top of page
  • Grey Twitter Icon
  • Grey LinkedIn Icon
  • Grey Facebook Icon
  • Grey Pinterest Icon
  • Grey Instagram Icon

第30章 トラキア地方の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2025.10.30

1 はじめに

Peloponnesus半島は、ギリシア人が入植したとき、ほぼ無人であったが、Thracia地方には多くの先住民族がいた。

ギリシア人は、Thracia地方へ多くの入植をしているが、一度に多くの町を建設するような大規模な人々の移動はなかった。

Thracia地方に入植したギリシア人は、周辺の先住民族と交じり合い、Straboは、彼らを一様にThraciansと呼んでいる。

この章では、Thracia、Macedonia、Paeonia地方の青銅器時代の歴史について記述する。

 

2 Thraciaの歴史

2.1 Arcadiaからの移住

BC1430年、Arcadia地方中央部に洪水が発生して、被災した住人は、新天地を求めて移住した。Lycaonの子Orchomenusの娘Electraの子Dardanusは、Samothrace島に移住した。[1]

この時、Dardanusの兄弟Emathionは、Chalcidice半島を過ぎた所のThracia地方に入植した。Emathionは、Sithonia地方の支配者になった。[2]

 

2.2 Phoeniciaからの移住

BC1426年、Agenorの子Cadmusは、Phoenicia地方のSidonの町からSamothrace島を経由して、Chalcidice半島の北のThracia地方へ移住した。Cadmusは、Pangaeus山付近で金鉱を発見した。[3]

金鉱を発見したのは、Cadmusに同行していたIdaean Dactylsとも呼ばれるTelchinesであった。[4]

Cadmusの母Telephassaは、その地で死んだ。[5]

 

2.3 BoeotiaやPhocisへの移住

BC1420年、大津波に襲われたCadmusや、Thracia地方に住んでいたTereusは、居住地を追われて、南下した。

Cadmusは、Boeotia地方へ移住してCadmeia (後のThebes)の町を創建した。[6]

Tereusは、Phocis地方のDaulis付近へ移住した。[7]

Tereusは、第5代Athens王Pandionの娘Procne (or Progne)と結婚した。[8]

Tereusは、Thracianだと伝えられている。[9]

しかし、PelasgianであったAthens王の娘と結婚していることから、Tereusは、Dardanusの移民団と途中で分かれて、Thracia地方に入植したPelasgianであったと思われる。

もしかすれば、Tereusは、EmathionやDardanusの兄弟であったかもしれない。

 

2.4 Athensからの移住

BC1390年、大津波に襲われたAthensの町から、Boreasが移民団を率いて、Samothrace島向かいの本土の内陸へ移住した。[10]

Boreasは、Hebrus川を遡上し、支流のRheginia川を遡って、移住の適地を見つけた。Rheginia川は、古くは、Erigon川と呼ばれ、Haemon山の麓にあり、Sarpedon岩が近くにあった。[11]

Boreasの居住地は、現在のTurkey北西部のIpsalaの町の近くであったと推定される。

 

2.5 Eleusisからの移住

BC1390年、Eumolpusの子Ceryxは、Boreasの移民団に参加して、Eleusisの町からThracia地方へ移住した。[12]

Ceryxの入植地は、Hebrus川付近と推定される。

次のことから、Ceryxの妻は、BoreasとOrithyiaの娘Chioneと推定される。

1) Chioneの子EumolpusはThraciansを率いて、Atheniansと戦っていたEleusiniansに味方するために駆け付けた。[13]

Chioneは、第6代Athens王Erechtheusの娘Orithyiaの娘であった。[14]

2) EleusisにChioneの子Eumolpusの墓があった。[15]

3) Ceryxの子Eumolpusの子孫は、Eleusisで入信式を創始した大祭司であった。[16]

 

2.6 Anatoliaからの移住

2.6.1 Salmydessusの創建

BC1380年、Belusの子Phineusは、Cyzicusの町近くのEthiopiansの地から黒海南西岸へ移住して、Salmydessusの町を創建した。[17]

Belusは、Boreasと共に移民団を率いて航海し、Boreasと別れてAegean SeaからHellespontos海峡の奥へ侵入した。Belusは、Propontisに入り、Cyzicusの手前のAesepus川河口付近に入植した。[18]

Phineusは、Danaeの子Perseusの妻Andromedaの父Cepheusの兄弟であった。[19]

Salmydessusの町は、Boreasの居住地を流れるRheginia川の源流近くにあった。

 

2.6.2 Odrysaeの名祖

BC5世紀の歴史家Pherecydesは、Phineusの2人の息子たち、ThynusとMariandynusが、ThyniansとMariandyniansに名前を与えたと伝えている。[20]

また、Bithynia地方で生まれたLucius Flavius Arrianusは、ThynusとMariandynusの父親をOdrysaeの名祖Odrysusだと伝えている。[21]

つまり、Phineusは、Odrysusという別名を持つ、Odrysaeの始祖であったと思われる。

恐らく、Phineusの後裔が、Salmydessusの町から西側へ居住地を広げて行ったと思われる。

 

2.7 Galepsusの創建

BC1375年、Thasusの子Galepsusは、Thasus島の向かいの本土へ移住して、Galepsusの町を創建した。[22]

Galepsusの祖父Cilixは、Agenorの息子で、EgyptからPhoenicia地方のSidonの町を経由して、Troad地方のIda山近くのThebeの町へ移住した。

Cilixの子Thasusは、Thebeの町からThasus島へ移住した。[23]

彼の移住には、冶金技術に優れたIdaean Dactylsも同行したと思われ、Thasus島は、金の産出で有名であった。[24]

Thasusの子Galepsusは、さらに金鉱を求めて本土へ移住したと推定される。

Galepsusの町の近くのScapte-Hyleには、金鉱床があった。[25]

 

2.8 Salmydessusへの嫁入り

BC1370年、Phineusは、Boreasの娘Cleopatraを妻に迎えた。[26]

Phineusの父BelusとCleopatraの父Boreasが同じ移民団にいた。

BelusとBoreasは、それぞれ遠く離れた土地に定住したが、その後も、交流していたことが分かる。

 

2.9 CeryxとChioneの結婚

BC1370年、Eumolpusの子Ceryxは、Boreasの娘Chioneを妻に迎えた。[27]

CeryxとBoreasは、移民団を率いて、一緒に移住した仲間であった。

 

2.10 黒海西岸への移住

BC1365年、Boreasの息子たち、ZetesとCalaisは、Hyperboreansの地へ移住した。[28]

Hyperboreansの住む島は、後に、Alexander the GreatがThracia地方に攻め寄せたときに、Triballiansが逃げ込んだ川の中にある島であった。その島は、黒海西岸に注ぐIster (現在のDanube)川の7つの河口のうち、一番大きいSacred Mouthと呼ばれる河口から22km遡上した所にあった。その島は、周囲が崖になっていて、Peuceと呼ばれていた。[29]

Triballiansは、Alexander the Greatと友好関係を結んだ後も、彼が島へ上陸することを許さなかった。[30]

 

2.11 Eleusisへの遠征

BC1352年、Eleusisの町のEumolpusの子Immaradusと第6代Athens王Erechtheusとの戦いがあり、2人とも戦死した。[31]

Chioneの子Eumolpusは、Thracia地方からEleusisの町を応援するために駆けた。[32]

 

2.12 Eleusisへの移住

BC1350年、Eleusisの町のEumolpusが死に、Eumolpusの子Ceryxは、祭儀を継承するため、Thracia地方からEleusisの町へ移住した。[33]

Immaradusの死後、Eleusisの祭儀は、Immaradusの父Eumolpusが執り行っていた。[34]

 

2.13 Salmydessusから各地への移住

BC1350年、Phineusの息子たちは、Salmydessusの町から各地へ移住した。

 

2.13.1 Bithyniaへの移住

Phineusの子Bithynusは、Salmydessusの町からBosporus海峡を渡ったところへ移住した。[35]

その地方は、最初にBebrycia、その後、Mygdoniaと呼ばれていたが、Bithynusの名前に因んでBithyniaと呼ばれるようになった。[36]

 

2.13.2 Mariandyniaへの移住

Phineusの子Mariandynusは、Bithynusよりもさらに東側の黒海南岸へ移住した。[37]

その地方の住人はMariandyniansと呼ばれるようになり、その地は、後にHeracleaの町になった。[38]

 

2.13.3 Paphlagoniaへの移住

Phineusの子Paphlagon (or Paphlagonus)は、Mariandynusよりもさらに東側の黒海南岸へ移住した。その地方は、Paphlagonの名前に因んでPaphlagoniaと呼ばれるようになった。[39]

 

2.13.4 Phrygiaへの移住

Phineusの子Thynusは、Salmydessusの町からBosporus海峡を渡って、Ascania湖の南西のOlympus山付近へ移住した。[40]

その地方の住人は、Thynusの名前に因んでThyniansと呼ばれるようになった。[41]

Thynusの母Idaeaは、Troy王国の始祖Dardanusの娘であった。Thynusの子Eioneusの子Cisseus (or Dymas)の娘Hecba (or Hecbe)は、Laomedonの子Priamの妻になった。[42]

 

2.14 Tauric Chersonese (現在のCrimea半島)への移住

BC1345年、Phineusの2人の息子たち、PolymedesとClytius (or PlexippusとPandion)は、Salmydessusの町から黒海北岸のTauric Chersoneseへ移住した。[43]

 

2.15 Ethiopiaからの嫁入り

BC1332年、Belusの入植地Ethiopiaに住むBenthesicymeの娘Daeiraは、Thracia地方に住むChioneの子Eumolpusのもとへ嫁いだ。[44]

Benthesicymeは、Belusの子Cepheusの娘と思われる。[45]

EumolpusとDaeiraとの結婚から、Chioneの父BoreasとBelusが同じ移民団にいて、その後も両者の間に交流があったことが分かる。

 

2.16 Eleusisへの移住

BC1315年、Chioneの子Eumolpusは、祭儀を継承するため、Thracia地方からEleusisの町へ移住した。[46]

Eumolpusの子Antiophemusの子Musaeusの子Eumolpusは、入信式を創始して、大祭司となり、彼の後裔は、Eumolpidaeと呼ばれるようになった。[47]

 

2.17 Ismarusの創建

BC1310年、Chioneの子Eumolpusの子Ismarusは、Thracia地方のHebrus川とNestus川の間の海の近くにIsmarusの町を創建した。[48]

Ismarusの妻は、Thraciansの王Tegyriusの娘であった。[49]

恐らく、TegyriusはCiconianであり、Belusの子Phineusの後裔であったと思われる。

詩人Orpheusは、Odrysianであり、Ciconianであった。[50]

つまり、Ciconiansは、Odrysiansの支族であったと思われる。

Ismarusの町は、Ciconiansの町であった。[51]

Oenopionの子EuanthesがIsmarusの町へ移住して来る前は、Ciconiansが住んでいた。[52]

 

2.18 Methoneからの移住

BC1301年、Methonの子Charopsは、Macedonia地方のMethoneの町からThracia地方のBisaltiaへ移住して来た。[53]

Methonは、Olympus山近くに住むAeolusの子Magnesの息子で、Methoneの町の創建者であった。

 

2.19 Pieriaからの嫁入り

BC1278年、Pierusの娘Calliopeは、Pieriaの町からBisaltiaに住むCharopsの子Ismeniusのもとへ嫁いだ。[54]

Charopsは、Calliopeの父Pierusの兄弟Methonの息子であった。

 

2.20 Parnassus近くからの移住

BC1268年、Daedalionの子Philammonは、Parnassus山の近くからChalcidice半島北部へ移住して来た。[55]

Philammonの妻Argiopeは、Odrysianであった。[56]

 

2.21 Thebesへの移住

BC1250年、Charopsの子Ismeniusの子Linusは、BisaltiaからThebesの町へ移住した。[57]

Linusの母Calliopeの兄弟Linusの子Pierusは、Boeotia地方のThespiaeの町に住んでいた。[58]

 

2.22 Chiosからの移住

BC1230年、Ariadneの子Oenopionの子Euanthesは、Chios島からThracia地方のIsmarusの町へ移住した。[59]

EuanthesとEumolpusの子Ismarusとの間に親族関係はない。

Euanthesは、Cariansによって、Chios島から追い出されたと推定される。[60]

 

2.23 Pimpleiaへの嫁入り

BC1230年、Thamyrisの娘Menippeは、Chalcidice半島北部からMacedonia地方のPimpleiaの町に住むPierusの子Oeagrusのもとへ嫁いだ。[61]

OeagrusとMenippeは、Aeolusの子Magnesを共通の先祖とする同族であった。

OeagrusとMenippeには、叙事詩人Orpheusが生まれた。[61-1]

 

2.24 Thebesへの移住

BC1225年、Thamyrisの子Musaeusは、Chalcidice半島北部からThebesの町へ移住した。[62]

Musaeusは、Oeagrusの子Orpheusの弟子であった。[62-1]

 

2.25 Maroneiaの創建

BC1215年、Oenopionの子Euanthesの子Maronは、Ismarusの町の近くにMaroneiaの町を創建した。[63]

Maronは、Ismarusの町のApolloの神官であった。[64]

Maroneiaは、Ciconiansの町であった。[65]

 

2.26 Macedoniaへの移住

BC1190年、Maronの子Macedonは、Maroneiaの町からMacedonia地方へ移住した。[66]

Macedonia地方の名前は、Maronの子Macedonの名前に因んでいるという伝承があるが、Aeolusの子Macedonに因むとする伝承の方が妥当である。[67]

 

2.27 Lemnosからの移住

BC495年、Lemnos島に住んでいたPelasgiansは、Cimonの子Miltiadesに追われて、Chalcidice半島へ移住して、Cleonae, Olophyxis, Acrothoi, Dium, Thyssusの町に定住した。[68]

Pelasgiansを率いたのは、Hermonであった。[69]

その後、Pelasgiansの一部は、Scyros島へ渡った。[70]

また、Pelasgiansの一部は、Chalcidice半島から内陸へ移動して、Paeonia地方の近くへ移住した。

BC429年当時、Paeoniansの隣には、Sintiansが住んでいた。[71]

Sintiansとは、Attica地方のBrauronの町で娘たちを略奪した後で、Lemnos島に住むPelasgiansに付けられた呼び名であった。[72]

Straboは、Thracia地方のSintiansがLemnos島に住みついたと、逆に記している。[73]

 

2.28 Thraciansの系譜

Thracia地方に最初に住んだのは、Electraの子Emathionであり、住人は、Pelasgiansであった。[74]

その後、BoreasやCeryxに率いられたPelasgiansやAeoliansが入植した。

彼らと同じ時期に、Anatolia半島に入植したBelusのもとからBelusの子PhineusがAchaeansを率いて入植した。[75]

Boreas、Ceryx、Belus、それに、先住民族との混血によって、OdrysiansやCiconiansが誕生したと思われる。

Euanthesに率いられて、Chios島から入植したCretansは、Ciconiansと共住した。[76]

Trojan Warより前の時代、Pelasgians、Aeolians、CretansがThracia地方へ入植したが、多くの先住民族と共住したと推定される。

 

3 Macedoniaの歴史

3.1 Thessalyからの移住

BC1350年、Aeolusの2人の息子たち、MagnesとMacedonは、Thessaly地方のArneの町からOlympus山近くへ移住した。Macedonは、Macedonia地方に住んだ最初のギリシア人であり、彼は、Macedoniaの名付け親になった。[77]

 

3.2 Thessalyへの移住

BC1330年、Magnesの子Glaphyrusは、Olympus山近くからThessaly地方のBoebeis湖の近くへ移住して、Glaphyraeの町を創建した。[78]

 

3.3 Methoneの創建

BC1320年、Magnesの子Methoneは、Olympus山近くからThermaic Gulf北西岸へ移住して、Methoneの町を創建した。[79]

但し、当時は集落程度で、Methoneの町と呼ばれるようになったのは、Eretriansが共住するようになってからと思われる。Eretriansは、Trojan War時代にCorcyra島に入植していたが、BC734年、Corinthiansによって島から追放された。Eretriansは、故郷のEuboea島のEretriaの町へ行ったが、上陸を阻止された。Thracia方面へ向かう途中、Methoneの町に住み着いた。[80]

 

3.4 Emathiaの創建

BC1315年、Macedonの子Emathionは、海の近くにEmathiaの町を創建した。[81]

 

3.5 Pieriaの創建

BC1310年、Magnesの子Pierusは、Olympus山の北側にPieria (後のLyngus)の町を創建した。AD12世紀の修辞学者Tzetzesは、Emathion (or Hemathion)の子Aeropusが最初にPieriaを統治したと伝えている。[82]

 

3.6 Europusの創建

BC1305年、Aeolusの子MacedonとCecropsの娘Oreithyiaの子Europusは、Olympus山近くからLudias川とAxius川の間の土地(後のPellaの少し北)へ移住し、Europusの町を創建した。[83]

 

3.7 Berisの創建

BC1305年、Macedonの子Beresは、Olympus山近くから移住して、Macedonia地方にBerisの町を創建した。[84]

 

3.8 Paeoniaからの嫁入り

BC1302年、Magnesの子Pierusは、Paeonia地方からPaeonの娘Evippeを妻に迎えた。[85]

Pierusは、Evippeの祖父Endymionの従兄弟であった。

 

3.9 Bisaltiaへの移住

BC1301年、Methonの子Charopsは、Methoneの町からThracia地方のBisaltiaへ移住した。[86]

 

3.10 MiezaとBeroeaの創建

BC1295年、Macedonia地方にMiezaの町とBeroeaの町が創建された。MiezaとBeroeaは、Aeolusの子Macedonの子Beresの娘たちの名前であった。[87]

 

3.11 Galadraeの創建

BC1285年、Emathionの子Galadrusは、Emathiaの町からPieria地方へ移住して、Galadraeの町を創建した。[TzeAdLyco.1342, Steph.G196.5]

 

3.12 Acessamenaeの創建

BC1280年、Pieriaの町に住むAcessamenusは、Macedonia地方にAcessamenaeの町を創建した。[88]

Acessamenusは、Magnesの子Pierusの息子と思われる。

 

3.13 Pieriaからの嫁入り

BC1261年、Pieriaに住むAcessamenusの娘Periboeaは、Mygdoniaに住むMygdonの子Axiusに嫁いだ。[89]

 

3.14 Boeotiaへの移住

BC1250年、Pierusの子Linusの子Pierusは、Pieriaの町からBoeotia地方のThespiaeの町へ移住した。[90]

Pierusは、Helicon山にムーサ諸女神の神域を造営して、ムーサ女神を9柱と定めた。[91]

Pierusは、有名な詩人Orpheusの祖父であった。[92]

Straboは、PierusをThracianだと記しているが、Pierusは、Hellenの子Aeolusの血を引くAeolianであった。[93]

 

3.15 Creteからの移住

3.15.1 Bottonの入植地

BC1235年、Bottonを指導者とするCrete島の移民団がMacedonia地方に定住した。[94]

Bottonは、Athensの町からCrete島のMinosのもとへ亡命したDaedalusの息子であったと推定される。[95]

Bottonは、兄弟Iapyxと共に、移住先を探してCrete島を出航した。

Iapyxは、Italy半島東南部へ入植した。[96]

Bottonは、一部の人々を率いて、Macedonia地方へ移住した。[97]

Bottonの入植地は、Thermaic Gulfへ注ぐAxius川の西方、Haliacmon川の北方の土地であった。[98]

 

3.15.2 先住者

後のPellaの町の少し北に、Aeolusの子MacedonとCecropsの娘Oreithyiaとの息子Europusが創建したEuropusの町があった。[99]

Bottonの移民団には、Aegeusの時代にAthensの町からCrete島へ送られたAtheniansが含まれていた。[100]

また、Europusの町の住人には、Oreithyiaの嫁入りに伴って移住したAtheniansが含まれていた。

Bottonは、Europusの母Oreithyiaの父Cecropsの子Pandionの娘Merope (or Alcippe)の子Daedalusの息子であった。[101]

つまり、Europusは、Bottonの祖母の従兄であった。

Bottonの入植地は、Bottiaea地方、そこの住人はBottiaeansと呼ばれるようになった。[102]

 

3.15.3 Chalcidiceへの移住

BC6世紀頃、Bottiaeansは、勢力を増したArgeadaeに追われて、Chalcidiansの地に隣接した土地へ移住した。[103]

Bottiaeansは、Bithynia地方のAscania湖東岸に入植して、Ancoreの町を創建した。[104]

 

3.16 Boeotiaからの移住

BC1235年、Pierusの子Oeagrusは、Boeotia地方のThespiaeの町からOlympus山近くのPimpleiaの町へ移住した。[105]

 

3.17 Thraciaからの嫁入り

BC1230年、Pierusの子Oeagrusは、Chalcidice半島北部に住んでいたThamyrisの娘Menippeを妻に迎えた。[106]

OeagrusとMenippeは、Aeolusの子Magnesを共通の先祖とする同族であった。

 

3.18 Thraciaからの移住

BC1190年、Maronの子Macedonは、Thracia地方のMaroneiaの町からMacedonia地方へ移住した。[107]

Maronは、Minosの娘Ariadneの子Oenopionの子Euanthesの息子であった。

Macedonと共にMacedonia地方へ移住した人々は、Cretansであり、彼らの移住先は、Bottiaea地方であったと思われる。

 

3.19 Troyan War時代

BC1188年、Laomedonの子Priamが死に、Antenorの息子たちは、Troyへ遠征して、Iliumの町を占領した。

Mygdonの後裔も、Troyへ遠征した。[108]

AntenorとTheanoの息子Iphidamasは、Macedonia地方に住んでいた。[109]

Antenorの息子たちは、BC1170年に、Hectorの息子たちによって、Iliumの町を奪還されるまで、Troad地方を支配した。

 

3.20 Caranusの入植

BC750年、Pheidonの子Caranusは、Argosの町から移民団を率いて、Bermius山近くのEdessa (後のAegeae)と呼ばれていた土地へ移住した。[110]

CaranusがBermius山近くを移住先に選んだのは、初めて度量衡を定めたPheidonの銀貨鋳造の影響があったと思われる。[111]

Bermius山には、Midasの富を生んだ鉱床があった。[112]

また、少し離れたPaeonia地方では、土地を耕していても金塊が見つるほどであった。[113]

Caranusは、近隣の土地に先住していたCisseusと戦って勝利した。[114]

このCisseusは、Iliadに登場するIphidamasの母方の祖父Cisseusの後裔と推定される。[115]

先祖のCisseusは、Macedonia地方に住んでいた。[116]

 

3.21 Phrygiaへの移住

BC670年、Caranusの子Coenusの子Tirimmusの子Perdicasは、近隣の土地に先住していた人々を追い出した。[117]

Bermius山近くに住んでいたGordiasの子Midasは、Brigesを率いて、Phrygia地方へ移住した。[118]

Pieriansは、Pangaeus山近くのPhagresの町へ移住した。[119]

 

3.22 Mycenaeからの移住

BC468年、Argivesに攻められたMycenaeansは、Mycenaeの町からMacedonia地方のAmyntasの子Alexanderのもとへ逃れた。[120]

Alexanderは、Heracleidaeを率いてArgosの町の支配者になったTemenusの後裔であった。[121]

Argosの町から攻められたMycenaeansがTemenusの後裔Alexanderを頼って亡命するのは、矛盾しているようである。

しかし、当時、Temenusの後裔は、Argosの町の支配者ではなくなっていた。[122]

 

3.23 Macedoniansの系譜

3.23.1 初期の住人

Macedonia地方に最初に住み、地方の名前の由来ともなったのは、Aeolusの子Macedonであり、住人は、Aeoliansであった。[123]

Macedonと彼の兄弟Magnesの後裔は、Macedonia地方の各地へ居住地を広げて、PieriansやEmathiansと呼ばれるようになった。[124]

その後、Botton率いるCretansが移住して来て、彼らはBottiaeansと呼ばれるようになった。[125]

また、Paeonia地方から移住して来て、Bermius山近くに住み着いたMidasの先祖もいた。

Midasは、Mygdonの後裔であり、住人は、Pelasgiansであった。

 

3.23.2 Caranus移住後の住人

Pheidonの子CaranusがArgosの町から移住して来た後で、それまで、Macedonia地方に住んでいた住人は、他へ追いやられた。[126]

しかし、その後のMacedonia地方の住人がDoriansになったわけではなかった。

Caranusの時代のArgosの町の住人には、次の人々が含まれていたと思われる。

1) Heraclesが率いていたAchaeans、Arcadians、Lydians

2) Heraclesの子供たちと共にAttica地方からDoris地方へ移住したIonians

3) Heracleidaeと共にDoris地方からArgosの町へ移住したDorians、Cadmeans

その後、Argivesに追われたMycenaeansがMacedoniansに合流した。[127]

 

3.23.3 領土拡張で取り込まれた住人

Caranusの後裔の領土拡張で、居住地を追われずに、Macedonia地方に取り込まれた住人も多かった。その中には、Parauaeiもいた。[128]

Parauaeiは、Thessaly地方のDotiumに住んでいたが、Lapithsに追われて、Pindus山地のAethiciaへ移住した。[129]

Parauaeiは、Aenianiansの支族Centaursであった。[130]

Aenianiansは、Amphictyonsに名前を連ねるギリシア人であった。[131]

 

4 Paeoniaの歴史

4.1 Elisからの移住

BC1320年、Endymionの子Paeonは、Elisの町からPaeonia地方へ移住した。[132]

同じ頃、Endymionの父Aethliusの兄弟Magnesの子Methoneは、Macedonia地方にMethoneの町を創建していた。[133]

恐らく、Methoneが、従兄弟Endymionの子Paeonを呼び寄せたと思われる。

その証拠に、Paeonの娘Evippeは、Methoneの兄弟Pierusと結婚した。[134]

Paeonの入植地は、Strymon川の上流ではなく、もっと海に近い土地であったと思われる。

 

4.2 Pieriaへの嫁入り

BC1302年、Paeonの娘Evippeは、Paeonia地方からPieriaの町に住むMacedonの子Pierusへ嫁いだ。[135]

Pierusは、Evippeの祖父Endymionの従兄弟であった。

 

4.3 Bisaltiaへの嫁入り

BC1278年、Pierusの娘Calliopeは、Pieriaの町からBisaltiaに住むCharopsの子Ismeniusのもとへ嫁いだ。[136]

Charopsは、Calliopeの父Pierusの兄弟Methonの息子であった。

 

4.4 Anatoliaからの移住

4.4.1 Antenor

BC1244年、Troad地方で、Trosの子Ilusの後裔と、Trosの子Assaracusの後裔の戦いがあった。戦いに敗れたAssaracusの子Capysの子Aesyetesの子Antenorは、Paeonia地方へ移住した。[137]

 

4.4.2 Mygdon

Antenorに味方したMygdonも、Mysia of Olympene地方からPaeonia地方へ移住した。[138]

Mygdonの子Cisseusの娘Theanoは、Antenorの妻であった。[139]

Mygdonと一緒にIdaean Dactyliも、Europeに渡り、Mygdonの後裔Midasの富を掘り出す技術者となった。[140]

 

4.5 Thraciaへの移住

Strymon川流域に住んでいたPaeoniansは、Propontisの北岸へ遠征してPerinthusの町を攻略した。[141]

Perinthusの町は、Samos島を追い出されて、Samothrace島へ逃れたSamiansの一部が、BC1060年に創建した町であった。[142]

このPaeoniansは、Mysia of OlympeneからPaeonia地方へ移住したMygdonの後裔と推定される。Perinthusの町は、昔、Mygdoniaと呼ばれていた。[143]

このPaeoniansの遠征は、Perinthusの創建からDarius I世の時代までの間の出来事であった。[144]

 

4.6 Asiaへの移住

BC490年、Paeoniansの一部(Siropaeonians、Paeoplians)は、Persia大王Dariusの将Megabyzusによって、Asiaへ移住させられた。[145]

 

4.7 Paeoniansの系譜

Paeonia地方に最初に住み、地方の名前の由来ともなったのは、Endymionの子Paeonであり、住人は、Aeoliansであった。[146]

Paeonの娘Evippeは、Pieriaの町に住むMagnesの子Pierusへ嫁ぎ、息子Acessamenusが生まれた。[147]

Acessamenusの娘Periboeaは、Mygdonの子Axiusに嫁いだ。[148]

Mygdonと共に、Anatolia半島からPaeonia地方へ移住して来たAntenorは、Mygdonの子Cisseusの娘Theanoと結婚した。[149]

Mygdonは、Mysia of Olympene地方に居住していたDolionesであり、Dolionesの先祖は、Argosの町に起源を持つPelasgiansであった。[150]

また、Antenorは、Capysの子Aesyetesの息子であり、彼の先祖Dardanusは、Arcadia地方に起源を持つPelasgiansであった。Antenorと共に、Creta島に起源を持つTrojansもPaeonia地方へ移住した。

Trojan War時代、AntenorやMygdonの後裔は、Troad地方へ帰還した。

その後、Paeon、Mygdon、Antenor一族の姻戚関係によって生じた指導者がPaeoniansを支配した。Aeolians、Pelasgians、Trojansが、先住民族と混血して、Paeoniansという独自の種族が誕生した。

 

おわり

bottom of page