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第32章 エウボイア島の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2025.10.30

1 はじめに

1.1 島の名前

Straboは、Euboea島の名前は、heroineの名前に因むと記している。[1]

Heroineとは、Aeolusの子Macareusの娘Euboeaと思われるが、彼女とEuboea島との関係は不明である。[2]

Euboea島は、Chalcodontis、Macris、Macra、Chalcis、Abantias、Asopisとも呼ばれた。[3]

 

1.2 最初の入植者

文献に登場するEuboea島への最初の入植者は、BC1420年、Cadmusの移民団の中にいたArabiansであった。[4]

その後、Arabiansは、島に住んでいた先住民と混血したようである。

BC1360年、Erechtheusの子Pandorusが入植する前の島の住人は、Lelegesと呼ばれていた。[5]

Lelegesとは、特定の種族に属さない混血した人々に与えられた名前であった。[6]

 

この章では、Euboea島内の次の町の歴史について記述する。

Aedepsus、Carystus、Cerinthus、Chalcis、Dium、Ellopia、Eretria、Hestiaea、Oechalia、Orobia、Styra、Tamynae。

 

2 Aedepsusの歴史

BC1085年、Xuthusの子Ellopsは、Aedepsusの町を、Ellopiaの町に併合した。[6-1]

Aedepsusの町は、Romeの将軍Sullaも利用した温泉があることで有名であった。[6-2]

 

3 Carystusの歴史

BC1世紀の地理学者Pomponius Melaは、Chalcisの町とCarystusの町は、Euboea島の中で最も裕福な町だと伝えている。[7]

Carystusの町は、大理石や石綿の産地であった。[8]

 

3.1 Carystusの創建

BC1280年、Scyrius (or Chiron, Cheiron)の子Carystusは、Salamis島からEuboea島南東部へ移住して、Carystusの町を創建した。[9]

Scyriusは、第9代Athens王Aegeusの実父であり、第7代Athens王Cecropsの息子と推定される。[10]

 

3.2 Delosへの移住

BC1245年、Carystusの子Petraeusの子Zarexは、Carystusの町からDelos島へ移住した。[11]

Delos島のApollo神殿の建立者は、初代Athens王Cecropsの息子Erysichthonであった。[12]

Zarexは、Athens王の血筋にあり、Zarexは、Delos島のApollo神殿の神官であったと推定される。

BC1241年、第10代Athens王Theseusは、Crete島からの帰路、Delos島に立ち寄っているが、その時、島には彼の従兄弟Zarexがいたと思われる。[13]

 

3.3 Dryopisからの移住

BC1230年、HeraclesやMaliansに追われたDryopiansは、Dryopis地方からCarystusの町へ移住した。[13-1]

Carystusの町の近くのStyraの町には、それ以前から、Dryopiansが住んでいた。[13-2]

 

3.4 Hyperboreansとの関係

Carystusの町は、HyperboreansがDelos島へ供え物を届ける中継地であった。[14]

Diodorusは、Hyperboreansと、AtheniansやDeliansは、古くから深い関係にあったと記している。[15]

Herodotusは、供え物がCarystusの町からAndros島とTenos島を経てDelos島に着いていたが、Andros島が省略されたと伝えている。[16]

Andros島が省略されたのは、島の人々が反乱を起こして、Aniusの子Androsを追い出したことが原因と思われる。[17]

 

4 Cerinthusの歴史

4.1 創建者Cothus

AtheniansのCothusが、Cerinthusの町を創建したという伝承がある。[18]

このCothusは、Xuthus (or Ion)の息子と思われるが、彼は、Trojan Warの後で、Chalcisの町を創建している。[19]

しかし、Cerinthusの町は、Homerの『軍船目録』に登場しており、Trojan Warの時には、既に存在していた。[20]

また、Cothusの兄弟EllopsがCerinthusの町を攻略したと伝えており、CothusがCerinthusの町の創建者とは考えられない。[21]

 

4.2 創建者Canethus

つぎのことから、Cerinthusの町の創建者は、Abasの子Canethusと推定される。

1) BC1310年、Lynceusの子Abasは、Phocis地方のAbaeの町からChalcisの町へ移住した。[21-1]

2) Cerinthusの町のAbasの子Canethusの子Canthusが、Argonautsの遠征物語に登場している。[21-2]

CanethusによるCerinthusの町の創建は、BC1280年と推定される。

Cerinthusの町の住人は、Chalcisの町から移住したAbantesであった。

 

4.3 Ellopiaによる併合

BC1085年、Xuthusの子Ellopsは、Cerinthusの町を、Ellopiaの町に併合した。[21-3]

 

5 Chalcisの歴史

5.1 最初の住人

BC1420年、Cadmusと共にBoeotia地方へ移住して来たCuretesが、Chalcisの町で銅鉱床を発見した。[22]

Curetesは、Sicyonの町に起源を持つTelchinesであり、Rhodes島、あるいは、Samothrace島からCadmusの移民団に参加したと思われる。[23]

 

5.2 Athensからの移住

BC1360年、第6代Athens王Erechtheusの息子Pandorusは、Athensの町からEuboea島へ渡って、Chalcisの町を創建した。[24]

Pandorusの移住は、兄弟間の争いが原因と推定される。

 

5.3 Diumへの移住

BC1335年、Pandorusの子Diusは、Chalcisの町から北西へ約80kmのCenaeon岬付近に移住して、Dium (or Dion, Dios)の町を創建した。[25]

 

5.4 Athensからの移住

BC1320年、第7代Athens王、Erechtheusの子Cecropsは、Euboea島へ移住した。[26]

Cecropsの移住は、彼の兄弟Metionとの争いが原因であり、先にEuboea島へ移住していた兄弟Pandorusを頼って移住したと推定される。

 

5.5 Phocisからの移住

BC1310年、Lynceusの子Abasは、Phocis地方のAbaeの町からChalcisの町へ移住した。[27]

Abasは、Argosの町のDanausの孫Abasの後裔であり、Euboea島のAbantesの名祖になった。[28]

HyantesがBoeotia地方からAbaeの町の近くのHyampolisへ逃れて来たことが、Abasの移住の原因と思われる。

 

5.6 Athensへの嫁入り

BC1282年、Chalcodon (or Calchodon, Rhexenor)の娘Chalciopeは、第8代Athens王Pandionの養子Aegeusに嫁いだ。[29]

この結婚が縁で、Aegeusの子Theseusの息子たちは、Athensの町を追われた時、Chalcodonの子Elephenorのもとへ亡命した。[30]

 

5.7 Cerinthusの創建

BC1280年、Abasの子Canethusは、Chalcisの町からEuboea北部へ移住して、Cerinthusの町を創建した。[30-1]

 

5.8 Thebesからの移住

BC1270年、叙事詩人Linusは、Thebesの町からEuboea島のChalcisの町へ移住した。[31]

Amphimarusの子Linusの墓は、Chalcisの町にあった。[32]

この後、Chalcisの町は文芸の町になり、Hesiodが参加した競技会が催された。[33]

 

5.9 Phocisへの侵入

BC1262年、Euboea島に住んでいたCriusの息子は、Phocis地方のDelphi周辺を荒らして、Apolloに討ち取られた。[34]

この時、Apolloが討ち取ったのは、Orchomenusの娘Elareの子Tityusであった。[35]

つまり、Criusの息子の名前は、Tityusであった。Criusは、Lynceusの子Abasの兄弟と推定される。

 

5.10 Boeotiaへの侵入

BC1258年、Euboea島のChalcisの町に住むAbasの子Chalcodonは、Boeotia地方に侵入した。Chalcodonは、Thebesの町のAmphitryonとTeumessusの町近くで戦い、討ち取られた。[36]

Criusの息子やChalcodonの暴挙は、Euboea島を襲った干ばつによる飢饉が原因と思われる。[37]

 

5.11 Naupliaからの亡命

BC1225年、Argolis地方のNaupliaの町に住んでいたClytonaeusの子NaupliusがAchaeansに追われて、Chalcisの町へ亡命した。[38]

このとき、Naupliusの子Palamedesも父と共にChalcisの町に住み着いたと推定される。[39]

Palamedesは、Chalcisの町でPelasgic lettersを学び、alphabetに新たな文字を追加した。[40]

 

5.12 Athensからの亡命

BC1210年、Theseusの2人の息子たち、DemophonとAcamasは、Athensの町からChalcisの町のChalcodonの子Elephenorのもとへ亡命した。[41]

彼らは、Thesprotis地方へ出かけたTheseusの留守を狙って、武装蜂起したMenestheusによって追放された。[42]

Elephenorは、Aegeusの妻Chalciopeの兄弟であった。

つまり、Elephenorは、Theseusの息子たちの父の義母の兄弟であった。

 

5.13 Tanagraからの訪問

BC1190年、Tanagraの町に住むPoemanderは、過失により息子を殺害し、Chalcisの町のChalcodonの子Elephenorによって、清められた。[43]

 

5.14 Trojan Warの時代

BC1188年、Chalcisの町のChalcodonの子Elephenorは、Abantesを率いて、Troyへ遠征した。[44]

BC1186年、Theseusの2人の息子たち、DemophonとAcamasは、Chalcisの町からAthensの町へ帰還した。[45]

BC1186年、Troyへ遠征したAchaeansは、Iliumの町に敗れ、Elephenorを失ったAbantesは、各地へ移住した。

Abantesの一部は、Chios島に定住し、残りは、Locriansと共にIllyria地方へ移住して、Throniumの町を創建した。[46]

 

5.15 Peloponnesusからの移住

BC1126年、Orestesの子PenthilusがLesbos島へ向けて、Aulis港から出航する際、移民団の中にいたAeolisの一部は、Chalcisの町に住み着いた。[47]

 

5.16 Athensからの移住

BC1085年、Xuthus (or Ion)の子Cothusは、Athensの町からChalcisの町へ移住して、新しいChalcisの町を創建した。[48]

 

5.17 葬送競技会

BC730年、Chalcisの町でAmphidamasの葬送競技会が開催されて、Hesiodが優勝した。[49]

 

5.18 橋の建設

BC411年、ChalcidiansとBoeotiansは、共同で、Boeotia地方からEuboea島へ渡る橋を作った。[50]

Hesiodは、AulisからEuboea島へ船で渡ったと記している。BC4世紀の歴史家Ephorusは、約60mの橋があったと伝えている。[51]

 

6 Diumの歴史

BC1335年、Pandorusの子Diusは、Euboea島北西部のCenaeon岬付近にDium (or Dion, Dios)の町を創建した。[52]

後に、Diumの町の住人は、Aetolia地方にCanaeの町を創建した。[53]

 

7 Ellopiaの歴史

BC1085年、Xuthus (or Ion)の子EllopsはIoniansを率いて、Athensの町からEuboea島北部に移住して、Ellopiaの町を創建した。[54]

その後、Ellopsは、周辺のHistiaea、Perias、Cerinthus、Aedepsus、Orobiaを攻略した。[55]

 

8 Eretriaの歴史

8.1 Eretriaの創建

Straboは、Eleia地方のTriphylian Macistusから入植したEretrieusが、Eretriaの町を創建したと伝えている。[56]

恐らく、名前が似ていることから生まれた作り話と思われる。

Eretriaの古い名前は、Melaneisであり、Eurytusの父Melaneusに因む名前であった。[57]

BC1237年、EurytusがMessenia地方のOechaliaの町からEuboea島へ移住して来たときに、Melaneisの町を創建したと推定される。その後、Eurytusは、Melaneisの町の近くにOechaliaの町を創建した。[58]

 

8.2 Eretria新市の創建

BC1085年、Xuthusの子AeclusはIoniansを率いて、Athensの町のEretria区からEuboea島に移住して、新しいEretriaの町を創建した。[59]

Ioniansの中には、Gephyraeans (Phoenicians)も含まれていた。[60]

Gephyraeansは、後にAttica地方のAphidnaの町へ再移住した。BC6世紀のAthensの町の僭主Hippiasの兄弟Hipparchusを暗殺したHarmodiusとAristogeitonは、Aphidnaの町出身のGephyraeansであった。[61]

 

8.3 亡命者の上陸を阻止

BC734年、Corcyra島に入植していたEretriansは、後から入植して来たCharicrates率いるCorinthiansによって、島から追放された。

Eretriansは、故郷のEretriaの町へ上陸しようとしたが阻止され、Macedonia地方のMethoneの町に住み着いた。[62]

 

9 Hestiaeaの歴史

9.1 Hestiaeaの創建

BC1205年、EpigoniのThebes攻めによって、Thebesの町を追われたThebansの一部は、Euboea島北部にHestiaea (or Histiaea)の町を創建した。[63]

 

9.2 Chiosへの移住

BC1075年、Xuthus (or Ion)の息子と思われるAmphiclusは、Hestiaeaの町からChios島へ移住した。[64]

 

9.3 Atheniansによる住人の追放

BC446年、Histiaeaの町の住人は、Atheniansに対して反乱を起こした。Athensの将Periclesは、Histiaeansを町から住人を追放した。[65]

 

9.4 Ellopiaからの移住

BC371年の、Leuctraの戦いの後で、Ellopiaの町からHestiaeaの町へ住人が移住して来て、Hestiaeaの町の人口が増えた。[66]

 

10 Oechaliaの歴史

10.1 Oechaliaの創建

BC1237年、Melaneusの子Eurytusは、Spartaの町のOebalusの子Tyndareusによって、Messenia地方のOechaliaの町から追放された。[67]

Eurytusは、Euboea島へ移住して、Oechaliaの町を創建した。[68]

Eurytusは、Oechaliaの町を創建する前に、Melaneis (後のEretria)の町を創建していた。[69]

 

10.2 Oechaliaの破壊

BC1224年、Oechaliaの町のEurytusは、Heraclesに攻められて、彼の息子たちと共に戦死した。[70]

Doriansに味方したHeraclesと、Lapithsに味方したEurytusとの戦いであった。Heraclesとの戦いに敗れたLapithsがOechaliaの町へ逃げ込んでいて、激しい戦いで、Oechaliaの町は破壊された。[71]

 

11 Orobiaの歴史

Orobiaの町には、偽りのないことでは、他に類を見ない神託所があった。[71-1]

 

11.1 Ellopiaによる併合

BC1085年、Xuthusの子Ellopsは、Orobiaの町を、Ellopiaの町に併合した。[71-2]

 

11.2 大地震の発生

BC426年、大地震が発生して、Orobiaの町は、津波によって、洗い流された。[71-3]

 

12 Styraの歴史

Styraの町には、Oeta山とParnassus山の間のDryopis地方から移住して来たDryopiansが住んでいた。[72]

BC1230年、Heraclesは、Dryopis地方からDryopiansを追い出したが、それ以前に、Styraの町にDryopiansは住んでいた。[73]

 

13 Tamynaeの歴史

13.1 Thessalyからの亡命

BC1236年、Thessaly地方のPheraeの町のPheresの子Admetusは、Euboea島のTamynaeの町へ亡命した。[74]

Thessaly地方のIolcusの町で発生したMinyansの反乱は、Pheraeの町にも影響した。

Admetusの母は、Orchomenusの町のMinyasの娘Periclymeneであり、彼女と共に移住して来たMinyansがPheraeの町にも住んでいた。[75]

Admetusは、彼の妻Alcestisの前夫Hippasusの息子Theseusが住んでいたTamynaeの町へ逃れた。[76]

 

13.2 Tamynaeの創建

Tamynaeの町は、Eurytusが創建したOechaliaの町の近くにあり、Tamynaeの町の創建者は、Hippasusの子Theseusであったと推定される。

Hippasusは、Eurytusの息子であり、Theseusは、Eurytusの孫であった。[77]

Theseusは、彼の母Alcestisの連れ子として、Admetusのもとで育てられていたが、後に、祖父Eurytusのもとへ引き取られた。[78]

後に、Theseusは、Oechaliaの町の近くにTamynaeの町を創建した。

あるいは、祖父とTheseusが住んでいたOechaliaの町へ、Thessaly地方からAdmetusが逃れて来て、Theseusと共に、Tamynaeの町を創建したのかもしれない。

Admetusは、Tamynaeの町にApolloの神殿を建立した。[79]

 

おわり

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