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第33章 クレタ島の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2026.2.16

1 はじめに

1.1 ミノア文明

クレタ島は、BC2700年から1420年まで、ミノア文明の中心であったという。[1]

また、ミノア文明の名称は、ミノス王の名前に由来するという。[1-1]

しかし、エウロパの子ミノスが、クノッソスの町に住んでいたのは、BC1400年頃であった。

ギリシア人は、クレタ島西部へ入植してから、徐々に、東へ居住範囲を広げた。

ギリシア人より前に、クレタ島で文明を開化させたミノア人は、島の中央部と東部に居住していたと思われる。つまり、ミノア人は、東側からクレタ島へ渡って来て、住み着いた人々であったと推定される。

 

1.2 島の大きさ

BC330 年頃に執筆された偽スキュラクスの『ペリプロウス』には、クレタ島は、サルド島やシシリー島に次ぐ大きな島で、キュプロス島より大きいと記されている。[1-2]

また、AD43年頃に『コログラピア』を執筆したポンポニウス・メラも、クレタ島はキュプロス島より大きいと記している。[2]

実際は、クレタ島よりキュプロス島の方が大きい。

この誤りは、クレタ島の東西の長さを過大に見積もっていたことが原因と思われる。

実際は、約260kmであるのに、ストラボンは、370km、あるいは、426km、大プリニウスは、432kmだと記している。[3]

 

2 最初のギリシア人

2.1 エテオクレタ人の王クレス

AD5世紀の神学者ヒエロニムスは、クレタ島を最初に統治したのは、クレスであり、クレスの名前に因んで、クレタ島と呼ばれるようになったと伝えている。[4]

ディオドロスは、クレタ島の最初の住民はエテオクレタ人であり、彼らの王は、クレスであったと記している。[5]

AD2世紀の神学者アレクサンドリアのクレメンスは、シキュオンの町では最初にアイギアレオス、次にエウロプス、そしてテルキスへと続き、クレタ島ではクレスが統治したと伝えている。[6]

ヒエロニムスの年表によれば、クレスは、第4代シキュオン王アピスの時代に、クレタ島を統治していた。[7]

 

2.2 テルキネス族の移住

AD5世紀の歴史家オロシオスは、アルゴス王ポロネオスとテルキネス族の戦いがあり、敗れたテルキネス族は、ロドス島へ移住したと伝えている。[8]

しかし、テルキネス族は、直接、ロドス島へ移住したのではなく、クレタ島を経由して移住した。[9]

AD6世紀の文法学者ビザンチウムのステファヌスは、クレタ島は、テルキニア とも呼ばれ、クレタ人 は テルキネス族 と呼ばれていたと記している。[10]

 

2.3 テルキネス族の始祖

BC2世紀の年代記作者カストールは、アピスの名前に因んで、ペロポネソスがアピアと呼ばれるようになったと記している。そのアピスは、第3代アルゴス王であり、第4代シキュオン王でもあり、同一人物であった。[11]

アピスの前の王は、第2代アルゴス王ポロネオスであり、第3代シキュオン王テルキンであった。[12]

つまり、ポロネオスと戦ったテルキネス族は、テルキンの名前に因んで名付けられた、シキュオンの町に住んでいた人々であった。

 

2.4 クレスの父

クレスは、クレテスの一人であり、クレテスとテルキネス族は同じ種族であった。[13]

つまり、クレスは、テルキネス族がアピスとの戦いに敗れて、クレタ島へ移住した時の、引率者であり、クレスの父は、当時のシキュオン王テルキンであったと推定される。

 

2.5 クレスの移住時期

クレスがテルキネス族を率いて、クレタ島へ移住したのは、テルキネス族がアピスとの戦いに敗れた後であった。[14]

年代記作者カストールによれば、アピスは、アルゴスの町を35年間、シキュオンの町を25年間支配して、テルキンとテルキオンによって殺された。[15]

つまり、テルキネス族とアピスの戦いは、アルゴス王アピスの統治10年目であった。

系図を作成すると、アピスの父ポロネオスが死んで、アピスがアルゴス王になったのは、BC1700年である。

したがって、クレスがクレタ島へ移住したのは、BC1690年と推定される。

 

2.6 クレスの入植地

クレスの入植地は、クレタ島北西部のアプテラの町の近くであったと推定される。[16]

テルキネス族と同一視されるイダ山のダクテュロスは、アプテラの町で最初に鉄の活用手段を発明した。[17]

 

3 アルカディアからの移住

BC1450年、アルカディア地方のテゲアの町に住むテゲアテスの3人の息子たち、キュドン、ゴルテュス、アルケディオスはクレタ島へ移住して、キュドニア、ゴルテュナ、カトレウスの町を創建した。[18]

深刻な食糧不足が、テゲアテスの息子たちの移住の原因であった。[19]

テゲアテスの息子たちの移住は、カリストの子アルカスの名前に因んで、アルカディア地方に住むペラスゴイ人が、アルカディア人と呼ばれる前の時代であった。[20]

ディオドロスは、エテオクレタ人が住むクレタ島へ、最初にペラスゴイ人が移住して来たと記している。[21]

テゲアテスの息子たちのクレタ島への移住によって、次の移住が発生した。

 

3.1 クノッソスからの移住

BC1450年、クノッソスの町に住んでいたキュルバスは、島の南東岸へ移住して、ヒエラピュトナの町を創建した。[22]

キュルバスの移住は、テゲアテスの息子たちの移住により、クレタ島内に動乱が発生した結果と思われる。

 

3.2 ロドスへの移住

BC1450年、エリュシクトンは、クレタ島のプラソスの町からロドス島へ移住した。[23]

エリュシクトンは、ロドス島でテルキネス族のハリアの娘ロドスと結婚し、7人の息子たちが生まれた。[25]

ロドスの息子たちは、ヘリアダイと呼ばれるようになった。[26]

 

4 鉄の発見

4.1 ギリシア人による鉄の発見年

AD1世紀の哲学者トラシュロスによれば、「イダの大火による鉄の発見」は、「洪水」から73年目であった。[27]

また、トラシュロスによれば、「7将によるテバイ攻め」は、「洪水」から293年目であった。[28]

アドラストスが率いたアルゴス人によるテバイ攻めは、BC1215年と推定されるので、「洪水」は、BC1508年となる。

その「洪水」は、BC1511年にアテナイ王が、ケクロプスからクラナオス に代わった年に発生したテッサリア地方の大洪水と推定される。[29]

したがって、鉄の発見は、BC1438年と推定される。

パロス島の大理石には、アテナイ王がパンディオンの治世(BC1442-02)に、鉄が発見されたと記されているので、妥当と思われる。[30]

 

4.2 イダ山のダクテュロスの誕生

イダ山の大火災の後で、ケルミス(または、ケルミス, スケルミス)とダムナメネオス(または、ダムナネオス)は偶然、鉄を発見し、その後、鉄の鍛鉄法を発明した。[31]

2人はテルキネス族であり、イダ山のダクテュロスと呼ばれ、人々に鉄の製錬と焼き戻しを教えた。[32]

 

4.3 各地への移住

4.3.1 トロアスへの移住

BC1435年、テウクロス (または、テウクロス, テウクロス)は移民団を率いて、クレタ島のアプテラの町を出港し、トロアス地方のハマクシトス付近に上陸した。[34]

次のことから、テウクロスは、クレタ島で最初に鉄を発見したケルミス (または、ケルミス)とダムナメネオスの兄弟と推定される。

1) テウクロスは、イダ (または、イドテア)の息子であった。[35]

2) イダ山のダクテュロスは、ダクテュロスとイダの後裔であった。[36]

3) ケルミスとダムナメネオスは、イダ山のダクテュロスであった。[37]

テウクロスには、イダ山のダクテュロスが同行し、ハマクシトスから北へ鉱脈を探索して、イダ山周辺に定住した。[38]

 

4.3.2 キュプロスへの移住

BC1430年、ケルミスとダムナメネオスは、キュプロス島で鉄を発見した。[39]

 

5 カドモスの訪問

BC1425年、アゲノールの子カドモス率いる移民団が、エーゲ海を航海して、ロドス島、テラ島、サモトラケ島を訪問した。[40]

この時、カドモスは、クレタ島にも立ち寄ったと推定される。

クレタ島で、カドモスの移民団の中にいたポイニクスの2人の娘たちに重要な出会いがあった。

 

5.1 ポイニクスの娘エウロパ

キュドニアの町に住むキュドンは、ポイニクスの娘エウロパと結婚して、2人の息子たち、ミノスとカルデュスが生まれた。[41]

 

5.2 ポイニクスの娘アステュパライア

アプテラの町に住むイダ山のヘラクレスは、ポイニクスの娘アステュパライアと結婚して、2人の息子たち、アンカイオスとペリクリュメノスが生まれた。[42]

イダ山のヘラクレスは、アクモン、ケルミス、ダムナメネオスとも呼ばれていた。[43]

 

6 BC1420年の大津波

6.1 エウロパの家族

BC1420年、クレタ 島北部を襲った大津波でキュドンは死に、エウロパは2人の息子たちと共に生き残った。

 

6.2 ドーリスからの移住

BC1420年、大津波でトラキア地方を追われたカドモス率いる移民団がテッサリア地方を通過した。その大移動の混乱に巻き込まれたヘレンの子ドロスは、ドーリス人を率いて、テッサリア地方北部からオイタ山とパルナッソス山の間へ移住した。その後、ドロスの子テクタモスは、ドーリス人の他にアイオリス人やペラスゴイ人を率いてクレタ島へ移住して来た。[44]

ドーリス人は、エリネオス、ボイオス、キュティニオンの町を建設した。[45]

AD5世紀の神学者ヒエロニムスは、テクタモスの子アステリオスの前のクレタ島の支配者として、ラピスの名前を記している。[46]

島の南東部のヒエラピュトナの町の近くにラリッサの町があったが、その町は、テクタモスと共へ移住したペラスゴイ人が建設した町と思われる。[47]

 

6.3 エウロパの再婚

テクタモスの子アステリオスは航海の途中で立ち寄ったキュドニアの町で、未亡人となったエウロパと結婚した。[48]

ミノスは、母エウロパと共にクノッソスの町へ移住せず、クレタ島中南部パイストスの町からアンドロゲネイアを妻に迎えて、息子アステリオスが生まれた。[49]

その後、テクタモスの子アステリオスは、跡継ぎを残さずに世を去った。[49-1]

BC1395年、クノッソスの町のドーリス人は、ミノスをクノッソスの町に呼び寄せ、リュクトスの娘イトネと結婚させて、アステリオスの跡を継がせた。リュクトスは、クノッソスの町の南東にあるリュクトスの町の創建者と推定される。また、テッサリア地方のイトノスの町の名前を連想させる娘の名前から推測して、リュクトスは、アステリオスの母方の祖父クレテウスの息子と思われる。ミノスとイトネの間には、息子リュカストスと娘イデアが生まれた。[50]

 

7 BC1390年の大津波

7.1 トロアスへの移住

BC1390年、リュカストスが生まれて間もなくクレタ島北部を大津波が襲い、ミノスが住むクノッソスの町も被災した。

ミノスは、キュドニアの町に住む弟カルデュスのもとへ避難した。しかし、キュドニアの町も津波の被害を受けていた。ミノスはカルデュスと共に、アプテラの町から被災者を乗せて、小アジアへ向かうアプテラの町のテルキネス族らの移民団に加わって、トロアス地方へ移住した。[51]

少し後に、カルデュスはキュドニアの町へ帰ったが、ミノスは、当時、ダルダノスの子エリクトニオスが治めていたダルダノスの町の近くに定住した。

 

7.2 リュクティウスとイデの結婚

ダルダノスの町の近くのイダ山には、ダルダノスの弟イアシオンの遺児コリュバスが母キュベレと共に住んでいた。コリュバスは、アゲノールの子キリクスの娘テーベと結婚して、娘イデが生まれた。イデとミノスの子リュクティウスは、その後、結婚した。[52]

リュクティウスとイデとは、アルカディア地方のペラスゴスの子リュカオンを共通の祖とする同族であった。

 

7.3 クレタへの帰還

ミノスの後裔は、ダルダノスの町の近くのアステュラの金鉱採掘によって富を蓄え、クレタ島へ帰還した。彼らは多くの艦船を保有し、当時、海上交通を脅かしていた島々の海賊同様の住人を駆逐して多くの島を支配してエーゲ海の制海権を手に入れた。[53]

プラトンは、『ゴルギアス』の中で、ミノスとラダマンティスはアジアで生まれたと記している。[54]

また、ペルセイスの娘パシパエも、黒海地方から、クレタ島へ嫁いだと考えるよりも、トロアス地方へ嫁いだと考えた方が妥当である。[55]

ミノスがクレタ島へ帰還したのは、パシパエとの結婚の後で、BC1295年頃と推定される。

 

7.4 ミノスの子アステリオス

ミノスの子アステリオスは、クノッソスの町から少し離れたアムニソスの町で育った。[56]

アムニソスの町も津波の被害を受け、アステリオスも父と共にトロアス地方へ移住した。

ペロポネソス半島のコリントスの町から黒海の東岸のコルキス地方への交易路がトロアス地方の近くを通っており、アステリオスは父のもとからコルキス地方へ移住した。[57]

アステリオスは、コルキス地方で妻を娶り、娘ペルセイス (または、ペルセ)が生まれた。[58]

ペルセイスは、ピネオスの息子ポリュメデス、または、クリュティウス (または、プレキッポス、または、パンディオン)のもとへ嫁いだ。ピネオスの息子たちは、黒海の南西岸のサルミュデッソスの町から黒海の北岸のタウリケ・ケルソネセ (現在のクリミア半島)へ移住して住んでいた。[59]

ペルセイスには2人の息子たち、ペルセスとアイイテス、それに、2人の娘たち、キルケとパシパエが生まれた。[60]

ペルセスは、父の跡を継ぎ、アイイテスは、後継者の絶えたコルキス地方へ移住して、ペルセスの娘ヘカテを妻に迎えた。[61]

BC1297年、パシパエは、トロアス地方に住んでいたリュカストスの子ミノスのもとへ嫁いだ。[62]

アステリオスがコルキス地方で結婚した女性は、シシュッポスの子アイイテスの娘カルキオペと、アタマスの子プリクソスの間に生まれた娘と思われる。[63]

後に、ペルセイスの子アイイテスの娘メディアが、コリントス人から招かれて町を任せられたのは、コリントスの町の創建者シシュッポスの後裔であったからであった。[63-1]

 

8 イダ山のヘラクレスとアステュパライア

8.1 イダ山のヘラクレス

イダ山のヘラクレスはイダ山のダクテュロスであり、アプテラの町の生まれと推定される。[64]

オリュンピアの町で競技会を開催して、エリスの町のアイトリオスの子エンデュミオンによって追放されたカルデュスの子クリュメノスは、イダ山のヘラクレスの孫であった。[65]

クリュメノスはBC1395年生まれで、鉄が発見されたBC1438年との間は、43年間しかない。つまり、イダ山のヘラクレスは、カルデュスの父、あるいは、カルデュスの妻の父である。しかし、カルデュスはキュドニアの町に住んでいたことから、クリュメノスはイダ山のヘラクレスの娘の息子であった。

また、カルデュスとキュドニアの町の創建者キュドンとの間は、1世代しかなく、カルデュスはキュドンの息子と推定される。

 

8.2 エレイアへの移住

BC1420年、イダ山のヘラクレスは兄弟たちと共に、大津波に襲われた人々を率いてエレイア地方へ移住した。

彼が、移住先をエレイア地方にしたのは、アルカディア出身のキュドンから聞いていたからであったと思われる。[66]

BC1419年、イダ山のヘラクレス兄弟は、オリュンピアの町で競技会を初めて開催した。[67]

イダ山のヘラクレスの兄弟たちとは、パイオナイオス、エピメデス、イアシオス、イダスであった。[68]

 

8.3 ケッロネソスへの移住

BC1416年、イダ山のヘラクレス兄弟は、ロドス島対岸のカリア地方のケッロネソスに居住して、カリア人を追い出して、5つの町を創建した。[69]

イダ山のヘラクレスとアステュパライアとの間の息子アンカイオスは、レレゲスの王となった。[70]

レレゲスは、カリア人の一部族とされるが、カリア人と混血したギリシア人と推定される。[71]

ケッロネソスで育ったイダ山のヘラクレスの娘は、クレタ島のキュドニアの町に住むカルデュスと結婚した。この遠距離婚を可能にしたのは、親戚関係であった。

つまり、イダ山のヘラクレスの妻は、ポイニクスの娘アステュパライアであり、カルデュスの母ポイニクスの娘エウロパとは姉妹であり、カルデュスとイダ山のヘラクレスの娘は、いとこ同士であった。[72]

 

9 空白時代

エウロパの子ミノスがクレタ島を去り、リュカストスの子ミノスがクレタ島へ帰還するまで、約100年間のクレタ島の状況は不明である。その間、次の2つの町の出来事だけが判明している。

 

9.1 エレイアへの移住

BC1339年、カルデュスの子クリュメノスは、クレタ島のキュドニアの町からエレイア地方のオリュンピアの町へ移住した。クリュメノスは、イダ山のヘラクレスの孫であり、オリュンピアで競技会を開催した。[73]

クリュメノスは、エリスの町のアイトリオスの子エンデュミオンに追われて、トロアス地方へ移住した。[74]

 

9.2 ミレトスからの移住

BC1318年、ヒッタイト王ムルシリ2世は、ウハジティに味方したカリア地方のミラワンダ (ミレトス)を攻撃した。[75]

クレオクスの娘アリアは、クレタ島へ逃れ、息子ミレトスが生まれた。[76]

クレオクスは、クレタ島からカリア地方へ移住したイダ山のヘラクレスの子孫であった。

アリアは、クレタ島のミラトスの町に住んでいた。[77]

 

10 リュカストスの子ミノスの時代

10.1 トロアスからの移住

BC1295年、リュカストスの息子たち、ミノスとサルペドンは、トロアス地方からクレタ島へ移住した。[78]

彼らの移住は、ウィルサ (トロイ)の王位継承争いに、彼らがトロスの子アッサラコスに味方して、戦いに敗れたためと推定される。

ミノスは、クレタ島のクノッソスの町に住んだ。[79]

サルペドンはクレタ島のミラトスの町に住んだ。[80]

 

10.2 カリアへの移住

BC1294年、クレオクスの娘アリアの子ミレトスは、クレタ島からカリア地方のマイアンドロス川の近くへ移住して、ミレトスの町を創建した。[81]

 

10.3 リュキアへの移住

BC1294年、ミノスの兄弟サルペドンは、クレタ島のミラトスの町からカリア地方へ移住して、ミレトスの町の建設に参加した。[82]

BC1289年、サルペドンは、ミレトスの町からミリャス(後のリュキア)地方へ移住した。 [83]

 

10.4 パロスへの移住

BC1265年、ミノスの息子たち、エウリュメドン、ネパリオン、クリュセ、ピロラオスは、クレタ島からパロス島へ移住した。[84]

パロス島は、ミノイアとも呼ばれていた。[85]

 

10.5 アテナイからの移住

BC1265年、メティオンの子エウパラモスの子ダイダロスはアイゲウスに追われて、アテナイの町からクレタ島へ移住した。[86]

ダイダロスと共に、パンディオンの子パラスの息子たちもクレタ島へ移住して、ミノスの子アンドロゲウスと親しくなったと推定される。

 

10.6 アテナイとの戦い

10.6.1 戦いの原因と結果

BC1264年、ミノスの子アンドロゲウスは、テバイの町で開催されるラブダコスの子ライオスの葬送競技会へ行く途中、キタイロン山麓のオイノエの町で殺害された。[87]

ディオドロスは、アンドロゲウスがアイゲウスの政敵パラスの息子たちと親密であったため、その意図を疑われて殺害されたと伝えている。[88]

ヒュギーヌスは、アイゲウスとミノスとの戦闘中にアンドロゲウスが死んだと伝えている。[89]

恐らく、アイゲウスと義兄弟との戦いの後で、その次の世代であるパラスの息子たちがアンドロゲウスを通して、ミノスの援助を得て、アイゲウスに戦いを挑んだものと思われる。

ミノスは戦いに勝利した。アテナイの町は、9年ごとに若い男女7人ずつを人質として島へ送ることになった。[91]

 

10.6.2 アイギナへの移住

BC1264年、ミノスはアテナイ人との戦いの後で、アイギナ島にクレタ人を入植させた。[92]

クレタ人の入植によって、アイギナ島に住んでいたアイアコスの息子たちは、島から移住した。[93]

トロイ戦争時代、クレタ人は、アイギナ島からサラミス島へも居住地を広げて、テラモンの後裔は、アッティカ地方へ移住した。[94]

 

10.6.3 ケオスとの戦い

BC1264年、ミノスはケオス島を攻撃して、捕虜にしたデクシテアを妻にした。[95]

デクシテアは、ヒュプセウスの娘キュレネの子アリスタイオスがケオス島に残した子供たちの子孫であった。[96]

 

10.6.4 ボイオティアへの移住

BC1264年、ミノスの兄弟ラダマンティスは、ボイオティア地方のオンケストスの町へ移住した。[97]

オンケストスの町は、メガラの町のパンディオンの子ニソスに加勢して戦死したヒッポメネスの子メガレウスが領していた。[98]

 

10.7 Athenからの移住

BC1262年、カルマノールと彼の息子エウブロスは、アテナイの町からクレタ島西南部のタッラの町へ移住した。[99]

カルマノールは、第8代アテナイ王パンディオンの息子であり、カルマノールは、義兄弟アイゲウスに追放されたと推定される。

BC1251年、カルマノールの娘クリュソテミスは、ピュティア祭で賛歌を歌う競技会に参加して勝利した。[100]

 

10.8 ミノスの死

テセウスとパイドラが結婚したとき、クレタ島の支配者はデウカリオーンであったことから、ミノスはBC1245年頃に死んだと推定される。[101]

ヘロドトスは、ミノスの死から2世代後にトロイ戦争があったと伝えているので、概ね合致する。[102]

ミノスの死後、クレタ島には強力な指導者が現れず、内戦が続いたと推定される。

海岸近くに住んでいた人々は、より堅固な町を内陸の高地に造った。[103]

BC3世紀のシキュオンの町のクレイニアスの子アラトスは、ボイオティア, ポキス, アカルナニアと並び、クレタ島には数多くの攻めがたい山々があると述べている。[104]

 

11 ミノスの子デウカリオーンの時代

11.1 結婚による同盟

ミノスの跡を継いだデウカリオーンは、アテナイの町と同盟を結ぶために、彼の姉妹パイドラをアイゲウスの子テセウスに嫁がせた。[105]

また、同じ頃、ペロポネソスの2つの町にデウカリオーンの2人の姪たちが嫁いでいる。

 

11.2 アテナイへの嫁入り

BC1241年、ミノスの娘パイドラは、アテナイの町に住むアイゲウスの子テセウスのもとへ嫁いだ。[106]

パイドラと共に、ミノスの娘アリアドネの子ケラモスは、ナクソス島からアテナイの町へ移住して、ケラメイコス区の名祖になった。[107]

ケラモスと共に、多くの陶工たちがクレタ島から移住し、ケラミコス区は、陶工たちの街(陶工たちの区)になった。[108]

 

11.3 クレオナイへの嫁入り

BC1235年、ミノスの子カトレウスの娘アエローペ(または、エリピュレ)は、クレオナイの町に住むアトレウスの子プレイステネス (または、プリステネス)のもとへ嫁いだ。[109]

当時、アルゴス地方のクレオナイの町から約10km離れたプリウスの町には、プリアソスが住んでいた。

プリアソスは、ミノスの娘アリアドネの息子であり、アエローペは彼の従妹であった。[110]

プレイステネスとアエローペの遠距離婚は、プリアソスが仲介したと推定される。

 

11.4 ナウプリアへの嫁入り

BC1234年、ミノスの子カトレウスの娘クリュメネは、アルゴス地方のナウプリアの町に住むクリュトナイオスの子ナウプリオスのもとへ嫁いだ。[111]

クリュメネとナウプリオスの婚姻が成立は、クリュメネの姉妹アエローペとプレイステネスの結婚によるものであったと推定される。

 

11.5 クレタの戦乱

BC1230年、クレタ島内で新たな町の創建や、各地への大規模な移住があった。

これ以前の婚姻関係などから推測して、クレタ島内で戦乱があったと推定される。

 

11.5.1 メッサピアへの移住

BC1230年、ダイダロスの子イアピクス率いる移民団は、イタリア半島東南部のメッサピア地方に入植した。[112]

イアピクスが入植したヒュリアの町の近くを流れる川はイアピクス川、地方はイアピュギア地方、岬はイアピュギア岬、住民はイアピュギア人 (または、イアピュゲス)と呼ばれるようになった。[113]

 

11.5.2 アプリアへの移住

BC1230年、ミノスの子クレオラオス率いる移民団は、イタリア半島東南部アプリア地方に入植した。クレオラオスは自分の部族を息子ダウノスに因んで、ダウニー族と呼ばせた。[114]

クレオラオスの子ダウノスの娘エウイッペは、アイトリア人を率いてアプリア地方へ移住して来たテュデオスの子ディオメデスと結婚した。[115]

 

11.5.3 マケドニアへの移住

BC1230年、ボットン率いる移民団は、イアピクスが率いる移民団と別れて、陸路でマケドニア地方へ移住した。[116]

ボットンの入植地は、テルマイオス湾へ注ぐ、アクシオス川の西方、ハリアクモン川の北方の土地であった。[117]

後のペッラの町の少し北に、アイオロスの子マケドンとケクロプスの娘オレイテュイアの息子エウロプスが75年前に創建したエウロプスの町があった。[118]

ボットンの移民団には、アイゲウスの時代にアテナイの町からクレタ島に送られたアテナイ人の子孫が含まれていた。[119]

また、エウロプスの町の住人には、オレイテュイアの嫁入りに伴って、アテナイの町から移住した人々の子孫がいた。ボットンは、エウロプスの母オレイテュイアの父ケクロプスの子パンディオンの娘メロペ (または、アルキッペ)の子ダイダロスの息子であった。[120]

つまり、エウロプスは、ボットンの祖母の従兄であった。

ボットンと共に旅をしていた人々は、異郷の地で、言葉の通じる住人に出会って、驚いたと思われる。

 

11.5.4 小アジアへの移住

BC1230年、ラダマンティスの子エリュトラスはクレタ島から移民団を率いて、キオス島の対岸へ移住してエリュトライの町を創建した。[121]

エリュトライの町には、クレタ人に友好的なカリア人や、少し前に、ミノスに追い出されて、サルペドンと共へ移住して、リュキア人と呼ばれていた人々が共住した。[122]

 

11.5.5 ロドスへの移住

BC1230年、ミノスの子カトレウスの子供たち、アルタイメネスとアペモシュネは、クレタ島からロドス島へ移住した。[123]

アルタイメネスは、ロドス島内で一番高いアタビュリス山にゼウスの祭壇を設けた。[124]

アルタイメネスの定住地は、カメイロスの町であった。[125]

 

11.5.6 リビュアへの移住

BC1230年、ミノスの娘アカカリスの子アンピュテミスは、クレタ島のタッラの町からリビュアへ移住した。[126]

 

11.5.7 オアクソスの創建

BC1230年、ミノスの娘アカカリスの子オアクソスは、タッラの町からイダ山の近くへ移住して、オアクソスの町を創建した。[127]

BC7世紀初頭、オアクソスの町は、エテアルコスが支配していた。エテアルコスの娘プロニメは、テラ島のポリュムネストスのもとへ嫁ぎ、息子バットスが生まれた。[128]

BC630年、バットスは、テラ島から植民団を率いてリビュアに渡り、キュレネを創建した。[129]

バットスは、神託によって、リビュアにキュレネを創建したと伝えられている。[130]

しかし、アカカリスの子アンピュテミスがリビュアへ移住した後で、オアクソスの町とリビュアの間に交流があったと推定される。

 

11.5.8 エリュロスの創建

BC1230年、ミノスの娘アカカリスの2人の息子たち、ピュラキデスとピランドロスは、タッラの町の近くにエリュロスの町を創建した。[131]

 

11.5.9 アイギナへの移住

BC1205年、カルマノールの子エウブロスの娘カルメの娘ブリトマルティスは、クレタ島からアイギナ島へ移住した。[132]

AD3世紀の著述家アントニヌス・リベラリスは、ブリトマルティスが漁師アンドロメデスの船でアイギナ島に到着したと伝えているが、アンドロメデスはブリトマルティスの夫と思われる。[133]

アイギナ島にアパイアの神域があるが、アパイアとは、神格化されたブリトマルティスの名称であった。[134]

ブリトマルティスの移住も、クレタ島内での戦乱が原因と思われる。

 

11.5.10 小アジアへの移住

BC1213年、ヘラクレスの子トレポレモスはテュリンス人を率いて、アルゴス地方からロドス島へ移住した。[135]

この時、テュリンス人の中には、エウリュステウスの一族であるレベスも含まれていた。レベスは、トレポレモスと共にロドス島まで行かずに、クレタ島に定住した。[136]

レベスは、ミュケナイ人であった。[137]

BC1200年、レベスの子ラキオスは、クレタ島から小アジアへ渡ってコロポンの町を創建した。[138]

ラキオスは、ティレシアスの娘マントからエピゴノイに攻められてテバイの町が陥落した話を聞いて涙を流した。レベスはミュケナイ人であり、ステネロスの子イピトスの息子と推定される。[139]

イピトスの姉妹アステュメドウサは、テバイの町のライオスの子オイディプスに嫁いでいた。[140]

 

12 トロイ戦争時代

12.1 伝承

伝承には、次のように記されている。

ミノスの子デウカリオーンの子イドメネオスと、ミノスの子モロスの子メリオネスは、クレタ人を率いて、トロイ遠征に参加した。[141]

イドメネオスには、ディクテュスが同行して、"トロイ戦争日誌"をフェニキアの アルファベットで記録した。[142]

その記録は、ホメロスも書き写したと伝えられている。[143]

ディクテュスは、ラエルテスの子オデュッセウスを通して情報を得たと記している。[144]

トロイ陥落後、イドメネオスとメリオネスは、無事にクノッソスの町に帰還した。[145]

その後、クレタ島では、飢饉と疫病により、多くの人々が死に、少しの住人が生き残った。[146]

 

12.2 史実

イドメネオスは、クレタ島からカラブリアへ移住したという伝承がある。[146-1]

カラブリアは、メッサピアやイアピュギアの別名であった。[146-2]

つまり、イドメネオスは、トロイ戦争より40年以上前に、イアピクスと共に、イタリア半島東南部へ移住したと推定される。

 

13 トロイ戦争より後の時代

13.1 アルゴスからの移住

BC1070年、テメノスの子ケイソスの子アルタイメネスは、アルゴスの町からドーリス人とペラスゴイ人を率いてクレタ島へ植民した。[147]

彼らの移住の原因は、ペロポネソスに発生した飢饉であった。[148]

アルタイメネスの移民団には、メガラの町に住んでいたドーリス人も参加していた。[149]

BC4世紀の歴史家エポロスは、アルタイメネスが率いたドーリス人がクレタ島に10市を建設したと伝えている。[150]

ポリスとデルポスが率いる移民団はゴルテュナの町を攻略して、先住民と共住した。[151]

ゴルテュナの町は、BC1450年にアルカディア地方のテゲアの町から移住したテゲアテスの子ゴルテュスによって創建された町であった。[152]

ポリスとデルポスが率いたのは、アミュクライの町に住んでいたピロノモスの後裔のミニュアス人であった。[153]

ドーリス人やミニュアス人のクレタ島移住は、さらなる内戦を招いたと推定される。

 

13.2 内戦の終息

BC750年、スパルタ王テレクロスの子アルカメネスは、エウテュスの子カルミダスをクレタ島へ派遣して内戦を終息させた。[154]

カルミダスは、それまで海から離れて町を作っていた人々を海岸の近くへ移住させて、町を作らせた。

 

13.3 シシリーへの移住

BC688年、クラトンの子エンティモスはクレタ人を率いて、シシリー島南東部へ移住してゲラの町を創建した。[155]

ロドス島からリンドス人を率いたアンティペモスは、エンティモスに協力した。[156]

ゲラの僭主ゲロの先祖デイノメネスもロドス島のリンドスの町からゲラの町の創建に参加した。[157]

ゲラの町の創建は、シュラクサの町の創建から45年目であった。[158]

 

13.4 テラへの嫁入り

BC671年、エテアルコスの娘プロニメは、テラ島に住むポリュムネストスのもとへ嫁いだ。[159]

クレタ島のオアクソスの町に住むエテアルコスは、オアクソスの町の創建者、アカカリスの子オアクソスの後裔と思われる。[160]

ポリュムネストスとプロニメの息子バットスは、テラ島から植民団を率いてリビュアに渡り、キュレネを創建した。[161]

 

おわり

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