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第24章 ポキス地方の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2025.10.30

1 はじめに

Phocis地方は、古代ギリシア人発祥の地であり、聖なる河Cephisusの流れが始まる所でもあった。[1]

Cephisusという名前は、古代ギリシア人の居住地の広がりと共に各地の川に名付けられ、古代ギリシア世界で最も多い川の名前であった。

また、Phocis地方には、ギリシア最古の神託所のひとつDelphiがあった。

Delphiには、Omphalusと呼ばれる石があり、古代ギリシア人は、その石があった場所が世界の中心であると考えていた。[2]

その地方がPhocisという名前で呼ばれるようになったのは、Aeacusの子Phocusの息子たちが、その地方内の各地に居住地を広げた後であった。

Aeacusの子Peleusの子Achillesの時代、つまり、Trojan War時代の頃からである。

 

2 Ogygus時代の大洪水

2.1 洪水の発生した年

AD4世紀の歴史家Eusebiusは、『Chronography』の中で、Atheniansの先祖Ogygusの時代に大洪水があり、初代Athens王Cecropsの即位まで、190年であったと記している。[3]

BC2世紀の年代記作者Castor of Rhodesによれば、CecropsのAthens王即位は、BC1561年である。[4]

したがって、Ogygus時代の大洪水は、BC1750年頃の出来事と推定される。

 

2.2 ギリシア最古の町

大洪水の少し前、CleopompusとCleodoraとの息子Parnassusは、それまで散らばって住んでいた人々を一か所に集めて町を作った。[5]

Parnassusが創建した町は、Phocis地方北西部のLilaeaの町の近くに発して、Parnassus山の北側を流れるCephisus川の右岸にあったと思われる。[6]

 

2.3 Boeotiaへの移住

Atheniansの先祖Ogygusは、Ectenesを率いて、Cephisus川の下流へ移住して、Boeotia地方に定住した。[7]

 

2.4 Peloponnesusへの移住

Inachusの2人の息子たち、AezeiusとPhoroneusに率いられた集団はOgygusよりさらに先へ進んで、Peloponnesus半島へ入った。[8]

Aezeiusは、Peloponnesus半島に入ってすぐの海岸地帯を定住地に決め、Aegialeia (後のSicyon)の町を創建した。[9]

Phoroneusは、さらに南下して平野の端に定住した。Phoroneusは散らばって住んでいた人々を一箇所に集めて、Phoroneus (後のArgos)の町を創建した。[10]

 

2.5 Lycoreiaの創建

Parnassusが創建した町は、大洪水によって水没し、人々は、Parnassus山へ逃れて、Lycoreiaの町を創建した。[11]

人々を率いて町を建設したのは、Parnassusの娘Coryciaの子Lycorus (or Lycoreus)であった。[12]

Lycoreiaの町には、Delphiansが住んでいて、後に、Delphiの神域の近くに移り住んだ。[13]

 

2.6 Delphiの創建

Pausaniasが伝えている系譜によれば、Delphiの町の名付け親Delphusは、Lycorusの子Hyamusの娘Celaenoの息子であった。[14]

つまり、Lycoreiaの町から移住して、Delphiの町を創建したのは、BC1690年と推定される。[15]

 

3 BC15世紀のPhocis

3.1 Thraciaからの移住

BC1420年、Thracia地方のStrymon川流域に住んでいたEdoniの一部が、Dryasの子Lycurgusの子Tereusに率いられて、後のDaulisの町の近くへ移住した。[16]

Tereusは、第5代Athens王Pandionの娘Procne (or Progne)と結婚した。[17]

その後、TereusはPhocis地方からMegara地方のPagaeの町の近くへ移住した。[18]

 

3.2 Argosからの移住

3.2.1 Abaeの創建

BC1408年、Lynceusの子Abasは、Argosの町からPhocis地方へ移住して、Abaeの町を創建した。[19]

Abasの祖父Danausと共にEgyptから渡来したOrusの後裔がArgolis地方のTroezenに、Lelexの後裔がLacedaemonやMegaraに住んでいた。何故、Abasの移住先がPhocis地方であったのかは不明である。

AD6世紀のStephanus of Byzantiumは、AbaeにDelphiより古い神託所があったと伝えているが、それが、AbasがPhocis地方を移住先に選んだ理由かもしれない。[20]

しかし、Abaeから神託を受けたと古代ギリシアの史料に、最初に登場するのは、Lydia王Croesusである。[21]

したがって、Abasの時代にAbaeの神託所はなかったかもしれない。

BC1407年、Abasは、Abaeの町からArgosの町へ帰還した。[22]

その後、Abaeの町はAbasの子Deucalionに委ねられた。[23]

 

3.2.2 Abasの子Deucalion

Lynceusの子Abasには、双子の息子たち、ProetusとAcrisius、それに、庶子Lyrcusがいたことが知られている。[24]

Abasには、その他に、Deucalionという名前の息子がいたと思われる。

しかし、Aristippusが書いた『Arcadiaの歴史』の中で、AbasにもDeucalionという息子がいたと記されている。そのAbasは、Arcadia地方のMantineusの娘Aglaiaと結婚した、Lynceusの子Abasと推定される。[25]

 

3.2.3 Deucalionの子Lynceus

Deucalionの子Lynceusは、Argosの町のProetusの子Megapenthesに殺され、Lynceusの子AbasはMegapenthesを殺害した。[26]

LynceusとMegapenthesは従兄弟同士であり、MegapenthesはMycenaeの町のDanaeの子Perseusをも殺害している。Argos、Mycenae、Abaeの3つの町の間で、争いがあったようである。

 

4 BC14世紀のPhocis

4.1 Thessalyからの移住

BC1365年、Aeolusの子Deion (or Deione、Deioneus)は、Thessaly地方のArneの町から、Phocis地方へ移住した。[27]

Deionは、Xuthusの娘Diomedeを妻に迎えて、息子たち、Aenetus、Actor、PhylacusとCephalus、娘Asterodiaが生まれた。[28]

 

4.2 PhlegyansのDelphi略奪

BC1350年、Boeotia地方に住んでいたPhlegyansがDelphiの神域を荒らした。

史料に記録が残る最初のDelphi略奪であった。[29]

Phlegyansは、Orchomenus王Phlegyasが各地から集めた戦士の集団であった。[30]

Delphiansは、各地に救援を求めた。

 

4.2.1 Argosからの援軍

Philammon率いるArgosの町の精鋭部隊は、Phlegyansと戦ったが、Philammonは戦死した。[31]

当時、Argosの町を支配していたAbasの子Acrisiusは、この事件を契機にAmphictyonsを組織化した。[32]

Argivesを率いたPhilammonは、Acrisiusの息子と推定される。跡取り息子を失ったAcrisiusは、Egyptに住む彼の娘Danaeの息子Perseusを後継者にした。[33]

 

4.2.2 Arcadiaからの援軍

Arcasの子Elatus率いるArcadiansは、Phlegyansと戦って、Phlegyansを撃退した。[34]

PhlegyansはPhocis地方からBoeotia地方へ戻り、Thebesの町のAmphionの死後、Eurymachus率いられてThebesの町に攻め込んで略奪した。[35]

 

4.3 Elateiaの創建

Arcasの子Elatusは、Phlegyansを追い出した後もPhocis地方に残り、Elateiaの町を創建した。[36]

Rome時代のElateiaの町は、Phocis地方最大の町であったが、HomerはElateiaの町に言及しておらず、Trojan Warの後で発展した町と推定される。[37]

 

4.3.1 Daphnusの創建

Elateiaの町から北へ約23kmの海の近くにあるDaphnusの町は、Elateiaの町の住人によって創建された植民市と推定される。[38]

Phocis地方に属するDaphnusの町は、Epicnemidian Locris地方をEpicnemidis地方とOpus地方に分離していた。[39]

つまり、Phocis地方には、北の海に面した港がDaphnusの町にあったが、町が破却されて、Locris地方になり、Epicnemidian Locris地方は、1つに繋がった。[40]

 

4.4 Thessalyへの移住

BC1325年、Deionの子Phylacusは、Phocis地方からThessaly地方へ移住して、Pagasetic Gulfの北東にPhylaceの町へ移住した。恐らく、Phylacusは、Phylaceの町の創建者と思われる。[41]

Phylacusの父Deionは、Thessaly地方のArneの町からPhocis地方への移住者であった。[42]

 

4.5 Hyampolisの創建

BC1310年、Boeotia地方に古くから住んでいたHyantesは、Abaeの町の近くに移住して、Hyampolisの町を創建した。[43]

BC1420年、Thebesの町周辺に住んでいたHyantesは、Cadmusに追われて、Onchestusの町の周辺へ移住した。[44]

BC1370年、Athamasの養子になったCoronusとHaliartusが、Onchestusの町の近くに、Coroneiaの町やHaliartusの町を創建した。[45]

このとき、Hyantesは、Copais湖の北西へ移住したと推定される。

BC1350年、Orchomenusの子Aspledonは、Copais湖の北西にAspledonの町を創建した。[46]

その後、Aspledonは、Aspledonの町から南南西へ移住して、Mideiaの町を創建した。[47]

恐らく、Aspledonは、Hyantesとの戦いで、再移住したと思われる。

BC1310年、Hyantesは、Aspledonの町の近くから北北西へ移住して、Hyampolisの町を創建した。[48]

Hyantesの移住は、Orchomenusの町との戦いによって起きたと推定される。

このとき、Orchomenusの町は、Chrysesの子Minyas治世で、黄金期を迎えていた。[49]

 

4.6 Euboeaへの移住

BC1310年、Lynceusの子Abasは、Abaeの町からEuripus海峡を渡って、Euboea島のChalcisの町へ移住した。[49-1]

Abasの移住の原因は、Abaeの町近くにHyampolisの町を創建したHyantesとの戦いであったと推定される。

Chalcisの町は、BC1360年に、第6代Athens王Erechtheusの息子Pandorusによって創建されていた。[49-2]

Euboea島はMacrisと呼ばれていたが、Abantis (or Abantias)と呼ばれるようになった。また、Euboea島の住人は、Abantesと呼ばれるようになった。[49-3]

Abasと共に、彼の兄弟と思われるCriusもEuboea島へ移住した。[49-4]

 

4.7 Naubolensesの創建

BC1310年、Abasの兄弟と思われるOrnytusは、Abaeの町から西北西方向へ約33kmの所へ移住して、町を作った。Ornytusには息子Naubolusが生まれ、町はNaubolenses (後のDrymaea)と呼ばれるようになった。[49-5]

Ornytusの移住の原因も、Hyampolisの町へ逃れて来たHyantesとの戦いであったと推定される。

 

4.8 Cyparissusの創建

BC1305年、Minyasの子Cyparissusは、Orchomenusの町からDelphiの近くへ移住して、Cyparissusの町を創建した。[50]

 

5 BC13世紀のPhocis

5.1 Anticyraの創建

BC1280年、Cyparissusの子Anticyreusは、Anticyra湾の海岸地帯に移住して、Anticyraの町を創建した。[51]

Anticyreusは、Heraclesの狂気をhelleboreという植物で治した。[52]

helleboreは、下剤として使われていたことから、Heraclesは便秘で苦しんでいたのかもしれない。[53]

 

5.2 Euboeaからの移住

BC1270年、Euboea島のCriusの子Tityos (or Tityus)は、後にPanopeusの町になる土地に移住した。[54]

Tityosの父がCriusだと直接伝えている史料はないが、つぎの理由で、TityosはCriusの息子であったと推定される。

1) Delphiに関連してApolloに殺されたのは、Orchomenusの娘Elareの子Tityosであった。[55]

2) Apolloに殺されたのは、Euboea島のCriusの息子であった。[56]

TityosはEuboea島で生まれたが、父の故郷Abaeの町や、母の故郷Orchomenusの町に近いPanopeusの町に移住したと推定される。

 

5.3 Boeotiansとの戦い

5.3.1 Delphiの神域荒らし

BC1264年、Criusの子Tityosは、Delphiの神域や周辺を荒らして討ち取られた。[57]

Delphiansが頼ったのは、Tityosの母の故郷Orchomenusの町ではなく、Orchomenusの町に敵対していたThebesの町であった。[58]

Thebesの町のLabdacusの子Laiusは、Plataeaの町のDamasistratusと共にTityosと戦った。

LaiusとTityosは死に、両者ともPanopeusの町に埋葬された。[59]

Tityosの娘Europaは、Panopeusの町に住み続けて、Cephisus川の近くで、息子Euphemusを産んだ。[60]

 

5.3.2 Apolloの伝承

Pausaniasは、Tityosを討ち取ったApolloについて、つぎのように伝えている。

Apolloは、Delphiの神域を荒らしたCriusの子Tityosを殺した。[61]

その後、Apolloは、Crete島西南部のTarrhaの町に住むCarmanorのもとへ行き、浄められた。[62]

そして、Apolloは、Carmanorの家で、Minosの娘Acacallisと結婚した。[63]

そのApolloとは、HyperboreanのHyperochus、あるいは、Laodocus(or Amadocus)だと推定される。

HyperochusとLaodocusは、Hyperboreansの地からDelos島へ奉納品を届けるHyperboreansの娘たちの道中を警護するPerphereesであった。[64]

彼らは、DodonaからMalis地方へ向かう途中で、Delphiを通り、Delphiansからの求めで、Criusの子Tityosを討ち取ったものと思われる。Delphiansは、HyperochusとLaodocusを英雄として供犠を行っている。[65]

 

5.3.3 Pausaniasの誤り

Pausaniasは、Delphiの神域の略奪の歴史を述べている。その中で、Pausaniasは、最初にCriusの息子、その次に、PhlegyansがDelphiの神域を略奪したと記しているが、その逆であった。[66]

Phlegyansと戦ったのは、Arcadia地方のArcasの子Elatusであった。[67]

Criusの子Tityosを討ち取ったApolloは、Minosの娘Acacallisと同時代であった。[68]

Acacallisと同時代のHeraclesと一緒に、LacedaemonのOebalusの子Hippocoonと戦ったCepheusは、Arcasの子Elatusより前の時代の人物ではない。

Cepheusは、Arcasの子Elatusの兄弟Apheidas(or Aphidas)の子Aleusの子Lycurgusの息子であった。[69]

つまり、PhlegyansがDelphiの神域を荒らしたのは、Criusの息子より、3世代前の出来事であった。

 

5.4 Stirisの創建

BC1277年、Oeneusの子Peteusは、Oeneusの彼の義兄弟Aegeusによって、Attica地方のStiriaの町から追われて、Phocis地方へ移住した。PeteusはPhocis地方の南東部にStirisの町を創建した。そこから、東北東に約11km離れたLebadeiaの町にも、Aegeusに追われて移住したLebadusが住んでいた。[70]

Lebadusは、Peteusの兄弟と思われる。[71]

 

5.5 Aeginaからの移住

BC1256年、Aeacusの子Phocusは、Aegina島からPhocis地方北西部のNaubolenses (後のDrymaea)の町へ移住した。[72]

Naubolensesの町には、Ornytusの子Naubolusが住んでいたが、Phocusを共住者として受け入れた。その後、Naubolusの娘AntiphateiaとPhocusの子Crisusは結婚した。[73]

CrisusとAntiphateiaには、息子Strophiusが生まれた。[74]

 

5.6 Apolloの神託所の創建

Pausaniasは、Delphiの神託所がThemisからApolloに引き継がれたと伝えている。[75]

神託所の創建者のひとりであるLycia地方のOlenは、詩人Orpheusより前に生まれた。[76]

Olenは、Athensの町からLycia地方へ移住したPandionの子Lycusの息子であり、BC1280年生まれと推定される。[77]

神託所の最初の女性予言者Phemonoeは、Orpheusより、27年前の人物であった。[78]

このOrpheusは、有名な詩人ではなく、Argonautsのひとりであり、Phemonoeは、BC1290年頃の生まれと推定される。

Pythian Apollon hymnを歌う競技会の最初の勝利者は、Apolloを浄めたCarmanorの娘Chrysothemisであった。[79]

Chrysothemisは、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの妻であり、BC1268年生まれと推定される。

Carmanorが浄めたApolloとAcacallisの結婚などから総合的に判断すると、DelphiにApolloの神託所が設置されたのは、BC1255年と推定される。

 

5.7 Panopeusへの移住

BC1250年、Phocusの子PanopeusとNaubolusの子Iphitusは、Naubolenses (後のDrymaea)の町からPanopeusの町へ移住した。[80]

Iphitusは、Panopeusの兄弟Crisusの妻Antiphateiaの兄弟であった。[81]

つまり、PanopeusとIphitusは義兄弟であった。

町は、Phocusの子Panopeusの名前に因んで、Panopeusと呼ばれるようになった。[82]

Panopeusの町には、Naubolusの父Ornytusの兄弟と思われるCriusの子Tityosが住んでいたが、Delphiの神域を荒らして、討ち取られた。

PanopeusとIphitusがPanopeusの町へ移住したとき、町にはTityosの娘Europaが住んでいた。IphitusとEuropaは、又従兄妹であった。[83]

BC1248年、Iphitusは、Argonautsの遠征隊を率いるJasonが神託を得るためにDelphiを訪問した際に、彼の案内役を務めた。[84]

 

5.8 Crissaの創建

BC1240年、Phocusの子Crisusは、Naubolensesの町からParnassus山を越えて、Delphiの近くへ移住して、Crissaの町を創建した。[85]

 

5.9 Argolisからの嫁入り

BC1232年、Crissaの町のPhocusの子Crisusは、Argolis地方のCleonaeの町からPelopsの子Atreusの娘Kydragoraを妻に迎えて、娘Anaxibi (or Anaxibia)が生まれた。[86]

 

5.10 Corinthからの移住

BC1230年、Sisyphusの子Ornytionの子Phocusは、Corinthの町からPhocis地方のNeon (後のTithorea)の町へ移住した。[87]

Pausaniasは、Tithoreaの町にあるOrnytionの子Phocusと彼の妻Antiopeの墓に関する伝承を記している。

BC7世紀のBacisは、TithoreansがThebesの町にあるAmphionとZethusの墓から土を盗んで、Ornytionの子Phocusと妻の墓に運ぶと、Tithoreaの町は豊作になり、Thebesの町は凶作になると予言した。[88]

Bacisや彼と同時代のThebansやTithoreans、それに、Pausanias自身も、Ornytionの子Phocusの妻Antiopeは、AmphionとZethusの母だと信じていたようである。[89]

その原因は、AmphionとZethusの母Antiopeの伝承に登場するEpopeusの父Aloeusの父Sisyphusと、Phocusの父Ornytionの父Sisyphusを同一人物だと思っていたためであった。

しかし、どちらのSisyphusもCorinth王であったが、前者は初代Corinth王であり、後者はJasonの跡を継いだ、第9代Corinth王であった。

 

5.11 Dryopiaからの移住

BC1230年、 Heraclesは、Delphiの神殿に不敬を働いたDryopiansをDryopia地方から追放した。[90]

Dryopiansは各地へ移住したが、一部は、Cirrhaの町の近くに定住して、Cragalidaeと呼ばれた。[91]

Cragalidaeは、Amphissusの子Dryopsの子Cragaleusの後裔と推定される。[92]

 

6 BC12世紀のPhocis

6.1 Cirrhaの創建

BC1190年、Phocusの子Crisusの子Strophiusの子Pyladesは、Crissaの町から南へ移住して、Crissa湾の岸辺にCirrhaの町を創建した。[93]

 

6.2 Trojan Warの時代

6.2.1 Troy遠征

BC1188年、Naubolusの子Iphitusの2人の息子たち、SchediusとEpistophusは、Phociansを率いて、Troyへ遠征した。[94]

SchediusはTroyで戦死して、EpistophusはSchediusの遺骨を持ち帰った。[95]

 

6.2.2 Boeotiaからの移住

BC1188年、Boeotia地方へThraciansやPelasgiansが侵入して町を占拠したが、その混乱で、PhlegyansがPanopeusの町を占拠した。

BC1215年、Phlegyansは、Minyansの地に住んでいたが、Rome時代には、Panopeusの町に住んでいた。[96]

Panopeusの町に住み、Delphiへの参拝者を恐れさせたPhlegyansの王Phorbasは、Trojan War時代の後の人物だと思われる。[97]

Troyから帰還したIphitusの子Epistophusは、Pelasgiansに占拠されたPanopeusの町への帰還を断念して、Anticyraの町に移住した。[98]

SchediusとEpistophusの墓は、Anticyraの町にあった。[99]

 

6.2.3 Boeotiaへの移住

BC1188年、Hyampolisの町のHyantesは、Boeotia地方のOrchomenusの町へ侵入して住人を追い出して占拠した。[100]

町を追われたOrchomeniansは、Aeolusの子Athamasの後裔Athamasに率いられてIonia地方のTeosの町へ移住した。[101]

また、Orchomeniansの一部は、Athensの町に受け入れられて、Munychiaの町に住んだ。[102]

BC1126年、Munychiaの町に避難していたOrchomeniansは、Thessaly地方のArneの町から帰還したBoeotiansと共に、Orchomenusの町からHyantesを追放した。[103]

Hyantesは、再び、Hyampolisの町へ戻った。

 

6.3 Molossiansとの戦い

BC1175年、Achillesの子NeoptolemusはMolossiansを率いて、Delphiを略奪し、Delphiansを率いたDaetasの子Machaereusと戦って、戦死した。[104]

Neoptolemusと共に、彼の兄弟Oneirosも、Phociansとの戦いで、Agamemnonの子Orestesに討ち取られた。[105]

Orestesは、Crisusの子Strophiusの子Pyladesと共にDelphiansに加勢していた。

Pyladesは、Orestesの姉妹Electra (or Laodice)の夫であり、Orestesの義兄弟であった。[106]

Pyladesは、Delphiの外港Cirrhaの町に住んでいた。[107]

 

6.4 Medeonの創建

BC1150年、Pyladesの子Medonは、Cirrhaの町から東へ移住して、Medeonの町を創建した。[108]

Homerは、軍船目録の中で、Boeotia地方のMedeonの町の名前を挙げているが、その町はTrojan War時代には存在していなかった。[109]

Straboは、Boeotia地方のMedeonの町の名前は、Phocis地方のMedeonの町の名前に因んでいると伝えている。[110]

 

6.5 Heracleidaeの帰還

BC1115年、Aristomachusの子Aristodemusは、Pyladesの息子たち、MedonとStrophiusによって、Delphiで殺害された。[111]

Aristodemusは、Peloponnesusへの帰還を準備していたHeracleidaeの総領であった。

Aristodemusの死後、彼の兄弟TemenusがHeracleidaeを率いることになった。

MedonとStrophiusは、Orestesの子Tisamenusの従兄弟たちであり、Heracleidaeとは敵対関係にあった。[112]

当時、StrophiusはCirrhaの町、MedonはMedeonの町に住み、Doris地方に住んでいたHeracleidaeの動静を把握していたと推定される。

 

7 BC11世紀以降のPhocis

7.1 Amphictyonsとの戦い

BC595年、Cirrha (or Cyrrha)の町の住人は、Delphiの神域に狼藉を働いたため、Amphictyonsは町を攻めた。Sicyonの町の僭主Clisthenesが総大将になり、Athensの町のSolonが助言者になった。[113]

Delphiに残された記録によれば、Atheniansは、Alcmaeonに率いられて、この戦いに参加した。[114]

また、Thessaliansは、EurylochusやLattamyasに率いられて、戦いに参加した。[115]

BC594年、Lattamyas率いるThessaliansはBoeotia地方にも侵入して、Thespiaeの町付近での戦いで、Thebansに敗れた。[116]

 

おわり

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