top of page
  • Grey Twitter Icon
  • Grey LinkedIn Icon
  • Grey Facebook Icon
  • Grey Pinterest Icon
  • Grey Instagram Icon

第11章 アッティカ地方の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2025.10.31

AtticaS.png

1 はじめに

BC1750年、大洪水によって居住地を追われた人々は、Parnassus山北麓のCephisus川の上流から下流に逃れ、Boeotia地方に定住した。[1]

このときBoeotia地方を越えてAttica地方に定住した人々もいた。

初代Athens王Cecropsが現れる前、Attica地方南東のMyrrinousの町には、Colaenusが住み、Athensの町の北東のAthmoneisの町には、Actaeusが住んでいた。[2]

しかし、それより遥かに昔からAttica地方の南東端Sunium岬近くのLaurionには、銅を採掘する人々が定住していた。[3]

Strabonは、Attica地方の南東端Sunium岬からTemmicesがBoeotia地方へ移動して来たと伝えている。[4]

Temmicesは、Boeotia地方に最初に定住した部族であった。[5]

この章では、Anaphlystus、Aphidna、Brauron、Eleusis、Eleutherae、Marathon、Megara、Melite、Oenoe、Sphettus、Tricorythus、Thoricusについて記述している。

 

2 Anaphlystusの歴史

BC1262年、Troezenの子Anaphlystusは、Troezenの町からAttica地方へ移住して、Anaphlystusの町を創建した。[6]

Minosとの戦いの後で、AegeusがTroezenの町に亡命した。Aegeusは、Troezenの2人の息子たち、AnaphlystusとSphettusの協力を得て、Athensの町への帰還に成功した。[7]

Anaphlystusは、Theseusが1つにまとめた12の町の名前にない。[8]

Straboは、11の町の名前しか記していないが、もう1つは、Anaphlystusの町と思われる。

 

3 Aphidnaの歴史

Aphidnaの町は、Theseusが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[9]

BC1210年、Theseusは、Aphareusの子IdasからTyndareusの娘Helenを預かって、Aphidnaの町に匿った。[10]

その後、DioscuriがAphidnaの町へ来て、彼らの妹HelenをLacedaemonへ連れ戻した。[11]

BC11世紀からBC6世紀までの間に、Euboea島のEretriaの町からGephyraeansがAphidnaの町へ移住して来た。[12]

BC514年、Athensの町の僭主Hippiasの兄弟Hipparchusを暗殺したHarmodiusとAristogeitonは、Aphidnaの町出身のGephyraeansであった。[13]

 

4 Brauronの歴史

Brauronの町は、Theseusが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[14]

 

4.1 Megaraからの移住

BC1173年、Ajaxの子Philaeusは、Megaraの町からBrauronの町へ移住した。[15]

Philaeusの妻、Agamemnonの娘Iphigeniaは、Brauronの町のArtemisに仕える巫女であった。[16]

Philaeusは、Agamemnonの子Hyperionによって、Megaraの町から追放されたと推定される。[17]

 

4.2 IphigeniaとOrestesの伝承

Brauronの町には、Pausaniasも実際に見たArtemis神像があった。その神像は、IphigeniaがTauric landから持ち帰ったものだと伝えられていた。[18]

その伝承を作ったのは、BC7世紀以降、黒海地方へ進出したMegariansであったと思われる。また、その伝承の舞台は、the Tauric Chersonese (現在のCrimea)ではなく、本土であるTauric Scythiaと思われる。[19]

Tauric landの支配者Thoasの父は、Borysthenes (現在のDnieper)川だと伝えられているからである。[20]

 

4.3 Pelasgiansによる略奪

BC1115年、Lemnos島に住むPelasgiansが、Brauronの町の乙女たちを略奪した。[21]

それ以前に、Pelasgiansは、Athensの町の城壁を築き、土地の開墾に尽力したが、Atheniansに嫉妬されて追放されていた。略奪は、自分たちに対するAtheniansの行為を恨んでの犯行であった。[22]

この事件の後、Atheniansは、Lemnos島のPelasgiansをSinties (or Sinti)と呼んだ。[23]

BC3世紀のAthensの歴史家Philochorusによれば、Sintiesとは「害を与える人々」の意味だという。[24]

 

5 Eleusisの歴史

5.1 初期の居住者

Saronic Gulfに注ぐCephisus川の河口付近に初めて住んだGreeksはOgygus、あるいは、彼の息子Eleusisであった。BC1750年のOgygus時代の大洪水で、Parnassus山の北を流れるCephisus川流域に住んでいた人々が居住地を追われて南へ移動した。彼らは、Eleusisの町やAthensの町を流れて海へ注ぐ川の近くに住み着き、その川を故郷のCephisus川と同じ呼び名で呼んだ。[25]

 

5.2 Argosからの移住

BC1720年、Phoroneusの子CarがArgosの町からEleusisの西側のMegara地方へ移住した。[26]

BC1580年、Argosの町のHera神殿の巫女Callithyiaの息子で、密儀祭司のTrochilusが、Argosの町からEleusisの町へ移住した。彼は、EleusisにHera神殿で行われていた祭儀を持ち込んだ。[27]

BC1492年、Cranausの娘Atthisの子Erechtheus (or Erichthonius)がEgyptからAthensの町へ移住して来た。[28]

Erechtheusは、Egyptから大麦(barley)の種子をもたらし、EleusisのRharium平原にその種子が播かれた。[29]

Egyptでは女神Isisが、人々に穀物栽培をもたらしたと伝えられ、Greeceでは、女神Demeterがそれをもたらしたという伝承が生まれた。[30]

Pausaniasは、Phoroneusの子CarがMegara地方に初めてDemeterの神域を造営したと伝えており、Demeterは、古くから信奉されていた。[31]

Eleusisの町で祭儀を執り行ったのは、Cranausの子Rharusの子Celeusであった。

RharusはErechtheusと共にEgyptから移住して来た。CeleusとErechtheusは、Cranausの孫であり、従兄弟同士であった。[32]

Cranausの息子について記している古代の史料は残っていなかった。

18世紀の英国の大科学者Isaac Newtonのみが、Cranausの子Rharusの系譜を伝えている。[33]

Rharusは、EleusisのRharium平原に名前を与えた。[34]

 

5.3 Eumolpusの侵入

BC1415年、EumolpusがAttica地方に攻め込み、AtheniansはBoeotia地方のTanagraの町近くへ避難した。[35]

Xuthusの子IonがAtheniansの推挙を受けてpolemarchosになり、Eumolpusと戦って休戦に持ち込んだ。その後、EumolpusはEleusisに定住しているので、Eumolpusが優勢であったと推定される。[36]

 

5.4 Eumolpusの素性

Eumolpusは、つぎの2つの理由により、BC1560年にArgosの町からThessaly地方へ移住したPelasgusの娘Larissaの後裔であったと推定される。[37]

1) BC1352年、Eumolpusの子ImmaradusがErechtheusと戦ったときに、Scirusは、DodonaからImmaradusの応援に駆け付けた。

当時、Dodonaには、Argosの町からThessaly地方へ移住したPelasgusの娘Larissaの後裔が住んでいた。Scirusもその一人であったと推定される。[38]

2) 当時、Eleusisの町には、Argosの町から移住したTrochilusの後裔が住んでいて、祭儀を執り行っていた。[39]

Larissa、Scirus、Trochilusは、Argosの町から移住したPelasgiansであった。

EumolpusがEleusisの町に来る前の居住地は、Dodona、あるいは、Thessaly地方のScotussaの町であったと推定される。[40]

PelasgiansとDodonaには、つぎのような関係があった。

1) BC1480年、Larissaの子Pelasgusの子Haemonの子Thessalusは、Scotussaの町からDodonaに神託所を移し、神殿を建立した。[41]

2) BC1390年、Thessaly地方を追われたPelasgiansの大部分は、Dodona周辺へ移住した。[42]

 

5.5 Eumolpusの侵入の動機

Eleusisの町では、Argosの町から移住したPelasgiansが、Heraの祭儀を執り行っていた。Erechtheusと共にEgyptから移住して来たRharusが新たな祭儀を持ち込み、Rharusの子CeleusがEleusiniansを支配した。

祭儀の執行をめぐって、PelasgiansとCeleusを支持するAtheniansとの間に争いが生じて、EleusiniansがThessaly地方に住むPelasgiansに加勢を依頼したものと推定される。

Trochilusは、Triopasの子Agenorとの争いが原因で、Argosの町を去っているため、Eleusiniansは、Argosの町に助けを求めることができなかった。Eleusisの町のPelasgiansは、Agenorの兄弟Pelasgusの娘Larissaの後裔に応援を要請したのだと思われる。[43]

 

5.6 Argolisへの移住

Pausaniasは、Xuthusの子IonがCeleusの兄弟Dysaulesを追放したと伝えている。[44]

しかし、CeleusやDysaulesは、Eumolpusが現れる以前からEleusisの町で祭儀を執り行っていた。恐らく、Dysaulesは、自発的に町を去ったものと推定される。

BC1415年、Celeusの弟Dysaulesは、Argolis地方へ移住して、Phliusの町の近くに住み着いて密儀を定め、町の名前をCeleaeにした。Celeusは、Dysaulesの死んだ兄の名前であった。[45]

 

5.7 Triptolemusの旅

5.7.1 Achaiaへの旅

Celeusの子Triptolemusは、Dysaulesが住み着いたCeleaeの町より遠方へ旅をした。

Triptolemusは、Achaia地方のRion岬の南西の地に住んでいたEumelusに穀物の栽培方法や町を作る方法を教えた。EumelusはAroe (後のPatrae)の町を創建した。[46]

さらに、TriptolemusとEumelusは共同でAntheiaの町を創建した。[47]

Aroeの町には、Belusの子Aegyptusの墓があった。また、Aroeの町の南のPeirus川中流域にあるPharaeの町の創建者は、Aegyptusの兄弟Danausの娘Phylodameiaの子Pharesであった。EumelusとTriptolemusとは、年代的に矛盾がないことから、Eumelusは、Aegyptusの息子であり、Phylodameiaの夫であったと推定される。[48]

Eumelusは、Cranausの娘の子Tithonusの娘Iodamaの娘Thebeの息子であった。[49]

Triptolemusは、Cranausの子Rharusの子Celeusの息子であった。[50]

つまり、EumelusとTriptolemusとは、第2代Athens王Cranausを共通の先祖とする同族であった。

 

5.7.2 Arcadiaへの旅

Triptolemusは、Arcadia地方のCallistoの子Arcasにも穀物の栽培方法を教えた。[51]

後に、Arcasは、Triptolemusの子Croconの娘Meganiraを妻に迎えた。[52]

Croconは、Eleusiniansとして、初めてAthensの町との境であるRheiti川を東に越えて居住した。[53]

 

5.8 Thraciaへの移住

BC1390年、Crete島の北方約110kmにあるThera島 (現在のSantorini島)の火山活動で発生したAegean Seaの大津波は、Eleusisの町にも被害を与えた。

Megara地方の人々が、Gerania山へ避難したときであった。[54]

Eumolpusの子Ceryxは、Athensの町から新天地を求める旅に出ようとしていたButesの子Boreasの移民団に参加して、Thracia地方に入植した。[55]

CeryxはBoreasの娘Chioneと結婚して、息子Eumolpusが生まれた。[56]

 

5.9 Immaradusの戦い

BC1352年、Eleusisの町のEumolpusの子Immaradusは、Athensの町のPandionの子Erechtheusと戦って、戦死した。[57]

この戦いは、Eleusisの祭儀をめぐる、EleusiniansとAtheniansとの間の争いが原因であった。戦いは、Eleusisの町が優勢のうちに終わり、密儀の執行はEleusisが独自に行うことで決着した。[58]

この戦いには、Eleusisの町に2つの方面から援軍が駆け付けた。

1つは、DodonaのScirus率いるPelasgiansであった。[59]

BC1390年に、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Deucalionの息子たちに追われて、大部分がDodona周辺に移住していた。[60]

Scirusは、Athensの町の外港PhalerumにAthena Scirasの神域を造営した。その付近で、彼が戦死すると、川のほとりに葬られた。川は、彼の名に因んでScirus川と呼ばれるようになった。[61]

もう1つの援軍は、Chioneの子Eumolpus率いるThraciansであった。[62]

Eumolpusの子Immaradusの死後、Eleusisの祭儀は、EumolpusとCeleusの娘たちが継承したが、いずれも高齢であった。彼らの跡を、Immaradusの弟CeryxがThracia地方から呼び戻されて継承し、Ceryxの跡を息子Eumolpusが継承した。[63]

 

5.10 Thraciaからの移住

BC1350年、Immaradusの父Eumolpusが死に、Immaradusの兄弟CeryxがThracia地方からEleusisの町へ移住して祭儀を継承した。[64]

 

5.11 Thraciaからの移住

BC1315年、Chioneの子Eumolpusは、祭儀を継承するため、Thracia地方からEleusisの町へ移住した。[65]

Eleusisの町にChioneの子Eumolpusの墓があった。[66]

 

6 Eleutheraeの歴史

6.1 Eleutheraeの創建

BC1370年、Megassaresの娘Aethusaの子Eleutherは、Hysiaeの町からCithaeron山を南に越えて、南南東へ約6kmの所にEleutheraeの町を創建した。[67]

 

6.2 Hyriaからの嫁入り

BC1366年、Nycteusの娘Antiopeは、Hyriaの町からCithaeron山を越えたEleutheraeの町のEleutherのもとへ嫁ぎ、2人の息子たち、AmphionとZethusが生まれた。

伝承では、Antiopeが、Sicyonの町のEpopeusのもとからThebesの町へ連れ戻される途中で、息子たちをEleutheraeの町で出産したことになっている。

この伝承で、唯一真実と思われるのは、AmphionとZethusがEleutheraeの町で生まれたということである。当時、Eleutheraeの町は建設されたばかりで、その町の創建者Eleutherが住んでいた。AntiopeとEleutheraeの町の創建者Eleutherは、年代的に夫婦として妥当であり、Eleutherが双子の父親と推定される。[68]

Antiopeは、彼女の父Nycteusの従兄弟と結婚したことになる。[69]

 

6.3 Eutresisの建設

BC1345年、AmphionとZethusは、Eleutheraeの町からCithaeron山を北へ越えて、Thebesの町から西南西約14kmの所に移住して、Eutresisの町を創建した。[70]

 

6.4 Plataeaの建設

BC1295年、Damasistratusは、Eleutheraeの町からCithaeron山を北へ越えて、Thebesの町から南南西約13kmの所に移住して、Plataeaの町を創建した。[71]

Damasistratusは、Tanagraの町の創建者Poemanderの父Chaeresilausの弟と推定される。

 

6.5 Tanagraの創建

BC1270年、Aethusaの子Eleutherの子Iasiusの子Chaeresilausの子Poemanderは、Eleutheraeの町からBoeotia地方東部へ移住してTanagraの町を創建した。[72]

 

6.6 AdrastusのThebes攻め

BC1215年、Adrastus率いるArgivesのThebes攻めがあった。戦死したArgivesの遺体は、Thebesの町からEleutheraeの町へ運ばれて、埋葬された。[73]

既にこの頃からEleutheraeの町は、Thebesの町よりもAthensの町に好意を寄せていた。[74]

 

6.7 Atticaへの加入

Eleutheraeの町は、創建時からBoeotia地方に関係が深かったが、Thebesの町との関係が悪化して、Attica地方に加入した。[75]

これにより、Attica地方とBoeotia地方の境は、Eleutheraeの町とOenoeの町との間ではなく、Cithaeron山になった。

 

7 Marathonの歴史

7.1 Marathonの創建

BC1465年、Hellenの子Xuthusは、Attica地方北東部にTetrapolisの一つとして、Marathonの町を建設した。[76]

Tetrapolisは、Theseusが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[77]

 

7.2 Sicyonからの移住

BC1352年、Epopeusの子Marathonは、Sicyonの町からMarathonの町へ移住して来た。[78]

Marathonは、第6代Athens王Erechtheusの娘と結婚した。[79]

Marathonは、Deucalionの子Hellenの子Aeolusの子Sisyphusの子Aloeusの子Epopeusの息子であった。[80]

Marathonより前に、Athens王家とDeucalionの後裔には、つぎのような結婚があった。

1) 第2代Athens王Cranausの娘は、Deucalionの子Amphictyonと結婚した。

2) 第4代Athens王Erichthoniusの娘は、Deucalionの子Hellenの子Xuthusと結婚した。[81]

MarathonとErechtheusの娘との結婚は、Athensの町とEleusisの町との戦いにMarathonが加勢したことが縁であったと推定される。

 

7.3 SicyonやCorinthへの移住

BC1321年、Aloeusの子Epopeusが死に、Epopeusの子Marathonが跡を継いだ。Marathonは2人の息子たち、SicyonとCorinthusにそれぞれ、AsopiaとEphyraeaを与えた。AsopiaとEphyraeaはそれぞれ、Sicyonの町とCorinthの町と呼ばれるようになった。[82]

 

8 Megaraの歴史

8.1 Argosからの移住

BC1725年、Phoroneusの子Carは、Argosの町からMegara地方へ移住した。[83]

Pausaniasの時代、Carの墓は、Megaraの町からCorinthの町へ向かう街道沿いにあった。[84]

 

8.2 Argosからの移住

BC1560年、Triopasの子Agenorの子Crotopusは、Megara地方のGeraneia山麓へ移住して、Tripodiskionの町を創建した。[85]

 

8.3 Egyptからの移住

BC1430年、Libyaの子Lelexは、Laconia地方に息子たちを入植させた後で、Megara地方に定住した。[86]

Lelexは、CrotopusのいとこIoの子Epaphusの娘Libyaの息子であった。

つまり、LelexがMegara地方へ移住したのは、偶然ではなかった。

 

8.3.1 Megaraの伝承

Pausaniasは、LelexがPhoroneusの子Carの12世代後だというMegaraの伝承を記している。[87]

しかし、Lelexは、Carの姉妹Niobeの子Argusの子Criasusの子Phorbasの子Triopasの子Iasusの娘Ioの子Epaphusの娘Libyaの息子であった。つまり、Lelexは、Carの9世代後の人物であった。

 

8.3.2 Leleges

Lelexが入植した後で、Megara地方の人々は、Lelegesと呼ばれた。[88]

Lelegesは、Laconia地方の最初の住人の呼び名と同じであった。[89]

また、Acarnania地方西部にTeleboansと共に住んでいたLelegesもLaconia地方から移住した人々であった。[90]

 

8.3.3 Lelexの後裔

Pausaniasは、Lelexの息子をCleson、Clesonの息子をPylas、Pylasの息子をSciron、Scironは第8代Athens王Pandionの娘と結婚したと伝えている。[91]

系図を作成すると、LelexとPylasの生年差は、125年であり、1世代の間が、62年になり、妥当ではない。恐らく、Clesonの父は、Lelexではなく、LelexとClesonの間には、3世代の欠落があったと推定される。

つまり、Megaraの伝承は正しかったが、PausaniasがClesonをLelexの息子だと間違って認識していた。

 

8.4 Thraciaからの移住

BC1420年、Tereusは、Thracia地方からPhocis地方のDaulis付近へ移住した。[92]

BC1418年、Tereusは、Megara地方のPagaeへ移住した。[93]

Tereusは、Athens王Pandionの娘Procneを妻に迎えた。[94]

Tereusの墓は、Megaraの町にあった。[95]

 

8.5 Athensからの移住

8.5.1 Pandionの移住

BC1318年、Cecropsの子Pandionは、Megaraの町のClesonの子Pylasのもとへ移住して、彼の娘Pyliaと結婚した。[96]

これより前に、Pandionは、父や兄弟たちと共に、Athensの町から追放されていた。[97]

 

8.5.2 Pylasの移住

Pausaniasは、Clesonの子PylasがLelegesを率いて、Megaraの町からMessenia地方へ移住して、Pylusの町を創建したと伝えている。[98]

また、Apollodrosも、Pylasが娘婿Pandionに王国を与えて、移住したと伝えている。[99]

しかし、PylasにはScironという息子がいた。[100]

この伝承は、Pylasの名前がEleia地方やMessenia地方にあるPylusの町の名前に似ていることから生まれた作り話と思われる。[101]

 

8.6 Athensへの移住

BC1312年、Cecropsの子Pandionは、Megaraの町からAthensの町へ帰還した。[102]

 

8.7 Athensからの移住

BC1295年、Cecropsの子Pandionは、Metionの息子たちに追われて、Athensの町からMegaraの町へ移住した。[103]

 

8.8 Megaraの継承権争い

BC1287年、Cecropsの子Pandionが死去した。Pandionの子NisusとPylasの子Scironの間にMegaraの町の継承をめぐる争いが起き、Aegina島のAeacusが仲裁した。[104]

Aeacusの妻の父Scyriusは、Athens王Aegeusの実父であった。[105]

つまり、AeacusとAegeusは義兄弟であり、NisusやScironもAegeusを通して義兄弟であった。Aegeusは、義兄弟同士の争いをAeacusに仲裁させた。Aeacusは、Aegeusの義兄弟の中でも敬虔な人物として有名であった。[106]

Aeacusの仲裁により、Pandionの子Nisusが、Megaraの町を継承した。[107]

 

8.9 Athensへの移住

BC1285年、Aegeusは、Megaraの町からAthensの町へ帰還して、Metionの息子たちを追放した。[108]

 

8.10 Pisaからの移住

BC1287年、Pelopsの子Alcathousは、内紛が発生したPisaの町を逃れて、Megaraの町へ移住した。[109]

Alcathousは、Pylasの子Scironの娘Pyrgoと結婚した。[110]

 

8.11 Minosとの戦い

BC1264年、Aegeusは、Pallasの息子たちによって、Athensの町から追放されて、Megaraの町のNisusのもとへ逃れた。[111]

Pallasの息子たちと友好関係にあったCrete島のMinosは、Megaraの町を攻撃した。[112]

Megara王Nisusは戦死して、Minosが勝利した。Aegeusは、Troezenの町のPelopsの子Pittheusのもとへ亡命した。[113]

 

8.12 Argosからの移住

BC1247年、Argosの町で内紛が発生して、Amythaonの子Melampusは、彼の孫Coeranusと共に、Megara地方へ移住した。[114]

このとき、Idmonの子Thestorも、彼らに連れられてMegaraの町へ移住した。[115]

Melampusは、Thestorの曽祖父であり、Coeranusは、父方の伯父であった。

 

8.13 Salamisへの嫁入り

BC1240年、Alcathousの娘Periboea (or Eriboea)は、Salamis島のAeacusの子Telamonのもとへ嫁入りした。[116]

この結婚は、Periboeaの母方とTelamonの母方が共にAthens王家に繋がっていたために可能になったと思われる。

 

8.14 Salamisからの移住

BC1215年、Telamonの子Ajaxは、Salamis島からMegaraの町へ移住し、Alcathousの跡を継いだ。[117]

Ajaxは、Alcathousの娘Periboea (or Eriboea)の息子であり、Alcathousの孫であった。[118]

Ajaxは、Elatusの子Caeneusの後裔Lysidiceと結婚し、息子Philaeusが生まれた。[119]

Caeneusは、Thessaly地方のLapithsであったが、Ajaxの祖父AeacusもThessaly地方のPhthiaの町の出身であった。[120]

 

8.15 Alcmenaの死

BC1214年、Electryonの娘Alcmenaは、Heracleidaeと共にPeloponnesusからTricorythusへ行く途中、Megaraで死んだ。[121]

 

8.16 Hyllusの死

BC1211年、Heraclesの子Hyllusは、Isthmusで、Peloponnesus軍と戦って、戦死した。[122]

Hyllusの墓は、Megaraにあった。[123]

 

8.17 Adrastusの死

BC1205年、Talausの子Adrastusは、EpigoniのThebes攻めに同行し、帰る途中、Megaraで死んだ。[124]

 

8.18 Mycenaeからの嫁入り

BC1190年、Ajaxの子Philaeusは、Mycenaeの町からAgamemnonの娘Iphigeniaを妻に迎えた。

次のことから、Philaeusの妻は、Iphigeniaであったと思われる。

1) Pausaniasは、Megaraの町にIphigeniaの英雄廟があり、IphigeniaはMegaraの町で死んだと伝えている。[125]

2) PhilaeusはBrauronの町に住み、IphigeniaはBrauronの町のArtemisに仕える巫女であった。[126]

3) Iphigeniaの兄弟HyperionがMegara王になった。[127]

 

8.19 Trojan War

BC1188年、Antenorの息子たちが、Priamの息子たちを追放して、Iliumの町を占領した。Priamの息子たちは、Hellespontの利用を通して友好関係にあったAchaeansに援軍を要請した。

Achaeansは、Peleusの子Achillesを総大将にしてTroy遠征軍を編成した。

Megaraの町から次の参加者たちがいた。

 

8.19.1 Telamonの子Ajax

Telamonの子Ajaxは、Achillesの従兄弟であり、Achillesの遠征に参加したと思われる。

BC1186年、Ilium攻めの総大将であるPriamの子Hectorや、Achilles、Ajaxが戦死して、Achaeansは、Ilium奪還を断念した。

Ajaxは、Iliumの町の近くのRhoeteiumに葬られた。[128]

 

8.19.2 Thestorの子Calchas

Thestorの子Calchasは、Telamonの子Ajaxと共にTroy遠征に参加した。[129]

Calchasは、Iliumの町からPamphylia地方へ逃れて、Selgeの町を創建した。[130]

 

8.20 Mycenaeからの移住

BC1173年、Hyllusの子Cleodaeus率いるDoriansがPeloponnesusへ侵入して、Mycenaeの町を破壊した。Agamemnonの子Hyperionは、Mycenaeの町からMegaraの町へ移住した。[131]

 

8.21 Atticaへの移住

BC1173年、Ajaxの息子たち、PhilaeusとEurysacesは、Megaraの町からAttica地方のBrauronの町とMeliteの町へ移住した。[132]

Eurysacesの聖域がMeliteの町にあったことから、EurysacesはMeliteの町へ、PhilaeusはBrauronの町に定住したと思われる。[133]

PhilaeusとEurysacesは、Agamemnonの子Hyperionによって、Megaraの町から追放されたと推定される。[134]

 

8.22 王制の廃止

BC1160年、Hyperionは、横暴に振舞ったため、Sandionに殺されて、Megaraの町の王制は廃止された。[135]

 

8.23 DoriansのMegara創建

BC1074年、Corinthの町のDoriansは、Athensの町の一部であったMegaraの町からIoniansを追い出して、Doriansの町Megaraを創建した。[135-1]

 

8.24 Creteへの移住

BC1070年、Megaraの町のDoriansの一部は、Argosの町のTemenosの子Ceisusの子Althaemenesの移民団に参加して、Crete島へ移住した。[135-2]

Althaemenesの移住の原因は、飢饉であった。[135-3]

 

9 Meliteの歴史

BC1173年、Ajaxの子Eurysacesは、Megaraの町からMeliteの町へ移住した。[136]

Eurysacesの聖域がMeliteの町にあった。[137]

Eurysacesは、Agamemnonの子Hyperionによって、Megaraの町から追放されたと推定される。[138]

 

10 Oenoeの歴史

BC1465年、Hellenの子Xuthusは、Attica地方北東部にTetrapolisの一つとして、Oenoeの町を建設した。[139]

Tetrapolisは、Theseusが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[140]

BC1415年、EumolpusがAttica地方に侵入したとき、Oenoeの町の住人は、Saronic Gulfの島 (後のAegina)へ移住した。[141]

彼らの入植の後で、島の名前は、Oenoeになった。[142]

 

11 Sphettusの歴史

BC1262年、Troezenの子Sphettusは、Troezenの町からAttica地方に移住して、Sphettusの町を創建した。[143]

Minosとの戦いの後で、Aegeusは、Troezenの町へ亡命した。その後、Aegeusは、Troezenの2人の息子たち、AnaphlystusとSphettusの協力を得て、Athensの町へ帰還した。[144]

Sphettusの町は、Theseusが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[145]

 

12 Tricorythusの歴史

12.1 Tricorythus (or Tricorynthus)の創建

BC1465年、Hellenの子Xuthusは、Attica地方北東部にTetrapolisの一つとして、Tricorythusの町を建設した。[146]

Tetrapolisは、Theseusが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[147]

 

12.2 Trachisからの移住

BC1218年、Heracleidaeは、Trachisの町からTricorythusの町へ移住した。[148]

Heracleidaeの保護者Iolausの妹Iopeは、Athens王Theseusの妻であり、Iolausの義兄弟TheseusがHeracleidaeを受け入れた。[149]

 

12.3 Eurystheusとの戦い

BC1217年、Mycenae王Eurystheusは、Tricorythusの町に住んでいたHeracleidaeを攻めたが、Iolausに討ち取られた。Eurystheusの遺体はGargettusの町に、彼の首はTricorythusの町のMacariaの泉の近くに埋葬された。[150]

つまり、EurystheusとHeracleidaeは、Gargettusの町で戦い、HeracleidaeはEurystheusの首だけをTricorythusの町へ持ち帰った。

 

12.4 Dorisへの移住

BC1211年、Heraclesの子Hyllus率いるHeracleidaeは、Peloponnesusへの侵入に失敗し、Tricorythusの町からDoris地方へ移住した。[151]

その時、AntiochusとMacariaは、Doris地方へ行かなかった。

 

12.4.1 Heraclesの子Antiochus

HeraclesとDryopesのPhylasの娘Medaとの間の息子Antiochusは、Athensの名祖の一人になった。[152]

 

12.4.2 Heraclesの娘Macaria

HeraclesとDeianeiraの娘Macariaは、Theseusの子Demophonと結婚して、息子Oxyntesが生まれた。[153]

 

13 Thoricusの歴史

Cecropsの子Pandionは、第8代Athens王に即位する前、Thoricusの町に住んでいた。[154]

BC1279年、Deioneusの子Cephalusは、Aegeusに追われて、Thoricusの町からThebesの町へ亡命した。[155]

BC1277年、Cephalusは、Alcaeusの子Amphitryonと共に、ギリシア北西部のTeleboansの地へ遠征した。Cephalusは、Acarnania地方西部のIonian Seaで最大の島に定住した。[156]

その島は、Cephalleniaと呼ばれるようになった。[157]

Cephalusの父Deioneus (or Deion)は、第8代Athens王Pandionの別名であった。[158]

Thoricusの町は、Theseusが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[159]

 

おわり

bottom of page