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第28章 アカルナニア地方の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2026.2.16

1 はじめに

ストラボンによれば、アカルナニア人は、アンブラキア湾とアケロイオス川の間に住んでいた。

ストラボンは、アケロイオス川がトアス川とも呼ばれていたと記している。[1]

そのトアスは、トロイ遠征に参加した、アンドライモンの息子と思われる。トアスと同時代のアルクマイオンの時代から、その川がアケロイオスと呼ばれたという伝承もある。[2]

つまり、アケロイオス川の東側に住むアイトリア人はトアス川と呼び、西側に住むアカルナニア人はアケロイオス川と呼んでいたと思われる。

アケロイオス川が運ぶ大量の土砂は河口に堆積して、トゥキュディデスの時代には、いくつかの島が本土と陸続きになったものもあった。トゥキュディデスは、近い将来、諸島のすべての島が陸続きになると予想した。[3]

パウサニアスは、その予想が外れたのは、アケロイオス川流域に住む人がいなくなったからだと記している。パウサニアスは、「耕作地の泥が海に流れて堆積する」と考えていたようだ。[4]

 

2 ラコニアからの入植

2.1 テレボアスの入植

BC1390年、レレクスの娘テラプネの子テレボアスは、ラコニア地方のテラプネの町からアカルナニア地方へ移住した。[5]

アリストテレスは、古い時代に、アカルナニア地方西部には、レレゲスとテレボアイ人が住んでいたと伝えている。[6]

テレボアスが率いた移住者は、最初、レレゲスと呼ばれたが、テレボアスの後裔が治める人々は、テレボアイ人と呼ばれるようになったと推定される。

レレゲスの名称は、ダナオスと共にエジプトからペロポネソスへ移住して来たレレクスに因んだ名前であった。レレクスは、ラコニア地方からメガラ地方へ移住して、それらの地方の住人はレレゲスと呼ばれた。[7]

 

2.2 テレボアスの息子たち

テレボアスには、22人の息子たちがいて、その一部は、レウカスに住んだ。[8]

テレボアスの息子が入植したレウカスは、島ではなく、半島であった。BC657年、その地方へ入植したコリントス人が本土と切り離して、レウカスは島になった。[9]

 

3 アンピュトリオンの遠征

BC1277年、ミュケナイ人、アテナイ人、そしてテバイ人を含む遠征隊がテレボアイ人の地へ遠征した。[10]

 

3.1 ヘリウスの入植

この遠征の中心人物は、ペルセウスの子ヘリウス (または、ヘレウス)であった。ヘリウスは、既にアルゴス地方にヘロスの町を建設していたが、新天地を求めて遠征を計画した。[11]

ヘリウスは、兄弟エレクトリュオンや甥アンピュトリオンに協力を求めた。アンピュトリオンは、母の弟クレオンや、アッティカ地方のトリコスの町からテバイの町へ逃れて来たデイオンの子ケパロスを遠征に誘った。[12]

遠征隊は、アカルナニア地方西部のイオニア海に浮かぶ島々からテレボアイ人を追い出して植民した。[13]

ヘリウスは、エキナデス諸島に入植した。[14]

 

3.2 ケパロスの入植

ケパロスは、イオニア海で最大の島に入植し、島をケパレニアと呼ばせた。[15]

伝承では、ケパロスがパンディオンの娘プロクリスを殺して、アレオパゴスで裁かれて追放刑に処せられたことになっている。しかし、ケパロスは、アテナイ王アイゲウスによって追放されたアイゲウスの義兄弟たちの一人であった。ヒュギーヌスは、デイオンの子ケパロスがアテナイ人の王であったと伝えているが、ケパロスはアッティカ地方のトリコスの町の王であった。[16]

トリコスの町は、アイゲウスの子テセウスが一つにまとめた12市の中の一つであった。[17]

ヒュギーヌスは、多くの伝承がパンディオンの息子だと伝えているメガラ王ニソスをデイオンの息子だと伝えている。[18]

つまり、ケパロスは、デイオン (または、デイオネオス)という別名を持つアテナイ王パンディオンの息子であった。

 

3.3 遠征の結果

3.3.1 アンピュトリオン

この遠征中、テレボアイ人との戦いで、ペルセウスの子エレクトリュオンと彼の息子たちが戦死した。[19]

ミデイアの町に残っていたエレクトリュオンの娘アルクメナと息子リキュムニオスは孤児になった。

アンピュトリオンは2人をテバイの町に呼び寄せ、アンピュトリオンはアルクメナと結婚した。[20]

アンピュトリオンは、テレボアイ人との戦いで得た鼎をアポロ イスメニアスの神殿に奉納した。[21]

 

3.3.2 イタカの創建

ケパレニア島に住んでいたデイオネオスの子プテレラスの3人の息子たち、イタコス、ネリトス、ポリュクトールは、ケパロスによって、島から追い出された。彼らは、ケパレニア島の北東に隣接した島へ移住して、イタカの町を創建し、島をイタカと呼んだ。[22]

デイオネオスは、テレボアスの孫で、ケパレニア島に住んでいたテレボアイ人の首領であった。[23]

 

3.3.3 ケパロスの結婚

ケパロスはエウリュオデイアと結婚して、アルケシオス (または、アルキシオス)が生まれた。エウリュオデイアはプテレラスの娘であり、ケパロスの捕虜であったと思われる。[24]

プテレラスの先祖は、テラプネの子テレボアスであり、ケパレニア島へ最初に入植したギリシア人であったと推定される。[25]

 

4 エレイアからの入植

BC1244年、アウゲアスの子ピュレウスは、エレイア地方のエリスの町からドウリキオンに入植した。[26]

そのドウリキオンは、ホメロスやストラボンが伝えているエキナデス諸島に属する島を指しているようにも思われる。[27]

しかし、つぎの理由から、ピュレウスがエリスの町から移り住んだドウリキオンは、ケパレニア島にあったと推定される。

1) パウサニアスは、ケパレニア島のパレイスの町がエリス人のランピスの子ティモプトリスの像をオリュンピアに奉納したと伝えている。[28]

2) また、パウサニアスは、昔、パレイス人がドウリキア人と呼ばれていたとも伝えている。[29]

したがって、ケパレニア島のドウリキオンの町がアウゲアスの子ピュレウスの移住先と推定される。

ケパレニア島に先住していたケパロスとピュレウスとの間の接点は不明で、ピュレウスが適地を探して、ケパレニア島を移住先に選んだと思われる。

 

5 シシリーからの移住

BC1240年、シシリー島に住んでいたペラスゴイ人が、イタリア半島から島へ侵入して来たシケルに追われて、アカルナニア地方へ移住して来た。[30]

このペラスゴイ人は、BC1390年にテッサリア地方を追われて、イタリア半島へ渡り、ローマ近くのレジス・ヴィラの町に住んでいた。しかし、BC1300年にリュディア地方から移住して来たマイオニア人に追われてシシリー島へ移住していた。[31]

 

6 ヘラクレスの遠征

BC1237年、ヘラクレス率いる遠征隊が、テスプロティア地方へ遠征した。[32]

 

6.1 アウゲアスの子ピュレウスの遠征参加

これより少し前に、ヘラクレスは、エリスの町のアウゲアスと戦って、町を占領した。[33]

そのとき、ヘラクレスはアウゲアスの長男ピュレウスの願いを聞き入れて、アウゲアスに対して寛大な処置をした。[34]

ピュレウスは、この時の恩に報いるために、ケパレニア島のドウリキオンの町からドウリキア人を率いてヘラクレスの遠征に参加した。[35]

ピュレウスは、テスプロティア地方のエピュラの町の近くを領するエウペテスから胸当てを贈られた。エウペテスは、エピュラの町の支配者ピュレウスの敵対者であったと推定される。[36]

 

6.2 ヘリウスの子タピウスの遠征参加

タピウスは、父ヘリウスがヘラクレスの父アンピュトリオンの助けで、エキナデス諸島に入植することができたことへの恩返しで遠征に参加した。[37]

タピウスは、エキナデス諸島から北西方向の島へ移住して、タポスの町を創建し、島はタポス島と呼ばれるようになった。[38]

 

6.3 ケパロスの子アルケシオス (または、アルキシオス)の遠征参加

アルケシオスもタピウスと同じく、ヘラクレスの父アンピュトリオンへの恩返しで遠征に参加し、ケパレニア島からイタカ島へ居住地を広げた。

アンピュトリオンの遠征のとき、ケパロスはケパレニア島からテレボアイ人を追い出し、テレボアイ人はイタカ島へ移住した。[39]

そのとき、ケパロスはテレボアイ人のプテレラスの娘エウリュオデイアを妻にして、息子アルケシオスが生まれた。[40]

ストラボンは、イタカ島とタポス島の住人は親しい関係だと伝えている。[41]

それらの島の住人が一緒にヘラクレスの遠征へ協力したことと、ヘラクレスの父アンピュトリオンの助けで、両者ともこの地に入植できたからであった。

 

6.4 オイバロスの子イカリオスの遠征参加

オイバロスの子イカリオスは、この遠征に参加して、ラコニア地方からアカルナニア地方に入植した。[42]

イカリオスの2人の息子たち、レウカディオスとアリュゼウスはアカルナニア地方に、彼らの名前に因んだ町を創建した。[43]

イカリオスは、カリュドンの町で遠征隊に合流し、途中、プレウロンの町でテュンダレオスに会い、ラケダイモンへ戻るように説得した。スパルタの町には、イカリオスの子ペリレオス (または、ペリラオス)が残っていたが、未成年者であった。[44]

テュンダレオスは、アイトリア地方からスパルタの町へ移住した。[45]

イカリオスはテレボアイ人との戦いで捕虜にしたリュガイオスの娘ポリュカステ (または、ポリュボイア)を妻にした。[46]

リュガイオスは、この遠征隊に追われてイタリアへ移住したテロンの子オイバロスの兄弟と推定される。[47]

イカリオスとポリュカステから、オデュッセウスの妻になる娘ペネロペが生まれた。[48]

 

6.5 イタリアへの移住

タポス島に住んでいたテロンの子オイバロスは、テレボアイ人を率いてアカルナニア地方からイタリア半島西海岸のカプレアイ (ネアポリスの近く)へ移住した。[49]

 

6.6 コリントスへの嫁入り

この遠征には、コリントスの町のシシュッポスの子オルニュティオンも参加して、テロンの子オイバロスの娘ペイレネを妻にした。[50]

コリントスの町の2つの外港、コリントス湾に面したレカイオンと、サロニコス湾に面したケンクレアイの名前のもととなったレケスとケンクリアスは、オルニュティオンとペイレネの息子たちであった。[51]

 

7 パルナッソスからの嫁入り

7.1 ラエルテスとアンティクリアの遠距離婚

BC1236年、アルケシオスの子ラエルテスは、パルナッソス山近くに住むアウトリュコスの娘アンティクリアを妻に迎えた。[52]

ラエルテスが住むイタカ島から遠く離れたパルナッソス山近くに住む娘との結婚を可能にしたのは、血縁関係であった。

ラエルテスの父アルケシオスの父ケパロスの父は、第8代アテナイ王パンディオンであった。

また、アンティクリアの父アウトリュコスの母ピロニス(または、キオネ)の父もパンディオンであった。

つまり、ラエルテスとアンティクリアは、又従兄妹同士であった。

ラエルテスとアンティクリアの間には、息子オデュッセウスが生まれた。[53]

 

7.2 オデュッセウスの父

AD2世紀初期の著作家プルタルコスは、オデュッセウスの父は、ラエルテスではなく、シシュッポスであると伝えている。[54]

プルタルコスの参照元は、BC5世紀の悲劇詩人エウリュピデスやソフォクレスであったようだ。[55]

コリントスの町とアテナイの町は友好国であったが、BC459年頃、コリントスの町の植民市であったメガラの町がアテナイの町と同盟関係になってから、コリントスの町とアテナイの町は敵対するようになった。ちょうど、アテナイの町のエウリュピデスやソフォクレスの時代であった。[56]

アテナイの町の詩人たちは、ホメロスがコリントスの町の悪党として伝えているシシュッポスをオデュッセウスの父とすることで、敵対するコリントスの町の信用を落とそうとしたと思われる。[57]

しかし、シシュッポスの子グラウコスの子ベレロポンテスの子ヒッポロコスの子グラウコスは、トロイ戦争時代に生きていた。[58]

オデュッセウスがシシュッポスの息子であれば、トロイ戦争時代より3世代前に生きていたことになる。

 

8 エキナデスへの移住

BC1225年、ピュレウスの子メゲスは、ケパレニア島からヘリウスの子タピウスが移住して、住人の少なくなったエキナデス諸島へ移住した。メゲスは、諸島の中で一番大きな島に定住して、故郷と同じドウリキオンと呼んだ。[59]

 

9 ネリコスの攻略

BC1220年、アルケシオスの子ラエルテスは、ケパレニア人を率いてレウカス半島のネリコスの町を攻略した。[60]

ネリコスの町には、テラプネの子テレボアスの息子たちの後裔が住んでいた。[61]

 

10 アルクマイオンの遠征

BC1204年、アンピアラオスの子アルクマイオンは、アルゴスの町からアカルナニア地方へ遠征した。[62]

 

10.1 遠征の目的

10.1.1 誤った伝承

BC4世紀の歴史家キュメのエポロスは、アンピアラオスの子アルクマイオンがテュデオスの子ディオメデスに協力してオイネウスの復讐を果たした後で、アカルナニア地方に進出したと伝えている。[63]

しかし、アルクマイオンの母ヒュペルメストラは、プレウロンの町のテスティオスの娘であり、アルクマイオンが親族を相手の戦いに参加したとは思われない。[64]

ヒュギーヌスは、カパネウスの子ステネロスがディオメデスの遠征に協力したと伝えている。ステネロスはディオメデスの親友であり、ディオメデスの遠征に協力したのは、アルクマイオンではなく、ステネロスであった。[65]

 

10.1.2 本当の目的

アルクマイオンがアカルナニア地方へ遠征した目的は、つぎのようであったと思われる。

当時、アルクマイオンは、エピゴノイのテバイ攻めで獲得したティレシアスの娘マントを含む捕虜たちを連れていた。[66]

後に、マントを含む捕虜たちの一部は、小アジアへ移住した。[67]

しかし、捕虜たちが最初に希望した彼らの移住先は、彼らの王であったエテオクレスの子ラオダマスが移住したイリュリア地方であったと推定される。[68]

アルクマイオンは、捕虜たちが希望したイリュリア地方を目指して遠征したと思われる。

 

10.2 アスタコスの創建

遠征隊がアケロイオス川を越えて、アカルナニア地方に入った所で、アルクマイオンが連れていた捕虜たちの一部がその土地への入植を希望して定住し、アスタコスの町を創建した。あるいは、アンピロキアのアルゴスの町を創建後、その植民市として、アスタコスの町は創建されたのかもしれない。[69]

アスタコスは、テバイの町のスパルトイの名前で、捕虜たちの中にいたアスタコスの後裔が命名したと思われる。[70]

 

10.3 アンピロキアのアルゴスの創建

アルクマイオンは、アンブラキア湾の近くに、アルゴス (後のアンピロキアのアルゴス)の町を創建した。[71]

イリュリア地方を目指していた捕虜たちをそこから見送った後で、アルクマイオンが移住の適地と判断して町を創建したと思われる。あるいは、イリュリア地方まで行くのを断念した捕虜たちを中心にして、町が創建されたのかもしれない。

アンピロキアのアルゴスの町の最初の住人の中には、ゲピュライオイ (フェニキア人)も含まれていたと推定される。BC430年、アンブラキア人と共住したアンピロキア人は、初めてギリシア語を用いるようになったと伝えられている。[72]

 

10.4 アンピロコスの移住

トゥキュディデスは、アンピロコスがトロイ遠征に参加した後で、アンピロキアのアルゴスの町の建設に参加したと伝えている。[92]

しかし、次の理由でアンピロコスは、トロイ遠征に参加しなかったと推定される。

1) アンピロコスは、兄弟アルクマイオンと共にエピゴノイのテバイ攻めに参加した。[93]

そのすぐ後で行われたアルクマイオンによる町の建設に、アンピロコスが参加していたと思われる。

2) アガメムノンからトロイ遠征への参加を求められて、アルクマイオンが拒否したという伝承がある。[94]

アルクマイオンが拒否した遠征に、アンピロコスだけが参加したとは思われない。

3) ホメロスの作品に、アンピロコスが登場しない。

4) ホメロスの軍船目録に、アルゴスの将として3人の名前がある。[95]

当時、アルゴスの町には、3つの王家があったので、その3人の名前は、それぞれの王家の代表の名前であるべきである。

しかし、名前を挙げられたカパネウスの子ステネロスは、アナクサゴラス王家の代表。

メキステウスの子エウリュアロスは、ビアス王家であり、もう一人のディオメデスもビアス王家の代表であった。ディオメデスは、戦士の年齢に達していないアドラストスの子アイギアレオスの子キュアニッポスの代理であった。

もし、アンピロコスがトロイ 遠征に参加したとすれば、アルゴス 3王家のひとつメランプス王家の代表として、名前が挙がっているはずである。

5) アルクマイオンには、3人の妻や多くの子供の名前が伝えられている。しかし、アンピロコスの妻や子供たちについては不明であり、彼は、若くして、アルゴスの町から遠隔の地へ移住したと思われる。

6) アンピロコスは、多くの史料で、コロポンの町で生まれ、キリキア地方のマッロスの町で死んだ、彼の兄アルクマイオンとマントの息子アンピロコスと混同されて伝えられている。

 

11 プレウロンからの嫁入り

BC1202年、アンピアラオスの子アルクマイオンは、プレウロンの町のアケロイオスの娘カリロエを妻に迎えて、2人の息子たち、アカルナンとアンポテロスが生まれた。[96]

アルクマイオンの父アンピアラオスの父オイクレスの妻ヒュペルメストラは、アイトロスの子プレウロンの後裔であった。カリロエの母方の先祖もプレウロンであった。

 

12 トロイ戦争時代

ピュレウスの子メゲスは、ドウリキオンとエキナデスに住む人々を率いて、トロイへ遠征した。[97]

メゲスの配下には、エリスの町の外港キュレネの町の人々もいた。[98]

ラエルテスの子オデュッセウスは、イタカ島や周辺の島々、および、本土に住む人々を率いて、トロイへ遠征した。[99]

 

13 ボイオティアへの移住

BC1188年、シシリー島から移住してアカルナニア地方に住んでいたペラスゴイ人は、ボイオティア地方へ移住して、コロネイアの町を占拠した。[100]

ペラスゴイ人に追われたコロネイアの町の住人は、テッサリア地方のアルネの町へ移住した。[101]

 

14 アンピロキアのアルゴスからの移住

アンピロキアのアルゴスの町からアルゴスの町出身者を先祖に持つ住人が他へ移住して、新たに町を創建した。この時から、アンピロキアのアルゴスの町の住人の中にギリシア語を話す者がいなくなったと推定される。[102]

 

14.1 アナクトリオンの創建

BC1175年、アルクマイオンの子アカルナンは、アンピロキアのアルゴスの町からアンブラキア湾の南岸へ移住して、アナクトリオンの町を創建した。[103]

 

14.2 ポイティアイの創建

BC1175年、アルクマイオンの子ポイティオスは、アンピロキアのアルゴスの町からアスタコスの町の近くへ移住して、ポイティアイの町を創建した。[104]

 

15 オイニアダイの興亡

15.1 オイニアダイの創建

BC1105年、ヘラクレイダイがペロポネソス半島に帰還して、エリスの町を先祖の故郷とするアイトリア人は、ハイモンの子オクシュロスに率いられてエリスの町へ移住した。[105]

カリュドンの町やプレウロンの町に残ったのは、アンピッサの町からトアスと共に移り住んだ人々と、ディオメデスの子アンピノモスと共にイタリア半島から移住してきた人々であった。

その後、両者の間で争いが生じて、ディオメデスの後裔は、アケロイオス川の西側へ移住して、オイニアダイの町を創建した。ディオメデスの後裔は、自らをオイニアダイと呼び、アイトリア人ではなく、アカルナニア人の一員となった。

カリュドンの町やプレウロンの町の住人は、他のアイトリア人と区別するために、自らをアイオリス人と呼んでいた。[107]

 

15.2 オイニアダイの破壊

BC331年、オイニアダイはアイトリア人に攻められ、町は破壊され、住人は追放された。[108]

このアイトリア人は、アケロイオス川を挟んで東側に住むクレテスと思われる。ストラボンが列挙しているローマ時代のアイトリア人の種族の名前に、クレテスが見られる。[109]

このクレテスの攻撃は、スパルタ王アギス3世が主導するマケドニアへの反乱に呼応した行動と思われる。[110]

BC324年、アレクサンドロス大王が発した「追放者復帰王令」は、オイニアダイを追放して自領としていたアイトリア人が強く反発した。アイトリア人は、サモス島を市民に分け与えていたアテナイ人と共に反マケドニアの急先鋒となった。[111]

ローマ時代にも、オイニアダイの町の名前は残っていたようであるが、その住人については、詳しくは不明である。

 

16 ペロポネソス戦争時代

BC459年、スパルタ人に攻められてイトメ山に籠城していたメッセニア人は、メッセニア地方を去って、ロクリス・オゾリス地方のナウパクトスの町へ移住した。[112]

ナウパクトスの町は、アテナイ人がスパルタ人への憎悪のため、ロクリス・オゾリス人を追い出して手に入れ、メッセニア人に提供したものであった。[113]

ナウパクトスのメッセニア人は、アテナイ人の好意に報いろうとして、アテナイ人に敵対していたオイニアダイを包囲し、休戦の上、住人を退去させた。[114]

居住地を追われたオイニアダイは、他のアカルナニア人と共に町を包囲し、8か月後に町を奪還した。

BC455年、アテナイの町のペリクレスは、オイニアダイを除くアカルナニア人を味方に引き入れ、翌年、アイトリア人を従えてオイニアダイを包囲したが、攻略できなかった。[115]

BC424年、アテナイ人は最後まで加盟しないで残っていたオイニアダイを加えてアカルナニア人同盟を結成した。[116]

BC405年、アイゴスポタミの海戦でアテナイ人に勝利したスパルタ人は、ナウパクトスの町からメッセニア人を追放した。[117]

BC389年、カリュドンの町に住むアカイア人が、アカルナニア人やボイオティア人と同盟しているアテナイ人に圧迫されて、スパルタ人に援助を要請したと伝えられている。[118]

恐らく、BC405年にナウパクトスの町からメッセニア人を追い出したスパルタ人が、カリュドンの町からも住人を追い出してアカイア人に与えたものと思われる。[119]

 

17 アカルナニア地方の予言者の系譜

17.1 カルノス

BC1115年、ヘラクレイダイがペロポネソスへ渡るための艦船を建造していたナウパクトスの町にアカルナニア出身の予言者カルノスが現れた。カルノスは、ヘラクレイダイの一人、ピュラスの子ヒッポテスに殺された。[120]

カルノスは、アンピアラオスの子アルクマイオンの孫と推定される。

 

17.2 ヘシオドスに予言術を伝授した予言者

ヘシオドスは、アカルナニア出身の予言者から予言術を学んだ。[121]

ヘシオドスは、ナウパクトスの町に宿泊し、翌日、東へ15kmほど離れたオイネオンで、ガニュクトールの息子たちに殺害された。[122]

この時、ヘシオドスは、アカルナニア地方からボイオティア地方へ帰る途中だったのかもしれない。

 

17.3 メギスティアス

BC480年、アカルナニア出身の予言者メギスティアスは、スパルタ王レオニダスと共にテルモピュライでペルシア人と戦って、戦死した。[123]

メギスティアスと親交のあったケオス島生まれの詩人レオプレペスの子シモニデスは、メギスティアスの墓碑銘を作成した。[124]

メギスティアスは、メランプスの後裔であり、メランプスに始まる予言者の系譜は、少なくとも800年続いたことになる。[125]

 

おわり

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