top of page
  • Grey Twitter Icon
  • Grey LinkedIn Icon
  • Grey Facebook Icon
  • Grey Pinterest Icon
  • Grey Instagram Icon

第13章 ミュケナイの青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2026.2.16

MycenaeS.png

1 はじめに

ミュケナイの町に住んでいたエウリュステウスやアガメムノンなどについて、多くの伝承が残っている。しかし、ほとんどの伝承は、作り話である。

荒唐無稽な伝承を無視して、史実と思われる伝承を繋ぎ合わせることで、ミュケナイの町の歴史が見えてくる。

ミュケナイの町ペロポネソス半島内で、アルゴスの町と同じくらい古い町であるにもかかわらず、ミュケナイの町の場合、ペルセウス以前の伝承が殆ど残っていない。

ミュケナイの町の初期の歴史は、深い霧の中にある。

 

2 ペルセウス以前のミュケナイ (BC1750-1330)

2.1 最初のギリシア人

ミュケナイの町の名前の由来については諸説あるが、一番妥当だと思われるのは、イナコスの娘ミュケネに因むとする説である。[1]

BC1750年、イナコスの2人の息子たち、アイギアレオス (または、アイゼイオス)とポロネオスは、アイギアレイア (後のシキュオン)の町とポロネオス (後のアルゴス)の町を創建した。[2]

ミュケナイの町は、2つの町を結ぶ街道の要衝の地にあった。

ミュケナイの町は、2つの町とほぼ同じ頃に創建されたと思われる。[3]

ミュケナイの町の創建者は、イナコスの娘ミュケネの夫アレストールと推定される。

アレスtorは、第3代シキュオン王テルキンと同族で、ミュケナイの町の最初の住人は、テルキネス族であったと思われる。

 

2.2 考古学からの判明事項

近年の考古学的調査によって、ミュケナイについては、つぎのことが判明している。[4]

1) BC1600年頃から、ミュケナイにクレタ島の影響が支配的になった。

2) BC1550年頃からBC1450年頃までの間に、ミュケナイは大国に発展した。

 

2.3 史料の中での記述

ペルセウスより前の時代のミュケナイの町についての記述は、ほぼ皆無である。

唯一、大科学者ニュートンがつぎのように伝えている。[5]

「エジプトから移住して来たダナオスが、アルゴスの町を支配していたゲラノールと戦った。

ゲラノールは、ミュケナイの町の支配者エウリュステウスの兄弟であった。」

この後、ニュートンは、このエウリュステウスがペルセウスの子ステネロスの息子であるかのように記述している。

これは、ニュートンの勘違いである。

ニュートンが勘違いしたのは、ゲラノールの父の名前がステネラスであったことが原因と思われる。[6]

つまり、ニュートンは、ダナオスの時代の史料に記されたゲラノールの兄弟エウリュステウスを、200年後に、同じミュケナイの町を支配していたステネロスの子エウリュステウスと同一人物と見なしていた。

しかし、ゲラノールの父の名前は、ステネロスだけではなく、ステネラス、ステネレウス、ステネロスとも伝えられている。[7]

つまり、ダナオスの時代に、エウリュステウスという名前の人物がミュケナイの町を支配していたのは、史実と思われる。

 

2.4 テルキネス族とアルゴスの戦い

イナコスの子ポロネオス時代、アルゴスの町は、テルキネス族と戦っていた。[8]

BC1690年、ポロネオスの子アピスとの戦いに敗れたテルキネス族は、ロドス島へ移住した。[9]

テルキネス族は、ロドス島に、テルキニスという古い名前を与えた種族であった。[10]

アルゴス王アピスは、この戦いの後で、シキュオンの町を支配下に置いて、シキュオン王にもなった。年代記作者カストールが伝えているシキュオン人の王たちの系譜に、アピスは、第3代テルキンと第5代テルキオンとの間に、第4代シキュオン王として記されている。[11]

BC1665年、アピスは、テルキンとテルキオンとによって殺され、シキュオンの町は、25年間に及ぶアルゴスの町の支配から解放された。[12]

 

2.5 クレタへの移住

テルキネス族は、ロドス島を中心に活動していたが、彼らは、最初、クレタ島へ渡ったと推定される。

AD2世紀の神学者アレクサンドリアのクレメンスは君主制の始まりを「シキュオンのアイギアレオス、エウロプス、テルキス、クレタ島のクレス」の順序で記している。[13]

つまり、クレスは、テルキスの息子であり、シキュオンの町からクレタ島へ移住して、王になったと解釈することができる。

テルキネス族は、第3代シキュオン王テルキンの名前に因んで名づけられた種族であった。

 

2.6 クレスについて

クレスは、クレタ島の最初の王であり、クレスに因んで、クレタ島と呼ばれるようになったとも伝えられている。[14]

また、クレスは、クレタ島のエテオクレタ人の王であり、タロスという名前の息子がいた。[15]

 

2.7 クレタからミュケナイへの移住

BC1665年、シキュオンの町がアルゴスの町のアピスによる支配から解放された後、シキュオンの町とクレタ島のテルキネス族との間で交易活動が活発になったと思われる。[16]

BC1600年頃から、ミュケナイの町にクレタ島の影響が認められるのは、テルキネス族がミュケナイの町に住み着いた結果であると思われる。[17]

その後、クレタ島やロドス島を拠点にして、エーゲ海を自由に航海していたテルキネス族の活動により、ミュケナイの町は発展した。[18]

 

2.8 メッサポス

パウサニアスは、シキュオンの町の王たちの名前を記している。

パウサニアスは、トゥリマコスの子レウキッポスに跡を継ぐ息子がいないため、彼の娘カルキニアの息子ペラトスが王になったとして記している。[19]

年代記作者カストールが作成したシキュオン人の王のリストでは、レウキッポスとペラトスの間に、メッサポスという名前が記されている。[20]

恐らく、メッサポスは、レウキッポスの娘カルキニアの夫であり、ペラトスの父であったと推定される。[21]

 

2.9 メッサポスの父

ミュケナイの町は、many-eyed、あるいは、All-seeingと称されるアルゴスの名前に因んで、アルギオンと呼ばれていた。[22]

アルゴスは、ポロネオスの娘ニオベの子アルゴスの子エクバソスの子アゲノールの息子であった。[23]

アルゴスの妻は、アソポス河神の娘イスメネであった。[24]

アルゴスとイスメネが結婚した当時、アソポス川が流れるシキュオンの町の王は、アイギュドロス(または、アイギュロス)の子トゥリマコスであった。アソポス河神はトゥリマコスであり、イスメネはトゥリマコスの娘と推定される。[25]

系図を作成すると、メッサポスは、アルゴスの次の世代である。

以上のことから、次のように推定される。

アゲノールの子アルゴスは、シキュオンの町のトゥリマコスの娘イスメネを妻にして、ミュケナイの町に住んだ。

シキュオンの町の王トゥリマコスの子レウキッポスに息子がいないため、レウキッポスの跡をレウキッポスの娘カルキニアの夫メッサポスが継いだ。[26]

つまり、メッサポスの父は、アゲノールの子アルゴスであった。

 

2.10 アルゴスからの大移住

BC1560年、アルゴスの町から各地への大移住が発生した。[27]

近年の考古学的調査によれば、BC1550年頃からミュケナイの町は大国に発展している。[28]

つまり、大移住の原因は、気候変動による飢饉ではなく、ミュケナイの町によるアルゴスの町の占領であったと思われる。

 

2.11 ミュケナイの繁栄

アゲノールの子アルゴスの跡を継いで、ミュケナイ王となったメッサポスは、彼の母イスメネや彼の妻カルキニアの出身地でもあるシキュオンの町を支配下に置いた。

BC1560年、メッサポスは、アルゴスの町を攻めて、占領した。

これによって、ミュケナイの町は、アルカディア地方に住むペラスゴイ人を除いて、ペロポネソス半島のすべての人々を支配したことになる。

メッサポスの死亡時期は、BC1540年頃であり、メッサポスは、ミュケナイの町から発掘されたアガメムノンのマスクに関係する人物と推定される。

ミュケナイの町に住んでいたテルキネス族は、イダ山のダクテュロスとも呼ばれ、金属加工に卓越した種族であった。[29]

2.12 当時の状況

ミュケナイの町が黄金期を迎えたBC1550年頃の地中海世界は、次のようであった。

アルゴス地方のミュケナイ、アルゴス、シキュオン、テュリンス、エピダウロス、ヘライオン、ヘルミオネの町には、アルゴスの子メッサポス支配下のペラスゴイ人やテルキネス族が住んでいた。

クレタ島には、シキュオンの町から移住して、テルキネス族から名前を変えたエテオクレタ人が住んでいた。

ロドス島には、シキュオンの町から移住したテルキネス族が住んでいた。

イタリア半島には、アルゴスの子メッサポスと同族で、ペラスゴイ人から名前を変えたオイノトロイ人やペウケティイ人が住んでいた。

ミュケナイの町は、クレタ島、ロドス島、イタリア半島と交易を行っていたと推定される。

また、次の地方には、メッサポスによって、アルゴスの町から追放された人々が住んでいた。

アルカディア地方には、トリオパスの子アゲノールの子ペラスゴス支配下のペラスゴイ人が住んでいた。

メガラ地方には、トリオパスの子アゲノールの子クロトポス支配下のペラスゴイ人が住んでいた。

テッサリア地方東部には、ペラスゴスの娘ラリッサの息子たち支配下のペラスゴイ人が住んでいた。

リュキア地方には、トリオパスの子クサントスが植民したペラスゴイ人が住んでいた。

カリア地方のキュルノスの町には、キュルノス支配下のペラスゴイ人が住んでいた。

レスボス島には、トリオパスの子クサントス支配下のペラスゴイ人が住んでいた。

エジプトのナイルデルタには、サイスの町のテレゴノス支配下のギリシア系移民が住んでいた。

次の地方には、それ以外の人々が住んでいた。

アッティカ地方には、ケクロプス支配下のエクテネスが住んでいた。

ボイオティア地方には、ヒュアンテスやアオニア人が住んでいた。

ポキス地方には、デルポイ人が住んでいた。

テッサリア地方南西部には、ヘレンの父デウカリオーンの父の支配下のエクテネスが住んでいた。

 

2.13 ダナオスの出現

BC1430年、ダナオスは、エジプトからペロポネソスへ移住して来て、アルゴスの町を支配していたゲラノールから支配権を奪取した。[30]

パウサニアスは、ゲラノールをトリオパスの子アゲノールの子クロトポスの子ステネラスの息子だと伝えている。[31]

しかし、ステネラスは、クロトポスの息子ではなく、彼らの間には、2世代くらいの欠落がある。

また、ステネラスは、クロトポスの後裔ではなく、ミュケナイの町のメッサポスの後裔と推定される。ダナオスが移住して来たとき、ゲラノールの兄弟エウリュステウスがミュケナイの町を支配していた。[32]

 

2.14 アルゴスの奪還

BC1600年、アゲノールの子アルゴスは、クリアソスの子ポルバスによって、アルゴスの町から追放されてミュケナイの町へ移住した。[33]

BC1560年、アルゴスの子メッサポスは、ポルバスの子トリオパスの後裔をアルゴスの町から追放した。

トリオパスの子イアソスの娘イオは、エジプトへ移住した。[34]

ダナオスは、イオの子エパポスの娘リビュアの子ベロスの息子であった。

つまり、ダナオスは、ミュケナイの町によって占領されていたアルゴスの町を奪い返したことになる。

その後、ダナオスは、ミュケナイの町を攻めて破壊し、ミュケナイの町の住人は、シキュオンの町へ移住したと推定される。

 

2.15 アルゴスの再占領

BC1413年、ダナオスの跡を継いだリュンケウスが死んで、リュンケウスの子アバスがアルゴスの町を継承した。[35]

BC1408年、ダナオスによって追放されたゲラノールの息子と推定されるラメドンは、シキュオンの町からアルゴスの町へ攻め込んで占拠した。[36]

 

2.16 アルゴスの奪還

BC1407年、アカイオスの2人の息子たち、アルカンドロスとアルキテレスは、ラメドンと戦って、アルゴスの町を奪還して、さらに、シキュオンの町を占領した。[37]

アルカンドロスとアルキテレスは、ダナオスの娘たち、スカイアとアウトマテの夫たちであった。[38]

デウカリオーンの後裔であるアルカンドロスとアルキテレスには、多くのアカイア人が付き従い、彼らは、アルゴス地方全域に定住した。[39]

アイオロスの子シシュッポスは、シキュオンの町の東にエピュラ (後のコリントス)の町を創建して、シキュオンの町をも支配した。[40]

 

2.17 ミュケナイの荒廃

アカイア人とシキュオンの町との戦いで、ミュケナイの町は、さらに、荒廃した。

BC1368年、アルゴスの町のアバスの2人の息子たち、プロイトスとアクリシオスが支配権を争って戦い、そして、和解した。[41]

その時、アクリシオスは、アルゴスの町を、プロイトスは、テュリンス、ヘライオン、ミデイアの町、および、アルゴス地方の沿海地方を領することになった。[42]

ミュケナイは、町として存在していなかった。

 

2.18 ペルセウス以前のミュケナイの記録

ペルセウスがミュケナイの町を創建する前の記録が残っていないのは、過去を語り継ぐ人々が四散したからだと思われる。

BC1430年、ダナオスが移住して来る前に、ミュケナイの町に住んでいた人々は、ダナオスに町を破壊されて、シキュオンの町へ逃れた。

BC1407年、シキュオンの町は、アカイア人に占領されて、テッサリア地方から移住して来たアイオロスの子シシュッポスに支配された。[43]

BC1430年以前に、ミュケナイの町に住んでいた人々は、各地へ四散した。

同じようなことが、BC1560年にアルゴスの町からテッサリア地方へ移住したペラスゴイ人にも見ることができる。彼らの子孫が、BC1390年にテッサリア地方から追い出されるまでの記録が残っていない。

しかし、ミュケナイの町と異なり、最初の移住者ラリッサから、追放された当時のラリッサの子孫ナナスまでの系譜だけは残されていた。

 

3 ダナエの子ペルセウスの時代 (BC1330-1304)

3.1 ダナエの子ペルセウス

BC1360年、ペルセウスは、アルゴス王アクリシオスの娘ダナエの息子として、エジプトのナイルデルタにあるケンミスの町で生まれた。[44]

BC1349年、アクリシオスはペルセウスを後継者にするために、アルゴスの町に呼び寄せた。[45]

BC1343年、ペルセウスはアクリシオスの兄弟プロイトスを殺して、セリポス島へ逃れた。[46]

 

3.2 ペルセウスの空白時代

ペルセウスがアルゴスの町を出て、エチオピア人の土地に現れるまで、約8年間、ペルセウスの所在は不明である。

ペルセウスがリュカオニア地方のイコニオン (コンヤ)の町まで遠征したと伝えている史料があるが、この所在不明の時期の出来事と思われる。[47]

ヒッタイト文書によれば、アルザワ王タルフンタラドゥがヒッタイト領の奥深くまで侵入して、トゥワヌワ(テュアナ)の町を占領していた。[48]

イコニオンの町は、トゥワヌワの町の西方約185kmにある。

タルフンタラドゥは、ペルセウスの母ダナエと同世代であり、ペルセウスは、アヒヤワ軍と共に、タルフンタラドゥの遠征に参加していたと思われる。

ペルセウスが創建したミュケナイの城塞の神殿には、エジプトのアメンホテプ3世の妻ティイのスカラベが置かれていた。[49]

そのスカラベは、アメンホテプ3世と交流があったタルフンタラドゥからペルセウスに与えられ、ペルセウスが神殿に安置したと推定される。

 

3.3 ペルセウスの結婚

BC1335年、ペルセウスは、エチオピア人の地に住むベロスの子ケペオスのもとへ行き、彼の娘アンドロメダと結婚した。[50]

アンドロメダの生まれ故郷エチオピアはエジプトの南ではなく、アナトリア半島北西部のアイセポス川の河口付近にあった。[51]

そのエチオピアは、アドラスティア平原にあり、ペルセウスがアンドロメダと結婚した当時、そこは、ペロプスの父タンタロスの領地であった。[52]

ペルセウスの息子たちとペロプスの娘たちの婚姻は、ペロプスの父タンタロスとペルセウスとの交友関係によるものであった。

また、ペルセウスの母ダナエと、ペロプスの妻ヒッポダミアの母エウアレテは姉妹であり、ペルセウスの息子たちとペロプスの娘たちは、又従兄妹同士であった。[53]

 

3.4 ミュケナイの創建

アバスの子アクリシオスが死ぬと、テュリンスの町に住むプロイトスの子メガペンテスがアルゴスの町へ移り住んだ。[54]

BC1332年、ペルセウスは、エチオピア人の地からペロポネソスへ帰還し、アルゴスの町から追い出されたアカイア人と共にテュリンスの町を占拠した。[55]

伝承では、ペルセウスがメガペンテスと町を交換して、ペルセウスがテュリンスの町に、メガペンテスがアルゴスの町に住むことになったと伝えられている。[56]

しかし、結果的にそうなったのであり、彼らの意志で交換したのではなかった。

BC1330年、ペルセウスは、ミュケナイの町を創建して、堅固な城壁で囲んだ。[57]

ミュケナイの町は、アルギオン山に建設されたという伝承があり、アゲノールの子アルゴスが創建した町は、既に存在していなかったと思われる。[58]

 

3.5 ペルセウスの息子たち

3.5.1 ペルセウスの子ペルセス

ペルセスは、エチオピアで生まれ、母アンドロメダの父ケペオスの跡を継ぐためにその地に残された。[59]

 

3.5.2 ペルセウスの子アルカイオス

アルカイオスは、テバイの町のメノイケウスの娘ヒッポノメと結婚して、後にヘラクレスの父になる、息子アンピュトリオンが生まれた。[60]

ペルセウスがミュケナイの町を創建後、アルカイオスがテュリンスの町を継承した。

 

3.5.3 ペルセウスの子ステネロス

ステネロスは、父ペルセウスからミュケナイの町を継承した。[61]

 

3.5.4 ペルセウスの子キュヌロス

BC1300年、キュヌロスは新天地を求めて、ラコニア地方との境付近へ移住してキュヌリアの町を創建した。[62]

 

3.5.5 ペルセウスの子メストール

メストールは、ペロプスの娘リュシディケを妻に迎えて、娘ヒッポトエが生まれた。[63]

 

3.5.6 ペルセウスの子ヘリウス (または、ヘレウス)

BC1290年、ヘリウスはラコニア湾岸にヘロスの町を創建した。[64]

ヘリウスは、兄弟メストールの娘ヒッポトエと結婚して、息子タピウスが生まれた。[65]

BC1277年、ヘリウスは、兄弟たちと共にギリシア北西部へ遠征して、エキナデス諸島に定住した。[66]

 

3.5.7 ペルセウスの子エレクトリュオン

エレクトリュオンは、ミデイアの町に住み、ペロプスの娘リュシディケ(または、エウリュディケ)と結婚して、後にヘラクレスの母になる、アルクメナが生まれた。[67]

エレクトリュオンは、リュシディケとの結婚の前に、プリュギアのミデイアと結婚していた。[68]

この結婚は、つぎのようにして成立したと思われる。

ペルセウスの最初の息子ペルセスは、祖父の跡を継ぐためにエチオピアに残された。[69]

エチオピアは、アドラスティア平原にあったが、そこに住んでいたペロプスの父タンタロスは、トロスの子イロスに攻められて、追い出された。[70]

ペルセスは、隣接するトロイの脅威に対抗するために、父ペルセウスに援軍を求めた

ペルセウスは、エレクトリュオンをペルセスのもとへ派遣した。

エレクトリュオンはエチオピアで、プリュギアのミデイアを妻にして、多くの息子たちが生まれた。[71]

その後、イロスとの戦いに敗れたエレクトリュオンは、ペロポネソスへ帰還して、ミデイアの町を任せられた。

 

3.6 ペルセウスの娘たち

3.6.1 ペルセウスの娘ゴルゴホネ

BC1307年、ゴルゴホネは、メッセニア地方のアンダニアの町のアイオロスの子ペリエレスに嫁いだ。[72]

アンダニアの町は、5世代前にアルゴスの町から移住したアカイア人を中心に、ラケダイモンの町のレレクスの子ポリュカオンによって創建された。[73]

ミュケナイの町の住人も、アルゴスの町に住んでいたアカイア人の後裔であった。

ペリエレスとゴルゴホネの婚姻は、両者の町の住人が同族であったことから成立したと思われる。

 

3.6.2 ペルセウスの娘アウトクテ

ペルセウスには、アウトクテという名前の娘がいた。[74]

アウトクテは、後述の「アトレウスの母」で記す理由からペロプスの妻であったと思われる。

 

3.7 ペルセウスの最期

BC1310年、ペルセウスは、アルゴスの町のプロイトスの子メガペンテスに殺された。[75]

それは、ペルセウスがメガペンテスの父プロイトスを殺したことに対する復讐であった。

この出来事の後、アルゴスの町とミュケナイの町は絶縁状態になった。

アルゴス人のテバイ攻めにミュケナイの町は登場せず、エウリュステウスのヘラクレイダイ攻めにアルゴスの町は登場しない。

両者の争いに、アルゴスの町の植民市であるポキス地方のアバイの町も関係していた。

メガペンテスは、アバイの町のリュンケウスを殺し、リュンケウスの子アバスはメガペンテスを殺害した。[76]

 

4 ペルセウスの子ステネロスの時代 (BC1310-1262)

4.1 ステネロスの結婚

ペルセウスの跡を息子ステネロスが継いだ。

ステネロスの妻は、ペロプスの娘ニキッペ (または、アルキッペ)の他に、アンピダマスの娘アンティビアがいた。[77]

ステネロスの妻の父に年代が合致するアンピダマスは、アルカディア地方のアレウスの息子が該当する。[78]

そのアンピダマスの娘ナウシダメは、エリスの町のアウゲアスの母であり、後にヘラクレスはアウゲアスと戦うが、その戦いの原因と関係があると思われる。[79]

ステネロスの子エウリュステウスとステネロスの甥ヘラクレスとは同年齢であり、エウリュステウスの母は、ステネロスの2人目の妻ニキッペであったと推定される。[80]

 

4.2 ステネロスの娘アルキュオネ

AD1世紀の歴史家ハリカルナッソスのディオニュソスは、トロイ戦争の3世代前に、アルキュオネがアルゴスの神職を務めていたと伝えている。[81]

このアルキュオネは年代的に見て、ステネロスの娘で、エウリュステウスの異母姉妹であったと思われる。エウリュステウスの娘アドメテもアルゴスのヘラの巫女であった。[82]

 

4.3 アンピュトリオンの遠征

BC1277年、ステネロスの兄弟たち、エレクトリュオンやヘリウスが彼らの甥アンピュトリオンと共にギリシア北西部へ遠征した。[83]

この遠征で、ミデイアの町に住むエレクトリュオンと彼の息子たちが死に、彼の末の息子リキュムニオスと彼の娘アルクメナが残された。[84]

アンピュトリオンは従兄弟たち、リキュムニオスとアルクメナをテバイの町に呼び寄せ、アンピュトリオンはアルクメナを妻にした。[85]

ステネロスは、エレクトリュオンがいなくなったミデイアの町をペロプスの息子たち、アトレウスとテュエステスに任せた。[86]

 

4.4 ステネロスの娘アステュメドウサ (または、メドウサ)

BC5世紀の神話学者フェレキュデスは、テバイの町のオイディプスの3人目の妻は、ステネロスの娘アステュメドウサだと伝えている。[87]

このステネロスをアルゴスの町のカパネウスの子ステネロスであるとすれば、彼の娘とオイディプスの年齢は、100歳差となり、妥当ではない。

アステュメドウサがペルセウスの子ステネロスの娘であるとすれば、概ねオイディプスの妻として妥当な年代になる。

オイディプスは、コリントス地方のテネアの町に住んでいたときに、ミュケナイの町に住むアステュメドウサと面識があったと思われる。[88]

BC1234年、当時、60歳と推定されるオイディプスの3度目の結婚は、テバイの町のクレオンに強い憎悪の念をもたらした。

クレオンは、娘メガラをヘラクレスに離縁されたことからペルセウスの後裔を嫌っていた。[89]

オイディプスとアステュメドウサの結婚は、オイディプスと彼の息子たち、エテオクレスとポリュネイケスの争いを生んだ。[90]

 

5 ステネロスの子エウリュステウスの時代 (BC1262-1217)

BC1262年、ステネロスの跡を、彼の息子エウリュステウスが継いだ。[91]

 

5.1 エウリュステウスの誕生

エウリュステウスは、ヘラクレスより僅かに先に生まれたために、ミュケナイ王になったと伝えられている。[92]

しかし、ヘラクレスがエウリュステウスより早く生まれていてもミュケナイ王となることはなかった。ヘラクレスは祖父アルカイオスから父アンピュトリオンへと継承されたテュリンスの町の領主であった。

 

5.2 クレオナイの創建

BC1251年、アトレウスはミデイアの町を出て、クレオナイの町を創建した。[93]

クレオナイの町はミュケナイの町の北約11km、ミュケナイの町は、ミデイアの町の北西約12km、そして、テュリンスの町はミデイアの町の南南西約7kmにあった。

クレオナイの町の創建は、ヘラクレスがテバイの町からテュリンスの町へ移住した時期であり、つぎのように推測される。[94]

ミュケナイの町を父から継承したエウリュステウスは、頼りになる身内として、テバイの町に住んでいたヘラクレスとリキュムニオスを近くに呼び寄せた。

エウリュステウスの父ステネロスの兄弟アルカイオスの子アンピュトリオンの子ヘラクレスは、テバイの町から父の旧領テュリンスの町へ移住した。[95]

エウリュステウスの父ステネロスの兄弟エレクトリュオンの子リキュムニオスは、テバイの町から父の旧領ミデイアの町へ移住した。

そのため、アトレウスは、ミデイアの町を出て、クレオナイの町を創建した。

BC468年、ミュケナイの町がアルゴスの町に破却されたとき、ミュケナイ人の一部は、クレオナイの町へ逃れた。[96]

 

5.3 アルゴスの内紛

アルゴスの町に住むヒュイットスが、アリスバスの子モルロスを殺害するという事件が起きた。ヒュイットスは、ボイオティア地方へ移住してコパイス湖の北側にヒュイットスの町を創建した。[97]

恐らく、この事件を契機にアルゴスの町に内紛が勃発して、メランプスの子マンティオスがアルゴスの町から追い出された。[98]

BC1247年、マンティオスはアルゴスの町へ帰還して、自分たちを追い出したメランプスの子アバスや、彼に味方したビアスの後裔を町から追い出した。[99]

この内紛で、アミュタオンの子メランプス本人を含めて、彼の一族がアルゴスの町を去った。

エウリュステウスがヘラクレスに命じたエリス攻めに、マンティオスの子オイクレスが参加していることから、マンティオスの帰還に、エウリュステウスが協力したと推定される。

ミュケナイの町とアルゴスの町は対立していたが、マンティオスは、対立の原因となったプロイトスの子メガペンテスの後裔ではなかった。

 

5.4 エリス攻め

BC1243年、エウリュステウスは、ヘラクレスにエレイア地方のエリスの町のアウゲアスを攻めさせた。[100]

伝承では、アウゲアスがヘラクレスに約束した報酬を支払わなかったからだと伝えられている。[101]

しかし、つぎのようなことが原因であったと思われる。

アウゲアスの母は、アルカディア地方のアンピダマスの娘ナウシダメであり、ナウシダメの姉妹アンティビアは、エウリュステウスの父ステネロスの最初の妻であった。

つまり、アウゲアスとエウリュステウスは、お互いの母を通じて義理の従兄弟であった。 [102]

婚姻関係によって、エウリュステウスが生まれる前は、エリスの町とミュケナイの町は、良好な関係にあった。しかし、ステネロスが、ペロプスの娘ニキッペ (または、アルキッペ)と2度目の結婚をするに及んで、両者の関係は悪化した。[103]

ペロプス亡き後、エリスの町が、ピサの町に代わってオリュンピアを支配下に置いて、競技会を開催するなど、ピサの町にも影響力を及ぼすようになった。

エウリュステウスはピサの町からの請願を受けてヘラクレスにエリスの町を攻めさせたと推定される。[104]

 

5.5 ドリュオプス人の受け入れ

BC1230年、デルポイ近くのドリュオペスの町のピュラスがデルポイの神殿に不敬を働いたことから、ヘラクレスはドリュオプス人を攻めて、その地から追放した。[105]

ドリュオプス人の一部は、ペロポネソスへ逃げ込み、エウリュステウスから援助を受けて、アルゴス地方にアシネ、ヘルミオネ、エイオンという名前の3つの町を建設した。[106]

エウリュステウスは、ヘラクレスへの敵対心のためにドリュオプス人を援助したと伝えられ、既にこの頃から、両者の敵対関係は有名であったものと思われる。[107]

この頃、エウリュステウスの息子たちも成人し、アルゴス地方南東部の海岸地帯へもミュケナイの町の支配が及んでいたことを証明している。

 

5.6 エウリュステウスの味方

BC1262年、エウリュステウスが父からミュケナイの町を継承した頃、まだ成人に達していないエウリュステウスの近くにいた身内は、2人だけであった。

その2人とは、エウリュステウスの父ステネロスの姉妹アウトクテの息子たち、テュエステスとアトレウスであり、ミデイアの町に住んでいた。[108]

彼らとエウリュステウスは、ペルセウスを共通の祖父とする従兄弟であったが、彼らの方が、15歳以上、エウリュステウスより年長であった。

 

5.7 エウリュステウスのヘラクレスに対する気持ちの変化

ヘラクレスは、エウリュステウスと同じ年齢であり、エウリュステウスの従兄弟アンピュトリオンの息子であった。[109]

アンピュトリオンはテレボアイ人やカルコドンと戦った戦士であり、ヘラクレスもミニュアス人のエルギヌスとの戦いで、有名になっていた。[110]

ヘラクレスはクレオンの娘メガラとの間に生まれた子供たちを失った後で、テバイの町からテュリンスの町へ移り住んだ。[111]

ヘラクレスがアクトールの息子たちを襲撃して、エリスの町が犯人の処罰を求めたとき、エウリュステウスはヘラクレスを処罰せず、町から出て行かせた。[112]

エウリュステウスにとって、ヘラクレスは信頼できる身内であり、力強い味方であった。

しかし、ヘラクレスがエリスの町やピュロスの町を攻略し、オリュンピアで競技会を開催したことでエウリュステウスのヘラクレスに対する嫉妬心は、敵対心に変わった。[113]

それまで、オリュンピアでの競技会は、その時代の覇者が開催していた。[114]

 

5.8 エウリュステウスのヘラクレス一家への執念

ヘラクレスがテュリンスの町を出た後のヘラクレス一家の転居には、エウリュステウスの強い意志が働いていた。

 

5.8.1 ペネウスからカリュドンへの転居

アルカディア王リュクルゴスは、ヒッポコーンとの戦いで、彼の息子ケペオスや多くの孫たちを失った。リュクルゴスは、エウリュステウスからの要請を受けて、ヘラクレスにアルカディア地方のペネウスの町からの退去を迫ったと推定される。[115]

リュクルゴスは、エウリュステウスの妻アンティマケの祖父であった。[116]

 

5.8.2 カリュドンからトラキスへの転居

エウリュステウスは、アルゴスの町への帰還を援助したマンティオスの子オイクレスの子アンピアラオスを通じて、カリュドンの町のオイネウスに圧力をかけたと推定される。[117]

マンティオス一族は、カリュドンの町に20年以上住み、アンピアラオスはその町で生まれた。[118]

 

5.8.3 トラキスからアテナイへの転居

ヘラクレスの死後、エウリュステウスは、トラキスの町のケユクスに対して、彼がヘラクレス一家を追い出さなければ武力に訴えると脅した。[119]

 

5.9 エウリュステウスの最期

BC1217年、エウリュステウスは、ヘラクレスの息子たちが住んでいたアテナイの町へ攻め込むが、ヘラクレスの甥イオラオスに討ち取られた。[120]

BC1215年、ヘラクレイダイがペロポネソス半島へ侵入して、ミデイアの町やテュリンスの町を占拠した。[121]

翌年、ヘラクレイダイは、ヘラクレスの子トレポレモスを残して、ペロポネソスからアッティカ地方の町へ撤収した。[122]

BC1213年、トレポレモスは移民団を率いて、ロドス島へ移住した。[123]

トレポレモスの移民団は、テュリンス人で構成され、その中には、ヘラクレイダイとの戦いで生き残ったエウリュステウスの一族が含まれていた。[124]

 

5.9.1 レベスとラキオス

BC1213年、ミュケナイ人のレベスは、ペロポネソスからクレタ島へ移住した。

BC1200年、レベスの子ラキオスは、クレタ島から小アジアへ移住してコロポンの町を創建した。[125]

ラキオスは、ティレシアスの娘マントからエピゴノイに攻められてテバイの町が陥落した話を聞いて涙を流した。このことから、レベスは、ステネロスの子イピトスの息子と推定される。[126]

BC1234年、イピトスの姉妹アステュメドウサは、テバイの町のオイディプスに嫁いでいた。[127]

 

5.9.2 エウリュステウスの娘アドメテ

アルゴスの町のヘラ神殿の巫女であったエウリュステウスの娘アドメテは、サモス島へ移住した。[128]

サモス島は、クレタ島から航海してコロポンの町に着く少し手前にあった。

アドメテは移住先を探していたラキオス率いる移民団の中にいて、途中でサモス島に定住したと推定される。

 

6 エウリュステウス死後のミュケナイ

6.1 混乱する伝承

エウリュステウスの跡を継いだペロピダイについては、多くの伝承があって混乱している。

それらの伝承の背後にある真実の歴史を知るためには、つぎのようなことを考慮する必要がある。

1) アトレウスとテュエステスの母は、ペルセウスの娘であった。

2) アイギストスは、テュエステスの息子ではなく、テュエステスの娘ペロピアの息子であった。

3) テュエステスは、アトレウスより前に死んだ。

4) メネラオスは、テュンダレオスからラケダイモンを譲られたのではない。

 

6.2 アトレウスとテュエステスの母

アトレウスの母はヒッポダミアではなく、ペルセウスの娘アウトクテであったと推定される。[129]

この推定の根拠は次のとおりである。

1) ペロプスの息子は15人以上知られているが、ヒッポダミアの息子は6人であったと伝えられている。[130]

系図を作成すると、アトレウスは、ペロプスとヒッポダミアが結婚してから20年以上後に生まれている。また、アトレウスが長子であったと伝えている史料もあり、アトレウスの母はヒッポダミアではなく、もっと若い妻であったと推定される。[131]

2) ステネロスがミデイアの町をアトレウスとテュエステスに委ねている。[132]

アトレウスの母がヒッポダミアであれば、彼らはステネロスの妻の兄弟である。

アトレウスの母がアウトクテであれば、彼らはステネロスの甥である。

ステネロスは、血縁者であるアトレウスとテュエステスにミデイアの町を任せたと推定される。

3) エウリュステウスの死後、アトレウスがミュケナイの町を継承した。[133]

トゥキュディデスは、アトレウスが異母兄弟クリュシッポスを殺した後で、エウリュステウスのもとへ逃げ込んだと伝えている。さらに、エウリュステウスがヘラクレスの息子たちとの戦いに向かうときにアトレウスにミュケナイの町を託したと伝えている。[134]

しかし、エウリュステウスが死んだとき、アトレウスは70歳を超えていた。また、クリュシッポスはだいぶ前に死んでいた。

当時、支配者の死後、彼の娘婿が跡を継いだ例は見られるが、支配者の母の兄弟が継いだ例は見られない。

アトレウスがエウリュステウスの父ステネロスの父ペルセウスの娘アウトクテの息子であれば、アトレウスはエウリュステウスの従兄弟であり、正当な継承者になる。

4) アトレウスの2人の孫たちは、テュンダレオスの娘たちと結婚した。[135]

ミュケナイの町のペロプスの子アトレウスと、スパルタの町のオイバロスの子テュンダレオスとの間に血縁関係はないように見える。

しかし、アトレウスの母が、ペルセウスの娘であれば、アトレウスは、テュンダレオスの母ゴルゴホネの姉妹の息子になる。つまり、アガメムノンとメネラオスは、父の従兄弟テュンダレオスの娘たちと結婚したことになる。

 

6.3 テュエステスの子アイギストス

多くの伝承が、アイギストスは、テュエステスの息子だと伝えている。[136]

そして、アイギストスの母については、テュエステスの娘ペロピアだという伝承がある。[137]

アイギストスの娘エリゴネは、アガメムノンの子オレステスと結婚して、息子ペンチロスを産んだ。[138]

アイギストスがテュエステスの息子だという伝承は、アガメムノンがアトレウスの息子だという伝承に合わせて生まれたと思われる。

実際は、アガメムノンは、アトレウスの子プレイステネス(または、プリステネス)の息子であり、アイギストスは、テュエステスの娘ペロピアの息子であったと推定される。

 

6.4 テュエステスの死亡時期

アイギストスがミュケナイ王アトレウスを殺してテュエステスを復位させたという伝承がある。[139]

しかし、アトレウスの孫アガメムノンが、アイギストスを殺したという伝承はない。

エウリュステウスが死んだとき、アトレウスは、73歳であったと推定される。

テュエステスは、アトレウスより年長であり、エウリュステウスが死んだとき、テュエステスは既に死んでいたと思われる。[140]

恐らく、テュエステスは、ミデイアの町からキュテラ島へ移住して、その島で死んだと思われる。[140-1]

キュテラ島は、当時、交易ルートの重要拠点であった。テュエステスとアイギストスは、キュテラ島に住み、ミュケナイの町の発展に貢献していた。

 

6.5 メネラオスのラケダイモン継承

伝承では、テュンダレオスが義理の息子メネラオスにラケダイモンの王権を譲ったことになっている。[141]

しかし、テュンダレオスの跡をディオスクロイが継いだという伝承もあり、ディオスクロイより先にテュンダレオスは死んだのかもしれない。[142]

テュンダレオスの息子たち、カストールとポリュデウケスには、メネラオスと同じくらいの年齢の息子たちがいた。[143]

テュンダレオスには、彼がアイトリア地方からスパルタの町へ帰って来てから結婚した女性から少なくとも3人の娘たちが生まれている。伝承には残っていないが、彼女たちの兄弟たちもいたと思われる。

つまり、テュンダレオスには跡継ぎがいたにもかかわらず、義理の息子メネラオスがラケダイモンを継承した。

恐らく、ミュケナイの町の勢力を背景にして、テュンダレオスの正当な継承者を差し置いて、メネラオスがラケダイモン人の支配権を得たと推定される。

その証拠に、メネラオスの跡をアガメムノンの子オレステスが継ぎ、オレステスの跡を彼の息子ティサメノスが継いだが、彼らはラケダイモンに住んでいなかった。

 

7 ペロプスの子アトレウスの時代 (BC1217-1203)

エウリュステウスの死後、アトレウスがミュケナイの町を継承した。[144]

 

7.1 ヘラクレイダイとの戦い

7.1.1 ヘラクレイダイの帰還 (第1回)

BC1215年、ヘラクレスの子ヒュッロス率いるヘラクレイダイがペロポネソスへ侵入して、各地を占領した。[145]

このとき、ヘラクレイダイは、ミュケナイの町ではなく、ミデイアの町やテュリンスの町を占拠した。[146]

アトレウスやアガメムノンは、ミュケナイの町に籠城していたと推定される。

エウリュステウスの死後、ミュケナイの町の戦力は、未だ回復していなかった。

 

7.1.2 ヘラクレイダイの帰還 (第2回)

BC1211年、ヘラクレスの子ヒュッロス率いるヘラクレイダイが再びペロポネソスへ侵入しようとした。[147]

アトレウスやアガメムノンは、ミュケナイ人やテゲア人を率いて、ヘラクレイダイをイストモスで迎え撃った。[148]

ヒュッロスは戦死して、ヘラクレイダイは撃退された。[149]

伝承では、ヒュッロスは、テゲアの町のエケモスとの一騎打ちで死んだことになっている。[150]

しかし、ヘラクレイダイ側が総大将を出しているのに、ペロポネソス側が総大将ではなく、援軍に来た者を出しているのは、不自然である。

ヒュッロスの対戦相手は、エケモスではなく、アトレウス、あるいは、アガメムノンでなければならない。

ヘロドトスは、一騎打ちに敗れたヘラクレイダイが100年間、ペロポネソスへの帰還を試みないという約束をしたと記している。[151]

BC1104年、ドーリス人を率いたヘラクレイダイは、ペロポネソスへの帰還を果たしているが、一騎打ちの逸話は、その史実に合わせた作り話と思われる。

 

7.2 アトレウスの死

アトレウスは、父テュエステスをミュケナイ王に即位させようとしてアイギストスに殺されたという伝承がある。[152]

次のことから、この伝承は、作り話と思われる。

1) 祖父を殺されたアガメムノンが、アイギストスに復讐したという伝承がない。

2) テュエステスは、アトレウスより年長であり、アトレウスがミュケナイ王を継承する前に、テュエステスは死んでいたと推定される。[153]

アトレウスは、死亡時、87歳であり、アトレウスの死因は、病死、あるいは、自然死と思われる。

 

8 プレイステネスの子アガメムノンの時代 (BC1203-1173)

アトレウスが死に、彼の最年長の孫アガメムノンがミュケナイの町を継承した。[154]

 

8.1 領土拡張

アガメムノンは、ミュケナイの町を掌握すると、シキュオンの町からアカイア地方のヘリケの町に至るペロポネソス半島北部を支配下に置いた。[155]

さらに、メッセニア湾沿岸部のカルダミュレ、エノペ、ヒレ、フェライ、アンテイア、アイペイア、ペダソスの町を支配下に置いた。[156]

また、ラコニア地方南東のマレア岬の近くにあるオヌグナトス半島には、アガメムノンが造営したアテナの神域があった。[157]

オヌグナトス半島の付け根にあった世界最古の水没都市パウロペトリにもアガメムノンの支配が及んでいたと推定される。

 

8.2 メガラへの嫁入り

BC1190年、アガメムノンの娘イピゲニアは、メガラの町に住むアイアスの子ピライオスのもとへ嫁いだ。この結婚についての伝承はなく、推定であるが、根拠はつぎのとおりである。

1) パウサニアスは、メガラの町にイピゲニアの英雄廟があり、彼女はその町で死んだと伝えている。[158]

2) ピライオスはブラウロンの町に住んでいたが、イピゲニアはブラウロンの町のアルテミスに仕える巫女であった。[159]

3) イピゲニアの兄弟ヒュペリオンは、アイアスの跡を継いで、メガラ王になった。[160]

 

8.3 トロイ遠征

アガメムノンを総大将とするアカイア軍が、ボイオティア地方のアウリス港からトロイへ遠征したという伝承がある。[161]

ホメロスのイリアスで語られているトロイ人とアカイア人との戦いは、歴史的な事実を舞台にした物語であり、アガメムノンはその物語の主要な登場人物であった。

しかし、アガメムノンは、次のことから、トロイ遠征に参加していないと思われる。

1) 伝承に大きな矛盾がある。

アガメムノンの統治期間は、30年、あるいは、35年であり、彼の治世18年目にトロイ戦争が終わったと伝えられる。これは、アガメムノンは、トロイから帰還した直後に殺されたという伝承と大きく矛盾している。[162]

2) 長期遠征は不可能であった。

エウリュステウスの死後、ヘラクレイダイは、2度にわたってペロポネソスへの帰還を試みていていた。ヘラクレイダイは、その後もペロポネソスへの侵入の機会を窺っていた。[163]

実際、アガメムノンが死んだ年に、ヒュッロスの子クレオダイオスはドーリス人を率いて、ミュケナイの町を攻めて、町を破壊している。

このような状況下で、アガメムノンがミュケナイの町から軍勢を率いて、長期遠征をすることは不可能であった。

 

8.4 テネドスからの移住

BC1286年、コリントス地方のテネアの町にはプリアスの子ポリュボスが住んでいた。[164]

ポリュボスはシキュオン王を継承し、テネアの町を彼の養子であるライオスの子オイディプスに託し、ポリュボス自身はシキュオンの町へ移住した。[165]

BC1238年、ボイオティア地方で発生したスピンクスの反乱鎮圧のためにオイディプスは駆け付け、そのまま、テバイの町へ移り住んだ。[166]

その後、テネアの町は、西隣のクレオナイの町のアトレウスの支配下にあったと推定される。

BC1186年、アガメムノンは、トロイ沖のテネドス島から逃れて来たトロイ人をテネアの町へ居住させた。[167]

プリアモスの子ヘクトールからの要請で実施されたアカイア人のトロイ遠征には、アガメムノンは遠征しなかったが、ミュケナイの町から参加した人々がいたと思われる。

彼らは、トロイから撤退する際に、ヘクトールに味方して戦ったテネドス島の住人をテネアの町に連れて来たと推定される。

 

8.5 イタリアへの移住

BC1190年、アガメムノンの子ハライソスは、イタリア半島中部のファレリイの町へ移住した。[168]

BC1345年、ミュケナイの町の創建者ペルセウスの母ダナエは、イタリア半島へ移住して、ローマの南東約30kmの土地にアルデアの町を創建していた。[169]

ファレリイの町の周辺は、ラティウム地方のアルデアの町を本拠地とするルトゥリ人が領していたが、ルトゥリ人の王トゥルヌスは、ダナエの後裔であった。[170]

ルトゥリ人は、周辺の敵対する勢力に対抗して、味方を得るために、ハライソスを招いたと推定される。

BC1182年、アンキセスの子アイネアスとルトゥリ人との戦いが起き、ハライソスは、ルトゥリ人に味方して戦いに参加して、エウアンドロスの子パラスに討ち取られた。[171]

ハライソスの死後、ファレリイの町に住んでいたミュケナイ人は、ミュケナイの町へ帰還したと思われる。最近の考古学調査で、BC12世紀にミュケナイの町とイタリアとの関連を示す出土品が発掘されている。

 

8.6 ミュケナイ繁栄の要因

ミュケナイの町がペロポネソス半島内の他の町より繁栄できた要因は、ミュケナイの町の創建者ペルセウスと海外との繋がりであったと思われる。

ペルセウスは、ミュケナイの町を創建する前に、次のような場所と関係があった。

1) ペルセウスは、エジプトのナイルデルタのケンミスの町で生まれた。[172]

2) ペルセウスは、セリポス島へ逃れて、ペリステネスの子ディクテュスの庇護を受けた。[173]

3) ペルセウスは、リュカオニア地方のイコニオン (コンヤ)の町まで遠征した。[174]

4) ペルセウスは、エチオピアのベロスの子ケペオスのもとへ行き、ケペオスの娘アンドロメダと結婚した。[175]

エチオピアは、アナトリア半島北西部のアイセポス川の河口付近にあった。[176]

5) ペルセウスの母ダナエは、イタリア半島のローマの近くにアルデアの町を創建した。[177]

ダナエの跡をペルセウスの兄弟ダウノスが継いだ。ダウノスの後裔は、ルトゥリ人の王になった。[178]

ペルセウスが創建した当初から、ミュケナイの町は、海外との交易活動によって莫大な富を築いたと思われる。

 

8.7 ヘラクレイダイの帰還 (第3回)

BC1173年、ヒュッロスの子クレオダイオスはドーリス人を率いて、ミュケナイの町を攻めて、町を破壊した。[179]

近年の考古学調査で、BC12世紀のミュケナイの町に破壊された痕跡が確認されている。[180]

ドーリス人は、テュリンスやミデイアの町も破壊した。[181]

ドーリス人との戦いで、アガメムノンは戦死したと推定される。

アガメムノンが死んだのは、ミュケナイ王在位30年目で、61歳のときであった。[182]

 

9 アイギストスの時代 (BC1173-1156)

9.1 ドーリス人の追放

ドーリス人に奪われた町を奪還するためにアガメムノンの子オレステスは軍勢を集めて、アルゴスの町を占拠していたドーリス人を追放した。ドーリス人を率いていたヒュッロスの子クレオダイオスは、無事にドーリス地方のピンドスの町へ帰還したと推定される。その後、クレオダイオスには息子アリストマコスが生まれた。[183]

しかし、クレオダイオスの長男を含む一部の人々は、ドーリス地方へ帰還できずに、ペロポネソスに残留した。彼らは、メッセニア地方のイレの町に逃げ込んで、その地に定住した。[184]

ヘラクレイダイが最終帰還を果たした後でメッセニア地方を獲得したアリストマコスの子クレスポンテスに対して、「真の」ヘラクレイダイと称するポリュポンテスが反乱を起こした。ポリュポンテスは、クレオダイオスの長男の息子か孫と思われる。[185]

 

9.2 ミュケナイからの移住

ドーリス人によって破壊されたミュケナイの町には、キュテラ島からオレステスの応援に駆け付けたアイギストスが住んだ。[186]

アイギストスの死後、アイギストスの子アレテスがミュケナイの町を継承した。[187]

ミュケナイの町の大部分の住人は、アガメムノンの息子たちに従って、各地へ移住した。

 

9.2.1 テゲアへの移住

オレステスは、ミュケナイの町からアルカディア地方のテゲアの町へ移住した。[188]

テゲアの町は、エウリュステウスの妻アンティマケの出身地であり、古くからミュケナイの町とは関係が深かった。[189]

また、オレステスの母クリュタイムネストラの姉妹ティマンドラの夫エケモスは、アルカディア王であった。[190]

オレステスの移住によって、テゲアの町に住んでいたケルキュオンの子ヒッポトオスは、トラペズスの町へ移住した。[191]

その後、オレステスは、アルゴスの町を併合して、彼の息子ティサメノスに治めさせた。[192]

 

9.2.2 メガラへの移住

アガメムノンの子ヒュペリオンは、ミュケナイの町からメガラの町へ移住した。[193]

メガラの町に住むアイアスの子ピライオスのもとへ、ヒュペリオンの姉妹イピゲニアが嫁いでいた。[194]

ヒュペリオンは、横暴に振舞ったため、サンディオンに殺されて、メガラの王制は廃止された。[195]

 

9.2.3 ロクリスへの移住

ミュケナイの町からロクリス地方へ逃れたアガメムノンの子供たちもいた。[196]

BC1126年、ロクリス地方のプリキオン山周辺に住んでいたアイオリスは、アガメムノンの曾孫たち、ドロスの子クレウエスとマラオスに率いられて、小アジアへ移住した。[197]

 

9.3 オレステスによる植民活動

クレオダイオスが率いたドーリス人は、ミュケナイ、テュリンス、ミデイアの町の他に、エピダウロスの町やラコニア地方のアミュクライの町をも荒廃させた。

オレステスは、土地を失った人々を率いて、植民活動を開始した。

オレステスは、エピダウロスの町のペリントスと共に遠征して、ペリントスは彼の名前に因んだ町を創建した。[198]

また、オレステスは、アミュクライの町のペイサンドロスとも遠征して、テネドス島へ植民した。[199]

 

10 ヘラクレイダイの帰還

パウサニアス, アポロドロス, そしてストラボンは、ペロポネソスに侵入したドーリス人が、アルゴス, クレオナイ, コリントス, エピダウロス, ラケダイモン, メッセニア, プリウス, そして、トロイゼンの町を奪ったと伝えている。

しかし、ヘラクレイダイが最終的にペロポネソスへ帰還を果たした時の様子を伝えている伝承の中に、ミュケナイ, テュリンス, そしてミデイアの町は登場しない。

BC1104年頃、ミュケナイの町の城壁の内側は、廃墟になっていたと推定される。

 

11 ミュケナイの滅亡

その後、ミュケナイの町は復興して、ヘラ神殿やネメア祭の運営権をめぐってアルゴスの町と対立するまでになった。[200]

しかし、ペルシアとの戦争がミュケナイ滅亡の原因になった。

BC480年、テルモピュライの戦いにミュケナイの町は80人を派遣したが、アルゴスの町は部隊を派遣することができなかった。[201]

それより少し前に、アルゴスの町は、ラケダイモンのアナクサンドリダスの子クレオメネスとの戦いで、男性市民の殆どを失っていた。[202]

BC468年、アルゴスの町はミュケナイの町を攻め、城壁内に籠城したミュケナイ人を兵糧攻めで落とし、ミュケナイの町を破壊した。[203]

パウサニアスは、アルゴスの町は嫉妬心からミュケナイの町を破壊したと伝えている。[204]

居住地を奪われたミュケナイ人は、各地へ移住した。

 

11.1 マケドニアへの移住

ミュケナイ人の大半は、マケドニア地方へ逃れ、アミュンタスの子アレクサンドロスの保護を求めた。[205]

ヘロドトスは、アレクサンドロスがギリシア人であることを認められてオリンピックに参加したと伝えている。[206]

したがって、ミュケナイ人は、アレクサンドロスがアルゴスの町のテメノスの後裔であることを知っていたはずである。

ミュケナイ人が、自分たちを追い出したアルゴスの町の出身者のもとへ身を寄せたのは、アレクサンドロスがミュケナイの町の創建者ペルセウスの後裔であったからと推定される。

既に、200年以上前に、アルゴスの町の支配者は、テメノスの後裔ではなくなっていた。[207]

 

11.2 クレオナイへの移住

ミュケナイ人の一部は、近くのクレオナイの町へ逃れた。[208]

ストラボンは、ミュケナイの町が破壊された時、テゲアの町と共にクレオナイの町も、アルゴスの町に加勢したと伝えている。[209]

ストラボンは、この記述の少し前に、ミュケナイの町がヘラクレイダイの町になったとも伝えており、誤った史料を参考にしていたと思われる。

クレオナイの町は、ヘラクレイダイの一人であるヘラクレスの子クテシッポスの曾孫アガメディダスを王としていたが、町の住人はアカイア人であった。[210]

 

11.3 ケリュネイアへの移住

ミュケナイ人の一部は、アカイア地方のケリュネイアの町へ逃れた。[211]

ケリュネイアの町は、パウサニアスがアカイア地方の12市の一つに挙げている町であり、ヘラクレイダイに追われたオレステスの子ティサメノス率いるアカイア人が創建した町であった。[212]

ミュケナイ人を共住者として受け入れたケリュネイアの町は人口が多くなり、勢力を増した。[213]

 

おわり

bottom of page