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第7章 トロイ戦争(BC13 - 12世紀) 

Create:2025.10.30, Update:2025.10.31

Trojan WarS.png

1はじめに

Greeceの伝承によれば、Troy王国は、Teucrusの娘婿Dardanusから始まり、Erichthonius、Tros、Ilus、Laomedon、Priamへと継承され、Priamの時代に、Trojan Warがあったと伝えられている。しかし、Hittite文書から得られる情報とGreeceの伝承とを突き合わせると、Troy王国が成立し、発展していく過程で、Iliumの町を戦場とする多くの戦いがあったことが分かる。

その戦いには、Greeceの伝承には登場しないHittiteが大きく関与していた。

Greeceの伝承を精査すると、Iliumの町を舞台にした攻防戦が4回確認され、2回目以降は、Achaeansも参加した。

1) BC1295年、Ilusの子Laomedonは、Trosの子Assaracusの息子たちの協力を得たPhaenodamasによって、Iliumの町から追放された。Laomedonは、Hittiteの援助を得てIliumの町を奪還した。

2) BC1244年、Laomedonの子Priamは、Achaeansの協力を得たTrosの子Assaracusの後裔たちによってIliumの町から追放された。Priamは、Hittiteの援助を得てIliumの町を奪還した。

3) BC1188年、Priamの子Hectorは、Antenorの息子たちによって、Iliumの町から追放された。Hectorは、Achaeansの協力を得てIliumの町を奪還しようとしたが果たせなかった。

4) BC1170年、Hectorの息子たちは、Achaeansの協力を得て、Antenorの息子たちが占拠していたIliumの町を奪還した。

 

2 戦いの前の状況

2.1 Anatolia北西部への入植

GreeksがAnatolia半島北西部に最初に入植したのは、BC15世紀であった。

BC1435年、Idaea (or Ida, Idothea)の子Teucrus (or Teucer)率いる移民団は、Crete島からTroad地方へ移住して、Hellespont近くにTeucris (後のDardanus)の町を創建した。[1]

その当時、後にIliumの町となる丘には、Hittiteの属国Wilusaの人々が住んでいた。

BC1425年、Agenorの子Cilixは、EgyptからSidonの町を経由してIda山近くへ移住して、Thebeの町を創建した。[2]

BC1420年、Electraの子Dardanusは、Arcadia地方からSamothrace島を経由して、Troad地方へ移住して、Teucrusと共住した。[3]

BC1390年、Europaの子Minosは、Crete島のCnossusの町からTroad地方へ移住した。[4]

BC1390年、Archanderの子Belusは、Egyptから移民団を率いて、Cyzicus近くのAesepus川河口近くへ入植した。Belusの入植地はEthiopiaと呼ばれた。[5]

Belusの種族は、Achaeusの子Archanderに率いられて、Argosの町からEgyptへ移住したAchaeansであった。[6]

Belusの子Phineusは、Dardanusの娘Idaeaと結婚した。[7]

BC1380年、Phineusは、黒海南西岸へ移住して、Salmydessusの町を創建した。[8]

BC1350年、Phineusの息子たちは、Salmydessusの町からAnatolia半島へ、つぎのように移住した。

1) Bithynusは、Bithynia地方へ移住した。[9]

2) Thynusは、Phrygia地方へ移住した。[10]

3) Mariandynusは、後のHeracleiaの町の近くへ移住した。[11]

4) Paphlagon (or Paphlagonus)は、Paphlagonia地方へ移住した。[12]

 

2.2 Hittiteの対応

Greeksが入植したTroad地方および、その周辺は、Hittiteの属国Wilusaが領有しており、両者の間には、争いがあったと推定される。

WilusaとHittiteとは、BC17世紀から親交があった。[13]

当然、属国領へ侵入した異民族へは、Hittiteも対応するはずである。

しかし、当時のHittiteは、中王国時代の末期にあって、内紛が続いて混乱していた。

WilusaとGreeksとの争いは、小規模なものであったと思われる。

 

2.3 黒海周辺への入植

BC1390年、Sisyphusの子Aeetesは、Ephyraea (後のCorinth)の町から黒海東岸のColchis地方へ移住した。[14]

BC1380年、Belusの子Phineusは、Ethiopiaから黒海南西岸へ移住して、Salmydessusの町を創建した。[15]

BC1370年、Europaの子Minosの子Asteriosは、Troad地方からColchis地方へ移住した。[16]

BC1370年、Aeetesの娘婿Phrixusの子Cytissorusは、Colchis地方から黒海南岸に移住してCytorusの町を創建した。[17]

BC1345年、Phineusの息子たち、Clytius、Polymedes (or Plexippus, Pandion)は、Salmydessusの町からTauric Chersonese (現在のCrimea)へ移住した。[18]

 

2.4 対立の発生

BC1435年にTeucrusが初めてTroad地方に入植してから、100年の間に、Troad地方や黒海沿岸地方には多くの町が建設され、多くのGreeksが入植した。

危機感を募らせたWilusa王は、Dardanusの子Erichthoniusの子Trosの子Ilusに娘を嫁がせた。[19]

Ilusは、妻の父が死ぬと、Wilusaの王位を継承して、Iliumの町へ移り住んだ。[20]

娘婿が王位を継承することは、Hittite王の系譜にもあり、HittiteはIlusをWilusa王として承認した。Ilusは、Hittiteへ朝貢する義務を負ったものの、Hittiteと同盟関係になった。[21]

Dardanusの町は、Trosの死後、彼の息子Assaracusが継承した。[22]

IlusがWilusa王を継承した後で、AssaracusとIlus、つまり、Dardanusの町とIliumの町との対立が生じた。

IlusがWilusaの王位を継承したのは、BC1327年と推定される。

Hittite文書に登場するWilusa王Kukkunniは、Ilusの妻の父であったと思われる。

 

2.5 東方への領土拡張

Ilusは、Hittiteの強力な後ろ盾を得て、東方へ領土を拡張した。

BC1325年、Ilusは、Ida山近くに住んでいたTantalusを追放した。[23]

BC1320年、Ilusは、さらに東方のMysia of Olympeneに進出し、BebrycesのByzosと戦って、勢力を拡大した。[24]

 

3 第1回Trojan War (1295 BC)

3.1 王位継承争い

BC1296年、Trosの子Ilusが死に、Laomedonが王位を継承した。[25]

Laomedonは、IlusとWilusa王の娘との息子であり、Hittite文書に記されたAlaksanduは、Laomedonであったと推定される。[26]

BC1295年、Laomedonは、Phaenodamas (or Hippotes)によって、Iliumの町から追放された。[27]

Phaenodamasは、IlusとAdrastusの娘Eurydiceの息子であり、Laomedonの異母兄弟であったと推定される。[28]

Laomedonは、HittiteやHittiteの属国から援軍を得て、Iliumの町を奪還した。[29]

戦いに敗れたPhaenodamasと彼の息子たちは、Laomedonによって殺された。[30]

残されたPhaenodamasの3人の娘たちは、Sicily島へ逃れた。[31]

Sicily島で、Phaenodamasの娘Egestaに息子Aegestus (or Acestes)が生まれた。[32]

 

3.2 Assaracusの息子たちの関与

IlusがWilusa王を継承して、Dardanusの町からIliumの町へ移った後で、Dardanusの町は、Ilusの異母兄弟Assaracusが継承した。[33]

Ilusの子Laomedonの子Priamには、47人の息子たちがいた。[34]

Priamと同世代のAntenorには、19人の息子たちがいた。[35]

しかし、伝承では、IlusにはLaomedonのみ、AssaracusにはCapysのみが伝えられている。[36]

Dardanusの町のAssaracusの息子たちがPhaenodamasを支援して、Laomedonとの間に激しい戦いがあり、Capysの兄弟たちが戦死したと推定される。

 

3.3 Minosの関与

Europaの子Minosや彼の後裔Lycastusの子Minosは、Troad地方に住んでいた。[37]

BC1297年、Minosは、Tauric ChersoneseからPerseisの娘Pasiphaeを妻に迎えた。

BC1294年、Minosの兄弟Sarpedonは、Crete島のMiletusの町からAsia Minorへ渡って、Ariaの子Miletusと共にMiletusの町を創建した。[38]

この2つの出来事の間に、Minos兄弟は、Troad地方からCrete島へ移住した。

彼らの移住の原因は、Wilusaの王位継承争いであったと推定される。

Minos兄弟は、Trosの子Assaracusに味方してLaomedonと戦ったが、戦いに敗れて、Crete島へ移住した。[39]

Minosには、Europaの子Minosに同行してCrete島から移住した人々の子孫の他に、Troad地方に居住していたLelegesも同行した。[40]

Sarpedonと共にMiletusの町を創建したAriaの子Miletusは、Lelegesの指導者であった。[41]

Ariaの父Cleochusは、Leleges王Ancaeusの子Anaxの息子と推定される。[42]

 

3.4 Ethiopiansの関与

Perseusの子Perses率いるEthiopiansは、Trosの子Assaracusに味方してLaomedonと戦ったが、戦いに敗れた。

Laomedonは、Aesepus川河口近くのEthiopiaを攻撃して、EthiopiaをTroyの支配下に置いた。[43]

その後、Ethiopiansは、Laomedonの子Tithonus、および、Tithonusの子Memnonに支配された。[44]

 

4 第2回Trojan War (1244 BC)

4.1 Priamの追放

BC1244年、Ilusの子Laomedonが死に、彼の息子Priam (or Podarces)がWilusaを継承した。[45]

Hittite文書の中で、PriamはWalmuとして登場する。[46]

Trosの子Assaracusの後裔たちは、Priamを追放して、Iliumの町を占領した。[47]

彼らは、Sicily島から呼び寄せたPhaenodamasの孫Aegestusを王に据えた。[48]

 

4.2 Priamを追放したAssaracusの後裔たち

Assaracusは、彼の異母兄弟IlusがWilusa王を継承してIliumの町へ居を変えた時、父Trosと共にDardanusの町に残った。[49]

Assaracusの息子は、Capysしか伝承に登場しない。[50]

Priamを追放して、Iliumの町を占領したAssaracusの後裔たちとは、つぎの人々であった。

1) Aesyetesと彼の息子たち、AntenorとAlcathous

Antenorは、Aesyetesの息子であった。[51]

Antenorは、Dardania地方を領していた。[52]

以上のことから、Aesyetesは、Dardania地方に住んでいたAssaracusの子Capysの息子と推定される。

2) Capysの子Anchises

Anchisesは、Assaracusの孫であり、Dardania地方に住んでいた。[Apo.3.12.2, Dictys.4.22

Diod.4.75.5, Ovid.4.19]

3) Capysの子Laocoonと彼の息子たち、AntiphantesとThymbraeus

Laocoonは、Apolloの司祭であった。[53]

 

4.3 Assaracusの後裔たちに協力したAchaeans

4.3.1 Iphiclusの息子たち、ProtesilausとPodarces

Mestraの父Erysichthon (or Aethon)は、Thessaly地方のDotiumの近くに住んでいた。[54]

Dotium近くのPhylaceの町に住むIphiclusの子Protesilausの妻は、黒海への航路を知っているMinyansが住むIolcusの町のAcastusの娘Laodamiaであった。[55]

また、Iphiclusの母Clymeneは、Minyasの娘であり、Phylaceの町にもClymeneと共に移住して来たMinyansが住んでいた。[56]

ProtesilausとPodarcesは、Hellespontを通過して、黒海沿岸地方との交易を行っていたと推定される。

 

4.3.2 Poeasの子Philoctetes

また、Aegean Seaに面したMagnesia地方のMeliboeaの町に住んでいたPhiloctetesもHellespontusを利用して交易を行っていたと推定される。[57]

Meliboeaの町は、紫染料貝の産地であった。[58]

 

4.3.3 Amphitryonの子Heracles

HeraclesのTroy遠征について、多くの伝承がある。[59]

HeraclesがLydia地方からTirynsの町へ帰還してから、Elis攻めをするまでの間に、HeraclesがIliumの町を攻略したという伝承である。[60]

つまり、HeraclesのTroy遠征は、BC1246年からBC1243年の間であった。

Priamの王位継承争いがあった頃と時期的に一致する。

Laomedonが支配下に置いたEthiopiaは、Perseusの妻Andromedaの出身地であり、Perseusの子Persesが住んでいた。[61]

Persesは、Heraclesの父Amphitryonの父Alcaeusの兄弟であった。[62]

Heraclesは、Thessaly地方に住むAchaeansと共にTroyへ遠征したと推定される。

Apollodorosは、HeraclesがIliumの町を攻略した後、Priamが王になったと記している。[63]

Heraclesと共に、Heraclesの異母兄弟Iphiclesと彼の息子IolausもTroyへ遠征したと思われる。[64]

 

4.3.4 Aeacusの子Telamon

Telamonは、HeraclesのTroy遠征の伝承に登場する。[65]

つぎのことから、Telamonは、Hellespontの利用を通じて、Assaracusの後裔たちと交流があり、Heraclesと共にTroyへ遠征したと推定される。

Telamonは、Salamis島に住んでいたが、Salaminiansは、Atheniansより航海術に優れていた。[66]

Telamonの子Teucerは、銅の採掘、あるいは、銅の交易のために、Cyprus島へ移住した。[67]

Telamonの妻Periboeaは、Heraclesの異母兄弟Iphiclesの妻Automedusaの姉妹であった。[68]

つまり、Telamonは、妻を介して、Heraclesの義兄弟であった。

 

4.3.5 Mantiusの子Oecles

Oeclesは、HeraclesのTroy遠征の伝承に登場する。[69]

Oeclesは、亡命していたAetolia地方からArgosの町へ帰還した直後であった。[70]

Oeclesの帰還には、Mycenaeの町のEurystheusが協力したと思われ、後に、EurystheusがHeraclesに命じたElis攻めにOeclesが参加している。[71]

Oeclesは、Eurystheusとの関係で、Heraclesと共に遠征に参加したと推定される。

 

4.3.6 Aeacusの子Peleus

Peleusは、HeraclesのTroy遠征の伝承に登場する。[72]

次のことから、PeleusもTroy遠征に参加したと推定される。

1) ProtesilausとPodarcesが住んでいたPhylaceの町は、Peleusが住んでいたPhthiaの町の近くであった。

2) Peleusの子Achillesが次のTroy遠征に参加している。

3) Peleusは、Salamis島から遠征に参加したTelamonの兄弟であった。

BC1260年にDeimachusの子Autolycusが、Thessaly地方のTriccaの町から黒海南岸のSinopeの町へ移住して以来、Hellespontを通過する船は増加した。[73]

Autolycusの妻は、Phthiaの町に住むMyrmidonの子Erysichthonの娘Mestraであった。[74]

Mestraに同行して、Phthiaの町からTriccaの町へ移住した人々が、Autolycusと共に、Sinopeの町へ移住した。Phthiaの町とSinopeの町との間には、交易があったと思われる。

 

4.3.7 Neleusの子Nestor

Nestorは、HeraclesのTroy遠征の伝承に登場する。[75]

次のことから、NestorもTroy遠征に参加したと推定される。

1) Neleusの妻Chlorisに同行したMinyansがNestorの近くに住んでいた。[76]

Minyansは、黒海方面の航路を知っている人々であった。

2) Nestorの子Antilochusが次のTroy遠征に参加している。

3) Neleusは、黒海方面との交易をしていたIolcusの町の出身であった。

 

4.4 PriamのIlium奪還

Priamは、Miletusの町に住む彼の姉妹Hesioneを頼ってMiletusの町へ亡命した。[77]

Hittite王は、Hesioneの夫に対してPriamをHittiteに引き渡し、Wilusaの王に据えることができるように要請した。[78]

当時、Miletusの町は、Hittiteの属国であり、Hittite王の要求した通りに、PriamはHittiteに引き渡された。PriamはHittite軍と共に、王位を奪還するためにIliumの町へ進軍した。[79]

Iliumの町は、HittiteやHittiteの属国の軍に攻められた。

Aesyetesの子Antenor、Anchises、Aegestus、そして、ProtesilausやPhiloctetesは、Iliumの町から逃れて、Priamは、Iliumの町を奪還した。[80]

ギリシアの伝承は、HesioneがPodarcesと呼ばれていたPriamを救ったと伝えている。[81]

Priamは、Antenorが住んでいたDardania地方をも支配下に置いた。[82]

これによって、Trosの名前に因んで、Troyと呼ばれていた地方は、Wilusaと同一視されるようになった。

 

4.5 敗者たちの消息

4.5.1 Egestaの子Aegestus

Aegestusは、Sicily島へ帰還した。[83]

Aegestusには、Capysの子Anchises、Anchisesの子Elymus、Philoctetesが同行した。[84]

Aegestusは、Sicily島の北西部にAegesta (or Egesta)の町を創建した。[85]

 

4.5.2 Capysの子Aesyetes

Aesyetesは、Iliumの町の南約1kmの平原で、Priamの軍勢を迎え撃って、戦死した。[86]

Aesyetesは、Capysの長男であり、総大将であったと思われる。

Aesyetesの子Antenorの息子たちは、その後の戦いで主導的な役割を果たしている。[87]

 

4.5.3 Aesyetesの子Antenor

Antenorの妻Theanoは、Mysia of Olympeneに住んでいたMygdonの子Cisseusの娘であった。[88]

次のTrojan War時代、AntenorとTheanoの息子Iphidamasは、Macedonia地方に住んでいた。[89]

伝承では、Antenorは、Adriatic Seaの奥にPatavium (後のPadua)の町を創建したことになっている。[90]

しかし、Antenorは、彼の妻の祖父Mygdonと共にPaeonia地方へ移住したと推定される。

 

4.5.4 Capysの子Anchises

Anchisesは、彼の息子ElymusやAegestusと共にSicily島へ逃れた。[91]

AegestusとAnchisesには、Scamander川流域の多くの人々が同行した。[92]

この時、Homerの「Iliad」の主要な登場人物の一人、Anchisesの子Aeneasは、まだ誕生していなかった。[93]

Aeneasは、Sicily島で生まれた。

 

4.5.5 Anchisesの子Elymus

Elymusは、PhiloctetesやAegestusと共に、Troad地方からSicily島へ向かった。[94]

途中、Elymusは、Philoctetesと共にItaly半島南部に入植した。[95]

Elymusと共に入植した人々は、Elymiansと呼ばれるようになった。[96]

BC1240年、Elymusは、古くからItaly半島南部に住んでいたOenotriansに追われて、Sicily島へ移住した。[97]

Elymusは、Sicily島の北西部にElyma (or Eryx)の町を創建した。[98]

 

4.5.6 Capysの子Laocoon

Capysの子Laocoonは、彼の息子たち、AntiphantesとThymbraeusと共に、Priamに対する戦いで、死んだと推定される。[99]

 

4.5.7 Iphiclusの子Protesilaus

Protesilausは戦死して、Thracian ChersonesusのElaesus (or Eleus)の町に葬られた。[100]

伝承では、Protesilausは、Agamemnonと共にTroyへ遠征している。[101]

しかし、Protesilausは、Jasonの母Alcimedeの兄弟Iphiclusの息子であり、Jasonと同世代であった。[102]

Jasonの子Mermerusの子Ilusは、Odysseusと同世代であった。[103]

つまり、Agamemnonは、Protesilausの孫の世代であった。Protesilausが参加した戦いは、Agamemnonの時代の第3回Trojan Warではなく、第2回Trojan Warであった。

 

4.5.8 Poeasの子Philoctetes

Philoctetesは、Aegestusに案内されて、Anchisesと共にSicily島へ向かった。[104]

Philoctetesは、Italy半島南部で、彼らと分かれて、Croton地方のMacallaに定住した。[105]

Philoctetesは、Croton地方にPeteliaの町を創建した。[106]

伝承では、Philoctetesは、Protesilausと同様にAgamemnonと共にTroyへ遠征している。

しかし、Philoctetesは、物語では敵であるTrojanのAegestusと共に行動をしていた。[107]

 

4.5.9 Otreusの子Mygdon

Mysia of Olympeneに住んでいたMygdonは、Antenorに味方して居住地を追われて、Paeonia地方へ移住した。[108]

Mygdonは、Antenorの妻Theanoの父Cisseusの父であった。[109]

 

5 第3回Trojan War (1188 - 1186 BC)

伝承では、Agamemnon率いるAchaeansはTroyを占領して、NeoptolemusはPriamの子HelenusやHectorの息子たちを連れて、Molossiansの地へ移住したことになっている。[110]

しかし、次の史料の記述から、AchaeansはTroyを占領できなかったと推定される。

1) AD5世紀の神学者Jeromeは、「Antenorの子供たちが追放された後、Hectorの息子たちはIliumの町を奪還し、Helenusが彼らを援助した。」と記している。[111]

2) Crete島のDictysは、直接、Trojan Warを体験した自身の記録の第5巻の最後に、最終的にIliumの町を掌握したのは、Antenorであったと記している。[112]

3) Herodotusは、Persiaによるギリシア侵攻に匹敵する悲惨な出来事が、Dariusより20世代前にあったと記している。[113]

Herodotusは、3世代を100年で計算しているので、Dariusより667年前の出来事になる。[114]

Dariusが即位したBC522年を基準にすると、BC1189年頃に、その悲惨な出来事があったことになる。

以上のことから、Achaeansは、Hectorに味方して戦ったが敗れたと推定される。

Hectorは死に、彼の妻と息子たちは、彼の兄弟HelenusやNeoptolemusに連れられて落ち延びたということになる。

そして、Neoptolemusが戦った相手は、Priamの息子たちではなく、Antenorの息子たちであった。

 

5.1 Hellespontの支配者の交代

Trosの子IlusがIliumの町へ移り住んだ後で、Dardanusの町には、Ilusの異母兄弟Assaracusが住んでいた。[115]

Laomedonの時代には、AntenorがDardania地方のDardanusの町に住んで、Hellespontを支配していた。[116]

しかし、Laomedonが死んで、王位継承争いが起こり、Antenorの一族がいなくなったDardania地方は、Priamが住むIliumの町の支配下に入った。[117]

Priamの一族は、Hellespont近くの町を、次のように支配した。

1) Abydusの町は、Priamの子Democoonが支配した。[118]

2) Arisbeの町、Practiusの町、そして、Abydusの町の対岸のThracian ChersonesusのSestusの町は、Priamの妻Arisbeの子Asiusが支配した。[119]

3) Percoteの町は、Priamの兄弟Hicetaonの子Melanippusが支配した。[120]

4) Thracian Chersonesusは、Priamの娘Ilionaの夫Polymestor (or Polymnestor)が支配した。[121]

Homerは、Dardanusの町の名前に言及していない。恐らく、BC1244年に、PriamがIliumの町を奪還後に、Dardanusの町を破却したと推定される。しかし、Dardanusの町は、その後、再建された。[122]

PriamがIliumの町を奪還後、Hellespontの支配者は、Antenorではなく、Priamになった。

 

5.2 反抗拠点

Antenorの息子たちの反抗拠点は、Paeonia地方やMacedonia地方であった。

そこは、56年前、Troad地方を追われたAntenorやMygdonの後裔たちが住んでいた。

Troy遠征の物語には、Paeonia地方やMacedonia地方から、次の人々がTroyへ遠征している。

1) Antenorの子Iphidamas [123]

2) Mygdonの子Axiusの子Pyraechmes [124]

3) Mygdonの子Axiusの子Pelegonの子Asteropaeus [125]

4) Mygdonの子Bisaltesの子Eioneus (or Eion)の子Rhesus [126]

伝承によれば、彼らは、Priamの子Hectorの援軍として、Troyへ遠征しているが、実際は、彼らは、Hectorの敵であった。

 

5.3 Iliumの攻防

BC1188年にPriamが死ぬと、Antenorの息子たちがIliumの町を占領して、王位を簒奪した。

この頃、Priamの王位継承争いで、Priamを援助したHittiteは滅亡寸前であった。[127]

Iliumの町から追い出されたPriamの長男Hectorは、Hellespontの利用を通して友好関係にあったAchaeansに援軍を求めた。

Achaeansは、Hectorに味方するために遠征軍を組織して、Troyへ遠征した。

Achaeansの総大将は、Peleusの子Achillesであり、軍の主力は、Thessaly地方とBoeotia地方の部隊であった。

 

5.4 戦いの結果

この戦いで、Hector、Achilles、Menoetiusの子Patroclus、Oileusの子Ajax、Telamonの子Ajax、Nestorの子Antilochusは、戦死した。

BC1186年、AchaeansのもとへThessaly地方がThesprotiansによって占領されたという知らせが届いた。それより前に、総大将Achillesを失っていたAchaeansは、Iliumの町の攻略を断念した。[128]

 

5.5 総大将Achilles

Peleusの子Achillesは、Achaeansの総大将として、Troyへ遠征したと推定される。

Thessaly地方以外の人々がAchillesに従ったのは、AchillesがHeraclesの義理の甥であったからと思われる。

Achillesの父Peleusの兄弟Telamonの妻Periboeaの姉妹Automedusaの夫Iphiclesは、Heraclesの異母兄弟であった。

 

5.5.1 Hellespontの利用

つぎのことから、Achillesは、Hellespontを通って黒海沿岸地方と交易していたと推定される。

1) Argonautsの遠征物語で有名なIolcusの町は、黒海沿岸地方との交易で繁栄した町であった。[129]

Iolcusの町は、Minyansによって破壊され、PeleusがMinyansを追放した。[130]

Peleusは、Iolcusの町が行っていた交易を継承したと推定される。[131]

2) 黒海に、Achillesに関係した神域や島などがあった。

黒海に、Achillesに捧げられた島があった。[132]

黒海北岸に、Achillesの走路と名付けられた半島があった。[133]

黒海からMaeotis湖(Sea of Azov)への入り口に、Achilleiumの町があり、そこに、Achillesの神域があった。[134]

 

5.5.2 Thessaly随一の実力者

BC1236年、栄華を誇っていたIolcusの町が破壊された。[135]

BC1227年、Iolcusの町に代わって勢力を増したLapithsが、Heraclesとの戦いで弱体化した。[136]

BC1223年、Heraclesが死んだ。[137]

Achillesが成人した頃、Myrmidonsを率いるAchillesは、Thessaly地方で随一の実力者となっていた。

 

5.5.3 Achillesの死

Achillesは、Antenorの息子たちとの戦いで戦死し、Sigeionに埋葬された。[138]

 

5.6 Troy遠征に参加したAchaeans

Troy遠征には、総大将Achillesとの関係があったAchaeans、あるいは、Hellespontの利用を通じて、Priamの息子たちと親交があったAchaeansが参加した。

 

5.6.1 Achillesの子Neoptolemus

伝承によれば、Neoptolemusは、Achillesの死後、Troyへ召喚されたと伝えられている。[139]

しかし、系図を作成すると、遠征開始時、Neoptolemusは、24歳であり、Neoptolemusは、父Achillesと共にTroyへ遠征したと推定される。

AchillesやHectorが戦死して、戦いに敗れたAchaeansは、各地へ移住した。

Neoptolemusは、Priamの子HelenusとHectorの妻AndromacheとHectorの息子たちを連れて、Troad地方から逃れて、Molossiansの地に定住した。[140]

 

5.6.2 Amyntorの子Phoenix

Phoenixは、Dolopiansを率いて遠征に参加した。[141]

Phoenixは、Achillesの育ての親であった。[142]

Phoenixは、Neoptolemusと共にMolossiansの地へ向かう途中、Thermopylae付近で死んだ。[143]

 

5.6.3 Peirithousの子Polypoetes

Polypoetesは、Gyrtonの町からTroy遠征に参加した。[144]

Polypoetesは、Troad地方からIonia地方へ逃れて、Colophonの町に定住した。[145]

 

5.6.4 Coronusの子Leonteus

Leonteusは、Argisaの町からTroy遠征に参加した。[146]

Leonteusは、Troad地方からIonia地方へ逃れて、Colophonの町に定住した。[147]

 

5.6.5 Euaemonの子Eurypylus

Eurypylusは、Ormenionの町からTroy遠征に参加した。[148]

Eurypylusは、Troad地方からAchaia地方へ逃れて、Patraeの町に定住した。[149]

 

5.6.6 Asclepiusの子Podalirus

Podalirus (or Podalirius)は、Triccaの町からTroy遠征に参加した。[150]

Podalirusは、Troad地方からCaria地方へ逃れて、Syrnusの町を創建した。[151]

Troy遠征物語には、Podalirusの兄弟Machaonが登場する。[152]

しかし、次のことから、Machaonは遠征に参加しなかったと思われる。

1) Machaonを討ち取った相手が伝承によって異なっている。[153]

2) Machaonの遺骨をNestorが持ち帰ったと伝えられている。[154]

しかし、Nestorが自分の息子Antilochusの遺骨を持ち帰らずに、Machaonの遺骨を持ち帰ったとは考えられない。

3) Podalirusの子供は知られていないが、Machaonには、息子だけでも、5人いた。

 

5.6.7 Archilycusの子Arcesilaus

Arcesilausは、Boeotiansを率いてBoeotia地方からTroyへ遠征した。[155]

Lacritusの子LeitusがArcesilausの遺骨を持ち帰って、Lebadeiaの町に埋葬した。[156]

Arcesilausは、Thessaly地方のArneの町を通じて、Achillesと関係があった。

 

5.6.8 Astyocheの子Ialmenus

Orchomenusの町のAstyoche (or Pernis)の子Ialmenusは、MinyansやAspledoniansを率いてTroy遠征に参加した。[157]

Ialmenusは、Troad地方から黒海北岸へ逃れて、Sauromataeの地に定住した。[158]

Minyansは、古くから、黒海東岸のColchis地方と繋がりがあった。[159]

Ialmenusの母Astyocheは、Presbonの子Clymenusの子Azeusの子Actorの娘であった。[160]

Presbonは、Colchis地方で生まれ、Boeotia地方へ移住して、祖父Athamasの跡を継いだ。[161]

Presbonの父Phrixusの孫娘Perseis (or Perse)の2人の息子たち、PersesとAeetesは、Tauric ChersoneseとColchis地方の支配者であった。[162]

Persesの娘Hecate (or Idyia)の娘Circeの夫は、Sauromatiansの支配者であった。[163]

以上のことからIalmenusは、遠征前から黒海方面との交易で、Hellespontを利用して、Priamの息子たちと親交があったと推定される。

Homerは、EgyptのThebesの町の富と並べて、Orchomenusの町の富を挙げているが、その富の一部は、黒海方面との交易による収入であったと思われる。[164]

 

5.6.9 Telamonの子Ajax

5.6.9.1 Ajaxの遠征参加

Ajaxは、Megaraの町からTroy遠征に参加した。[165]

Telamonは、Achillesの父Peleusの兄弟であり、Ajaxは、Achillesの従兄弟であった。[166]

Ajaxが遠征に参加したのは、Achillesとの関係ばかりではなく、Hellespontの利用を通して、Priamの息子たちと親交があったからと思われる。

Ajaxが率いたSalamiansは、航海術に優れていた。[167]

 

5.6.9.2 Ajaxの息子たち

Ajaxには、遠征中に捕虜の女性から生まれた息子が2人いた。

1) Aeantides

Aeantidesは、Iliumの町の南にあるColonaeの町のCycnus (or Cygnus)との戦いで捕虜になったCycnusの娘GlauceとAjaxから生まれた息子であった。[168]

Aeantidesは、後にAeantisの名祖になり、Marathon近くに住んだ。[169]

2) Eurysaces

Ajaxは、Phrygia地方のTeuthrasと戦って、彼の娘Tecmessaを捕虜にした。[170]

AjaxとTecmessaとの間に息子Eurysacesが生まれた。[171]

Eurysacesは、Attica地方のMeliteの町に住み、そこには、Eurysacesの神域があった。[172]

 

5.6.9.3 Ajaxの墓

Straboは、Ajaxの墓がRhoeteiumにあったと記しているが、Achilles、Patroclus、Antilochusと同じく、Ajaxは、Sigeionに埋葬された。[173]

 

5.6.10 Telamonの子Teucer

Telamonの子Teucerは、Trojan Warより前に、Cyprus島へ移住していた。[174]

Teucerは、Palaepaphosの町のCinyrasの娘Euneと結婚した。[175]

Teucerの移住の目的は、Cyprus島のAmathusの町で産出される貴重な鉱石の交易のためであった。Cinyrasの母は、Amathusの町の名付け親であった。[176]

Teucerは、兄弟Ajaxに加勢するために、Cyprus島からIliumの町へ駆け付けるが、Ajaxが死んで、勝敗が決した後であった。[177]

Teucerは、移住を希望したTrojansを連れて、Cyprus島へ戻り、Salamisの町を創建した。[178]

 

5.6.11 Thestorの子Calchas

Calchasは、Megaraの町に住んでおり、Megara王Ajaxに従ってTroyへ遠征した。[179]

Calchasは、Troad地方からPamphylia地方へ逃れて、Selgeの町を創建した。[180]

BC4世紀、Selgeの町の住人は、Alexander the Greatの信頼される同盟者となった。[181]

Straboは、Calchasの後で、LacedaemoniansがSelgeの町を創建したとも述べている。[182]

当時、Spartaの町は、Alexander the Greatの敵であり、Selgeの町には、Calchasの先祖の町Argosに縁のある住人が多かったと思われる。

 

5.6.12 Oileusの子Ajax

Pausaniasは、黒海に浮かぶLeuce島 (現在のZmiinyi、蛇島)に関連した伝承を記している。[183]

その伝承には、AchillesやTelamonの子Ajaxの他に、Oileusの子Ajax、Patroclus、Nestorの子Antilochusが登場する。

Oileusの子Ajax以外の者たちは、Troad地方に墓がある。[184]

伝承では、Oileusの子Ajaxは、Delos島近くで溺死したことになっている。[185]

実際は、Oileusの子AjaxもまたTroyで死に、Achillesと同じように黒海沿岸との交易に関係していたのではないかと思われる。

Oileusの子Ajaxは、Epicnemidian Locris地方のNarycusの町に住み、Opuntiansを支配していた。[186]

 

5.6.13 Menoetiusの子Patroclus

Patroclusは、Oileusの子Ajaxの支配下にあったEpicnemidian Locris地方のOpusの町に住んでいた。[187]

Patroclusは、Oileusの子Ajaxに従ってTroyへ遠征した。

Patroclusは、Troyで死に、Sigeionに埋葬された。[188]

 

5.6.14 Nestorの子Antilochus

5.6.14.1 Antilochusの遠征参加

Nestorの父Neleusと、Orchomenusの町のAmphionの娘Chlorisとの結婚の際には、多くのMinyansがChlorisに同行して移住した。[189]

Neleusの子NestorもOrchomenusの町からClymenusの娘Eurydice (or Anaxibia)を妻に迎えて、Pylusの町にもMinyansが住んでいた。[190]

Minyansは、黒海東岸のColchis地方への航路を知っており、Pylusの町も黒海地方と交易をしていたと推定される。

Antilochusは、Troyで死んだ。[191]

Antilochusの墓は、SigeionのAchillesやPatroclusの墓の近くにあった。[192]

 

5.6.14.2 Nestorの遠征不参加

伝承によれば、NestorもTroy遠征に参加して、Troyで死んだAsclepiusの子Machaonの遺骨を持ち帰ったことになっている。[193]

しかし、Nestorが自分の息子Antilochusの遺骨を持ち帰らずに、Machaonの遺骨を持ち帰ったとは考えられず、NestorはTroyへ行っていないと思われる。

系図を作成すると、当時のNestorは、74歳と推定される。

Alexander the Greatの死後、80歳位の年齢のAntipaterが騎馬でMacedoniaとEgyptの間を往復した例がある。しかし、当時の平均寿命を考慮すると、Nestorは生きていなかったと思われる。

 

5.6.15 Argives

5.6.15.1 Tydeusの子Diomedes

Pausaniasは、成人していないAegialeusの子Cyanippusの代わりに、DiomedesがArgivesを率いて、Troyへ遠征したと伝えている。[194]

Cyanippusは、Diomedesの姉妹Comaethoの息子であり、Diomedesの甥であった。[195]

これは、Troy遠征物語の作者が、当時の有名人として、Diomedesを登場人物に加えたのではなく、史実に基づいていると思われる。

Diomedesは、Troad地方からArgosの町へ帰還した後、Aetolia地方を経由して、Italy半島へ移住した。[196]

 

5.6.15.2 SthenelusとEuryalus

HomerのIliadでは、Argivesの指導者たちは、Diomedesの他に、Capaneusの子SthenelusとMecisteusの子Euryalusであった。[197]

Sthenelusは、Anaxagoridaeに属し、EuryalusとDiomedesは、Biantidaeに属していた。

Argosの3王家のもう一つのMelampodidaeは、Troy遠征に参加していない。

Argivesの指導者たちの名前は、当時のArgosの町の実情を反映していて、史実に基づいていると思われる。

Melampodidaeは、Amphiarausの子Amphilochusに率いられて、Greece北西部へ移住して、Trojan War時代には、Argosの町に住んでいなかった。[198]

 

5.6.16 Naupliusの子Palamedes

AD3世紀の著述家Philostratusは、Lesbos島のMethymnaの町に、Palamedesの墓があったと伝えている。[199]

Methymnaの町には、Antenorの子Hypsipylusが住んでいて、Hypsipylusは、Achillesと戦って戦死した。[200]

Palamedesは、Troy遠征に参加して、Achillesと共に、Methymnaの町を攻めて、Hypsipylusとの戦いで死んだと推定される。[201]

 

5.6.17 Phyleusの子Meges

HomerのIliadでは、Megesは、Echinadesから遠征に参加している。[202]

Megesの配下には、Eleia地方のCylleneの町に住むEpeansを指揮したOtusがいた。[203]

Megesの父Phyleusは、Elisの町のAugeasの息子であり、Cylleneの町のEpeansがMegesの配下にいたとしても不思議ではない。

これらのことは、当時の実情に合っており、MegesのTroy遠征参加は、史実に基づいていると思われる。

 

5.6.18 Arcadians

5.6.18.1 Ancaeusの子Agapenor

伝承では、Arcadiansを率いたAgapenorは、Troad地方からCyprus島へ行って、Paphosの町を創建したと伝えられる。[204]

また、Agapenorは、銅の採掘のために、Cyprus島へ行ったという伝承もある。[205]

Agapenorの父Ancaeusの父Lycurgusの母Neaeraの父Pereusの母Laodiceは、Cyprus島のPalaepaphosの町の創建者Cinyrasの娘であった。[206]

Cinyrasの後裔で、Telamonの子Teucerの妻Euneの父Cinyrasは、Midas王と並び称される富豪であった。[207]

Cinyrasの富は、彼の母Amathusの名前に因んで名付けられた町で産出される銅であった。[208]

AgapenorはArcadiansを率いて、AchaeansのTroy遠征に参加して戦った後で、古くから交易していたCyprus島へ渡ったと推定される。

 

5.6.18.2 Mantineans

Arcadiansの一員として、遠征に参加したMantineansは、Troad地方からBithynia地方へ逃れて、Bithyniumの町付近に定住した。[209]

 

5.6.19 Athenians

5.6.19.1 Menestheusの遠征不参加

伝承では、Athens王Menestheusは、Atheniansを率いてTroyへ遠征している。[210]

しかし、Mycenaeの町のAgamemnonの場合と同様に、Athensの町の支配は盤石ではなかった。

Menestheusは、彼が王位を奪ったTheseusの息子たちにいつ攻められるか分からない状況であった。実際、MenestheusのAtheniansの王位は、Euboea島から帰還したTheseusの子Demophonによって奪われている。

Theseusの息子たちの帰還には、Chalcodonの子Elephenorが協力し、ElephenorはMenestheusとの戦いで死んだと思われる。[211]

Menestheusは、Athensの町からMelos島へ逃れて、その島で死んだ。[212]

 

5.6.19.2 遠征に参加したAthenians

Menestheus本人はTroy遠征に参加しなかったが、Atheniansの一部はTroyへ遠征したと思われる。

黒海南岸のSinopeの町からAttica地方のPrasiaeの町への航路があった。その航路は、Hyperboreansの地から、Delos島へ初物を運ぶ経路の中にあった。[213]

この航路を使って、Atheniansも黒海沿岸と交易を行い、Hellespontを利用して、Priamの息子たちと親交があったと推定される。

MenestheusがAthensの町を追われた結果、Athensの町へ帰還できなくなったAtheniansの一部は、Italy半島南部へ逃れて、Scylletiumの町に定住した。[214]

また、Atheniansの一部は、Mysia地方へ逃れて、Elaeaの町に定住した。[215]

Mysia地方には、Arcadia地方から移住したArcadiansが住んでいた。[216]

 

5.6.20 Mycenaeans

5.6.20.1 Agamemnonの遠征不参加

伝承では、Mycenae王Agamemnonは、Achaeansの総大将として、Troyへ遠征している。

しかし、次のことから、Agamemnonは、Troyへ遠征していないと思われる。

1) 伝承に大きな矛盾がある。

Agamemnonの統治期間は、30年、あるいは、35年であり、彼の治世18年目にTrojan Warが終わったと伝えている伝承がある。[217]

これは、Agamemnonは、Troyから帰還した直後に殺されたという伝承と大きく矛盾している。2) 長期遠征は不可能であった。

Eurystheusの死後、Heracleidaeは、2度にわたってPeloponnesusへの帰還を試みていていた。Heracleidaeは、その後もPeloponnesusへの侵入の機会を窺っていた。[218]

実際、Agamemnonが死んだ年に、Hyllusの子Cleodaeusは、Doriansを率いて、Mycenaeの町を攻めて、町を破壊している。[219]

このような状況下で、AgamemnonがMycenaeの町から軍勢を率いて、長期遠征をすることは不可能であった。

 

5.6.20.2 遠征に参加したMycenaeans

Pausaniasは、AgamemnonがArgolis地方のTenea (or Genea)の町にTroad地方のTenedos島の住人を住まわせたと記している。[220]

恐らく、Agamemnon本人は、Troyへ遠征しなかったが、遠征に参加したMycenaeansもいたと推定される。Mycenaeansは、Troad地方から逃れる際に、Hectorに味方して戦ったTenedos島の住人をPeloponnesusに連れて来て、Agamemnonが彼らをTeneaの町に住まわせたと推定される。

 

5.6.21 Magnesians

Thessaly地方のMagnesiansは、Troad地方からPhocis地方へ逃れて、Delphiの町に定住した。[221]

BC1173年、Magnesiansは、Delphiansと共にLydia地方へ移住して、Magnesiaの町を創建した。[222]

 

6 第4回Trojan War (1170 BC)

第4回Trojan Warがあったと思わせる重要な証言が2つある。

1) AD5世紀の神学者Jeromeは、「Antenorの子供たちが追放された後、Hectorの息子たちはIliumの町を奪還し、Helenusが彼らを援助した。」と述べている。[223]

2) AD12世紀のイギリスの聖職者Geoffrey of Monmouthは、「Antenorの子孫が追放された後、Hectorの息子たちがTroyを支配した。」と述べている。[224]

 

6.1 Hectorの息子たち

BC1188年にIliumの町は、Antenorの息子たちによって占領され、Priamの息子や孫たちは、Iliumの町を奪還できずに、各地へ逃れた。[225]

Antenorの子供たちとの戦いで死んだHectorの息子たちは、NeoptolemusやHelenusに連れられて、彼らの母Andromacheと共に、Molossiansの地(後のEpirus)へ逃れた。[226]

Neoptolemusは、Andromacheと結婚して、Hectorの息子たちをHelenusに託した。[227]

Hectorには、3人の息子たち、Scamandrius (or Astyanax)、Laodamas、Saperneiosがいた。[228]

しかし、系図を作成するとHectorとAndromacheの年齢差が大きく、Hectorには別な妻から生まれた多くの息子たちがいたと推定される。

 

6.2 Ilium奪還

Hectorの息子たちが成人すると、Helenusは彼らに軍勢を与えて、Iliumの町を攻撃させた。[229]

その軍勢の中核は、Hectorの息子たちが率いるTrojansであったが、Neoptolemusの配下にあったMyrmidonsを含むAchaeansも遠征に参加した。

Hectorの息子たちは、各地に散らばっていたPriamの後裔たちを戦力に加えて、Antenorの息子たちが占拠していたIliumの町を奪還した。[230]

 

6.3 奪還した年

BC1186年、Hectorの息子たちが、Molossiansの地へ逃れたとき、彼らは少年であった。[231]

BC1175年、Neoptolemusは、Delphiを略奪して、Daetasの子Machaereus率いるDelphiansと戦って、戦死した。[232]

Neoptolemusの死後、HelenusがEpirusの王権を継いだ。[233]

後に、Helenusは、王権を自分の息子Cestrinusではなく、Neoptolemusの息子Molossusに継承させている。[234]

つまり、Hectorの息子たちがIliumの町を奪還したのは、Neoptolemusが死んでから、Helenusが死ぬまでの間であった。

Hectorの息子たちがIliumの町を奪還したのは、彼らが成人に達したBC1170年であったと推定される。

 

6.4 Iliumの陥落日

Iliumが陥落した「月」について、古代の史料は、Thargelion月で一致している。[235]

しかし、「日」については、一致していない。

Attica地方の著作家は、Troyが陥落した日は「満月であった」と記し、Little Iliadの作者は、「月がはっきりと輝いていた」と伝えている。[236]

NASAのWebサイトに掲載されている歴史的日食の一覧によれば、BC1178年4月16日に日食があったことが判明している。つまり、その日は新月であった。[237]

その日を基準に、現在の暦で、5月半ばから6月半ばまでとされるThargelion月の満月を月の満ち欠けの周期を、29.53日として計算すると、つぎのようになる。

BC1178年4月16日(新月)から15日目の満月は、BC1178年5月1日である。

BC1178年からBC1170年の間には、閏年が2回ある。

BC1178年5月1日からBC1170年6月1日までは、365日 * 8年 + 2日 + 31日 = 2,953日ある。つまり、BC1170年6月1日も満月である。

以上のことから、Ilium陥落は、BC1170年6月1日と推定される。

 

6.5 Orestesの遠征参加

Hectorの息子たちの遠征には、Agamemnonの子Orestesも参加したと推定される。

この遠征と同じ頃、Orestesは植民活動を開始している。[238]

Orestesは、Amyclaeの町のPeisanderと共に遠征して、Tenedos島に植民した。[239]

Orestesの植民団には、Agamemnonの時代にTenedos島からTeneaの町へ逃れたTrojansが含まれていたと思われる。

また、BC1173年、Hyllusの子Cleodaeus率いるDoriansの侵入によって、土地を荒廃させられたAmyclaeの町やEpidaurusの町の人々も含まれていたと推定される。[240]

 

6.6 Andromacheの帰還

Hectorの息子たちがIliumの町を奪還したとき、彼らの母Andromacheは、一緒にIliumの町へ行かなかった。

AndromacheとHelenusの間には、息子Cestrinusが生まれていた。[241]

BC1156年、Andromacheは、Helenusが死んだ後で、彼女とNeoptolemusとの間に生まれた息子Pergamusに連れられてAsia Minorへ移住した。Pergamusは、Mysia地方にPergamonの町を創建した。[242]

Pergamonの町は、Andromacheが生まれたThebeの町のすぐ近くにあった。

 

おわり

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