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第20章 アルカディア地方の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2026.2.16

1 はじめに

アルカディア地方は、ペロポネソス半島の中で、唯一、海から切り離された地方であった。

アルカディア地方は、山岳地帯であったが金も銀もなかったとヘロドトスは記している。[1]

ポリュビオスは、アルカディア地方の気候が寒冷で陰鬱であったため、人々はそれを解消するために歌唱や舞踏の修練を義務として行ったと伝えている。[2]

パウサニアスは、アルカディア地方を流れるラドン川をギリシアで一番美しい川だと絶賛している。[3]

ペロポネソス内の他の地方は何度も住民移動があったが、アルカディア地方の住人が大規模に変わることはなかった。

 

2 最初のギリシア人

BC1560年、アルゴスの町から住人の大移住が発生した。

ポルバスの子トリオパスの子アゲノールの子ペラスゴスに率いられたペラスゴイ人は、アルカディア地方へ移住した。[4]

ペラスゴスは、昔アルゴスの町のポロネオスの子アピスがアイギアレイア (後のシキュオン)の町のテルキネス族と戦ったときに、アピスに加勢したパッラシア人に所属していた。[5]

ペラスゴスは、アルカディア地方に自生していたペゴス樫の実が食用になることを発見し、人々に教えた。[6]

アルゴスの町からテゲアの町に至る街道沿いにも樫の木が多く、アルカディア地方には樫の木が豊富に自生していた。[7]

デルポイの巫女は、アルカディア人を「樫の実を食べる人々」だと表現している。[8]

ペラスゴスは、アルゴスの町から西南西へ約70kmの所に聳えるリュカイオス山 (現在のリュカイオン山、 標高1,421m)の近くに定住した。

 

3 ペラスゴスの子リュカオンの時代

3.1 リュコスラの創建

BC1525年、ペラスゴスの子リュカオンは、リュカイオス山の麓に、リュコスラの町を創建した。[9]

リュカオンは、リュカオン競技会を開催した。[10]

エレイア地方のオリュンピアの町で、イダ山のヘラクレスが競技会を開催する90年以上前であった。[11]

BC1510年頃に開催されたリュカオン競技会は、恐らく、ギリシア最古の競技会である。

リュカイオス山頂からはペロポネソス半島の殆どを見渡すことができ、山頂に雨乞いの供犠をするための祭壇があり、人身御供が行われていた。[12]

ペラスゴスのもう一人の息子テメノスは、アルカディア地方北部に聳えるキュレネ山の麓、後にステュンパロスの町ができるあたりに住んだ。[13]

リュカオンには、長子ニュクティモスをはじめ多くの息子たちがいて、それぞれアルカディア地方各地に町を創建した。[14]

 

3.2 リュカオンの子パラス

パラスは、人身御供をする父リュカオンに反対し、信仰が芽生えた。[15]

パラスの娘アテナは、姉妹クリュセがダルダノスと結婚するとき、都市の守護女神パラディア をクリュセに贈った。[16]

クリュセは、サモトラケ島で、後に「神々の母」「山の母」「プリュギアの大女神」と呼ばれるキュベレの義理の姉妹になった。[17]

 

3.3 テゲアの創建

BC1470年、リュカオンの子テゲアテスは、アルカディア地方の南東部にテゲアの町を創建した。[18]

BC1450年にテゲアテスの息子たちはクレタ島へ移民団を率いた。[19]

その後、BC1370年頃にアルカスの子アペイダス (または、アピダス)の居住が確認されるまで、テゲアの町の居住者は、不明である。[20]

 

4 ペラスゴスの子リュカオンの時代

リュカオンの息子たちの名前は数多く伝えられている。

系図を作成すると、その息子たちの中で、ニュクティモスとオルコメノスは、他の息子たちとの生年差が30年以上ある。アゲノールの子ペラスゴスの子リュカオンの子ペラスゴスの子リュカオンという系譜があったと思われる。

つまり、最初のリュカオンに、ニュクティモスとオルコメノスの他に、ペラスゴスという息子がいて、そのペラスゴスにもリュカオン(2人目のリュカオン)がいたと推定される。

 

4.1 飢饉の発生

BC1450年、アルカディア地方で、飢饉が発生して、アルカディア人は、各地へ移住した。[21]

 

4.1.1 クレタへの移住

BC1450年、アルカディア地方に飢饉が発生して、テゲアの町のリュカオンの子テゲアテスの3人の息子たち、キュドン、ゴルテュス、アルケディオスは、アルカディア人を率いて、クレタ島へ移住した。[22]

キュドンは、クレタ島の北西部にキュドニアの町、ゴルテュスは、島中央部にゴルテュナの町、そして、アルケディオスは、島西部にカトレウスの町を創建した。[23]

キュドンは、キュドニアの町に滞在したカドモスの移民団の中にいたポイニクスの娘エウロパと結婚して、ミノスとカルデュスが生まれた。[24]

 

4.1.2 ヘライアの創建

BC1450年、2人目のリュカオンの子へライイオスは、アルペイオス川の右岸にヘライアの町を創建した。[25]

BC1446年、へライイオスは、最初のリュカオンの子オルコメノスの娘ステロペ (または、アステリエ, アステロペ)と結婚した。[26]

へライイオスとステロペに、息子オイノマオスが生まれた。[27]

 

4.1.3 エレイアへの移住

BC1450年、リュカオンの子カウコンは、アルカディア地方からエレイア地方南部へ移住して、レプレオンの町を創建した。[28]

カウコンに率いられたペラスゴイ人は、カウコネスに名前を変えた。[29]

 

4.1.4 アカイアへの移住

BC1450年、リュカオンの子ヒュペレトスは、アカイア地方へ移住して、ヒュペレシアの町を創建した。[30]

 

4.2 大洪水の発生

BC1430年、アルカディア地方の中央部に長期的な大洪水が発生した。[31]

深刻な食糧不足に襲われたアルカディア人は、各地へ移住した。

 

4.2.1 トロアスへの移住

リュカオンの子オルコメノスの娘エレクトラの子ダルダノスは、祖父オルコメノスが創建したメテュドリオンの町に住んでいた。メテュドリオンの町は、標高1,000m程の高地を流れるマロイタス川とミュラオン川の間の小高い丘の上にあった。[32]

BC1430年、ダルダノスは、アルカディア人を率いて、新天地を探す旅に出た。ダルダノスはエーゲ海を北上して、ヘレスポントス海峡手前のメラス湾の沖合に浮かぶサモトラケ島に移住した。[33]

その後、ダルダノスは、アナトリア半島北西部トロアス地方に再移住して、トロイ王国の始祖になった。[34]

 

4.2.2 ボイオティアへの移住

ダルダノスの叔母アルキュオネも、彼女の夫メガッサレスや2人の息子たち、ヒュペレノールやヒュリエウス、それに娘パルナケと共に、ダルダノスに同行した。[35]

メガッサレスは、サモトラケ島に立ち寄ったカドモスの移民団に参加して、ボイオティア地方に再移住し、ヒュリアの町を創建した。[36]

メガッサレスの2人の息子たち、ヒュリエウス と ヒュペレノールは、カドモスに次ぐ実力者スパルトイになった。[37]

 

4.2.3 キュプロスへの移住

メガッサレスの娘パルナケは、シドンの町のアステュノオスの子サンドコスと結婚して、キニュラスが生まれた。[38]

アステュノオスは、初代アテナイ王ケクロプスの娘ヘルセの子ケパロスの子ティトノスの子パイトンの息子であった。[39]

サンドコスは、フェニキア地方のテュロスの町からキリキア地方へ移住してケレンデリスの町を創建した。[40]

キニュラスは、ケレンデリスの町から沖に浮かぶキュプロス島に渡り、島の南西海岸付近にパライパポスの町を創建した。[41]

 

4.2.4 パロスへの移住

アルカディア地方のパッラシアの町に住むリュカオンの子パッラシオスの子パロスも途中まで、ダルダノスの移民団に同行した。パロスは、デロス島の南のパロス島に入植した。[42]

 

4.2.5 アカイアへの移住

アルカディア地方のオルコメノスの町に住むオルコメノスの娘メロペは、アカイア地方のヒュペレシアの町へ逃れた。[43]

ヒュペレシアの町には、メロペの叔父ヒュペレトスが住んでいた。[44]

BC1426年、メロペは、アイギアロス地方に住んでいたアイオロスの子シシュッポスと結婚した。[45]

 

4.3 アルゴスからの嫁入り

BC1422年、ヘライアの町に住むヘライイオスの子オイノマオスは、アルゴスの町からダナオスの娘エウリュトエを妻に迎えた。[46]

 

5 カリストの子アルカスの時代

5.1 文字の伝来

アルカディア人の系譜は、カリストの子アルカスの時代から突然詳しくなる。

アルカディア地方へ文字を知る者が移住したことが原因と思われ、その経路として、つぎの3つが考えられる。

1) ダナオスの孫アンピアナクス(アルカスと同時代)のアルゴスの町からの移住。

2) カリストの子アルカスとクロコンの娘メガニラとの結婚に伴う、エレウシスの町からの移住。

3) アルカスの子エラトスとキニュラスの娘ラオゴレとの結婚に伴う、キュプロス島からの移住。

 

5.2 アルゴスからの移住

BC1408年、アイギュプトスの子アンティマコスとダナオスの娘ミデイアとの息子アンピアナクスは、アルゴスの町から後にマンティネイアの町になる土地に移住した。[47]

アルゴス人は5つの集落を作り、プトリスと呼ばれていた。後に、リュカオンの子マンティネウスの名前に因んで、マンティネイアと名付けられた。[48]

同じ年に、リュンケウスの子アバスもアルゴスの町からポキス地方へ移住してアバイの町を創建している。[49]

彼らの移住の原因は、ダナオスが追い出したゲラノールの息子で、シキュオンの町に住むラメドンのアルゴスの町の占領であったと推定される。[50]

マンティネウスの娘アグライアと、リュンケウスの子アバスが結婚していることから、アバスはアンピアナクスと共にアルカディア地方へ移住し、その後、ポキス地方へ再移住したと思われる。[51]

アバスとアンピアナクスは、いとこ同士であった。

アンピアナクスの娘アンタイアの娘マイラの墓がマンティネイアの町の近くにあった。[52]

 

5.3 トラペズスの創建

BC1405年、カリストの子アルカスは、アルペイオス川の近くに移住して、トラペズスの町を創建した。[53]

 

5.4 トリプトレモスの訪問

BC1402年、カリストの子アルカスは、エレウシスの町のケレウスの子トリプトレモスから栽培穀物の種子を譲り受け、住人にパンの作り方を教えた。[54]

 

5.5 エレウシスからの嫁入り

BC1402年、アルカスは、トリプトレモスの子クロコンの娘メガニラを妻に迎えた。[55]

クロコンは、エレウス人の土地からレイティ川を越えたアテナイ人の土地に住んでいた。[56]

 

5.6 アルゴスへの嫁入り

BC1401年、マンティネウスの娘アグライアは、アルゴスの町のリュンケウスの子アバスのもとへ嫁いだ。[57]

この結婚は、アバスの従兄弟アンピアナクスが、アルゴスの町からプトリス (後のマンティネイア)の町へ移住したのが縁であった。

 

5.7 ケオス島への移住

BC1390年、アカイオスの子アルカンドロスとヒュプセウスの娘キュレネとの息子アリスタイオスは、ケオス島へ移住した。[58]

その移住には、リュカオンの後裔のパッラシア人が参加していた。[59]

 

6 アルカスの子アペイダスの時代

6.1 アルゴスからの亡命

BC1370年、アクリシオスに追放されたアルゴスの町のアバスの子プロイトスは、プトリスの町のアンピアナクスを頼って亡命して来た。[60]

アンピアナクスの父アンティマコスの父アイギュプトスは、プロイトスの父アバスの父リュンケウスの父であった。

つまり、プロイトスは、父アバスの従兄弟アンピアナクスを頼って亡命した。

プロイトスは、アンピアナクスの娘ステネボイアと結婚した。[61]

ホメロスはプロイトスの妻をアンテイアだと伝えているが、テルサンドロスの子プロイトスの妻と勘違いしているようだ。[62]

BC1368年、プロイトスは、アルゴス地方へ帰り、テュリンスの町を占拠した。[63]

 

6.2 コリントスへの嫁入り

BC1370年、アンピアナクスの娘アンテイアは、プトリスの町からコリントスの町のシシュッポスの子テルサンドロスの子プロイトスのもとへ嫁いだ。[64]

 

6.3 キュプロスからの嫁入り

BC1360年、アルカスの子エラトスは、キュプロス島の南西部のパライパポスの町からキニュラスとメタルメの娘ラオゴレを妻に迎えた。[65]

エラトスとラオディケの結婚は、アルカディア生まれのラオディケの祖母パルナケの縁であろうと推定される。

 

6.4 クレイトールの創建

BC1355年、アルカスの子アザンの子クレイトールは、トラペズスの町からアルカディア地方北部へ移住して、クレイトールの町を創建した。[66]

 

6.5 シキュオンからの嫁入り

BC1354年、ヘライアの町に住むアルクシオンは、シキュオンの町からエポペウスの娘ハルピナ (または、ハルピネ)を妻に迎えた。[67]

アルクシオンとハルピナには、息子オイノマオスが生まれた。[68]

 

6.6 エラテイアの創建

BC1350年、アルカスの子エラトスはアルカディア人を率いて、デルポイの神域に侵入したプレギュアス人と戦っていたポキス人に味方して、プレギュアス人を撃退した。[69]

エラトスは、ポキス地方にエラテイアの町を創建した。[70]

ストラボンの時代、エラテイアの町はポキス地方最大の町であった。[71]

エラテイアの町は、ホメロスに言及されておらず、ホメロスより後の時代に発展したと思われる。[72]

 

7 アペイダスの子アレウスの時代

7.1 ダフネ伝説

パウサニアスは、ダフネ伝説を記している。その舞台は、アルカディア地方からエレイア地方へ流れ下るアルペイオス川に、北から流れ込むラドン川が合流する付近のヘライアの町であった。[73]

パウサニアスは、ヘライアの町の近くを流れるラドン川がギリシアで一番美しい川だと絶賛しており、その美しい流れがダフネ伝説を生み出したと思われる。[74]

ヘライアの町は、リュカオンの子へライイオスによって創建された。そして、パウサニアスがピサの町のオイノマオスだと誤って伝えている、ステロペ (または、アステリエ、アステロペ)の息子オイノマオスに継承された。[75]

したがって、ダフネの伝承に登場するレウキッポスは、ピサの町のオイノマオスの息子ではなく、そのオイノマオスの曾祖父である、ヘライアの町に住むオイノマオスの息子であった。[76]

パウサニアスは、ダフネ伝説がアルカディア地方やエレイア地方に残っていたと記している。その伝承は、アルカディア地方で生まれ、ヒッポダミアの父オイノマオスのエレイア地方進出に伴って、広まったものと思われる。[77]

 

7.2 オイノマオスの系譜

ヘライアの町の創建者へライイオスには、息子オイノマオスがいた。

このオイノマオスは、パウサニアスが勘違いしているピサの町のオイノマオスの曾祖父であった。[78]

へライイオスの子オイノマオスには、息子レウキッポスがいた。[79]

レウキッポスには、息子アルクシオンがいた。[80]

アルクシオンは、シキュオンの町からエポペウスの娘ハルピナ (または、ハルピネ)を妻に迎えて、息子オイノマオスが生まれた。[81]

ハルピナは、ヘライアの町の近くでアルペイオス川に合流する川を、彼女の祖父の名前に因んでラドン川と名付けた。ハルピナの母は、ラドンの娘メトペであった。[82]

ハルピナの祖父ラドンが住むボイオティア地方のカドメイアの町の東側を流れるイスメロス川は、ラドン川とも呼ばれていた。[83]

 

7.3 アルゴスからの嫁入り

BC1335年、ハルピナの子オイノマオスは、アルゴスの町のアクリシオスの娘エウアレテを妻に迎えた。[84]

 

7.4 オイノマオスのエレイア進出

BC1330年、オイノマオスは、ヘライアの町からアルペイオス川沿いにエレイア地方へ進出して、彼の母の名前に因んだハルピナの町を創建した。[85]

BC1315年、オイノマオスは、ハルピナの町の西隣のピサの町に住むペリエレスの子ピソスから町を奪って、ピサの町の支配者になった。[86]

オイノマオスは、当時、エリスの町の支配下にあったオリュンピアの町をも奪って、オリュンピアで競技会を開催した。[87]

 

7.5 カウコネスのエレイア進出

BC1330年、カウコンの後裔たち、プリクソスとマキストス兄弟は、エレイア地方南部に、プリクサの町とマキストスの町を創建した。[88]

 

7.6 ミュケナイとエリスへの嫁入り

BC1297年、アンピダマスの娘アンティビアは、ステュンパロスの町の近くのアレアの町からミュケナイの町のペルセウスの子ステネロスへ嫁いだ。[89]

BC1297年、アンピダマスのもう一人の娘ナウシダメは、アレアの町からエリスの町のアレクトール (または、アレクシノス)の子エレイオスへ嫁いだ。[90]

この2つの結婚は、ヘラクレスのエリス攻めに関係があった。

ステネロスの息子は、ミュケナイの町のエウリュステウスであり、エレイオスの息子は、エリスの町のアウゲアスであった。

つまり、後にヘラクレスに命じてエリスの町を攻めさせたエウリュステウスとアウゲアスは、義理の従兄弟同士であった。

エウリュステウス誕生前、ステネロスとアンティビアとの婚姻関係によって、エリスの町とミュケナイの町は、良好な関係にあった。しかし、エウリュステウスの父ステネロスが、ペロプスの娘ニキッペ (または、アルキッペ)を妻に迎えると、両者の関係が冷えた。[91]

ペロプス亡き後、エリスの町のアウゲアスは、ピサの町に代わってオリュンピアで競技会を開催し、ピサの町にも影響力を及ぼすようになった。エウリュステウスは、ピサの町からの請願を受けてヘラクレスにエリスの町を攻めさせた。[92]

 

7.7 テュリンスへの嫁入り

BC1287年、ペネウスの町のグネウスの娘ラオノメは、テュリンスの町のアルカイオスの子アンピュトリオンに嫁いだ。アンピュトリオンには、息子イピクレスが生まれた。[93]

アンピュトリオンの母がラオノメであったという伝承はあるが、アンピュトリオンの妻がラオノメであったという伝承はない。しかし、系図を作成すると、アンピュトリオンの妻アルクメナとイピクレスの生年差は、7歳しかなく、アルクメナをイピクレスの母とするのは妥当ではない。

後に、エリスの町との戦いで、イピクレスが瀕死の傷を負ったとき、ペネウスの町のブパゴスと彼の妻プロムネがイピクレスを看護した。彼らは、イピクレスの養父母であったと推定される。[94]

 

8 アレウスの子リュクルゴスの時代

8.1 アテナイからの移住

BC1277年、アイゲウスに追われたアテナイ人が、アレウスの子ケペオスを頼ってオルコメノスの町の近くのカピュアイの町に移住した。[95]

カピュアイの町はアイネアスが建設し、彼の祖父カピュスに因んで名付けられたという説もある。しかし、それは、ローマの庇護を受けるために流布された作り話と思われる。[96]

 

8.2 ボイオティアからの移住

BC1256年、 メガレウスの子ヒッポメネスは、ボイオティア地方のオンケストスの町からアルカディア地方へ移住した。[97]

また、ボイオティア地方のスコイノスの町のスコイネオスもアルカディア地方へ移住した。[98]

彼らの移住は、オルコメノスの町との戦いに勝って勢力を増したテバイの町から逃れたものであった。

スコイネオスは、テゲアの町の近くにスコイノスの町を創建した。[99]

ヒッポメネスは、スコイネオスの娘アタランタと結婚して、息子パルテノパイウスが生まれた。[100]

 

8.3 ミュケナイへの嫁入り

BC1252年、テゲアの町のアンピダマスの娘アンティマケは、ミュケナイの町のステネロスの子エウリュステウスに嫁いだ。[101]

アンティマケの父アンピダマスの父リュクルゴスの父アレウスは、エウリュステウスの父ステネロスの妻アンティビアの父アンピダマスの父であった。

つまり、エウリュステウスは、アンティマケの父アンピダマスの従妹アンティビアの夫ステネロスの息子であった。

 

8.4 エレイアのアレネとの紛争

BC1250年、テゲアの町のアレウスの子リュクルゴスは、エレイア地方南部のトリピュリア地方のアレネの町と土地の問題で争い、アレイトオスを討ち取った。[102]

アレイトオスは、ピュロメドウサの夫であり、彼らの息子メネスチオスは、トロイ遠征物語に登場する。[103]

アレイトオスは、ネストルの母クロリスと共にボイオティア地方のオルコメノスの町からエレイア地方のピュロスの町を経て、トリピュリア地方へ移住して来たミニュアス人の首領と推定される。[104]

アレイトオスは、アレネの町からテゲアの町へ向かう途中の隘路で、リュクルゴスの策略にかかって最期を遂げた。[105]

マンティネイアの町からテゲアの町に向かう街道の狭くなった所にアレイトオスの墓があった。[106]

 

8.5 ペリアスの娘たちの墓

パウサニアスは、マンティネイアの町の近くに、テッサリア地方のイオルコスの町のペリアスの娘たちの墓があったと伝えている。[107]

ペリアスや彼の娘たちは、アルゴ船の遠征に関係した人物であり、アルカディア地方に彼らの伝承を持ち込んだのは、ミニュアス人であったと推定される。

ミニュアス人は、イオルコスの町からレムノス島、ラコニア地方、テラ島を経由してリビュア地方に渡り、キュレネの町へ移住した。[108]

BC6世紀、リビュア地方のキュレネの町は、優秀な国制を持っていたマンティネイアの町からデモナクスを招いて国政改革を行った。[109]

キュレネの町とマンティネイアの町には交流があり、ミニュアス人の伝承がマンティネイア人に伝えられたと推定される。

アルゴスの町やスパルタの町などと歴史の古さを競うようになったマンティネイア人は、有名な物語に登場するペリアスの娘たちの墓を築いたのではないかと思われる。

 

8.6 ケンタウロスの移住

BC1246年、テッサリア地方のペリオン山付近に住んでいたケンタウロスは、イクシオンの子ペイリトウス率いるラピタイに追われて、各地へ移住した。[110]

ケンタウロスの一部は、アルカディア地方西部のポロイ山に逃れ、ヘラクレスとの戦いで滅ぼされたという伝承がある。[111]

しかし、この伝承もペリアスの娘たちの墓と同様に創作と思われる。

ケンタウロスの大部分は、テッサリア地方の北部を流れるペネイオス川源流のアイティケスの地方へ移住した。[112]

また、ケンタウロスの一部は、アイトリア地方のカリュドンの町の東側を流れるエウイノス川付近にも移住した。[113]

ケンタウロスが所属するアイニアネス人は、ドティオンからオイタ山付近に移住した。[114]

ネッソス率いるケンタウロスは、オイタ山からカリオンの町を経由してナウパクトスの町近くのエウイノス川に逃れたと推定される。[115]

 

8.7 エレイアのピュロスとの戦い

BC1244年、エレイア地方南部のピュロスの町のネレウスの息子たちは、カアの町の領有権を巡ってアルカディア人と戦った。[116]

この時のアルカディア人の王は、テゲアの町のアレウスの子リュクルゴスであった。リュクルゴスは高齢のため、家臣エレウタリオンがアルカディア人を率いた。エレウタリオンは、アレイトオスの鎧を身に着けて戦ったが、ネレウスの子ネストルに討ち取られた。[117]

リュクルゴスの墓がテゲアの町ではなく、カアの町の近くのレプレウスの町にあったことから、リュクルゴスは陣中で病没したと思われる。[118]

 

8.8 テュリンスからの移住

BC1243年、アンピュトリオンの子ヘラクレスは、テュリンスの町からペネウスの町へ移住した。[119]

これより前、ヘラクレスは、モリオネの2人の息子たち、クテアトスとエウリュトスを殺害した。エリスの町は、ミュケナイの町のエウリュステウスに対して、ヘラクレスの引き渡しを求めた。[120]

エウリュステウスは、ヘラクレスにテュリンスの町から出て行かせた。

 

8.9 エリスへの遠征

BC1240年、ヘラクレスは、ペネウスの町からエリスの町へ遠征して、アウゲアスと戦って、エリスの町を占領した。[121]

パウサニアスは、ピサの町もピュロスの町と共に、エリスの町に味方したと伝えている。[122]

しかし、前述したように、この戦いは、エリスの町とオリュンピアをめぐって対立するピサの町からの要請であり、ピサの町がエリスの町に味方することはあり得ない。

 

8.10 イタリアへの移住

8.10.1 アルカディアからの出発

BC1240年、テゲアの町のすぐ西にあるパランティオンの町で争いが起こった。争いに敗れたテミスの子エウアンドロスは、新天地を求めて町を去った。[123]

エウアンドロスは、パッラシア人に属し、アルゴスの町からアルカディア地方へ居住地を広げたペラスゴスの子リュカオンの家系であった。[124]

エウアンドロス率いる移民団は、テゲアの町からオリュンピアの町を経て、オレノスに至る街道を進んだ。

途中、エウアンドロスは、オリュンピアの町でヘラクレスのエリス攻めに参加した後で、行き場を失った者たちがアルペイオス川付近で野営している人々に出会った。[125]

エウアンドロスは、参加を申し出たアカイア地方のデュメの町のエペイオイ人やペネウスの町のアルカディア人を移民団に参加させた。[126]

エウアンドロスは、エリスの町の外港キュレネからイタリア半島へ向けて出航した。[127]

 

8.10.2 ラティウムへの定住

エウアンドロスの移民団は、イタリア半島西海岸中央部のティベル川を遡り、後にローマと呼ばれるようになる土地に上陸した。エウアンドロスは、ウェリア (後のパラティオン)という丘の近くに定住した。[128]

そこから東へ約35km離れた、プライネステ (現在のパレストリーナ)の町の支配者ヘリロスは、エウアンドロスに戦いを挑んだが撃退された。[129]

エウアンドロスの移民団の中には、ヘラクレスの遠征に従軍した歴戦の勇士が含まれていた。[130]

当時、野蛮なシケルによって苦しめられていたラウレントゥムの町のファウヌスは、エウアンドロスを味方として受け入れた。[131]

エウアンドロスは、ファウヌスを助けて、シケルの首領であるウォルカヌス (または、ウォルカン)の息子カクスを討ち取り、シケルを南へ追いやった。[132]

エウアンドロスに同行したエペイオイ人やアルカディア人は、シケルが去った後のサトゥルニアの丘に定住した。[133]

 

8.10.3 エウアンドロスの後裔

エウアンドロスは移住後、ファウヌスの親戚の者と思われるサビニの娘ニコストラテと結婚して、息子パラスが生まれた。[134]

ニコストラテは神がかりになって託宣を下す予言者であったと伝えられ、カルメンタとも呼ばれた。[135]

エウアンドロスの母テミスも予言者で、カルメンタとも呼ばれ、姑から嫁への術が伝授された。[136]

テミスの先祖であるペラスゴスの子リュカオンの子パラスにはクリュセという娘がいた。クリュセにも神秘的な宗教に関する伝承があり、リュカオンの子パラスの家系に連なる女性たちに代々受け継がれていったものと思われる。[137]

BC1182年、エウアンドロスの子パラスは、アイネアスに味方して、ルトゥリ人のトゥルヌスと戦って、死んだ。[138]

エウアンドロスとアイネアスとは、ペラスゴスの子リュカオンを共通の先祖とする同族であった。

BC1154年、エウアンドロスに率いられてイタリア半島へ移住したアルカディア人の後裔は、アイネアスの子アスカニオスが創建したアルバの町に移住した。[139]

しかし、アルカディア人の一部は、そのままパラティネの丘の近くに住み続けた。ローマ建国の父ロムルスの養父ファウストロスもその一人であった。[140]

 

8.10.4 エウアンドロスの功績

アルファベットをイタリアに持ち込んだのは、エウアンドロスと共に移住したアルカディア人であったと伝えられ、エウアンドロスは、ローマの繁栄に大きく寄与した。[141]

そのアルファベットは、ギリシア人 アルファベットではなく、ホメロスの頃まで使われていたペラスゴイ文字であった。[142]

AD2世紀、第15代ローマ皇帝アントニヌスは、エウアンドロスの功績を認めて、彼の出身地であるアルカディア地方のパランティオンの町を市に格上げし、住民の自治を認めて税を免除した。[143]

その後、パランティオン市民は、エウアンドロスの像を建立した。[144]

 

8.11 ラケダイモンとの戦い

BC1239年、ヘラクレスは、アミュクライの町やスパルタの町で、ヒッポコーンや彼の息子たちと戦って、彼らを討ち取った。[145]

この戦いには、テゲアの町のケペオスも彼の息子たちと共に参加した。[146]

この戦いの原因は、ヘラクレスのヒッポコーンに対する私的な恨みだと伝承は伝えている。[147]

しかし、アルカディア人とラケダイモン人との紛争に、ヘラクレスがケペオスからの求めに応じて、戦いに参加したと推定される。

 

8.12 カリュドンへの移住

BC1238年、ヘラクレスは、ペネウスの町に5年間住んだ後で、アイトリア地方のカリュドンの町へ移住した。[148]

ヘラクレスの勢力増大に危機感を抱いたエウリュステウスが、彼の妻の父で、アルカディア地方の支配者リュクルゴスの子アンピダマスを介して、ペネウスの町から退去させたと推定される。

 

8.13 ミュシアへの移住

BC1230年、アウゲの子テレパスは、アルカディア地方のパルテニオス山近くからミュシア・ペルガメネ地方へ移住した。[149]

テレパスは、ヘラクレスとアウゲとの間の息子だと伝えられているが、テレパスの父は、スコイネオスの子クリュメノスであった。テレパスや住人は、クリュメノスの横暴に耐えられず、小アジアへ移住した。[150]

テレパスの母アウゲは、ミュシア地方の支配者テウトラスと結婚し、テレパスはテウトラスの娘アルギオペと結婚した。[151]

テレパスは、テウトラスの跡を継いでミュシア地方を治めた。[152]

 

8.13.1 アウゲとテレパスの後裔

アウゲとテウトラスには、息子テウトラニオスが生まれた。[153]

テレパスとアルギオペには、息子エウリュピロスが生まれた。[154]

テウトラニオスとエウリュピロスは、トロイ遠征物語に登場する。[155]

 

9 アエロプスの子エケモスの時代

9.1 アドラストスのテバイ攻め

テレパスのミュシアへの移住には、スコイネオスの娘アタランタの子パルテノパイウスも同行した。[156]

パルテノパイウスは、テゲアの町近くのスコイノスの町で生まれた。[157]

パルテノパイウスの母アタランタと、テレパスの父クリュメノスは、兄妹であり、パルテノパイウスとテレパスは、いとこ同士であった。[158]

BC1215年、パルテノパイウスは、テバイの町によって、ボイオティア地方から追われた祖父の無念を晴らすために、アドラストスのテバイ攻めに参加した。パルテノパイウスは、戦死した。[159]

 

9.2 エピゴノイのテバイ攻め

BC1205年、パルテノパイウスの2人の息子たち、トレシメネスとビアンテスは、父の仇を討つために、エピゴノイのテバイ攻めに、ミュシア地方から駆け付けて参加した。[160]

 

10 アンカイオスの子アガペノールの時代

10.1 キュプロスへの移住

ホメロスは、アンカイオスの子アガペノールがアルカディア人を率いて、トロイ遠征に参加したと伝えている。[161]

また、トロイからの帰還途中でアルカディア人が乗り組んだ船が嵐に遭ってキュプロス島に流れ着いたという伝承もある。[162]

しかし、アガペノールがキュプロス島へ移住した目的は、銅を採掘することであった。[163]

アンカイオスの子アガペノールは、キュプロス島の南西部のパライパポスの町の近くにパポスの町を創建した。[164]

アガペノールの父アンカイオスの父リュクルゴスの母ネアイラの父ペレウスの母ラオディケは、パライパポスの町の創建者キニュラスの娘であった。[165]

つまり、アルカディア地方とキュプロス島とは、古くから交流があった。

後に、キュプロス島に住むアガペノールの後裔ラオディケは、テゲアの町のアテナ・アレア神殿に外衣を奉納している。[166]

パウサニアスは、奉納品に付いた詩銘を記しているが、もし、パウサニアスが実際に見たのであれば、ラオディケは、BC4世紀以降の人物である。

アテナ・アレア神殿は、第96回オリュンピアードの2年目(BC395)に焼失し、その後再建されているからである。[167]

 

10.2 ビテュニアへの移住

アポロドロスは、トロイ陥落後、キュプロス島に住み着いた人々の他に、サンガリオス川近くに定住した人々もいたと伝えている。[168]

彼らは、サンガリオス川近くのビテュニオン (後のクラウディオポリス)の町に住み着いたマンティネイア人であったと思われる。

AD2世紀のローマ皇帝ハドリアヌスの寵臣アンティノオスは、ビテュニオンの町の出身であった。[169]

ハドリアヌスは、アンティノオスの死後、彼の先祖の出身地マンティネイアの町にアンティノオスの神殿を創建した。[170]

ハドリアヌスが、マンティネイアの町に好意的であったのは、アルカディア人の中でマンティネイア人のみがローマ皇帝アウグストスに味方したことも一因であった。[171]

 

11 ケルキュオンの子ヒッポトオスの時代

11.1 ミュケナイからの移住

BC1173年、ヒュッロスの子クレオダイオス率いるドーリス人は、ミュケナイの町を攻めて、町を破壊した。[172]

アガメムノンの子オレステスは、ミュケナイの町からテゲアの町へ移住した。[173]

伝承では、オレステスは「神託に従って」移住したことになっているが、実際は、ドーリス人との戦いに敗れて、テゲアの町へ逃れたと思われる。[174]

テゲアの町とミュケナイの町は、古くから盟友関係にあった。[175]

その後、オレステスは、ドーリス人をペロポネソスから追い出したが、破壊されたミュケナイの町へは住まず、テゲアの町で最期を迎えた。[176]

オレステスの墓は、テゲアの町の市門の内側にあったが、スパルタ人が遺骨を盗んで、スパルタの町に改葬した。[177]

パウサニアスの時代、オレステスの墓はスパルタの町にあった。[178]

オレステスと共に多くのアカイア人がアルカディア地方へ移り住み、ドーリス人がラケダイモンの支配者となった後も住み続けていた。メッセニア戦争のとき、アルカディア人は、メッセニア人を同族として支援した。

 

11.2 テゲアからトラペズスへの遷都

BC1173年、アルカディア王、ケルキュオンの子ヒッポトオスは、王都をテゲアの町からトラペズスの町に移した。[179]

パウサニアスは、ミュケナイの町のアガメムノンの子オレステスが、アルカディア地方の大半を領したと伝えているが、その中にテゲアの町も含まれていたと思われる。[180]

ヒッポトオスによる遷都は、オレステスの移住によるものであった。

 

12 アイピュトスの子キュプセロスの時代

12.1 ヘラクレイダイの帰還

BC1112年、アリストマコスの子テメノス率いるドーリス人は、アカイア地方のリオン岬に上陸した。[181]

テメノスは、アカイア地方のアイガイの町からアルカディア地方へ入った。[182]

テメノスは、彼らの軍中にいたアルカディア人と同族が住むアルカディア地方の人々を味方に付けようとしたものと思われる。[183]

ヘラクレイダイの祖ヘラクレスは、アルカディア地方北部のペネウスの町に5年間居住したこともあり、ヘラクレイダイにとっては、親しみのある土地でもあった。[184]

アルカディア王キュプセロスは、ヘラクレイダイを歓待して、彼の娘メロペをテメノスの弟クレスポンテスに嫁がせた。[185]

アルカディア地方は、ドーリス人がペロポネソスの支配者になった後も、住人の移動がなかったペロポネソス内で唯一の地方であった。

 

12.2 アイピュトスのメッセニアへの帰還

アリストマコスの子クレスポンテスは、メッセニア地方を領有し、メロペには息子たちが生まれた。[186]

クレスポンテスは、民衆が喜ぶように統治したので、財産を持つ富裕層が反乱を起こして、クレスポンテスと彼の息子たちを殺した。[187]

クレスポンテスの末の子アイピュトスは、アルカディア地方のトラペズスの町に住む祖父のもとで養育されていたために無事であった。[188]

BC1082年、アイピュトスはアルカディア地方に住む彼の母の兄弟ホライアス、アルゴスの町のテメノスの子イストミオス、スパルタの町のエウリュステネスとプロクレスの支援を受けてメッセニア地方のステニュクラロスの町へ帰還した。[189]

 

13 BC10世紀以降のアルカディア

13.1 スパルタとの戦い

BC920年、アギス王家のスパルタ王ソウスは、クレイトール人と戦った。[190]

クレイトール人は、BC1355年にアザンの子クレイトールが、アルカディア地方北部に創建したクレイトールの町の住人であった。[191]

BC900年、エウリュポン王家のスパルタ王アギスは、アルカディア地方に侵攻してマンティネイア人に殺害された。[192]

アギス王家のスパルタ王、ソウスの子エウリュポン (または、エウリュポン)は、マンティネイアの町を攻めて占領した。[193]

 

13.2 アイギナ人との交易

BC850年、トラペズスの町のシモスの子ポンポスは、アイギナ人と交易し、彼らとの友好の印として息子にアイギネテスという名前をつけた。[194]

アイギナ人は、エリスの外港キュレネから、陸路で物資を運び上げた。[195]

アイギナ人の交易品は、シシリー島の皿やメガラの樽などで、アルカディア人の交易品は、荷運びや耕作用のラバを産むために必要なロバであったと推定される。[196])

ストラボンは、アルカディア地方にロバの牧場があったと伝えている。[197]

 

13.3 スパルタとの戦い

BC790年、テゲアの町は、スパルタの町のポリュデクテスの子カリッロスに攻められた。エルネス率いるテゲア人は勇敢に戦い、カリッロス本人をはじめ多くの捕虜たちを得た。スパルタ人の捕虜は、足枷を付けられて農作業をさせられた。[198]

その足枷は、テゲアの町のアテナ・アレア神殿に奉納され、パウサニアスはそれを見たと記している。[199]

しかし、BC395年、古い神殿は焼失し、パウサニアスが見たのは再建された神殿にあった足枷であった。

 

おわり

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