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第25章 ロクリス地方とドリス地方の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2025.10.30

1 はじめに

1.1 LocrisとDoris

Doris地方を挟んで、東にはEpicnemidian Locris地方、西にはOzolian Locris地方がある。[1]

古い時代、前者は、Epicnemidis地方とOpus地方に分かれていた。[2]

その間には、Phocis地方の町Daphnusがあったが、町は破壊され、Opus地方に属するようになった。[3]

Locris地方が3つの地方に分かれていたのは、その成り立ちが原因であった。

つまり、Doris地方からOpus地方へ入植し、そこから、Ozolian Locris地方とEpicnemidis地方へ入植したからであった。[4]

Locriansは、名前を変えたDoriansであったが、地方名は統一されなかった。そこには、同じ地方名を付けることができない、長い歴史があった。

この章では、Locris地方とDoris地方に接して、境界の曖昧なMalis地方やDryopia地方についても記述する。

 

1.2 Malis

AD2世紀の著述家Apollodorosは、Trachisの町の住人をMeliansと記している。[5]

しかし、Herodotusは、Melos島に住む人々をMeliansと呼んでいる。[6]

Herodotusは、Trachisの町の住人をMaliansと呼んでいる。[7]

Herodotusは、Doris地方がPhocis地方に隣接し、その反対側は、Malis地方に隣接していると述べている。[8]

つまり、Trachisの町の住人は正しくはMaliansで、次第に東側の湾岸に勢力を拡大して、Malian Gulfに名前を与えたと思われる。[9]

 

1.3 Dryopia

Dryopia地方の位置についても古代の記述は曖昧である。

しかし、次の事からDryopia地方は、Trachisの町とDoris地方の間にあったことが分かる。

1) Heraclesによって、Dryopiansが追放された後の土地は、Maliansに与えられた。[10]

2) Herodotusの時代、Doris地方は、Phocis地方とMalis地方に隣接していた。[11]

3) Trachisの町の住人はMaliansであった。[12]

 

2 Hellenの子Dorusの時代 (BC1420-1415)

2.1 Thessalyからの移住

BC1420年、Cadmus率いる集団がThracia地方から南下して、Thessaly地方へ侵入した。

Ossa山とOlympus山の近くのPeneius川の北側に住んでいたHellenの子Dorusは住人を率いて、Oeta山とParnassus山の間の土地へ移住した。[13]

Dorusは、移住した人々を1か所に集めてPindusの町を創建した。[14]

 

2.2 Creteへの移住

BC1420年、Dorusの子Tectamusは移民団を率いて、Doris地方からCrete島へ移住した。移民団には、Doriansの他に、PelasgiansやAeoliansが含まれていた。[15]

Tectamusの入植地は、Crete島の東部であった。[16]

 

3 Dorusの子Deucalionの時代 (BC1415-1400)

3.1 Opus湾近くへの移住

BC1415年、Dorusの子Deucalionは、Pindusの町からOpus湾の近くへ移住した。[17]

Deucalionは、Epicnemidian Locris地方へ入植した最初のギリシア人であった。

 

3.2 Thessalyへの嫁入り

BC1413年、Deucalionの娘Protogeniaは、Opus湾近くからThessaly地方のArneの町に住むHippotesの子Aeolusのもとへ嫁いだ。[18]

Aeolusは、Protogeniaの父Deucalionの父Dorusの兄弟Aeolusの子Mimasの子Hippotesの息子であった。つまり、Aeolusは、Protogeniaの又従兄弟の息子であった。

 

3.3 Antheiaの創建

BC1410年、Deucalionの子Amphictyonは、Opus湾近くからThermopylae付近に移住して、Antheia (or Anthela)の町を創建した。[19]

Epicnemidian Locris地方は、AmphictyonからAetolus、Physcius、Locrusへと継承され、その地方の中心はAntheiaの町であった。[20]

 

3.4 Ozolian Locrisへの移住

BC1410年、Deucalionの子Orestheusは、Opus湾近くからOzolian Locris地方へ移住した。[21]

Orestheusの子Phytiusの子OineusがAmphissaの町に住んでいたことから、Orestheusが定住したのはAmphissaの町であったと推定される。[22]

 

4 Deucalionの子Amphictyonの時代 (BC1400-1385)

4.1 Thessalyへの移住

BC1392年、Amphictyonの子Itonusは、Antheiaの町からThessaly地方のPagasetic Gulf西岸に移住して、Itonusの町を創建した。[23]

Itonusの町の近くには、Hellenの子Aeolusの子Athamasが創建したHalusの町があった。[24]

つまり、Itonusは、彼の祖父の従兄弟Athamasを頼って移住したと思われる。

Itonusは、Thessaly地方のArneの町に住むHippotesの子Aeolusの娘Melanippe(or Arne)を妻に迎えた。[25]

Aeolusには、Itonusの父Amphictyonの姉妹Protogeniaが嫁いでおり、ItonusとMelanippeはいとこ同士であった。[26]

 

4.2 Pelasgiansとの戦い

BC1390年、Thessaly地方の沿海部に住んでいたPelasgiansは、大津波で居住地を奪われ、Itonusの町を襲撃して、Itonusの妻Melanippeを連れ去った。[27]

Itonusの父Amphictyonは、Locris地方およびThessaly地方に住む同族を結集して、Thessaly地方からPelasgiansを追い出した。[28]

 

4.3 Amphictyonsの創建

Amphictyonが結集した種族は、Ionians, Dolopes, Thessalians, Aenianians, Magnesians, Malians, Phthiotians, Dorians, Phocians、それに、Phocisと境を接して、Cnemis山麓に住むLocriansであった。[29]

彼らの代表は、Antheiaの町に参集し、Amphictyonsと呼ばれた。[30]

BC1350年、Argosの町のAcrisiusは、Delphiを荒らしたPhlegyansと戦うために、Amphictyonsを組織化した。[31]

Acrisiusが治める住人の中には、Thessaly地方からArgosの町へ移住したAchaeansが多くいた。[32]

 

4.4 Thessalyへの移住

BC1390年、Amphictyonの兄弟Pronousは、Opus湾近くからPelasgiansが退去したThessaly地方へ移住した。[33]

Pronousの子Hellenの子Neonusの子Dotusは、Thessaly地方のDotium平原の名付け親になった。[34]

 

4.5 Thessalyからの移住

Hellenの子DorusがThessaly地方からParnassus山の近くへ移住した後も、Dorusの娘Iphthime一家は、Thessaly地方に残っていた。[35]

BC1390年、Iphthime一家は、Iphthimeの父Dorusが移住したPindusの町の近くのSpercheius川近くに定住した。[36]

 

4.6 Thessalyへの嫁入り

BC1387年、Deucalionの娘Thyiaは、Locris地方からThessaly地方のArneの町に住むHippotesの子Aeolusのもとへ嫁いだ。[37]

Aeolusは、Thyiaの父Deucalionの父Dorusの兄弟Aeolusの子Mimasの子Hippotesの息子であった。つまり、Aeolusは、Thyiaの又従兄妹の息子であった。

Aeolusには、既に、Thyiaの姉妹Protogeniaが嫁いでいた。[38]

 

5 Amphictyonの子Aetolusの時代 (BC1385-1365)

5.1 Physcusの創建

BC1370年、Aetolusの子Physciusは、Locris地方にPhyscusの町を創建した。[38-1]

Physcosの町は、Thermopylae付近のAsopus川の近くにあったと推定される。[38-2]

Physciusの娘Thebeは、Asopus河神の娘であった。[38-3]

 

5.2 Corinthからの嫁入り

BC1366年、Aetolusの子Physciusは、Corinthの町に住むProetusの娘Maeraを妻に迎えた。[39]

Proetusは、Corinthの町の創建者Sisyphusの子Thersanderの息子であった。[40]

PhysciusとMaeraは、Deucalionの子Hellenを共通の祖とする同族であった。

 

6 Aetolusの子Physciusの時代 (BC1365-1345)

6.1 Spercheius川近くからの嫁入り

BC1362年、Andraemonは、Spercheius川近くに住むDryopsの娘Dryopeを妻に迎えて、息子Amphissusが生まれた。[41]

Andraemonは、Deucalionの子Orestheusの子Phytius (or Oxylus)の息子であり、Ozolian Locris地方のAmphissaの町に住んでいた。[42]

 

6.2 Lesbosからの嫁入り

BC1356年、Amphissaの町のPhytiusの子Oineusは、Lesbos島に住むMacarの娘Amphissaを妻に迎えた。[43]

これより前、BC1389年にMacarは、Achaia地方のOlenusの町からLesbos島へ移住していた。[44]

Macarは、Oineusの父Phytiusの父Orestheusの姉妹Protogeniaの息子であった。[45]

つまり、AmphissaはOineusの又従兄妹であった。

Pausaniasは、Amphissaの名前は、Aeolusの子Macarの娘Amphissaに因んで名付けられたと伝えている。[46]

しかし、町が、周りを丘に囲まれた場所にあったためという説もある。[47]

 

7 Physciusの子Locrusの時代 (BC1345-1315)

7.1 Boeotiaへの嫁入り

BC1335年、Physciusの娘Thebeは、Boeotia地方のEutresisの町に住むAntiopeの子Zethusのもとへ嫁入りした。

ThebeがPhysciusの娘であると明示している史料はないが、Physciusの子LocrusがZethusのThebes攻略に協力していることから、そのように推定される。[48]

伝承では、ThebeをAsopusの河神の娘としているが、Physciusが住むEpicnemidian Locris地方にAsopus川があり、河神はPhysciusと推定される。[49]

また、Physciusの妻は、Proetusの娘Maeraであったが、Thebesの町のProetidian gateは、Thebeの祖父Proetusの名前に因んで名付けられたと推定される。[50]

 

7.2 Oetaの創建

BC1335年、Andraemonの子Amphissusは、Oeta山近くに、Oetaの町を創建した。[51]

Amphissusは、Dryopsの娘Dryopeの息子であった。[52]

Dryopsは、Iphthimeの息子とDanausの娘Polydoreとの息子であった。[53]

Amphissusが治める人々は、Dryopiansと呼ばれた。[54]

Amphissusの父Andraemonは、Deucalionの子Orestheusの子Phytius (or Oxylus)の息子で、Amphissaの町に住んでいた。[55]

 

7.3 Boeotiaからの亡命

BC1326年、ZethusとAmphionは、Thebesの町のHyrieusの子Lycusに追われて、Physciusのもとへ亡命して来た。[56]

Lycusは、Thebes王Labdacusの子Laiusの後見人であった。[57]

Laiusは、Zethusの母Antiopeの姉の孫であった。[58]

 

7.4 Boeotiaへの遠征

BC1325年、Locrusは、ZethusとAmphionのThebes攻めに、Lelegesを率いて遠征に参加した。[59]

この遠征の後で、Locris地方のLelegesの一部は、Boeotia地方へ移住した。Aristotleは、LelegesがBoeotia地方を領したと伝えている。[60]

Aristotleが伝えているBoeotia地方とは、Boeotiansの同盟集会が開催されたCoroneiaの町を中心とした狭い地方のことと思われる。[60-1]

 

8 Locrusの子Opusの時代 (BC1315-1260)

8.1 Boeotiaからの嫁入り

BC1272年、Theiodamas (or Theodamas)は、Boeotia地方に住むOrionの娘Menodice (or Mecionica)を妻に迎えて、2人の息子たち、EuphemusとHylasが生まれた。[61]

Theiodamasは、Dryopia地方に住んでいたDryopsの子Cragaleusの息子と推定される。[62]

 

8.2 Aetoliaからの嫁入り

BC1266年、Aetolusの子Andraemonは、Aetolia地方に住むCalydonの娘Protogeniaを妻に迎えて、息子Oxylusが生まれた。[63]

Calydonは、Elisの町からAetolia地方へ移住したAetolusの息子であった。[64]

CalydonはCalydonの町に住み、Pleuronの町や先住民のCuretesと対立していた。[65]

Calydonは、Eleia地方で勢力を伸ばしていたAmythaonから彼の娘Aeoliaを妻に迎えていた。[66]

Calydonが娘をAmphissaの町のAndraemonに嫁がせたのも、Ozolian Locriansの勢力を味方に付けようとしたものと推定される。

 

8.3 Opusの創建

BC1262年、Locrusの子Opusは、Antheiaの町からThermopylaeとEuripus海峡の中ほどへ移住して、Opusの町を創建した。[67]

Opusは、町の建設に各地から参加者を募集した。Argos、Thebes、Pisaの町やArcadia、Thessaly地方から大勢の人々が参加して、Opusの町の住人になった。

Opusの町の住人は混血して、特定の種族に属さなくなったため、Lelegesと呼ばれるようになった。[68]

 

8.4 Thessalyからの移住

Thessaly地方のPhthiaの町に住んでいたActorの子Menoetiusは、Opusの町の建設に参加した。OpusはMenoetiusを信頼して、自分の息子Cynusではなく、Menoetiusに町を譲った。[69]

 

9 Opusの子Cynusの時代 (BC1260-1250)

9.1 Cynusの創建

BC1260年、Opusの子Cynusは、Opusの町の近くにCynusの町を創建した。[70]

 

9.2 Thebesからの嫁入り

BC1252年、Theiodamas (or Theodamas)の子Euphemusは、Thebesの町のAmphitryonの娘Laonomeを妻に迎えた。[71]

LaonomeはHeraclesの妹であり、彼女の父Amphitryonは、これより少し前に、Minyansの王Erginusとの戦いで戦死していた。[72]

Euphemusの兄弟Hylasは、Heraclesの侍童であり、Trachisの町の近くのOechaliaの町の出身であった。[73]

 

10 Cynusの子Hodoedocus (or Odoedocus)の時代 (BC1250-1240)

10.1 Narycusの創建

BC1250年、Hodoedocusの子Oileus (or Oeleus)は、Cynusの町の西方にNarycusの町を創建した。[74]

 

10.2 Calliarusの創建

BC1245年、Hodoedocusの子Calliarusは、Cynusの町の近くにCalliarusの町を創建した。[75]

 

11 Hodoedocusの子Oileusの時代 (BC1240-1220)

11.1 HeraclesとDryopiansとの戦い

11.1.1 戦いの原因

BC1230年、Dryopiansは、HeraclesとMeliansによって、居住地から追放された。[76]

Diodorusは、Dryopiansが故郷を追われたのは、彼らがDelphiの神殿に不敬を働いたからだと記している。しかし、Delphiから遠く離れたTrachisの町の住人であるMaliansがDryopiansを追い出す理由としては、根拠に乏しい。[77]

DryopiansとMaliansは、Oeta山の近くに住み、居住地が接していたため、勢力争いの結果として、DryopiansはMeliansによって、居住地を追われたと推定される。

あるいは、Heracles自身の問題が原因であったかもしれない。

Argonautsの遠征物語に登場するHeraclesの侍童Hylasは、Oechaliaの町の出身であった。[78]

Hylasの父Theiodamas (or Theodamas)は、Dryopia地方に住んでいた。[79]

Hylasの兄弟Euphemusの妻は、Heraclesの姉妹Laonomeであった。[80]

 

11.1.2 Dryopiansの居住地(Pausaniasの記述)

Pausaniasは、Asineの町のDryopiansが、初めParnassus山周辺のLycoritaeの町の隣に住んでいたと伝えている。[81]

しかし、LycoreiaはDelphiansの町であった。[82]

Spercheius川近くで誕生したDryopiansが、Doriansの土地を越えて、Phociansの土地に町を作れるのかは疑問である。[83]

約100年前のAndraemonの子Amphissusの時代、Dryopiansは、Amphissusが創建したOetaの町を中心に居住していた。

その後、DryopiansがDoriansの土地を越えて、Phociansの土地へ居住範囲を広げたとは思われず、Pausaniasの記述は誤りと思われる。

 

11.1.3 Dryopiansの移住先

11.1.3.1 Argolis

Dryopiansは、Mycenaeの町のEurystheusのもとへ逃げて、彼から土地を与えられて、Argolis地方にAsine、Hermione、Eionの町を建設した。[84]

 

11.1.3.2 Euboea

Diodorusは、Heraclesに追われたDryopiansがEuboea島のCarystusの町を創建したと記しているが、間違いである。[85]

Carystusの町は、BC1260年、Chironの子Carystusによって創建されていた。[86]

Dryopiansが住んでいたのは、Carystusの町の近くのStyraの町であり、Heraclesに追われる前に移住していた。[87]

 

11.1.3.3 Phocis

Phocis地方のCirrhaの町の近くに住んでいたDryopiansもいた。BC4世紀のAeschinesのCtesiphonに対する演説の中に、Delphiを冒涜したCragalidaeが登場する。[88]

Cragalidaeは、Heraclesとの戦いで死んだPhylasの父Cragaleusの後裔と思われる。[89]

 

11.1.3.4 Cythnos

Herodotusは、Cythnos島には、Dryopiansが住んでいたと記している。[90]

Cythnos島のDryopiansも、Heraclesに追われたDryopiansの一部と思われる。

 

11.1.4 Dryopiansの系譜

Oetaの町を創建した、Danausの娘Polydoreの子Dryopsの娘Dryopeの子Amphissusから、Heraclesとの戦いで死んだPhylasまでの系譜は次の通りである。

Amphissusの子Dryopsの子Cragaleusの子Phylas。[91]

後述するDoriansの王Aegimiusの系譜に比べて、Dryopiansの系譜は詳しく残っている。

この原因は、Phylasの娘MedaがHeraclesとの間に産んだAntiochisであろうと思われる。Antiochisは、Athensの10部族の名祖の一人で、Hyllusの死後、Doriansの地へ行かずにAthensの町に残っていた。[92]

恐らく、Antiochisの先祖であるDryopiansの系譜はAthensの町で記録されていたものと推定される。

 

11.2 Lapithsとの戦い

11.2.1 Heraclesの加勢

BC1227年、Doris地方に住むDorusの子Aegimiusのもとへ、Thessaly地方北部に住むDoriansから救援要請がきた。Hellenの子DorusがParnassus山の近くへ移住した後も、Thessaly地方北部に残っていたDoriansがいた。

彼らは、勢力を増したLapithsによって居住地を追い出されて、Aegimiusに助けを求めた。Aegimiusは救援に駆け付けるが、Gyrtonの町に住むCaeneusの子Coronusによって追い返された。Aegimiusは、Trachisの町のHeraclesに土地の割譲を約束して援助を求め、HeraclesはLapithsと戦って勝利した。[93]

 

11.2.2 Aegimiusの系譜

Aegimiusの系譜は、彼の父Dorusまでしか遡れない。[94]

しかし、AegimiusがThessaly地方北部まで含めたDorians全体の王であったことを考慮すると、つぎのように推定される。

Hellenの子Dorusは、Oeta山とParnassus山の間の土地にPindusの町を創建した。[95]

そして、Pindusの町に住む人々は、Macedniと呼ばれていたことから、Hellenの子Dorusの跡を継いだのは、Macednusであったと推定される。[96]

Hellenの子Dorusには、息子Tectamusがいたが、Crete島へ移住した。[97]

また、Dorusの息子と推定されるDeucalionは、Locris地方へ移住した。[98]

MacednusからAegimiusの父Dorusまでの系譜は不明である。

 

11.3 Aetoliaからの嫁入り

BC1222年、Amphissaの町のAndraemon (or Andrawmon)は、Calydonの町のOeneusの娘Gorges (or Gorge)を妻に迎えて、息子Thoasが生まれた。[99]

Oeneusの姉妹Protogeniaは、Amphissaの町のAndraemonの父Oxylusの父Andraemonに嫁いでいた。Oeneusは、西のPleuronの町に対抗するために、東のOzolian Locriansとの関係を強固にしようとして、娘を嫁がせたと推定される。[100]

 

12 Oileusの子Ajaxの時代 (BC1220-1186)

12.1 Atticaからの移住

BC1211年、Doris地方に住むDorusの子Aegimiusのもとへ、Heraclesの子供たちがAttica地方のTricorythusの町から移住して来た。[101]

Heracleidaeは、Peloponnesusへの帰還に失敗して、Heraclesの子Hyllusを失っていた。[102]

Heraclesの死後、AegimiusはHyllusを養子にして、Heraclesとの約束通り、Doriansの土地も割譲していた。[103]

Aegimiusの2人の息子たち、PamphylusとDymasの部族は、PamphyliとDymanesと呼ばれ、Hyllusの部族は、Hylleisと呼ばれた。[104]

 

12.2 Aetoliaへの遠征

BC1202年、Tydeusの子Diomedesは、Aetolia地方のCalydonの町を追われた祖父Oeneusの旧領を回復するために、Argosの町から遠征した。[105]

この遠征には、Oeneusの娘Gorgesの夫AndraemonもAmphissaの町から参加したと推定される。[106]

旧領を回復した後で、AndraemonはDiomedesからAetolia地方を任せられた。[107]

 

12.3 Trojan War

Oileusの子Ajaxは、Epicnemidian Locriansを率いてTroyへ遠征した。[108]

Ozolian Locriansは、Aetoliansと共にAndraemonの子Thoasに率いられてTroyへ遠征した。[109]

Mycenaeの町と敵対関係にあったHeracleidaeが居住するDoris地方からは、Troy遠征への参加はなかった。

BC1186年、Locris地方のThroniumの町から遠征に参加したLocriansは、Abantesと共に、Thesprotia地方へ移住して、Throniumの町を創建した。[109-1]

 

13 Trojan Warの後の時代

13.1 Peloponnesusへの遠征

BC1173年、Heraclesの子Hyllusの子Cleodaeusは、Doriansを率いてPeloponnesusへ侵入して、Mycenaeの町を攻めて、町を破壊した。[110]

近年の考古学調査で、BC12世紀のMycenaeの町に破壊された痕跡が確認されている。[111]

Doriansは、TirynsやMideaの町も破壊した。[112]

Agamemnonの子Orestesは、Mycenaeの町からArcadia地方のTegeaの町へ移住した。[113]

その後、Orestesは軍勢を集めて、DoriansをPeloponnesusから追い出した。

Cleodaeusは、無事にDoris地方のPindusの町へ帰還したようであり、その後、彼には息子Aristomachusが生まれた。[114]

 

13.2 Asia Minorへの移住

BC1126年、Epicnemidian Locris地方のPhricium山周辺に住むAeolisは、Agamemnonの曾孫たち、Dorusの子CleuesとMalausに率いられて、Asia Minorへ移住した。[115]

彼らの移住先は、Aeolis地方のLarisaの町の近くで、先住していたPelasgiansを追い出して、Phryconian Cymeの町を建設した。[116]

Pelasgiansは、Teutamusの後裔に率いられて、Italy半島西海岸のPisaeの町に逃れ、Tyrrheniansに受け入れられて共住した。[117]

Phryconian Cymeへの移住者の大部分は、Thesprotiansによって、Thessaly地方を追われたAeolisであった。[118]

 

13.3 Thebesからの移住

BC1126年、Cadmusの後裔最後のThebes王Autesionは、Doris地方へ移住した。[119]

Autesionは、Pindusの町に住むHeraclesの子Hyllusの子Cleodaeusの子Aristomachusを頼って移住した。[120]

Aristomachusの先祖HeraclesがThebesの町で生まれ育ち、彼の生涯の約半分をThebesの町で暮らしていた縁であった。[121]

Autesionの娘Argeiaは、Aristomachusの子Aristodemusと結婚し、Spartaの2王家の初代の王となる双子の息子たち、EurysthenesとProclesを産んだ。[122]

Autesionの子Therasは、EurysthenesとProclesの後見人になって、HeracleidaeのPeloponnesus帰還に参加した。[123]

 

13.4 Peloponnesusへの遠征

BC1126年、Cleodaeusの子AristomachusはDoriansを率いて、Peloponnesusへの帰還を試みるが、Orestesの子Tisamenusに敗れて、戦死した。[124]

Aristomachusは、Thebesの町からの移住者を受け入れ、Thessaly地方からのBoeotiansの帰還やそれに伴う人々の移動で混乱している中で、帰還を試みたと思われる。

Agamemnonの子孫たちのAsia Minorへの移民団は、Locris付近に長期間留まって、Doriansの動向を見守っていた。[125]

 

13.5 Peloponnesusへの移住

Aristomachusの子Temenusは、父の跡を継いで、Doriansの3部族のひとつHylleisの王になった。[126]

Temenusは、Peloponnesusへの帰還を陸路によるものではなく、Aetolia地方から海峡を渡ってPeloponnesusへ侵入しようと計画した。そのため、その方面の事情に詳しいThoasの子Haemonの子Oxylusを遠征に参加させた。

伝承では、Aristomachusの息子たちが、偶然、Oxylusと出会って、彼を案内人にしたことになっているが、彼らは親族であった。[127]

Oxylusは、Aristomachusの父Cleodaeusの父Hyllusの母Deianeiraの姉妹Gorgeの子Thoasの子Haemonの息子であり、OxylusとAristomachusは3従兄弟であった。

 

13.5.1 Aristodemusの死

BC1115年、Aristomachusの子Aristodemusは、Orestesの子Tisamenusの従兄弟たち、MedonとStrophiusによって、Delphiで殺害された。[128]

Pyladesの子StrophiusはCirrhaの町に住み、彼の兄弟MedonはMedeonの町に住んでいた。[129]

 

13.5.2 Naupactusの創建

BC1115年、Aristomachusの子Temenusは、Aetolia地方とOzolian Locris地方との境近くで艦隊を建造した。[130]

そこには町ができ、船を建造したことに因んで、Naupactusの町と呼ばれるようになった。[131]

Straboは、Naupactusの町がOzolian Locris地方の町であったが、Macedonia王Philipが、その町をAetoliansに与えてから、Aetolia地方になったと伝えている。[132]

BC459年、Naupactusの町に住んでいたOzolian Locriansは、Atheniansに追い出された。[133]

 

13.5.3 Heracleidaeの最終帰還

BC1104年、TemenusはDoriansを率いて、Peloponnesusへの帰還を果たした。[134]

 

13.5.3.1 Doriansの出発地

Herodotusは、DoriansがErineus、Pindusの町や、Dryopis地方からPeloponnesusへ移住したと伝えている。[135]

Pindarは、DoriansがPindusの町を出発して、Amyclaeの町を占領したと伝えている。[136]

BC7世紀の詩人Tyrtaeusは、Erineusの町から移住したと伝えている。[137]

Straboは、DoriansがPindusの町を含む4つの町を中心にした地方からPeloponnesusへ帰還したと伝えている。[138]

Thucydidesは、Boion, Kitinion, Erineusが、Peloponnesus戦争当時のLacedaemoniansの母市だと伝えている。[139]

以上のことから、TemenusがDoriansを率いて出発したのは、Epicnemidian Locris地方とOzolian Locris地方に挟まれた、Tetrapolisを中心としたDoris地方であったと推定される。

 

13.5.3.2 Heracleidae帰還後のDoris地方

BC458年、Phociansに攻められたBoion, Kitinion, Erineusの町のDoriansを救援するために、Lacedaemoniansは、大部隊を派遣した。[140]

Peloponnesusへ移住してから、650年近く経過した後でも、Lacedaemoniansは、先祖の出身地を忘れていなかった。

 

おわり

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