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第52章 その他の種族の系譜

Create:2025.10.30, Update:2025.10.30

1 はじめに

ギリシアの伝承に登場する種族の大部分は、OgygusかInachusの後裔であった。

Thessaly地方に住んでいたPerrhaebiansやAenianians (Malians, Centaurs)も、Ogygusの後裔と推定される。

例外は、TelchinesとDelphiansであった。

Leleges (or Lelegians)は、ギリシア世界の広い範囲で、伝承に登場するが、それらは、同じ種族ではなかった。

また、ギリシア人ではない、Gephyraeansもギリシアの歴史に深く関与していた。

 

2 Perrhaebiansについて

Perrhaebiansは、Deucalionの子Amphictyon が招集したAmphictyonsの一員であった。[1]

Amphictyonsの構成員は、Delphiansを除いて、Hellenの父Deucalionの後裔であった。

つまり、PerrhaebiansもDeucalionの後裔であり、Hellenesの支族であったと思われる。

Perrhaebiansは、Thessaly地方のDotiumやOssa山付近に住んでいた。[2]

BC1246年、Perrhaebiansの一部は、Lapithsに追われて、Peneius川の源流付近へ移住した。[3]

その後もPerrhaebiansは、Lapithsと共住して、Dotium周辺に住み続けた。[4]

BC1186年、Perrhaebiansは、Thessaly地方に攻め込んで来たThesprotiansと戦ったが敗れた。[5]

Perrhaebiansは、penestae(農奴)としてThesprotiansに従属して住み続けた。[6]

BC5世紀のPersiaのGreece進攻に際して、Perrhaebiansは、Persia大王に土と水を献じた。[7]

 

3 Aenianiansについて

Aenianians (or Enianians)は、Deucalionの子Amphictyon が招集したAmphictyonsの一員であった。[8]

Amphictyonsの構成員は、Delphiansを除いて、Hellenの父Deucalionの後裔であった。

つまり、AenianiansもDeucalionの後裔であり、Hellenesの支族であったと思われる。

Aenianiansは、Thessaly地方のDotiumやOssa山付近に住んでいた。[9]

BC1246年、Aenianiansの一部は、Lapithsに追われて、Oeta山の近くへ移住した。[10]

Aenianiansの一部は、Molossiansの地のAuas川付近へ移住して、Parauaeiに名前を変えた。[11]

Aenianiansは、Thessaly地方に住み続け、BC5世紀のPersiaのGreece進攻に際して、Persia大王に土と水を献じた。[12]

 

3.1 Malians

次のことから、Maliansは、Aenianiansの支族であったと推定される。

1) AD3世紀の著述家Antoninus Liberalisは、Malian Gulf北側のOthrys山麓をMaliansが領していたと伝えている。[13]

2) Straboは、AenianiansがOeta山付近からOthrys山麓のEchinusの町まで居住範囲を広げたと伝えている。[14]

BC1246年、Maliansは、Dotium平原からOeta山近くのTrachisの町へ移住した。[15]

BC1230年、Maliansは、Dryopiansを追放して、Dryopia地方を獲得した。[16]

その後、Maliansは、Trachisの町から東側のMalian Gulf周辺へ居住地を広げた。

 

3.2 Centaurs

次のことから、Centaursは、Aenianiansの支族であったと推定される。

1) Centaursは、Ixionの子Peirithousに追われて、Pindus山地に住むAethicesの土地へ逃げ込んだ。[17]

2) Dotiumに住んでいたAenianiansは、Lapithsに追われて、Aethiciaへ移住した。[18]

BC1390年、PelasgiansがThessaly地方を追われたとき、Deucalionの子Amphictyonが招集した部族名にAenianiansがある。[19]

Aenianiansも古くからThessaly地方に住むAeolisの支族と考えられる。

Hellenの子Aeolusの子Mimasの代と、彼の息子Hippotesの代の系譜は不明である。

Mimas、あるいはHippotesの息子にAenianiansの始祖がいて、Pelasgiansを追い出した後に、Dotiumに住み着いたと推定される。[20]

Lapithsに追われたCentaursの一部は、Aetolia地方へ逃れ、山賊行為を生業としていたため、Heraclesに滅ぼされた。[21]

Centaursの一部は、Peneius川の源流近くのPindus山地のAethiciaに住み着いた。その後、Molossia地方のAuas川付近へ移住し、Parauaeiと呼ばれるようになった。[22]

BC5世紀末、Peloponnesian Warで、Oroedusに率いられたParauaeiは、Peloponnesus側に味方した。[23]

BC3世紀には、Parauaeiは、Macedonia地方の辺境に住んでいた。[24]

 

4 Delphiansについて

4.1 Lycoreiaの創建

BC1750年、Parnassus山の北側のCephisus川で大洪水が発生した。[25]

Ogygus率いるEctenesは、Cephisus川の下流へ逃れ、Inachusの息子たちは、Peloponnesusへ逃れた。

Parnassusの娘Coryciaの子Lycorus (or Lycoreus)に率いられた人々は、Parnassus山へ逃れて、Lycoreiaの町を創建した。[26]

 

4.2 Delphiの創建

Lycorusの子Hyamusの娘Celaenoの子Delphusは、Lycoreiaの町より少し低い所に町を創建した。その町は、Delphusの名前に因んで、Delphiと呼ばれるようになった。[27]

Delphiは、Delphusの子Pythesの名前に因んで、Pythoとも呼ばれた。[28]

Delphiの創建は、BC1650年と推定される。

 

4.3 Lydiaへの移住

BC1173年、Delphiansは、Magnesiansと共にLydia地方へ移住して、Magnesiaの町を創建した。[29]

 

5 Lelegesについて

Straboは、LelegesがCaria地方、Acarnania地方、Locris地方に住んでいたため、Lelegesを放浪の民だと記している。[30]

しかし、それらのLelegesは、一つの種族ではなかった。

また、Boeotia地方やEuboea島の最初の住人もLelegesと呼ばれていた。[31]

 

5.1 Lacedaemon、Megara、AcarnaniaのLeleges

BC1430年、Libyaの子Lelexは、Egyptから後にLacedaemonとなる地方へ移住した。

その地方はLelegia、その地方の住人は、Lelexの名前に因んでLelegesと呼ばれるようになった。[32]

その後、Lelexは、Megara地方へ移住した。[33]

Megara地方の人々も、Lelegesと呼ばれるようになった。[34]

BC1390年、Lelexの娘Therapneの子Teleboasは、Lelegesを率いて、Acarnania地方へ移住した。[35]

Teleboasの後裔は、Teleboansと呼ばれるようになり、Acarnania地方西部には、Teleboans、とLelegesが住んでいた。[36]

 

5.2 Asia MinorのLeleges

BC1425年、Agenorの子Phoenixの娘Astypalaeaは、Crete島北西部のApteraの町に住むIdaean Heraclesと結婚した。[37]

BC1416年、Idaean Heraclesは、移民団を率いて、Crete島からCaria地方へ移住して、5つの町を創建した。[38]

Idaean Heraclesは、Idaean Dactylsの一人であり、Telchinesであった。[39]

移民団の中には、Telchinesの他に、Arcadiansも含まれていた。

彼らは、Caria地方に住んでいたCariansと混血して、Lelegesに名前を変えた。

Idaean HeraclesとAstypalaeaの息子Ancaeusは、Lelegesの王となった。[40]

Lelegesとは、混血して、特定の種族に属さない人々に与えられた名称であった。[41]

Pausaniasは、LelegesをCariansの支族だと記しているが、CariansとGreeksの混血によって誕生した種族であった。[42]

Trojan War時代、Leleges王Trambelusは、Miletusの町に住んでいた。[43]

 

5.3 LocrisのLeleges

BC1262年、Locrusの子Opusは、Locris地方のPhyscusの町からThermopylaeとEuripus海峡との間へ移住して、Opusの町を創建した。[44]

Opusの町の建設には、Argosの町、Thebesの町、Arcadia地方の町、Pisaの町から参加者があった。[45]

Locris地方に住む人々は、Dorians、Argives、Thebans、Arcadians、Myrmidonsが混血して、Lelegesと呼ばれるようになった。[46]

Locris地方に住んでいたLelegesは、Boeotia地方へも居住範囲を広げた。[47]

 

6 Gephyraeansについて

6.1 PhoeniciaからBoeotiaへの移住

BC1420年、Phoeniciansの支族Gephyraeansは、Cadmusの移民団に参加して、Phoenicia地方からBoeotia地方へ移住した。[48]

Gephyraeansは、Boeotia地方東部に定住して、その地方は、Gephyra (後のTanagra)と呼ばれるようになった。[49]

 

6.2 BoeotiaからAthensへの嫁入り

BC1415年、EumolpusがAttica地方に侵入し、AtheniansがTanagraの町周辺に居住していたGephyraeansのもとへ避難し、GephyraeansはAtheniansを受け入れた。[50]

BC1392年、第6代Athens王Erechtheusは、Gephyraeansの指導者Cephisusの娘Diogeniaの娘Praxitheaを妻に迎えた。[51]

このとき、Praxitheaと共に、Athensの町へ移住したGephyraeansは、Athensの町にPhoenician lettersをもたらした。

 

6.3 星座の知識の伝授

星座になったHyrieusの子Orionの墓は、Tanagraの町にあった。[52]

Tanagraの町の周辺に居住していたGephyraeansが、Babiloniansから得た星座に関する知識をギリシア人に伝えたと推定される。[53]

 

6.4 BoeotiaからAcarnaniaへの移住

6.4.1 Astacusの創建

BC1204年、EpigoniのThebes攻めで捕虜になったGephyraeansは、Amphiarausの子Alcmaeonと共にAcarnania地方へ遠征した。[54]

Gephyraeansの一部は、Achelous川の河口近くにAstacusの町を創建した。[55]

 

6.4.2 AstacusとGephyraeansの関係

Astacusは、AdrastusのThebes攻めのときに、Thebesの町の守将Melanippusの父の名前として登場する。[56]

BC712年にBithynia地方に創建されたAstacusの町は、SpartiのAstacusの名前に因んで名付けられたと伝えられている。Melanippusの父Astacusは、Spartiであったと思われる。[57]

Astacusの町には、Megaraの町とAthensの町からの移住した人々が住んでいた。[58]

SpartiのAstacusの後裔がMegarians (Dorians)の中にいたとは思えず、Atheniansの中にいたと思われる。

Athensの町へSpartiが移住したのは、BC1205年のEpigoniのThebes攻めの後で、Tanagra周辺に住んでいたGephyraeansが、Boeotiansに追われたときと推定される。[59]

つまり、Melanippusの父Astacusは、Gephyraeanであった。

 

6.4.3 Amphilochian Argosへの定住

Alcmaeonと共に遠征したGephyraeansの一部は、AlcmaeonがAmbracian Gulfの近くに建設したAmphilochian Argosの町にも定住した。[60]

BC430年、Ambraciansと共住したAmphilochiansは、初めてギリシア語を用いるようになった。[61]

 

6.5 AthensからEuboeaへの移住

BC1085年、Athensの町に住んでいたGephyraeansは、Euboea島へ移住して、Eretriaの町を創建した。[62]

 

6.6 EuboeaからAthensへの移住

BC514年、Athensの町の僭主Hippiasの兄弟Hipparchusは、AristogitonとHarmodiusに暗殺された。[63]

AristogitonとHarmodiusは、Aphidnaの町出身のGephyraeansであった。[64]

Gephyraeansは、Euboea島のEretriaの町から移住して、Aphidnaの町に住んでいた。[65]

 

6.7 AthensからBithyniaへの移住

BC434年、Atheniansは、Bithynia地方へ植民した。[66]

Bithynia地方には、BC712年にZypoetes率いるMegariansが建設した町があった。[67]

Zypoetesが創建した町の住人は周辺部族からの攻撃に苦しんで、Atheniansに植民団の派遣を要請し、彼らはAtheniansと共住した。[68]

その町は、Thebesの町のSpartiの名前に因んで、Astacusと名付けられた。[69]

Astacusの後裔は、Atheniansの植民団の中にいたと推定される。

 

7 Hyantesについて

7.1 Cadmusとの戦い

Hyantesは、Cadmusが移住して来る前からBoeotia地方に住んでいた。

BC1420年、Hyantesは、Cadmusと戦ったが敗れて、西へ追いやられた。[70]

Hyantesは、Boeotia地方のCopais湖の南側に定住した。[71]

Hyantesの一部は、Aetolia地方へ移住した。[72]

BC1320年、Elisの町からEndymionの子Aetolusが移住したとき、Aetolia地方に住んでいたCuretesは、名前を変えたHyantesであったと思われる。

 

7.2 Copais西側への移動

BC1370年、Thersanderの2人の息子たち、CoronusとHaliartusがCopais湖の南側に、Coroneiaの町とHaliartusの町を創建した。[73]

Hyantesは、彼らに追われて、Copais湖の西側へ移住した。

BC1350年、Orchomenusの子Aspledonは、Copais湖の北西部にAspledonの町を創建した。[74]

その後、Aspledonは、南へ移住して、Mideiaの町を創建した。[75]

恐らく、Copais湖の北西の土地は、Hyantesの勢力が強かったと思われる。

 

7.3 Hyampolisの創建

BC1310年、Hyantesは、Copais湖の北西部からPhocis地方へ移住して、Hyampolisの町を創建した。[76]

Orchomenusの町は、Chrysesの子Minyasの治世で全盛期を迎えており、Hyantesは、Minyansによって、北へ追いやられたと思われる。

 

7.4 Orchomenusの占領

BC1188年、Boeotia地方に、ThraciansやPelasgiansが侵入した。[77]

ThraciansはOrchomenusの町を、PelasgiansはCoroneiaの町を占領した。[78]

 

7.5 Orchomenusからの退去

BC1126年、BoeotiansとOrchomeniansは、Orchomenusの町を占拠していたThraciansを追い出した。[79]

Orchomenusの町を占拠していたThraciansとは、Hyantesであり、彼らは、Phocis地方のHyampolisの町へ移住したと思われる。[80]

 

8 ギリシア暗黒時代

Perrhaebiansは、Thessaly地方やPeneius川の源流付近に住んでいた。

Aenianiansは、Thessaly地方に住んでいた。

Aenianiansから名前を変えたMaliansは、Malian Gulf周辺に住んでいた。

Aenianiansから名前を変えたParauaeiは、Molossiansの地に住んでいた。

Delphiansは、Phocis地方のDelphiとLydia地方のMagnesiaの町に住んでいた。

Lelegesは、IoniansやDoriansに居住地を追われながらも、Asia Minorに住んでいた。

Gephyraeansは、Euboea島のEretriaの町に住んでいた。

Gephyraeansは、Acarnania地方に住んでいた。

Hyantesは、Phocis地方に住んでいた。

Hyantesから名前を変えたCuretesは、Aetolia地方に住んでいた。

 

おわり

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