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第10章 アテナイの青銅器時代の歴史 

Create:2025.10.30, Update:2025.10.31

AthensS.png

1 はじめに
BC1750年、Parnassus山近くのCephisus川の上流で大洪水が発生した。[1]

洪水で居住地を失ったEctenesは、Atheniansの先祖Ogygusに率いられて、Copais湖近くへ移住した。[2]

BC1580年、Ectenesは、一部を残して、Copais湖近くから各地へ移住した。[3]

 

1.1 Thessalyへの移住

Ectenesの一部の人々は、Hellenの父Deucalionの祖父に率いられて、Copais湖近くからThessaly地方へ移住した。彼らは、Thessaly地方に最初に住んだギリシア人であった。

後に、Hellenの兄弟AmphictyonやHellenの子Xuthusが、Athens王の娘と結婚していることが、両者が同じEctenesに属していたことを証明している。

恐らく、Deucalionの祖父と初代Athens王Cecropsの父は、兄弟であったと推定される。

 

1.2 Egyptへの移住

Cranausの祖父であり、恐らく、初代Athens王Cecropsの父であった人物はEgyptのNile Deltaへ移住してSaisの町を創建した。[4]

BC4世紀の歴史家Callisthenes of Olynthus やBC3世紀の歴史家Phanodemus of Athensは、AtheniansがSaisの町の人々の先祖だと記している。[5]

移住当時、Cecropsは16歳と推定され、ギリシア語の他にも異なる言語を話し、Diphyes (two-formed)という呼び名があった。それは、「2つの言葉を話す」という意味であった。[6]

Cecropsが話した「他の言語」とは、Phoenician languageであったと推定される。

Nile Deltaに住んでいたGreece系の住人は、GreeceからEgyptへの航路の途中にあるPhoenicia地方と繋がりがあった。つぎの4つのことから彼らの関係が推測される。

1) Cecropsの娘Herseは、Phoenicia地方のTyreの町へ嫁入りした。[7]

2) Agenorの子Phoenixは、Herseの後裔と思われるOeneusの娘Perimedeを娶った。[8]

3) Phoenixは、Tyreの町の王であった。[9]

4) Egyptを追われたAgenor一家は、Tyreの町の近くのSidonの町へ移住した。[10]

Cecropsは、Boeotia地方のTriton川のほとりにEleusisとAthensの町を創建したと伝えられることからも、Boeotia地方に縁があったことがうかがわれる。[11]

また、Cecropsの父には、Ogygusという名前の兄弟がいて、EgyptにThebesの町を創建した。[12]

そのThebesの町は、Cadmusが生まれた町であり、Nile Deltaにあったと推定される。[13]

 

2 初代Athens王Cecropsの時代 (1561-1511 BC)

2.1 Egyptからの移住

BC1562年、Cecropsは、Attica地方南東端のSunium岬の北約25kmの海辺にあるMyrrinousの町に上陸した。[14]

次のことから、Cecropsの移住は、津波によって居住地を失ったことが原因と推定される。

1) Cecropsは、EgyptのSaisの町からAttica地方へ来た。[15]

2) Saisの町は、海沿いにあった。[16]

3) Cecropsは、大災害の後で、Atticaへ移住した。[17]

4) CecropsのAthens王即位は、BC1561年であった。[18]

5) BC1560年頃に、Thera島で大規模な噴火があったことが判明している。[19]

Cecropsは、多くの人々と共に移住して来たと推定される。

Myrrinousの町に住んでいたColaenusは、Messenia地方へ移住し、Messenia湾入り口の西側の半島にColonidesの町を建設した。[20]

Cecropsは、Athensの町の北東約15kmにあるAthmoneisの町の王Actaeusの娘Agraulusと結婚した。[21]

 

2.2 Cecropsの治世

BC1561年、CecropsはCecropiaの町(後のAthensの町のAcropolis)を創建した。[22]

その後Cecropsは、Boeotia地方のAlalcomenaeの町の近くを流れるTriton川の近くにEleusisとAthensの町を創建した。[23]

 

2.3 Cecropsの子Erysichthon

Erysichthonは、Delos島での祭儀を終えて、Attica地方へ帰る途中に死去し、Myrrinousの町のすぐ南にあるPrasiaeの町に埋葬された。[24]

Delos島の古い呼び名Ortygiaは、Erysichthonが名付けた。[25]

Erysichthonは、Delos島からEileithyiaの木彫女神像を持ち帰って、Athensの町のEileithyia神殿に奉納した。[26]

 

2.4 Cecropsの娘Herse

BC1562年、Cecropsの娘Herseは、EgyptからAthensの町への旅の途中で、Phoenicia地方のTyreの町に嫁いだ。[27]

Herseの子Cephalusの子Tithonusの子Phaethonの子Astynousの子Sandocusは、Cilicia Tracheia地方へ移住して、Celenderisの町を創建した。[28]

 

3 第2代Athens王Cranausの時代 (1511-1502 BC)

3.1 Cranausの移住

BC1511年、Cecropsが死ぬと、Cecropsの甥と推定されるCranausがその跡を継いだ。[29]

CranausはEgypt生まれで、BC1515年頃にEgyptからAttica地方へ移住して来た。[30]

Cranausは、Cecropsから命じられて、先祖Ogygusがかつて住んでいたBoeotia地方のTriton川の近くにAthensの町とEleusisの町を創建した。[31]

 

3.2 Cranausの娘Atthis

Cranausの娘Atthis (別名Athena)は、Triton川の近くで育った。[32]

Homerは、Athenaの名前にAlalcomenaeを添えており、AtthisはTriton川の近くのAlalcomenaeの町に住んでいたと推定される。[33]

Herodotusは、Cranausの時代のAthensの町の住人はCranaansと呼ばれるPelasgiansであったと述べている。[34]

Cranausは、Argosの町からEgyptへ移住したIoの息子であり、Ioと共にEgyptへ移住したPelasgiansがCranausと共にAthensの町へ移住したと思われる。[35]

Herodotusは、AthenaがTritonis湖の近くの生まれであり、その湖の近くの住人は、獣のように交わって女性を共有していたと伝えている。[36]

7 世紀の年代記作家John of Antiochは、それまで、人々は獣のように交わって、一人の親(母)しかいなかったが、Cecropsが夫婦の概念を定めて、2人の親(父と母)を持つようにさせたと伝えている。[37]

Cecropsは、EgyptのSaisの町の出身であり、Cranausの娘Atthisも、Saisの町で生まれたと思われる。[38]

 

3.3 Atthisの夫

Cranausの跡をAmphictyonが継ぎ、Amphictyonの跡をCranausの娘の息子Erichthoniusが継承している。

しかし、Cranausには息子Rharusがいて、Rharusにも息子Celeusがいた。[39]

Amphictyonの跡をCranausの息子が継がずに、Cranausの娘の息子が継いだのは、ErichthoniusがCecropsの曾孫であったのが、その理由だと思われる。

つまり、Atthisの夫であり、Erichthoniusの父は、Cecropsの子Erysichthonの息子であったと推定される。[40]

彼は、Hephaestusという名前で、伝承に記している。[40-1]

BC1511年、Cecropsが死去したとき、Cecropsの子Erysichthonは、それより前に死んでいた。[40-2]

Cranausの娘Atthisと結婚していたHephaestusが、Cecropsの跡を継ぐべきであったが、CranausがAthens王に即位した。[40-3]

 

3.4 王位簒奪

次のことから、Cranausは、Cecropsから王位を簒奪したと推定される。

1) Deucalion時代の洪水は、CranausがCecropsからAthens王位を継承した年に発生した。[40-4]

2) 洪水を逃れて、Deucalionは、彼の息子たち、HellenやAmphictyonと共に、Athensに避難した。[40-5]

3) Deucalionの墓は、Athensの町にあった。[40-6]

4) Amphictyonは、Cranausの娘と結婚した。[40-7]

つまり、CranausがCecropsから王位を継承した状況は、つぎのように推定される。

BC1511年、Thessaly地方に住んでいたDeucalion一家は、洪水で居住地を失い、同族を頼って、Athensの町へ避難して来た。Cranausは、Deucalionの協力を得て、Cecropsを殺害して、第2代Athens王に即位した。既に、Hephaestusと結婚していたCranausの娘Atthisは夫に連れられて、Egyptへ逃れた。Egyptで、彼らの息子Erichthoniusが生まれた。[40-8]

Cranausは、娘をDeucalionの子Amphictyonに嫁がせた。[40-9]

Deucalionは、Athensの町で死んだ。[40-10]

Cecropsは、Cecropiaの町に埋葬された。[40-11]

 

3.5 Areopagus

BC1510年頃、Acropolisの近くにある泉の近くでHalirrhothiusが、Cecropsの娘Aglaurusの娘Alcippeを辱め、Alcippeの父がHalirrhothiusを殺した。

Alcippeの父は、Aresの丘で裁かれ、無罪となった。[41]

Areopagusの最初の裁判であった。[42]

 

4 Deucalionの子Amphictyonの時代 (1502-1492 BC)

BC1503年、Cranausの別の娘は、Thessaly地方のDeucalionの子Amphictyonと結婚した。[43]

この遠距離婚を成立させたのは、CranausとDeucalionの血縁関係であったと思われる。

Cranausの祖父とDeucalionの祖父は兄弟で、それぞれ、Boeotia地方からEgyptやThessaly地方へ移住したと推定される。[44]

BC1502年、Amphictyonは、義父Cranausを追放した。CranausはAthensの町とSunium岬の中間にあるLamptraeの町まで逃れ、その地で死んだ。[45]

 

5 Atthisの子Erichthoniusの時代 (1492-1442 BC)

5.1 Egyptからの移住

BC1492年、Egyptで成人したCranausの娘Atthisの子Erichthoniusは、祖父の無念を晴らすためにEgyptからAthensの町へ移住して来た。彼はAtheniansの支持を得て、Amphictyonを追放してAthens王に即位した。[46]

 

5.2 Tetrapolisの建設

Thessaly地方に住むDeucalionの子Hellenには、3人の息子たち、Aeolus、Xuthus、Dorusがいた。[47]

Hellenの跡を継いだAeolusとDorusは、Xuthusを追放した。[48]

BC1470年、XuthusはAthensの町へ移住して、Erechtheusの娘Creusaと結婚した。[49]

Xuthusは、Erechtheusが追放したAmphictyonの甥であった。

BC1465年、Xuthusは、周辺から人々を集めて、Oenoe、Marathon、Probalinthus、そしてTricorynthusという4つの町を建設した。[50]

 

5.3 Amphictyonの消息

Athensの町を去った後のAmphictyonの消息は、不明である。

Thebesの歴史を書いたLycusは、Amphictyonの子Tithonusの娘Iodamaの娘Thebeが、Aegyptusと結婚したと伝えている。[51]

このAmphictyonが、第3代Athens王Amphictyonと同一であれば、Tithonusの母は、Cranausの娘と推定される。

Aegyptusは、Ioの子Epaphusの娘Libyaの子Belusの息子であった。

Thebeは、Ioの子Cranausの娘の子Tithonusの娘Iodamaの娘であった。

つまり、Amphictyon本人、あるいは、彼の息子Tithonusが、Egyptへ移住したと推定される。Amphictyonの妻であるCranausの娘は、Egypt生まれであった。

 

6 Erichthoniusの子Pandionの時代 (1442-1402 BC)

6.1 Eumolpusとの戦い

BC1415年、EumolpusがAttica地方に攻め込み、AtheniansはBoeotia地方のTanagraの町近くへ避難した。[52]

Xuthusの子IonがAtheniansの推挙を受けてpolemarchosになり、Eumolpusと戦って休戦に持ち込んだ。その後、EumolpusはEleusisに定住しているので、Eumolpusが優勢であったと推定される。[53]

 

6.2 家系の断絶

この戦いでErichthoniusの子Pandionの息子たちは死に絶え、Pandionの跡を継ぐ息子がいなくなったと推定される。その理由として、古代史料に次のような記述がある。

1) HyginusやApollodorosは、Pandionの子ErechtheusがEumolpusと戦いの後で死に、彼の家系は断絶したように記している。[54]

2) Demosthenesは、Chaeroneaの戦いの直後に行われた演説の中で、Erechtheusの娘が供儀された後で、Erechtheusの一族は絶滅したと記している。[55]

3) AD12世紀の修辞学者Tzetzesは、2人目のCecropsの父ErechtheusからErecthids (or Erechtheidae)が始まったと記している。[56]

 

6.3 Eumolpusと戦ったErechtheus

BC2世紀の年代記作者Castorは、Erichthoniusの子Pandionには、2人の息子たち、ErechtheusとCecropsがいたと伝えている。[57]

Erechtheusは、戦勝を祈願して娘たちを供儀したが、本人もEumolpusとの戦いで死んだと思われる。Pausaniasは、Athensの町にあったErechtheusとEumolpusが戦っているブロンズ像を見て、Eumolpusではなく、彼の息子Immaradusだと記している。[58]

しかし、Erechtheusの対戦相手は、Immaradusの父Eumolpusであったと推定される。

 

6.4 Xuthusの子Ion

Eumolpusとの戦いで、息子たちを失ったPandionは、Xuthusの子IonにAtheniansの指揮権を委ねた。[59]

Ionは、Pandionの姉妹Creusaの息子であり、IonはPandionの甥であった。[60]

Ionが率いたのは、Atheniansの他に、かつて、Xuthusと共にAttica地方からAegialus (後のAchaia)地方へ移住した人々であった。[61]

また、少し前に、Thessaly地方からXuthusの子Achaeusと共へ移住して来たAchaeansも、Ionの軍中にいたと思われる。[62]

 

7 第6代Athens王Erechtheusの時代 (1402-1352 BC)

古代史料は、Erechtheusの父が第5代Athens王Pandionだと伝えているが、前述したように、Pandionの家系は断絶した。

Erechtheusは、Pandionの孫、もしくは、Pandionの孫娘の夫とも考えられるが、次の理由から、Pandionの娘の息子と推定される。

1) Pandionの甥Ionが跡を継いでいないので、血縁関係のないPandionの孫娘の夫がPandionの跡を継いだとは考えられない。

2) ErechtheusがErecthidsの始祖になっているので、Pandionの息子の息子がPandionの跡を継いだとは考えられない。

 

7.1 Erechtheusの妻Praxithea

BC1392年、Erechtheusは、PhrasimusとDiogeniaとの娘Praxitheaと結婚した。[63]

Diogeniaの父Cephisusは、後のTanagraの町の近くに居住していた。当時、そこには、Cadmusと共にBoeotia地方へ移住して来たGephyraeansが住んでいたが、Cephisusは、彼らの指導者であったと推定される。[64]

EumolpusがAttica地方に侵入したときに、AtheniansがGephyraeansの居住地に避難して、それが縁で彼らの結婚が成立したと思われる。[65]

この結婚の時にPraxitheaと一緒へ移住したGephyraeansが、Phoenician lettersをAthensの町にもたらした。

 

7.2 Erechtheusの娘Orithyia (or Oreithyia)

7.2.1 BoreasとOrithyiaの伝承

BoreasがOrithyiaを攫ったという伝承がある。この伝承について、哲学者Socratesは、OrithyiaがIlissus川で遊んでいたときに、北風に吹かれて岩から落ちて死んだと理解していた。StraboもSocratesに賛同している。[66]

しかし、史実はつぎのようであったと推定される。

BC1390年、Erechtheusの娘Orithyiaは、Boreasと共にAthensの町から新天地を求めて旅立った。彼らは、北風に吹かれて南へ移住したのではなく、北風の住処である北の地への移住であった。

Boreasは、Thracia地方のHebrus川を遡り、さらに支流のRheginia川を遡って、移住の適地を見つけた。Rheginia川は、古くは、Erigon川と呼ばれ、Haemon山のすそ野にあった。[67]

Boreasの居住地は、現在のTurkey北西部のIpsalaの町の近くであった。

 

7.2.2 HyperboreansとDelos島とAthensの関係

7.2.2.1 供え物の伝達路から見た関係

BC1365年、BoreasとOrithyiaの息子たち、ZetesとCalaisは、黒海西岸のIster川(現在のDanube川)の中に浮かぶPeuce島へ移住した。[68]

そこは、Hyperboreansの住む土地であり、そこから供え物がDelos島へ届けられた。[69]

Herodotusが伝えているDodona経由の伝達路では、Euboea島南東部のCarystusの町を経由していた。[70]

Carystusの町は、Aegeusの父Scirusの子CarystusがBC1280年にScyros島から移住して創建した町であった。Carystusの子Petraeusの子Zarexは、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの娘Rhoeo (or Creousa)と結婚して、息子Anius (or Anion)が生まれた。Aniusは、Delos島のApolloの祭司になった。[71]

また、Pausaniasが伝えている、Hyperboreansの地からDelos島への伝達路では、Attica地方のPrasiaeの町を経由している。[72]

いずれの伝達路とも、Athensの町がHyperboreansとDelos島との間に深く関わっていた。

 

7.2.2.2 ApolloとEileithyia信仰から見た関係

Letoの子供たち、ApolloとArtemisが生まれたとき、Eileithyiaがお産を助けた。[73]

Hyperboreansは、そのお礼のために供え物をDelos島へ届けた。[74]

初代Athens王Cecropsの子Erysichthonは、Delos島からEileithyiaの木彫女神像を持ち帰り、Athensの町のEileithyia神殿に奉納した。[75]

Erysichthonは、Delos島からの帰途の航海中に死に、Attica地方のPrasiaeの町に埋葬された。Prasiaeの町は、Pausaniasが伝えている伝達路の中継地であった。[76]

Eileithyiaは、Crete島のCnossusの町の近くにあるAmnisusで生まれた。[77]

そこには、Eileithyiaの洞窟があった。[78]

その洞窟から北極星を目指して、約230km航海するとDelos島に着くことができる。

Delos島はCrete島とAthensの町を結ぶ航路の重要な中継地点であった。[79]

Aegeusの子TheseusもCrete島からの帰途、Delos島に立ち寄っている。[80]

 

7.2.2.3 Boreasの素性

Athensの町とHyperboreansとの関係や、Boreasの娘Chioneの子Eumolpusの墓がEleusisの町にあったことから、Boreasの父はButesと推定される。Butesは、第6代Athens王Erechtheusの双子の兄弟で、Athensの町の神官になった。[81]

したがって、OrithyiaとBoreasは、従兄妹同士であった。

 

7.3 Euboeaへの移住

BC1360年、Erechtheusの子Pandorusは、Euboea島へ移住して、Chalcisの町を創建した。[82]

後に、Pandorusの兄弟CecropsもEuboea島へ移住することになるが、Pandorusの移住も兄弟間の争いが原因と推定される。

Pandorusは、名前が判明している「Euboea島の最古の住人」であった。

 

8 Erechtheusの子Cecropsの時代 (1352-1312 BC)

8.1 Euboeaへの移住

BC1320年、Cecropsは、Euboea島へ移住した。[83]

支配者の突然の移住は、内紛を原因とすることがある。Lynceusの子AbasのPhocis地方移住や、Melampusの子AbasのThessaly地方移住の例がある。[84]

Cecropsは、彼の兄弟Metionとの争いによって、彼の息子たち、Cychreus、Scyrius、Pandionと共にAthensの町から追放された。

Cecropsは、Euboea島のChalcisの町に住む彼の兄弟Pandorusのもとへ移住した。[85]

CecropsとMetionの争いは、何世代にも渡って続いた内紛の発端になった。[86]

 

8.2 Megara、Salamis、Scyrosへの移住

Cecropsの3人の息子たち、Cychreus、Scyrius(or Sciron, Chiron, Scirus)、Pandionは、つぎのように各地へ移住した。

 

8.2.1 Salamisへの移住

Cychreusは、Salamis島へ移住した。[87]

後に、Cychreusは、Atheniansから神々と同等の尊敬を受けた。[88]

 

8.2.2 Scyrosへの移住

Scyriusは、Scyros島へ移住した。[89]

Scyriusは、Cychreusの娘Charicloの夫であり、彼らの娘Endeis (or Endais)は、Aeacusと結婚した。[90]

BC1295年、Cychreusが跡継ぎを残さないで死ぬと、Scyriusは彼の息子にScyros島を任せて、Salamis島へ移住した。

Scyriusの子Aegeusは、彼の叔父Pandionの養子になった。[91]

Aegeusの子TheseusがAthensの町からScyros島へ逃れたのは、Aegeusの領地があったからである。[92]

 

8.2.3 Megaraへの移住

BC1318年、Pandionは、Megaraの町のClesonの子Pylasのもとへ移住して、彼の娘Pyliaと結婚した。[93]

移住前、Pandionは、Attica地方のThoricusの町に住んでいた。[94]

 

8.3 人身御供の廃止

Athensの町の10部族の名祖たちの一人Leosは、飢饉に襲われたAthensの町を救うために自分の娘たちを犠牲にした。Leosは、ErechtheusがEleusisとの戦いの際に、彼の娘たちを犠牲にしたのに倣ったと伝えられる。[95]

Erechtheusの子Cecropsは、自分の姉妹たちや、Leosの娘たちが供儀されるのを見て、命のあるものではなく、菓子を代わりに供儀するようにした。[96]

Atheniansが人身御供をしなくなったのは、BC14世紀の後半であった。

 

9 Cecropsの子Pandionの時代 (1312-1287 BC)

BC1312年、Pandionは、妻Pyliaの父Pylasの助力を得てAthensの町へ帰還して、第8代Athens王に即位した。

BC1295年、Pandionは、Metionの息子たちによってAthensの町を追われて、Megaraの町へ亡命した。[97]

Pandionの墓がMegaraにあったことから、Pandionの息子たちがAthensの町に帰還してMetionの息子たちを追い出したのは、Pandionの死後であった。[98]

 

10 Pandionの養子Aegeusの時代 (1287-1239 BC)

BC1287年、Pandionが死に、彼の息子たちの中で最年長のAegeusが、Megaraの町でAthens王を継承した。[99]

BC1285年、AegeusはAthensの町へ帰還して、Metionの息子たちを追放した。[100]

 

10.1 内紛

BC1277年、Aegeusと、義兄弟たちとの間の争いが起こった。

Aegeusは、Pandionの息子たちの中で最年長ではあったが、養子であった。[101]

Aegeusに追われたPandionの息子たちは、つぎのように各地へ移住した。

 

10.1.1 Lyciaへの移住

Pandionの子Lycusは、Messenia地方のAreneの町のPerieresの子Aphareusのもとへ逃れ、その後、Lycia地方へ移住した。[102]

Lycusは、Messenia地方のAndaniaの町で密儀を執り行った。[103]

 

10.1.2 Argolisへの移住

Pandionの子Orneusは、Argolis地方のPhliusの町の近くへ移住して、Orneaeの町を創建した。[104]

 

10.1.3 Phocisへの移住

Pandionの子Oeneusの子Peteusは、Attica地方のStiriaの町からPhocis地方へ移住してStirisの町を創建した。[105]

 

10.1.4 Boeotiaへの移住

Peteusの兄弟と思われるLebadusは、Boeotia地方のMideiaの町へ移住し、町はLebadeiaと呼ばれるようになった。[106]

Pandionの子Teuthrantusは、Boeotia地方へ移住してThespiaeの町を創建した。[107]

 

10.1.5 Arcadiaへの移住

Arcadia地方へ移住して、Caphyaeの町に住み着いた人々もいた。[108]

 

10.1.6 Acarnaiaへの移住

10.1.6.1 Cephalusの父

Pandionの娘Procrisの夫CephalusもAegeusによって追放された。

多くの伝承は、Cephalusの父をDeion (or Deioneus)と伝えている。Hyginusは、Deionの子CephalusはAtheniansの王であったと伝えている。CephalusはThoricusの町の王であった。[109]

Thoricusの町は、Aegeusの子Theseusが一つにまとめた12の町の一つであり、Pandionもその町に住んでいた。[110]

Hyginusは、多くの伝承がPandionの息子だと伝えているMegara王Nisusを、Deionの息子だと伝えている。[111]

つまり、Cephalusの父は、Deion (or Deioneus)という別名を持つAthens王Pandionであった。

 

10.1.6.2 Cephalleniaへの移住

Cephalusは、Alcaeusの子Amphitryonと共にTeleboansの地へ遠征した。[112]

Cephalusは、Ionian Seaで最大の島へ移住して、島はCephalleniaと呼ばれるようになった。[113]

 

10.1.7 Creteへの移住

Metionの子Eupalamusの子DaedalusはAegeusに追われて、Athensの町からCrete島へ移住した。[114]

Daedalusと共に、Pandionの子Pallasの息子もCrete島へ移住して、Minosの子Androgeusと親しくなったと推定される。

 

10.2 Minosとの戦い

BC1264年、Crete島のMinosの子AndrogeusがThebesの町で開催されるLabdacusの子Laiusの葬送競技会へ行く途中、Cithaeron山麓のOenoeの町で殺害された。[115]

Diodorusは、AndrogeusがAegeusの政敵Pallasの息子たちと親密であったために殺害されたと伝えている。[116]

Hyginusは、AegeusとMinosとの戦闘中にAndrogeusが死んだと伝えている。[117]

恐らく、Aegeusと義兄弟との戦いの後で、彼らの次の世代であるPallasの息子たちがAndrogeusを介して、Minosの援助を得て、Aegeusに戦いを挑んだものと思われる。

その後、Minosの本格的な侵攻を受けたAegeusは、Pallasの息子たちにAthensの町から追い出され、彼の義兄弟Nisusが住んでいたMegaraに逃れた。Megaraは、Pandionの時代からの亡命先で、Aegeusの味方が多くいたと思われる。[118]

しかし、Minosとの戦いでNisusが戦死して、AegeusはTroezenの町のPittheusのもとへ逃れた。[119]

 

10.3 Troezenへの亡命

AegeusがTroezenの町のPittheusを亡命先に選んだのは、つぎの2つの理由であった。

1) 姻戚関係

Pittheusの娘Heniocheは、Chalcisの町のChalcodonの兄弟Canethusの妻であった。

Chalcodonの娘Chalciopeは、Aegeusの妻であった。[120]

つまり、Aegeusは、彼の妻Chalciopeのいとこの父Pittheusを頼ったものと思われる。

2) Alcathousの紹介

Pelopsの子Alcathousの最初の妻Pyrgoの墓がMegaraにあった。[121]

Pandionの子NisusがMinosとの戦いで戦死した後、AlcathousがMegaraを継承した。[122]

以上のことから、Pyrgoは、かつてNisusと王権を争ったClesonの子Pylasの子Scironの娘であったと推定される。[123]

戦時の指揮権が与えられていたScironの娘の夫Alcathousは、Minosに攻められたMegaraにいたはずである。[124]

Alcathousは、自分の兄弟PittheusをAegeusに紹介したと推定される。[125]

この亡命中にAegeusは、Pittheusの娘Aethraと出会うが、当時54歳と推定されるAegeusとAethraとは正式な結婚ではなかった。[126]

後に、跡継ぎがいなくなったAegeusが、Aethraが産んだ彼の息子TheseusをAthensの町へ呼び寄せたというのが、史実と思われる。[127]

 

10.4 Athensへの帰還

BC1262年、Aegeusは、Troezenの町からAthensの町へ帰還した。Aegeusの帰還には、Pittheusの兄Troezenの2人の息子たち、AnaphlystusとSphettusが協力した。彼らの名前に因んだ2つの町がAttica地方に創建された。[128]

Sphettusの町は、Strabonが伝えているTheseusが1つにまとめた12の町の中に含まれているが、Anaphlystusの町は含まれていない。Strabonは、11の町の名前しか記載していないが、もう1つは、Anaphlystusの町だと思われる。[129]

Aegeusは、Minosに貢納を約束して関係を改善したが、Pallasの息子たちとの争いは続いていた。[130]

 

10.5 Aegeusの息子たち

Aegeusの息子は、Theseusのみが伝えられている。Aegeusは、少なくとも3人の女性と結婚し、その他にも多くの女性たちと同棲したと伝えられている。[131]

Aegeusが追放したPeteusは、Aegeusの義兄弟Oeneus(Orneus)の息子であった。[132]

Aegeusは、Oeneusよりも年長であり、AegeusにもPeteusと同じくらいの年齢の息子たちがいても不思議ではない。

恐らく、Aegeusには、名前が伝えられていない多くの息子たちがいたが、義兄弟たちとの戦いで死んだのではないかと思われる。

 

11 Aegeusの子Theseusの時代 (1239-1209 BC)

11.1 Athens王即位前

11.1.1 Troezen時代

BC1263年、TheseusはTroezenの町で生まれ、祖父Pittheusのもとで育てられた。Theseusが7歳の頃、HeraclesがPittheusの屋敷を訪問した。[133]

Pelopsの子Pittheusは、Heraclesの母Alcmenaの母Lysidice (or Eurydice)の兄弟であった。[134]

つまり、Heraclesが祖母の兄弟を訪問したとき、Heraclesの又従兄弟のTheseusがいたことになる。そのとき、Theseusは初めてHeraclesを見た。当時、19歳のHeraclesは、Theseusに強い感動を与え、その後のHeraclesの活躍は、Theseusを彼の信奉者にした。[135]

 

11.1.2 Athensへの移住

Theseusは、高齢で跡継ぎのないAegeusによってAthensの町へ呼び寄せられた。[136]

そのとき、Theseusは、16歳であった。[137]

Theseusは、Argonautsの遠征物語にTroezenの町からの参加者として登場する。[138]

また、Theseusは、Calydonの猪狩りの物語にAthensの町からの参加者として登場する。[139]

この2つの出来事は、HeraclesがLydia地方のOmphaleの下で3年間奉仕している間に起きた。[140]

つまり、Argonautsの遠征物語はBC1248年、Calydonの猪狩りの物語はBC1246年の出来事であり、TheseusがTroezenの町からAthensの町へ移住したのはBC1247年であった。

 

11.1.3 Creteとの結婚同盟

BC1241年、Theseusは、Minosの娘Phaedraを妻に迎えた。この少し前にMinosが死んで、跡を継いだMinosの長男Deucalionは、Aegeusとの同盟を結ぶために妹のPhaedraをTheseusに嫁がせた。[141]

TheseusとPhaedraとの結婚による同盟締結によって、Athensの町からCrete島への貢納は廃止されたと思われる。

Athensの町から若い男女がCrete島へ送られたのは、競技会の勝者に与えられる奉公人とするためであった。彼らの子孫は、Bottonを指導者としてMacedonia地方のPellaの町の近くへ移住し、Bottiaeansと呼ばれるようになった。Aristotleは、若い男女は奴隷としてCrete島へ送られたと述べている。[142]

BottonがPellaの町の近くに定住したのは、既にAtheniansに縁のある人々が住んでいたからであった。Pellaの町の近くのEuropusの町は、Aegeusの養父Pandionの父Cecropsの娘Oreithyiaの子Europusが創建した町であった。[143]

 

11.1.4 Creteからの移住

Minosの娘Phaedraの嫁入りには、彼女の姉Ariadneの子Ceramusと共に多くのCretansがAthensの町へ移住して、Ceramusは、Cerameicus区の名祖となった。[144]

このとき、Crete島の陶器作りの技術がAthensの町に持ち込まれ、Cerameicus区は、Potters Quarterと呼ばれるようになった。[145]

 

11.1.5 Theseusの結婚

Theseusの妻は、Phaedraの他にも、数多く伝えられているが、その中で、真実と思われるのは、Heraclesの異母兄弟Iphiclesの娘Iopeとの結婚である。[146]

Iopeは、Heraclesの甥Iolausの姉妹であった。

Heracles死後、Eurystheusに追われて行き場を失ったHeraclesの息子たちをAthensの町が受け入れたのは、IolausとTheseusが義兄弟であったからである。[147]

また、Isthmusの町のSinisの娘Periguneとの結婚も真実のようである。[148]

彼らの息子Melanipposの英雄神社が、Athensの町のMelite区にあった。[149]

 

11.1.6 Centaursとの戦い

Theseusは、Centaursと戦ったと伝えられている。[150]

この伝承は、Thessaly地方からCentaursを追い出したIxionの子PeirithousとTheseusの交友関係から生じた創作と思われる。[151]

PeirithousとCentaursとの戦いはあったが、Theseusは参加していないと思われる。

Peirithousの妻Hippodameiaの父Butesの父Teleonの父Pandionは、Theseusの父Aegeusの養父であり、Hippodameiaは、Theseusの父方の従兄弟の娘であった。

後に、Peirithousの後裔がThessaly地方を追われて、Athensの町へ亡命した際、Atheniansは、先祖の友誼によって彼らを受け入れた。[152]

Peirithousの後裔は、Athensの10部族の一つ、Oineisになった。[153]

 

11.2 Athens王時代

11.2.1 Athensの統合

BC1239年、Aegeusが死に、24歳のTheseusが跡を継いだ。[154]

Theseusは、Pandionの子Pallasの息子たちとの戦いに勝利した。[155]

Theseusは、それまで、12の町に分かれて争いの絶えなかったAttica地方の町を1つにまとめた。[156]

Strabonは、Cecropia, Tetrapolis, Epacria, Deceleia, Eleusis, Aphidna, Thoricus, Brauron, Cytherus, Sphettus, Cephisiaという11の町の名前を挙げている。もう一つは、Sphettusの町と同時期に創建されたAnaphlystusの町と推定される。[157]

Theseusの権力掌握には、父Aegeusと共にTroezenの町からAthensの町へ移住して、2つの町を作ったAnaphlystusとSphettusの力が大きかった。2人は、Theseusの母Aethraの父方の従兄弟であった。[158]

Aegeusの屋敷は、Athensの町のAcropolisのすぐ東側のDelphiniumにあったことから、Cecropiaが11の町を吸収して統合したものであった。[159]

 

11.2.2 Eurystheusとの戦い

BC1218年、TheseusはTrachisの町を追い出されたHeraclesの子供たちを受け入れて、Attica地方のTricorythusの町に住まわせた。[160]

Theseusの妻たちの一人Iopeは、Heraclesの子供たちの保護者Iolausの妹であり、TheseusとIolausは、義兄弟であった。[161]

BC1217年、EurystheusがMycenaeansを率いて、Heracleidaeが住むAthensの町へ攻め込んだが、Eurystheusや彼の息子たちは戦死した。[162]

 

11.2.3 Sardiniaへの植民

BC1216年、Eurystheusが死んで、Heraclesの息子たちの脅威が取り除かれると、Iolausは、Atheniansから移民を募ってSardinia島へ2回目の植民に旅立った。Iolausは、Sardinia島で生涯を終えた。[163]

 

11.2.4 7将のThebes攻め

BC1215年、Adrastus率いるArgivesがThebesの町を攻めたが、Athensの町は関与しなかった。しかし、Thebansに敗れたAdrastusに頼まれて、戦死者の遺体の引き取りの許可を得るために、Thebesの町へ使者を派遣した。

BC4世紀の弁論家Isocratesは、Athensの町がThebesの町に脅しをかけたと伝えている。[164]

当時、他の町を圧倒する勢力のあったMycenae王Eurystheusの軍勢を破ったAthensの町をThebesの町は脅威に感じていたものと思われる。

 

11.2.5 Dorisへの移住

BC1211年、HeraclesとDeianeiraの長男Hyllusは、Peloponnesusへの帰還を試みるが、Isthmusで待ち受けていたPeloponnesus勢に敗れ、Hyllusは戦死した。[165]

Heracleidaeは、Tricorythusの町を出て、Doris地方のAegimiusのもとへ移住した。[166]

Hyllusの軍にはIoniansも従軍していて、その中に戦闘で犠牲になった者たちがいて、HeracleidaeはTricorythusの町に居づらくなったためであった。

 

11.2.6 Menestheusとの戦い

Theseusによる権力の統合は、それぞれの町を支配していた者たちの反発を招き、Erechtheusの子Orneusの子Peteosの子Menestheusは、彼らを扇動した。[167]

このErechtheusは、Pandionの父Cecropsの父ではなく、Pandionの別名であった。Pandionの養子Aegeusの子Theseusの子Demophonは、Menestheusと共にTrojan War時代の人であることから、そのように推定される。

MenestheusがTheseusへの反抗を準備していたとき、Theseusは少し前に死んだ妻Phaedraのために、Thesprotis地方のAornumにある死者を呼び出す神託所へ旅した。[168]

 

11.2.7 Menestheusの蜂起

Theseusが留守にしたAthensの町へLacedaemonからDioscuriが彼らの妹Helenを連れて帰るために現れた。Menestheusは、これを利用して蜂起した。

BC1210年、Theseusの2人の息子たち、DemophonとAcamasは、Euboea島のChalcisの町のElephenorのもとへ逃れた。[169]

伝承では、Theseusが息子たちを避難させたとも伝えられるが、2人は成人であり、自らの意志で行動した。[170]

Chalcodonの子Elephenorは、Aegeusの妻Chalciopeの兄弟であった。つまり、Elephenorは、Theseusの義母の兄弟であった。[171]

 

11.2.8 Dioscuriの侵入

当時、7歳、10歳、あるいは、12歳とも伝えられるHelenを、50歳のTheseusが誘拐したと伝えられている。[172]

実際は、IdasがTyndareusの娘Helenを誘拐してTheseusに預かり、TheseusがHelenをAphidnaeの町に預けていたものであった。[173]

IdasとTheseusの友Peirithousは、Hippotesの子Aeolusの子Lapithesを共通の祖とする同族であり、IdasとTheseusにも親交があったと思われる。[174]

古代の史料は、Dioscuriの実力を過大に評価しているが、Mycenae王Eurystheusを破ったAthensの町にとっては取るに足らないものであった。

 

11.2.9 Theseusの最期

BC1209年、Thesprotis地方からAthensの町へ戻ったTheseusは、住民の反感を抑えられず、Scyros島へ渡った。[175]

彼の息子たちがEuboea島へ行ったことは、Theseusは知らなかった。Theseusが彼の息子たちの消息を知っていれば、Scyros島ではなくChalcisの町へ行ったはずである。

Scyros島には、Theseusの父Aegeusの所領があった。Theseusに居座られて、地位を奪われることを恐れたLycomedesは、Theseusを殺した。[176]

Lycomedesは、Achillesの妻Deidamiaの父であり、Neoptolemusの祖父であった。[177]

Lycomedesは、Aegeusの実父Scyriusの孫であり、Theseusの従兄弟と推定される。[178]

 

12 Peteusの子Menestheusの時代 (1209-1186 BC)

Theseusを追放して、Peteus (or Peteos)の子Menestheusが第11代Athens王に即位した。

 

12.1 Troy遠征

伝承では、Menestheusは、Phalerum港からAtheniansを率いて、Troyへ遠征したと伝えられている。[179]

しかし、Menestheusの権力は盤石ではなく、Theseusの息子たちによって奪われる可能性があり、MenestheusがTroyへ遠征したとは思われない。

恐らく、Menestheusは、若干の部隊をTroy遠征に参加させて、本人は、Athensの町に残っていたと思われる。

 

12.2 Euboeaからの帰還

BC1188年、Euboea島のChalcisの町へ亡命していたTheseusの息子たち、DemophonとAcamasがAthensの町へ帰還して、Atheniansを掌握した。

Menestheusは、Melos島へ逃れて、その島で死んだ。[180]

 

12.3 Boeotiaからの移住

BC1188年、Thraciansに追われたOrchomeniansがAthensの町へ逃れて来た。

彼らは、Munychusに受け入れられて、Munychiaに定住した。[180-1]

Munychusは、Demophon (or Acamas)とLaodiceの息子であった。[180-2]

 

12.4 Troyからの帰還

BC1186年、Troyへ遠征したAchaeansは、Iliumの町との戦いに敗れた。

Athensの町へ帰還できないAtheniansは、Italy半島南部のScylletiumの町へ移住した。[181]

また、Aeolis地方のCymeの町近くのElaeaの町へ移住したAtheniansもいた。[182]

 

12.5 Thessalyからの移住者

BC1186年、Thessaly地方へThesprotiansが侵入して、彼らに追い出されたGyrtonの町のIxionの子Perithousの後裔が率いる人々は、Athensの町へ逃れた。

BC4世紀の歴史家Ephorusによれば、Atheniansは、TheseusとPerithousとの親交を考慮して彼らを受け入れ、後にPerithoedaeと呼ばれる土地を分け与えたという。[183]

つまり、当時のAthensの町を支配していたのは、Theseusを追放した人々ではなく、Theseusの子Demophonであった。

また、Thessaly地方のPheraeの町からも、Eumelusの子Zeuxippusの子Armenius (or Harmenius)が、Athensの町へ逃れて来た。[184]

Athensの町で生まれたArmeniusの娘Heniocheは、Messenia地方のPenthilusの子Andropompusに嫁ぎ、息子Melanthusが生まれた。Melanthusは、第16代Athens王になった。[185]

Melanthusの母や妻は、AthenianであったとPausaniasが伝えている。[186]

 

13 Theseusの子Demophonの時代 (1186-1153 BC)

Menestheusを追放して、Theseusの子Demophonが第12代Athens王に即位した。

 

13.1 Theseusの遺骨の帰還

Plutarchは、Athensの将軍CimonがScyros島を攻略した時、Theseusの遺骨をAthensの町へ持ち帰ったと伝えている。[187]

それは、Theseusの死後、739年後であった。

しかし、Athensの町へ帰還したTheseusの息子たちがTheseusの消息を調べないはずがない。

Suda辞典は、Theseusを殺したLycomedesはAtheniansによって殺され、Theseusの遺骨はAthensの町へ持ち帰られたと伝えている。[188]

 

13.2 Demophonの妻

AD5世紀の神学者Jeromeは、Demophonの子OxyntesがHeraclesの後裔だとする説もあると伝えている。[189]

もしこれが真実であれば、Demophonの父Theseusは、Heraclesと同世代なので、Demophonの妻であり、Oxyntesの母である女性がHeraclesの娘でなければならない。

Demophonの妻は、つぎの理由からHeraclesの娘Macariaであったと推定される。

BC1218年、Mycenaeの町のEurystheusが、Trachisの町のCeyxにHeracles一家を追い出さなければ武力に訴えると脅した。Heraclesの子供たちは、Attica地方のTetrapolisの一つTricorythusの町に転居した。[190]

その町には、HeraclesとDeianeiraとの間の娘Macariaの名前に因んだ泉があった。[191]

Eurystheusは、Heraclesの子供たちが次々成人するのに危機感を募らせたと伝えられており、Macariaも結婚適齢期であった。[192]

同じくDemophonも結婚適齢期であり、同じ地域に住んでいたので、Jeromeが伝える説は真実であると思われる。

Macariaの後見人Iolausの姉妹Iopeは、Demophonの父Theseusの妻たちの一人であった。[193]

Iolausが、Macariaを義兄弟Theseusの息子Demophonに引き合わせたと推定される。

 

14 Demophonの子Oxyntesの時代 (1153-1141 BC)

Demophonの跡を継いで、Demophonの子Oxyntesが、第13代Athens王に即位した。[194]

 

15 Oxyntesの子Apheidasの時代 (1141-1140 BC)

Oxyntesの跡を継いで、Oxyntesの子Apheidasが、第14代Athens王に即位した。[195]

Apheidasは、彼の異母兄弟Thymoetesに殺された。[196]

 

16 Oxyntesの子Thymoetesの時代 (1140-1111 BC)

Apheidasを殺して、Oxyntesの子Thymoetesが、第15代Athens王に即位した。[197]

 

16.1 Boeotiaへの帰還

BC1126年、Munychiaに住んでいたOrchomeniansがBoeotia地方へ帰還した。[197-1]

彼らの中にいたTheroの子Chaeronは、当時、Arneと呼ばれていた町へ移住して、町はChaeroneiaと呼ばれるようになった。[197-2]

 

17 Andropompusの子Melanthusの時代 (1111-1095 BC)

17.1 MelanthusのMessenia時代

多くの史料が、MelanthusはPylus王だと伝えている。[198]

しかし、MelanthusはMessenia地方のPylusの町には住んでいなかった。

Melanthusは、Periclymenusの子Penthilus(or Borus)の子Borus(or Penthilus)の子Andropompusの息子であった。[199]

Aphareusの子Idasが死んだ後で、Neleusの子NestorがMessenia地方の支配権を継承した。[200]

Nestorや彼の息子たち、ThrasymedesとAntilochusは、Pylusの町に住んでいた。[201]

Melanthusは、Neleusの長男Periclymenusの直系の子孫であり、Nestorの子孫ではなかった。MelanthusはPylusの町にではなく、Andaniaの町に住んでいたと思われる。[202]

Melanthusは、Pylusの王ではなく、Messeniansの王であった。[203]

 

17.2 MelanthusのAthensへの移住

17.2.1 移住先の決定

Melanthusは、Delphiでどこに住むべきかを神に問うて、EleusisのあるAthensの町へ行くことになったと伝えられている。[204]

古代の作家は、動機などが不明の場合、「神託により」と記すことが多い。Melanthusが何故、移住先にAthensの町を選んだのか神託以外の理由を伝えている史料はないが、つぎのような理由があった。

Pausaniasは、Melanthusの母も妻もAthenianであったと伝えており、Melanthusは、Thymoetesの娘婿であったと思われる。[205]

Thessaly地方のPheraeの町の住人は、Thesprotiansに追われて、Eumelusの子Zeuxippusの子Armeniusに率いられてAthensの町へ移住した。[206]

Armeniusの娘Heniocheは、Messenia地方のAndropompusに嫁ぎ、息子Melanthusが生まれた。[207]

系図を作成すると、移住時のMelanthusは50歳を超えており、Melanthusの跡を継いだ息子Codrusも30歳を超えていた。当時Thymoetesは、在位30年目であり、娘婿にAthens王を継がせたものと思われる。

 

17.2.2 Eleusis

BC1111年、Melanthusが最初に行ったのはEleusisの町であった。Messenia地方とEleusisの町は深い関係があった。[208]

BC1385年、Eleusisに住むPhlyusの子Celaenusの子CauconがAndaniaの町に住むMesseneを訪問して、Great Goddessesの祭儀を伝えた。[209]

Phlyusの妻Celaenoは、Messeneの姉であり、Cauconは、Messeneの姉の孫であった。[210]

BC1275年、Pandionの子Lycusも、Areneの町やAndaniaの町で、Great Goddessesの祭儀を執り行った。[211]

この祭儀は、Melanthusの時代以降も、Messenia戦争の時代まで脈々と受け継がれていた。[212]

 

17.3 Melanthusの在位期間

BC2世紀の年代記作者Castorは、CecropsからThymoetesまでのAthens王の統治期間は、450年間であったと伝えている。しかし、歴代の王の統治年数を合計すると429年間になり21年足りない。[213]

Castorは、Demophonの子Oxyntesが12年、Oxyntesの子Apheidasが1年、Apheidasの異母兄弟Thymoetesが8年と、それぞれの統治年数を伝えている。しかし、その前後の王たちの統治年数に比べて、3人で、21年は少な過ぎる。[214]

Castorは、Melanthusの統治年数を37年と伝えているが、そのうちの21年はMessenia王としての統治年数であったと思われる。

Athens王としてのMelanthusの統治年数は16年で、Thymoetesの統治年数は29年であったと推定される。

 

18 Thucydidesの見解

BC5世紀の歴史家Thucydidesは、Attica地方の繫栄は、難民の流入による人口増加によってもたらされたものだと述べている。さらに、Thucydidesは、それ以前のAttica地方には、内紛がなかったとも述べている。[215]

しかし、初代Athens王Cepropsから、Cranaus、Amphictyon、Erichthoniusへと続く王位継承争いがあった。また、2世代に渡るEleusisとの戦いがあった。

さらに、第7代Athens王Cepropsの時代から、Pandion、Aegeus、Theseusの時代へと続く、兄弟間の戦いがあった。そして、Crete島のMinosとの戦いもあった。

青銅器時代のAttica地方は、内紛の連続であった。

 

おわり

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