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第46章 ドリュオペス人の系譜

Create:2025.10.30, Update:2025.10.30

1 はじめに

BC1750年、Parnassus山の北を流れるCephisus川の上流で大洪水が発生した。

Ogygusに率いられたEctenesは、Cephisus川の下流へ移住して、Copais湖の南東に定住した。[1]

BC1580年、Hellenの父Deucalionの祖父に率いられたEctenesの一部は、Hyantesなどの他の部族によって圧迫されて、Boeotia地方から北へ移動した。DeucalionはThessaly地方北部を流れるPeneius川に南から流れ込むEnipeus川の源流付近に、Pyrrha (後のMelitaea)の町を創建した。[2]

Deucalionには、2人の息子たち、HellenとAmphictyonがいた。[3]

Hellenは、Phthiotis地方を治め、その地方の人々はHellenesまたはHellasと呼ばれた。[4]

Hellenには、3人の息子たち、Aeolus、Xuthus、Dorusがいた。[5]

BC1460年、Dorusは、Melitaeaの町からEnipeus川沿いに下って、Peneius川との合流地点の北側へ移住した。その地方は、Doris地方と呼ばれ、住人は、Doriansと呼ばれるようになった。[6]

BC1420年、Cadmus率いる大集団がThracia地方から南下して、Thessaly地方に侵入した。Doris地方に住んでいたDorusは、Doriansを率いて南へ移動し、Oeta山とParnassus山の間に定住した。[7]

その地方は、Doris地方と呼ばれるようになった。[8]

 

2 始祖Dryops

2.1 Peneius河神の子Dryops

Dryopians (or Dryopes)の始祖は、Peneius河神とDanausの娘Polydoreの息子Dryopsであり、Spercheius川の近くに住んでいた。[9]

Danausの娘Polydoreが結婚適齢期になった頃、Thessaly地方のPeneius川近くに住んでいたのは、Hellenの子Dorusを始祖とするDoriansであった。

Dorusには、娘Iphthimeがおり、Iphthimeには、3人の息子たち、Pherespondos、Lycos、Pronomosがいた。[10]

系図を作成すると、Iphthimeの息子たちは、Polydoreと同世代である。Iphthimeの息子たちの一人が、Polydoreと結婚したPeneius河神であったと思われる。

Polydoreの結婚は、Hellenの子DorusがParnassus山近くへ移住した後であり、Dorusの娘Iphthimeは、父の移住に参加せずにPeneius川近くに残っていたと推定される。

 

2.2 Polydoreの遠距離婚

BC1407年、Iphthimeの息子とDanausの娘Polydoreが結婚した。彼らには息子Dryopsが生まれた。[11]

Thessaly地方の北部に住むIphthimeの息子と、Argosの町に住むPolydoreの遠距離婚を可能にしたのは、つぎのような事情であったと推定される。

BC1435年、Xuthusの子Achaeusは、Peloponnesus北部のAegialus地方から、父が追放されたThessaly地方のMelitaeaの町へ帰還した。[12]

BC1420年、Cadmusに率いられた大集団の移動に圧迫されて、Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesはAegialus地方へ帰還した。その後、ArchanderとArchitelesは、Argosの町のDanausの娘たち、ScaeaとAutomateと結婚した。[13]

彼らの結婚が、Scaeaの姉妹Polydoreと、Thessaly地方に住むIphthimeの息子を結び付けたものと推定される。

 

2.3 Spercheius近くへの移住

BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Dorusの子Deucalionの息子たちに追われて各地へ移住した。Polydoreの子Dryopsは、彼の祖母Iphthimeの父Dorusが移住したParnassus山近くのSpercheius川付近へ移住した。[14]

その後、Spercheius川近くに住む人々は、Dryopsの名前に因んで、Dryopians (or Dryopes)と呼ばれるようになった。[15]

 

3 Dryopsの娘Dryope

Dryopsには、娘Dryopeがいた。[16]

BC1362年、Dryopeは、Andraemonと結婚した。彼らには息子Amphissusが生まれた。[17]

Andraemonは、Ozolian Locris地方のAmphissaの町に住むOrestheus (or Oreius)の子Phytius (or Oxylus)の息子であった。[18]

Orestheusは、Hellenの子Dorusの子Deucalionの息子であった。[19]

つまり、DryopeとAndraemonは、Hellenの子Dorusを共通の祖とする、3従兄妹同士であった。

 

4 Dryopeの子Amphissus

BC1340年、Amphissusは、Oeta山の近くにOetaの町を創建した。[20]

Oetaの町の建設には、Spercheius川近くに住んでいたDryopiansが参加した。

 

5 Maliansとの戦い

BC1230年、Dryopiansは、Heracles率いるMaliansとの戦いに敗れて、Dryopis地方から各地へ移住した。[21]

Dryopiansを率いたのは、Amphissusの子Dryopsの子Cragaleusの子Phylasであった。[22]

 

5.1 戦いの原因

Diodorusは、DryopiansがDelphiの神殿に不敬を働いたことが戦いの原因だと記している。[23]

しかし、次のことから、この戦いは、DryopiansとMaliansとの間の戦いであったと推定される。

1) Dryopiansとの戦いの伝承に、Delphiの神域を守っていたDelphiansやPhociansが登場していない。

2) Dryopiansが追い出された後の土地を、Maliansが獲得した。[24]

 

5.2 戦いの結果

この戦いで、Phylasは戦死して、彼の2人の娘たち、MedaとPolymeleは捕虜になった。[25]

Medaは、Heraclesとの間に息子Antiochusを産んだ。[26]

Antiochusは、Athensの町の名祖たちの一人になり、彼の子孫Aletesは、Doriansの町Corinthの初代の王になった。[27]

また、Polymeleは、Actorの子Echeclesとの間に息子Eudorusを産んだ。[28]

この戦いには、Heraclesの友人Actorの子MenoetiusもOpusの町から参加したと思われる。[29]

Echeclesは、Menoetiusの兄弟であり、EcheclesもPhthiaの町から、この戦いに参加して、Heraclesに加勢したと思われる。

 

5.3 Dryopiansの移住先

Dryopiansの一部は、Cythnos島やCyprus島へ移住した。[30]

Dryopiansの一部は、Mycenaeの町のEurystheusのもとへ逃れて、土地を分けてもらい、Argolis地方に、Asine、Hermione、Eionの町を創建した。[31]

Dryopiansの一部は、Euboea島のStyraの町へ移住した。[32]

Dryopiansの一部は、Euboea島のCarystusの町へ移住した。[33]

Phocis地方のCirrhaの町の近くへ移住したDryopiansもいて、Cragalidaeと呼ばれた。[34]

Cragalidaeは、Amphissusの子Dryopsの子Cragaleusの後裔と推定される。[35]

 

5.3.1 LemnosのDryopians

また、Dryopiansの一部は、Lemnos島へ移住した。[36]

彼らの中には、BC630年にThera島からLibya地方へ移住して、Cyreneの町を創建するBattusの先祖Euphemusも含まれていた。[37]

Lemnos島に住んでいたDryopiansは、Laconia地方を経由して、BC1099年、Thera島へ移住した。

 

5.3.2 AsineのDryopians

BC745年、Argolis地方のAsineの町に住んでいたDryopiansは、Argos王Eratusに攻められて、町は、破壊された。[38]

ArgivesとSpartansとの戦いに、DryopiansがSpartansに加勢した結果であった。[39]

Argolis地方のAsineの町に住んでいたDryopiansは、Lacedaemonの町へ逃れた。[40]

BC724年、Messeniansとの戦いに勝利したSpartansは、DryopiansにMessenia地方の沿海の土地を与えた。[41]

Dryopiansは、Messenia湾入口の西側にAsineの町を創建した。[42]

 

6 Dryopisの位置

6.1 Herodotusの記述

Herodotusは、次のように記している。

Doriansは、PindusからDryopisへ移り、DryopisからPeloponnesusへ移動した。[43]

Doriansの発祥の地Dorisは、MalisとPhocisの間にあり、昔はDryopisと呼ばれていた。[44]

Doriansは、Erineus、Pindus、DryopisからPeloponnesusへ移住した。[45]

つまり、Herodotusは、DryopisとDorisを同じ地方であり、Pindusは、その地方の町ではないと認識していた。

しかし、Pindusは、Doriansの母市Tetrapolisの中の一つの町であり、Herodotusは、Dryopisについて誤って認識していた。[46]

 

6.2 Herodotus以外の記述

Straboは、DryopisをHeracleiaと共にOetaean countryの14の区の一つだと記している。[47]

Antoninus Liberalisは、DryopisがHeraclesの浴場の近くにあったと伝えている。[48]

Straboによれば、Heraclesの浴場は、Thermopylaeの近くにあった。[49]

Antoninus Liberalisは、Oeta山周辺を支配していたDanausの娘Polydoreの子DryopsがDryopisにApolloの神域を創建したと記している。[50]

 

6.3 Dryopisの位置の推定

以上の記述から、Dryopis地方は、Trachis地方とDoris地方の間にあったと推定される。

Dryopis地方は、Doris地方と同じくTetrapolisから成り立っていた。[51]

 

7 OetaとParnassusの間の地域

7.1 年表

BC1420年、Hellenの子Dorusは、Olympus山の近くのHistiaeotis地方からOeta山とParnassus山の間へ移住して、Pindusの町を創建した。[52]

その頃、Histiaeotis地方は、Doris地方と呼ばれていた。[53]

BC1390年、Polydoreの子Dryopsは、Peneius川近くからParnassus山近くのSpercheius川付近へ移住した。[54]

BC1250年、Actorの子Ceyxは、Phthiaの町からOeta山麓へ移住して、Trachisの町を創建した。[55]

BC1246年、Aeanianiansは、Ixionや彼の息子Peirithousが率いるLapithsによって、Thessaly地方のDotiumから追われた。[56]

Aeanianiansの大部分は、Oeta山麓へ移住した。[57]

BC1230年、Dryopiansは、Maliansとの戦いに敗れて、Dryopis地方から各地へ移住した。[58]

 

7.2 歴史

Herodotusは、DryopisをDorisの古い名称だと記している。[59]

しかし、両者は、別々の地方であり、DorisがDryopisより古い名称だと思われる。

つまり、Oeta山とParnassus山の間には、Doriansが先着して、その後、Dryopiansが遅れて移住して来た。

BC1250年、Actorの子Ceyxが率いるDoriansの支族Myrmidonsが、Phthiaの町からOeta山麓へ移住して、Trachisの町を創建した。[60]

Ceyxは、彼より遅れて、DotiumからOeta山の近くへ移住して来たAeanianiansの支族Maliansの首領の娘と結婚して、Trachisの町には多くのMaliansが住んだ。[61]

Maliansは、Heraclesの助けを借りて、Dryopis地方に住むDryopiansと戦った。

少し前に、Heraclesは、Aetolia地方のCalydonの町から移住して来て、Trachisの町に住んでいた。

Dryopiansは、居住地から追い出されて、Oeta山とParnassus山の間の土地は、Aeanianians、Malians、Doriansのものになった。

 

8 Dryopiansの出自

Dryopiansの名祖Dryopsの母は、Danausの娘Polydoreであり、Polydoreの婚姻に伴って、多くのPelasgiansがArgosの町からPeneius川近くへ移住した。

 

8.1 Dryopsの父方の祖父の種族

Dryopsの父の母Iphthimeは、Doriansであったが、Iphthimeの夫の種族は不明である。

Iphthimeの夫の種族については、DoriansとPelasgiansの2通り考えられる。

1) Dorians

Iphthimeの夫がDorianであったとすれば、Dryopsは、Peneius川近くからOeta山とParnassus山の間へ移住したとき、そこに先住していたDoriansに合流したはずである。

しかし、Dryopsと共に移住した人々の中に、彼の父方のDoriansより彼の母方のPelasgiansが多くいたため、先住していたDoriansに合流できなかったのかもしれない。

2) Pelasgians

Iphthimeの夫がPelasgianであったとすれば、同じPelasgianであるDanausの娘Polydoreとの結婚も理解できる。

しかし、Dorusの子Deucalionの息子たちに追われたPelasgiansが、Dorusの後裔が住んでいたOeta山とParnassus山の近くへ移住するとは思われない。

 

8.2 Doriansの支族Dryopians

Dryopsの娘DryopeがDorusの後裔Andraemonと結婚していることから、Iphthimeの夫は、Dorianであり、Dryopiansは、Doriansから派生した種族であったと推定される。

 

9 Dryopiansの居住地の広がり

BC1390年、Dryopiansは、Thessaly地方南部のSpercheius川の近くで誕生した。

BC1230年、Spercheius川の近くに住んでいたDryopiansは、Argolis地方、Phocis地方、Euboea島、Cyprus島、Lemnos島へ移住した。

 

10 ギリシア暗黒時代

Dryopiansは、Argolis地方のAsineの町、Euboea島のStyraの町、Phocis地方のCirrhaの町の近くに住んでいた。

 

おわり

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