
第29章 アナトリア半島の青銅器時代の歴史
Create:2025.10.30, Update:2026.2.16
1 はじめに
青銅器時代のアナトリア半島には、ヒッタイトが存在していた。しかし、古代ギリシアの史料には、ヒッタイトの名前ばかりではなく、ヒッタイトの存在を暗示しているような記述もない。
ヒッタイトの首都ハットゥーシャから北東へ約125km離れたアマセイア出身のストラボンでさえ、ヒッタイトについて、まったく記述していない。ストラボンは、ハットゥーシャがあった地域がガラティア族の支族トロクモイ族の支配地域で、タウィオンの砦があったとしか記していない。[1]
古代ギリシア人の系譜から、年代順に出来事を考察すると、ヒッタイトの影響がアナトリア半島のギリシア人入植地に及んでいるのが理解できる。
古代ギリシア人はヒッタイトの勢力が衰退すると、小アジアなどへ進出し、ヒッタイトの勢力が増すと沿海の島々へ逃れていたようである。
この章では、古代ギリシアの史料とヒッタイト文書から得られた情報を基に青銅器時代のアナトリア半島の歴史を記述する。
なお、次の事柄については、別途記述している。
1) アナトリア半島近海の島々については、「ギリシアの島々の青銅器時代の歴史」。
2) トロイ戦争の詳細については、「トロイ戦争(BC13 - 12世紀)」。
3) ヒッタイト文書に登場するギリシア人の名前については、「ヒッタイト文書に記された古代ギリシア人」。
4) イオニア人やアイオリス人の植民時代については、「小アジア植民(BC1170-1043)」。
2 BC16世紀のアナトリア
BC1595年、ヒッタイト古王国は、ムルシリ1世がバビロン王国を滅ぼして絶頂期を迎えた。[2]
その後、ムルシリ1世の姉妹の夫ハンティリ1世は、彼の娘婿ツィダンタに騙されてムルシリ1世を殺して、ヒッタイト王となった。[3]
ハンティリ1世の跡を継いだツィダンタ1世は、彼の息子アムムナに殺された。[4]
BC16世紀中頃のヒッタイトは、古王国の衰退期に入っていた。
2.1 アルゴスからリュキアへの入植
アナトリア半島での古代ギリシア人の最初の入植地は、リュキア地方であった。
クサントスより前に、BC1580年、クサントスの父トリオパスは、ロドス島へ植民団を派遣していた。[5]
また、同じ頃、ボイオティア地方に住んでいたエクテネスの一部は、エジプトへ移住して、サイスの町を創建した。[6]
エクテネスは、アテナイ人の先祖オギュゴスが属していた部族であった。[7]
後に、エジプトからギリシアへ移住したダナオスやカドモスもロドス島を経由しており、リュキア地方は、ギリシアとエジプトを結ぶ航路の重要な中継地点であった。[8]
BC1560年、トリオパスの子クサントスは、アルゴスの町からリュキア地方へ移民団を率いて、植民した。[9]
クサントスの移民団が入植したのは、リュキア地方のシルビス(後のクサントス)川の流域であった。
入植者の中には、クサントスの娘リュキアも含まれていた。
BC1530年、リュキアの子パタロスは、クサントス川の河口近くにパタラの町を創建した。[10]
2.2 アルゴスからカリアへの入植
リュキア地方へ植民した後で、クサントスは移民団を率いて、北上した。クサントスに同行していたキュルノスは、ロドス島対岸のケッロネソスにキュルノスの町を創建した。[11]
ケッロネソスは、カリア地方のクニドス半島にあった。[12]
2.3 アルゴスからレスボスへの入植
その後、クサントス自身は、無人のイッサ (後のレスボス)島に植民した。[13]
イッサ島は、クサントスが率いたペラスゴイ人に因んで、ペラスギア島と呼ばれるようになった。[14]
また、レスボス島には、クサントスという名前の町があった。[15]
当時の島の名前や、町の名前が伝えられており、クサントス入植後もアルゴスの町と交易があったと思われる。
3 BC15世紀後半のアナトリア
最初の入植から125年後、ギリシア人は相次いで、アナトリア半島へ入植した。
ヒッタイトは、中王国が衰退して、新王国が興る頃で、ヒッタイトによる小アジアへの影響力は薄れていた。
3.1 クレタからトロアスへの入植
BC1435年、テウクロス (または、テウクロス, テウクロス)は移民団を率いて、クレタ島のアプテラの町を出港し、トロアス地方のハマクシトス付近に上陸した。[16]
テウクロスは、クレタ島で最初に鉄を発見したケルミス (または、ケルミス)とダムナメネオスの姉妹イダ (または、イドテア)の息子であった。[17]
テウクロスに同行したイダ山のダクテュロスは、ハマクシトスから北へ鉱脈を探索して、イダ山周辺に定住した。[18]
テウクロスは、ヘレスポントス近くにテウクリス (後のダルダノス)の町を創建した。[19]
当時、トロアス地方には、ヒッタイト王ハットーシリ1世(BC1650-20)の時代から存在していたウィルサという王国があった。[20]
3.2 エジプトからトロアスへの入植
BC1425年、カドモスと共に移住先を探していた、アゲノールの子キリクスは、イダ山南東部へ移住して、テーベの町を創建した。[21]
町の名前は、イダ山に住むコリュバスと結婚したキリクスの娘テーベの名前に因んでいる。[22]
カドモスは、エジプトで生まれ、彼の父アゲノールと共にシドンへ移住した後で、兄弟と共に新天地を求めて、移民団を率いた。[23]
キリクスと共に移住した人々はキリキア人と呼ばれ、彼らの住む地方はキリキアと呼ばれるようになった。[24]
キリキアの名前は、テーベの町近くの支配者キッロスに因んでいるという異説もある。[25]
3.3 ロドスからリュキアへの移住
BC1425年、テルキネス族のリュコスは、ロドス島からリュキア地方のクサントス川近くに移住し、アポロ・リュキウスの神殿を奉納した。[26]
テルキネス族は、古くからロドス島に住んでいたが、ヘリアダイと呼ばれるロドスの息子たちに追放された。[27]
3.4 サモトラケからトロアスへの入植
BC1420年、 ダルダノスは、大津波に襲われたサモトラケ島からトロアス地方へ移住した。[28]
BC1430年、ダルダノスは、洪水に襲われたアルカディア地方のメテュドリオンの町からサモトラケ島へ移住して住んでいた。[29]
3.4.1 ダルダノスの創建
ダルダノスは、ダルダノスの町を創建したと伝えられるが、テウクロスが創建した町の名前を変更したものであった。[30]
したがって、ダルダノスと共にサモトラケ島から移住した人々は、テウクロスと共にクレタ島から移住した人々と共住したことになる。
3.4.2 ダルダノスの住人
テウクロスと共にクレタ島から移住した人々は、BC1690年にテルキンの子クレスに率いられて、シキュオンの町からクレタ島へ移住した人々であった。彼らは、イナコスの後裔であったが、ペラスゴイ人ではなく、テルキネス族であった。
ダルダノスと共にサモトラケ島から移住した人々は、アルカディア地方からサモトラケ島へ移住したアルカディア人 (ペラスゴイ人)であった。
つまり、ダルダノスの住人は、オギュゴスの後裔ではなく、イナコスの後裔であった。
3.5 クレタからカリアへの入植
BC1416年、クレタ島の5人のクレテスは、ロドス島対岸のケッロネソスに住むカリア人を追い出して、5つの町を創建した。[31]
ケッロネソスには、BC1560年に創建されたキュルノスの町があったが、カリア人によって住人が追い出されて、町は存在していなかったと思われる。
クレテスもイダ山のダクテュロスも同じものであり、この5人のクレテスは、オリュンピアで競技会を初めて開催したイダ山のヘラクレス兄弟と推定される。[32]
イダ山のヘラクレスは、ポイニクスの娘アステュパライアの夫と推定され、彼らの息子はアンカイオスであった。[33]
イダ山のヘラクレスの本名は、アクモンであった。[34]
3.5.1 アンカイオス
アンカイオスはレレゲスの王であり、彼の妻は、マイアンドロス河神の娘サミアであった。[35]
マイアンドロス川は、ミレトスの町の近くを流れて海に出る。[36]
ミレトスの町は、ケッロネソスから北北西へ直線距離で約100kmの位置にあった。
古い時代には、ミレトスの町はレレゲイスと呼ばれて、レレゲスの居住地であった。[37]
以上のことから、アンカイオスは、ミレトスの町を支配していたと推定される。
レレゲスとは、特定の種族に属さない混血した人々に与えられた名前であった。[38]
つまり、アンカイオスが支配した人々は、先住民のカリア人と共住して、混血したギリシア人であった。[39]
3.6 シリアから山地キリキアへの入植
BC1410年、アステュノオスの子サンドコスは、シリア地方から山地キリキア地方へ移住して、ケレンデリスの町を創建した。[40]
3.6.1 アステュノオスの先祖
アステュノオスは、初代アテナイ王ケクロプスの娘ヘルセの子ケパロスの子ティトノスの子パイトンの息子であった。[41]
ケクロプスは、エジプトからアテナイの町へ移住しており、彼の娘ヘルセは、フェニキア地方のテュロスの町に住む男性と結婚したと推定される。[42]
3.6.2 サンドコスの妻
サンドコスの妻は、ボイオティア地方のヒュリアの町のメガッサレスの娘パルナケであった。[43]
ヒュリアの町とケレンデリスの町とは、直線距離で、約900km離れている。
サンドコスとパルナケとの遠距離婚を実現させたのは、次のような事情であったと推定される。
彼らが出会ったのは、サモトラケ島であった。サンドコスの父アステュノオスは、シリア地方のシドンの町の住人であった。[44]
アステュノオスは、カドモスの移民団に船を提供し、シドンの町からトラキア地方まで、息子サンドコスと共にカドモスに同行した。[45]
メガッサレスの妻アルキュオネは、アトラスの娘プレイオネを母として、アルカディア地方のキュレネで生まれた。[46]
アルキュオネの姉妹エレクトラの子ダルダノスは、カドモスより前にアルカディア地方からサモトラケ島に移住していた。アルキュオネや、彼女の夫メガッサレスや子供たちもダルダノスと共に島へ移住した。[47]
サンドコスは、島にいたメガッサレスの娘パルナケと出会い、結婚した。[48]
3.6.3 タソスへの移住
BC1400年、キリクスの子タソスは、テーベの町からタソス島へ移住した。[49]
タソスの移住の原因は、次に述べるヒッタイトとの戦いであったと推定される。
3.7 ヒッタイトとの戦い
3.7.1 アシュワ人の反乱
BC1400年頃、ヒッタイトに対するアシュワ人の反乱が起こった。
この反乱には、ウィルサの他にダルダノスの町やテーベの町が参加していたと思われる。[50]
反乱はヒッタイトにより鎮圧され、王と彼の息子クックリが捕虜になったが、クックリは解放されてヒッタイトの家臣になった。その後、クックリは再び反乱を起こして殺され、アシュワ同盟は崩壊した。[51]
3.7.2 アヒヤワの支援
アヒヤワは、アシュワ人の反乱を支援したと思われる。[52]
この反乱と同じ頃、アヒヤワのアッタリシア(または、アッタルシア)は、ヒッタイトの支配地域に攻め込んで撃退された。[53]
アッタリシアは、ロドス島対岸のケッロネソスからミレトスの町へ支配地域を広げたレレゲスの王アンカイオスと推定される。[54]
3.7.3 アンカイオス支配下の人々
アンカイオス (アッタリシア)の支配下には、つぎの人々がいたと推定される。
1) アンカイオスの父アクモンが兄弟たちと共に、ケッロネソスに建設した5つの町の住人。
クレタ人 (テルキネス族)。
2) アンカイオスが征服したミレトスの町の住人。恐らく、カリア人。
3) ケッロネソスからミレトスの町の住人。恐らく、カリア人。
4) アクモンの娘と、キュドンの子カルデュスとの結婚後、クレタ島から移住して来たキュドニアの町の住人。アルカディア人 (ペラスゴイ人)。
3.7.4 アンカイオスの子アナックス
アンカイオスは、ヒッタイトに敗れた後で近隣の島へ逃れた。その島は、恐らく、アンカイオスの子サモスに因んで名付けられたサモス島であったと思われる。[55]
その後、アンカイオスの子アナックスは、ミレトスの町へ戻り、町はアナックスの名前に因んで、アナクトリアと呼ばれるようになった。[56]
アナックスは、アンカイオスの4人の息子たち、ペリラオス, エヌドス, サモス, アリテルセスのうち、いずれかの息子と推定される。[56-1]
アナックスによるアナクトリアの町の創建には、アナックスの兄弟、あるいは、従兄弟と思われるクレオクスやポレモンも協力したと推定される。ポレモンは、アナクトリアの町の近くのラトミアに住んでいた。[56-2]
4 BC1390年の大津波
BC1390年、エーゲ海で発生した大津波は、各地を襲った。津波の影響で、テッサリア地方に住んでいたペラスゴイ人が居住地を追い出され、人々の大移動が発生した。
ヒッタイトは、新王国が誕生して勢力を盛り返していたが、古代ギリシア人は、次々とアナトリア半島へ押し寄せた。
4.1 エジプトからキュジコス近くへの移住
アルカンドロスの子ベロスは、エジプトからキュジコス手前のアイセポス川河口近くへ移住した。その後、ベロスの入植地はエチオピアと呼ばれるようになった。[57]
アカイオスの子アルカンドロスは、アルゴスの町からエジプトへ移住してアルカンドロポリスの町を創建していた。[58]
つまり、エチオピア人はアカイア人であった。
ベロスの子ケペオスの娘アンドロメダは、ダナエの子ペルセウスと結婚した。
4.1.1 黒海への進出
ベロスと共に、コリントスの町から移民団を率いていたシシュッポスの子アイイテスは、黒海東岸のコルキス地方へ入植した。[59]
BC1381年、ベロスの子ピネオスは、ダルダノスの娘イダイアと結婚した。[60]
BC1380年、ピネオスは、アイセポス川河口近くから黒海南西岸へ移住して、サルミュデッソスの町を創建した。[61]
BC1360年、プリクソスとアイイテスの娘カルキオペ (または、イオポッサ、エウエニア)の息子キュティッソロスは、コルキス地方から黒海南岸へ移住してキュトロスの町を創建した。[62]
その後、キュティッソロスは、キュトロスの町の東側にも町を創建して、彼の妻シノペの名前を付けた。[63]
BC1350年、ピネオスの子マリアンデュノスは、サルミュデッソスの町から黒海南岸の土地(後のヘラクレア)へ移住した。[64]
BC1350年、ピネオスの子パプラゴン (または、パプラゴノス)は、サルミュデッソスの町からパプラゴニア地方へ移住した。[65]
BC1345年、ピネオスの2人の息子たち、ポリュメデスとクリュティウス(または、プレキッポスとパンディオン)は、サルミュデッソスの町からポントス・エウクシノス(黒海)北岸のタウリケ・ケルソネセへ移住した。[66]
ポリュメデス、あるいは、クリュティウスは、BC1325年、コルキス地方からペルセイスを妻に迎えて、2人目のアイイテスが生まれた。アイイテスは、コルキス地方の王になった。[67]
つまり、50年間で、古代ギリシア人は、黒海沿岸に居住地を広げた。
4.2 テッサリアからミュシア・オリュンペネ地方への移住
マグネシア地方に住んでいたペラスゴイ人の一部は、ナナスの兄弟シレノス子ドリオンに率いられて北へ向かった。彼らはプロポンティス海に注ぐアスカニオス川の岸辺に定住した。[68]
その後、ペラスゴイ人は、ドリオネスに名前を変えて、居住地も西へ移動し、キュジコスの町周辺に広く居住するようになった。[69]
キュジコスの町の東側のプロポンティス海南岸のプラキアの町とスキュラケの町は、ヘロドトスの時代にもペラスゴイ人が住んでいた。[70]
4.3 テッサリアからトロアスへの移住
テッサリア地方のラリッサの町に住んでいたガルガロスは、トロアス地方へ移住して、イダ山の山頂近くにガルガラの町を創建した。[71]
イダ山は、ガルガロスとも呼ばれていた。[72]
4.4 クレタからトロアスへの移住
クレタ島のクノッソスの町に住んでいたエウロパの子ミノスは、トロアス地方へ移住した。[73]
ミノスには息子リュクティウスが生まれ、リュクティウスは、コリュバスの娘イデと結婚した。[74]
コリュバスは、イダ山の近くに住んでいたキュベレの息子であった。[75]
4.5 テッサリアからミュシア・ペルガメネ地方への移住
テッサリア地方から逃れたペラスゴイ人の一部は、レスボス島へ渡り、その後、本土へ居住範囲を広げた。[76]
トロイ戦争時代、ヘルモス川流域には、テウタモスの子レトスの2人の息子たち、ヒッポトオスとピュライオスを指導者とするペラスゴイ人の大部族が住んでいた。[77]
この大部族は、ヒッタイトの属国となり、セハ川の地という名前で呼ばれていた。[78]
4.6 テッサリアからリュディアへの移住
テッサリア地方から逃れたペラスゴイ人の一部は、シレノスの子マネスに率いられてリュディア地方へ移住した。[79]
当時、その地方は、アルザワと呼ばれていたが、強力な指導者がいなかった。[80]
ペラスゴイ人は、先住民と共住し、マネスがその地方の王になった。
マネスは、ヒッタイト文書ではアルザワ王クパンタ・クルンタという名前で登場する。[81]
マネスは、ヒッタイト王トゥドハリヤ1世やアルヌワンダ1世と戦って敗れた。[82]
マネスは、ヒッタイトの家臣マドゥワッタとも戦い、彼に自分の娘を嫁がせた。[83]
アルザワは、マネスの跡をマドゥワッタが継ぎ、マドゥワッタの跡をマドゥワッタの息子が継いだ。[84]
5 BC14世紀のアナトリア
ヒッタイト王トゥドハリヤ2世の治世(BC1360-44)は、周辺の敵対勢力との戦いで、ヒッタイトは疲弊していた。トゥドハリヤ2世の子シュッピルリマ1世の治世(BC1344-22)には、ヒッタイトは勢力を回復して絶頂期を迎えた。
5.1 山地キリキアからキュプロスへの移住
BC1385年、サンドコスの子キニュラスは、山地キリキア地方のケレンデリスの町からキュプロス島の南西海岸に移住して、パライパポスの町を創建した。[85]
ヒッタイト文書には、ヒッタイトの勢力圏内にあったアラシヤ(キュプロス)をアヒヤワのアッタリシアとマドゥワッタが攻撃したと記されている。[86]
アッタリシアのギリシア名が、アステュパライアの子アンカイオスであるという私の推測が正しければ、アッタリシアとサンドコスの間には、次のような繋がりがあった。
1) アステュパライアの父ポイニクスは、フェニキア地方のテュロスの町の王であった。[87]
2) ポイニクスの妻ペリメデは、ケクロプスの娘ヘルセの子孫と思われ、サンドコスとアステュパライアは、従兄弟同士、あるいは、又従兄弟同士であった。[88]
キニュラスが創建したパライパポスの町は、200年後のテラモンの子テウクロスの時代にも存在していた。テウクロスは、パライパポスの町のキニュラスの娘エウネと結婚した。[89]
キニュラスは、ミダス王と共に、富豪の代名詞とされた人物であった。[90]
キニュラスの富の源は、アマトスの町で産出される貴重な鉱石であった。キニュラスの母は、アマトスの町の名付け親であった。[91]
5.2 カリアからロドスやテッサリアへの移住
BC1370年、エリュシクトンの子トリオパスが死ぬとトリオピオン (後のクニドス)の町で内紛が起きて、住人は各地へ移住した。[91-1]
トリオパスの子ポルバスは、ロドス島のイアリュソスの町、トリオパスの子ペリエルゴスは、カメイロスの町を占領した。[91-2]
イアリュソスの町とカメイロスの町は、トリオパスをロドス島から追放した、彼の兄弟ケルカポスの息子たちが創建した町であった。[91-3]
また、トリオピオンの町からテッサリア地方のドティオンへの移住もあった。[91-4]
恐らく、トリオパスがドティオンを追われたとき、トリオパスに味方したアイオリス人も一緒に、トリオピオンの町へ移住した。
アイオリス人の一部は、トリオパスの息子たちと共に、ロドス島へも移住した。
5.3 コルキスからパプラゴニアへの移住
BC1360年、プリクソスの子キュティッソロス (または、キュリンドロス, キュティソロス, キュトロス)は、コルキス地方から黒海南岸のパプラゴニア地方へ移住してキュトロスの町を創建した。[91-5]
プリクソスは、ボイオティア地方のアタマスの息子であったが、妻カルキオペと共に、妻の父アイイテスの移民団に参加して、コルキス地方へ移住した。[91-6]
BC1355年、キュティッソロスは、キュトロスの町の東側にシノペの町を創建した。[91-7]
5.4 トラキアからビテュニアへの移住
BC1350年、黒海南西岸のサルミュデッソスの町からピネオスの息子たちに率いられた人々がアナトリア半島北西部の各地へ移住した。
ピネオスは、ベロスの息子であり、アイセポス川河口近くへ入植したケペオスの兄弟であった。[92]
1) ピネオスの子マリアンデュノスは、黒海南岸の土地(後のヘラクレア)へ移住した。[93]
その地方の住人はマリアンデュノイ人と呼ばれるようになった。[94]
2) ピネオスの子ビテュノスは、ビテュニア地方へ移住した。[95]
その地方は最初にベブリュキア、その後、ミュグドニアと呼ばれていたが、ビテュノスの名前に因んでビテュニアと呼ばれるようになった。[96]
3) ピネオスの子パプラゴン (または、パプラゴノス)は、パプラゴニア地方へ移住した。[97]
4) ピネオスの子テュノスは、プリュギア地方のアスカニア湖の南西のオリュンポス山付近に移住した。[98]
その地方の住人はテュノイ人と呼ばれるようになった。[99]
テュノスの母イダイアは、トロイの始祖ダルダノスの娘であった。テュノスの子エイオネオスの子キッセウス (または、デュマス)の娘ヘクバ(または、ヘクベ)は、トロイのプリアモスの妻になった。[100]
5.5 リュキアからアルゴス地方への移住
BC1348年、リュキア地方に住んでいたキュクロペスは、テュリンスの町のプロイトスに招かれて、アルゴス地方へ移住して城壁を築造した。 [101]
キュクロペスは7人で、テュリンスの町の隣のナウプリアの町の近くの洞窟を住んでいた。[102]
5.6 オリュンピアからトロアスへの移住
BC1344年、カルデュスの子クリュメノスは、エリスの町のアイトリオスの子エンデュミオンによって、オリュンピアの町から追放された。[103]
クリュメノスは、アナトリア半島北西部のトロアス地方のイダ山の近くへ移住した。[104]
5.7 ヒッタイトとの戦い
BC1340年、アルザワ王タルフンタラドゥは、ヒッタイト領のトゥワヌワ (テュアナ)の町まで侵攻した。[109]
タルフンタラドゥは大王と呼ばれ、エジプトとも交流していた。[110]
タルフンタラドゥの遠征と同じ頃、ダナエの子ペルセウスは、リュカオニア地方のイコニオン (コンヤ)の町まで遠征していた。[111]
ペルセウスは、祖父アクリシオスの後継者として、アルゴスの町に住んでいたが、BC1343年、アクリシオスの兄弟プロイトスを殺して、小アジアへ渡った。[112]
BC1335年、ペルセウスは、キュジコス近くに住んでいたケペオスの娘アンドロメダと結婚した。[113]
ペルセウスは、アンドロメダの父ケペオスの父ベロスの父アルカンドロスの子メタナステスの子ピラムノスの息子であった。[114]
つまり、ペルセウスとアンドロメダとは又従兄妹であった。
6 ヒッタイトとアルザワとの戦い
BC1338年、アルザワ王タルフンタラドゥが死んで、彼の兄弟アンザパハドゥが跡を継いだ。アンザパハドゥの跡は、タルフンタラドゥの子マスクイルワが継いだ。[115]
6.1 ペロプスの父タンタロス
6.1.1 タンタロスの居住地
タンタロスの領地は、BC334年にアレクサンドロス大王がペルシア軍を破ったグラニコス川が流れるベレキュンテスの地(後のアドラスティア平原)であった。[116]
タンタロスの父クリュメノスは、クレタ島のキュドニア出身であり、そのすぐ東のアプテラの町はベレキュントス地方にあった。タンタロスは、ベレキュンテスの首領であったと思われる。[117]
6.1.2 タンタロスとケペオスとの関係
タンタロスの領地の東側には、ベロスの子ケペオスが支配するエチオピア人が住んでいた。
BC1342年、アルゴスの町から亡命して来たダナエの子ペルセウスは、ケペオスの娘アンドロメダと結婚した。[118]
後に、ペルセウスの3人の息子たちは、タンタロスの子ペロプスの娘たちと結婚した。[119]
つまり、タンタロスとケペオスは、領地が隣同士であったと共に、ペルセウスを通じても親しい関係にあった。ペルセウスは、BC1332年にペロポネソスへ帰還した。
6.1.3 タンタロスとトロイとの関係
BC1341年、タンタロスは、トロスの娘エウリュテミステと結婚した。[120]
BC2世紀の弁論家ディオ・クリュソストンによれば、アトレウスの後裔は、ペロプスを通じて、トロイ王家と繋がりがあった。[121]
つまり、ペロプスの母は、トロイ王家の娘であった。
エウリュピデスの『オレステス』の古註によれば、ペロプスの母エウリュテミステの父は、クサントスであった。[122]
クサントスは、イリオンの町の近くを流れるスカマンドロス川の古い名前であり、河神と推定される。[123]
その河神は、タンタロス時代のトロイ王トロスであり、ペロプスの母エウリュテミステはトロスの娘であったと思われる。
6.2 イロスの王位簒奪
タンタロスとトロスの娘エウリュテミステとの結婚は、ダルダノスの町からキュジコス近くまでの間に住んでいた人々を団結させた。[124]
古くからトロアス地方に住んでいたウィルサの王は、危機感を抱いて、娘の一人をトロスの子イロスに娘を嫁がせた。[125]
BC1330年、イロスは、妻の父が死ぬと、ウィルサの王位を簒奪した。[126]
娘婿が王位を継承することは、ヒッタイト王の系譜にもあり、ヒッタイトはイロスをウィルサ王として承認した。
ヒッタイトは、ウィルサが小競り合いを続けていた周辺の町を抑え込んで、強力な属国になったと認識した。
トロイ王国は、ヒッタイトへの朝貢の義務を負ったものの、ヒッタイトと同盟関係になった。[127]
ウィルサ王の息子たちは、イロスに殺され、彼らの一族は、イリオンの町から追放され、ダルダノスの町から多くの住人がイリオンの町へ移住した。
ダルダノスの町は、トロスの死後、彼の息子アッサラコス (または、アサラコス)が継承した。[128]
6.3 ウィルサ (トロイ)の東方への領土拡張
イロスは、ヒッタイトの強力な後ろ盾を得て、東方へ領土を拡張した。
BC1325年、イロスは、イダ山北側に住んでいたタンタロスを追放した。[129]
BC1300年、イロスは、アイセポス川河口近くに住んでいたエチオピア人を攻撃して、エチオピアをトロイの支配下に置いた。[130]
その後、イロスは、さらに東方のミュシア・オリュンペネ地方に進出し、ベブリュケスのビュゾスと戦って、勢力を拡大した。[131]
6.4 ベレキュンテスの地からリュディアへの移住
タンタロスは、イロスの兄弟ガニュメデスを死なせたために、イロスによって居住地を追われたと伝えられている。[132]
恐らく、ガニュメデスは、タンタロスとの戦いで死んだと思われる。
タンタロスは、プリュギア地方のペッシヌスの町に逃れたが、イロスによって、その町からも追われた。[133]
タンタロスは、イロスに追われてリュディア地方のシピュロス山へ移住した。[134]
6.5 アルザワ王タンタロス (ウハジティ)
タンタロスが移住した地方は、アルザワの支配地域であった。
当時、アルザワ王は、アンザパハドゥの跡を継いだタルフンタラドゥの子マスクイルワであった。[135]
タンタロスは、シピュロス山一帯の鉱床から金を採掘して莫大な富を蓄積した。[136]
タンタロスのリュディア地方への移住には、イダ山周辺に住んでいたイダ山のダクテュロスも参加していたと推定される。
BC1322年、タンタロスは財力と、マネスの後裔を指導者とするマイオニア人の支持を得て、マスクイルワを追放して、アルザワ王になった。[137]
マネスとタンタロスは、アルゴスの町のイナコスの子ポロネオスを共通の先祖としていた。
タンタロスは、ヒッタイト文書に登場するウハジティであると推定される。
6.6 ヒッタイトとの戦い
アルザワから追放されたマスクイルワは、ヒッタイト王シュッピルリマ1世のもとへ亡命し、彼の娘ムワッティと結婚した。[138]
シュッピルリマ1世と、彼の跡を継いだアルヌワンダ2世は、疫病で死んだ。[139]
ヒッタイトは、すぐには、アルザワに対して軍事行動を起こすことができなかった。
アルヌワンダ2世の跡を継いだムルシリ2世は、治世3年目にアルザワと戦うことになった。[140]
戦いの端緒は、アッタリンマ、フワルサナッサ、スルダの人々がアルザワへ逃げ込み、ムルシリ2世がタンタロス (ウハジティ)に対して、彼らの引き渡しを要求したことであった。[141]
タンタロスは彼らの引き渡しを拒否したため、ムルシリ2世は、タンタロスが拠点としていたアパサス (エペソス)へ向けて進軍した。タンタロスは、彼の息子ブロテアス (ピヤマクルンタ)にヒッタイト軍を迎撃させるが、ブロテアスは敗れた。[142]
その後、ヒッタイト軍がアパサスに着く前に、タンタロスは病気になって近くの島へ逃れた。[143]
BC1318年、タンタロスは、病気が悪化して死んだ。[144]
タンタロスの子ペロプス (タパラズナウリ)は、島から本土へ渡って、ムルシリ2世の軍と戦ったが、敗れて包囲された。ペロプスは、包囲から無事に脱出したが、彼の妻と息子たちは捕虜になった。[145]
ブロテアス (ピヤマクルンタ)は、島から本土へ渡って、ムルシリ2世と交渉するが、ハットゥーシャへ送られた。[146]
ブロテアスが製作した神々の母の神像がリュディア地方のシピュロス山の近くの岩の上にあった。[147]
また、ブロテアスには、息子タンタロスがいたかもしれない。アルゴスの町にタンタロスの遺骨が納められた容器があったと伝えられている。[148]
6.7 ペロプスのギリシアへの移住
BC1315年、ペロプスは小アジアからペロポネソスへ渡った。その時、ペロプスは彼の息子クリュシッポスと一緒であった。[149]
ペロプスは、ムルシリ2世との戦いの後で、失地回復を狙って、3年ほど小アジアにいたが、その望みを断念して、ペロポネソスへ渡ったと推定される。
イダ山南東のテーベの町の近くには、ペロプスの御者キッロスの大きな墓があった。キッロスは、その地方の支配者であった。[150]
ペロプスの行動範囲は、その地方にまで、及んでいたと思われる。
6.8 テュッレノスのイタリアへの移住
タンタロスと共にヒッタイトと戦ったマイオニア人は、リュディア地方から追放された。
BC1318年、アルザワがヒッタイトに征服されてから、アテュスの子テュッレノスに率いられたマイオニア人がイタリア半島に現れたのは、18年後であった。その間、マイオニア人は、レムノス島に住んでいたと推定される。
レムノス島とイタリア半島を結び付けるものに、つぎのものがある。
1) テュレニア海の島(後のエルバ島)が、レムノス島の古い名前と同じアイタリアと呼ばれていた。[151]
2) プリニウスが記述している古代の4つの迷宮のうち、エジプト とクレタ島以外に、レムノス島とイタリア半島のエトルリアに迷宮があった。[152]
3) レムノス島は、テュレニア島とも呼ばれていた。[153]
BC1300年、マイオニア人は、レムノス島からイタリア半島へ移住して、テュレニア人と名前を変えた。[154]
6.9 ミレトスの陥落
ミレトスの町は、アナックスの跡を継いだ彼の息子クレオクスが治めていた。[155]
ウハジティ (タンタロス)は、ミラワンダ (ミレトス)のアヒヤワ王と同盟を結んだ。[156]
そのアヒヤワ王とは、アナックスの子クレオクスであったと思われる。
BC1318年、ミレトスの町は、ヒッタイト軍に占領され、牛や羊と共に住人は、ハットゥーシャへ連行された。[157]
アナックスの子アステリオスは、ミレトスの町の前に浮かぶラデ島近くの島へ逃れて死に、島に埋葬された。[158]
クレオクスはウハジティと合流して、ヒッタイト軍と戦ったが、捕虜になって、ハットゥーシャへ送られた。[159]
クレオクスの遺骨は、後に、ミレトスの町の近くのディデュマイオンに埋葬された。[160]
クレオクスの娘アリアは、息子ミレトスを連れて、クレタ島へ逃れた。[161]
また、クレオクスと共にヒッタイト軍と戦った、ポレモンの子ナクソスは、デロス島近くのディア (後のナクソス)島へ移住した。ナクソスは、ミレトスの町の近くのラトミアに住んでいた。[161-1]
6.10 アリアの夫
次のことから、クレオクスの娘アリアの夫であり、ミレトスの父は、アナックスの子アステリオスだと推定される。
1) アリアの子ミレトスは、ミレトスの町の創建者であった。[161-2]
2) ミレトスの町の創建者ミレトスは、マイアンドロス河神の娘キュアネと結婚して、娘ビュブリスと息子カウノスが生まれた。[161-3]
3) ミレトスは、ケライネオスの娘トラガシアと結婚して、娘ビュブリスと息子カウノスが生まれた。[161-4]
4) ミレトスは、エウリュトスの娘エイドティと結婚して、娘ビュブリスと息子カウノスが生まれた。[161-5]
5) ミレトスは、アステリオスの息子であり、ミレトスには、娘ビュブリスと息子カウノスがいた。
[161-6]
6) ミレトスの町に住むミレトスには、娘ビュブリスと息子カウノスがいた。[161-7]
7 ウィルサ (トロイ)の王位継承争い
7.1 戦いの経過
BC1296年、イロスが死に、彼の息子ラオメドンが王位を継承した。[162]
ラオメドンの母は、ウィルサ王の娘であったと推定される。[162-1]
その後、ラオメドンは、彼の兄弟と思われるパイノダマス (または、ヒッポテス)によって、イリオンの町から追放された。[163]
ラオメドンは、ヒッタイト軍やヒッタイトの属国の軍を味方にして、イリオンの町を攻めた。[164]
戦いに敗れたパイノダマスは、彼の息子たちと共に殺された。[165]
パイノダマスの3人の娘たちは、シシリー島へ逃れた。[166]
シシリー島で、パイノダマスの娘エゲスタに息子アイゲストス (または、アケステス)が生まれた。[167]
7.2 パイノダマスの支援者
イロスがウィルサの王位を簒奪して、ダルダノスの町からイリオンの町へ移った後で、ダルダノスの町はトロスの子アッサラコスが継承した。[168]
イロスの子ラオメドンの子プリアモスには、47人の息子たちがいた。[169]
プリアモスと同世代のアンテノールには、19人の息子たちがいた。[170]
しかし、イロスの息子は、ラオメドンのみ、アッサラコスの息子は、カピュスのみしか伝承には登場しない。[171]
イロスの後継者争いに、アッサラコスの息子たちがパイノダマスを支援して、激しい戦いがあり、イロスやアッサラコスの多くの息子たちは死んだのではないかと思われる。
7.3 ピヤマラドゥの参戦
イロスの後継者争いには、ピヤマラドゥもイロスの子ラオメドンの敵として参加した。[172]
ヒッタイト軍に敗れたピヤマラドゥは、ラズパ(レスボス島)へ渡った。[173]
当時、島にはセハ川の地のマナパ・タルフンタの部下がいたが、ピヤマラドゥの軍に合流した。[174]
セハ川の地は、ヘルモス川流域の地域であり、ペラスゴイ人の大部族が住んでいた。[175]
ピヤマラドゥのギリシア名や系譜については、「ヒッタイト文書に記された古代ギリシア人」で記述する。
8 BC13世紀前半のアナトリア
BC1295年、ヒッタイト王ムルシリ2世が死に、ムワタリ2世が即位した。ムワタリ2世が即位して間もなくヒッタイトは、首都を移転させる混乱期にあった。[176]
8.1 クレタからミレトスへの移住
BC1294年、クレオクスの娘アリアの子ミレトスは、クレタ島からアナクトリアへ移住して、ミレトスの町を再建した。[177]
ヒッタイト軍に攻められて陥落したミラワンダ (ミレトス)にはカリア人が住んでいたが、ミレトスは、カリア人と共住した。[178]
アリアの子ミレトスは、ヒッタイト文書に登場するミラワンダのアトパと推定される。
アトパは、ピヤマラドゥの娘と結婚した。[179]
8.2 クレタからリュキアへの移住
ミレトスの町の再建には、リュカストスの子サルペドンも協力した。[180]
BC1289年、サルペドンは、ミレトスの町からリュキア地方へ移住した。[181]
その地方は、ソリュモイと呼ばれていたが、サルペドンに従ってクレタ島から移住して来た人々に因んでテルミライと呼ばれるようになった。[182]
後に、ソリュモイは、ベレロポンテス (または、ベレロポン, ヒッポノス)や彼の息子ペイサンドロス (または、イサンドロス)によって、高地へ追い払われた。[183]
8.3 アテナイからリュキアへの移住
BC1277年、パンディオンの子リュコスは、彼の義兄弟アイゲウスに追われて、アテナイの町からリュキア地方のサルペドンのもとへ移住した。[184]
リュコスが住む地方はテルミライと呼ばれていたが、彼の名前に因んでリュキアと呼ばれるようになった。[185]
8.4 ミニュアス人の遠征
系図を作成すると、テッサリア地方に住んでいたアイソンの子イアソンと、黒海の東岸のコルキス地方に住んでいたアイイテスの娘メディアとの結婚は、BC1268年と推定される。[186]
BC1268年、イアソンは、ミニュアス人と共にコルキス地方へ航海して、メディアと結婚した。
ミニュアス人は、ボイオティア地方のオルコメノスの町から移住して、イオルコスの町に住んでいた。[187]
ミニュアス人がコルキス地方への航路を知っていたのは、次の出来事があったからであった。
シシュッポスの子アイイテスは、エピュライア (後のコリントス)の町からコルキス地方へ移住した。[188]
アイイテスの孫プレスボンは、コルキス地方からボイオティア地方へ移住した。[189]
プレスボンの子クリュメノスは、ミニュアス人の王となって、アクライピオンの町からオルコメノスの町に移住した。[190]
8.4.1 遠征への参加者
イアソンの航海には、次の人たちが参加したと思われる。
1) トリッカの町のデイマコスの子アウトリュコス
2) ピュラケの町に住むイピクロスの子プロテシラオス
3) マグネシア地方に住んでいたポイアスの子ピロクテテス
8.4.2 黒海沿岸との交易の活発化
BC1268年のイアソンの航海の後で、ヘレスポントを利用する黒海沿岸との交易が活発になった。
BC1260年、デイマコスの子アウトリュコスが黒海南岸のシノペの町へ移住すると、黒海沿岸とテッサリア地方との交易は、さらに活発になった。[191]
8.5 ウィルサの独立
BC1265年、ヒッタイトのムルシリ3世は、彼の叔父ハットーシリ3世と戦って敗れた。[192]
この戦いを機に、それまでヒッタイトの属国であったウィルサ (トロイ)は独立した。[193]
トロイのラオメドンは、ヒッタイトに対抗するために、彼の娘ヘシオネをミラワンダ (ミレトス)のミレトスの子エルギヌスへ嫁がせた。[194]
8.6 キュジコスの創建
BC1260年、アイネオスの子キュジコスは、プロポンティス海のヘッロン島にキュジコスの町を創建した。[195]
キュジコスの町の住人は、アイオリス人に追われてテッサリア地方から移住して来たペラスゴイ人であった。[196]
アイネオスの子キュジコスは、リュンダコス川周辺の支配者メロプスの娘クレイテと結婚して、さらに勢力を拡大した。[197]
クレイテの姉妹アリスベは、ラオメドンの子プリアモスの妻であった。[198]
メロプスは、アドラスティア平野の名付け親アドラストスの孫と思われる。[199]
8.7 テッサリアからシノペへの移住
BC1260年、テッサリア地方のトリッカの町のデイマコスの子アウトリュコスは、黒海南岸のシノペの町へ移住した。[200]
アウトリュコスは、BC1268年にイアソンの遠征に参加した後で、アウトリュコス自身がトリッカの町の住人を率いて、移住したものであった。[201]
アウトリュコスは、トリッカの町の創建者、ペネイオスの娘トリッカの子孫で、トリッカの町の最初の住人は、ドーリス人であった。[202]
アウトリュコスは、トリッカの町の近くのオイカリアの町から勢力を伸ばしたラピタイのエラトス (または、エイラトス)の子イスキュスによって追い出されたと推定される。[203]
9 BC13世紀後半のアナトリア
BC1265年にハットーシリ3世がヒッタイト王に即位するまで、内紛によって、ヒッタイト国内は混乱していた。BC1259年、エジプトのラムセス2世と平和条約を締結した後、ヒッタイトの統治は安定した。[204]
9.1 ルッカ (リュキア)の反乱
9.1.1 エレイアからリュキアへの移住
BC1250年、エレイア地方南部のレプレウスの町に住んでいたカウコネスは、その町の支配者レプレウスの横暴に耐え切れずにリュキア地方へ移住した。[205]
恐らく、カウコネスの移住を契機に、リュキア地方でギリシア人と先住民(恐らく、ソリュモイ, カリア人)との戦いが起きたと思われる。
ヒッタイトに対して反抗活動をしていたピヤマラドゥは、ギリシア人を支援した。
ピヤマラドゥに追い出された人々は、タワガラワのもとへ逃げ込んだ。[206]
9.1.2 タワガラワの居住地
タワガラワのギリシア名は、ミレトスの子カウノスと推定される。
BC1260年、カウノスは、ミレトスの町から東南東へ移住して、リュキア地方との境近くのカリア地方にカウノスの町を創建した。[207]
カウノスの町が建設された地方は、カウノスの先祖アクモン (イダ山のヘラクレス)が、クレタ島から移住して、カリア人と共住した地方であった。
カウノスの異母兄弟エルギヌスは、ミレトスの町を治めていた。
当時、ミラワンダ (ミレトス)は、ヒッタイトの属国であり、カウノスもまたヒッタイト側の人間であった。
9.1.3 ヘラクレスの支援
ヘラクレスがリュディア地方のオンパレの下で3年間奉仕したという伝承がある。[208]
ヘラクレスがリュディア地方にいたのは、BC1248年からBC1246年までであった。
この間、ヘラクレスは、ピヤマラドゥと共に行動していたのではないかと推定される。
ピヤマラドゥ (ケライネオス)の妹アルクメナは、ヘラクレスの母であり、ケライネオスは、ヘラクレスの伯父であった。
9.2 アマゾン族のプリュギア侵入
BC1250年、ラオメドンの子プリアモスは、アマゾン族に攻められた彼の母レウキッペの祖国プリュギア地方へ援軍として駆け付けた。[209]
9.3 キュジコス事件
BC1248年、ミニュアス人の船がキュジコスの町に逗留した。
キュジコスの町の支配者アイネオスの子キュジコスは、彼らが先祖を追い出したテッサリア地方の住人だと知って闇討ちしたが、逆襲されて、キュジコスは戦死した。[210]
キュジコスは、BC1390年にテッサリア地方から追い出されたペラスゴイ人が名前を変えたドリオネスに属していた。[211]
この事件は、アルゴ船の遠征物語の時代設定と同じ頃であり、物語は、この事件と、その20年前のイアソンとミニュアス人の遠征を題材にして書かれたと推定される。
キュジコスの妻クレイテは、トロイのプリアモスの妻アリスベの姉妹であり、キュジコスはプリアモスの義兄弟であった。[212]
系図を作成するとキュジコスの死亡は、この頃であり、この事件は、史実と思われる。
9.4 第1回トロイ戦争 (1244 BC)
トロイが戦場となった戦いは、数多くあったと思われるが、アカイア人が参加した戦いは、少なくとも、3回あった。
BC1244年、イロスの子ラオメドンが死に、彼の息子プリアモス (または、ポダルケス)がウィルサ (トロイ)を継承した。[213]
カピュスの子アンキセスとアンテノールの父アイシュエテスは、プリアモスを追放して、ウィルサの王位を簒奪した。[214]
プリアモスは、ミレトスの町へ嫁いだ彼の姉妹ヘシオネを頼ってミレトスの町へ亡命した。[215]
プリアモスは、ヒッタイトやヒッタイトの属国の軍の支援を受けて、イリオンの町を奪還した。
BC1265年のヒッタイトの内紛を契機に、ウィルサは独立していたが、プリアモスはヒッタイトの援助を受けたことで再びヒッタイトの属国になった。[216]
9.4.1 ヘレスポントの支配者
トロスの子イロスが、ウィルサの王位を簒奪して、ダルダノスの町からイリオンの町へ移った後、ダルダノスの町は、カピュスの父アッサラコス (または、アサラコス)が継承した。[217]
また、アンテノールの父アイシュエテスもダルダニア地方に住んでいた。[218]
当時、ヘレスポントに面したダルダニア地方には、カピュスの子アンキセスとアンテノールの父アイシュエテスが住んでいた。
つまり、BC1244年より前、ヘレスポントを支配していたのは、アンキセスとアイシュエテスであった。
9.4.2 アカイア人の参加
アンキセスとアイシュエテスは、ヘレスポントを利用して、黒海沿岸の町と交易を行っていたテッサリア地方の次の人たちと親交があったと推定される。
1) ピュラケの町のイピクロスの子プロテシラオス。
プロテシラオスの妻は、黒海への航路を知っているミニュアス人が住むイオルコスの町のアカストスの娘ラオダミアであった。[219]
また、イピクロスの母クリュメネは、ミニュアス人の王ミニュアスの娘であり、ピュラケの町にもクリュメネと共に移住したミニュアス人が住んでいた。[220]
さらに、ピュラケの町の近くに住んでいたエリュシクトン (または、アイトン)の娘メストラは、トリッカの町のデイマコスの子アウトリュコスの妻になり、黒海南岸のシノペの町へ移住した。[221]
アウトリュコスの移住の後で、テッサリア地方と黒海沿岸の交易が盛んになり、プロテシラオスも交易を行っていたと推定される。
2) マグネシア地方のポイアスの子ピロクテテス。
ピロクテテスは、テッサリア地方北部のペネイオス川の河口近くのメリボイアの町に住んでいた。[222]
アンキセスとアイシュエテスは、プロテシラオスとピロクテテスからの協力を得た。
9.4.3 ヘラクレスの関与
ヘラクレスのトロイ遠征を多くの史料が伝えている。[223]
ヘラクレスがリュディア地方のオンパレのもとからテュリンスの町へ帰り、エリス攻めをする前に、ヘラクレスがイリオンの町を攻略したという伝承である。[224]
つまり、BC1246年からBC1243年の間であった。
プリアモスの王位継承争いがあった頃と時期的には一致する。
ラオメドンの父イロスが支配下に置いたエチオピアは、ペルセウスの妻アンドロメダの出身地であり、ペルセウスの子ペルセスが住んでいた。[225]
ペルセスは、ヘラクレスの父アンピュトリオンの父アルカイオスの兄弟であった。[226]
ヘラクレスが、プロテシラオスやピロクテテスと共に遠征に参加した可能性はある。
9.4.4 ミュグドンの関与
ミュシア・オリュンペネ地方に住んでいたミュグドンは、アンテノールに味方して居住地を追われて、パイオニア地方へ移住した。[227]
ミュグドンは、アンテノールの妻テアノの父キッセウスの父であったと推定される。[228]
ミュグドンの移住には、イダ山に住んでいたイダ山のダクテュロスも参加して、ミュグドンと共にパイオニア地方に定住した。[229]
彼らは、後に、マケドニア地方のベルミオス山周辺でミダスの富を掘り出す技術者となった。[230]
後に、ミュグドンの後裔は、トロイへ援軍として駆け付けているが、アンテノールの息子たちに味方するためであった。[231]
9.4.5 戦いの後
BC1244年、プリアモスは、イリオンの町を奪還した後で、アッサラコスの後裔たちを追い出して、ダルダノスの町を破壊した。これによって、イリオンの町を中心としたウィルサと、ダルダノスの町を中心としたトロイが同じ町を指すようになった。その町を、ヒッタイトは、ウィルサと呼び、ギリシア人は、トロイと呼んだ。
9.5 アルゴス地方からリュキアへの移住
BC1241年、グラウコスの子ベレロポンテスは、アルゴス地方のイストモスの町からリュキア地方のクサントスの町へ移住して、イオバテスの娘ピロノエと結婚した。[232]
イオバテスは、パンディオンの子リュコスの息子で、クサントスの町の近くに住んでいたソリュモイに対抗するためにベレロポンテスを呼び寄せたと思われる。
ベレロポンテスの母エウリュノメの父ニソスは、イオバテスの父リュコスの兄弟であった。
つまり、ベレロポンテスは、ピロノエの又従兄であった。
9.6 リュキアからトロアスへの移住
BC1238年、ベレロポンテスは、トロアス地方へ侵入したアマゾン族と戦うために遠征した。[233]
恐らく、リュキア地方のベレロポンテスが住む町もヒッタイトの支配下に入り、ウィルサ (トロイ)への応援のために派遣されたものと思われる。この結果、リュキア人の一部は、アイセポス川近くのゼレイアの町周辺に定住して、トロアス地方にもリュキアが誕生した。[234]
9.7 リュキアからパプラゴニアへの移住
ベレロポンテスの遠征には、エレイア地方からリュキア地方へ移住したカウコネスも含まれていた。カウコネスは、パプラゴニア地方のパルテニオス川の河口近くに定住した。[235]
カウコネスの定住地の近くには、100年前にプリクソスの子キュティッソロスによって創建されたキュトロスの町があった。[236]
エレイア地方からリュキア地方へ移住したカウコネスは、ヒッタイトとの戦いに巻き込まれて、ヒッタイトの属国の民となった。[237]
カウコネスがトロイ戦争でトロイの援軍として駆け付けたと物語られているのは、トロイと同じくヒッタイトの属国であったからと思われる。
10 ヒッタイトの衰退期のアナトリア
BC1237年、ヒッタイト王トゥドハリヤ4世は、アッシリア王シャルマネセル1世と戦って敗れた。[238]
この戦いの後で、小アジアへのヒッタイトの影響力は少なくなり、ギリシア人の小アジアへの入植が始まった。
10.1 アルカディアからミュシア・ペルガメネ地方への移住
BC1230年、テレパスは、母アウゲと共にアルカディア地方からミュシア・ペルガメネ地方へ移住した。 [239]
テレパスは、テゲアの町のすぐ東側のパルテニオス山付近に住んでいた。[240]
テレパスの父は、スコイネオスの子クリュメノスで、アウゲはクリュメノスの横暴に耐えられず、息子テレパスに連れられてミュシア地方へ移住した。[241]
テレパスの移住には、テレパスの父クリュメノスの姉妹アタランタの子パルテノパイウスも同行した。[242]
パルテノパイウスは、アドラストスのテバイ攻め前に帰国していて遠征に参加して戦死した。[243]
ミュシア・ペルガメネ地方は、ヒッタイトの属国セハ川の地の領土であったが、最早ヒッタイトの支配は及んでいなかったと思われる。
10.2 ペパレトスからの入植
BC1230年、ミノスの娘アリアドネの子スタピュロスは、エウボイア島の北に浮かぶペパレトス島からカリア地方のビュバストス (または、ブバソス)の町へ移住した。[243-1]
トロイ戦争の後で、アスクレピオスの子ポダリロスが結婚したシュルナの父ダマイトスは、スタピュロスの息子で、父の跡を継いでビュバストスの町を治めていた。[243-2]
10.3 エリュトライの創建
BC1230年、ラダマンティスの子エリュトラスは、キオス島の対岸へ移住してエリュトライの町を創建した。[243-3]
伝承では、エリュトラスは、クレタ島から移住したことになっているが、キオス島から移住したと思われる。[243-4]
10.4 ミュシア・ペルガメネ地方からテバイ攻めに参加
BC1205年、ミュシア地方で生まれたパルテノパイウスの子トレシメネスは、ミュシア地方からエピゴノイのテバイ攻めに参加した。[244]
BC1196年、トレシメネスは、エピゴノイのテバイ攻めで一緒に戦ったポリュネイケスの子テルサンドロスから依頼を受けて、彼をミュシア地方へ案内した。テルサンドロスは、ティレシアスの娘マントを含むエピゴノイの捕虜たちを、小アジアへ移住させようとしていた。[245]
これを基にして、トロイ遠征軍が誤ってミュシア地方に上陸しようとして、テルサンドロスがテレパスに殺されたという作り話が生まれた。[246]
10.5 クレタからエペソス近くへの移住
BC1200年、レベスの子ラキオスは、クレタ島からエペソスの町近くへ移住して、コロポンの町を創建した。[247]
ラキオスは、ティレシアスの娘マントからエピゴノイに攻められてテバイの町が陥落した話を聞いて涙を流した。レベスは、ミュケナイの町の出身であり、ステネロスの子イピトスの息子と推定される。[248]
イピトスの姉妹アステュメドウサは、テバイの町のオイディプスに嫁いでいた。[249]
10.6 ボイオティアからコロポンへの移住
BC1196年、ティレシアスの娘マントを含むエピゴノイの捕虜たちは、小アジアへ移住し、コロポンの町のクレタ人に受け入れられて共住した。[250]
マントはラキオスと結婚して、テストールの子カルカスを凌ぐ予言者となる息子モプソスが生まれた。[251]
マントは、コロポンの町近くの海辺の町クラロスに、アポロンの神託所を開設し、彼女の息子モプソスが継承した。[252]
10.7 第2回トロイ戦争 (1188 - 1186 BC)
伝承では、アガメムノン率いるアカイア人はトロイを占領して、ネオプトレモスはプリアモスの子ヘレノスやヘクトールの息子たちを連れて、モロッソス人の地へ移住したことになっている。[253]
しかし、次のことから、アカイア人はトロイを占領できなかったと思われる。
1) AD5世紀の神学者ヒエロニムスは、「アンテノールの子供たちが追放された後、ヘクトールの息子たちはイリオンの町を奪還し、ヘレノスが彼らを援助した。」と伝えている。[254]
2) クレタ島のディクテュスは、直接、トロイ戦争を体験した自身の記録の第5巻の最後に、最終的にイリオンの町を掌握したのは、アンテノールであったと記している。[255]
3) ヘロドトスは、ペルシアによるギリシア侵攻に匹敵する悲惨な出来事が、ダレイオスより20世代前にあったと伝えている。[256]
ヘロドトスは、3世代を100年で計算しているので、667年前の出来事になる。[257]
ダレイオスが即位したBC522年を基準にすると、BC1189年頃に、その悲惨な出来事があったことになる。
10.7.1 戦いの構図と結果
イリオンの町には、ラオメドンの子プリアモスや彼の息子たちが住んでいた。
BC1244年の王位継承争いの時、ダルダニア地方を支配していたアンキセスとアイシュエテスは、プリアモスに敗れ、ダルダノスの町は破却された。ホメロスの作品にダルダノスの町の名前は登場しない。その後、ヘレスポントは、プリアモスの支配下になっていた。
BC1188年、イリオンの町は、アンテノールの息子たちによって占領された。
イリオンの町を追い出されたプリアモスの息子たちは、ヘレスポントを利用して黒海沿岸と交易していたアカイア人を味方に付けて、イリオンの町を奪還しようとしたが、敗れた。
プリアモスの子ヘクトールは死に、彼の妻と息子たちは、彼の兄弟ヘレノスやアキレスの子ネオプトレモスに連れられて、モロッソス人の地へ落ち延びた。[258]
アカイア人が戦った相手は、プリアモスの息子たちではなく、アンテノールの息子たちであった。
10.7.2 ヒッタイトの関与
イリオンの町を追い出されたプリアモスの息子たちは、彼らの父プリアモスの時とは異なり、ヒッタイトには援助を求めなかったと思われる。
当時、ヒッタイトは、最後の王シュッピルリマ2世の治世であった。
10.7.3 アカイア人の放浪
BC1186年、テスプロティア人が侵入して、テッサリア地方が占拠された。[259]
トロイでの戦いに敗れ、帰る土地を失ったアカイア人は、各地へ四散した。
アナトリア半島の各地に定住したアカイア人は、次の通りである。
1) ビテュニアへの定住
アルカディア地方のマンティネイア人は、ビテュニア地方のビテュニオンの町付近に定住した。[260]
ビテュニオンの町は、ローマ皇帝ハドリアヌスの寵臣アンティノオスの出身地であった。ハドリアヌスは、アンティノオスの先祖の地であるアルカディア地方のマンティネイアの町に、アンティノオスの神殿を創建した。[261]
2) エライアへの定住
アテナイ人の一部は、レスボス島対岸のカイコス川近くのエライアの町に定住した。[262]
3) コロポンへの定住
テッサリア地方のギュルトンの町のペイリトウスの子ポリュポイテスや、アルギサの町のコロノスの子レオンテオスは、コロポンの町に定住した。[263]
4) リュディアへの定住
テッサリア地方のマグネシア人は、最初、デルポイの町に定住した。BC1173年、マグネシア人はデルポイ人と共にリュディア地方に移住して、マグネシアの町を創建した。[264]
5) カリアへの定住
アスクレピオスの子ポダリロスは、カリア地方へ移住して、ビュバストスの町の近くに、シュルノスの町を創建した。[265]
6) パンピュリアへの定住
テストールの子カルカスは、パンピュリア地方へ移住して、セルゲの町を創建した。[266]
マントの子モプソスの娘パンピリアは、コロポンの町からセルゲの町へ嫁いだと推定される。彼女は、パンピュリアの名付け親になった。[267]
後に、セルゲの町の住人は、アレクサンドロス大王の信頼される同盟者となった。[268]
10.8 コロポンから平地キリキアへの移住
BC1175年、マントの子モプソスは、異父兄弟アンピロコスと共に、コロポンの町から平地キリキア地方へ移住して、マッロスの町を創建した。[269]
BC333年、イッソスの戦いの直前、アレクサンドロス大王は、マッロスの町に立ち寄り、800年以上前にその地で死んだアンピロコスに英雄としての供儀を捧げた。[270]
しかし、マッロスの町の創建者アンピロコスは、アルゴスの町のアンピアラオスの息子ではなく、アンピアラオスの子アルクマイオンとマントとの間の息子であった。そのアンピロコスは、アルゴスの町に無縁であった。
10.9 第3回トロイ戦争 (1170 BC)
BC1170年、アンテノールの息子たちによって占領されたイリオンの町を奪還するための戦いがあったと推定される。その根拠は、次の史料の記述である。
1) AD5世紀の神学者ヒエロニムスは、「アンテノールの子供たちが追放された後、ヘクトールの息子たちはイリオンの町を奪還し、ヘレノスが彼らを援助した。」と記している。[271]
2) AD12世紀のイギリスの聖職者ジェフリー・オブ・モンマスは、「アンテノールの子孫が追放された後、ヘクトールの息子たちがトロイを統治した。」と記している。[272]
10.9.1 ヘクトールの息子たち
BC1188年にイリオンの町は、アンテノールの息子たちによって占領され、プリアモスの息子や孫たちは、イリオンの町を奪還できずに、各地へ移住した。[273]
ヘクトールの息子たちは、ネオプトレモスやヘレノスに連れられて、モロッソス人の地へ移住した。[274]
BC1175年、ネオプトレモスはデルポイを略奪して、ダイタスの子マカイレウス率いるデルポイ人との戦いで戦死した。[275]
ヘクトールの息子たちの母アンドロマケは、ネオプトレモスと結婚していたが、ヘレノスと再婚した。[276]
ヘクトールには、少なくとも3人の息子たちがいた。
つまり、スカマンドリウス (または、アステュアナクス)、ラオダマス、サペルネイオスであった。[277]
系図を作成するとヘクトールとアンドロマケの年齢差が大きい。ヘクトールには、アンドロマケと結婚する前に、別な妻との間に多くの息子たちがいたと推定される。
10.9.2 戦いの構図と結果
BC1188年、イリオンの町は、アンテノールの息子たちによって占領された。
プリアモスの息子たちは、アカイア人の応援を得て、イリオンの町を奪還しようとするが、戦いに敗れて各地へ四散した。
BC1170年、ヘクトールの息子たちが成人すると、プリアモスの子ヘレノスは彼らに軍勢を与えて、イリオンの町を攻撃させた。その軍勢の中核は、アキレスやネオプトレモスの指揮下にあったミュルミドン族であった。しかし、軍勢の多くの者は、テッサリア地方からロクリス地方へ逃れてネオプトレモスと共にモロッソス人の地へ移住したアカイア人であった。
ヘクトールの息子たちは、各地からプリアモスの後裔を集めて戦力に加えて、アンテノールの息子たちが占拠していたイリオンの町を奪還した。[278]
11 ヒッタイト滅亡後のアナトリア
BC1180年頃、ヒッタイトは、滅亡した。
BC1170年、アガメムノンの子オレステスは、アミュクライの町のペイサンドロス率いる移民団がトロアス地方の沖合に浮かぶテネドス島に入植するのを援助した。[279]
この後、アイオリス人やイオニア人のアナトリア半島への入植活動が始まった。
彼らの入植活動についての詳細は、「小アジア植民(BC1170-1043)」に記述している。
11.1 キュプロスから山地キリキアへの移住
BC1170年、テラモンの子テウクロスの息子と思われるアイアスは、キュプロス島から山地キリキアへ移住してオルベ一帯を支配した。[280]
平地キリキア地方にソリの町を創建したピロキュプロスは、このアイアスの後裔だと思われる。[281]
11.2 エペイロスからミュシア・ペルガメネ地方への移住
BC1156年、ネオプトレモスの子ペルガモスは、母アンドロマケと共にエペイロス地方から小アジアへ移住してペルガモンの町を創建した。[282]
アンドロマケとヘクトールの間に生まれた息子スカマンドリウス (別名アステュアナクス)は、スケプシスの町に住んでいた。[283]
スケプシスの町は、ペルガモンの町から3日行程の距離にあった。アンドロマケは、スカマンドリウスと再会した可能性が高い。
11.3 アマゾン族の小アジア侵入
アマゾン族は、黒海南岸のシノペの町の東側のテルモドン河口にテミスキュラの町を創建して住んでいた。[284]
このアマゾン族の侵入は、アテナイ王デモポンの子オクシュンテスの治世中の出来事であった。[285]
アマゾン族は、小アジア各地にエペソス、スミュルナ、キュメ、ミュリネのような名前を残した。[286]
しかし、アイオリス人やイオニア人が小アジアへ植民した時、先住していたのは、アマゾン族ではなく、カリア人であった。
アマゾン族が小アジアに住んでいたのは、短期間であったと思われる。
11.3.1 エペソス創建
BC1150年、スミュルナ率いるアマゾン族がエペソスの町に攻め込み、神殿を焼き払った。[287]
アマゾン族のオトレラは、エペソスの町に古代世界の7不思議に数えられる、ディアナの神殿を建立した。[288]
多くの史料が、アマゾン族がエペソスの町を創建したと伝えている。[289]
11.4 キュジコスからトロアスへの移住
BC1115年、キュジコスの町の住人はテュレニア人に追われて、トロアス地方のアンタンドロスの町へ移住した。[290]
テュレニア人はイタリア半島の種族ではなく、テュレニア島とも呼ばれたレムノス島に住んでいたミニュアス人と思われる。[291]
BC1115年、アテナイの町を追われたペラスゴイ人は、レムノス島へ移住した。[292]
その時、レムノス島に住んでいたミニュアス人は、ラケダイモンへ移住した。[293]
ミニュアス人の一部は、昔、自分たちの先祖を襲撃したペラスゴイ人 (ドリオネス)が住むキュジコスの町へ移住して、彼らを追い出したと思われる。[294]
11.5 ハリカルナッソスとミュンドスの創建
BC1070年、アルキュオネの子アンタスの子アイティオスの後裔アンテスは、トロイゼンの町から移民団を率いてカリア地方に移住して、ハリカルナッソスの町とミュンドスの町を創建した。[295]
彼らの移住の原因は、ペロポネソスに発生した飢饉であった。[295-1]
アンテスの移民団は、アルゴスの町のテメノスの子ケイソスの子アルタイメネスが率いた移民団に含まれていた。[296]
アルタイメネスが率いたドーリス人の一部は、クニドスの町やコス島へも入植した。[297]
ハリカルナッソスは、リンドス、イアリュソス、カメイロス、クニドス、コスと共にドーリスの5市の一つになった。[297-1]
12 BC8世紀以降のアナトリア
12.1 メガラからビテュニアへの移住
BC712年、メガラの町のジポイテスが移民団を率いてビテュニア地方へ移住して、後にアスタコスという名前になる町を創建した。[298]
BC434年、その町の住人は、近隣部族の攻撃を受けて、アテナイの町へ移民団の派遣を求めた。それによって、アテナイ人が町に移住して来てから町は繁栄した。[299]
町の名前は、テバイの町のスパルトイの名前に因んで、アスタコスになった。[300]
12.2 ダスキュロスの子ギュゲス
BC680年、ギュゲスがリュディア王に即位した。[302]
ギュゲスの王権取得の経緯は、ヘロドトスが作り話を詳細に伝えている。[303]
しかし、実際は、ギュゲスの謀反であった。カリア地方のミュラサの町のアルセリスは、ギュゲスに味方して、軍勢を率いてカンダウレスを滅ぼした。[304]
12.2.1 ギュゲスの系譜
ギュゲスの前のリュディア王カンダウレスは、近くのマグネシアの町と戦っていたが、ギュゲスの支配は、遠くヘレスポントス地方にまで及んでいた。ミレトスの町は、ギュゲスの許可を得て、プロポンティスの近くに、アビュドスの町を建設した。[305]
ギュゲスが1代で、版図を北へ広げることができたのは、彼がヘレスポントス地方のダスキュリオンの町の出身であったからと思われる。
ギュゲスは、BC13世紀のオトレオスの子ダスキュロスの後裔であり、テッサリア地方からアジアへ移住したペラスゴイ人の後裔であった。[306]
ギュゲスの出身地ダスキュリオンの町周辺には、トロイ戦争後でオレステスの子ペンチロスの子アルケラオスがアカイア人を率いて植民活動をしていた。[307]
ペラスゴイ人もアカイア人もイオニア人とは、敵対関係にあり、ギュゲスの時代以降、リュディア人がイオニア地方の町を度々侵略した原因の一つであった。
12.2.2 カンダウレスの系譜
ヘロドトスは、リュディア王の系譜を記している中で、カンダウレス (または、ミュルシロス)が、ヘラクレスの子アルカイオスの子ベロスの子ニノスの子アグロンの後裔であったと伝えている。[308]
しかし、アルカイオスは、ヘラクレスの本名であり、ベロスやニノスは、アッシリア王の名前にあり、適当に作られた系譜と思われる。
ヘロドトスは、カンダウレスが自分の妻の裸体を見せたギュゲスに王権を奪われた物語を記しているが、妻の名前は記していない。[309]
ヘロドトスは妻の名前を知っていたが、彼が愛した、彼の後継者プレシッロオスが自殺する原因となった忌まわしい女性の名前と同じであったために、名前を記さなかった。カンダウレスの妻の名前は、ニュシアであった。[310]
12.3 マケドニアからミュシア・オリュンペネ地方への移住
BC670年、ブリゲス族のゴルディアスの子ミダスは、ティリムモスの子ベルディカスに追われて、マケドニア地方からプリュギア地方へ移住した。[311]
ティリムモスは、マケドニア王国の始祖カラノスの孫であった。[312]
12.3.1 ミダスの居住地
プルタルコスもアテナイオスも、ミダスは、ケライナイに住んでいたと伝えている。[313]
また、偽プルタルコスは、ミダスの領地の中にあるケライナイにマルシュアス伝説があったとも伝えている。[314]
ストラボンやヘロドトスは、このケライナイを、大プリュギアの町のように記している。[315]
しかし、つぎの理由で、このケライナイはミュシア・オリュンペネ地方にあったと推定される。
1) プルタルコスは、ケライナイに住むミダスがイダ山のゼウスの祭壇に触って金に変えたと伝えている。ミダスの居住地はイダ山近くであったと思われる。[316]
2) エウリュピデスは、マルシュアスが「イダの最果ての地方のケライナイ」に住んでいたと述べている。[317]
3) マルシュアスは、イダ山の近くで、羊飼いをしていた。[318]
4) ミダスは、ミュグドニアの王であった。[319]
ミュグドニア人は、キュジコス周辺にいた部族である。[320]
12.3.2 移住先の選定理由
ミダスは移住する前、マケドニア地方のベルミオス山近くに住んでいた。ミダスの先祖は、ミュシア・オリュンペネ地方からパイオニア地方へ移住したミュグドンと思われる。[321]
ディオドロスは、ミュグドンがイダ山のダクテュロスと共にヨーロッパへ渡ったと伝えている。[322]
ミュグドンは、ラオメドンの妻レウキッペ (または、プラキア)の父オトレオスの息子と推定される。[323]
つまり、ミダスはかつて先祖が住んでいたミュシア・オリュンペネ地方を移住先に選んだものであった。
12.3.3 ミダスとギュゲスの戦い
ミダスは、リュディア王ギュゲスに攻められて、リュディアの支配下に入った。[324]
詳細は、後述の「ギュゲスとミダスの戦い」に記述する。
12.3.4 ミダスの死
ミダスは、キンメリア人の侵入の際に、雄牛の血を飲んで死んだと伝えられている。[325]
しかし、リュディア王ギュゲスは、キンメリア人との戦いで死んでいるので、リュディアの支配下にあったミダスもキンメリア人との戦いで死んだと思われる。[326]
12.3.5 プリュギアへの移住
BC660年、ギュゲスとの戦いの後で、ミダスの子ゴルディアスはプリュギア地方のサンガリオス川上流のペッシヌスの町の近くへ移住した。ゴルディアスの子ミダスは、後にアンキュラの町を創建した。[327]
12.4 ギュゲスとミダスの戦い
BC670年、マケドニア地方からミュシア・オリュンペネ地方へ移住して来たミダスは、富の力で勢力を広げた。ミダスの居住地は、ギュゲスの出身地ダスキュリオンの町の近くであった。
BC660年、ギュゲスはミダスを攻撃して、リュディアの支配下に置いた。[328]
ヘロドトスは、ギュゲスより前に、ミダスが自分の玉座をデルポイに奉納したと伝えている。
しかし、その玉座は、ギュゲスの奉納品と同じ場所にあったとも伝えている。[329]
ギュゲスがミダスとの戦いで獲得した戦利品の一部として、ミダスの玉座をデルポイに奉納したと考えられる。
12.5 ソリの創建
BC585年、アテナイの町のソロンは、平地キリキア地方にソリの町を創建するのに貢献した。[330]
ソリの町の建設者は、ソリの町より上の方にあったアイペイアの町に住んでいたピロキュプロスであった。ピロキュプロスは、テウクロスの子アイアスの後裔と思われる。[331]
アイペイアの町は、堅固なばかりで、痩せた土地であった。アイペイアの町は、後に、アレクサンドロス大王が財貨保管場所にしたキュインダ(または、クィンダ)であったと推定される。[332]
ソリの町の建設には、ロドス島のリンドスの町からアカイア人やロドス人が参加した。[333]
ロドス島からも参加者があったのは、ソロンとギリシアの7賢人の一人クレオブロスの交友関係によるものであった。[334]
エウアゴラスの子クレオブロスは、ロドス島のリンドスの町の支配者であった。[335]
12.6 タルソスとイオポリスの創建
ソリの町の建設に参加したロドス人の中には、トレポレモスと共にロドス島へ移住したアルゴス人も含まれていた。彼らは、トリプトレモスに率いられて、ソリの町の近くにタルソスの町を創建した。[336]
トリプトレモスの子ゴルデュスに率いられたアルゴス人は、シリア地方のオロンテス川の近くに入植して、イオポリスの町を創建した。[337]
BC300年、セレウコス・ニカトールは、オロンテス河畔のアンティオキアを建設した時、イオポリスの町のアルゴス人を新市へ移住させて厚遇した。[338]
イオポリスの町のシルピオン山にはペルセウスが創建したという神殿があった。[339]
タルソスの町は、ダナエの子ペルセウスが創建したという伝承もあった。[340]
12.7 アリュアッテス (または、オデュアルテス)の子クロイソス
12.7.1 オリュンポスでの猪狩り
BC552年、リュディア王クロイソスは、ミュシア地方のオリュンポス山北側のプルサの町のプルシアスを攻めた。[341]
プルシアスは、マケドニア地方からミュシア・オリュンペネ地方へ移住して来たミダスの後裔と推定される。[342]
ゴルディアスの子アドラストスは、彼の兄弟アガトンを殺して故郷を追われ、クロイソスのもとへ逃げ込んだ。[343]
クロイソスは、アドラストスを追放した彼の兄弟プルシアスに対して、アドラストスを復帰させるという口実でプルサの町に攻め込んだ。
その戦いで、クロイソスの子アテュスは戦死した。[344]
これを題材にして、ヘロドトスは、オリュンポス山での猪狩りで、アドラストスが誤ってアテュスを殺したという物語を作った。[345]
12.7.2 クロイソスとソロンの会見
ヘロドトスは、ギリシアの7賢人の一人ソロンがクロイソスと会った逸話を記している。[346]
プルタルコスもまた、ソロンは、アテナイの町のアルコンの任期を終えた後で、BC593年から10年間の旅の途中で、クロイソスと会見したと伝えている。[347]
しかし、ヘロドトスは、クロイソスが在位14年目(546 BC)に死んだと記しており、ソロンが旅の途中で、玉座に座っているクロイソスと会見することは不可能である。[348]
おわり

