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第17章 メッセニア地方の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2026.2.16

1 はじめに

BC5世紀の悲劇詩人エウリュピデスは、メッセニア地方のことを「水源に恵まれて牧畜に適した土地で、寒過ぎず、暑過ぎない気候」と評価している。[1]

ペロポネソスへの帰還を果たしたヘラクレイダイが籤引き土地を分けたという伝承が生まれたのも、メッセニア地方が他の地方よりも豊かなためであった。[2]

しかし、メッセニア地方は、ペロポネソスの地方の中で、ギリシア人が一番遅く定住した地方でもあった。

 

2 アンダニアとパライの創建

2.1 コロニデス創建の伝承

BC1562年、初代アテナイ王ケクロプスが、エジプトからアッティカ地方の東海岸のミリノオスの町に上陸した。そのとき、そこに住んでいた人々はコライノスに率いられて、メッセニア湾入り口の西側に移住して、コロニデスの町を創建した。[3]

しかし、パウサニアスは、メッセニア地方にアンダニアの町が建設されたとき、その地方は無人の地であったと伝えている。[4]

コライノスがコロニデスの町を創建したというのは、ギリシアの伝承にしばしば見られる、似た名前のために生まれた作り話と思われる。

 

2.2 アンダニアの創建

2.2.1 アンダニアの住民

BC1410年、レレクスの子ポリュカオンは、ラケダイモンの町から西北西に約47km離れた土地へ移住してアンダニアの町を創建した。[5]

その町の建設には、ポリュカオンの妻メッセネの出身地アルゴスの町から大勢の人々が参加した。[6]

これより少し前、テッサリア地方からクストスの子アカイオスに率いられたアカイア人がアルゴスの町の周辺に移住した。アンダニアの町の住民の多くは、アルゴスの町の周辺から参加したアカイア人であったと推定される。[7]

 

2.2.2 アンダニアの住民

パウサニアスは『ギリシア案内記』の中の5か所で、ポリュカオンの妻メッセネをアルゴスの町のポルバスの子トリオパスの娘と記している。[8]

また、パウサニアスは、メッセネの出身地はアルゴスの町で、その父は、名声と実力ともにギリシア人の中で随一であったと伝えている。ダナオスと共に渡来したレレクスの息子の妻の父にふさわしいアルゴスの町の支配者は、ダナオス以外にない。[9]

ポリュカオンの父レレクスは、ダナオスの父ベロスの兄弟であり、ポリュカオンとダナオスは、従兄弟であった。[10]

つまり、トリオパスは、ダナオスの本名であったと思われる。

 

2.2.3 メッセニアの誕生

アンダニアの町は、ラケダイモンの町の分家であったが、住民にはその意識はなかった。彼らは、自分たちの住む地方をラケダイモンとは呼ばず、ポリュカオンの妻メッセネの名に因んで、メッセニアと呼んだ。[11]

アンダニアの町の住民は、ポリュカオンの後裔が5代目で断絶したとき、跡継ぎをラケダイモンからではなく、テッサリア地方から迎えた。[12]

 

2.2.4 大女神の密儀

BC1385年、エレウシスの町のケライノスの子カウコンは、アンダニアの町を訪問して、メッセネに大女神の密儀を伝えた。[13]

メッセネの姉ケライノは、ケライノスの母であった。つまり、カウコンは、祖父ピュロスの義理の姉妹メッセネを訪問したことになる。[14]

カウコンの父ケライノスの父ピュロスの父デュサウレスの父は、クラナオスの子ラロスであり、メッセネと同じく、ペラスゴイ人であった。[15]

BC1277年、パンディオンの子リュコスは、アテナイの町からアレネの町のペリエレスの子アパレウスを訪れ、アンダニアの町で密儀を執行した。[16]

大女神の密儀は、この後、メッセニア地方に脈々と受け継がれた。

BC1104年、メッセニア地方の支配者がドーリス人になってからもアンダニアの町では大女神の密儀が執り行われていた。[17]

BC724年、スパルタ人との戦いで、イトメが陥落したとき、大女神の密儀の祭司たちはエレウシスへ逃れた。[18]

BC685年、メッセニア人がスパルタ人に対して蜂起すると、エレウシスへ逃れていた大女神の密儀の祭司たちはアンダニアの町に帰還した。[19]

BC668年、スパルタ人に攻められたニコメデスの子アリストメネスは、エイラ陥落の直前、大女神の密儀を記した錫板を青銅の壺に入れてイトメ山中に埋めた。[20]

メッセニア人は各地に移住し、大女神の密儀は途絶えた。

BC371年のレウクトラの戦いの後で各地のメッセニア人が帰郷して、メッセネの町が建設されると大女神の密儀は復活した。[21]

パウサニアスは、アリストメネスが埋めた壺の発見にまつわる話を記している。[22]

 

2.3 パライの創建

BC1370年、ダナオスの娘ピュロダメイアの子パリスは、アカイア地方のアロエ (後のパトライ)の町からメッセニア地方のネドン川の河口近くへ移住して、パライの町を創建した。[23]

パリスの兄弟パレスは、アカイア地方のペイロス川中流域に同じ名前の町を創建した。[24]

 

3 アイオロスの子ペリエレスの時代

3.1 アンダニアの継承者の断絶

3.1.1 継承者ペリエレス

BC1310年、レレクスの子ポリュカオンの後裔は、5代目で断絶した。[25]

アンダニアの町の住民は、テッサリア地方からアイオロスの子ペリエレスを招いて町を任せた。[26]

ペリエレスは、スパルタの町のアミュクラスの子キュノルタスの息子だという伝承もある。

ラケダイモンから分かれて創建された町は、レレクスの後裔が継承するのが妥当だという解釈と思われる。しかし、アンダニアの町の住民がアルゴスの町の周辺からの移住者で、アカイア人であったことを考慮すると、テッサリア地方から後継者を迎えたと考えた方が妥当である。[27]

 

3.1.2 選定理由

当時のラケダイモン王キュノルタスの母ディオメデは、ラピタイの名祖ラピトスの娘であった。[28]

ペリエレスの父アイオロスはディオメデの兄弟であり、キュノルタスとペリエレスは従兄弟同士であった。[29]

つまり、アンダニアの住人は町の継承を決めるときに、ラケダイモン人の意見を聞いたのではないかと推定される。

 

3.2 ミュケナイからの嫁入り

アンダニアの町のアカイア人と、アルゴス地方のアカイア人とは交流があり、ペリエレスは、当時、勢力を増してきていたミュケナイの町から、ペルセウスの娘ゴルゴホネを嫁に迎えた。[30]

 

3.3 オイカリアの創建

BC1305年、メラネオスは、テッサリア地方からアンダニアの町の近くへ移住して、オイカリア (後のカルナシオン)の町を創建した。[31]

パウサニアスは、アンダニアの町のペリエレスのもとへ弓矢の名手メラネオスがやってきたと伝えているが、ペリエレスがメラネオスを招いたと推定される。[32]

メラネオスは、ペリエレスの兄弟であったと思われる。

 

4 ペリエレスの子アパレウスの時代

4.1 アレネの創建

BC1280年、ペリエレスの子アパレウスは、アンダニアの町を兄弟レウキッポスに任せてメッセニア地方の西海岸へ移住して、アレネの町を創建した。[33]

アパレウスは、スパルタの町から異父妹であるオイバロスの娘アレネを妻に迎えて、町に妻の名前を付けた。[34]

アパレウスとアレナとの間には、2人の息子たち、イダスとリュンケウスが生まれた。[35]

 

4.2 アイトリアへの移住

BC1265年、スパルタの町のテュンダレオスが、異父兄弟であるアパレウスを頼って、アレネの町を訪れた。[36]

その後、テュンダレオスは、アイトリア地方へ移住することになり、彼の甥イダスも一緒に移住した。[37]

テュンダレオスは、プレウロンの町のテスティオスの娘レダと結婚し、イダスはエウイノスの娘マルペッサと結婚した。[38]

イダスは、彼の娘クレオパトラ (または、ハルキュオネ)が、カリュドンの町のオイネウスの子メレアグロスと結婚するまで、アイトリア地方に住んでいた。[39]

その間、プレウロンの町とカリュドンの町との争いが起こり、テュンダレオスはプレウロン側、イダスはカリュドン側に味方して、2人は分かれて戦った。

アパレウスの死後、イダスは父の跡を継ぐために、アレネの町へ戻った。[40]

 

4.3 ラコニアへの嫁入り

BC1256年、オルシロコスの娘ドロドケは、パライの町からスパルタの町のオイバロスの子イカリオスへ嫁いだ。[42]

イカリオスは、スパルタの町の南にパリスの町を創建した。[43]

パリスの町は、パライの町とも呼ばれていた。[44]

ドロドケの父オルシロコスの父は、アイオロスの子ペリエレスの子ピソスと推定される。[45]

ドロドケの嫁入りに際して、多くのアイオリスがパリスの町に住み着いた。

パリスの町は、ドーリス人が支配者になったラコニア地方に最後まで残った3つのアカイア人の町の一つであった。[46]

 

4.4 ネレウスのピュロス創建伝承

パウサニアスは、アパレウスがテッサリア地方のイオルコスの町から逃れて来たネレウスに海沿いの地域を与え、ネレウスはピュロスの町に住んだと伝えている。[47]

しかし、ネレウスがイオルコスの町から移住したのは、BC1303年と推定され、アレネの町の創建より1世代前であり、パウサニアスが参照したのは、誤った伝承であった。

アパレウスは、ヒッポテスの子アイオロスの子ラピトスの子アイオロスの子ペリエレスの息子であり、ネレウスは、ヒッポテスの子アイオロスの子クレテウスの息子であった。

つまり、ネレウスは、アパレウスの祖父アイオロスの従兄弟であった。

 

5 アパレウスの子イダスの時代

5.1 アイトリアからの帰還

BC1245年、アパレウスが死ぬと、彼の息子イダスが、アイトリア地方のカリュドンの町からアレネの町へ帰還した。[48]

 

5.2 ヘラクレスのエリス攻め

BC1240年、ヘラクレスは、エレイア地方のエリスの町を攻めて占領した。[49]

この後、ヘラクレスは、エレイア地方のピュロスの町を攻めて、町を破壊した。[50]

ヘラクレスは、エレイア地方南部のレプレウスの町までは南下したようである。

パウサニアスは、メッセニア地方のステニュクラロスの町で、ネレウスの子供たちがヘラクレスと誓を交したと伝えている。[51]

しかし、この伝承は、ヘラクレイダイの帰還後、メッセニア地方を獲得したクレスポンテスや彼の後裔が自分たちの支配を正当化するために広めた作り話と思われる。

これ以外に、ヘラクレスがメッセニア地方に足を踏み入れたという伝承はない。

 

5.3 ディオスクロイのアンダニア攻め

BC1237年、オイバロスの子イカリオスがアカルナニア地方へ移住し、彼の兄弟テュンダレオスがスパルタの町へ帰還した。[52]

テュンダレオスはアンダニアの町を攻めて、彼の息子たち、ディオスクロイは、その町の支配者レウキッポスの2人の娘たちを捕虜にして、自分たちの妻にした。[53]

テュンダレオスとレウキッポスは異父兄弟であり、ディオスクロイと彼らの妻たちはいとこ同士であった。[54]

テュンダレオスとレウキッポスとの戦いは、アイトリア地方での戦いの延長であったと思われる。

テュンダレオスとイダスの戦いに、イダスの叔父レウキッポスが味方して、テュンダレオスに攻められたと推定される。

 

5.4 エウボイアへの移住

BC1237年、テュンダレオスは、メッセニア地方のオイカリアの町のメラネオスの子エウリュトスを攻めた。[55]

エウリュトスは、メッセニア地方からエウボイア島へ移住して、オイカリアの町を創建した。[56]

戦いの原因は、エウリュトスがアンダニアの町に味方したからであったと推定される。

 

5.5 アドラストスのテバイ攻め

BC1215年、アルゴスの町のアドラストスはテバイ攻めの軍を起こしたが、その中には、メッセニア人も含まれていた。[57]

そのメッセニア人を率いたのは、恐らく、パライの町のディオクレスの2人の息子たち、クレトンとオルティロコスと推定される。彼らは、アルゴスの町のダナオスの娘ピュロダメイアの後裔であった。[58]

 

5.6 イダス兄弟の死

メッセニア地方とラコニア地方の戦いは、30年近く続いた。

最後の戦いのきっかけは、テュンダレオスの娘ヘレネの誘拐であった。

BC1210年、イダスはディオスクロイの妹ヘレネを誘拐して、アテナイの町のテセウスに預かった。[59]

イダスとテセウスの友ペイリトウスとは、ラピタイの始祖アイオロスの子ラピトスを共通の祖とする同族であり、イダスとテセウスも親交があったと思われる。[60]

ディオスクロイは、スパルタの町からアテナイの町まで遠征してヘレネを奪い返した。

この事件が、イダスとリュンケウスの兄弟と、テュンダレオスや息子たちとの間での直接対決となり、テュンダレオスを残して、彼らは死に絶えた。[61]

 

6 ネレウスの子ネストルの時代

6.1 イダスの継承者ネストル

パウサニアスは、イダスの継承者が絶えて、王国はネストルに渡ったと伝えている。[62]

パウサニアスは、ネストルがイダスの跡を継いだのは、ネレウスとアパレウスが従兄弟であり、彼らの共通の曽祖父がアイオロスだからだと誤って認識している。[63]

イダスの曽祖父アイオロスは、ヘレンの子アイオロスであり、ネストルの曽祖父アイオロスは、ヒッポテスの子アイオロスであった。

したがって、両者の共通の先祖は、デウカリオーンの子ヘレンまで遡らなければならない。

ネストルがイダスと同じヘレネスに属していたから、イダスの跡を継ぐことができたとするのは、根拠に乏しい。

イダスの死後、ネストルがアレネの町近くにピュロスの町を創建したことは間違いなく、メッセニア地方を支配していたことは史実と思われる。[64]

ネストルがエレイア地方からメッセニア地方へ支配を広げたのは、つぎの2つの理由が考えられる。

 

6.1.1 イダスの娘婿としての継承

イダスは、東から勢力を拡張して来たラケダイモン人に対抗するために、エレイア地方の有力者ネストルに娘を嫁がせたと推定される。

つぎの理由から、ネストルには名前不詳の若い妻がいたと思われる。

1) ネストルは、トロイ遠征軍中で最年長であったが、ネストルの子アンティロコスは、最年少であった。[65]

2) ネストルの一番若い娘ポリュカステは、オデュッセウスの子テレマコスの妻であった。[66]

つまり、ネストルには孫の年齢ほど年の離れた息子や娘がいた。

ネストルは、イダスの娘婿として、イダスの跡を継いだと思われる。

 

6.1.2 力による継承

イダス兄弟とテュンダレオスの息子たちとの戦いで、アレネの町は衰退し、恐らく、町は破壊されたと思われる。[67]

ラケダイモン人に脅威を感じていたアレネの町の住人は、ネストルに町を託し、ネストルは、アレネの町近くにピュロスの町を創建した。[68]

あるいは、アレネの町の衰退を機に、ネストルがその地方を支配下に置いたものと思われる。

ヘラクレイダイの帰還時に、メラントスがメッセニア王であったことを考慮すると、後者の理由が妥当と思われる。

メラントスは、ネレウスの長男ペリクリュメノスの子ペンチロス (または、ボロス)の子ボロス (または、ペンチロス)の子アンドロポンポスの息子であり、ネストルの後裔ではなかった。[69]

つまり、ラケダイモン人との戦いで、衰退したメッセニア地方へネレウスの後裔が進出したのではないかと思われる。

ネストルの後裔は、アレネの町近くに創建したピュロスの町に住み、ペリクリュメノスの後裔は、アンダニアの町に住んでいたと思われる。

 

6.2 砂地のピュロスについて

ホメロスは、ネストルが住んでいた町を「砂地のピュロス」と表現している。[70]

ストラボンは、そのピュロスについて、3つの候補を挙げて、論争を紹介している。[71]

ホメロスは、この論争の答えを記しており、「砂地のピュロス」が、アガメムノンがアキレスに約束したメッセニア湾周辺の7つの町の近くにあったと伝えている。[72]

メッセニア地方の「砂地のピュロス」は、ネストルと関連付けられてはいないが、ホメロスが異なる地方にある同名の町に同じ枕詞を付けるとは考えられない。

ホメロスは、ボイオティア地方のオルコメノスには「ミニュアス人の」を付け、アルカディア地方のオルコメノスには「群れに富んだ」を付けて区別している。[73]

つまり、ネストルが住んでいた「砂地のピュロス」は、メッセニア地方にあったことになる。

 

6.3 アスクレピオスの息子たちのメッセニア居住について

パウサニアスは、アスクレピオスの息子たちに従っていた人々は、ネストルに従わなかったと伝えている。[74]

この他に、パウサニアスはつぎのように記している。

アスクレピオスは、レウキッポスの娘アルシノエの息子であった。[75]

アスクレピオスの息子たちはメッセニア人としてトロイへ遠征した。[76]

トロイで負傷したマカオンをネストルが助けた。[77]

マカオンの遺骨をネストルが持ち帰り、ゲレニアに埋葬した。[78]

メッセネの町の神殿に描かれた絵の中に、メッセニアの歴代の王たちとともに、アスクレピオスと彼の息子たちがいる。[79]

以上のことから、パウサニアスは、アスクレピオスの2人の息子たち、マカオンとポダリロスが、メッセニア地方に住んでいたと思っていたようである。

しかし、つぎの理由からアスクレピオスの息子たちは、テッサリア地方に住んでいた。

1) アスクレピオスは、テッサリア地方のトリッカの町の近くを流れるレタイウス川のほとりで生まれた。彼の息子たちは、トリッカの町から軍勢を率いて、トロイへ遠征した。また、トリッカの町には、アスクレピオスの最古の神域があった。[80]

2) ネストルは、トロイで死んだマカオンの遺骨をゲレニアに埋葬した。マカオンがメッセニア地方に住んでいたのであれば、ネストルはマカオンの遺骨を妻アンティクレイアに渡し、パライの町にマカオンの遺骨は埋葬されているはずである。[81]

3) マカオンの弟ポダリロスは、トロイから帰還せず、カリア地方に定住した。ポダリロスがメッセニア地方に住んでいたのであれば、兄の遺骨を持ち帰っていたはずである。[82]

 

6.4 ネストルとマカオンの関係

ネストルは、メッセニア地方へ支配を広げたが、イダスが支配していたラピタイを従わせるために、テッサリア地方にいたラピタイの有力者の影響力を利用しようとした。

パライの町に住んでいたオルティロコスの子ディオクレスは、ラケダイモン人がメッセニア地方へ進出して来ており、脅威を感じていた。[83]

ネストルは、ディオクレスの娘アンティクレイアとテッサリア地方のラピタイの有力者との結婚の仲介をすることで、ラピタイの支持を得ようとした。

これより少し前に、テッサリア地方のラピタイは、ヘラクレスとの戦いに敗れて、トリッカの町のアスクレピオスのみが勢力を保っていた。[84]

BC1208年、ネストルは長い旅をしてトリッカの町を訪問し、アスクレピオスから歓待された。[85]

アスクレピオスには、2人の息子たち、マカオンとポダリロスがいたが、ポダリロスは結婚適齢期に達していなかった。マカオンには既に3人の息子がいたが、アンティクレイアを妻に迎えることに決まった。[86]

つまり、ネストルは、マカオンとアンティクレイアの結婚の仲介者であった。

 

6.5 エピゴノイのテバイ攻め

BC1205年、エピゴノイのテバイ攻めがあり、メッセニア人はアルゴス人と共に遠征した。[87]

メッセニア人の将は、アドラストスのテバイ攻めの時と同じく、パライの町のディオクレスの2人の息子たち、クレトンとオルティロコスと推定される。[88]

 

6.6 メネラオスのメッセニア進出

ネストルはメッセニア地方全域を従わせることはできなかった。[89]

テュンダレオスの跡を継いだラケダイモン王メネラオスは、ネストルの勢力の及ばないメッセニア湾沿岸部のカルダミュレ、エノペ、ヒレ、フェライ、アンテイア、アイペイア、ペダソスを支配下に置いた。[90]

ホメロスによれば、この7つの町は、トロイ戦争の前からメネラオスの支配下になっていた。[91]

 

6.7 トロイ戦争時代

ネストルは、メッセニア地方とエレイア地方南部の町の住人を率いて、トロイへ遠征した。[92]

ホメロスは、そのように伝えている。しかし、遠征に参加したのは、ネストルの子アンティロコスであり、ネストルは参加していないと推定される。

 

6.7.1 テッサリアからの移住

トリッカの町に住んでいたアイスクラピオスの子マカオンの妻アンティクレイアは、テスプロティア人によって占領されたテッサリア地方を逃れて、彼女の父が住むパライの町へ移住した。[93]

マカオンとアンティクレイアの2人の息子たち、ゴルガソスとニコマコスは、母の父ディオクレスの跡を継いでパライの町を治めた。[94]

ニコマコスは、BC4世紀の哲学者アリストテレスの先祖であった。[96]

 

7 ヘラクレイダイの帰還の時代

7.1 ヘラクレイダイの帰還の失敗

7.1.1 クレオダイオスの遠征

BC1173年、ヘラクレスの子ヒュッロスの子クレオダイオスは、ドーリス人を率いてペロポネソスへ侵入して、ミュケナイの町を攻めて、町を破壊した。[97]

近年の考古学調査で、BC12世紀のミュケナイの町に破壊された痕跡が確認されている。[98]

クレオダイオスは、テュリンスやミデイアの町も破壊した。[99]

アガメムノンの跡を継いだ、彼の息子オレステスは、ミュケナイの町からアルカディア地方のテゲアの町へ移住した。[100]

その後、オレステスは軍勢を集めて、ドーリス人を追放した。

クレオダイオスは、無事にドーリス地方のピンドスの町へ帰還したようであり、その後、彼には息子アリストマコスが生まれた。[101]

 

7.1.2 クレオダイオスの長男

しかし、クレオダイオスの長男を含む一部の人々は、ドーリス地方へ帰還できずに、ペロポネソスに残留した。彼らは、メッセニア地方のイレの町に逃げ込んで、その地に定住した。

最終帰還時、ヘラクレイダイが最初の目的地をメッセニア地方としたのは、残留した同胞との合流が目的でもあったと思われる。[102]

後にメッセニア地方を獲得したアリストマコスの子クレスポンテスに対して反乱を起こした、「真の」ヘラクレイダイと称するポリュポンテスは、クレオダイオスの長男の息子か孫と思われる。[103]

「真の」という意味は、ヘラクレスの子ヒュッロスの子クレオダイオスの正当な継承者という意味であったと思われる。

系図を作成するとクレオダイオスとアリストマコスの年齢差は、50歳であり、アリストマコスには、複数の兄たちがいたと思われる。[104]

 

7.2 ヘラクレイダイの最終帰還

7.2.1 メッセニアの支配者メラントス

ヘラクレイダイの最終帰還時、ドーリス人と対峙したメッセニア地方の支配者は、アンドロポンポスの子メラントスであった。[105]

多くの史料は、メラントスをピュロス王だと伝えている。[106]

しかし、メラントスはメッセニア地方のピュロスの町には住んでいなかった。

メラントスは、ネレウスの長男ペリクリュメノスの子ペンチロス (または、ボロス)の子ボロス (または、ペンチロス)の子アンドロポンポスの息子であった。[107]

アパレウスの子イダスが死んだ後で、ネレウスの子ネストルがエレイア地方からメッセニア地方へ進出してメッセニア人を支配下に置いた。[108]

ネストルや彼の息子たち、トラシュメデスとアンティロコスは、ピュロスの町に住んでいた。[109]

メラントスは、ネレウスの長男ペリクリュメノスの直系の子孫であった。メラントスは、ネストルの子孫が住むピュロスの町ではなく、アンダニアの町に住んでいたと思われる。[110]

トロイ戦争の後で、ラケダイモンのメネラオスの子孫の力が弱まり、ネレウスの子孫はメッセニア地方の中で勢力を増し、メラントスはメッセニア人の王になった。[111]

 

7.2.2 メラントスのアテナイ移住

メラントスは、デルポイでどこに住むべきかを神に問うて、エレウシスのあるアテナイの町へ行くことになったと伝えられている。[112]

古代の作家は、動機などが不明の場合に「神託により」と記すことがある。メラントスが何故、移住先にアテナイの町を選んだのか神託以外の理由を伝えている史料はないが、つぎのような理由であったと推定される。

パウサニアスは、メラントスの母も妻もアテナイ人であったと伝えており、メラントスは、テュモイテスの娘婿であったと思われる。[113]

テッサリア地方のフェライの町の住人は、テスプロティア人に追われて、エウメロスの子ゼウキッポスの子アルメニオスに率いられてアテナイの町へ移住した。[114]

アルメニオスの娘ヘニオケは、メッセニア地方のアンドロポンポスに嫁ぎ、息子メラントスが生まれた。[115]

ヘニオケとアンドロポンポスの結婚は、同じ時期にテッサリア地方から他郷へ移住した人々との縁であろうと推定される。

ヘニオケは、父アルメニオスと共にアテナイの町へ移住し、トリッカの町のアイスクラピオスの子マカオンの妻アンティクレイアは彼女の生まれ故郷であるメッセニア地方のパライの町へ移住した。[116]

メッセニア地方はアンドロポンポスの支配下にあり、アンティクレイアが共にテッサリア地方から逃れたヘニオケとアンドロポンポスを結び付けたと思われる。

系図を作成すると、移住時のメラントスは50歳を超えており、メラントスの跡を継いだ息子コドロスも30歳を超えている。テュモイテスは、娘婿メラントスにアテナイ王を継がせたものと思われる。

 

8 ドーリス人の時代

8.1 アリストマコスの子クレスポンテスの時代

8.1.1 メッセニアの獲得

BC1104年、 スパルタの町に籠城していたオレステスの子ティサメノスは、ドーリス人に町を明け渡してアカイア地方へ移住した。[117]

帰還を果たしたヘラクレイダイは領土を分配して、アリストマコスの子クレスポンテスは、メッセニア地方の領有権を獲得した。[118]

多くの史料は、クレスポンテスが不正な籤引きを行ったと伝えている。[119]

しかし、パウサニアスはそれを否定しているメッセニア人の口上を伝えている。つまり、不正があったのであれば、クレスポンテスの子アイピュトスのメッセニア地方への帰還に、スパルタの町のエウリュステネスやプロクレスが協力するはずがないというものであった。[120]

 

8.1.2 クレスポンテスの最期

クレスポンテスは、メッセニア地方の王都をステニュクラロスの町に定めた。[121]

クレスポンテスは住人の反乱によって、彼の息子たちと共に殺された。[122]

その反乱の首謀者は「真の」ヘラクレイダイと称するポリュポンテスであった。[123]

ポリュポンテスは前述したように、ヒュッロスの子クレオダイオスと共にペロポネソスへの帰還を試みて失敗し、メッセニア地方のイレの町に残留したクレオダイオスの長男の孫と思われる。

 

8.2 クレスポンテスの子アイピュトスの時代

アイピュトスは、アルカディア地方のトラペズスの町に住む祖父のもとで養育されていた。[124]

BC1073年、アイピュトスは彼の母の兄弟ホライアス、アルゴスの町のテメノスの子イストミオス、スパルタの町のエウリュステネスやプロクレスの支援を受けてメッセニア地方へ帰還した。[125]

アイピュトスは善政を行い、彼の後裔はアイピュティダイと呼ばれた。[126]

 

8.3 アイピュトスの後裔グラウコスの時代

グラウコスは、ゲレニアでアスクレピオスの子マカオンにドーリス人の王として初めて供犠した。[127]

グラウコスの先祖はマカオンとはまったく繋がりがなく、マカオンへの供犠は、グラウコスの支配下のアカイア人を喜ばせるためであったと思われる。

パウサニアスは、グラウコスをアイピュトスの息子と記しているが、アイピュトスとグラウコスとの間に4代の欠落があると思われる。[128]

この出来事は、BC905年頃と推定される。

 

8.4 グラウコスの子イストミオスの時代

イストミオスは、マカオンとアンティクレイアの2人の息子たち、ゴルガソスとニコマコスのためにパライの町に神域を造営した。[129]

ゴルガソスとニコマコスはテッサリア地方のトリッカの町で生まれ、彼らの母アンティクレイアに連れられて、母の父が住むパライの町へ移住した。[130]

ゴルガソスとニコマコスは、アンティクレイアの父ディオクレスの跡を継いでパライの町を治めた。[131]

 

8.5 イストミオスの子ドタダスの時代

ドタダスは、メッセニア地方南西部のモトネ (昔のペダソス)の町に港を作った。[132]

 

8.6 ドタダスの子シュボタスの時代

シュボタスは、アンダニアの町で行う大女神の密儀に先立って、オイカリアの町で、メラネオスの子エウリュトスに英雄としての供犠を行うことを制定した。[133]

シュボタスの先祖ヘラクレスは、エウリュトスを攻め滅ぼしており、シュボタスにとってエウリュトスは敵であった。オイカリアの町には、エウリュトス時代の住人の後裔が残っていたと思われる。

シュボタスがエウリュトスへ供儀をしたのは、古くからの住人の懐柔策で、ドーリス人の力が弱くなった結果ではないかと推定される。

 

9 メッセニア戦争の時代

9.1 シュボタスの子ピンタスの時代

9.1.1 デロスへの合唱団の派遣

BC780年、メッセニア人は、はじめてデロス島までアポロの供犠と成人男子の合唱団を送った。

合唱団が神に捧げる祭礼行列歌は、コリントスの町の叙事詩人アンピリュトスの子エウメロスが教えた。[134]

ここまで、アリストマコスの子クレスポンテス以降の歴代の支配者が、名前のみではなく、事績まで記録されているのは、エウメロスが調べて記録したのではないかと思われる。

エウメロスは、バッキアダイに所属し、コリントスの町の創建時からの歴史を「コリントス史」にまとめた人物であった。[135]

 

9.1.2 テレクロス殺害事件

BC770年、メッセニア人がメッセニア地方とラコニア地方との境界近くのリムナイオンで、スパルタ王テレクロスを殺害する事件が起きた。[136]

パウサニアスは、テレクロスに過ちはなかったと主張するスパルタ人と、テレクロスが正義に背いたことをしたと主張するメッセニア人、両者の主張を伝えている。[137]

すぐに戦いにならなかったことから、メッセニア人の主張が正しかったと思われる。

 

9.2 アンティオコスとアンドロクレスの時代

ピンタスの2人の息子たち、アンティオコスとアンドロクレスの時代にも、スパルタの町との間に紛争が起きた。

メッセニア地方に住むポリュカレスが、ラケダイモン人への恨みから殺人を犯した。[138]

スパルタの町から、ポリュカレスを引き渡すように要請されたメッセニア人は、意見が2つに分かれて戦いになった。[139]

アンドロクレスは、ポリュカレスを引き渡すべきだと主張して、反対派に殺された。[140]

反対派を率いたアンティオコスも、数月後に死んだ。[141]

 

9.3 アンティオコスの子エウパエスの時代

BC743年、テレクロスの子アルカメネス率いるスパルタ人がメッセニア地方のアンペイアの町を奇襲して占領した。[142]

スパルタ人が、メッセニア地方を手に入れようとしたのは、その地方が豊かな土地であったからであった。[143]

戦いを始める前に、ドーリス人は、クレスポンテスが不正な籤引きでメッセニアを得たという話を広めた。ドーリス人は、不正な籤引きを開戦理由のひとつに挙げているが、メッセニア人に否定された。籤引きで不正があったのであれば、エウリュステネスやプロクレスが、クレスポンテスの子アイピュトスのメッセニア王への復帰を助けるはずがないという理屈であった。[144]

 

9.4 アリストデモスの時代

9.4.1 イトメ陥落

エウパエスの跡を継いだアリストデモスは、アイピュトスの後裔であった。[145]

アリストデモスは、6年と数か月、スパルタ人と戦った後で、自害した。[146]

BC724年、メッセニア人は、イトメを放棄して、20年に及んだ戦いは終わった。[147]

 

9.4.2 イタリアへの移住

エレイア地方中部のマキストスの町へ逃れたメッセニア人の一部は、アルキダミダスに率いられて、イタリア半島南部へ移住して、レギオンの町を創建した。[148]

 

9.5 アリストメネスの時代

9.5.1 メッセニア人の蜂起

メッセニア地方に残った人々は、ラケダイモン人の支配下に置かれた。[149]

BC685年、イトメ陥落から39年目、メッセニア人は反乱を起こして、デライでラケダイモン人と戦ったが、勝敗はつかなかった。[150]

彼らの指導者は、アイピュティダイに属する、アンダニアの町に住むニコメデスとアリストダマとの間の息子アリストメネスであった。[151]

デライでの戦いから1年後、各地から応援を得たメッセニア人とラケダイモン人は、ステニュクラロスの町近くの猪塚で会戦した。[152]

メッセニア人は、ラケダイモン人を敗走させて勝利した。[153]

BC679年、メッセニアの大掘割での戦いがあった。[154]

この戦いで、メッセニア人は、アルカディア王、ヒケタスの子アリストクラテスの裏切り行為によって敗退し、エイラ山に籠城した。[155]

 

9.5.2 エイラ陥落

メッセニア人は、包囲から11年目にエイラを放棄した。

エイラ陥落は、アテナイのアルコンがアウトステネスの時であり、第28回オリュンピアードの最初の年、つまり、BC668年であった。

エイラ陥落時、アリストメネスは、リュディア王ギュゲスと戦ったスミュルナの町の人々の果敢な行動のことを兵たちに話して聞かせた。[156]

エイラ陥落の少し前に、遠く離れた地域で起きた出来事をアリストメネスが知ることができたのは、同郷の繋がりがあったからであったと思われる。

スミュルナの町の住人の先祖は、ヘラクレイダイに追われて、メッセニア地方からアテナイの町を経由して、エペソスへ移住し、そこから分かれて、スミュルナの町を建設した人々であった。[157]

 

9.5.3 イタリアへの移住

エイラ山から逃れたメッセニア人の一部は、エレイア地方のキュレネからイタリアへ移住した。[158]

キュレネはエリスの町の外港であったが、メッセニア人の盟友アルカディア人の貿易港でもあった。[159]

BC1240年、テミスの子エウアンドロスの移民団がイタリアへ移住するときにも、キュレネから出発している。[160]

エイラ山から逃れたメッセニア人はアルカディア人のもとへ逃れ、そこからキュレネへ行った。アルカディア地方のテゲアの町とアカイア地方のオレノスの町を結ぶ街道があり、キュレネは、その街道沿いにあった。[161]

BC667年、アリストメネスの子ゴルゴスとテオクロスの子マンティクロスに率いられたメッセニア人は、シシリー島のザンクレ(後のメッセネ)の町の住人と共住した。[162]

BC494年、ザンクレの町は、サモス人に奪われ、住人は、ゲラの町のヒッポクラテスに奴隷として連れ去られた。[163]

 

9.5.4 アリストメネスの後裔

BC666年、アリストメネスはロドス島へ移住し、その地で病没した。[164]

アリストメネスの娘は、ロドス島のイアリュソスの町のダマゲトスと結婚して、ドリエウスが生まれた。

ダマゲトスは、BC1070年に、アルゴスの町からロドス島に移住したテメノスの子ケイソスの子アルタイメネスの後裔と推定される。[165]

ドリエウスの子ダマゲトスの子ディアゴラスの後裔は、ディアゴリダイと呼ばれる名門になった。[166]

その中には、オリュンピアで3回、イストミアで8回、ネメアで7回優勝した、ディアゴラスの子ドリエウスがいた。[167]

ドリエウスは皮肉にも先祖と戦ったスパルタ人を支援して、スパルタ人によって処刑された。[168]

 

10 イクライナの遺跡

近年、ピュロスの町近くのイクライナで、青銅器時代の遺跡が発見された。その遺跡から、BC1400年頃のものと推定される線文字Bが刻まれた粘土板が出土した。[169]

その遺跡の古代名は、ペリエレスの子アパレウスの息子たちが住んでいたパパイの町と思われる。[170]

 

10.1 パパイの創建

BC1430年、ベロスの子ダナオスがエジプトからペロポネソスへ移住して来た。ダナオスは、アルゴスの町を占領して、ミュケナイの町を破壊して、テルキネス族を追い出した。[171]

BC1407年、アカイオスの息子たちは、シキュオンの町を占領して、テルキネス族を追い出した。[172]

ミュケナイの町やシキュオンの町から逃れたテルキネス族は、メッセニア地方南西部にパパイの町を創建した。

パパイの町の住人の中には、ミュケナイの町に住んでいた線文字Bの書き手もいた。

テルキネス族は、クレタ島では、エテオクレタ人と呼ばれ、線文字Bの発明者であった。[173]

 

10.2 BC1400年当時のメッセニアの状況

BC1410年、ラケダイモンの町に住んでいたレレクスの子ポリュカオンは、メッセニア地方北東部にアンダニアの町を創建した。[174]

アンダニアの町の建設には、ポリュカオンの妻メッセネの出身地アルゴスの町から多くのアカイア人が参加した。

BC1400年当時、メッセニア地方には、アンダニアの町とパパイの町が存在した。

ポリュカオンの先祖は、BC1560年、ミュケナイの町に住んでいたテルキネス族によって、アルゴスの町から追放されたイアソス娘イオであった。

つまり、アンダニアの町とパパイの町は、敵対関係にあった。

 

10.3 アンダニアとパパイとの戦い

つぎのことから、アンダニアの町とパパイの町との間には、戦いがあったと推定される。

 

10.3.1 アカイアからの移住

BC1370年、ダナオスの娘ピュロダメイアの子パリスは、アカイア地方からメッセニア地方のネドン川の河口近くへ移住して、パライの町を創建した。[175]

ポリュカオンの妻メッセネが、アイオリス人の味方を得るために、彼女の甥パリスをメッセニア地方へ呼び寄せたと推定される。

アンダニアの町は、ラケダイモンの町の植民市であった。

 

10.3.2 テッサリアからの嫁入り

BC1351年、レレクスの子ミュレスの子エウロタスの娘スパルタの子アミュクラスは、テッサリア地方からラピテスの娘ディオメデを妻に迎えた。[176]

アミュクラスは、テッサリア地方で勢力を増して来ていたラピタイ (アイオリス人の支族)を味方に付けようとしたと推定される。

 

10.3.3 テッサリアからの移住

BC1310年、ラピテスの子アイオロスの子ペリエレスは、テッサリア地方からメッセニア地方へ移住して、アンダニアの町を継承した。[177]

アミュクラスは、アイオリス人の味方を得ようとして、彼の妻ディオメデの甥ペリエレスに、アンダニアの町を任せたと推定される。

 

10.3.4 テッサリアからの移住

BC1305年、ラピテスの子アイオロスの子メラネオスは、テッサリア地方からメッセニア地方へ移住して、オイカリアの町を創建した。[178]

ペリエレスが、彼の兄弟メラネオスをメッセニア地方へ呼び寄せたと推定される。

 

10.4 パパイの占領

アンダニアの町とパパイの町との戦いは、メラネオスの移住後に決着が付き、パパイの町は、アイオリス人によって、占領されたと推定される。

パパイの町に住んでいたテルキネス族は、町から追放されたが、線文字Bの書き手は、町に残留させられた。

パパイの町から追放されたテルキネス族は、クレタ島へ移住したと推定される。[179]

 

10.5 パパイの居住者

BC1280年、ペリエレスの子アパレウスは、アンダニアの町を兄弟レウキッポスに任せてメッセニア地方の西海岸へ移住して、アレネの町を創建した。[180]

その後、アレネの町には、アパレウスの子イダスが住み、パパイの町には、アパレウスの子リュンケウスが居住したと推定される。[181]

あるいは、アレネの町とパパイの町は、同一の町であり、アパレウスは、パパイの町を再建して、彼の妻アレネの名前を町の名前にしたのかもしれない。

 

10.6 パパイの破壊

BC1209年、イダスとリュンケウスは、スパルタの町のテュンダレオスの息子たちとの戦いで死んだ。

イダスが死ぬと、エレイア地方に住んでいたネレウスの子ネストルが、アレネの町近くへ移住して、ピュロスの町を創建した。[182]

パパイの町は、テュンダレオスの息子たち、あるいは、ネストルによって、破壊されたと推定される。

パパイの町に住んでいた線文字Bの書き手は、ピュロスの町へ移住した。

 

おわり

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