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第13章 ミュケナイの青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2025.10.31

MycenaeS.png

1 はじめに

Mycenaeの町に住んでいたEurystheusやAgamemnonなどについて、多くの伝承が残っている。しかし、ほとんどの伝承は、作り話である。

荒唐無稽な伝承を無視して、史実と思われる伝承を繋ぎ合わせることで、Mycenaeの町の歴史が見えてくる。

Mycenaeの町Peloponnesus半島内で、Argosの町と同じくらい古い町であるにもかかわらず、Mycenaeの町の場合、Perseus以前の伝承が殆ど残っていない。

Mycenaeの町の初期の歴史は、深い霧の中にある。

 

2 Perseus以前のMycenae (BC1750-1330)

2.1 最初のギリシア人

Mycenaeの町の名前の由来については諸説あるが、一番妥当だと思われるのは、Inachusの娘Myceneに因むとする説である。[1]

BC1750年、Inachusの2人の息子たち、Aegialeus (or Aezeius)とPhoroneusは、Aegialeia (後のSicyon)の町とPhoroneus (後のArgos)の町を創建した。[2]

Mycenaeの町は、2つの町を結ぶ街道の要衝の地にあった。

Mycenaeの町は、2つの町とほぼ同じ頃に創建されたと思われる。[3]

Mycenaeの町の創建者は、Inachusの娘Myceneの夫Arestorと推定される。

Arestorは、第3代Sicyon王Telchinと同族で、Mycenaeの町の最初の住人は、Telchinesであったと思われる。

 

2.2 考古学からの判明事項

近年の考古学的調査によって、Mycenaeについては、つぎのことが判明している。[4]

1) BC1600年頃から、MycenaeにCrete島の影響が支配的になった。

2) BC1550年頃からBC1450年頃までの間に、Mycenaeは大国に発展した。

 

2.3 史料の中での記述

Perseusより前の時代のMycenaeの町についての記述は、ほぼ皆無である。

唯一、大科学者Newtonがつぎのように伝えている。[5]

「Egyptから移住して来たDanausが、Argosの町を支配していたGelanorと戦った。

Gelanorは、Mycenaeの町の支配者Eurystheusの兄弟であった。」

この後、Newtonは、このEurystheusがPerseusの子Sthenelusの息子であるかのように記述している。

これは、Newtonの勘違いである。

Newtonが勘違いしたのは、Gelanorの父の名前がSthenelasであったことが原因と思われる。[6]

つまり、Newtonは、Danausの時代の史料に記されたGelanorの兄弟Eurystheusを、200年後に、同じMycenaeの町を支配していたSthenelusの子Eurystheusと同一人物と見なしていた。

しかし、Gelanorの父の名前は、Sthenelusだけではなく、Sthenelas、Stheneleus、Sthelenusとも伝えられている。[7]

つまり、Danausの時代に、Eurystheusという名前の人物がMycenaeの町を支配していたのは、史実と思われる。

 

2.4 TelchinesとArgosの戦い

Inachusの子Phoroneus時代、Argosの町は、Telchinesと戦っていた。[8]

BC1690年、Phoroneusの子Apisとの戦いに敗れたTelchinesは、Rhodes島へ移住した。[9]

Telchinesは、Rhodes島に、Telchinisという古い名前を与えた種族であった。[10]

Argos王Apisは、この戦いの後で、Sicyonの町を支配下に置いて、Sicyon王にもなった。年代記作者Castorが伝えているSicyoniansの王たちの系譜に、Apisは、第3代Telchinと第5代Thelxionとの間に、第4代Sicyon王として記されている。[11]

BC1665年、Apisは、TelchinとThelxionとによって殺され、Sicyonの町は、25年間に及ぶArgosの町の支配から解放された。[12]

 

2.5 Creteへの移住

Telchinesは、Rhodes島を中心に活動していたが、彼らは、最初、Crete島へ渡ったと推定される。

AD2世紀の神学者Clemens of Alexandriaは君主制の始まりを「SicyonのAegialeus、Europs、Telchis、Crete島のCres」の順序で記している。[13]

つまり、Cresは、Telchisの息子であり、Sicyonの町からCrete島へ移住して、王になったと解釈することができる。

Telchinesは、第3代Sicyon王Telchinの名前に因んで名づけられた種族であった。

 

2.6 Cresについて

Cresは、Crete島の最初の王であり、Cresに因んで、Crete島と呼ばれるようになったとも伝えられている。[14]

また、Cresは、Crete島のEteocretansの王であり、Talosという名前の息子がいた。[15]

 

2.7 CreteからMycenaeへの移住

BC1665年、Sicyonの町がArgosの町のApisによる支配から解放された後、Sicyonの町とCrete島のTelchinesとの間で交易活動が活発になったと思われる。[16]

BC1600年頃から、Mycenaeの町にCrete島の影響が認められるのは、TelchinesがMycenaeの町に住み着いた結果であると思われる。[17]

その後、Crete島やRhodes島を拠点にして、Agean Seaを自由に航海していたTelchinesの活動により、Mycenaeの町は発展した。[18]

 

2.8 Messapus

Pausaniasは、Sicyonの町の王たちの名前を記している。

Pausaniasは、Thurimachusの子Leucippusに跡を継ぐ息子がいないため、彼の娘Calchiniaの息子Peratusが王になったとして記している。[19]

年代記作者Castorが作成したSicyoniansの王のリストでは、LeucippusとPeratusの間に、Messapusという名前が記されている。[20]

恐らく、Messapusは、Leucippusの娘Calchiniaの夫であり、Peratusの父であったと推定される。[21]

 

2.9 Messapusの父

Mycenaeの町は、many-eyed、あるいは、All-seeingと称されるArgusの名前に因んで、Argionと呼ばれていた。[22]

Argusは、Phoroneusの娘Niobeの子Argusの子Ecbasusの子Agenorの息子であった。[23]

Argusの妻は、Asopus河神の娘Ismeneであった。[24]

ArgusとIsmeneが結婚した当時、Asopus川が流れるSicyonの町の王は、Aegydrus (or Aegyrus)の子Thurimachusであった。Asopus河神はThurimachusであり、IsmeneはThurimachusの娘と推定される。[25]

系図を作成すると、Messapusは、Argusの次の世代である。

以上のことから、次のように推定される。

Agenorの子Argusは、Sicyonの町のThurimachusの娘Ismeneを妻にして、Mycenaeの町に住んだ。

Sicyonの町の王Thurimachusの子Leucippusに息子がいないため、Leucippusの跡をLeucippusの娘Calchiniaの夫Messapusが継いだ。[26]

つまり、Messapusの父は、Agenorの子Argusであった。

 

2.10 Argosからの大移住

BC1560年、Argosの町から各地への大移住が発生した。[27]

近年の考古学的調査によれば、BC1550年頃からMycenaeの町は大国に発展している。[28]

つまり、大移住の原因は、気候変動による飢饉ではなく、Mycenaeの町によるArgosの町の占領であったと思われる。

 

2.11 Mycenaeの繁栄

Agenorの子Argusの跡を継いで、Mycenae王となったMessapusは、彼の母Ismeneや彼の妻Calchiniaの出身地でもあるSicyonの町を支配下に置いた。

BC1560年、Messapusは、Argosの町を攻めて、占領した。

これによって、Mycenaeの町は、Arcadia地方に住むPelasgiansを除いて、Peloponnesus半島のすべての人々を支配したことになる。

Messapusの死亡時期は、BC1540年頃であり、Messapusは、Mycenaeの町から発掘されたAgamemnonのMaskに関係する人物と推定される。

Mycenaeの町に住んでいたTelchinesは、Idaean Dactylsとも呼ばれ、金属加工に卓越した種族であった。[29]

2.12 当時の状況

Mycenaeの町が黄金期を迎えたBC1550年頃の地中海世界は、次のようであった。

Argolis地方のMycenae、Argos、Sicyon、Tiryns、Epidaurus、Heraeum、Hermioneの町には、Argusの子Messapus支配下のPelasgiansやTelchinesが住んでいた。

Crete島には、Sicyonの町から移住して、Telchinesから名前を変えたEteocretansが住んでいた。

Rhodes島には、Sicyonの町から移住したTelchinesが住んでいた。

Italy半島には、Argusの子Messapusと同族で、Pelasgiansから名前を変えたOenotriansやPeucetiansが住んでいた。

Mycenaeの町は、Crete島、Rhodes島、Italy半島と交易を行っていたと推定される。

また、次の地方には、Messapusによって、Argosの町から追放された人々が住んでいた。

Arcadia地方には、Triopasの子Agenorの子Pelasgus支配下のPelasgiansが住んでいた。

Megara地方には、Triopasの子Agenorの子Crotopus支配下のPelasgiansが住んでいた。

Thessaly地方東部には、Pelasgusの娘Larisaの息子たち支配下のPelasgiansが住んでいた。

Lycia地方には、Triopasの子Xanthusが植民したPelasgiansが住んでいた。

Caria地方のCyrnusの町には、Cyrnus支配下のPelasgiansが住んでいた。

Lesbos島には、Triopasの子Xanthus支配下のPelasgiansが住んでいた。

EgyptのNile Deltaには、Saisの町のTelegonus支配下のGreece系移民が住んでいた。

次の地方には、それ以外の人々が住んでいた。

Attica地方には、Cecrops支配下のEctenesが住んでいた。

Boeotia地方には、HyantesやAoniansが住んでいた。

Phocis地方には、Delphiansが住んでいた。

Thessaly地方南西部には、Hellenの父Deucalionの父の支配下のEctenesが住んでいた。

 

2.13 Danausの出現

BC1430年、Danausは、EgyptからPeloponnesusへ移住して来て、Argosの町を支配していたGelanorから支配権を奪取した。[30]

Pausaniasは、GelanorをTriopasの子Agenorの子Crotopusの子Sthenelasの息子だと伝えている。[31]

しかし、Sthenelasは、Crotopusの息子ではなく、彼らの間には、2世代くらいの欠落がある。

また、Sthenelasは、Crotopusの後裔ではなく、Mycenaeの町のMessapusの後裔と推定される。Danausが移住して来たとき、Gelanorの兄弟EurystheusがMycenaeの町を支配していた。[32]

 

2.14 Argosの奪還

BC1600年、Agenorの子Argusは、Criasusの子Phorbasによって、Argosの町から追放されてMycenaeの町へ移住した。[33]

BC1560年、Argusの子Messapusは、Phorbasの子Triopasの後裔をArgosの町から追放した。

Triopasの子Iasusの娘Ioは、Egyptへ移住した。[34]

Danausは、Ioの子Epaphusの娘Libyaの子Belusの息子であった。

つまり、Danausは、Mycenaeの町によって占領されていたArgosの町を奪い返したことになる。

その後、Danausは、Mycenaeの町を攻めて破壊し、Mycenaeの町の住人は、Sicyonの町へ移住したと推定される。

 

2.15 Argosの再占領

BC1413年、Danausの跡を継いだLynceusが死んで、Lynceusの子AbasがArgosの町を継承した。[35]

BC1408年、Danausによって追放されたGelanorの息子と推定されるLamedonは、Sicyonの町からArgosの町へ攻め込んで占拠した。[36]

 

2.16 Argosの奪還

BC1407年、Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesは、Lamedonと戦って、Argosの町を奪還して、さらに、Sicyonの町を占領した。[37]

ArchanderとArchitelesは、Danausの娘たち、ScaeaとAutomateの夫たちであった。[38]

Deucalionの後裔であるArchanderとArchitelesには、多くのAchaeansが付き従い、彼らは、Argolis地方全域に定住した。[39]

Aeolusの子Sisyphusは、Sicyonの町の東にEphyra (後のCorinth)の町を創建して、Sicyonの町をも支配した。[40]

 

2.17 Mycenaeの荒廃

AchaeansとSicyonの町との戦いで、Mycenaeの町は、さらに、荒廃した。

BC1368年、Argosの町のAbasの2人の息子たち、ProetusとAcrisiusが支配権を争って戦い、そして、和解した。[41]

その時、Acrisiusは、Argosの町を、Proetusは、Tiryns、Heraeum、Mideiaの町、および、Argolisの沿海地方を領することになった。[42]

Mycenaeは、町として存在していなかった。

 

2.18 Perseus以前のMycenaeの記録

PerseusがMycenaeの町を創建する前の記録が残っていないのは、過去を語り継ぐ人々が四散したからだと思われる。

BC1430年、Danausが移住して来る前に、Mycenaeの町に住んでいた人々は、Danausに町を破壊されて、Sicyonの町へ逃れた。

BC1407年、Sicyonの町は、Achaeansに占領されて、Thessaly地方から移住して来たAeolusの子Sisyphusに支配された。[43]

BC1430年以前に、Mycenaeの町に住んでいた人々は、各地へ四散した。

同じようなことが、BC1560年にArgosの町からThessaly地方へ移住したPelasgiansにも見ることができる。彼らの子孫が、BC1390年にThessaly地方から追い出されるまでの記録が残っていない。

しかし、Mycenaeの町と異なり、最初の移住者Larisaから、追放された当時のLarisaの子孫Nanasまでの系譜だけは残されていた。

 

3 Danaeの子Perseusの時代 (BC1330-1304)

3.1 Danaeの子Perseus

BC1360年、Perseusは、Argos王Acrisiusの娘Danaeの息子として、EgyptのNileDeltaにあるChemmisの町で生まれた。[44]

BC1349年、AcrisiusはPerseusを後継者にするために、Argosの町に呼び寄せた。[45]

BC1343年、PerseusはAcrisiusの兄弟Proetusを殺して、Seriphus島へ逃れた。[46]

 

3.2 Perseusの結婚

BC1342年、Perseusは、Ethiopiansの地に住むBelusの子Cepheusのもとへ行き、彼の娘Andromedaと結婚した。[50]

Andromedaの生まれ故郷EthiopiaはEgyptの南ではなく、Anatolia半島北西部のAesepus川の河口付近にあった。[51]

そのEthiopiaは、Adrasteia平原にあり、PerseusがAndromedaと結婚した当時、そこは、Pelopsの父Tantalusの領地であった。[52]

Perseusの息子たちとPelopsの娘たちの婚姻は、Pelopsの父TantalusとPerseusとの交友関係によるものであった。

また、Perseusの母Danaeと、Pelopsの妻Hippodamiaの母Evareteは姉妹であり、Perseusの息子たちとPelopsの娘たちは、又従兄妹同士であった。[53]

 

3.3 Perseusの遠征

PerseusがArgosの町を出て、Ethiopiansの土地に現れるまで、約8年間、Perseusの所在は不明である。

PerseusがLycaonia地方のIconium (Konya)の町まで遠征したと伝えている史料があるが、この所在不明の時期の出来事と思われる。[47]

Hittite文書によれば、Arzawa王TarhuntaraduがHittite領の奥深くまで侵入して、Tuwanuwa (Tyana)の町を占領していた。[48]

Iconiumの町は、Tuwanuwaの町の西方約185kmにある。

Tarhuntaraduは、Perseusの母Danaeと同世代であり、Perseusは、Ahhiyawa軍と共に、Tarhuntaraduの遠征に参加していたと思われる。

Perseusが創建したMycenaeの城塞の神殿には、EgyptのAmenhotep IIIの妻TiyeのScarabが置かれていた。[49]

そのScarabは、Amenhotep IIIと交流があったTarhuntaraduからPerseusに与えられ、Perseusが神殿に安置したと推定される。

 

3.4 Mycenaeの創建

Abasの子Acrisiusが死ぬと、Tirynsの町に住むProetusの子MegapenthesがArgosの町へ移り住んだ。[54]

BC1332年、Perseusは、Ethiopiansの地からPeloponnesusへ帰還し、Argosの町から追い出されたAchaeansと共にTirynsの町を占拠した。[55]

伝承では、PerseusがMegapenthesと町を交換して、PerseusがTirynsの町に、MegapenthesがArgosの町に住むことになったと伝えられている。[56]

しかし、結果的にそうなったのであり、彼らの意志で交換したのではなかった。

BC1330年、Perseusは、Mycenaeの町を創建して、堅固な城壁で囲んだ。[57]

Mycenaeの町は、Argium山に建設されたという伝承があり、Agenorの子Argusが創建した町は、既に存在していなかったと思われる。[58]

 

3.5 Perseusの息子たち

3.5.1 Perseusの子Perses

Persesは、Ethiopiaで生まれ、母Andromedaの父Cepheusの跡を継ぐためにその地に残された。[59]

 

3.5.2 Perseusの子Alcaeus

Alcaeusは、Thebesの町のMenoeceusの娘Hipponomeと結婚して、後にHeraclesの父になる、息子Amphitryonが生まれた。[60]

PerseusがMycenaeの町を創建後、AlcaeusがTirynsの町を継承した。

 

3.5.3 Perseusの子Sthenelus

Sthenelusは、父PerseusからMycenaeの町を継承した。[61]

 

3.5.4 Perseusの子Cynurus

BC1300年、Cynurusは新天地を求めて、Laconia地方との境付近へ移住してCynuriaの町を創建した。[62]

 

3.5.5 Perseusの子Mestor

Mestorは、Pelopsの娘Lysidiceを妻に迎えて、娘Hippothoeが生まれた。[63]

 

3.5.6 Perseusの子Helius (or Heleus)

BC1290年、HeliusはLaconia湾岸にHelosの町を創建した。[64]

Heliusは、兄弟Mestorの娘Hippothoeと結婚して、息子Taphiusが生まれた。[65]

BC1277年、Heliusは、兄弟たちと共にGreece北西部へ遠征して、Echinadian Islandsに定住した。[66]

 

3.5.7 Perseusの子Electryon

Electryonは、Mideiaの町に住み、Pelopsの娘Lysidice(or Eurydice)と結婚して、後にHeraclesの母になる、Alcmenaが生まれた。[67]

Electryonは、Lysidiceとの結婚の前に、PhrygianのMideiaと結婚していた。[68]

この結婚は、つぎのようにして成立したと思われる。

Perseusの最初の息子Persesは、祖父の跡を継ぐためにEthiopiaに残された。[69]

Ethiopiaは、Adrasteia平原にあったが、そこに住んでいたPelopsの父Tantalusは、Trosの子Ilusに攻められて、追い出された。[70]

Persesは、隣接するTroyの脅威に対抗するために、父Perseusに援軍を求めた

Perseusは、ElectryonをPersesのもとへ派遣した。

ElectryonはEthiopiaで、PhrygianのMideiaを妻にして、多くの息子たちが生まれた。[71]

その後、Ilusとの戦いに敗れたElectryonは、Peloponnesusへ帰還して、Mideaの町を任せられた。

 

3.6 Perseusの娘たち

3.6.1 Perseusの娘Gorgophone

BC1307年、Gorgophoneは、Messenia地方のAndaniaの町のAeolusの子Perieresに嫁いだ。[72]

Andaniaの町は、5世代前にArgosの町から移住したAchaeansを中心に、Lacedaemonの町のLelexの子Polycaonによって創建された。[73]

Mycenaeの町の住人も、Argosの町に住んでいたAchaeansの後裔であった。

PerieresとGorgophoneの婚姻は、両者の町の住人が同族であったことから成立したと思われる。

 

3.6.2 Perseusの娘Autochthe

Perseusには、Autochtheという名前の娘がいた。[74]

Autochtheは、後述の「Atreusの母」で記す理由からPelopsの妻であったと思われる。

 

3.7 Perseusの最期

BC1310年、Perseusは、Argosの町のProetusの子Megapenthesに殺された。[75]

それは、PerseusがMegapenthesの父Proetusを殺したことに対する復讐であった。

この出来事の後、Argosの町とMycenaeの町は絶縁状態になった。

ArgivesのThebes攻めにMycenaeの町は登場せず、EurystheusのHeracleidae攻めにArgosの町は登場しない。

両者の争いに、Argosの町の植民市であるPhocis地方のAbaeの町も関係していた。

Megapenthesは、Abaeの町のLynceusを殺し、Lynceusの子AbasはMegapenthesを殺害した。[76]

 

4 Perseusの子Sthenelusの時代 (BC1310-1262)

4.1 Sthenelusの結婚

Perseusの跡を息子Sthenelusが継いだ。

Sthenelusの妻は、Pelopsの娘Nicippe (or Archippe)の他に、Amphidamasの娘Antibiaがいた。[77]

Sthenelusの妻の父に年代が合致するAmphidamasは、Arcadia地方のAleusの息子が該当する。[78]

そのAmphidamasの娘Nausidameは、Elisの町のAugeasの母であり、後にHeraclesはAugeasと戦うが、その戦いの原因と関係があると思われる。[79]

Sthenelusの子EurystheusとSthenelusの甥Heraclesとは同年齢であり、Eurystheusの母は、Sthenelusの2人目の妻Nicippeであったと推定される。[80]

 

4.2 Sthenelusの娘Alcyone

AD1世紀の歴史家Dionysius of Halicarnassusは、Trojan Warの3世代前に、AlcyoneがArgosの神職を務めていたと伝えている。[81]

このAlcyoneは年代的に見て、Sthenelusの娘で、Eurystheusの異母姉妹であったと思われる。Eurystheusの娘AdmeteもArgosのHeraの巫女であった。[82]

 

4.3 Amphitryonの遠征

BC1277年、Sthenelusの兄弟たち、ElectryonやHeliusが彼らの甥Amphitryonと共にGreece北西部へ遠征した。[83]

この遠征で、Mideiaの町に住むElectryonと彼の息子たちが死に、彼の末の息子Licymniusと彼の娘Alcmenaが残された。[84]

Amphitryonは従兄弟たち、LicymniusとAlcmenaをThebesの町に呼び寄せ、AmphitryonはAlcmenaを妻にした。[85]

Sthenelusは、ElectryonがいなくなったMideiaの町をPelopsの息子たち、AtreusとThyestesに任せた。[86]

 

4.4 Sthenelusの娘Astymedusa (or Medusa)

BC5世紀の神話学者Pherecydesは、Thebesの町のOedipusの3人目の妻は、Sthenelusの娘Astymedusaだと伝えている。[87]

このSthenelusをArgosの町のCapaneusの子Sthenelusであるとすれば、彼の娘とOedipusの年齢は、100歳差となり、妥当ではない。

AstymedusaがPerseusの子Sthenelusの娘であるとすれば、概ねOedipusの妻として妥当な年代になる。

Oedipusは、Corinth地方のTeneaの町に住んでいたときに、Mycenaeの町に住むAstymedusaと面識があったと思われる。[88]

BC1234年、当時、60歳と推定されるOedipusの3度目の結婚は、Thebesの町のCreonに強い憎悪の念をもたらした。

Creonは、娘MegaraをHeraclesに離縁されたことからPerseusの後裔を嫌っていた。[89]

OedipusとAstymedusaの結婚は、Oedipusと彼の息子たち、EteoclesとPolyneicesの争いを生んだ。[90]

 

5 Sthenelusの子Eurystheusの時代 (BC1262-1217)

BC1262年、Sthenelusの跡を、彼の息子Eurystheusが継いだ。[91]

 

5.1 Eurystheusの誕生

Eurystheusは、Heraclesより僅かに先に生まれたために、Mycenae王になったと伝えられている。[92]

しかし、HeraclesがEurystheusより早く生まれていてもMycenae王となることはなかった。Heraclesは祖父Alcaeusから父Amphitryonへと継承されたTirynsの町の領主であった。

 

5.2 Cleonaeの創建

BC1251年、AtreusはMideiaの町を出て、Cleonaeの町を創建した。[93]

Cleonaeの町はMycenaeの町の北約11km、Mycenaeの町は、Mideiaの町の北西約12km、そして、Tirynsの町はMideiaの町の南南西約7kmにあった。

Cleonaeの町の創建は、HeraclesがThebesの町からTirynsの町へ移住した時期であり、つぎのように推測される。[94]

Mycenaeの町を父から継承したEurystheusは、頼りになる身内として、Thebesの町に住んでいたHeraclesとLicymniusを近くに呼び寄せた。

Eurystheusの父Sthenelusの兄弟Alcaeusの子Amphitryonの子Heraclesは、Thebesの町から父の旧領Tirynsの町へ移住した。[95]

Eurystheusの父Sthenelusの兄弟Electryonの子Licymniusは、Thebesの町から父の旧領Mideiaの町へ移住した。

そのため、Atreusは、Mideiaの町を出て、Cleonaeの町を創建した。

BC468年、Mycenaeの町がArgosの町に破却されたとき、Mycenaeansの一部は、Cleonaeの町へ逃れた。[96]

 

5.3 Argosの内紛

Argosの町に住むHyettusが、Arisbasの子Molurusを殺害するという事件が起きた。Hyettusは、Boeotia地方へ移住してCopais湖の北側にHyettusの町を創建した。[97]

恐らく、この事件を契機にArgosの町に内紛が勃発して、Melampusの子MantiusがArgosの町から追い出された。[98]

BC1247年、MantiusはArgosの町へ帰還して、自分たちを追い出したMelampusの子Abasや、彼に味方したBiasの後裔を町から追い出した。[99]

この内紛で、Amythaonの子Melampus本人を含めて、彼の一族がArgosの町を去った。

EurystheusがHeraclesに命じたElis攻めに、Mantiusの子Oeclesが参加していることから、Mantiusの帰還に、Eurystheusが協力したと推定される。

Mycenaeの町とArgosの町は対立していたが、Mantiusは、対立の原因となったProetusの子Megapenthesの後裔ではなかった。

 

5.4 Elis攻め

BC1243年、Eurystheusは、HeraclesにEleia地方のElisの町のAugeasを攻めさせた。[100]

伝承では、AugeasがHeraclesに約束した報酬を支払わなかったからだと伝えられている。[101]

しかし、つぎのようなことが原因であったと思われる。

Augeasの母は、Arcadia地方のAmphidamasの娘Nausidameであり、Nausidameの姉妹Antibiaは、Eurystheusの父Sthenelusの最初の妻であった。

つまり、AugeasとEurystheusは、お互いの母を通じて義理の従兄弟であった。 [102]

婚姻関係によって、Eurystheusが生まれる前は、Elisの町とMycenaeの町は、良好な関係にあった。しかし、Sthenelusが、Pelopsの娘Nicippe (or Archippe)と2度目の結婚をするに及んで、両者の関係は悪化した。[103]

Pelops亡き後、Elisの町が、Pisaの町に代わってOlympiaを支配下に置いて、競技会を開催するなど、Pisaの町にも影響力を及ぼすようになった。

EurystheusはPisaの町からの請願を受けてHeraclesにElisの町を攻めさせたと推定される。[104]

 

5.5 Dryopiansの受け入れ

BC1230年、Delphi近くのDryopesの町のPhylasがDelphiの神殿に不敬を働いたことから、HeraclesはDryopiansを攻めて、その地から追放した。[105]

Dryopiansの一部は、Peloponnesusへ逃げ込み、Eurystheusから援助を受けて、Argolis地方にAsine、Hermione、Eionという名前の3つの町を建設した。[106]

Eurystheusは、Heraclesへの敵対心のためにDryopiansを援助したと伝えられ、既にこの頃から、両者の敵対関係は有名であったものと思われる。[107]

この頃、Eurystheusの息子たちも成人し、Argolis地方南東部の海岸地帯へもMycenaeの町の支配が及んでいたことを証明している。

 

5.6 Eurystheusの味方

BC1262年、Eurystheusが父からMycenaeの町を継承した頃、まだ成人に達していないEurystheusの近くにいた身内は、2人だけであった。

その2人とは、Eurystheusの父Sthenelusの姉妹Autochtheの息子たち、ThyestesとAtreusであり、Mideiaの町に住んでいた。[108]

彼らとEurystheusは、Perseusを共通の祖父とする従兄弟であったが、彼らの方が、15歳以上、Eurystheusより年長であった。

 

5.7 EurystheusのHeraclesに対する気持ちの変化

Heraclesは、Eurystheusと同じ年齢であり、Eurystheusの従兄弟Amphitryonの息子であった。[109]

AmphitryonはTeleboansやChalcodonと戦った戦士であり、HeraclesもMinyansのErginusとの戦いで、有名になっていた。[110]

HeraclesはCreonの娘Megaraとの間に生まれた子供たちを失った後で、Thebesの町からTirynsの町へ移り住んだ。[111]

HeraclesがActorの息子たちを襲撃して、Elisの町が犯人の処罰を求めたとき、EurystheusはHeraclesを処罰せず、町から出て行かせた。[112]

Eurystheusにとって、Heraclesは信頼できる身内であり、力強い味方であった。

しかし、HeraclesがElisの町やPylusの町を攻略し、Olympiaで競技会を開催したことでEurystheusのHeraclesに対する嫉妬心は、敵対心に変わった。[113]

それまで、Olympiaでの競技会は、その時代の覇者が開催していた。[114]

 

5.8 EurystheusのHeracles一家への執念

HeraclesがTirynsの町を出た後のHeracles一家の転居には、Eurystheusの強い意志が働いていた。

 

5.8.1 PheneusからCalydonへの転居

Arcadia王Lycurgusは、Hippocoonとの戦いで、彼の息子Cepheusや多くの孫たちを失った。Lycurgusは、Eurystheusからの要請を受けて、HeraclesにArcadia地方のPheneusの町からの退去を迫ったと推定される。[115]

Lycurgusは、Eurystheusの妻Antimacheの祖父であった。[116]

 

5.8.2 CalydonからTrachisへの転居

Eurystheusは、Argosの町への帰還を援助したMantiusの子Oeclesの子Amphiarausを通じて、Calydonの町のOeneusに圧力をかけたと推定される。[117]

Mantius一族は、Calydonの町に20年以上住み、Amphiarausはその町で生まれた。[118]

 

5.8.3 TrachisからAthensへの転居

Heraclesの死後、Eurystheusは、Trachisの町のCeyxに対して、彼がHeracles一家を追い出さなければ武力に訴えると脅した。[119]

 

5.9 Eurystheusの最期

BC1217年、Eurystheusは、Heraclesの息子たちが住んでいたAthensの町へ攻め込むが、Heraclesの甥Iolausに討ち取られた。[120]

BC1215年、HeracleidaeがPeloponnesus半島へ侵入して、Mideiaの町やTirynsの町を占拠した。[121]

翌年、Heracleidaeは、Heraclesの子Tlepolemusを残して、PeloponnesusからAttica地方の町へ撤収した。[122]

BC1213年、Tlepolemusは移民団を率いて、Rhodes島へ移住した。[123]

Tlepolemusの移民団は、Tirynthiansで構成され、その中には、Heracleidaeとの戦いで生き残ったEurystheusの一族が含まれていた。[124]

 

5.9.1 LebesとRhacius

BC1213年、MycenaeanのLebesは、PeloponnesusからCrete島へ移住した。

BC1200年、Lebesの子Rhaciusは、Crete島からAsia Minorへ移住してColophonの町を創建した。[125]

Rhaciusは、Tiresiasの娘MantoからEpigoniに攻められてThebesの町が陥落した話を聞いて涙を流した。このことから、Lebesは、Sthenelusの子Iphitusの息子と推定される。[126]

BC1234年、Iphitusの姉妹Astymedusaは、Thebesの町のOedipusに嫁いでいた。[127]

 

5.9.2 Eurystheusの娘Admete

Argosの町のHera神殿の巫女であったEurystheusの娘Admeteは、Samos島へ移住した。[128]

Samos島は、Crete島から航海してColophonの町に着く少し手前にあった。

Admeteは移住先を探していたRhacius率いる移民団の中にいて、途中でSamos島に定住したと推定される。

 

6 Eurystheus死後のMycenae

6.1 混乱する伝承

Eurystheusの跡を継いだPelopidaeについては、多くの伝承があって混乱している。

それらの伝承の背後にある真実の歴史を知るためには、つぎのようなことを考慮する必要がある。

1) AtreusとThyestesの母は、Perseusの娘であった。

2) Aegisthusは、Thyestesの息子ではなく、Thyestesの娘Pelopiaの息子であった。

3) Thyestesは、Atreusより前に死んだ。

4) Menelausは、TyndareusからLacedaemonを譲られたのではない。

 

6.2 AtreusとThyestesの母

Atreusの母はHippodamiaではなく、Perseusの娘Autochtheであったと推定される。[129]

この推定の根拠は次のとおりである。

1) Pelopsの息子は15人以上知られているが、Hippodamiaの息子は6人であったと伝えられている。[130]

系図を作成すると、Atreusは、PelopsとHippodamiaが結婚してから20年以上後に生まれている。また、Atreusがfirstbornであったと伝えている史料もあり、Atreusの母はHippodamiaではなく、もっと若い妻であったと推定される。[131]

2) SthenelusがMideiaの町をAtreusとThyestesに委ねている。[132]

Atreusの母がHippodamiaであれば、彼らはSthenelusの妻の兄弟である。

Atreusの母がAutochtheであれば、彼らはSthenelusの甥である。

Sthenelusは、血縁者であるAtreusとThyestesにMideiaの町を任せたと推定される。

3) Eurystheusの死後、AtreusがMycenaeの町を継承した。[133]

Thucydidesは、Atreusが異母兄弟Chrysippusを殺した後で、Eurystheusのもとへ逃げ込んだと伝えている。さらに、EurystheusがHeraclesの息子たちとの戦いに向かうときにAtreusにMycenaeの町を託したと伝えている。[134]

しかし、Eurystheusが死んだとき、Atreusは70歳を超えていた。また、Chrysippusはだいぶ前に死んでいた。

当時、支配者の死後、彼の娘婿が跡を継いだ例は見られるが、支配者の母の兄弟が継いだ例は見られない。

AtreusがEurystheusの父Sthenelusの父Perseusの娘Autochtheの息子であれば、AtreusはEurystheusの従兄弟であり、正当な継承者になる。

4) Atreusの2人の孫たちは、Tyndareusの娘たちと結婚した。[135]

Mycenaeの町のPelopsの子Atreusと、Spartaの町のOebalusの子Tyndareusとの間に血縁関係はないように見える。

しかし、Atreusの母が、Perseusの娘であれば、Atreusは、Tyndareusの母Gorgophoneの姉妹の息子になる。つまり、AgamemnonとMenelausは、父の従兄弟Tyndareusの娘たちと結婚したことになる。

 

6.3 Thyestesの子Aegisthus

多くの伝承が、Aegisthusは、Thyestesの息子だと伝えている。[136]

そして、Aegisthusの母については、Thyestesの娘Pelopiaだという伝承がある。[137]

Aegisthusの娘Erigoneは、Agamemnonの子Orestesと結婚して、息子Penthilusを産んだ。[138]

AegisthusがThyestesの息子だという伝承は、AgamemnonがAtreusの息子だという伝承に合わせて生まれたと思われる。

実際は、Agamemnonは、Atreusの子Pleisthenes (or Plisthenes)の息子であり、Aegisthusは、Thyestesの娘Pelopiaの息子であったと推定される。

 

6.4 Thyestesの死亡時期

AegisthusがMycenae王Atreusを殺してThyestesを復位させたという伝承がある。[139]

しかし、Atreusの孫Agamemnonが、Aegisthusを殺したという伝承はない。

Eurystheusが死んだとき、Atreusは、73歳であったと推定される。

Thyestesは、Atreusより年長であり、Eurystheusが死んだとき、Thyestesは既に死んでいたと思われる。[140]

恐らく、Thyestesは、Mideiaの町からCythera島へ移住して、その島で死んだと思われる。[140-1]

Cythera島は、当時、交易ルートの重要拠点であった。ThyestesとAegisthusは、Cythera島に住み、Mycenaeの町の発展に貢献していた。

 

6.5 MenelausのLacedaemon継承

伝承では、Tyndareusが義理の息子MenelausにLacedaemonの王権を譲ったことになっている。[141]

しかし、Tyndareusの跡をDioscuriが継いだという伝承もあり、Dioscuriより先にTyndareusは死んだのかもしれない。[142]

Tyndareusの息子たち、CastorとPolydeucesには、Menelausと同じくらいの年齢の息子たちがいた。[143]

Tyndareusには、彼がAetolia地方からSpartaの町へ帰って来てから結婚した女性から少なくとも3人の娘たちが生まれている。伝承には残っていないが、彼女たちの兄弟たちもいたと思われる。

つまり、Tyndareusには跡継ぎがいたにもかかわらず、義理の息子MenelausがLacedaemonを継承した。

恐らく、Mycenaeの町の勢力を背景にして、Tyndareusの正当な継承者を差し置いて、MenelausがLacedaemoniansの支配権を得たと推定される。

その証拠に、Menelausの跡をAgamemnonの子Orestesが継ぎ、Orestesの跡を彼の息子Tisamenusが継いだが、彼らはLacedaemonに住んでいなかった。

 

7 Pelopsの子Atreusの時代 (BC1217-1203)

Eurystheusの死後、AtreusがMycenaeの町を継承した。[144]

 

7.1 Heracleidaeとの戦い

7.1.1 Heracleidaeの帰還 (第1回)

BC1215年、Heraclesの子Hyllus率いるHeracleidaeがPeloponnesusへ侵入して、各地を占領した。[145]

このとき、Heracleidaeは、Mycenaeの町ではなく、Mideiaの町やTirynsの町を占拠した。[146]

AtreusやAgamemnonは、Mycenaeの町に籠城していたと推定される。

Eurystheusの死後、Mycenaeの町の戦力は、未だ回復していなかった。

 

7.1.2 Heracleidaeの帰還 (第2回)

BC1211年、Heraclesの子Hyllus率いるHeracleidaeが再びPeloponnesusへ侵入しようとした。[147]

AtreusやAgamemnonは、MycenaeansやTegeansを率いて、HeracleidaeをIsthmusで迎え撃った。[148]

Hyllusは戦死して、Heracleidaeは撃退された。[149]

伝承では、Hyllusは、Tegeaの町のEchemusとの一騎打ちで死んだことになっている。[150]

しかし、Heracleidae側が総大将を出しているのに、Peloponnesus側が総大将ではなく、援軍に来た者を出しているのは、不自然である。

Hyllusの対戦相手は、Echemusではなく、Atreus、あるいは、Agamemnonでなければならない。

Herodotusは、一騎打ちに敗れたHeracleidaeが100年間、Peloponnesusへの帰還を試みないという約束をしたと記している。[151]

BC1104年、Doriansを率いたHeracleidaeは、Peloponnesusへの帰還を果たしているが、一騎打ちの逸話は、その史実に合わせた作り話と思われる。

 

7.2 Atreusの死

Atreusは、父ThyestesをMycenae王に即位させようとしてAegisthusに殺されたという伝承がある。[152]

次のことから、この伝承は、作り話と思われる。

1) 祖父を殺されたAgamemnonが、Aegisthusに復讐したという伝承がない。

2) Thyestesは、Atreusより年長であり、AtreusがMycenae王を継承する前に、Thyestesは死んでいたと推定される。[153]

Atreusは、死亡時、87歳であり、Atreusの死因は、病死、あるいは、自然死と思われる。

 

8 Pleisthenesの子Agamemnonの時代 (BC1203-1173)

Atreusが死に、彼の最年長の孫AgamemnonがMycenaeの町を継承した。[154]

 

8.1 領土拡張

Agamemnonは、Mycenaeの町を掌握すると、Sicyonの町からAchaia地方のHeliceの町に至るPeloponnesus半島北部を支配下に置いた。[155]

さらに、Messenia湾沿岸部のCardamyle、Enope、Hire、Pherae、Antheia、Aepeia、Pedasusの町を支配下に置いた。[156]

また、Laconia地方南東のMalea岬の近くにあるOnugnathus半島には、Agamemnonが造営したAthenaの神域があった。[157]

Onugnathus半島の付け根にあった世界最古の水没都市PavlopetriにもAgamemnonの支配が及んでいたと推定される。

 

8.2 Megaraへの嫁入り

BC1190年、Agamemnonの娘Iphigeniaは、Megaraの町に住むAjaxの子Philaeusのもとへ嫁いだ。この結婚についての伝承はなく、推定であるが、根拠はつぎのとおりである。

1) Pausaniasは、Megaraの町にIphigeniaの英雄廟があり、彼女はその町で死んだと伝えている。[158]

2) PhilaeusはBrauronの町に住んでいたが、IphigeniaはBrauronの町のArtemisに仕える巫女であった。[159]

3) Iphigeniaの兄弟Hyperionは、Ajaxの跡を継いで、Megara王になった。[160]

 

8.3 Troy遠征

Agamemnonを総大将とするAchaea軍が、Boeotia地方のAulis港からTroyへ遠征したという伝承がある。[161]

HomerのIliadで語られているTrojansとAchaeansとの戦いは、歴史的な事実を舞台にした物語であり、Agamemnonはその物語の主要な登場人物であった。

しかし、Agamemnonは、次のことから、Troy遠征に参加していないと思われる。

1) 伝承に大きな矛盾がある。

Agamemnonの統治期間は、30年、あるいは、35年であり、彼の治世18年目にTrojan Warが終わったと伝えられる。これは、Agamemnonは、Troyから帰還した直後に殺されたという伝承と大きく矛盾している。[162]

2) 長期遠征は不可能であった。

Eurystheusの死後、Heracleidaeは、2度にわたってPeloponnesusへの帰還を試みていていた。Heracleidaeは、その後もPeloponnesusへの侵入の機会を窺っていた。[163]

実際、Agamemnonが死んだ年に、Hyllusの子CleodaeusはDoriansを率いて、Mycenaeの町を攻めて、町を破壊している。

このような状況下で、AgamemnonがMycenaeの町から軍勢を率いて、長期遠征をすることは不可能であった。

 

8.4 Tenedosからの移住

BC1286年、Corinth地方のTeneaの町にはPhliasの子Polybusが住んでいた。[164]

PolybusはSicyon王を継承し、Teneaの町を彼の養子であるLaiusの子Oedipusに託し、Polybus自身はSicyonの町へ移住した。[165]

BC1238年、Boeotia地方で発生したSphinxの反乱鎮圧のためにOedipusは駆け付け、そのまま、Thebesの町へ移り住んだ。[166]

その後、Teneaの町は、西隣のCleonaeの町のAtreusの支配下にあったと推定される。

BC1186年、Agamemnonは、Troy沖のTenedos島から逃れて来たTrojansをTeneaの町へ居住させた。[167]

Priamの子Hectorからの要請で実施されたAchaeansのTroy遠征には、Agamemnonは遠征しなかったが、Mycenaeの町から参加した人々がいたと思われる。

彼らは、Troyから撤退する際に、Hectorに味方して戦ったTenedos島の住人をTeneaの町に連れて来たと推定される。

 

8.5 Italyへの移住

BC1190年、Agamemnonの子Halaesusは、Italy半島中部のFaleriiの町へ移住した。[168]

BC1345年、Mycenaeの町の創建者Perseusの母Danaeは、Italy半島へ移住して、Romeの南東約30kmの土地にArdeaの町を創建していた。[169]

Faleriiの町の周辺は、Latium地方のArdeaの町を本拠地とするRutuliansが領していたが、Rutuliansの王Turnusは、Danaeの後裔であった。[170]

Rutuliansは、周辺の敵対する勢力に対抗して、味方を得るために、Halaesusを招いたと推定される。

BC1182年、Anchisesの子AeneasとRutuliansとの戦いが起き、Halaesusは、Rutuliansに味方して戦いに参加して、Evanderの子Pallasに討ち取られた。[171]

Halaesusの死後、Faleriiの町に住んでいたMycenaeansは、Mycenaeの町へ帰還したと思われる。最近の考古学調査で、BC12世紀にMycenaeの町とItalyとの関連を示す出土品が発掘されている。

 

8.6 Mycenae繁栄の要因

Mycenaeの町がPeloponnesus半島内の他の町より繁栄できた要因は、Mycenaeの町の創建者Perseusと海外との繋がりであったと思われる。

Perseusは、Mycenaeの町を創建する前に、次のような場所と関係があった。

1) Perseusは、EgyptのNile DeltaのChemmisの町で生まれた。[172]

2) Perseusは、Seriphus島へ逃れて、Peristhenesの子Dictysの庇護を受けた。[173]

3) Perseusは、Lycaonia地方のIconium (Konya)の町まで遠征した。[174]

4) Perseusは、EthiopiaのBelusの子Cepheusのもとへ行き、Cepheusの娘Andromedaと結婚した。[175]

Ethiopiaは、Anatolia半島北西部のAesepus川の河口付近にあった。[176]

5) Perseusの母Danaeは、Italy半島のRomeの近くにArdeaの町を創建した。[177]

Danaeの跡をPerseusの兄弟Daunusが継いだ。Daunusの後裔は、Rutuliansの王になった。[178]

Perseusが創建した当初から、Mycenaeの町は、海外との交易活動によって莫大な富を築いたと思われる。

 

8.7 Heracleidaeの帰還 (第3回)

BC1173年、Hyllusの子CleodaeusはDoriansを率いて、Mycenaeの町を攻めて、町を破壊した。[179]

近年の考古学調査で、BC12世紀のMycenaeの町に破壊された痕跡が確認されている。[180]

Doriansは、TirynsやMideaの町も破壊した。[181]

Doriansとの戦いで、Agamemnonは戦死したと推定される。

Agamemnonが死んだのは、Mycenae王在位30年目で、61歳のときであった。[182]

 

9 Aegisthusの時代 (BC1173-1156)

9.1 Doriansの追放

Doriansに奪われた町を奪還するためにAgamemnonの子Orestesは軍勢を集めて、Argosの町を占拠していたDoriansを追放した。Doriansを率いていたHyllusの子Cleodaeusは、無事にDoris地方のPindusの町へ帰還したと推定される。その後、Cleodaeusには息子Aristomachusが生まれた。[183]

しかし、Cleodaeusの長男を含む一部の人々は、Doris地方へ帰還できずに、Peloponnesusに残留した。彼らは、Messenia地方のIreの町に逃げ込んで、その地に定住した。[184]

Heracleidaeが最終帰還を果たした後でMessenia地方を獲得したAristomachusの子Cresphontesに対して、「真の」Heracleidaeと称するPolyphontesが反乱を起こした。Polyphontesは、Cleodaeusの長男の息子か孫と思われる。[185]

 

9.2 Mycenaeからの移住

Doriansによって破壊されたMycenaeの町には、Cythera島からOrestesの応援に駆け付けたAegisthusが住んだ。[186]

Aegisthusの死後、Aegisthusの子AletesがMycenaeの町を継承した。[187]

Mycenaeの町の大部分の住人は、Agamemnonの息子たちに従って、各地へ移住した。

 

9.2.1 Tegeaへの移住

Orestesは、Mycenaeの町からArcadia地方のTegeaの町へ移住した。[188]

Tegeaの町は、Eurystheusの妻Antimacheの出身地であり、古くからMycenaeの町とは関係が深かった。[189]

また、Orestesの母Clytaemnestraの姉妹Timandraの夫Echemusは、Arcadia王であった。[190]

Orestesの移住によって、Tegeaの町に住んでいたCercyonの子Hippothousは、Trapezusの町へ移住した。[191]

その後、Orestesは、Argosの町を併合して、彼の息子Tisamenusに治めさせた。[192]

 

9.2.2 Megaraへの移住

Agamemnonの子Hyperionは、Mycenaeの町からMegaraの町へ移住した。[193]

Megaraの町に住むAjaxの子Philaeusのもとへ、Hyperionの姉妹Iphigeniaが嫁いでいた。[194]

Hyperionは、横暴に振舞ったため、Sandionに殺されて、Megaraの王制は廃止された。[195]

 

9.2.3 Locrisへの移住

Mycenaeの町からLocris地方へ逃れたAgamemnonの子供たちもいた。[196]

BC1126年、Locris地方のPhricium山周辺に住んでいたAeolisは、Agamemnonの曾孫たち、Dorusの子CleuesとMalausに率いられて、Asia Minorへ移住した。[197]

 

9.3 Orestesによる植民活動

Cleodaeusが率いたDoriansは、Mycenae、Tiryns、Mideaの町の他に、Epidaurusの町やLaconia地方のAmyclaeの町をも荒廃させた。

Orestesは、土地を失った人々を率いて、植民活動を開始した。

Orestesは、Epidaurusの町のPerinthusと共に遠征して、Perinthusは彼の名前に因んだ町を創建した。[198]

また、Orestesは、Amyclaeの町のPeisanderとも遠征して、Tenedos島へ植民した。[199]

 

10 Heracleidaeの帰還

Pausanias, Apollodorus, そしてStraboは、Peloponnesusに侵入したDoriansが、Argos, Cleonae, Corinth, Epidaurus, Lacedaemon, Messenia, Phlius, そして、Troezenの町を奪ったと伝えている。

しかし、Heracleidaeが最終的にPeloponnesusへ帰還を果たした時の様子を伝えている伝承の中に、Mycenae, Tiryns, そしてMideaの町は登場しない。

BC1104年頃、Mycenaeの町の城壁の内側は、廃墟になっていたと推定される。

 

11 Mycenaeの滅亡

その後、Mycenaeの町は復興して、Hera神殿やNemea祭の運営権をめぐってArgosの町と対立するまでになった。[200]

しかし、Persiaとの戦争がMycenae滅亡の原因になった。

BC480年、Thermopylaeの戦いにMycenaeの町は80人を派遣したが、Argosの町は部隊を派遣することができなかった。[201]

それより少し前に、Argosの町は、LacedaemonのAnaxandridasの子Cleomenesとの戦いで、男性市民の殆どを失っていた。[202]

BC468年、Argosの町はMycenaeの町を攻め、城壁内に籠城したMycenaeansを兵糧攻めで落とし、Mycenaeの町を破壊した。[203]

Pausaniasは、Argosの町は嫉妬心からMycenaeの町を破壊したと伝えている。[204]

居住地を奪われたMycenaeansは、各地へ移住した。

 

11.1 Macedoniaへの移住

Mycenaeansの大半は、Macedonia地方へ逃れ、Amyntasの子Alexanderの保護を求めた。[205]

Herodotusは、Alexanderがギリシア人であることを認められてOlympicに参加したと伝えている。[206]

したがって、Mycenaeansは、AlexanderがArgosの町のTemenusの後裔であることを知っていたはずである。

Mycenaeansが、自分たちを追い出したArgosの町の出身者のもとへ身を寄せたのは、AlexanderがMycenaeの町の創建者Perseusの後裔であったからと推定される。

既に、200年以上前に、Argosの町の支配者は、Temenusの後裔ではなくなっていた。[207]

 

11.2 Cleonaeへの移住

Mycenaeansの一部は、近くのCleonaeの町へ逃れた。[208]

Straboは、Mycenaeの町が破壊された時、Tegeaの町と共にCleonaeの町も、Argosの町に加勢したと伝えている。[209]

Straboは、この記述の少し前に、Mycenaeの町がHeracleidaeの町になったとも伝えており、誤った史料を参考にしていたと思われる。

Cleonaeの町は、Heracleidaeの一人であるHeraclesの子Ctesippusの曾孫Agamedidasを王としていたが、町の住人はAchaeansであった。[210]

 

11.3 Ceryneiaへの移住

Mycenaeansの一部は、Achaia地方のCeryneiaの町へ逃れた。[211]

Ceryneiaの町は、PausaniasがAchaia地方の12市の一つに挙げている町であり、Heracleidaeに追われたOrestesの子Tisamenus率いるAchaeansが創建した町であった。[212]

Mycenaeansを共住者として受け入れたCeryneiaの町は人口が多くなり、勢力を増した。[213]

 

おわり

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