
第19章 アカイア地方の青銅器時代の歴史
Create:2025.10.30, Update:2026.2.16
1 はじめに
BC1750年、オギュゴス時代の大洪水に襲われて居住地を追われた人々は、パルナッソス山北麓のケピソス川流域から各地へ移住した。イナコスの子アイゼイオス (または、アイギアレオス)に率いられた人々は、ペロポネソス半島北部の海岸地帯に定住した。[1]
彼らの定住地の中心は、アイギアレア (後のシキュオン)の町であった。[2]
アイギアレアの町は、アイゼイオスの兄弟ポロネオスが創建したポロネオス (後のアルゴス)の町と共にギリシア人が創建したペロポネソス内で最古の町であった。
アイギアレアの町に定住した人々は、その後、西方へ居住地を広げた。
トロイ戦争時代前のアカイア地方西部 (アロエの町やオレノスの町)については、エレイア地方との関係が深いので、「エリス地方の青銅器時代の歴史」に記述した。
2 ギリシア人の最初の定住地
ビザンチウムのステファヌスは、シキュオンの町の西北西約40kmにあるヒュペレシア (後のアイゲイラ)の町の創建者をリュカオンの子ヒュペレトスと伝えている。[3]
このリュカオンは、アルカディア地方内に多くの町を創建した息子たちの父、ペラスゴスの子リュカオンとも思われる。[4]
しかし、アイギアレアの町の創建者アイゼイオスにもリュカオンという名前の息子がいた。[5]
ヒュペレシアの町の創建者は、アルカディア地方南部から北北東へ約100kmと考えるよりも、アイギアレアの町から西北西へ約40kmの所へ移住したと考えた方が良いと思われる。
つまり、ヒュペレシアの町の創建者は、アイゼイオスの子リュカオンの子ヒュペレトスであり、町の創建は、BC1680年頃と推定される。
ヒュペレシアの町は、アカイア地方で最古の町であった。
ヒュペレシアの町は、後に、アイゲイラと呼ばれるようになった。[6]
3 ヘレンの子クストスの時代
3.1 アッティカからの移住
BC1442年、ヘレンの子クストスは、アッティカ地方からペロポネソス半島北部のアイギアロス地方(後のアカイア地方の東側)へ移住した。[7]
3.1.1 クストスの移住の動機
パウサニアスは、クストスがアテナイ人によって追放されたと伝えている。[8]
しかし、次の事により、この伝承は誤りと思われる。
1) アテナイ人は、クストスの子アカイオスがテッサリア地方へ帰還するのを援助した。[9]
2) エウモルポスがアッティカ地方に侵入した時、クストスの子イオンがアテナイ人を救った。[10]
クストスは、この移住より20年以上前に、アッティカ地方北東部にテトラポリス (オイノエ, マラトン, プロバリントス, トリコリュントス)を建設しているが、そこに住む人々の数が多くなり、クストスは新天地を求めて、移住したと推定される。[11]
3.1.2 当時のペロポネソス内の情勢
クストスの移住は、ベロスの子ダナオスがエジプトから移住して来る少し前であった。
ペロポネソス半島の西側に、ギリシア人の入植地は、まだなかった。
アイギアレイア (後のシキュオン)の町は、プレムナイオスの子オルトポリスが治めていた。
アルゴスの町は、ステネラスの子ゲラノールが治めていた。
アルカディア地方は、リュカオンの子テゲアテスが治めていた。
3.1.3 クストスの移住先の選定理由
クストスは、テッサリア地方からアッティカ地方へ亡命して来た人物であり、アッティカ地方からテッサリア地方へ移住する選択肢はなかったようである。[12]
また、ボイオティア地方は、カドモスが移住して来る前であり、後にカドモス率いる大集団と互角に戦ったヒュアンテスなどの勢力が強かったと思われる。
クストスより前に、ペロポネソス内に住んだデウカリオーンの後裔はいなかった。
つまり、クストスは身内を頼って移住したのではなく、新天地を探して、アイギアロス地方にたどり着いたと推定される。
3.1.4 クストスの定住地
パウサニアスは、クストスがアッティカ地方からアイギアロスへ移住したと伝えている。[13]
このアイギアロスは地方名であり、クストスの定住地は明確ではない。
しかし、クストスの定住地は、アイギアレア (後のシキュオン)の町とヘリケの町の間であり、後のゴヌッサの町付近と推定される。ゴヌッサの町とアッティカ地方とは深い繋がりがあった。[14]
3.2 クストスの子イオンの結婚
BC1440年、クストスの子イオンは、アイギアリア人の王セリノスの娘ヘリケと結婚した。[15]
セリノスは、ヒュペレシアの町の創建者ヒュペレトスの後裔で、ヒュペレシアの町の王であったと思われる。したがって、ヒュペレシアの町の住人は、アイギアレア (後のシキュオン)の町と同じく、アイギアリア人と呼ばれていた。[16]
3.3 テッサリアへの移住
BC1435年、クストスの子アカイオスは、アイギアロス地方からテッサリア地方のメリタイアの町へ移住した。[17]
35年前、アカイオスの父クストスは、父ヘレンの死後、兄弟たち、アイオロスやドロスによってテッサリア地方を追放されていた。[18]
アカイオスの遠征隊の中心は、クストスと共にテッサリア地方を追われた人々や、彼らの子供たちであった。この遠征には、アイギアリア人やアテナイ人も参加した。[19]
4 クストスの子アカイオスの時代
4.1 ヘリケの創建
BC1430年、クストスの子イオンは、ヒュペレシアの町から西北西へ約21kmの所にヘリケの町を創建した。[20]
クストスの子イオンが治める人々は、イオニア人と呼ばれるようになった。[21]
4.2 テッサリアからの移住
BC1420年、カドモス率いる大集団やトラキア人が、トラキア地方からテッサリア地方へ南下した。彼らの移動によってテッサリア地方内に大混乱が生じて、クストスの子アカイオスは、メリタイアの町からアイギアロス地方へ移住した。[22]
アカイオスには、ヘレンの子アイオロスの子シシュッポスも同行した。[23]
シシュッポスは、アカイオスの父クストスの兄弟アイオロスの息子であり、アカイオスの従兄弟であった。
4.3 アッティカへの移住
BC1415年、エウモルポス率いる集団が、アッティカ地方へ侵入した。[24]
アテナイ人は一時、ボイオティア地方のタナグラ周辺に居住していたゲピュライオイのもとへ避難した。[25]
クストスの子イオンは、アテナイ人の推挙を受けてポレマルコスになり、エウモルポスと戦って休戦に持ち込んだ。[26]
イオンの母は、第4代アテナイ王エレクテウスの娘クレウサであり、当時のアテナイ王パンディオンはイオンの叔父であった[27]
イオンは、戦いの後で、アイギアロス地方からアッティカ地方のポタモイの町へ移住した。[28]
4.4 アルゴスからの嫁入り
BC1408年、アカイオスの2人の息子たち、アルカンドロスとアルキテレスは、アルゴスの町のダナオスの2人の娘たち、スカイアとアウトマテをそれぞれの妻に迎えた。[29]
この年、ダナオスの跡を継いだリュンケウスが死ぬと、ゲラノールの子ラメドンはシキュオンの町のオルトポリスの協力を得て、アルゴスの町を占領した。[30]
リュンケウスの子アバスは、アルゴスの町からポキス地方へ移住してアバイの町を建設した。[31]
このとき、アイギュプトスの子アンティマコスとダナオスの娘ミデイアとの間の息子アンピアナクスもアルカディア地方へ移住した。[32]
ダナオスの娘たち、スカイアとアウトマテの嫁入りも、アルゴスの町を逃れた結果であったと思われる。
4.5 アルゴスへの移住
BC1407年、アカイオスの息子たち、アルカンドロスとアルキテレスは、アルゴスの町を占領していたゲラノールの子ラメドンを追放した。[33]
アルカンドロスとアルキテレスは、リュンケウスの子アバスをポキス地方からアルゴスの町へ呼び戻してアバスの後見人になり、アイギアロス地方からアルゴスの町へ移住した。[34]
アルカンドロスは、シキュオンの町へも攻め込み、町を占領した。[34-1]
この戦いには、アカイオスの従兄弟シシュッポスも参加して、シキュオンの町の東側に、コリントスの町を創建するとともに、シキュオンの町をも支配した。[34-2]
5 アカイオスより後の時代
アカイオスの2人の息子たち、アルカンドロスとアルキテレスがアルゴスの町へ去った後、アカイオスの跡を継いで、クストスの入植地に住み続けたアカイオスの息子もいたと推定される。
また、クストスの子イオンがアッティカ地方へ去った後のヘリケの町やヒュペレシアの町の状況は不明である。
イオンには、アッティカ地方に住んでいた4人の息子たち、ゲレオン、アイギコレス、アルガデス、ホプレスがいた。[35]
しかし、イオンには、アイギアロス地方に住み続けて、ヘリケの町やヒュペレシアの町を継承した息子たちもいたと推定される。
5.1 ペレネの創建
BC1300年、トリオパスの子ポルバスの子ペレンは、アルゴスの町からアカイア地方へ移住して、シキュオンの町の西北西約17kmの所にペレネの町を創建した。[36]
ペレンの孫たち、アンピオンとアステリオス (または、アステリオン)は、アルゴ船の遠征物語に登場している。[37]
アルゴスの町のリュンケウスの子アバスには、トリオパスという別名があった。[38]
ペレンの父ポルバスをアバスとしても年代的に不都合はない。
恐らく、アクリシオスの孫ペルセウスとプロイトスの子メガペンテスの争いに、アバスの孫ペレンも巻き込まれて、移住したと推定される。
BC1375年、プロイトスは、シキュオンの町の海岸近くにヘラ神殿を創建しており、ペレンが移住した土地にアルゴスの町の影響力があったと思われる。[38-1]
5.2 ゴヌッサの創建
ポルバスの子ペレンの妻は、シキュオンの町のマラトンの子シキュオンの娘ゴヌッサであったと推定される。[39]
BC1280年、ペレンとゴヌッサの息子は、ペレネの町の近くに、ゴヌッサの町を創建した。[40]
5.3 アルゴスからの移住
BC1247年、メランプスの子アバスの子ポリュペイデスは、アルゴスの町からヒュペレシアの町へ移住した。[41]
近くのペレネの町は、アルゴス人が創建した町であった。[42]
ポリュペイデスの移住の理由は、タラオスの子アドラストスが、シキュオンの町のポリュボスのもとへ亡命したのと、同じ理由であった。[43]
つまり、アルゴスの町の内紛が原因であった。
5.4 トロイ戦争時代
ホメロスによれば、トロイ戦争時代、アイギアロス地方のヒュペレシア、ゴノイッサ、ペレネ、アイギオン、ヘリケの町は、ミュケナイの町の支配下にあった。[44]
5.5 テッサリアからの移住
BC1186年、エウアイモンの子エウリュピロスは、テスプロティア人に奪われたテッサリア地方のオルメニオンの町からアロエの町へ移住した。[45]
エウリュピロスとアロエの町の関係は不明で、伝承通り、デルポイの神託に従って移住したのかもしれない。[46]
6 ヘラクレイダイの帰還の時代
6.1 アカイア人の侵入
BC1104年、アルゴス地方やラコニア地方に住んでいたアカイア人は、ヘラクレイダイ率いるドーリス人に追われて、オレステスの子ティサメノスに率いられて、アイギアロス地方へ移住した。[47]
アイギアロス地方は、ティサメノスの祖父アガメムノンの時代には、ミュケナイの町の支配下にあった。[48]
ティサメノスは、アイギアロス地方に住んでいたイオニア人に対して、共住を申し出たが、彼らはティサメノスの提案を拒否して、戦いになった。[49]
この戦いで、ティサメノスは戦死したが、アカイア人がイオニア人に勝利して、イオニア人はアテナイの町へ移住した。[50]
6.2 ゴヌッサのメラス
BC1075年、ヒッポタスの子アレテスは、アルゴスの町からコリントスの町の攻略に向かう途中で、ゴヌッサの町のアンタソスの子メラスを遠征隊に加えた。[51]
アレテスの父ヒッポタスの父ピュラスの父アンティオコスは、ヘラクレスの息子であり、アテナイの町の10部族のひとつ、アンティオキス部族の名祖であった。[52]
また、メラスは、シキュオンの娘ゴヌッサの子孫であり、シキュオンの母は、第6代アテナイ王エレクテウスの娘であった。[53]
つまり、アレテスもメラスも、アテナイの町との関係が深かった。
BC657年、メラスの後裔エイティオンの子キュプセロスは、コリントスの町の僭主になった。[54]
6.3 エリスへの移住
BC1101年、オレステスの子ペンチロスの子ダマシウスの子アゴリオスは、エリスの町から招かれて、ヘリケの町からエリスの町へ移住して、ハイモンの子オクシュロスの共同統治者になった。[55]
7 ドーリス人侵入より後の時代
7.1 パトライの創建
7.1.1 創建者パトレウス
パウサニアスは、パトライの町の創建者パトレウスの父プレウゲネスを、ラケダイモンの子アミュクラスの子ハルパロスの子デレイテスの子アイギネテスの子ペリアスの子アンピュクスの子アレウスの子アゲノールの子と伝えている。[56]
しかし、パウサニアスはパトライの町の創建が、スパルタ王アギスの時代であったとも伝えている。[57]
パトレウスとアギスを同時代人とした場合、1世代の平均は47歳となる。この系譜も、他のラケダイモンの系譜と同じく、4世代の欠落があったと思われる。[58]
7.1.2 パトライの創建年
スパルタ王アギスは、系図を作成すると、BC970年頃の生まれである。
したがって、パトライの町の創建は、BC930年頃と推定される。
7.1.3 建設参加者
パトライの町の建設者は、ラケダイモンに住んでいたアカイア人であった。[59]
彼らを率いたプレウゲネスの子パトレウスは、スパルタの町のメソア区に住んでいた。[60]
ドーリス人が支配者になった後も、アミュクライ、パリス、ゲロントライの町は、アカイア人が支配する町であった。それらの町のアカイア人は、ドーリス人に追い出されたが、彼らの行先は不明である。パリスの町の住人は、ドーリス人と戦わずに退去したと伝えられるが、パトレウスに率いられて、パトライの町の建設に参加したと推定される。[61]
7.1.4 移住先の選定理由
パリスの町の創建を伝える史料は見つからないが、創建者は、オイバロスの子イカリオスと推定される。イカリオスは、メッセニア地方のパライの町から、オルティロコスの娘ドロドケを妻に迎えた。[62]
オルティロコスの祖父パリスは、ダナオスの娘ピュロダメイアの息子であり、父は、アイギュプトスの子エウメロスと推定される。エウメロスは、アロエ (後のパトライ)の町に住んでいた。エウメロスの子パリスは、父のもとから南へ新天地を求め、メッセニア湾の奥にパライの町を創建した。[63]
イカリオスは、結婚を機に、父オイバロスの住むスパルタの町から南へ移住して、町を創建した。
イカリオスの妻ドロドケと共にメッセニア地方のパライの町から移住してきた人々も町の建設に参加した。その町は、最初、パトライの町と呼ばれていたが、パリスの町と呼ばれるようになった。[64]
ドーリス人に追い出されたパリスの町の住人は、先祖の出身地アロエの町を移住先に選んだと推定される。後に、ペロポネソス戦争のとき、パトライの町がアカイア地方で最初にアテナイと同盟を結んだことは、以上の推定が正しいことを証明している。[65]
7.1.5 アカイア人が入植していなかった理由
ヘラクレイダイに追われて、アカイア地方へ移住し、先住していたイオニア人をティサメノス率いるアカイア人は追い出した。[66]
しかし、アロエの町の住人は、同族であったために追い出されなかった。トロイ戦争時代に、テスプロティア人に奪われたテッサリア地方のオルメニオンの町の住人が、エウアイモンの子エウリュピロスに率いられて、アロエの町に定住していた。[67]
エウアイモンの父や兄弟は、ヘラクレスと戦ったラピタイであった。[68]
7.1.6 アロエがパトレウスの移民団を受け入れた理由
パトレウスが率いた移民団の構成員は、アイギュプトスの子エウメロス時代のアロエの町の住人の後裔と共通の先祖を持つものがいたとも思われる。しかし、多くは、ラピタイとしての繋がりであったと推定される。[69]
パリスの町の創建者イカリオスの父オイバロスの父キュノルタスの父アミュクラスの妻は、ラピタイの始祖ラピトスの娘ディオメデであった。ディオメデと共にテッサリア地方から移住したラピタイが、アミュクライの町を経由してパリスの町にも住んでいたと思われる。[70]
また、テッサリア地方のトリッカの町に住んでいたラピタイも、テスプロティア人に追われて、アイスクラピオスの子マカオンの妻アンティクレイアと共にメッセニア地方のパライの町に移住していた。
イカリオスの妻ドロドケは、アンティクレイアの叔母であり、直線距離で、30kmほどしか離れていないメッセニア地方とラコニア地方の同じ名前(パライ)の町には交流があったはずである。
テッサリア地方から逃れて来たラピタイは、パリスの町にも住んでいたと推定される。[71]
7.1.7 ガリア人との戦い
BC279年、ギリシアに侵入したガリア人は、テルモピュライで行く手を阻まれ、オレストリオスとコンブティスを将とする、歩40,000と騎800を別動隊としてアイトリア地方へ侵入した。[72]
パウサニアスは、パライの町がアイトリア人と親しかったため、パライの町の人々は、海を越えてアイトリア地方へ渡って、ガリア人と戦ったと伝えている。[73]
BC29年には、パライの町の人々は、ローマに味方して、一部のアイトリア人と戦ってカリュドンの町から戦利品を得た。したがって、パライの町と「親しかった」アイトリア人とは、主にプレウロンの町の住人であったと思われる。[74]
プレウロンの町は、テュンダレオスが移住し、ディオスクロイが生まれ育った町であった。
テュンダレオスの兄弟イカリオスの町パリスの住人が創建したパトライの町とは、深い繋がりがあった。ガリア人との戦いの後で、パトライの町の男子の人口は極端に減り、女性の数が男性の数の2倍になった。[75]
7.1.8 ローマの好意
BC31年、ラケダイモンは、アクティウムの戦いで、ローマのアウグストスに味方した。ラケダイモンの植民地と思われていたパトライの町にアウグストスは、好意的であった。[76]
ガリア人と戦いの後で、パトライの町の住人は、貧困に陥り、若干の人々を町に残して、周辺に新たにメサティス、アンテイア、ボリナ、アルギュラ、アルバの町を作って暮らしていた。
アウグストスは、それらの町や、リュペスに住んでいたアカイア人をパトライの町に集めて、彼らに数々の特典を与えた。[77]
7.2 イタリアへの移住
BC733年、ミュスケロスは、リュペスの町から移民団を率いて、イタリア半島南部にクロトンの町を創建した。[78]
ミュスケロスには、シュラクサの町の建設に向かう途中のコリントスの町のアルキアスが協力した。[79]
ハリカルナッソスのディオニュソスは、ミュスケロスによるクロトン建設は、第17回オリュンピアードの3年目(BC708年)だと記しているが、クロトン建設は、数度にわたったと思われる。[80]
7.3 民主政への移行
オレステスの子ティサメノスの後裔は、ヘリケの町に住み、オギュゴスの息子たちの代まで続いた。その後、王政が廃止されて民主政になるとアカイアの国制は高い評価を受け、ピュタゴラスの一派に対して反乱を起した人々も、その法制を採用した。アカイアの民主政への移行は、BC6世紀の終わり頃と推定され、ティサメノスの後裔は、約600年間、アカイア地方を治めたことになる。[81]
おわり
