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第11章 アッティカ地方の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2026.2.16

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1 はじめに

BC1750年、大洪水によって居住地を追われた人々は、パルナッソス山北麓のケピソス川の上流から下流に逃れ、ボイオティア地方に定住した。[1]

このときボイオティア地方を越えてアッティカ地方に定住した人々もいた。

初代アテナイ王ケクロプスが現れる前、アッティカ地方南東のミュリヌスの町には、コライノスが住み、アテナイの町の北東のアトモネイスの町には、アクタイオスが住んでいた。[2]

しかし、それより遥かに昔からアッティカ地方の南東端スニオン岬近くのラウリオンには、銅を採掘する人々が定住していた。[3]

ストラボンは、アッティカ地方の南東端スニオン岬からテンミケスがボイオティア地方へ移動して来たと伝えている。[4]

テンミケスは、ボイオティア地方に最初に定住した部族であった。[5]

この章では、アナプリュストス、アピドナ、ブラウロン、エレウシス、エレウテライ、マラトン、メガラ、メリテ、オイノエ、スペットス、トリコリュトス、トリコスについて記述している。

 

2 アナプリュストスの歴史

BC1262年、トロイゼンの子アナプリュストスは、トロイゼンの町からアッティカ地方へ移住して、アナプリュストスの町を創建した。[6]

ミノスとの戦いの後で、アイゲウスがトロイゼンの町に亡命した。アイゲウスは、トロイゼンの2人の息子たち、アナプリュストスとスペットスの協力を得て、アテナイの町への帰還に成功した。[7]

アナプリュストスは、テセウスが1つにまとめた12の町の名前にない。[8]

ストラボンは、11の町の名前しか記していないが、もう1つは、アナプリュストスの町と思われる。

 

3 アピドナの歴史

アピドナの町は、テセウスが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[9]

BC1210年、テセウスは、アパレウスの子イダスからテュンダレオスの娘ヘレネを預かって、アピドナの町に匿った。[10]

その後、ディオスクロイがアピドナの町へ来て、彼らの妹ヘレネをラケダイモンへ連れ戻した。[11]

BC11世紀からBC6世紀までの間に、エウボイア島のエレトリアの町からゲピュライオイがアピドナの町へ移住して来た。[12]

BC514年、アテナイの町の僭主ヒッピアスの兄弟ヒッパルコスを暗殺したハルモディウスとアリストゲイトンは、アピドナの町出身のゲピュライオイであった。[13]

 

4 ブラウロンの歴史

ブラウロンの町は、テセウスが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[14]

 

4.1 メガラからの移住

BC1173年、アイアスの子ピライオスは、メガラの町からブラウロンの町へ移住した。[15]

ピライオスの妻、アガメムノンの娘イピゲニアは、ブラウロンの町のアルテミスに仕える巫女であった。[16]

ピライオスは、アガメムノンの子ヒュペリオンによって、メガラの町から追放されたと推定される。[17]

 

4.2 イピゲニアとオレステスの伝承

ブラウロンの町には、パウサニアスも実際に見たアルテミス神像があった。その神像は、イピゲニアがタウリケの地から持ち帰ったものだと伝えられていた。[18]

その伝承を作ったのは、BC7世紀以降、黒海地方へ進出したメガラ人であったと思われる。また、その伝承の舞台は、タウリケ・ケルソネセ (現在のクリミア)ではなく、本土であるタウリケ・スキタイと思われる。[19]

タウリケの地の支配者トアスの父は、ボリュステネス(現在のドニエプル)川だと伝えられているからである。[20]

 

4.3 ペラスゴイ人による略奪

BC1115年、レムノス島に住むペラスゴイ人が、ブラウロンの町の乙女たちを略奪した。[21]

それ以前に、ペラスゴイ人は、アテナイの町の城壁を築き、土地の開墾に尽力したが、アテナイ人に嫉妬されて追放されていた。略奪は、自分たちに対するアテナイ人の行為を恨んでの犯行であった。[22]

この事件の後、アテナイ人は、レムノス島のペラスゴイ人をシンティエス (または、シンティ)と呼んだ。[23]

BC3世紀のアテナイの歴史家ピロコロスによれば、シンティエスとは「害を与える人々」の意味だという。[24]

 

5 エレウシスの歴史

5.1 初期の居住者

サロニコス湾に注ぐケピソス川の河口付近に初めて住んだギリシア人はオギュゴス、あるいは、彼の息子エレウシスであった。BC1750年のオギュゴス時代の大洪水で、パルナッソス山の北を流れるケピソス川流域に住んでいた人々が居住地を追われて南へ移動した。彼らは、エレウシスの町やアテナイの町を流れて海へ注ぐ川の近くに住み着き、その川を故郷のケピソス川と同じ呼び名で呼んだ。[25]

 

5.2 アルゴスからの移住

BC1720年、ポロネオスの子カアがアルゴスの町からエレウシスの西側のメガラ地方へ移住した。[26]

BC1580年、アルゴスの町のヘラ神殿の巫女カリテュイアの息子で、密儀祭司のトロキロスが、アルゴスの町からエレウシスの町へ移住した。彼は、エレウシスにヘラ神殿で行われていた祭儀を持ち込んだ。[27]

BC1492年、クラナオスの娘アッティスの子エレクテウス (または、エリクトニオス)がエジプトからアテナイの町へ移住して来た。[28]

エレクテウスは、エジプトから大麦(barley)の種子をもたらし、エレウシスのラリオン平原にその種子が播かれた。[29]

エジプトでは女神イシスが、人々に穀物栽培をもたらしたと伝えられ、ギリシアでは、女神デメテルがそれをもたらしたという伝承が生まれた。[30]

パウサニアスは、ポロネオスの子カアがメガラ地方に初めてデメテルの神域を造営したと伝えており、デメテルは、古くから信奉されていた。[31]

エレウシスの町で祭儀を執り行ったのは、クラナオスの子ラロスの子ケレウスであった。

ラロスはエレクテウスと共にエジプトから移住して来た。ケレウスとエレクテウスは、クラナオスの孫であり、従兄弟同士であった。[32]

クラナオスの息子について記している古代の史料は残っていなかった。

18世紀の英国の大科学者アイザック・ニュートンのみが、クラナオスの子ラロスの系譜を伝えている。[33]

ラロスは、エレウシスのラリオン平原に名前を与えた。[34]

 

5.3 エウモルポスの侵入

BC1415年、エウモルポスがアッティカ地方に攻め込み、アテナイ人はボイオティア地方のタナグラの町近くへ避難した。[35]

クストスの子イオンがアテナイ人の推挙を受けてポレマルコスになり、エウモルポスと戦って休戦に持ち込んだ。その後、エウモルポスはエレウシスに定住しているので、エウモルポスが優勢であったと推定される。[36]

 

5.4 エウモルポスの素性

エウモルポスは、つぎの2つの理由により、BC1560年にアルゴスの町からテッサリア地方へ移住したペラスゴスの娘ラリッサの後裔であったと推定される。[37]

1) BC1352年、エウモルポスの子インマラドスがエレクテウスと戦ったときに、スキロスは、ドドナからインマラドスの応援に駆け付けた。

当時、ドドナには、アルゴスの町からテッサリア地方へ移住したペラスゴスの娘ラリッサの後裔が住んでいた。スキロスもその一人であったと推定される。[38]

2) 当時、エレウシスの町には、アルゴスの町から移住したトロキロスの後裔が住んでいて、祭儀を執り行っていた。[39]

ラリッサ、スキロス、トロキロスは、アルゴスの町から移住したペラスゴイ人であった。

エウモルポスがエレウシスの町に来る前の居住地は、ドドナ、あるいは、テッサリア地方のスコトッサの町であったと推定される。[40]

ペラスゴイ人とドドナには、つぎのような関係があった。

1) BC1480年、ラリッサの子ペラスゴスの子ハイモンの子テッサロスは、スコトッサの町からドドナに神託所を移し、神殿を建立した。[41]

2) BC1390年、テッサリア地方を追われたペラスゴイ人の大部分は、ドドナ周辺へ移住した。[42]

 

5.5 エウモルポスの侵入の動機

エレウシスの町では、アルゴスの町から移住したペラスゴイ人が、ヘラの祭儀を執り行っていた。エレクテウスと共にエジプトから移住して来たラロスが新たな祭儀を持ち込み、ラロスの子ケレウスがエレウス人を支配した。

祭儀の執行をめぐって、ペラスゴイ人とケレウスを支持するアテナイ人との間に争いが生じて、エレウス人がテッサリア地方に住むペラスゴイ人に加勢を依頼したものと推定される。

トロキロスは、トリオパスの子アゲノールとの争いが原因で、アルゴスの町を去っているため、エレウス人は、アルゴスの町に助けを求めることができなかった。エレウシスの町のペラスゴイ人は、アゲノールの兄弟ペラスゴスの娘ラリッサの後裔に応援を要請したのだと思われる。[43]

 

5.6 アルゴス地方への移住

パウサニアスは、クストスの子イオンがケレウスの兄弟デュサウレスを追放したと伝えている。[44]

しかし、ケレウスやデュサウレスは、エウモルポスが現れる以前からエレウシスの町で祭儀を執り行っていた。恐らく、デュサウレスは、自発的に町を去ったものと推定される。

BC1415年、ケレウスの弟デュサウレスは、アルゴス地方へ移住して、プリウスの町の近くに住み着いて密儀を定め、町の名前をケレアイにした。ケレウスは、デュサウレスの死んだ兄の名前であった。[45]

 

5.7 トリプトレモスの旅

5.7.1 アカイアへの旅

ケレウスの子トリプトレモスは、デュサウレスが住み着いたケレアイの町より遠方へ旅をした。

トリプトレモスは、アカイア地方のリオン岬の南西の地に住んでいたエウメロスに穀物の栽培方法や町を作る方法を教えた。エウメロスはアロエ (後のパトライ)の町を創建した。[46]

さらに、トリプトレモスとエウメロスは共同でアンテイアの町を創建した。[47]

アロエの町には、ベロスの子アイギュプトスの墓があった。また、アロエの町の南のペイロス川中流域にあるパライの町の創建者は、アイギュプトスの兄弟ダナオスの娘ピュロダメイアの子パレスであった。エウメロスとトリプトレモスとは、年代的に矛盾がないことから、エウメロスは、アイギュプトスの息子であり、ピュロダメイアの夫であったと推定される。[48]

エウメロスは、クラナオスの娘の子ティトノスの娘イオダマの娘テーベの息子であった。[49]

トリプトレモスは、クラナオスの子ラロスの子ケレウスの息子であった。[50]

つまり、エウメロスとトリプトレモスとは、第2代アテナイ王クラナオスを共通の先祖とする同族であった。

 

5.7.2 アルカディアへの旅

トリプトレモスは、アルカディア地方のカリストの子アルカスにも穀物の栽培方法を教えた。[51]

後に、アルカスは、トリプトレモスの子クロコンの娘メガニラを妻に迎えた。[52]

クロコンは、エレウス人として、初めてアテナイの町との境であるレイティ川を東に越えて居住した。[53]

 

5.8 トラキアへの移住

BC1390年、クレタ島の北方約110kmにあるテラ島 (現在のサントリニ島)の火山活動で発生したエーゲ海の大津波は、エレウシスの町にも被害を与えた。

メガラ地方の人々が、ゲラニア山へ避難したときであった。[54]

エウモルポスの子ケリュクスは、アテナイの町から新天地を求める旅に出ようとしていたブテスの子ボレアスの移民団に参加して、トラキア地方に入植した。[55]

ケリュクスはボレアスの娘キオネと結婚して、息子エウモルポスが生まれた。[56]

 

5.9 インマラドスの戦い

BC1352年、エレウシスの町のエウモルポスの子インマラドスは、アテナイの町のパンディオンの子エレクテウスと戦って、戦死した。[57]

この戦いは、エレウシスの祭儀をめぐる、エレウス人とアテナイ人との間の争いが原因であった。戦いは、エレウシスの町が優勢のうちに終わり、密儀の執行はエレウシスが独自に行うことで決着した。[58]

この戦いには、エレウシスの町に2つの方面から援軍が駆け付けた。

1つは、ドドナのスキロス率いるペラスゴイ人であった。[59]

BC1390年に、テッサリア地方に住んでいたペラスゴイ人は、デウカリオーンの息子たちに追われて、大部分がドドナ周辺に移住していた。[60]

スキロスは、アテナイの町の外港パレロンにアテナ・スキラスの神域を造営した。その付近で、彼が戦死すると、川のほとりに葬られた。川は、彼の名に因んでスキロス川と呼ばれるようになった。[61]

もう1つの援軍は、キオネの子エウモルポス率いるトラキア人であった。[62]

エウモルポスの子インマラドスの死後、エレウシスの祭儀は、エウモルポスとケレウスの娘たちが継承したが、いずれも高齢であった。彼らの跡を、インマラドスの弟ケリュクスがトラキア地方から呼び戻されて継承し、ケリュクスの跡を息子エウモルポスが継承した。[63]

 

5.10 トラキアからの移住

BC1350年、インマラドスの父エウモルポスが死に、インマラドスの兄弟ケリュクスがトラキア地方からエレウシスの町へ移住して祭儀を継承した。[64]

 

5.11 トラキアからの移住

BC1315年、キオネの子エウモルポスは、祭儀を継承するため、トラキア地方からエレウシスの町へ移住した。[65]

エレウシスの町にキオネの子エウモルポスの墓があった。[66]

 

6 エレウテライの歴史

6.1 エレウテライの創建

BC1370年、メガッサレスの娘アイトーサの子エレウテルは、ヒュシアイの町からキタイロン山を南に越えて、南南東へ約6kmの所にエレウテライの町を創建した。[67]

 

6.2 ヒュリアからの嫁入り

BC1366年、ニュクテウスの娘アンティオペは、ヒュリアの町からキタイロン山を越えたエレウテライの町のエレウテルのもとへ嫁ぎ、2人の息子たち、アンピオンとゼトスが生まれた。

伝承では、アンティオペが、シキュオンの町のエポペウスのもとからテバイの町へ連れ戻される途中で、息子たちをエレウテライの町で出産したことになっている。

この伝承で、唯一真実と思われるのは、アンピオンとゼトスがエレウテライの町で生まれたということである。当時、エレウテライの町は建設されたばかりで、その町の創建者エレウテルが住んでいた。アンティオペとエレウテライの町の創建者エレウテルは、年代的に夫婦として妥当であり、エレウテルが双子の父親と推定される。[68]

アンティオペは、彼女の父ニュクテウスの従兄弟と結婚したことになる。[69]

 

6.3 エウトレシスの建設

BC1345年、アンピオンとゼトスは、エレウテライの町からキタイロン山を北へ越えて、テバイの町から西南西約14kmの所に移住して、エウトレシスの町を創建した。[70]

 

6.4 プラタイアの建設

BC1295年、ダマシストラトスは、エレウテライの町からキタイロン山を北へ越えて、テバイの町から南南西約13kmの所に移住して、プラタイアの町を創建した。[71]

ダマシストラトスは、タナグラの町の創建者ポイマンドロスの父カイレシラオスの弟と推定される。

 

6.5 タナグラの創建

BC1270年、アイトーサの子エレウテルの子イアシオスの子カイレシラオスの子ポイマンドロスは、エレウテライの町からボイオティア地方東部へ移住してタナグラの町を創建した。[72]

 

6.6 アドラストスのテバイ攻め

BC1215年、アドラストス率いるアルゴス人のテバイ攻めがあった。戦死したアルゴス人の遺体は、テバイの町からエレウテライの町へ運ばれて、埋葬された。[73]

既にこの頃からエレウテライの町は、テバイの町よりもアテナイの町に好意を寄せていた。[74]

 

6.7 アッティカへの加入

エレウテライの町は、創建時からボイオティア地方に関係が深かったが、テバイの町との関係が悪化して、アッティカ地方に加入した。[75]

これにより、アッティカ地方とボイオティア地方の境は、エレウテライの町とオイノエの町との間ではなく、キタイロン山になった。

 

7 マラトンの歴史

7.1 マラトンの創建

BC1465年、ヘレンの子クストスは、アッティカ地方北東部にテトラポリスの一つとして、マラトンの町を建設した。[76]

テトラポリスは、テセウスが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[77]

 

7.2 シキュオンからの移住

BC1352年、エポペウスの子マラトンは、シキュオンの町からマラトンの町へ移住して来た。[78]

マラトンは、第6代アテナイ王エレクテウスの娘と結婚した。[79]

マラトンは、デウカリオーンの子ヘレンの子アイオロスの子シシュッポスの子アロエウスの子エポペウスの息子であった。[80]

マラトンより前に、アテナイ王家とデウカリオーンの後裔には、つぎのような結婚があった。

1) 第2代アテナイ王クラナオスの娘は、デウカリオーンの子アンピクテュオンと結婚した。

2) 第4代アテナイ王エリクトニオスの娘は、デウカリオーンの子ヘレンの子クストスと結婚した。[81]

マラトンとエレクテウスの娘との結婚は、アテナイの町とエレウシスの町との戦いにマラトンが加勢したことが縁であったと推定される。

 

7.3 シキュオンやコリントスへの移住

BC1321年、アロエウスの子エポペウスが死に、エポペウスの子マラトンが跡を継いだ。マラトンは2人の息子たち、シキュオンとコリントスにそれぞれ、アソピアとエピュライアを与えた。アソピアとエピュライアはそれぞれ、シキュオンの町とコリントスの町と呼ばれるようになった。[82]

 

8 メガラの歴史

8.1 アルゴスからの移住

BC1725年、ポロネオスの子カアは、アルゴスの町からメガラ地方へ移住した。[83]

パウサニアスの時代、カアの墓は、メガラの町からコリントスの町へ向かう街道沿いにあった。[84]

 

8.2 アルゴスからの移住

BC1560年、トリオパスの子アゲノールの子クロトポスは、メガラ地方のゲラネイア山麓へ移住して、トリポディスキオンの町を創建した。[85]

 

8.3 エジプトからの移住

BC1430年、リビュアの子レレクスは、ラコニア地方に息子たちを入植させた後で、メガラ地方に定住した。[86]

レレクスは、クロトポスのいとこイオの子エパポスの娘リビュアの息子であった。

つまり、レレクスがメガラ地方へ移住したのは、偶然ではなかった。

 

8.3.1 メガラの伝承

パウサニアスは、レレクスがポロネオスの子カアの12世代後だというメガラの伝承を記している。[87]

しかし、レレクスは、カアの姉妹ニオベの子アルゴスの子クリアソスの子ポルバスの子トリオパスの子イアソスの娘イオの子エパポスの娘リビュアの息子であった。つまり、レレクスは、カアの9世代後の人物であった。

 

8.3.2 レレゲス

レレクスが入植した後で、メガラ地方の人々は、レレゲスと呼ばれた。[88]

レレゲスは、ラコニア地方の最初の住人の呼び名と同じであった。[89]

また、アカルナニア地方西部にテレボアイ人と共に住んでいたレレゲスもラコニア地方から移住した人々であった。[90]

 

8.3.3 レレクスの後裔

パウサニアスは、レレクスの息子をクレソン、クレソンの息子をピュラス、ピュラスの息子をスキロン、スキロンは第8代アテナイ王パンディオンの娘と結婚したと伝えている。[91]

系図を作成すると、レレクスとピュラスの生年差は、125年であり、1世代の間が、62年になり、妥当ではない。恐らく、クレソンの父は、レレクスではなく、レレクスとクレソンの間には、3世代の欠落があったと推定される。

つまり、メガラの伝承は正しかったが、パウサニアスがクレソンをレレクスの息子だと間違って認識していた。

 

8.4 トラキアからの移住

BC1420年、テレウスは、トラキア地方からポキス地方のダウリス付近へ移住した。[92]

BC1418年、テレウスは、メガラ地方のパガイへ移住した。[93]

テレウスは、アテナイ王パンディオンの娘プロクネを妻に迎えた。[94]

テレウスの墓は、メガラの町にあった。[95]

 

8.5 アテナイからの移住

8.5.1 パンディオンの移住

BC1318年、ケクロプスの子パンディオンは、メガラの町のクレソンの子ピュラスのもとへ移住して、彼の娘ピュリアと結婚した。[96]

これより前に、パンディオンは、父や兄弟たちと共に、アテナイの町から追放されていた。[97]

 

8.5.2 ピュラスの移住

パウサニアスは、クレソンの子ピュラスがレレゲスを率いて、メガラの町からメッセニア地方へ移住して、ピュロスの町を創建したと伝えている。[98]

また、アポロドロスも、ピュラスが娘婿パンディオンに王国を与えて、移住したと伝えている。[99]

しかし、ピュラスにはスキロンという息子がいた。[100]

この伝承は、ピュラスの名前がエレイア地方やメッセニア地方にあるピュロスの町の名前に似ていることから生まれた作り話と思われる。[101]

 

8.6 アテナイへの移住

BC1312年、ケクロプスの子パンディオンは、メガラの町からアテナイの町へ帰還した。[102]

 

8.7 アテナイからの移住

BC1295年、ケクロプスの子パンディオンは、メティオンの息子たちに追われて、アテナイの町からメガラの町へ移住した。[103]

 

8.8 メガラの継承権争い

BC1287年、ケクロプスの子パンディオンが死去した。パンディオンの子ニソスとピュラスの子スキロンの間にメガラの町の継承をめぐる争いが起き、アイギナ島のアイアコスが仲裁した。[104]

アイアコスの妻の父スキュリオスは、アテナイ王アイゲウスの実父であった。[105]

つまり、アイアコスとアイゲウスは義兄弟であり、ニソスやスキロンもアイゲウスを通して義兄弟であった。アイゲウスは、義兄弟同士の争いをアイアコスに仲裁させた。アイアコスは、アイゲウスの義兄弟の中でも敬虔な人物として有名であった。[106]

アイアコスの仲裁により、パンディオンの子ニソスが、メガラの町を継承した。[107]

 

8.9 アテナイへの移住

BC1285年、アイゲウスは、メガラの町からアテナイの町へ帰還して、メティオンの息子たちを追放した。[108]

 

8.10 ピサからの移住

BC1287年、ペロプスの子アルカトオスは、内紛が発生したピサの町を逃れて、メガラの町へ移住した。[109]

アルカトオスは、ピュラスの子スキロンの娘ピュルゴと結婚した。[110]

 

8.11 ミノスとの戦い

BC1264年、アイゲウスは、パラスの息子たちによって、アテナイの町から追放されて、メガラの町のニソスのもとへ逃れた。[111]

パラスの息子たちと友好関係にあったクレタ島のミノスは、メガラの町を攻撃した。[112]

メガラ王ニソスは戦死して、ミノスが勝利した。アイゲウスは、トロイゼンの町のペロプスの子ピッテウスのもとへ亡命した。[113]

 

8.12 アルゴスからの移住

BC1247年、アルゴスの町で内紛が発生して、アミュタオンの子メランプスは、彼の孫コイラノスと共に、メガラ地方へ移住した。[114]

このとき、イドモンの子テストールも、彼らに連れられてメガラの町へ移住した。[115]

メランプスは、テストールの曽祖父であり、コイラノスは、父方の伯父であった。

 

8.13 サラミスへの嫁入り

BC1240年、アルカトオスの娘ペリボイア (または、エリボイア)は、サラミス島のアイアコスの子テラモンのもとへ嫁入りした。[116]

この結婚は、ペリボイアの母方とテラモンの母方が共にアテナイ王家に繋がっていたために可能になったと思われる。

 

8.14 サラミスからの移住

BC1215年、テラモンの子アイアスは、サラミス島からメガラの町へ移住し、アルカトオスの跡を継いだ。[117]

アイアスは、アルカトオスの娘ペリボイア (または、エリボイア)の息子であり、アルカトオスの孫であった。[118]

アイアスは、エラトスの子カイネウスの後裔リュシディケと結婚し、息子ピライオスが生まれた。[119]

カイネウスは、テッサリア地方のラピタイであったが、アイアスの祖父アイアコスもテッサリア地方のプティアの町の出身であった。[120]

 

8.15 アルクメナの死

BC1214年、エレクトリュオンの娘アルクメナは、ヘラクレイダイと共にペロポネソスからトリコリュトスへ行く途中、メガラで死んだ。[121]

 

8.16 ヒュッロスの死

BC1211年、ヘラクレスの子ヒュッロスは、イストモスで、ペロポネソス軍と戦って、戦死した。[122]

ヒュッロスの墓は、メガラにあった。[123]

 

8.17 アドラストスの死

BC1205年、タラオスの子アドラストスは、エピゴノイのテバイ攻めに同行し、帰る途中、メガラで死んだ。[124]

 

8.18 ミュケナイからの嫁入り

BC1190年、アイアスの子ピライオスは、ミュケナイの町からアガメムノンの娘イピゲニアを妻に迎えた。

次のことから、ピライオスの妻は、イピゲニアであったと思われる。

1) パウサニアスは、メガラの町にイピゲニアの英雄廟があり、イピゲニアはメガラの町で死んだと伝えている。[125]

2) ピライオスはブラウロンの町に住み、イピゲニアはブラウロンの町のアルテミスに仕える巫女であった。[126]

3) イピゲニアの兄弟ヒュペリオンがメガラ王になった。[127]

 

8.19 トロイ戦争

BC1188年、アンテノールの息子たちが、プリアモスの息子たちを追放して、イリオンの町を占領した。プリアモスの息子たちは、ヘレスポントの利用を通して友好関係にあったアカイア人に援軍を要請した。

アカイア人は、ペレウスの子アキレスを総大将にしてトロイ遠征軍を編成した。

メガラの町から次の参加者たちがいた。

 

8.19.1 テラモンの子アイアス

テラモンの子アイアスは、アキレスの従兄弟であり、アキレスの遠征に参加したと思われる。

BC1186年、イリオン攻めの総大将であるプリアモスの子ヘクトールや、アキレス、アイアスが戦死して、アカイア人は、イリオン奪還を断念した。

アイアスは、イリオンの町の近くのロイテイオンに葬られた。[128]

 

8.19.2 テストールの子カルカス

テストールの子カルカスは、テラモンの子アイアスと共にトロイ遠征に参加した。[129]

カルカスは、イリオンの町からパンピュリア地方へ逃れて、セルゲの町を創建した。[130]

 

8.20 ミュケナイからの移住

BC1173年、ヒュッロスの子クレオダイオス率いるドーリス人がペロポネソスへ侵入して、ミュケナイの町を破壊した。アガメムノンの子ヒュペリオンは、ミュケナイの町からメガラの町へ移住した。[131]

 

8.21 アッティカへの移住

BC1173年、アイアスの息子たち、ピライオスとエウリュサケスは、メガラの町からアッティカ地方のブラウロンの町とメリテの町へ移住した。[132]

エウリュサケスの聖域がメリテの町にあったことから、エウリュサケスはメリテの町へ、ピライオスはブラウロンの町に定住したと思われる。[133]

ピライオスとエウリュサケスは、アガメムノンの子ヒュペリオンによって、メガラの町から追放されたと推定される。[134]

 

8.22 王制の廃止

BC1160年、ヒュペリオンは、横暴に振舞ったため、サンディオンに殺されて、メガラの町の王制は廃止された。[135]

 

8.23 ドーリス人のメガラ創建

BC1074年、コリントスの町のドーリス人は、アテナイの町の一部であったメガラの町からイオニア人を追い出して、ドーリス人の町メガラを創建した。[135-1]

 

8.24 クレタへの移住

BC1070年、メガラの町のドーリス人の一部は、アルゴスの町のテメノスの子ケイソスの子アルタイメネスの移民団に参加して、クレタ島へ移住した。[135-2]

アルタイメネスの移住の原因は、飢饉であった。[135-3]

 

9 メリテの歴史

BC1173年、アイアスの子エウリュサケスは、メガラの町からメリテの町へ移住した。[136]

エウリュサケスの聖域がメリテの町にあった。[137]

エウリュサケスは、アガメムノンの子ヒュペリオンによって、メガラの町から追放されたと推定される。[138]

 

10 オイノエの歴史

BC1465年、ヘレンの子クストスは、アッティカ地方北東部にテトラポリスの一つとして、オイノエの町を建設した。[139]

テトラポリスは、テセウスが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[140]

BC1415年、エウモルポスがアッティカ地方に侵入したとき、オイノエの町の住人は、サロニコス湾の島 (後のアイギナ)へ移住した。[141]

彼らの入植の後で、島の名前は、オイノエになった。[142]

 

11 スペットスの歴史

BC1262年、トロイゼンの子スペットスは、トロイゼンの町からアッティカ地方に移住して、スペットスの町を創建した。[143]

ミノスとの戦いの後で、アイゲウスは、トロイゼンの町へ亡命した。その後、アイゲウスは、トロイゼンの2人の息子たち、アナプリュストスとスペットスの協力を得て、アテナイの町へ帰還した。[144]

スペットスの町は、テセウスが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[145]

 

12 トリコリュトスの歴史

12.1 トリコリュトス (または、トリコリュントス)の創建

BC1465年、ヘレンの子クストスは、アッティカ地方北東部にテトラポリスの一つとして、トリコリュトスの町を建設した。[146]

テトラポリスは、テセウスが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[147]

 

12.2 トラキスからの移住

BC1218年、ヘラクレイダイは、トラキスの町からトリコリュトスの町へ移住した。[148]

ヘラクレイダイの保護者イオラオスの妹イオペは、アテナイ王テセウスの妻であり、イオラオスの義兄弟テセウスがヘラクレイダイを受け入れた。[149]

 

12.3 エウリュステウスとの戦い

BC1217年、ミュケナイ王エウリュステウスは、トリコリュトスの町に住んでいたヘラクレイダイを攻めたが、イオラオスに討ち取られた。エウリュステウスの遺体はガルゲットスの町に、彼の首はトリコリュトスの町のマカリアの泉の近くに埋葬された。[150]

つまり、エウリュステウスとヘラクレイダイは、ガルゲットスの町で戦い、ヘラクレイダイはエウリュステウスの首だけをトリコリュトスの町へ持ち帰った。

 

12.4 ドーリスへの移住

BC1211年、ヘラクレスの子ヒュッロス率いるヘラクレイダイは、ペロポネソスへの侵入に失敗し、トリコリュトスの町からドーリス地方へ移住した。[151]

その時、アンティオコスとマカリアは、ドーリス地方へ行かなかった。

 

12.4.1 ヘラクレスの子アンティオコス

ヘラクレスとドリュオペスのピュラスの娘メダとの間の息子アンティオコスは、アテナイの名祖の一人になった。[152]

 

12.4.2 ヘラクレスの娘マカリア

ヘラクレスとデイアネイラの娘マカリアは、テセウスの子デモポンと結婚して、息子オクシュンテスが生まれた。[153]

 

13 トリコスの歴史

ケクロプスの子パンディオンは、第8代アテナイ王に即位する前、トリコスの町に住んでいた。[154]

BC1279年、デイオネオスの子ケパロスは、アイゲウスに追われて、トリコスの町からテバイの町へ亡命した。[155]

BC1277年、ケパロスは、アルカイオスの子アンピュトリオンと共に、ギリシア北西部のテレボアイ人の地へ遠征した。ケパロスは、アカルナニア地方西部のイオニア海で最大の島に定住した。[156]

その島は、ケパレニアと呼ばれるようになった。[157]

ケパロスの父デイオネオス (または、デイオン)は、第8代アテナイ王パンディオンの別名であった。[158]

トリコスの町は、テセウスが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[159]

 

おわり

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