top of page
  • Grey Twitter Icon
  • Grey LinkedIn Icon
  • Grey Facebook Icon
  • Grey Pinterest Icon
  • Grey Instagram Icon

第18章 エリス地方の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2025.10.31

1 はじめに

Eleia地方へのGreeksの本格的な入植は、Peloponnesus内の地方の中で、一番遅かった。

Arcadia地方から西へ居住地を広げた人々や、Pelopsと共にLydia地方から入植した人々を除けば、Trojan War時代のEleia地方の住人の大部分は、Aeolisであった。

Achaia地方のAroe (後のPatrae)の町、Olenusの町、Pharaeの町は、Eleia地方のElisの町やPisaの町と密接な関係があり、Trojan Warの時代以前は、Eleia地方に記述する。

BC1430年、Belusの子Aegyptusは一族と共にEgyptを脱出した。Aegyptusの双子の兄弟DanausはArgolis地方へ、Aegyptusの叔父LelexはLaconia地方へ定住した。Aegyptus自身は、Peloponnesus半島北部のRion岬の南西の地へ定住した。[1]

Aegyptusは、EgyptのNileDeltaにあるChemmisの町の住人であった。[2]

 

2 最初のGreeks

Pausaniasは、Olympic競技会の起源を記述している中で、Idaean Heraclesを含む5人の兄弟の名前を挙げている。[3]

彼らが、Crete島からEleia地方へ移住したのは、BC1420年頃と推定される。

彼らは、Eleia地方に居住した最初のGreeksであった。

 

2.1 Idaean Heraclesの系図

BC1438年、Crete島のIda山で鉄が発見された。[4]

その後、鉄の発見者や製鉄に従事する人々は、Idaean Dactylsと呼ばれた。[5]

Idaean Heraclesは、Idaean Dactylsの一人であった。[6]

Idaean Dactylsは、Telchinesという種族に属していた。[7]

Telchinesは、Inachusの子Aezeiusの子Europsの子Telchinに因んで名付けられた種族であり、Pelasgiansとは兄弟のような種族であった。

BC1690年、Argosの町のApisとの戦いに敗れた人々の一部は、Telchinの子Cresに率いられてCrete島へ渡った。[8]

Cresと共にCrete島へ渡った人々はTelchines、島はTelchiniaと呼ばれた。[8-1]

 

2.2 Idaean Heracles

Idaean Heraclesは、Crete島のApteraの町に住むSocosの子Acmonであった。[9]

Socosの兄弟たち、Damnameneus (or Damnaneus)とCelmis (or Scelmis)は、Crete島で最初に鉄を発見した。[10]

Acmonは、Apteraの町に停泊したCadmusの移民船団の中にいたPhoenixの娘Astypalaeaと結婚した。[11]

同じ移民団の中にいたPhoenixの娘Europaは、Cydoniaの町のCydonと結婚して、MinosとCardysが生まれた。[12]

Acmonは、兄弟たちと共にEleia地方のOlympiaの町へ移住し、最初のOlympic競技会を開催した。[13]

その後、Acmonは、兄弟たちと共にRhodes島対岸のCherronesus地方へ移住して、5つの町を創建した。[14]

そこには、Cariansが住んでいて、AcmonとAstypalaeaとの間の息子AncaeusはLelegesの王になった。[15]

AcmonとAstypalaeaとの間の娘は、Cydonの子Cardysと結婚して、Clymenusが生まれた。[16]

Astypalaeaの娘とCardysは、いとこ同士であった。

 

2.3 Idaean Heraclesが去った後のOlympia

Idaean Heracles兄弟は、3年くらいOlympiaの町に住み、その後、Cherronesus地方へ移住した。しかし、Olympiaの町に住み続けた人々もいた。Straboは、Olympiaの町が競技会で有名になる前に、Olympian Zeusの神託所で有名であったと伝えている。[17]

 

3 Achaiaへの入植

3.1 Aroe (後のPatrae)の創建

BC1415年、 EumelusはTriptolemusから町の作り方を学んで、Aroeの町を創建した。[18]

Aroeの町には、Belusの子Aegyptusの墓があった。[19]

系図を作成すると、AegyptusとTriptolemusは同時代人であり、Eumelusは、Ioの子Epaphusの娘Libyaの子Belusの子Aegyptusの息子と推定される。

また、Triptolemusは、Ioの子Cranausの子Rharusの子Celeusの息子であった。[20]

つまり、TriptolemusがEumelusを訪問したのは、単なる偶然ではなく、彼らはIasusの娘Ioを共通の先祖とする血縁関係者であった。

Triptolemusは、彼の兄弟Dysaulesと共に、Eumolpusによって、Eleusisの町を追われて旅に出ていた。[21]

 

3.2 Olenusの創建

BC1410年、Danausの娘Anaxiteaの子Olenusは、Aegyptusの入植地の南西のPierus川の河口近くに、Olenusの町を創建した。[22]

恐らく、Anaxiteaの夫は、Aegyptusの息子であり、OlenusはAegyptusの孫であったと推定される。[23]

 

3.3 Thessalyからの移住

BC1390年、Hippotesの子Aeolusの3人の息子たち、Macareus、Perieres、Aethliusは、Thessaly地方のArneの町からPeloponnesus半島へ移住した。

それまで、Thessaly地方に住むDeucalionの後裔のPeloponnesus北部への移住は、3回あった。

BC1442年、Hellenの子Xuthusは、Thessaly地方のMelitaeaの町からAthensの町へ移住し、その後、Peloponnesus半島北部のAegialus地方 (後のAchaia地方の一部)へ移住した。[24]

BC1420年、Xuthusの子Achaeusは、Thessaly地方のMelitaeaの町からAegialus地方へ再移住した。[25]

BC1407年、Aeolusの子Sisyphusは、Thessaly地方のArne町からSicyonの町の東側へ移住して、Ephyra (後のCorinth)の町を創建した。[26]

これらの移住によって、Achaeansは、Achaia地方東部からArgolis地方、Laconia地方まで広く居住するようになったが、Eleia地方にはまだ進出していなかった。

 

3.4 Aeolusの息子たちの移住

BC1390年、Macareus、Perieres、Aethliusは、Aetolia地方から海峡を渡ってPeloponnesus北部へ移住した。彼らの母Protogeniaの兄弟、Deucalionの子AmphictyonはLocris地方の王であった。[27]

また、Protogeniaの兄弟Orestheusは、Ozolian Locris地方に住んでいた。[28]

Aeolusの息子たちは、Ozolian Locris地方より西方に新天地を求めたが、Aetolia地方には、Curetesが居住していた。彼らは、Aetolia地方から海峡を渡ってPeloponnesus北部へ移住した。[29]

 

3.5 Aeolusの息子とOlenusの娘との結婚

Aeolusの子Macareusは、Olenusの町からLesbos島へ移住した。[30]

Aeolusの子Aethliusが創建したElisの町のAlectorは、Olenusの町をPhorbasに任せた。[31]

以上のことから、Aeolusの息子と、Danausの娘Anaxiteaの子Olenusの娘との間には、婚姻関係があったと推定される。

 

3.6 Lesbosへの移住

BC1389年、Macareusは、Aegean Seaの大津波で被災したCorinth湾岸のIoniansやThessaly地方から逃れて来たPelasgiansなどを含む植民団を率いて、Pelasgia (後のLesbos)島へ移住した。[32]

Macareusは近隣の島々に息子たちを移住させて勢力範囲を広げ、Pelasgia島は、Macareus入植後、Macareusの家と呼ばれるようになった。[33]

Macareusは南へ勢力を拡張し、Chios島、Samos島、Cos島、Rhodes島へ息子たちを移住させた。[34]

BC1340年、Macareusの兄弟Lapithusの子LesbosがThessaly地方から植民団を率いて島へ移住して来て、島はLesbosと呼ばれるようになった。[35]

 

3.7 Pharaeの創建

BC1375年、Danausの娘Phylodameiaの子Pharesは、Olenusの町の近くを流れるPierus川の上流にPharaeの町を創建した。[36]

Olenusの町の創建者Olenusは、Pharesの従兄弟であった。

Pharesの父はAegyptusの息子で、PharesはAegyptusの入植地から移住したと推定される。

 

4 Eleiaへの進出

4.1 Elisの創建

BC1390年、Aethliusは、Olenusの町から南方へ新天地を求めて、Peneius川の近くへ移住して、Elisの町を創建した。[37]

Aethliusは、異母妹のCalyceを妻にして、息子Endymionが生まれた。[38]

 

4.2 Phocisからの嫁入り

BC1351年、Elisの町のAethliusの子Endymionには、3人の息子たち、Epeius、Aetolus、Paeonが生まれた。[39]

Cromiaは、Aethliusの母Protogeneiaの兄弟Amphictyon の子Itonusの娘であり、Endymionの又従妹であった。

 

4.3 Messeniaへの移住

BC1347年、Danausの娘Phylodameiaの子Pharisは、Aroeの町から南方へ新天地を求めて、Messenia湾に流れ込むNedon川の河口近くへ移住した。[40]

Pharisは、兄Pharesが創建した町と同じ名前のPharaeの町を創建した。[41]

Messenia地方には、Pharisの叔母Messeneの夫Polycaonが創建したAndaniaの町があった。[42]

 

4.4 Pisaの創建

BC1345年、Perieresの子Pisusは、Olenusの町から南方へ新天地を求めて、Alpheius川の近くへ移住して、Pisaの町を創建した。[43]

これより前、BC1348年、Pisusは、Olenusの町の近くにあるPharaeの町からPharisの娘Telegoneを妻に迎えていた。[44]

Telegoneの父Pharisと、Pisusの母の父Olenusは、従兄弟であった。

 

4.5 Creteからの移住

BC1345年、Cardysの子Clymenusは、Crete島のCydoniaの町からOlympiaの町へ移住して、Olympic競技会を開催した。[45]

Clymenusは、最初に競技会を開催したIdaean Heraclesの孫であった。[46]

 

4.6 Troadへの移住

BC1344年、Cardysの子Clymenusは、Elisの町のAethliusの子Endymionによって、Olympiaの町から追放された。[47]

Clymenusは、Pelopsの父Tantalusの父と推定されるが、その根拠については後述する。

Tantalusは、Troad地方のDardanusの町からCyzicusの町までの間の沿海地方を支配していた。[48]

Clymenusは、Olympiaの町からTroad地方のIda山の近くに移住したと推定される。

Ida山周辺には、Crete島のCydoniaの町の近くのApteraの町から移住したIdaean Dactylsも住んでいた。

 

4.7 Salmoneの創建

BC1335年、Aeolusの子Salmoneusは、Thessaly地方から彼の異母兄弟Aethliusが創建したElisの町の近くへ移住した。Salmoneusは、Alpheius川の支流であるEnipeus川の源泉であるSalmoneの泉近くにSalmoneの町を創建した。[49]

Enipeus川の名前は、Salmoneusと共に、Thessaly地方のEnipeus川の近くから移住した人々が名づけたと推定される。

 

4.8 Harpinaの創建

BC1330年、Alxionの子Oenomausは、Pisaの町からAlpheius川の少し上流にHarpinaの町を創建した。Oenomausの父Alxionは、Alpheius川とLadon川の合流点近くにHeraeaの町を創建したLycaonの子Heraeeusの孫であった。[50]

これより前に、Lycaonの子Cauconの後裔PhrixusがHarpinaの町の近くにPhrixaの町を創建していた。Phrixusの兄弟Makistusは、その町からさらに海の近くに、Makistosの町を創建した。[50-1]

 

4.9 Thessalyからの嫁入り

BC1326年、Elisの町のEndymionの子Aetolusは、Thessaly地方北部のPeneius川の近くに住むPhorbasの娘Pronoeを妻に迎えた。[51]

Aetolusは、Phorbasの父Lapithesの父Aeolusの子Aethliusの子Endymionの息子であった。つまり、PronoeとAetolusは、又従兄妹であった。

 

4.10 Aetoliaへの移住

BC1320年、Elisの町のEndymionの子Aetolusは、Epeansを率いて、Peloponnesusから海を渡って、Aetolia地方へ移住した。[52]

伝承では、Aetolusが過失による殺人を犯して、Elisの町を追われたことになっているが、その理由では、Curetesと戦えるだけの人数の移住にはならないと思われる。[53]

Aetolusは、当時、Eleia地方の覇者であったSalmoneusによって、Elisの町を追われた。[54]

AetolusはElisの町の王であったが、彼の後に王になったのは、彼の姉妹Eurycydaの息子Eleiusであった。[55]

Eleiusの父は、Salmoneusの子Alector (or Alexinus)であったと推定される。[56]

つまり、Elisの町に権力争いがあり、自分の孫を王位に就けようとしたSalmoneusがAetolusや彼を支持する人々をElisの町から追放したと思われる。

 

4.11 Paeoniaへの移住

BC1320年、Endymionの子Paeonは、Elisの町からPaeonia地方へ移住した。[57]

伝承では、Paeonが王権を賭けた徒競走に敗れたことになっているが、Aetolusと同様にPaeonもSalmoneusによって追放されたと推定される。

 

4.12 OenomausのPisa居住

BC1315年、Harpinaの町のOenomausは、Pisaの町を攻めて、Pisusから町を奪い取った。[58]

このとき、Pisaの町のPerieresの子Pisusは、Oenomausによって殺されたと推定される。

Pisusの妻Telegoneは、Messenia地方のPharaeの町に住む、彼女の父Pharisのもとへ移住した。[59]

 

4.13 Dyspontiumの創建

BC1310年、Pisaの町のOenomausの子Dyspontusは、Olympiaの町からElisの町に向かう海に近い街道沿いに、Dyspontiumの町を創建した。[59-1]

BC572年、Dyspontiumの町は、Pisaの町に味方して、Elisの町と戦った。

 

5 Tantalusの子Pelopsの時代

5.1 Lydiaからの移住

BC1315年、Tantalusの子Pelopsは、Lydia地方からPeloponnesosへ移住して来た。[60]

 

5.1.1 Pelopsの系譜

Tantalusの父は、Crete島のCydoniaの町からOlympiaの町に現れて、Elisの町のAethliusの子Endymionに追放されたCardysの子Clymenusと推定される。[61]

その推定の根拠は、3つある。

1) Clymenusは、Crete島北西部のCydoniaの町の出身であり、その町のすぐ東には、Apteraの町があった。Apteraの町は、Cabeirus山があるBerecynthus地方にあり、Tantalusの最初の支配地は、Berecyntesの土地と呼ばれていた。[62]

2) Greeceに移住して来たTantalusの子Pelopsは、Clymenusが追われたOlympiaを支配下に置いていたPisaの町を目的地にしていた。[63]

3) Pelopsは、Pisaの町の東側のPhrixaの町にあるAthena surnamed Cydonianの神殿に供犠をした。その神殿は、Clymenusが造営したものであった。[64]

 

5.1.2 PelopsとOenomausの戦い

Pelopsは、Laconia湾のEurotas川の河口近くに上陸して、Acriaeの町のAcriasを協力者にした。Acriasは、Amyclaeの町に住むAmyclasの息子と思われ、Acriaeの町の創建者であった。[65]

後に、Pelopsの子ArgeiusがAmyclasの娘Hegesandreと結婚しているのは、この時の縁であったと思われる。[66]

また、Mycenaeの町のPerseusも、Pelopsに同行したと思われる。

Pelopsの少年時代、Andromedaと結婚したばかりのPerseusは、Pelopsの居住地の近くに住んでいた。Pelopsにとって、Perseusは、Peloponnesusに住む唯一の知人であった。

Pelopsの4人の娘たちとPerseusの4人の息子たちが結婚しているのが、それを証明している。[67]

伝承では、PelopsがOenomausからPisaの町を奪ったことになっている。

しかし、次のことから、PelopsとOenomausの間に、戦いはなかったと推定される。

1) Oenomausの妻は、Perseusの祖父Acrisiusの娘Evareteであった。[67-1]

つまり、Oenomausは、Perseusの義理の叔父であった。

2) Oenomausには、娘Alcippeがいた。[67-2]

系図を作成すると、Alcippeが生まれたのは、PelopsとHippodamiaの結婚の10年後である。つまり、Oenomausは、Pelopsと出会ってから、10年以上は、生きていたことになる。

Oenomausは、Pelopsは、Oenomausの娘婿として、Pisaの町を継承したと推定される。

 

5.1.3 PisaとElisの関係

Pelopsの目的地は、彼の祖父ClymenusやClymenusの祖父Acmon (Idaean Heracles)が住んでいたOlympiaの町であった。Pelopsが渡来した時、Olympiaの町はPisaの町の支配下にあった。[68]

Pelopsは、祖父Clymenusを追い出したElisの町に敵意を抱いていたと思われ、双方の間に婚姻関係は見られない。[69]

Pisaの町とElisの町の争いは、Olympic競技会の開催を巡る問題だけではなく、EndymionがClymenusを追放したことが根底にあったと推定される。[70]

 

5.1.4 Hittite文書に登場するPelops

Pelopsは、Hittite文書に登場するUhha-Ziti (Tantalus)の息子であり、Piyama-Kurunta (Broteas)の兄弟Tapalazunauliであると推定される。[71]

BC1318年、Tantalusは、Hittite軍に攻められて、Arzawaの首都Apasas (後のEphesus)を拠点にして抵抗したが、病死した。[72]

Broteasは、Hittiteの捕虜になって、Hattusaへ連行された。[73]

Pelopsは、Hittite軍に包囲されたが無事に脱出した。しかし、Pelopsの妻と息子たちは捕虜になった。[74]

その後、PelopsはAsia MinorからPeloponnesusへ渡った。その時、Pelopsは彼の息子Chrysippusと一緒であった。[75]

Pelopsは、Hittiteとの戦いの後で、失地回復を狙って、3年ほどAsia Minorにいたが、その望みを断念して、Peloponnesusへ渡ったと推定される。

 

5.2 Rhodesからの移住

BC1306年、Rhodes島に住むLapithes (or Lapithus)の子Phorbasは、Pelopsの勢力拡大を恐れたElis王Alectorから招致されてOlenusの町を任せられた。[76]

この時、Olenusの町は、Elisの町の支配下にあったと思われる。

 

5.2.1 Phorbasについて

BC1361年、 Phorbasは、Thessaly地方北部を流れるPeneius川中流域で生まれた。[77]

Phorbasの父はLapithsの始祖Lapithesであり、母はEurynomusの娘Orsinomeであった。[78]

BC1326年、Phorbasの娘Pronoe (or Astynome)は、Thessaly地方からElisの町のEndymionの子Aetolusへ嫁いだ。[79]

BC1320年、Phorbasは、Thessaly地方からRhodes島へ移住した。[80]

PhorbasをRhodes島へ招いたのは、Macareusの子Leucippusと思われる。彼とPhorbasは、Hippotesの子Aeolusを祖父とする従兄弟同士であった。

 

5.2.2 Alectorについて

Elis王Alectorは、Pausaniasが伝えるElis王の系譜には登場せず、Diodorusのみが伝えている。[81]

このAlectorは、つぎの理由からSalmoneusの息子であったと思われる。

Salmoneusは、Elis王Aetolusを追放した。[82]

追放されたAetolusの後でElis王になったのは、当時5歳と推定されるEmdymionの娘Eurycydaの息子Eleiusであった。[83]

Elisの町から離れたSalmoneの町に住むSalmoneusがElis王Aetolusとその支援者を追放したことから、SalmoneusとEleiusとの間に血縁関係があったと推定される。[84]

つまり、AlectorはSalmoneusの息子であり、Emdymionの娘Eurycydaを娶り、息子Eleiusをもうけた。[85]

Aetolusの追放後、EleiusはElis王となり、Alectorは幼少の息子の後見人として、Salmoneの町からElisの町へ移住して、統治したと推定される。

 

5.3 Thessalyからの移住

BC1303年、 Hippocoonの子Amythaonと、Cretheusの子Neleusは、Thessaly地方からEleia地方へ移住して、Pylusの町を創建した。[86]

Pylusの町は、Elisの町からOlympiaの町へ行く山道にあった。[87]

Megaraの町のClesonの子Pylos (or Pylon)がPylusの町を創建したという伝承がある。[88]

系図を作成すると、Pylosが創建した町から彼を追放したNeleusの移住は、Pylosが60歳近くの年齢のときである。Pylosの名前と町の名前が似ていることから生まれた作り話と思われる。

AmythaonはPylusに住み、Pheresの娘Idomeneと結婚し、2人の息子たち、Bias と Melampusが生まれた。[89]

AmythaonがThessaly地方からEleia地方へ移住する時、MelampusとBiasが同行している。つまり、Amythaonの息子たちが生まれたのは、Thessaly地方のPylus (or Phyllus)である。

Amythaonは、Eleia地方に創建した町に、Thessaly地方にいたときに住んでいた町の名前をそのまま付けたと推定される。

そして、その町の名前は、Lepreatic PylusやMessenian Pylusに引き継がれた。[90]

 

6 Eleiusの子Augeasの時代

6.1 Arcadiaからの嫁入り

BC1297年、Elisの町のEurycydaの子Eleiusは、Arcadia地方からAmphidamasの娘Nausidameを妻に迎えて、息子Augeasが生まれた。[91]

 

6.1.1 ElisとMycenaeの関係

Nausidameの姉妹Antibiaは、Mycenaeの町のPerseusの子Sthenelusに嫁いだ。[92]

Amphidamasの娘たちを通して、Elisの町とMycenaeの町は友好関係にあった。しかし、Pisaの町のPelopsの勢力が強まり、SthenelusがPelopsの娘Nicippe (or Archippe)を妻に迎えるとElisの町とMycenaeの町は敵対関係に変わった。[93]

Amphitryonの子HeraclesがElisの町のAugeasを攻めたのは、Pelopsの死後、Elisの町から圧迫されていたPisaの町からの要請によるものであったと推定される。Sthenelusの子EurystheusはPelopsの孫であり、HeraclesはPelopsの曾孫であった。

 

6.1.2 Augeasの父について

Diodorusは、Augeasの父をLapithesの子Phorbasだと伝えている。[94]

AugeasがElis王になれたのは、Phorbasの妻がElis王Epeiusの娘Hyrminaであったからという理由のようである。[95]

しかし、それでは、Olenusの町に住むAugeasがElis王になる根拠がなくなってしまう。

Augeasの父は、Elis王の系譜を時代順に記述しているPausaniasが伝えているように、Endymionの娘Eurycydaの子Eleiusが妥当と思われる。[96]

Epeansと呼ばれていた人々は、Eleiusの時代になるとEleansと呼ばれるようになった。[97]

 

6.2 Triphyliaへの移住

BC1292年、Pylusの町のAmythaonの2人の息子たち、MelampusとBiasは、Eleia地方南部のTriphylia地方へ移住して、Lepreatic Pylusの町を創建した。[98]

 

6.3 Argosへの移住

BC1290年、Amythaonの2人の息子たち、MelampusとBiasは、Triphylia地方からArgosの町へ移住した。伝承では、Melampusが治した女人の狂気を治したため、Argeusの子AnaxagorasがArgosの町の一部を割譲したことになっている。[99]

しかし、MelampusはAnaxagorasの叔母Iphianeiraと既に結婚していた。

Anaxagorasは、彼の義理の叔父Melampusと彼の弟BiasをArgosの町に住まわせて、勢力を増すMycenaeの町に対抗しようとした。[100]

 

6.4 Pisaの内紛

BC1287年、Pisaの町に内紛が起こったと思われる。

内紛の原因は、Pelopsの子Chrysippusの死に関するものであったと推定される。[100-1]

この内紛によって、Pelopsの妻や息子たちは、各地へ移住した。

Pelopsの妻Hippodamiaは、Mideaへ移住した。[100-2]

Pelopsの息子たち、ThyestesとAtreusは、Triphylia地方のMacistusの町へ移住した。[100-3]

Pelopsの息子たち、PittheusとTroezenは、Argolis地方へ移住した。[100-4]

Pelopsの子Alcathousは、Megaraの町へ移住した。[100-5]

Pelopsの子Copreusは、Mycenaeの町へ移住した。[100-6]

Pelopsの子Letreusは、Pisaの町から海岸近くへ移住して、Letriniの町を創建した。[100-7]

この後、Pelopsは、BC1268年頃に死去しているが、その後のPisaの町は、目立たない町として存続した。

AD2世紀、Pisaの町に建造物は残っておらず、ブドウ園になっていた。[100-8]

 

6.5 Hyrminaの創建

BC1285年、Phorbasの子Actorは、Olenusの町からElisの町の西方の海の近くに移住して、彼の母の名前に因んだHyrminaの町を創建した。[101]

Hyrminaは、Endymionの子Epeiusの娘であり、PhorbasがRhodes島からOlenusの町へ移住して来て、彼女はPhorbasと結婚した。[102]

 

6.6 Buprasiumの創建

BC1280年、Pyttiusは、Phthia地方からSalmoneの町の近くへ移住して、Buprasiumの町を創建した。[103]

Pyttiusの子Amaryncesの子Dioresの子Automedonは、Trojan WarでAchillesの御者を務めた。したがって、Pyttiusは、Myrmidonsの一員と思われ、Myrmidonの子Actorの息子と推定される。[104]

 

6.7 Boeotiaからの嫁入り

BC1277年、Pylusの町のNeleusは、Orchomenusの町のAmphionの娘Chlorisを妻に迎えた。[105]

Chlorisには、多くのMinyansが同行してPylusの町へ移住した。[106]

その後、Minyansは、Triphylia地方へ移住した。[107]

 

6.8 Aetoliaからの嫁入り

BC1266年、Hyrminaの町のPhorbasの子Actorは、Aetolia地方のPleuronの町からMolusの娘Molioneを妻に迎えて、双子の息子たち、CteatusとEurytusが生まれた。[108]

Molioneは、Phorbasの娘Pronoe (or Astynome)の子Pleuronの子Molusの娘であり、Actorは、Molioneの曾祖母の異母兄弟であった。

 

6.9 Arcadiansとの戦い

BC1250年、Triphylia地方のAreneの町のAreithousは土地の問題で、Tegeaの町のAleusの子Lycurgusと戦って討ち取られた。[111]

Areithousは、Neleusのもとへ嫁いだChlorisに同行してBoeotia地方のOrchomenusの町からPylusの町へ移住して来たMinyanであった。[112]

その後、Minyansは、Pylusの町からTriphylia地方へ移住して、Areneの町に住んでいた。[113]

 

6.10 Arcadiansとの戦い

BC1244年、Lepreatic Pylusの町に住むNeleusの息子たちは、その町の東に位置するChaaの町の領有権を巡ってArcadiansと戦った。[115]

Arcadiansを率いたのは、Aleusの子Lycurgusであった。Lycurgusの墓は、Tegeaではなく、Chaaの町の近くのLepreusの町にあった。[116]

 

6.11 Acarnaniaへの移住

BC1244年、Augeasの子Phyleusは、Elisの町からAcarnania地方へ移住して、Dulichium (Dulichia)の町を創建した。[117]

そのDulichiumの町の場所をHomerやStraboは、Echinades諸島の中の島だと伝えている。[118]

しかし、つぎの理由から、PhyleusがElisの町から移り住んだDulichiumの町は、Cephallenia島にあったと推定される。

Pausaniasは、Cephallenia島のPaleisの町がEleanのLampisの子Timoptolisの像をOlympiaに奉納したと伝えている。また、Pausaniasは、Paleansが昔、Dulichiansと呼ばれていたとも伝えている。[119]

したがって、Cephallenia島のDulichiumの町がAugeasの子Phyleusの移住先と推定される。

Cephallenia島に先住していたCephalusとPhyleusとの間の接点は不明で、Phyleusが適地を探して、Cephallenia島を移住先に選んだと思われる。

 

6.12 Boeotiaからの嫁入り

BC1242年、Lepreatic Pylusの町のNestorは、Orchomenusの町のClymenusの娘Eurydice (or Anaxibia)を妻に迎えた。[120]

Eurydiceには、多くのMinyansが同行してTriphylia地方へ移住した。[121]

 

7 Heraclesとの戦い

7.1 HeraclesのElis攻め (1回目)

BC1243年、HeraclesはElisの町を攻めるが、Actorの2人の息子たち、CteatusとEurytusの奮戦によって敗北を重ね、勝敗がつかないままにHeraclesが病気になって休戦した。[122]

しかし、Actorの息子たちは、Heraclesの病気を知って攻撃を仕掛け、多くの者が殺された。 [123]

休戦の約束を破られて身内を殺されたHeraclesは、Eleia地方のHyrminaの町からIsthmusの町へ向かう途中のActorの2人の息子たちをCleonaeの町で襲撃して殺した。[124]

 

7.2 HeraclesのElis攻め (2回目)

BC1240年、Heraclesは再びElisの町を攻めた。この戦いには、Arcadiansの他に、Thebans、ArgivesやEpeiansがHeraclesに味方して参加した。[125]

Augeasは、Pylusの町からも援軍を受けて防戦したが、Actorの息子たちがいないElisの町は、Heraclesに敗れ、町は占領された。[126]

Heraclesは、Augeasの長男Phyleusの願いを聞き入れて、Augeasを寛大に処分した。[127]

 

7.3 HeraclesのPylus攻め

Heraclesは、Pylusの町のNeleusを攻めて、12人いたNeleusの息子たちは、一番末のNestorを除いて戦死し、Pylusの町は破壊されて廃墟と化した。[128]

Heraclesによって破壊されたPylusの町は、Elisの町からPeneius川を遡り、さらに支流のLadon川を少し遡った所にあった。[129]

 

7.4 Pisaの参加

Pausaniasは、Heraclesに攻められたElisの町の防戦にPylusの町やPisaの町が参加したと伝えている。[130]

しかし、Pisaの町は、Heraclesの母方の祖母の町であり、Pisaの町がHeraclesとの戦いに加わったとは思われない。

PelopsがOlympic競技会を開催した後で、Elisの町のAugeasが開催した。Pelopsが死んだ後で、Elisの町がPisaの町を支配下に置いて、Olympic競技会を開催したと推定される。[131]

Pisaの町はAugeasに加勢したのではなく、Augeasの横暴に耐えかねて、HeraclesやEurystheusに対して、Elisの町への懲罰を要請したと推定される。[132]

 

7.5 Italyへの移住

BC1240年、Arcadia地方のPallantiumの町のEvanderの移民団が、Olympiaの町を通り、Elisの外港Cylleneへ向かった。Evanderは道中、HeraclesのElis攻めに参加したArcadiansや、新天地を求めるEpeansを移民団に参加させた。[133]

Evanderの移民団は、Elisの外港CylleneからItaly半島へ向けて出航した。[134]

Heraclesによって荒廃させられたElisの町を放棄したEpeansは、Capitolineの丘に定住した。[135]

 

7.6 Messeniaへの移住

BC1209年、Neleusの子Nestorは、Idasの跡を継いで、Messenia地方のAreneの町の近くへ移住して、Pylusの町を創建した。[136]

Idasは、Perieresの子Aphareusの息子であり、Lapithsであった。

Nestorは、Cretheusの子Neleusの息子であり、Aeolisであった。

両者の共通の先祖は、Deucalionの子Hellenまで遡らなければならない。

NestorがIdasと、Hellenesとして同族だから後を継承できたとするのは、根拠に乏しい。

恐らく、Tyndareusの息子たちとの戦いで、Idas兄弟が死に、Areneの町が破壊されたと思われる。[137]

Nestorは、Eleia地方からMessenia地方へ勢力を伸ばし、Areneの町の近くにPylusの町を創建した。[138]

 

8 Troyan War時代

8.1 Troy遠征への参加

HomerのIliadによれば、TroyへEpeiansを率いて遠征したのは、つぎの4人であった。[139]

Actorの子Cteatusの子Amphimachus

Actorの子Eurytusの子Thalpius

Amarynceusの子Diores

Augeasの子Agasthenesの子Polyxeinus

彼らが率いた船は、40隻であった。[140]

Nestor率いるMesseniansの船数70隻に比較して、かなり少ない。[141]

 

8.2 Pisaの参加

Homerの『軍船目録』にPisaの町の名前がない。4人の将に率いられた人々は、Buprasiumの町から北に住む人々で、Pisaの町から南に住む人々は、Messeniansと共に参加した。Straboは、PisataeがNestorの指揮下にTroy遠征に参加したと伝えている。[142]

Troyan War時代、Pisaの町は、Elisの町の支配下に入っていなかった。[143]

 

8.3 Cylleneの参加

Homerの『軍船目録』にCylleneの町の名前がないが、その町からTroy遠征に参加したOtusの名前は登場する。[144]

Otus率いるCylleniansは、Phyleusの子Meges率いるDulichiansの船に乗っていたからであった。[145]

 

9 Haemonの子Oxylusの時代

9.1 Aetoliaからの移住

BC1105年、Thoasの子Haemonの子Oxylusは、Aetoliansを率いて、Aetolia地方からElisの町へ移住した。[146]

当時、Elisの町を治めていたAmphimachusの子Diusは、Oxylusに地位を譲って共住した。[147]

Oxylusは、Peloponnesusの大部分の支配者となったHeracleidaeと親戚関係にあった。Oxylusの祖父Thoasの母Gorges (or Gorge)は、Heraclesの妻Deianeira (or Dejanira)の姉妹であった。

Heracleidaeを率いていたTemenusの父Aristomachusは、Oxylusの3従兄弟であった。

 

9.2 Achaiaからの移住

BC1101年、Oxylusは、Achaia地方のHeliceの町からOrestesの子Penthilusの子Damasiusの子Agoriusを招いてElisの町の共同統治者にした。Agoriusと共にAchaeansがElisの町に移住した。[148]

BC1099年、Oxylusは、Olympia競技会を開催した。その後、BC776年にIphitusが復活させるまで、300年以上の間、Olympia競技会は行われなかった。[149]

BC1419年に、Idaean Heraclesと彼の兄弟たちが開催してから、Eleia地方の有力者が競技会を開催して来た。[150]

BC1384年、Aeolusの子Aethlius [151]

BC1344年、Cardysの子Clymenus [152]

BC1329年、Aethliusの子Endymion [153]

BC1319年、Endymionの子Epeius [154]

BC1314年、Alxionの子Oenomaus [155]

BC1309年、Salmoneusの子Alector [156]

BC1299年、Tantalusの子Pelops [157]

BC1294年、Hippocoonの子Amythaon [158]

BC1279年、Cretheusの子NeleusとPelias [159]

BC1249年、Eleiusの子Augeas [160]

BC1239年、Amphitryonの子Heracles [161]

 

9.3 Hera神殿の建立

BC1097年、Triphylia地方のScillusの町は、Olympiaに、Doris様式のHera神殿を建立した。OxylusがElisの町を獲得してから8年後であった。[162]

 

9.4 Spartaからの移住

BC1070年、Laconia地方に住んでいたPelasgiansとAchaeansは、Eleia地方南部へ移住して、Lepreum, Macistus, Phryxae, Pyrgus, Epium, Nudiumの町を創建した。[163]

Herodotusは、6つの町の創建者を、Therasの移民団に参加しなかったMinyansだと記している。[164]

しかし、そのMinyansをLemnos島から追い出したのは、Athensの町から追放されたPelasgiansであった。[165]

Pelasgiansより数の少ないMinyansが、6つの町を創建できたとは思われない。

6つの町を創建したのは、Doriansに対して反乱を起こして、Laconia地方から追放されたPelasgiansとAchaeansであったと思われる。[166]

 

おわり

bottom of page