名前を変えた。[11]

アイニアネス人は、テッサリア地方に住み続け、BC5世紀のペルシアのギリシア進攻に際して、ペルシア大王に土と水を献じた。[12]

 

3.1 マリア人

次のことから、マリア人は、アイニアネス人の支族であったと推定される。

1) AD3世紀の著述家アントニヌス・リベラリスは、マリア湾北側のオトリュス山麓をマリア人が領していたと伝えている。[13]

2) ストラボンは、アイニアネス人がオイタ山付近からオトリュス山麓のエキノスの町まで居住範囲を広げたと伝えている。[14]

BC1246年、マリア人は、ドティオン平原からオイタ山近くのトラキスの町へ移住した。[15]

BC1230年、マリア人は、ドリュオプス人を追放して、ドリュオピア地方を獲得した。[16]

その後、マリア人は、トラキスの町から東側のマリア湾周辺へ居住地を広げた。

 

3.2 ケンタウロス

次のことから、ケンタウロスは、アイニアネス人の支族であったと推定される。

1) ケンタウロスは、イクシオンの子ペイリトウスに追われて、ピンドス山地に住むアイティケスの土地へ逃げ込んだ。[17]

2) ドティオンに住んでいたアイニアネス人は、ラピタイに追われて、アイティキアへ移住した。[18]

BC1390年、ペラスゴイ人がテッサリア地方を追われたとき、デウカリオーンの子アンピクテュオンが招集した部族名にアイニアネス人がある。[19]

アイニアネス人も古くからテッサリア地方に住むアイオリスの支族と考えられる。

ヘレンの子アイオロスの子ミマスの代と、彼の息子ヒッポテスの代の系譜は不明である。

ミマス、あるいはヒッポテスの息子にアイニアネス人の始祖がいて、ペラスゴイ人を追い出した後に、ドティオンに住み着いたと推定される。[20]

ラピタイに追われたケンタウロスの一部は、アイトリア地方へ逃れ、山賊行為を生業としていたため、ヘラクレスに滅ぼされた。[21]

ケンタウロスの一部は、ペネイオス川の源流近くのピンドス山地のアイティキアに住み着いた。その後、モロットイ地方のアウアス川付近へ移住し、パラウアイアと呼ばれるようになった。[22]

BC5世紀末、ペロポネソス戦争で、オロイドスに率いられたパラウアイアは、ペロポネソス側に味方した。[23]

BC3世紀には、パラウアイアは、マケドニア地方の辺境に住んでいた。[24]

 

4 デルポイ人について

4.1 リュコレイアの創建

BC1750年、パルナッソス山の北側のケピソス川で大洪水が発生した。[25]

オギュゴス率いるエクテネスは、ケピソス川の下流へ逃れ、イナコスの息子たちは、ペロポネソスへ逃れた。

パルナッソスの娘コリュキアの子リュコロス (または、リュコレウス)に率いられた人々は、パルナッソス山へ逃れて、リュコレイアの町を創建した。[26]

 

4.2 デルポイの創建

リュコロスの子ピュアモスの娘ケライノの子デルポスは、リュコレイアの町より少し低い所に町を創建した。その町は、デルポスの名前に因んで、デルポイと呼ばれるようになった。[27]

デルポイは、デルポスの子ピュテスの名前に因んで、ピュトとも呼ばれた。[28]

デルポイの創建は、BC1650年と推定される。

 

4.3 リュディアへの移住

BC1173年、デルポイ人は、マグネシア人と共にリュディア地方へ移住して、マグネシアの町を創建した。[29]

 

5 レレゲスについて

ストラボンは、レレゲスがカリア地方、アカルナニア地方、ロクリス地方に住んでいたため、レレゲスを放浪の民だと記している。[30]

しかし、それらのレレゲスは、一つの種族ではなかった。

また、ボイオティア地方やエウボイア島の最初の住人もレレゲスと呼ばれていた。[31]

 

5.1 ラケダイモン、メガラ、アカルナニアのレレゲス

BC1430年、リビュアの子レレクスは、エジプトから後にラケダイモンとなる地方へ移住した。

その地方はレレギア、その地方の住人は、レレクスの名前に因んでレレゲスと呼ばれるようになった。[32]

その後、レレクスは、メガラ地方へ移住した。[33]

メガラ地方の人々も、レレゲスと呼ばれるようになった。[34]

BC1390年、レレクスの娘テラプネの子テレボアスは、レレゲスを率いて、アカルナニア地方へ移住した。[35]

テレボアスの後裔は、テレボアイ人と呼ばれるようになり、アカルナニア地方西部には、テレボアイ人、とレレゲスが住んでいた。[36]

 

5.2 小アジアのレレゲス

BC1425年、アゲノールの子ポイニクスの娘アステュパライアは、クレタ島北西部のアプテラの町に住むイダ山のヘラクレスと結婚した。[37]

BC1416年、イダ山のヘラクレスは、移民団を率いて、クレタ島からカリア地方へ移住して、5つの町を創建した。[38]

イダ山のヘラクレスは、イダ山のダクテュロスの一人であり、テルキネス族であった。[39]

移民団の中には、テルキネス族の他に、アルカディア人も含まれていた。

彼らは、カリア地方に住んでいたカリア人と混血して、レレゲスに名前を変えた。

イダ山のヘラクレスとアステュパライアの息子アンカイオスは、レレゲスの王となった。[40]

レレゲスとは、混血して、特定の種族に属さない人々に与えられた名称であった。[41]

パウサニアスは、レレゲスをカリア人の支族だと記しているが、カリア人とギリシア人の混血によって誕生した種族であった。[42]

トロイ戦争時代、レレゲス王トランベロスは、ミレトスの町に住んでいた。[43]

 

5.3 ロクリスのレレゲス

BC1262年、ロクルスの子オプスは、ロクリス地方のピュスコスの町からテルモピュライとエウリポス海峡との間へ移住して、オプスの町を創建した。[44]

オプスの町の建設には、アルゴスの町、テバイの町、アルカディア地方の町、ピサの町から参加者があった。[45]

ロクリス地方に住む人々は、ドーリス人、アルゴス人、テバイ人、アルカディア人、ミュルミドン族が混血して、レレゲスと呼ばれるようになった。[46]

ロクリス地方に住んでいたレレゲスは、ボイオティア地方へも居住範囲を広げた。[47]

 

6 ゲピュライオイについて

6.1 フェニキアからボイオティアへの移住

BC1420年、フェニキア人の支族ゲピュライオイは、カドモスの移民団に参加して、フェニキア地方からボイオティア地方へ移住した。[48]

ゲピュライオイは、ボイオティア地方東部に定住して、その地方は、ゲピュラ (後のタナグラ)と呼ばれるようになった。[49]

 

6.2 ボイオティアからアテナイへの嫁入り

BC1415年、エウモルポスがアッティカ地方に侵入し、アテナイ人がタナグラの町周辺に居住していたゲピュライオイのもとへ避難し、ゲピュライオイはアテナイ人を受け入れた。[50]

BC1392年、第6代アテナイ王エレクテウスは、ゲピュライオイの指導者ケピソスの娘ディオゲニアの娘プラクシテアを妻に迎えた。[51]

このとき、プラクシテアと共に、アテナイの町へ移住したゲピュライオイは、アテナイの町にフェニキア文字をもたらした。

 

6.3 星座の知識の伝授

星座になったヒュリエウスの子オリオンの墓は、タナグラの町にあった。[52]

タナグラの町の周辺に居住していたゲピュライオイが、バビロン人から得た星座に関する知識をギリシア人に伝えたと推定される。[53]

 

6.4 ボイオティアからアカルナニアへの移住

6.4.1 アスタコスの創建

BC1204年、エピゴノイのテバイ攻めで捕虜になったゲピュライオイは、アンピアラオスの子アルクマイオンと共にアカルナニア地方へ遠征した。[54]

ゲピュライオイの一部は、アケロイオス川の河口近くにアスタコスの町を創建した。[55]

 

6.4.2 アスタコスとゲピュライオイの関係

アスタコスは、アドラストスのテバイ攻めのときに、テバイの町の守将メラニッポスの父の名前として登場する。[56]

BC712年にビテュニア地方に創建されたアスタコスの町は、スパルトイのアスタコスの名前に因んで名付けられたと伝えられている。メラニッポスの父アスタコスは、スパルトイであったと思われる。[57]

アスタコスの町には、メガラの町とアテナイの町からの移住した人々が住んでいた。[58]

スパルトイのアスタコスの後裔がメガラ人 (ドーリス人)の中にいたとは思えず、アテナイ人の中にいたと思われる。

アテナイの町へスパルトイが移住したのは、BC1205年のエピゴノイのテバイ攻めの後で、タナグラ周辺に住んでいたゲピュライオイが、ボイオティア人に追われたときと推定される。[59]

つまり、メラニッポスの父アスタコスは、ゲピュライオイであった。

 

6.4.3 アンピロキアのアルゴスへの定住

アルクマイオンと共に遠征したゲピュライオイの一部は、アルクマイオンがアンブラキア湾の近くに建設したアンピロキアのアルゴスの町にも定住した。[60]

BC430年、アンブラキア人と共住したアンピロキア人は、初めてギリシア語を用いるようになった。[61]

 

6.5 アテナイからエウボイアへの移住

BC1085年、アテナイの町に住んでいたゲピュライオイは、エウボイア島へ移住して、エレトリアの町を創建した。[62]

 

6.6 エウボイアからアテナイへの移住

BC514年、アテナイの町の僭主ヒッピアスの兄弟ヒッパルコスは、アリストギトンとハルモディウスに暗殺された。[63]

アリストギトンとハルモディウスは、アピドナの町出身のゲピュライオイであった。[64]

ゲピュライオイは、エウボイア島のエレトリアの町から移住して、アピドナの町に住んでいた。[65]

 

6.7 アテナイからビテュニアへの移住

BC434年、アテナイ人は、ビテュニア地方へ植民した。[66]

ビテュニア地方には、BC712年にジポイテス率いるメガラ人が建設した町があった。[67]

ジポイテスが創建した町の住人は周辺部族からの攻撃に苦しんで、アテナイ人に植民団の派遣を要請し、彼らはアテナイ人と共住した。[68]

その町は、テバイの町のスパルトイの名前に因んで、アスタコスと名付けられた。[69]

アスタコスの後裔は、アテナイ人の植民団の中にいたと推定される。

 

7 ヒュアンテスについて

7.1 カドモスとの戦い

ヒュアンテスは、カドモスが移住して来る前からボイオティア地方に住んでいた。

BC1420年、ヒュアンテスは、カドモスと戦ったが敗れて、西へ追いやられた。[70]

ヒュアンテスは、ボイオティア地方のコパイス湖の南側に定住した。[71]

ヒュアンテスの一部は、アイトリア地方へ移住した。[72]

BC1320年、エリスの町からエンデュミオンの子アイトロスが移住したとき、アイトリア地方に住んでいたクレテスは、名前を変えたヒュアンテスであったと思われる。

 

7.2 コパイス西側への移動

BC1370年、テルサンドロスの2人の息子たち、コロノスとハリアルトスがコパイス湖の南側に、コロネイアの町とハリアルトスの町を創建した。[73]

ヒュアンテスは、彼らに追われて、コパイス湖の西側へ移住した。

BC1350年、オルコメノスの子アスプレドンは、コパイス湖の北西部にアスプレドンの町を創建した。[74]

その後、アスプレドンは、南へ移住して、ミデイアの町を創建した。[75]

恐らく、コパイス湖の北西の土地は、ヒュアンテスの勢力が強かったと思われる。

 

7.3 ヒュアンポリスの創建

BC1310年、ヒュアンテスは、コパイス湖の北西部からポキス地方へ移住して、ヒュアンポリスの町を創建した。[76]

オルコメノスの町は、クリュセの子ミニュアスの治世で全盛期を迎えており、ヒュアンテスは、ミニュアス人によって、北へ追いやられたと思われる。

 

7.4 オルコメノスの占領

BC1188年、ボイオティア地方に、トラキア人やペラスゴイ人が侵入した。[77]

トラキア人はオルコメノスの町を、ペラスゴイ人はコロネイアの町を占領した。[78]

 

7.5 オルコメノスからの退去

BC1126年、ボイオティア人とオルコメノス人は、オルコメノスの町を占拠していたトラキア人を追い出した。[79]

オルコメノスの町を占拠していたトラキア人とは、ヒュアンテスであり、彼らは、ポキス地方のヒュアンポリスの町へ移住したと思われる。[80]

 

8 ギリシア暗黒時代

ペッライボイ人は、テッサリア地方やペネイオス川の源流付近に住んでいた。

アイニアネス人は、テッサリア地方に住んでいた。

アイニアネス人から名前を変えたマリア人は、マリア湾周辺に住んでいた。

アイニアネス人から名前を変えたパラウアイアは、モロッソス人の地に住んでいた。

デルポイ人は、ポキス地方のデルポイとリュディア地方のマグネシアの町に住んでいた。

レレゲスは、イオニア人やドーリス人に居住地を追われながらも、小アジアに住んでいた。

ゲピュライオイは、エウボイア島のエレトリアの町に住んでいた。

ゲピュライオイは、アカルナニア地方に住んでいた。

ヒュアンテスは、ポキス地方に住んでいた。

ヒュアンテスから名前を変えたクレテスは、アイトリア地方に住んでいた。

 

おわり

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