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第23章 ボイオティア地方の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2025.10.30

1 はじめに

1.1 恵まれた立地条件

Greeceの中でBoeotia地方だけが3つの海に出る港があったと、BC4世紀の歴史家Ephorusが述べている。つまり、ItalyやSicily方面への海、MacedoniaやHellespont方面への海、CyprusやEgypt方面への海であった。[1]

20世紀初頭の英国の詩人で考古学者のStanley Cassonは、Cephisus川が流れ込むCopais湖を中心としたBoeotia地方はGreece発祥の地であり、豊かな土壌のため、他に依存しない自己完結型の地方であったと記している。[2]

 

1.2 多くの種族の混住

BC3世紀の旅行家Heracleides Criticusは、Boeotia地方のそれぞれの町の欠点を列挙した格言を紹介している。彼は、ギリシアの他の地域から人々がBoeotia地方へそれらの欠点を持ち込んだと述べている。[3]

Boeotia地方へは、Egypt、Phoenicia地方、Arcadia地方、Thessaly地方、Macedonia地方、Athensの町、Argosの町、Corinthの町、Crete島、Samothrace島、Rhodes島から人が流れ込んだ。

Boeotia地方ほど、多くの種族が入り混じった地方は、ギリシアの他の地方には見られない。

 

1.3 町の名前の由来

Pausaniasは、Boeotia地方のほとんどの町の名前が女性の名前に由来していると記している。[4]

しかし、女性の名前に由来する町は、Ascra, Aulis, Mideia, Plataea, Tanagra, Thebes, Thespiae, Thisbeであり、8つであった。

男性の名前に由来する町は、それより多く、17の町があった。

つまり、Alalcomenae, Anthedon, Aspledon, Chaeroneia, Copae, Coroneia, Eleutherae, Haliartus, Hyettus, Hyria, Lebadeia, Leuctra, Medeon, Olmones, Onchestus, Orchomenus, Schoinosである。

 

この章では、次の町の歴史について記述する。

Alalcomenae, Anthedon, Ascra, Aulis, Chaeroneia (Arne), Copae, Coroneia, Eleutherae, Eutresis, Haliartus, Hyria (Euboea), Hysiae, Lebadeia, Leuctra, Medeon, Ocaleae, Onchestus, Plataea, Schoenus, Tanagra, Thespiae.

なお、Acraephnium、Aspledon、Hyettus、Mideia、Olmones (Almones)、Phlegyasについては、Bronze Age History of Orchomenusの中で記述している。

Thebes (Cadmeia)、Orchomenus (Andreis)については、個別の章で記述している。

 

2 Cadmus移住前のBoeotia

2.1 Ectenesの定住

BC1750年、Parnassus山の北側を西から東へ流れるCephisus川の上流で、長期間にわたる大洪水が発生した。Ogygus時代の大洪水である。[5]

Cephisus川の流域で暮らしていた人々は、新たな土地を求めて、各地へ移住した。

Ogygus率いるEctenesは、Cephisus川の河口近くにできた大きな湖の南側へ移住した。[6]

Ectenesの居住地の範囲は、西はHelicon山の北麓から、東はEuripus海峡近くまでの広範囲に及んだ。[7]

Thebesの町の一番古いOgygian gateの名前は、Ogygusに因んで付けられた。[8]

 

2.2 Ectenesの各地への移住

BC1580年、Ogygusから6世代目のとき、Hyantes、Temmices、Aonesに圧迫されて、Ectenesは、一部を残して、各地へ移住した。Ectenesは、Attica地方やThessaly地方、そして、海を渡ってEgyptへ移住した。[9]

Thessaly地方へ向かった人々を率いたのは、Hellenesに名を与えたHellenの父Deucalionの祖父であった。Egyptへ向かった人々の中には、初代Athens王となるCecropsも含まれていた。

第2代Athens王Cranausの娘は、Deucalionの子Amphictyonと結婚した。

第4代Athens王Erichthoniusの娘Creusaは、Deucalionの子Hellenの子Xuthusと結婚した。

これらの結婚は、Thessaly地方へ向かった人々とEgyptへ向かった人々との親戚関係を証明している。[10]

Ectenesの名前で呼ばれていたBoeotia地方の住人は、Ectenesが去った後で、Hyantes、あるいはAoniansと呼ばれるようになった。[11]

 

2.3 Ectenesの再定住

Egyptへ移住したOgygusの子孫は、Cecropsを指導者として、Attica地方に再移住した。

Cecropsの甥と思われるCranausは、Cecropsより遅れてEgyptから渡来した。

Cranausは、Ogygusが昔住んでいたBoeotia地方のTriton川の近くに居住した。[12]

当時、Cranausの娘Atthisは、Athenaの異名を持つ幼子であった。[13]

Triton川のほとりには、CecropsがCranausに命じて建設させたEleusisの町とAthensの町があったが、Copais湖に水没した。[14]

しかし、BC4世紀にAlexander the Greatの命を受けたChalcisの町の鉱山師Cratesが地下水路の詰まり物を除去した。水位が下がったCopais湖の中からAthensの町が現れた。[15]

 

3 Alalcomenaeの歴史

Homerは、Athenaの名前にAlalcomenaeを冠しているが、Alalcomenaeの町はAthena生誕の地であった。[16]

CecropsがAlalcomenaeの町の近くを流れるTriton川のほとりにAthensの町とEleusisの町を創建したと伝えられるが、実際にその地に住んだのはCranausであったと思われる。[17]

Cranausの娘Atthis(別名、Athena)は、Triton川のほとりで育った。[18]

BC86年、Romeの将軍Sullaは、Alalcomenaeの町を破壊し、Athena神殿にあった象牙造りのAthena神像を略奪した。[19]

Pausaniasの時代には、崩れた神殿はツタに覆われていた。[20]

Alalcomenaeの町は、山の急斜面にある小さな町で、その下の平地にAthena神殿があった。[21]

 

4 Anthedonの歴史

BC1420年、Atlasの娘Alcyoneの子Anthasは、Anthedonの町を創建した。[22]

Alcyoneには、2人の息子たち、HyrieusとHyperenorがいた。[23]

Hyrieusは、Hyriaの町に住んでいたことから、Anthedonの町のAnthasとは、Hyperenorの別名であったと思われる。[24]

Anthas (別名Hyperenor)の父は、Arcadia地方からSamothrace島を経由してBoeotia地方へ移住して来たMegassaresと思われる。したがって、Anthedonの町に最初に住んだGreeksは、Arcadiansであった。[25]

その後、AeolisであるSisyphusの子Aloeusの子Aloeusが、Sicyonの町からAnthedonの町へ移住して来たと推定される。

推定の根拠の一つは、AloeusとIphimedeiaの2人の息子たち、OtusとEphialtesの墓がAnthedonの町にあったと伝えられていることである。[26]

もう一つは、Aloeusの妻Iphimedeiaと娘のPancratisがThraciansによって、Thessaly地方のPhthiotisの近くから拉致されたと伝えられることである。

彼女たちが拉致された場所は、Sicyonの町ではなくAnthedonの町と思われることである。[27]

この当時、Thebesの町から北北東へ約12kmの所に、Athamasの子Schoenusが創建したSchoinosの町があったが、Anthedonの町は、そこからさらに北東へ約12kmの海岸の近くにあった。[28]

Athamasの子Schoenusは、Sisyphusの子Aloeusの子Aloeusにとっては、父の従兄弟であった。[29]

また、Aloeusの父の兄弟Aeetesは、Colchisへ移住しており、Anthedonの町は、Colchisへ向けての航海に適した位置にあった。[30]

 

5 Ascraの歴史

BC1332年、Ascraの子Oeoclusは、Aloeusの2人の息子たち、OtusとEphialtesと共に、Asopus川源流付近にAscraの町を創建した。[31]

Oeoclusの母Ascraは、Sisyphusの子Aloeusの娘で、Ascraの夫は、Sisyphusの子Thersanderの子Haliartusであったと思われる。

Haliartusは、Athamasの養子で、Haliartusの町の創建者であった。[32]

Oeoclusは、Haliartusの町から南へ移住して、Ascraの町を創建した。

Oeoclusに協力した、Aloeusの息子たちとは、Sisyphusの子Aloeusを共通の祖父とする従兄弟同士であったと推定される。

 

6 Aulisの歴史

Pausaniasは、Aulisの町の名前がOgygusの娘の名前に因んだものだという伝承を記している。[33]

その伝承が真実であれば、Aulisの町の創建は、BC1720年頃で、Aulisの町は、Boeotia地方で最古の町になる。

Aulisの町の港は、多数の艦船の集結に適していた。

BC1205年、Epigoni率いるArgivesは、Argosの町から海路でAulisの町に上陸した後で、Thebesの町へ進軍した。[34]

BC1188年、AchaeansのTroy遠征に参加する船がAulis港に集結後、Troyへ向かった。[35]

BC1126年、Orestesの子Penthilus率いる植民団に参加する船がAulis港に集結後、Asia Minorへ向かった。[36]

BC396年、Sparta王Agesilaus IIは、Aulis港からAsia Minorへ出発した。[37]

 

7 Chaeroneia (Arne)の歴史

BC1186年、Thessaly地方のArneの町に住んでいたBoeotiansは、Greece北西部からThessaly地方に侵入したThesproteansに追われて、Boeotia地方へ移住した。

予言者PeripoltasやPeneleosの子Opheltesに率いられたBoeotiansは、Boeotia地方の西部辺境の地に定住して、町をArneと呼んだ。[38]

BC1126年、Opheltesの子Damasichthonは、Thebesの町に住むCadmusの後裔Autesionを追い出し、Orchomenusの町をも併合して、Boeotia地方全域を支配下に置いた。[39]

このとき、Orchomenusの町の一部の住人は、Theroの子Chaeronに率いられて、Boeotiansが退去したArneの町に移住して、町の名前をChaeroneiaに変えた。[40]

Chaeroneiaの町は、亡命中のAthensの町から帰還したOrchomeniansが創建したと思われ、Theroの祖父Iolais(or Iolaus)は、Presbonの子Clymenusの後裔であったと思われる。[41]

Iolaisの時代にTrojan Warがあり、Orchomenusの町からも遠征に参加した。Iolaisは戦士の年齢に満たないためにOrchomenusの町に残っていた。手薄になったOrchomenusの町にThraciansが侵入して、町を占拠した。[42]

また一部のOrchomeniansは、Athensの町に受け入れられて、Munychiaに住んだ。[43]

Iolaisの娘Leipephilene(or Leipephile)は、Antiochusの子Phylasと結婚し、娘Theroが生まれた。[44]

Antiochusは、HeraclesとDryopesのPhylasの娘Medaとの間の息子で、Athensの町の名祖の一人であった。[45]

したがって、Theroの子Chaeronと共にChaeroneiaの町の創建者となった住人は、3世代に渡ってAthensの町で亡命生活をしていたOrchomeniansであった。

しかし、Chaironeiaの町の近くのLebadeiaの町やStirisの町には、Athensの町からの移住者が住んでおり、Orchomenusの町とAthensの町の対立にChaironeiaの町も巻き込まれた。[46]

BC424年、Chaironeiaの町は、Boeotia領Orchomenusの町の管轄下にあった。

Atheniansは、Chaironeiaの町の内部から反乱を起こさせようとしたが失敗し、Chaironeiaの町はBoeotiansによって救われた。[47]

 

8 Copaeの歴史

BC1256年、Orchomenusの町とThebesの町の戦いがあり、Orchomenusの町が敗れた。[48]

Onchestusの子Plataeusの子Copaeusは、Onchestusの町から追い出されてCopais湖の北へ移住して、Copaeの町を創建した。[49]

 

9 Coroneiaの歴史

9.1 Trojan War以前

BC1371年、Thersanderの子CoronusがCopais湖の南西にCoroneiaの町を創建した。CoronusはAthamasの養子になって、領地を分け与えられたと伝えられる。Athamasが彼の兄弟Sisyphusの子Thersanderの子Coronusを呼び寄せて、入植させたものと思われる。[50]

BC1325年、AmphionとZethusのThebes攻めのときに、Boeotusの子Itonusと共にCoroneiaの町の住人も参加したと思われる。

Thebes攻めには、Locris地方のPhysciusとMaeraとの間の子Locrusも姉妹Thebeの夫Zethusとの縁で参加した。Maeraの父Proetusは、Coroneiaの町の創建者Coronusの兄弟であった。[51]

Coroneiaの町の近くには、Itonian Athenaの神域があった。[52]

Itonian Athenaは、Amphictyonの子Itonusに由来するもので、Coroneiaの町付近以外では、Thessaly地方のItonusの町や、Pheraeの町とLarisaの町との間、そして、Arneの町の近くにあった。[53]

Arneの町は、Boeotusが祖父Aeolusから受け継いだ町であり、Itonusの町は、Boeotusの父Itonusが創建した町であった。[54]

また、Amphictyonの子Physciusの子Locrus率いるLelegesも、AmphionとZethusによるThebes攻めに参加した。[55]

戦いの後で、Locris地方のLelegesも、Boeotiansと共にCoroneiaの町の共住者となったと思われる。Aristotleは、LelegesがBoeotia地方を領したと伝えている。[56]

Lelegesとは、特定の種族に属さない混血した人々のことだと、Dionysius of Halicarnassusが記している。[57]

Argives、Thebans、Arcadians、Pisaeans、それに、Phthiansが、Locriansと共にOpusの町を建設して混住し、Lelegesと呼ばれるようになった。[58]

Aristotleが記しているLelegesは、そのLocriansにBoeotiansが混血した人々のことを意味しているようである。

BC1188年、Troy遠征で手薄になったCoroneiaの町に、Pelasgiansが侵入して住民を追い出し、町を追われた人々は父祖の地であるThessaly地方のArneの町へ逃れた。[59]

2年後、Arneの町はThesprotiansの侵入を受けて、住民の一部は、Peneleusの子Opheltesと共にBoeotia地方へ帰還した。しかし、彼らはCoroneiaの町を奪還することができずに、後のChaeroneiaの町となる土地に定住して、Arneの町を創建した。[60]

Thessaly地方のArneの町には多くの住人が、penestaiと呼ばれる奴隷身分となって残留し、3代目まで住み続けた[61]

 

9.2 Trojan War以後

Trojan Warの60年後、Thessaly地方のArneの町に残留していた人々も町を追い出され、Boeotia地方へと逃れた。彼らは、先に帰還していた人々と共に、Opheltesの子Damasichthonを指導者として、Coroneiaの町を占拠していたPelasgiansを追い出し、近くのOrchomenusの町をも併合した。[62]

さらに、Damasichthonは、Tisamenusの子AutesionをThebesの町から追い出して、その後、Boeotia地方と呼ばれる地方全域を支配下に置いた。[63]

Damasichthonは、Boeotiansの名祖であるAeolusの娘Melanippeの子Boeotusの後裔であり、Boeotiansの総領であった。地方の名称がBoeotiaとなったのは、彼がThebesの町の主となった後のことであった。[64]

 

10 Eleutheraeの歴史

BC1370年、Aethusaの子Eleutherは、Hysiaeの町からCithaeron山を南に越えて移住して、Eleutheraeを創建した。[65]

Eleutheraeの町は、Cadmusの移民団に含まれていた者たちの後裔によって建設された町で、Boeotia地方にあった。[66]

その後、Eleutherの子Iasiusの子Chaeresilausの子Poemanderが東へ移住して、Tanagraの町を創建した。[67]

後に、Thebesの町の支配者は、Cadmusの後裔から、Boeotiansになったが、Eleutheraeの町の住人は、彼らに従わなかったようである。

Homerの軍船目録に、Eleutheraeの町やTanagraの町は、登場しない。

AdrastusによるThebes攻めのとき、Thebesの町のCreonは、戦死した将兵たちの遺体の埋葬を禁止した。Theseusは、Thebesの町から将兵たちの遺体を引き取り、将官はEleusisの町に、兵士はEleutheraeの町に埋葬した。[68]

既に、この頃からEleutheraeの町は、Athensの町に好意を寄せており、後に、Attica地方の町になった。[69]

 

11 Eutresisの歴史

BC1345年、AmphionとZethusは、Eleutheraeの町からMt. Cithaeronを北に越えて移住した。

彼らは、Thebesの町をHypsistan gateから出てLeuktraの町へ向かって約14km進んだ所にEutresisの町を創建した。[70]

Eutresisの町は、Thespiaeの町とPlataeaの町を結ぶ街道沿いにあり、AmphionとZethusによる城壁で囲まれていた。[71]

 

12 Haliartusの歴史

12.1 Dionysusの誕生

Cadmusの娘Semeleの子Dionysusは、Haliartusの町にあるCissusaの泉で生まれてすぐ乳母に洗われたと伝えられている。[72]

後に、Thraciansの捕虜となったThebansが、Haliartusの町でDionysus神に助けられたとも伝えられ、DionysusのHaliartus生誕地説に真実味を与えている。[73]

しかし、Dionysus誕生時、Haliartusの町は創建されておらず、そこにはHyantesが住んでいた。[74]

恐らく、CadmusとHyantesとの戦いは、長期にわたり、SemeleはHyantesの捕虜となってDionysusを生んだと思われる。

 

12.2 Haliartusの創建

BC1370年、Thersanderの子Haliartusは、Haliartusの町を創建した。Haliartusは、Athamasの養子であった。[75]

 

12.3 Thebesとの戦い

BC1279年、Haliartusの町のAlopekosとThebesの町との戦いがあった。Thebansは、Athensの町から逃れて来たDeion (or Deioneus)の子Cephalusに戦いを任せた。Cephalusは、Minosの将CynasをAlopekosに差し向けて、勝利した。[76]

このAlopekosは、Thersanderの子Haliartusの孫で、Minosとの戦いで死んだHippomenes (or Oncestus)の子Megareusの従兄弟と思われる。

Haliartusの町は、Orchomenusの町とThebesの町との中間に位置し、必然的に両者の勢力が衝突したと思われる。

BC1256年には、Haliartusの町から少しThebesの町寄りのOnchestusの町で、Minyansの王ClymenusがThebansに殺される事件が起きた。[77]

 

12.4 Persian War

Pausaniasは、Persian WarでHaliartusの町がGreece側に味方したため、Persiansによって破却されたと伝えている。[78]

しかし、Herodotusは、Persia大王Xerxesに土と水を献じなかったのは、Boeotiansの中でPlataeansとThespiansだと伝えている。[79]

Herodotusは、ThebansがPlataeaの町とThespiaeの町は敵方だと進言したために、Persia軍に焼かれたと伝えている。[80]

Herodotusは、Persian Warについて詳細に伝えているが、まったく、Haliartusの町について言及していない。また、Xerxesが主力部隊を率いてBoeotia地方に侵入したとき、Amyntasの子Alexanderは、町に危害が加えられないようにMacedonia兵を各町に配置した。

Pausaniasは、Plataeaの町かThespiaeの町のことをHaliartusの町の出来事と勘違いしたのではないかと思われる。

 

12.5 Haliartusの破壊

BC424年、The Battle of Deliumで、Haliartusの町はAthensの町に敵対してBoeotiansの戦列の中央でCoronaeansやCopaeansと共に戦った。[81]

BC395年、SpartansとThebansとの戦いの舞台となったHaliartusの町には、Spartiがいた。

Trojan Warの60年後にThessaly地方のArneの町から移住して来たBoeotiansがThebesの町の支配者になった後で、Haliartusの町もその支配下に入ったと思われる。[82]

BC171年、MacedoniaとRomeの戦いで、Haliartusの町はMacedoniaに味方したため、Romeの執政官Lucretiusによって町は破壊された。Haliartusの町の住民約2,500人は奴隷として売られ、町の領土はAthensの町に与えられた。[83]

 

12.6 Cecropsの英雄廟

Pausaniasは、Haliartusの町にPandionの子Cecropsの英雄廟があったと記している。Haliartusの町がAthens領になってから、町が古くからAthensの町の支配下にあったかのように見せるために造営したと思われる。[84]

しかし、Cecropsは一般的な伝承ではErechtheusの息子である。英雄廟の造営者は、BC2世紀のCastorの年代記を参照したものと思われる。[85]

Castorは、第7代Athens王Cecropsを第5代Athens王Pandionの子Erechtheusの兄弟と記している。[86]

 

13 Hyria (Euboea)の歴史

13.1 Euboeaの創建

Cadmusが移民団を率いて立ち寄ったSamothrace島には、少し前に、Dardanusに率いられてArcadia地方から移住して来たPelasgiansがいた。彼らの中に、Megassares一家もいて、Cadmusの移民団に参加した。Megassaresの妻Alcyoneは、Cadmusの妻Harmoniaの母Electraの妹であった。[87]

BC1420年、Megassaresは、Euboea島への渡り口付近のBoeotia地方の土地に定住して、Euboeaと呼ばれる町を創建した。

Apollodorosは、Hyrieusの息子たち、NycteusとLycusは、Phlegyasを殺害して、「Euboea」から「Hyria」へ逃亡したと伝えている。[88]

次のことから、「Euboea」は、Aulisの町近くのHyriaの町の古い名前で、「Hyria」は、Cithaeron山麓のHysiaeの町と推定される。

1) Hyrieusの息子たちは、Hyrieusの名前に因むHyriaの町に住んでいた。[89]

2) Cithaeron山麓のHysiaeは、Hyriaとも呼ばれていた。[90]

 

13.2 Hyriaの創建

Megassaresの息子と思われるHyrieus (or Chthonius)は父の跡を継いで、Euboeaの町のすぐ近くにHyriaの町を創建した。[91]

MegassaresをHyrieusの父と推定したのは、つぎの理由からである。

Megassaresの名前は、ApollodorosがSyriaからCiliciaへ移住して、Celenderisの町を創建したSandocusの妻Pharnaceの父であり、Hyriaの王として伝えているだけである。

Sandocusは、初代Athens王Cecropsの娘Herseから5代目の子孫であった。[92]

Athens王の在位から逆算するとCecropsは、BC1596年生まれと推定され、1世代間を男25年、女20年とすれば、Sandocusは、BC1445年生まれと推定される。

したがって、Sandocusの妻Pharnaceの父Megassaresは、BC1465年生まれと推定される。

一方、NycteusはHyrieusの息子であり、Nycteusの娘Nycteisの夫は、Cadmusの子Polydorusであった。[93]

つまり、NycteusはCadmusと同世代であり、 Nycteusの父Hyrieusは、Cadmus時代のSpartiのひとりで、Chthoniusとも呼ばれていた。[94]

また、Nycteusが建設したHysiaeの町は、Hyriaの町の植民市であったことから、Nycteusの父Hyrieusは、Hyriaの町に住んでいたと思われる。[95]

以上のことから、Hyrieusの父は、ApollodorosがHyriaの王として伝えているPharnaceの父Megassareと推定される。[96]

 

13.3 Italyへの移住

BC1390年、Messapusは、Hyriaの町からItaly半島東南部へ移住した。[97]

Messapusは、MegassaresとOrchomenusの娘Alcyoneとの息子Hyrieusの息子と推定される。[98]

Messapusが入植したPeucetia地方は、Messapia地方と呼ばれるようになった。[99]

Messapia地方には、Hyriaの町があった。Herodotusは、その町の創建者をDaedalusの子Iapyxと伝えているが、Messapusが創建した町と思われる。[100]

 

14 Hysiaeの歴史

BC1390年、大津波がEuripus海峡近くの町を襲い、Hyriaの町も被災した。Hyrieusの2人の息子たち、NycteusとLycusは、Hyriaの町から南西方へ約33km離れたCithaeron山麓にHysiaeの町を創建した。[101]

NycteusとLycusがPhlegyasを殺害して、EuboeaからHyriaの町に逃れたという伝承がある。[102]

Hyriaは、Hysiaeを指した呼び名だとも伝えられ、このEuboeaは島ではなく、Aulis付近の地名で、恐らく、Hyriaの町の古い名前と思われる。[103]

 

15 Lebadeiaの歴史

15.1 Lebadeiaの創建

BC1260年、Lebadusは、Athensの町からMideiaの町へ移住して、Mideiaの町の下方にLebadeiaの町を創建した。Mideiaの町の住人は、Lebadeiaの町へ移り住んだ。[104]

Lebadeiaの町の西南西11kmのPhocis地方のStirisの町は、Athensの町のAegeusに追われたOeneusの子Peteusが創建した町であった。Lebadusは、Peteusの兄弟で、彼と同じ時期に、Aegeusに追われて移住したものと推定される。[105]

BC1209年、Orneusの子Peteusの子MenestheusがAegeusの子Theseusを追い出してAthens王に即位した。[106]

その時、Atheniansは、Lebadeiaの町からAthensの町へ戻ったと推定される。

 

15.2 Trojan War

Trojan Warの時代、Lebadeiaの町にはBoeotiansが住んでいたようであり、Boeotusの子Itonusの子Archilycusの子Arcesilausは、Boeotiansを率いてTroyへ遠征した。[107]

Arcesilausの従兄弟Lacritusの子Leitusは、Arcesilausの遺骨を持ち帰って、Lebadeiaの町に埋葬した。

したがって、Lebadeiaの町は、Orchomenusの町やCoroneiaの町とは異なり、ThraciansやPelasgiansに占領されなかったものと思われる。[108]

 

15.3 Trophoniusの神域

Lebadeiaの町は、Trophonius神に捧げられた町であった。[109]

このTrophoniusは、Orchomenus王Erginusの息子で、Agamedesと兄弟であり、Delphiの神殿などを建築した名工であったとも伝えられている。[110]

しかし、Erginusの死後、TrophoniusやAgamedesではなく、Erginusの兄弟の後裔が王位を継承しているので、Erginusの息子たちは、創作された人物と思われる。[111]

Trophoniusには子供たちがいて、娘の名前はHercynaであった。[112]

Trophoniusの神域がいつ頃からあったのかは定かではないが、少なくとも、BC7世紀には既に有名な神域であったことは確かである。

第2次Messenia戦争で、Aristomenesが紛失した楯をTrophoniusの神域から取戻し、後にAristomenesはLebadeiaに楯を奉納したという伝承がある。[113]

また、BC6世紀にLydia王Croesusが神託を試すために使者を送った神託所の一つに、Trophoniusの神託所も名前が挙がっていた。[114]

BC1世紀、Romeの将軍SullaがLebadeiaの町を荒らし、神託所から宝物を持ち去った。[115]

Pausaniasが伝えているLebadeiaの町にあったTrophoniusの木彫神像がMinosと同時代のDaedalusの作品に間違いなければ、Trophoniusは既にBC13世紀には神として崇められていたことになる。[116]

 

16 Leuctraの歴史

Leuctraの町の名付け親は、Leuctraの戦いより前の時代に、その地でLacedaemoniansに乱暴されて自害したことで有名になった娘の父Leuctrusだと伝えられる。[117]

BC371年のLeuctraの戦いより前の時代のLeuctraの町については、不明である。

恐らく、AmphionとZethusが創建したEutresisの町か、Thespiaeの町の人々が住んでいた小さな集落であったと思われる。[118]

 

17 Medeonの歴史

BC1150年、Pyladesの子Medonは、Cirrhaの町から東へ移住して、Phocis地方にMedeonの町を創建した。[119]

Homerは、軍船目録の中で、Boeotia地方のMedeonの町の名前を挙げているが、その町はAgamemnonの時代には存在していなかった。[120]

Boeotia地方のMedeonの町の名前は、Phocis地方のMedeonの町の名前に因んで名付けられた。[121]

Homerが「well-built citadel」と形容しているMedeonは、Trojan Warより、少なくとも2世代以上後に創建された。

 

18 Ocaleaeの歴史

BC1263年、MinosとAthensの町との戦いで、Haliartusの町のMegareusがMegaraの町に加勢して戦死した。[122]

この戦いの後で、Minosの兄弟RhadamanthysがOcaleaeの町へ移住した。[123]

このとき、Crete島から移住した人々は大きな集団であったと思われる。

Ocaleaeの町には、Crete島産のstorax-shrubの群生があった。[124]

Haliartusの町では、TheodaesiaというCrete島の祭りが催されていた。[125]

BC1256年、MinyansとThebansとの戦いでは、Rhadamanthysは、Thebesの町に加勢して、勝利に貢献したと思われる。この戦いで戦死したAmphitryonの妻Alcmenaは、Rhadamanthysと再婚した。[126]

BC4世紀にSparta王Agesilausは、Rhadamanthysの妻Alcmenaの墓をSpartaの町へ改葬した。

その時、Alcmenaの墓に、Egypt文字に似た古代文字が書かれた青銅板があるのを発見した。[127]

Agesilausは、その青銅板の碑文の写しをEudoxus of Cnidosに託して、Egyptの王Nectanabisに送って解読した。[128]

 

19 Onchestusの歴史

19.1 Onchestusの創建

Onchestusの町の周辺には、Cadmusによって、Thebesの町の周辺から追い出されたHyantesが住んでいた。その後、Hyantesは、Aeoliansが、Coroneiaの町やHaliartusの町を建設したため、Copais湖の西側へ移動した。[129]

Onchestusの町はHaliartusの町に隣接し、系図を作成するとHaliartusの町の創建者Haliartusと、Onchestusの町に住むMegareusとの間は、1世代の余白がある。

Megareusの父の名前は、HippomenesともOnchestusとも伝えられるが、Haliartusの町を出て、Onchestusの町を創建した人物と思われる。[130]

BC1320年、Haliartusの子Hippomenesは、Haliartusの町から東南東へ移住して、Onchestusの町を創建した。[131]

 

19.2 Onchestusからの移住

BC1263年、Hippomenesの子Megareusは、Minosとの戦いで、Megaraの町のNisusに援軍として駆け付けて戦死した。Nisusは、Megareusの妻Iphinoeの父であり、Megareusの姉妹Habroteの夫でもあった。[132]

BC1256年、Minyansの王Clymenusが、Onchestusの町でThebesの町のCreonの子Menoeceusの御者Perieresに殺された。[133]

Clymenusの子Erginusは、Thebesの町に攻め込み勝利するが、その後の戦いで、Thebesの町に敗れた。[134]

Onchestusの町を父Megareusから継承したHippomenesは、Thebans、あるいは、Rhadamanthysと共に移住して来たCretansに圧迫されて、Arcadia地方へ移住した。[135]

また、Onchestusの子Plataeusの子Copaeusも、Copais湖対岸へ移住してCopaeの町を創建した。[136]

 

20 Plataeaの歴史

20.1 Trojan War以前

Plataeaの町の創建者は、Thebesの町のLabdacusの子Laiusの遺体を葬ったPlataea王Damasistratusと推定される。[137]

Plataeaの町の名前は、Asopus河神の娘Plataeaに因むとされる。Plataeaは、同じAsopus河神の娘と伝えられるTanagraと同年代と思われる。[138]

Tanagraの夫は、Aethusaの子Eleutherの子Iasiusの子Chaeresilausの子Poemanderで、Cithaeron山の南麓のEleutheraeの町に住んでいた。[139]

BC1295年、Damasistratusは、Chaeresilausの弟で、Eleutheraeの町からCithaeron山を北に越えた土地にPlataeaの町を創建した。[140]

これより前に、Eleutherの2人の息子たち、AmphionとZethusがEleutheraeの町からCithaeron山を北に越えて、Eutresisの町を創建していた。[141]

Amphionは、Laiusの後見人であり、Damasistratusの伯父であった。伝承では、Damasistratusが偶然Laiusの遺体に出会ったように伝えられているが、Laiusと共に行動していたものと思われる。[142]

Damasistratusの先祖Aethusaは、Hyriaの町のHyrieusの妹であり、Plataeaの町の住人は、Arcadia地方に祖先を持つPelasgiansであった。[143]

Plataeaの町には、Androcrates、Leucon、Pisandrus、Damocrates、Hypsion、Actaeon、Polyidus、Cylaeusという支配者がいたようであるがいつの時代かは不明である。[144]

 

20.2 Trojan War以後

BC1126年、Thessaly地方のArneの町に住んでいたBoeotiansが、Thebesの町を占領した。[145]

Boeotiansは、Boeotia地方全域に居住範囲を広げたが、Plataeaの町の住人は、Boeotiansに追い出されずに、そのままであったと推定される。[146]

BC517年、Plataeaの町は、Thebesの町との間に土地の境界をめぐって争ったが、同盟を結んでいたAthensの町の助力によって、Asopus川をThebesの町との間の境にした。[147]

この恩に報いるため、BC490年、Arimnestusは、Plataeans 1,000人を率いてAthensの町へ駆け付けて、Marathonの戦いに参加し、Athens軍の左翼を守った。[148]

Plataeansがいなければ、Athensの町のMiltiadesは、Spartaからの援軍を待つことになり、戦いの趨勢は予想が付かなくなっていたかもしれない。[149]

BC480年、ThebansがPersia軍にPlataeaの町は敵方だと進言したために、Thespiaeの町と共にPlataeaの町はPersia軍に焼かれた。[150]

BC479年、Greece軍は、Plataeaの戦いでPersia軍に勝利し、Cleombrotusの子Pausaniasは、Plataeaでの戦勝を記念して、Plataeaの領土の不可侵を宣言した。[151]

Plataeansは、Plataeaの戦いでAtheniansの戦列の中にいたと思われる。[152]

BC431年、Leontiadesの子Eurymachusは、Thebansを率いてPlataeaの町を占領しようとして失敗し、捕虜になって処刑された。[153]

BC429年、Plataeaの町は、Peloponnesus同盟勢に包囲された。[154]

籠城者は、Plataeans 400人、Athenians 80人、婦女子 110人であった。[155]

BC427年、Plataeans 212人が包囲を脱してAthensの町へ避難したが、残りの籠城者は、食糧が尽きて投降した。Plataeans 200人以上、Athenians 25人は処刑され、婦女子は奴隷として売られた。[156]

BC421年、Athensの町に避難していたPlataeansに、Athensの町が奪ったChalcidice半島のScioneの町が与えられた。[157]

その後、Scioneの町に住んでいたPlataeansは、SpartaのLysanderによってChalcidice半島を追われてAthensの町へ戻った。[158]

この出来事は、Athensの町がPeloponnesus同盟に降伏したBC404年からLysanderが死去したBC395年の間と推定される。

BC387年、PlataeansはAntalcidasの和約によりPlataeaの町へ帰還することができた。[159]

BC374年、Plataeaの町はThebansに占領され、住人はAthensの町へ避難した。[160]

BC338年、Chaeroneaの戦いの後で、Macedonia王Philipは、Thebansに追放されてAthensの町へ避難していたPlataeansを町へ帰還させた。[161]

Alexander the Greatは、Plataeaの戦いの際に、Plataeansが領土をGreece軍に献じた行いを賞賛して、Plataeansに返還することを宣言した。[162]

BC316年、Antipaterの子Cassanderは、Alexander the Greatによって破壊されたThebesの町を再建した。Thebesの町へ帰還したThebansは、Plataeansと和解した。[163]

Thebansが執拗にPlataeansを攻撃したのは、Argosの町がMycenaeの町を破壊した理由と同じく、嫉妬によるものかもしれない。[164]

 

21 Schoenusの歴史

BC1380年、Athamasの子Schoeneusは、Acraephniumの町からThebesの町とAnthedonの町の間へ移住して、Schoenusの町を創建した。[165]

Schoenusの町の創建者をAthamasの子Schoeneusと明示している伝承はない。

次のことから、推定される。

1) Schoenusの町の中をSchoenus川が流れていた。[166]

2) Schoenus川は、Athamasの子Schoeneusに因んで名付けられた。[167]

BC1256年、Orchomenusの町とThebesの町の戦いがあり、Orchomenusの町が敗れた。[168]

Athamasの子Schoeneusの後裔Schoeneusは、Schoenusの町から追い出されてArcadia地方へ移住した。[169]

 

22 Tanagraの歴史

22.1 Phoeniciaからの移住

BC1420年、Phoenicia地方からCadmusに同行したGephyraeansは、Tanagra周辺を割り当てられて定住した。[170]

Gephyraeansの定住地は、Boeotia地方を西から東へ流れるAsopus川の下流域であった。

 

22.2 Eunostusの英雄廟

BC6世紀のAnthedonの女流詩人Myrtisが書いた抒情詩は、Tanagraの町のCephisusの子Eunostusのことを伝えている。[171]

Eunostusの父Cephisusは、第6代Athens王Erechtheusの妻Praxitheaの母Diogeniaの父と推定される。Erechtheusの時代、Tanagraの町はまだ創建されておらず、Gephyraの町と呼ばれていた。[172]

Gephyraの町には、Cadmusと共にBoeotia地方へ移住して来たPhoeniciansの支族Gephyraeansが住んでいた。[173]

BC1415年、Attica地方に侵入したEumolpusに追われて、Atheniansは、Gephyraの町の近くへ避難して、Gephyraeansに受け入れられた。[174]

この避難が、ErechtheusとPraxitheaとの婚姻を成立させたと思われ、Praxitheaの祖父Cephisusは、Gephyraeansの首領であったと思われる。[175]

Praxitheaに同行してAthensの町へ移住したGephyraeansは、Athensの町へPhoenician lettersをもたらした。

その後、Phoenician lettersから、Homerの師Pronapidesの時代まで使用されていたPelasgic lettersが発明された。[177]

古代のAtheniansは、Pelasgiansであった。[178]

Myrtisの時代、Tanagraの町のEunostusの英雄廟には、その由緒が記された銘板があったのかもしれない。

 

22.3 Tanagraの創建

BC1270年、Chaeresilausの子Poemanderは、Cithaeron山南麓のEleutheraeの町からGephyraと呼ばれていた地方へ移住して、彼の妻の名前に因んだTanagraの町を創建した。[180]

 

22.4 Hyrieusの子Orion

Hyrieusの子Orionは、Euripus海峡近くのHyriaの町で生まれた。[181]

Orionの子Dryasは、AdrastusのThebes攻めのとき、Tanagraの町から弓兵1000人を率いて、Thebesの町へ駆け付けた。[182]

Orionの娘Mecionice(or Mecionica, Menodice)とDryopia地方に住むTheiodamasとの間の息子Hylasは、Heraclesの侍童であった。Hylasの兄弟Euphemusの妻Laonomeは、Heraclesの姉妹であった。[183]

Euphemusの後裔Polymnestusの子Battusは、LibyaのCyreneの町の創建者となった。[184]

Orionの墓は、Tanagraの町にあった。[185]

星座に名前を与えたOrionは、Crete島のMinosの娘Euryaleの子Orionだとする伝承もあるが、Tanagraの町に関係するHyrieusの子Orionの方が妥当と思われる。[186]

Tanagraの町に定住したPhoeniciansが、Babiloniansから伝えられた「天の狩人(the heavenly hunter)」という星座をGreeksに伝え、Greeksは、Orionをその星座の名前にしたと思われる。

 

22.5 Athensへの移住

BC1200年、Tanagraの町周辺に定住していたGephyraeansは、Chaeresilausの子Poemanderの孫Poemanderに追われ、Athensの町へ移住した。[187]

EpigoniのThebes攻めによって、Cadmusと共にBoeotia地方へ移住して来た人々の後裔が他に移住して、新参のBoeotiansとの間の勢力の均衡が崩れた結果であった。

AtheniansがGephyraeansを受け入れたのは、Eumolpusに追われたときの恩返しでもあった。第6代Athens王Erechtheusの姻戚関係によって、AtheniansとGephyraeansは、古くから交流があった。[188]

 

22.6 Achaeansの攻撃

Plutarchは、Peleusの子Achilles率いるAchaeansが、遠征参加を拒否したTanagraの町を攻撃したことを伝えている。[189]

この遠征は、Troy遠征とは異なる遠征と思われ、Thessaly地方のPhthiaの町に住むAchillesの影響力が、Boeotia地方にまで及んでいたことが分かる。

 

22.7 Troy遠征

恐らく、Tanagraの町は、Troy遠征に参加しなかった。

Homerの『軍船目録』にBoeotia地方からの軍勢にGraeaの町の名前が挙がっており、その町が、Tanagraの町の別名だとする説もある。[190]

つまり、極めて長生きしたTanagraの町の名祖TanagraをGraea(老女)と呼んだことから町の名前も、一時期、その名前で呼ばれたというのである。[191]

しかし、好んで古い名前を使用したHomerが一時的な名前を採用したとは思えない。

Tanagraの町を古い名前で呼ぶのであれば、Homerは、Tanagraより古い時代の名称Gephyraと呼んでいたと思われる。[192]

 

22.8 Trojan War以後

BC456年、BoeotiansとAtheniansとの戦いにTanagraeansも参加して敗れ、町の城壁は破壊され、Tanagraの町はAthensの町の支配下に入った。[193]

Boeotia地方で、Rome時代まで存続していたのは、Tanagraの町とThespiaeの町だけであった。[194]

 

23 Thespiaeの歴史

23.1 Athensからの移住

BC1275年、第8代Athens王Pandionの子Teuthrasは、義兄弟Aegeusから逃れてBoeotia地方へ移住してThespiaeの町を創建した。[195]

その地には、BC1325年、Thessaly地方からBoeotia地方へ移住して来たBoeotusの子Itonusの後裔を指導者とするBoeotiansが住んでいた。Troy遠征にItonusの子Areilycusの2人の息子たち、ArcesilausとProthoenorがThespiaeの町から参加した。[196]

Boeotiansは、Thebesの町のCadmeansとの間に争いがあったので、Teuthrasと共に移住して来たAtheniansを共住者として、歓迎した。しかし、後にBoeotiansがCadmeansに代わってThebesの町の支配者になると、この共住が争いの原因になった。恐らく、Atheniansを祖先とする住人がBoeotiansより多くなり、Thebesの町から攻撃されることになった。

 

23.2 Macedoniaからの移住

BC1250年、Pierusの子Linusの子Pierusが、Macedonia地方のPieriaからThespiaeの町へ移住して来た。[198]

Pierusは、有名な詩人Orpheusの父Oeagrusの父であった。[199]

PierusのことをStraboは、Helicon山をMusesの神域にしたThraciansと伝えている。[200]

 

23.3 Sardiniaへの移住

BC1236年、Heraclesは、Thespiusの孫たちを甥Iolausに率いらせて、Sardinia島へ植民させた。[201]

この植民には、Atheniansも参加して、Sardinia島北東部にOlbiaの町を創建した。[202]

Iolausの植民団はAthensの町が単独で送り出した最初の遠征隊であり、Prytaneumから出発したAthens公認の正式な植民団であった。[203]

Heraclesは、Thespiaeの町の近くの牛飼場にいたことがあり、Teuthrasの子Thespiusとは親交があった。[204]

BC1188年、Itonusの子Areilycusの2人の息子たち、ArcesilausとProthoenorは、Thespiaeの町からTroy遠征に参加した。[205]

 

23.4 Thessaliansの侵入

BC594年、Lattamyas率いるThessaliansがBoeotia地方に侵入した。

Lattamyasは、Thespiaeの町の近くでThebansと戦い、戦死した。[206]

このThessaliansは、少し前にAmphictyonsの一員として、Phocis地方のCirrhaの町攻略に参加した人々であった。

この時、Thespiansは、Ceressusに逃げ込んで難を逃れた。[207]

Thessaliansが侵入したのは、Leuctraの戦いの200年以上前のことであった。[208]

 

23.5 Persiansの侵入

BC480年、Boeotiansの中でPlataeansとThespiansは、Persia大王Xerxesに土と水を献じなかった。[209]

Thermopylaeの戦いには、Thebansが400名参加したのに対して、Thespiansは700名が参加した。[210]

Diadromesの子Demophilusに率いられたThespiansは、ThermopylaeでSpartansと運命を共にし、Harmatidesの子Dithyrambosが勇武で名を馳せた。[211]

ThebansがPersiansに、Thespiaeの町は敵方だと進言したために、Thespiaeの町はPlataeaの町と共にPersia軍に焼かれた。[212]

このとき、ThespiansはPeloponnese半島へ退避していた。[213]

 

23.6 その他

BC479年、1800人のThespiansが、Plataeaの戦いに参加した。[214]

BC424年、Thespiansは、Tanagraの町近くのDeliumの戦いに参加して、Atheniansと戦った。Thespiansは、戦いの勝利に貢献したが、全滅した。[215]

BC423年、Thebansは、以前からAtheniansと親しかったThespiaeの町の城壁を取り壊した。[216]

BC414年、Thespiansの民衆派が政権奪取に失敗して、一部はThebansに捕まり、他はAthensの町へ亡命した。[217]

BC413年、LacedaemoniansのSicily遠征にThespiaeの町からHegesanderが参加した。[218]

BC374年、ThebansはPlataeaの町を占領し、Thespiaeの町を略奪した。[219]

BC371年、Thespiansは、Leuctraの戦いの前に戦列を離れて帰還したため、戦いの後で、Thebansによって町から追放された。[220]

しかし、Boeotia地方で、Rome時代まで存続していたのは、Tanagraの町とThespiaeの町であった。[221]

 

おわり

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