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第36章 ギリシアの島々の青銅器時代の歴史

Create:2025.10.30, Update:2025.10.30

1 はじめに

古代ギリシア人は、多くの島々に住んだ。

島には、入植者を率いた指導者や、彼の妻や母の名前が付けられた。

男女両方の説があるCreteを除いて、圧倒的に男性の名前に因んで、島に名前が付けられていた。

女性の名前に因んでいるのは、Aegina、Corcyra、Salamis、Syme、Rhodesがある。

男性の名前に因んでいるのは、Andrus、Ceos、Cephallenia、Chios、Lesbos、Lipara、Naxos、Paros、Samos、Sardinia、Scyros、Taphos、Tenedos、Thasus、Thera、Zacynthusがある。

この章では、つぎの島について記述する。

Aegina、Andrus、Ceos、Cephallenia、Chios、Corcyra、Cos、Cyprus、Cythera、Cythnos、Delos、Echinades、Icos、Imbros、Ithaca、Lesbos、Leucas、Melos、Naxos、Paros、Peparethos、Salamis、Samos、Samothrace、Sciathos、Scyros、Seriphus、Syme、Taphos、Tenedos、Thasus、Thera、Zacynthus。

Lipara、Sardinia、Sicilyについては、「Emigration to Italy」に記述している。

 

2 Aeginaの歴史

Epidaurusの町には、ギリシア人が住む前にCariansが住んでいた。[1]

したがって、Epidaurusの町の一地方と見なされていたAegina島にもCariansが住んでいたと推定される。[2]

 

2.1 Atticaからの移住

BC1465年、Hellenの子Xuthusは、Attica地方北東部にTetrapolis (Oenoe, Marathon, Probalinthus, Tricorynthus)を建設した。[3]

BC1415年、EumolpusがAttica地方に侵入したとき、Oenoeの町の住人はAegina島へ移住した。[4]

彼らの入植の後で、島の名前は、Oenoeになった。[5]

 

2.2 Thessalyからの移住

BC1287年、Actorの子Aeacusは、Thessaly地方のDiaの町からOenoe島へ移住した。[6]

それまでOenoe島に住んでいた人々は、Xuthusの子Ionの後裔に率いられて、Epidaurusの町へ移住した。[7]

Aeacusは、島の名前を、母の名前に因んで、OenoeからAeginaに変えた。[8]

 

2.3 Megaraの争いの仲裁

BC1287年、Aeacusは、Megaraの町の継承をめぐるPandionの子NisusとPandionの娘婿Scironとの争いを仲裁した。Scironは、Pandionより前のMegaraの町の支配者Pylasの息子であった。[9]

Aeacusの2人の妻、PsamatheとEndeis (or Endais)の父Scyrius (or Sciron、Chiron、Scirus)は、Pandionの養子Aegeusの実父であった。[10]

つまり、AeacusとAegeusは義兄弟であり、NisusやScironもAegeusを通して義兄弟であった。恐らく、当時Athens王であったAegeusが、義兄弟同士の争いを義兄弟の中でも敬虔な人物として有名であったAeacusに仲裁させたものと思われる。[11]

 

2.4 Creteからの移住

BC1264年、Crete島のMinosとAthensの町との間で戦いがあり、Minosが勝利した。[12]

その後、CretansがAegina島に入植した。[13]

Aegina島に住んでいたAeacusの息子たちは、Cretansによって、次第に圧迫され、Aeacusの死を契機に、Aegina島から各地へ移住した。

 

2.4.1 Phocisへの移住

BC1256年、Aeacusの子Phocusは移民団を率いて、Aegina島からPhocis地方北部のNaubolenses (後のDrymaea)の町の近くへ移住した。[14]

その町は、Lynceusの子Abasの子Deucalionの子Lynceusの子Ornytusの子Naubolusによって、少し前に創建されていた。[15]

Phocusの子Crisusは、Naubolusの娘Antiphateiaと結婚した。[16]

 

2.4.2 Salamisへの移住

BC1256年、Aeacusの子Telamonは、Aegina島からSalamis島へ移住した。[17]

Telamonは、Cychreusの娘Glauceと結婚し、Cychreusの跡を継いで、Salamis島を治めた。[18]

Glauceは、Telamonの母Endeisの父Scyriusの子Cychreusの娘であり、Telamonの従妹であった。[19]

 

2.4.3 Phthiaへの移住

BC1256年、Aeacusの子Peleusは、Aegina島からThessaly地方のPhthiaの町のActorの子Eurytionのもとへ移住した。[20]

Eurytionは、Peleusの伯父であり、Phthiaの町は、Peleusの父Aeacusの生まれ故郷であった。Peleusは、Eurytionの娘Antigoneと結婚して、Eurytionの跡を継いだ。[21]

 

2.5 Creteからの移住

BC1205年、Carmanorの子Eubulusの娘Carmeの娘Britomartisは、Crete島からAegina島へ移住した。[22]

AD3世紀の著述家Antoninus Liberalisは、Britomartisが漁師Andromedesの船でAegina島に到着したと伝えているが、AndromedesはBritomartisの夫と思われる。[23]

Aegina島にAphaeaの神域があるが、Aphaeaとは、神格化されたBritomartisの名称であった。[24]

Britomartisの移住は、Crete島内での戦乱が原因と思われる。

 

3 Andrusの歴史

3.1 Delosからの移住

BC1180年、Zarexの子Anius (or Anion)の子Andros (or Andreus)は、Delos島からEuboea島の南東の島へ移住した。島は、Androsの名前に因んで、Andrus島と呼ばれるようになった。[25]

DelphiにAndrus島の住人が奉納したAndrosの像があった。[26]

 

3.2 Troadへの移住

BC1160年、Andrus島で反乱が起きて、Androsは、Ida山の南麓へ移住して、Antandrosの町を創建した。[27]

Herodotusは、Hyperboreansの供え物がCarystusの町からAndros島とTenos島を経てDelos島に届けられていたが、Andros島が省略されたと伝えている。[28]

Andros島の省略は、島で反乱が起きて、Androsが追い出されたことが原因と思われる。

Androsの父Aniusは、Delos島のApolloの祭司であった。[29]

 

4 Ceosの歴史

Ceos島は、Hydrousa島と呼ばれていた。[30]

Ceos島の最初の住人は、AchaeansとPelasgiansで、後に、Messeniansが共住した。

 

4.1 Aristaeusの入植

BC1390年、Achaeusの子ArchanderとHypseusの娘Cyreneとの息子AristaeusがCeos島へ入植した。[31]

Aristaeusの移民団の中にParrhasians (Pelasgians)がいたが、移住者の多くはAchaeansであった。[32]

BC1372年、AristaeusはCeos島から両親が住むEgyptへ行き、Egyptから移民団を率いてSardinia島へ移住した。[33]

AristaeusはCeos島を去るとき、島に子孫を残した。[34]

 

4.2 Minosの攻撃

BC1264年、MinosはCeos島を攻撃して、捕虜にしたDexitheaを妻にした。[35]

Dexitheaには、息子Euxantiusが生まれ、EuxantiusはCeos島の支配者になった。[36]

Dexitheaは、Cyreneの子AristaeusがCeos島に残した子供たちの子孫であった。[37]

 

4.3 Nestor伝承

Straboは、Neleusの子NestorがTroyから帰還途中にCeos島に立ち寄ってNedusian Athenaの神域を造営したと伝えている。[38]

しかし、Homerは、NestorがTroyからEuboea島を経由して、4日目にArgosの町の近くに到着したと伝えている。[39]

後に、Messenia湾に注ぐNedon川近くの住人がCeos島へ移住して、自分たちが造営した神域を由緒あるものにみせようとして、造営主をNestorにしたと思われる。

 

4.4 Euxantiusの子孫

BC5世紀の詩人Xenomedesは、BC6世紀頃、Ceos島に住んでいたAcontiusは、Dexitheaの子Euxantiusの子孫だと伝えている。[40]

Ceos島には、Chrysoの子Eupylusが建設したIulisの町、Megaclesが建設したCarthaeaの町、Acaeusが建設したPoeessaの町、Aphrastusが建設したCoresusの町があった。[41]

Acontiusは、Iulisの町に住んでいたことから、Chrysoの子EupylusもEuxantiusの子孫であったと思われる。[42]

 

4.5 Naupactusからの移住

Ceos島の呼び名は、Naupactusの町から島へ移住したMeliaの子Ceosの名前に因んで名付けられた。[43]

Naupactusの町は、BC12世紀の終わり頃、Aristomachusの子Temenusによって建設された。[44]

Naupactusの町から少なくとも2度、次のような住人の大移動があった。

1) BC459年頃、Ozolian LocriansがAtheniansによって、Naupactusの町から追放された。[45]

Ceos島は、Athensの町に近くにあり、Atheniansによって追い出された人々が、Athensの町の近くへ移住したとは思われない。

2) BC405年、MesseniansがSpartansによって、Naupactusの町から追放された。[46]

故郷を追われたMesseniansは、Athensの町の好意でNaupactusの町に住んでいた。[47]

Naupactusの町を追い出されたMesseniansが、彼らの味方であるAthensの町の近くにあるCeos島へ移住したと思われる。

つまり、Meliaの子Ceosと共にCeos島に入植したのは、SpartansによってMessenia地方から追い出されたMesseniasであったと推定される。

 

5 Cephalleniaの歴史

5.1 Laconiaからの移住

BC1390年、Lelexの娘Therapneの子Teleboasは、Laconia地方のTherapneの町からAcarnania地方へ移住した。[48]

Lelexは、Argosの町からEgyptへ移住したIasusの娘Ioの後裔であった。Teleboasが率いた人々は、Pelasginasであったが、Lelexの名前に因んで、Lelegesと呼ばれた。[49]

Teleboasには、22人の息子たちがいて、彼らはTeleboansと呼ばれるようになり、Acarnania地方全域に居住地を広げた。[50]

Teleboansは、Cephallenia島にも住み着いた。

 

5.2 Atticaからの移住

BC1277年、Deionの子Cephalusは、 Teleboansの地へ遠征して、Ionian Seaで最大の島に入植し、島をCephalleniaと呼ばせた。[51]

Cephalusは、Attica地方のThoricusの町の王であったが、Aegeusに追われて、Thebesの町へ移住し、そこからHeraclesの父Amphitryonの遠征に参加した。[52]

Cephalusは、島に住んでいたTeleboansと戦った。Cephalusは、捕虜にしたPterelasの娘Euryodeiaを妻にして、息子Arcesius (or Arcisius)が生まれた。[53]

Cephalusによって、Cephallenia島から追い出されたDeioneusの子Pterelasの3人の息子たち、Ithacus、Neritus、Polyctorは、Ithaca島へ移住した。[54]

 

5.3 Eleiaからの移住

BC1244年、Eleia地方のElisの町からAugeasの子PhyleusがDulichiumに入植した。[55]

HomerやStraboは、そのDulichiumがEchinades諸島の島だと伝えている。[56]

しかし、つぎの理由から、PhyleusがElisの町から移り住んだDulichiumは、Cephallenia島にあったと推定される。

Pausaniasは、Cephallenia島のPaleisの町がEleanのLampisの子Timoptolisの像をOlympiaに奉納したと伝えている。また、彼は、Paleansが昔、Dulichiansと呼ばれていたとも伝えている。[57]

したがって、Cephallenia島のDulichiumの町がAugeasの子Phyleusの移住先と推定される。

Cephallenia島に先住していたCephalusとPhyleusとの間の関係は不明である。

 

6 Chiosの歴史

Chios島は、Aethalia、Chia、Macris、Pityusaとも呼ばれていた。[58]

 

6.1 Thessalyからの移住

BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Aeolisに追われて各地へ移住した。[59]

Pelasgiansの一部は、Chios島へ移住した。[60]

 

6.2 Lesbosからの移住

BC1370年、Aeolusの子Macareusの長男は、Lesbos島からChios島に入植した。[61]

Macareusの長男は先住民の娘と結婚して、息子Chiosが生まれた。[62]

このChiosの名前に因んで、島がChiosと呼ばれるようになった。[63]

 

6.3 Troadからの移住

BC1295年、Minosは、Troad地方からCrete島へ移住した。[64]

この時、Minosの兄弟Rhadamanthusは、Chios島に定住した。[65]

 

6.4 Naxosからの移住

BC1245年、Minosの娘Ariadneの子Oenopionは、Naxos島からChios島へ移住した。[66]

Oenopionの息子たち、Talus、Euanthes、Melas、Salagus、Athamasも父に同行した。[67]

 

6.5 本土への移住

BC1230年、Rhadamanthusの子Erythrusは、Chios島から本土へ渡り、Erythraeの町を創建した。[68]

 

6.6 Thraciaへの移住

BC1230年、Oenopionの子Euanthesは、Chios島からThracia地方のIsmarusの町へ移住した。[69]

 

6.7 Euboeaからの移住

6.7.1 Amphiclusの移住

BC1075年、Euboea島のHistiaeaの町のAmphiclusがChios島に入植した。[70]

Histiaeaの町は、EpigoniのThebes攻めの後でThebesの町から逃れた人々によって創建された。[71]

その後、Trojan Warの後で、Athensの町から移民団を率いてEuboea島へ渡ったEllopsによって、Histiaeaの町は、占領された。[72]

 

6.7.2 Ionian Leagueへの加入

BC1020年、Amphiclusから4代目のHectorは、Chios島からAbantesやCariansを追い出して、Ionian Leagueに加入した。[73]

 

6.7.3 Amphiclusの素性

Amphiclusと共にChios島へ移住した人々は、Thebesの町からではなく、Athensの町からHistiaeaの町へ移住したIoniansであったと思われる。

Amphiclusの後裔HectorがIonian Leagueへの加入が認められたことが、その証拠である。

Ellopsが占領した町から移民団を率いていることから、Amphiclusは、Ellopsの兄弟と思われる。

Ellopsの兄弟Aeclusは、Eretriaの町を創建した。[74]

後に、Eretriaの町からGephyraeansが、Attica地方のAphidnaの町へ移住している。[75]

また、Straboは、Aeclus と彼の兄弟Cothusを非ギリシア人だと推定している。[76]

以上のことから、Amphiclusは、Gephyraeanであったと推定される。

 

6.8 Chiosの町の創建

Chios島がIonian Leagueに加入後、Egertiusが複数の種族で構成された大規模な移民団を率いて移住して来て、Chiosの町を建設した。[77]

Herodotusは、BC480年に、Greeceへ進攻したXerxesの軍勢には、Chios島のPelasgiansも含まれていたと述べている。[77-1]

Egertiusの移民団の中に、大勢のPelasgiansがいたと推定される。

 

7 Corcyraの歴史

7.1 Corinthからの移住

BC1237年、Aesonの子Jasonは、Amphitryonの子Heraclesと共にThesprotia地方へ遠征して、Scheria (後のCorcyra)島へ入植した。[78]

Jasonは、Corinthの町をAeolusの子Sisyphusに託して、彼の娘Corcyraを妻にして、島へ移住した。島は、Jasonの妻の名前に因んで、Corcyraと呼ばれるようになった。[79]

 

7.2 Ephyraへの移住

JasonとMedeaとの間の息子Mermerusは、Corcyra島からThesprotia地方のEphyraの町へ移住した。Trojan Warの少し前、Laertesの子Odysseusは、Ephyraの町に住むMermerusの子Ilusを訪問した。[80]

 

7.3 Jasonの後裔たち

Corcyra島は、JasonとCorcyraの息子Phaeaxに継承され、島民は、Phaeaciansと呼ばれた。[81]

Phaeaxの跡を継いだ、彼の息子Alcinousの屋敷には、吟遊詩人たちがいた。

その中の一人、Demodocusは、Argosの町のAutomedesやPerimedesに師事して吟遊詩人となり、Pythia祭の競技会で賞を獲得した。[82]

Alcinousの娘Nausicaaは、Odysseusの子Telemachusと結婚した。[83]

 

7.4 Eretriaからの移住

BC8世紀頃、Euboea島のEretriansは、Corcyra島に植民した。[83-1]

 

7.5 Corinthからの移住

BC734年、Corinthの町からの移民団がCorcyra島に植民して、Eretriansを追放した。

Eretriansは、故郷のEuboea島のEretriaの町へ上陸しようとしたが阻止されて、Macedonia地方のMethoneの町に住み着いた。[84]

 

7.6 Corinthiansとの戦い

第29回Olympiad (664 BC)の年に、CorinthiansとCorcyreansの海戦があった。

Isaac Newtonは、この海戦が史上最古の海戦だと伝えている。[85]

 

8 Cosの歴史

Cos島の名前は、Cariansによって名付けられた。[86]

 

8.1 Rhodesからの移住

BC1415年、Erysichthonの子Candalusは、Rhodes島からCos島へ移住した。CandalusはHeliadaeの一人であったが、内紛によりRhodes島を去った。[87]

 

8.2 Lesbosからの移住

BC1340年、Macareusの子Neandrusは、Lesbos島からCos島へ移住した。[88]

 

8.3 Heraclesの遠征

Heraclesは、Troyからの帰路、流されてCos島に立ち寄ったと伝えられる。[89]

HeraclesのCos島訪問が作り話でないとすれば、つぎのようであったと推定される。

BC1244年、Cos島の支配者Meropsは、Eurypylusによって島から追い出されて、Heraclesに援助を求めた。Eurypylusは、Miletusの町の生まれで、Meropsの娘Clytiaと結婚していた。HeraclesはMeropsを帰還させようとしたが、Eurypylusに妨害されて、戦いとなった。この時、Heraclesを負傷させたChalcodon (or Chalcon)は、Eurypylusの息子であった。[90]

Meropsは、Lesbos島からCos島へ移住したMacareusの子Neandrusの後裔と推定される。[91]

 

8.4 Trojan War

Heraclesは、Cos島のEurypylusの娘Chalciopeとの間に、息子Thessalus (or Thettalus)をもうけた。Thessalusの2人の息子たち、Pheidippus (or Phidippus)とAntiphusは、Cos島の人々を率いてTroyへ遠征して、戦死した。[92]

Cos島のSisyphusがTroy遠征に従軍して記録を残し、それを基にして、HomerがIliadを書いたと伝えられている。[93]

 

8.5 Asclepiusの後裔との関係

Thessalusの息子たちの後裔は、その後もCos島に住み続けた。BC4世紀初頭の医学の父Hippocratesは、Heraclesから20代目の子孫であった。[94]

BC1186年、AchaeansがTroyで敗れた後、Asclepius (or Aesculapius)の子Podalirusは、Asia Minorを放浪した。Caria地方のBybastusの町で、Podalirusは、Damaethusの娘Syrnaと結婚した。Damaethusは、Minosの娘Ariadneの子Staphylusと推定される。

Podalirusは、妻の名に因んだSyrnusの町を創建した。[95]

Cos島に住むHeraclesの子Thessalusの後裔が、Cos島のすぐ近くにあるSyrnusの町からAsclepiusの子Podalirusの後裔を妻に迎えたと推定される。[96]

 

8.6 Argosからの移住

BC1070年、Temenusの子Ceisusの子Althaemenesは、Argosの町からDoriansとPelasgiansを率いてRhodes島へ入植した。[97]

彼らの移住の原因は、Peloponnesosに発生した飢饉であった。[98]

Althaemenesの移民団の一部は、Rhodes島からCos島へ渡った。[99]

Cos島は、Lindus、Ialyssus、Cameirus、Cnidus、Halicarnassusと共にDoric Hexapolisの一つになった。[100]

 

9 Cyprusの歴史

Cyprus島は、森で覆われ、耕作に適した土地がなかった。その後、銅や銀を製錬するため、木を伐採して、多くの人々が島に住むようになった。[101]

 

9.1 Creteからの移住

BC1430年、Celmis (or Kelmis, Scelmis)とDamnameneus (or Damnaneus)は、Crete島からCyprus島へ移住して、鉄を発見した。彼らはCrete島で最初に鉄を発見し、その後、広い範囲で探鉱活動をしていた。[102]

 

9.2 Phoeniciaからの移住

BC1410年、Pygmalionは、Cyprus島の北東部にCarpasiaの町を創建した。[103]

Carpasiaの町は、Cyprus島内で最初に創建されたギリシア人の町であった。

Pygmalionは、Phoenicia地方のTyreの町に住むAstynousの子Sandocusの親族と思われる。

Sandocusの子Cinyrasと、Pygmalionの娘Metharmeとの結婚から推定して、PygmalionとSandocusは、同時期にTyreの町を去ったと思われる。

Sandocusは、Cilicia地方にCelenderisの町を創建した。[104]

Astynousは、初代Athens王Cecropsの娘Herseの子Cephalusの子Tithonusの子Phaethonの息子であった。[105]

 

9.3 Ciliciaからの移住

BC1385年、SandocusとPharnaceとの間の息子Cinyrasは、Celenderisの町からCyprus島の南西海岸近くへ移住して、Palaepaphosの町を創建した。[106]

Cinyrasは、Pygmalionの娘Metharmeと結婚して、娘Laogore (or Laodice)が生まれた。[107]

 

9.4 Arcadiaへの嫁入り

BC1360年、Cinyras娘Laogoreは、Palaepaphosの町からArcadia地方に住むArcasの子Elatusに嫁いだ。[108]

ElatusとLaogoreの結婚は、Arcadia生まれのLaogoreの祖母Pharnaceとの縁であろうと推定される。

Pharnaceの父Megassaresは、Dardanusと共に、Arcadia地方からSamothrace島へ移住し、そこから、Cadmusの移民団に参加して、Boeotia地方へ移住した。[109]

 

9.5 Dryopisからの移住

BC1230年、MaliansとHeraclesは、Dryopis地方からDryopiansを追い出した。[109-1]

その時、Dryopiansの一部は、Cyprus島へ移住した。[109-2]

 

9.6 Salamisからの移住

BC1225年、Telamonの子Teucerは、Salamis島からCyprus島へ移住した。Teucerは、Palaepaphosの町のCinyrasの娘Euneと結婚した。[110]

Teucerの移住の目的は、Amathusの町で産出される貴重な鉱石を手に入れるためであった。Cinyrasの母は、Amathusの町の名付け親であった。[111]

Cinyrasは、Amathusの町で産出される貴重な鉱石により、Midas王と並び称される富豪の代名詞になった。[112]

 

9.7 Paphosの創建

BC1188年、Ancaeusの子AgapenorはArcadiansを率いて、Arcadia地方のTegeaの町からAchaeansのTroy遠征に参加した。[113]

BC1186年、Achaeansは、Iliumの町との戦いに敗れた。Agapenorは、Troad地方からCyprus島へ逃れて、Palaepaphosの町の近くにPaphosの町を創建した。[114]

AgapenorがCyprus島を移住先に選んだのは、銅の採掘のためであった。[115]

 

9.8 Salamisの創建

BC1186年、Teucerは、Achillesと共にTroyへ遠征した彼の兄弟Ajaxを助けるためにCyprus島からIliumの町へ駆け付けた。しかし、Teucerが到着したのは、Ajaxが死に、Achaeansが戦いに敗れた後であった。[116]

Teucerは、移住を希望したTrojansを連れて、Cyprus島へ戻り、Salamisの町を創建した。[117]

 

9.9 Ciliciaへの移住

BC1160年、Ajaxは、Cyprus島からCilicia Tracheiaへ移住してOlbe一帯を支配した。[118]

Ajaxは、Salamisの町のTelamonの子Teucerの息子と推定される。

 

10 Cytheraの歴史

10.1 Mycenaeによる島の領有

次のことから、Agamemnonの時代、Cythera島は、Mycenae領であったと推定される。

1) Cythera島近くのLaconia地方のMaleae岬近くのOnugnathus半島にAgamemnonが造営したAthenaの神域があった。[119]

2) Pelopsの子Thyestesと彼の息子Aegisthusは、Cythera島に住んでいた。[120]

 

10.2 Mideaからの移住

BC1251年、Heraclesは、Thebesの町から彼の父の旧領Tirynsの町へ移住した。Heraclesと一緒にThebesの町に住んでいたLicymniusも彼の父の旧領Mideaの町へ帰還した。[121]

それまでMideaの町に住んでいたPelopsの子Atreusは、北へ移住して、Cleonaeの町を創建した。[122]

また、Atreusと一緒に、Mideaの町に住んでいたPelopsの子Thyestesは、Cythera島へ移住した。[123]

 

10.3 Aeneas伝承

TroyからItalyへ向かう途中、Anchisesの子AeneasがCythera島に立ち寄って、Aphroditeの神殿を造営したという伝承がある。[124]

次のことから、この伝承は作り話と推定される。

1) Aeneasは、Sicily島で生まれ、Troad地方に住んだことがないと思われる。

2) Herodotusは、彼の少し前の時代まで、Cythera島は、Argos領であったと記している。[125]

つまり、AeneasがTrojan Warに参加したという伝承が正しいとしても、敵の島に神殿を造営できるはずがない。

 

11 Cythnosの歴史

Herodotusは、Cythnos島には、Dryopiansが住んでいたと記している。[126]

BC1230年、Heraclesは、Dryopis地方からDryopiansを追い出した。[127]

その時、Dryopiansは各地へ移住したが、彼らの一部が、Cythnos島に移住したと推定される。

 

12 Delosの歴史

12.1 Apollo神殿の建立

BC1525年、初代Athens王Cecropsの息子Erysichthonは、Delos島にApollo神殿を建立した。[128]

Cecropsは、EgyptとAttica地方の間を航海しているが、Delos島は特別な島であったと思われる。[129]

 

12.2 Erysichthonの死

BC1515年、 Cecropsの子Erysichthonは、Delos島での祭儀を終えて、Athensの町へ帰る途中で死去した。[130]

Erysichthonは、Prasiaeの町に埋葬された。[131]

 

12.3 Theseusの寄港

BC1241年、Aegeusの子Theseusは、Crete島からAthensの町へ帰る途中、Delos島に立ち寄った。[132]

当時のDelos島の支配者は、Theseusの父Aegeusの父Scyrius(or Chiron)の子Carystusの子Petraeusの子Zarexであった。つまり、Theseusの従兄弟がDelos島を治めていた。

 

12.4 Aeneas伝承

Zarexの子Aniusは、Troy陥落後、Italyへ向かう途中でDelos島に立ち寄ったAnchisesの子Aeneasを歓待したという伝承がある。[133]

次のことから、この伝承は作り話と推定される。

1) Aeneasは、Sicily島で生まれ、Troad地方に住んだことがないと思われる。

2) Aniusの父Zarexと、Aeneasの敵Achillesとは、第7代Athens王Cecropsを共通の先祖とする又従兄弟であった。

 

13 Echinadesの歴史

13.1 Argolisからの入植

BC1277年、Perseusの子Heliusは、兄弟Electryonや甥Amphitryonと共にGreece北西部へ遠征した。Heliusは、Echinades諸島に入植した。[134]

これより前に、Heliusは、Argolis地方にHelosの町を創建していたが、新天地を求めて移住した。[135]

 

13.2 Taphosへの移住

BC1237年、Heliusの子Taphiusは、Echinades諸島からLeucas半島近くの島へ移住して、Taphosの町を創建した。[136]

 

13.3 Cephalleniaからの移住

BC1225年、Phyleusの子Megesは、Cephallenia島のDulichiumの町からEchinades諸島の中で一番大きな島へ移住して、Dulichiumの町を創建した。[137]

 

14 Icosの歴史

BC1245年、Minosの娘Ariadneの子Staphylusは、Naxos島からIcos島に植民した。[138]

Staphylus自身は、Icos島の近くのPeparethos島に住んだ。[139]

 

15 Imbrosの歴史

15.1 Troadからの移住

BC1431年、Idaean DactylsとCabeiriは、Troad地方からImbros島、Samothrace島、Lemnos島へ移住した。[140]

Idaean Dactylsは探鉱活動のため、Cabeiriは信仰を広めるために島を訪れた。

 

15.2 Thessalyからの移住

BC1236年、Iolcusの町に住んでいたMinyansが内乱を起こして、Thessaly地方から追放されて、Lemnos島やImbros島へ移住した。[141]

Minyansは、Colchis地方への航海をしていたが、Lemnos島やImbros島は、Thessaly地方からHellespontos海峡までの最短経路に位置していた。

 

15.3 Athensからの移住

BC1115年、PelasgiansはAtheniansによって、Athensの町から追放されて、Lemnos島やImbros島へ移住した。[142]

Pelasgiansによって、Imbros島を追い出されたMinyansは、Lemnos島のMinyansと共に、Laconia地方へ移住した。[143]

BC5世紀のIoniaの反乱のとき、Imbros島には、Pelasgiansが住んでいた。[144]

 

16 Ithacaの歴史

16.1 Cephalleniaからの移住

BC1277年、Deioneusの子Pterelasの3人の息子たち、Ithacus、Neritus、Polyctorは、Deionの子Cephalusに追われて、Cephallenia島からIthaca島へ移住した。[145]

彼らは、Cephallenia島に先住していたTeleboansであった。

Pterelasの息子たちは、Ithaca島にIthacaの町を創建した。[146]

 

16.2 Cephalleniaへの嫁入り

BC1256年、Ithacusの娘Chalcomedusaは、Ithacaの町からCephallenia島に住むCephalusの子Arcesius (or Arcisius)のもとへ嫁入りした。[147]

Arcesiusの母Euryodeiaは、Ithacusの姉妹で、ChalcomedusaとArcesiusは従兄妹同士であったと推定される。[148]

 

16.3 Cephalleniansとの戦い

BC1237年、Heracles率いる遠征隊が、Thesprotia地方へ遠征した。[149]

Cephallenia島に住むCephalusの子Arcesius (or Arcisius)も遠征隊に参加して、Teleboansと戦と戦った。Arcesiusは、Ithaca島に住むTeleboansを追い出して、島へ移住した。[150]

 

16.4 Parnassus近くからの嫁入り

BC1236年、Arcesiusの子Laertesは、Parnassus山近くに住むAutolycusの娘Anticliaを妻に迎えた。[151]

Laertesが住むIthaca島から遠く離れたParnassus山近くに住む娘との結婚を可能にしたのは、血縁関係であった。

Laertesの父Arcesiusの父Cephalusの父は、第8代Athens王Pandionであった。

また、Anticliaの父Autolycusの母Philonis(or Chione)の父もPandionであった。

つまり、Laertesは、Anticliaの又従兄であった。

LaertesとAnticliaの間には、息子Odysseusが生まれた。[152]

 

16.5 Nericusの攻略

BC1220年、Arcesiusの子Laertesは、Cephalleniansを率いてLeucas半島のNericusの町を攻略した。[153]

BC1237年のHeraclesの遠征のとき、Telonの子OebalusはTeleboansを率いてAcarnania地方からItaly半島西海岸のCapreae(near Neapolis)へ移住した。[154]

そのときに移住しないで、Leucas半島のNericusの町に残っていたTeleboansがいたと思われる。

 

16.6 Trojan War

Laertesの子Odysseusは、Ithaca島や周辺の島々の住人を率いて、Troy遠征物語に登場する。[155]

 

17 Lesbosの歴史

17.1 Argosからの移住

BC1560年、Triopasの子Xanthusは、Argosの町からLesbos島へ入植した。当時、島は無人で、Issaと呼ばれていた。Xanthusの入植後、島は、Pelasgiaと呼ばれるようになった。[156]

 

17.2 Rhodesからの移住

BC1415年、Erysichthonの子Macarは、Rhodes島からLesbos島へ移住した。[157]

Macarの移住は、Heliadaeと呼ばれる、Erysichthonの息子たちの兄弟間の争いが原因であった。[158]

 

17.3 Peloponnesusからの移住

BC1390年、Lesbos島は大津波に襲われて荒廃した。[159]

BC1389年、Achaia地方のOlenusの町に住むAeolusの子Macareusは、IoniansやPelasgiansを含む移民団を率いて、Pelasgia島へ移住した。[160]

Pelasgiansは、Deucalionの息子たちによってThessaly地方を追われた人々であった。[161]

 

17.4 島々への移住

Macareusの息子たちは、近隣の島々へ移住して勢力範囲を広げ、Pelasgia島はMacareusの家と呼ばれるようになった。[162]

BC1370年、Macareusの長男は、Chios島に入植した。[163]

BC1365年、Macareusの子Cydrolausは、Samos島に入植した。[164]

BC1340年、Macareusの子Leucippusは、Rhodes島に入植した。[165]

BC1340年、Macareusの子Neandrusは、Cos島に入植した。[166]

Macareusと彼の息子たちが支配した島々は、Macaronと呼ばれた。[167]

 

17.5 Ozolian Locrisへの嫁入り

BC1356年、Macareusの娘Amphissaは、Ozolian Locris地方のAmphissaの町に住むPhytiusの子Oineusのもとへ嫁いだ。[168]

Macareusは、Oineusの父Phytiusの父Orestheusの姉妹Protogeniaの息子であった。[169]

つまり、Oineusは、Amphissaの又従兄であった。

 

17.6 Thessalyからの移住

BC1340年、Lapithusの子Lesbosは、Thessaly地方から移民団を率いて、Lesbos島へ移住した。Lesbosは、Macareusの娘Methymaと結婚した。[170]

Methymaは、Lesbosの父Lapithusの兄弟Macareusの娘であった。

つまり、Methymaは、Lesbosの従妹であった。

 

17.7 王位継承争い

Trosの子Ilusの死後、Wilusa (Troy)の王位継承争いが起こった。

BC1295年、Phaenodamasが、Ilusの子LaomedonをIliumの町から追放した。

Laomedonは、Hittite軍と共にIliumの町を攻めて、Phaenodamasを殺して、王位を奪還した。[170-1]

Phaenodamasの協力者Piyama-Raduは、Lesbos (Lazpa)島へ逃れた。[170-2]

当時、Lesbos島は、Hittiteの属国Seha River Landの支配を受けていた。[170-3]

 

17.8 Trojan War時代

17.8.1 Hypsipylusの移住

Laomedonの子Priamの死後、Troyで王位継承争いが起こった。

BC1188年、Antenorの息子たちが、Priamの息子たちをIliumの町から追放して、町を占拠した。[170-4]

Antenorの子Hypsipylusは、Lesbos島へ移住した。[170-5]

 

17.8.2 Achaeansの攻撃

BC1188年、Lesbos島に住んでいたPhorbasは、Achillesに攻められて、彼の娘Diomedeaは捕虜になった。[171]

Phorbasの子Ilioneusは、Iliumで戦死した。[172]

また、Achillesは、Lesbos島に住んでいたAntenorの子Hypsipylusと戦った。[173]

 

17.9 Achaeansによる植民

BC1126年、Orestesの子Penthilusは、Boeotia地方のAulis港を出港し、Lesbos島を占領して、植民した。[174]

BC1055年、Archelausの子Grasは、Lesbos島を再占領して、Mysia地方とIonia地方の間のAeolis地方を領有した。[175]

 

18 Leucasの歴史

Leucasは、BC657年にCorinthiansが本土と切り離すまでは、島ではなく、半島であった。[176]

 

18.1 Laconiaからの入植

BC1390年、Lelexの娘Therapneの子Teleboasは、Laconia地方のTherapneの町からAcarnania地方へ移住した。[177]

Teleboasには、22人の息子たちがいて、その一部は、Leucasに住んだ。[178]

Teleboansが最初にLeucasに入植したのは、BC1365頃と推定される。

 

18.2 Laconiaからの入植

BC1220年、Arcesiusの子LaertesはCephalleniansを率いて、Leucas半島のNericusの町を攻略した。[179]

Nericusの町には、Teleboansが住んでいたと推定される。[180]

 

19 Melosの歴史

19.1 Athensからの移住

BC1186年、第11代Athens王Menestheusは、Theseusの子Demophonによって、Athensの町から追放されて、Melos島へ移住した。[181]

BC1181年、Menestheusは、Melos島で死んだ。[182]

 

19.2 Amyclaeからの移住

BC1070年、Apodasmos率いる移民団は、Melos島に入植した。[183]

Apodasmosは、Heracleidaeと裏取引きして、Amyclaeの町を手に入れたPhilonomusの息子と思われる。[184]

HerodotusやThucydidesは、Melos島民をLacedaemonからの植民者と記している。[185]

 

20 Naxosの歴史

Naxos島は、Strongyle、Dia、Dionysusと呼ばれていた。[186]

また、Naxos島は、豊かな島であったためLittle Sicilyとも呼ばれていた。[187]

Naxos島の最初の住人はThraciansで、Aeoliansが彼らを追い出した。その後に、LelegesがAeoliansと共住した。さらに、Cretansが彼らと共住した。BC11世紀にはIoniansが島に入植した。

 

20.1 Butesの入植

BC1340年、Boreasの子Butesは、兄弟Lycurgusと争い、Strongyle (後のNaxos)島へ移住した。[188]

Boreasは、第6代Athens王Erechtheusの双子の兄弟で、Athensの町の神官になったButesの息子と推定される。[189]

Boreasは、Samothrace島の北のThracia地方に住んでいた。[190]

Butesの母は、Erechtheusの娘Orithyia (or Oreithyia)ではなく、Thracianであったと思われる。

 

20.2 Boeotiaからの拉致

BC1330年、Butesの跡を継いだAgassamenusは、Aloeusの妻Iphimedeiaと娘のPancratisを拉致して、島に連行した。[191]

Iphimedeiaの夫は、Sicyonの町からAnthedonの町へ移住したSisyphusの子Aloeusの子Aloeusであった。[192]

 

20.3 Boeotiaからの移住

BC1330年、Iphimedeiaの2人の息子たち、OtusとEphialtesは、Strongyle島を占領して、島名をDiaに変えた。[193]

Diaは、Sicyonの町で祀られている神の名前であり、女神Heraの娘Hebeの別名であった。[194]

OtusとEphialtesは、Boeotia地方からDionysusの儀式とブドウ栽培を島に持ち込んだ。

Dia島は、ブドウが豊かな島となり、Dionysus島とも呼ばれるようになった。[195]

Otusと共に、Dia島へ移住したのは、Aeoliansであった。

 

20.4 Cariaからの移住

BC1318年、Caria地方のMiletusの町の近くのLatmia地方からPolemonの子NaxosがDia島へ移住して来て、島名をNaxosに変えた。[196]

Polemonは、Astypalaeaの子Ancaeusの孫と推定される。

Hittite王Mursili IIは、Millawanda (Miletus)を攻めて、占領した。[197]

Naxosは、Miletusの町の近くのLatmiaに住んでいたが、Hittite軍に敗れて、Dia島へ移住した。[198]

Naxos率いるLelegesは、Aeoliansと共住した。

 

20.5 Creteからの嫁入り

BC1278年、Minosの娘Ariadneは、Naxos島のDionysusの神官Oenarusのもとへ嫁いだ。[199]

次のことから、Oenarusは、OtusあるいはEphialtesの息子と推定される。

1) Oenarusは、Dionysusの神官であった。

Dionysusの儀式は、OtusとEphialtesがBoeotia地方から持ち込んだ。

2) OenarusとAriadneの息子Phliasus (or Phlias)は、後継者の絶えたPhliusの町を継承した。[200]

Phliusの町の創建者は、Sicyonの町の創建者Sisyphusの後裔であった。

OtusとEphialtesは、Sisyphusの子Aloeusの子Aloeusの息子たちであった。[201]

 

20.6 Lemnosへの移住

BC1256年、Ariadneの子Thoasは、Naxos島からLemnos島へ移住した。[202]

 

20.7 Peloponnesusへの遠征

BC1250年、OenarusとAriadneは、Dionysusの儀式を広めるため、Peroponessusへ遠征した。[203]

遠征隊には、Oenarusの娘たちとNaxosの子Leucippusの娘たちがいた。[204]

彼らを招いたのは、Argosの町のAmythaonの子Melampusであった。[205]

Ariadneは、Argosの町で死んだ。[206]

遠征隊の中にいたChoreaの墓もArgosの町にあった。Choreaは、Leucippusの娘と推定される。[207]

 

20.8 各地への移住

BC1245年、Ariadneの息子たちが、Naxos島から各地へ移住した。

この頃、Ariadneの父Minosが死んだ。Minosの死と、彼の孫たちの移住は、関連していると推定される。

当時、Naxos島を治めていたのは、Naxosの子Leucippusの子Smerdiusであった。[208]

 

20.8.1 Chiosへの移住

BC1245年、Ariadneの子Oenopionは、Naxos島からChios島へ移住した。[209]

Oenopionの息子たち、Talus、Euanthes、Melas、Salagus、Athamasも父と共にChios島へ移住した。[210]

 

20.8.2 Peparethosへの移住

BC1245年、Ariadneの子Staphylusは、Naxos島からEuboea島の北にあるPeparethos島へ移住した。[211]

BC1230年、Staphylusは、Peparethos島からCaria地方のBybastusへ移住した。[211-1]

Staphylusは、彼の兄弟Enyeusからの要請を受けて、Caria地方へ移住したと推定される。

 

20.8.3 Cariaへの移住

BC1245年、Ariadneの子Enyeusは、Naxos島からCaria地方のCyrnusの町へ移住した。[212]

Trojan Warのとき、EnyeusはTroyに味方したため、Cyrnusの町はAchillesに攻められて、Enyeusは戦死して、彼の娘Iphisは捕虜になった。[213]

 

20.9 Colophonからの移住

BC1060年、Colophonの町に住むCodrusの子Promethusは、兄弟Damasichthonを殺して、Naxos島へ移住して来た。[214]

Promethusが死んだ後で、Naxos島から運び込まれたPromethusの遺骸をColophonの町の住人は、町へ迎え入れた。[215]

Herodotusは、Persian Warの時代、Naxos島には、Athensの町出身のIoniansが住んでいたと記している。[216]

BC11世紀のIoniansの植民活動は、Asia Minorだけではなく、Aegean Seaにも及んでいた。

BC6世紀、Promethusの後裔Ceyxの娘CydippeがNaxos島に住んでいた。[217]

 

21 Parosの歴史

21.1 Arcadiaからの移住

BC1430年、Lycaonの子Parrhasiusの子Parusは、Arcadia地方のParrhasiaから新天地を求めて移住した。

Parusの移住の原因は、Dardanusと同じで、Arcadia地方に発生した大洪水による土地の荒廃であった。[218]

Parusは、Delos島の南の島に入植して、島は、Parosと呼ばれるようになった。[219]

 

21.2 Creteからの移住

BC1265年、Minosの息子たち、Eurymedon、Nephalion、Chryses、Philolausは、Crete島からParos島へ移住した。[220]

Paros島は、Minoiaとも呼ばれた。[221]

 

21.3 Creteからの移住

BC1250年、Minosの子Androgeusの2人の息子たち、AlcaeusとSthenelusは、Crete島からParos島へ移住した。[222]

 

21.4 Thasusへの移住

BC1244年、AlcaeusとSthenelusは、Paros島からThasus島へ移住した。[223]

 

22 Peparethosの歴史

BC2世紀の歴史家Heraclidesは、Peparethos島では、ワインや木々が豊富で、穀物を生産すると伝えている。[224]

 

22.1 Naxosからの移住

BC1245年、Minosの娘Ariadneの子Staphylusは、Naxos島からPeparethos島へ移住した。[225]

 

22.2 Cariaへの移住

BC1230年、Staphylusは、島を兄弟のPeparethusに託して、Staphylus自身はCaria地方のBybastusの町へ移住した。[226]

Caria地方のCyrnusの町には、Staphylusの兄弟Enyeusが住んでいた。[226-1]

Staphylusは、彼の兄弟Enyeusからの要請を受けて、Caria地方へ移住したと推定される。

 

23 Salamisの歴史

23.1 Athensからの移住

BC1320年、Athensの町に内紛が起こり、第7代Athens王Cecropsは、Euboea島へ移住した。[227]

この時、Cecropsの子Cychreusは、Athensの町からSalamis島へ移住した。[228]

Cychreusは、Athensの町で神々と同等の尊敬を受けた人物であった。[229]

 

23.2 Scyrosへの嫁入り

BC1305年、Cychreusの娘Charicloは、Salamis島からScyros島に住むCecropsの子Scyriusのもとへ嫁いだ。[230]

Scyriusは、Cychreusの兄弟であった。[231]

 

23.3 Scyrosからの移住

BC1295年、Cychreusが跡継ぎを残さないで死んだ。Cychreusの兄弟Scyriusは彼の息子にScyros島を任せて、Salamis島へ移住した。[232]

 

23.4 Sicyonからの嫁入り

BC1291年、Scyriusは、Sicyonの町からSicyonの娘Salamisを妻に迎えた。ScyriusとSalamisには、息子Cychreusが生まれた。[233]

Sicyonの母は、第6代Athens王Erechtheusの娘であった。[234]

Scyriusは、Salamisの父Sicyonの母の父Erechtheusの子Cecropsの息子であった。

つまり、Salamisは、Scyriusの従兄弟の娘であった。

Scyriusの跡を継いだCychreusは、それまで、ScirasやCychreiaと呼ばれていた島の名前を、母の名前に因んで、Salamisに変えた。[235]

 

23.5 Carystusの創建

BC1260年、Scyrius (or Chiron)の子Carystusは、Salamis島からEuboea島南東部に移住してCarystusの町を創建した。[236]

Carystusは、第7代Athens王Cecropsの孫であり、Carystusの町は、HyperboreansがDelos島へ供え物を届ける経路の町の一つになった。[237]

HyperboreansとAtheniansとDeliansには、友好関係があった。[238]

 

23.6 Aeginaからの移住

BC1256年、Aeacusの子Telamonは、Aegina島からSalamis島へ移住して、Cychreusの娘Glauceと結婚した。[239]

Cychreusの死後、TelamonがSalamis島を継承した。[240]

Telamonの母Endeisの母Charicloの父は、初代Salamis王Cychreusであった。[241]

 

23.7 Cyprusへの移住

BC1225年、Teucerは、Salamis島からCyprus島へ移住して、Cinyrasの娘Euneと結婚した。[242]

Teucerの移住の目的は、Cyprus島のAmathusの町で産出される貴重な鉱石の交易のためであった。Cinyrasの母は、Amathusの町の名付け親であった。[243]

 

23.8 Trojan War時代

23.8.1 Telamonの子Ajax

Homerは、Telamonの子AjaxがSalaminiansを率いて、Troyに遠征したと伝えている。[244]

しかし、Ajaxは、Pelopsの子Alcathousの跡を継いでMegara王となり、Megaraの町に住んでいた。[245]

Ajaxは、Alcathousの娘Periboea (or Eriboea)の息子であった。[246]

BC1188年、Ajaxは、Megaraの町からMegariansを率いて、Troyに遠征した。

 

23.8.2 Atticaへの移住

BC1186年、Telamonの子Ajaxが捕虜の女たちに産ませた息子たちは、Troyから帰還して、Salamis島ではなく、Attica地方に住んだ。[247]

彼らがAthensの町にSalamis島を譲ったという伝承は作り話であり、実際は、Salamis島が他人の手に渡っていたと推定される。恐らく、Trojan Warより前に、Telamonは死に、Salamis島は、Aegina島から進出したCretansに占拠されたと思われる。[248]

 

23.8.3 Teucer伝承

Telamonの子Teucerに関する伝承の多くは、作り話だと思われる。

Troyから帰ったTelamonの子Teucerは、Salamis島へ上陸しようとして、Telamonによって阻止されたという伝承がある。[249]

BC5世紀のThemistoclesの時代にPeiraeusが港になり、そこで、追放者が陸上にいる人々に向って、船上から弁明する法廷が設置された。[250]

恐らく、Teucerの伝承は、この後に作られたものと推定される。

AD6世紀の年代記作者John Malalasは、Teucerは、兄弟Ajaxを助けるためにCyprus島からTroyに来たと伝えている。TeucerがTroyに着いたとき、AchillesやAjaxは既に死んだ後で、Neoptolemusがいたという。[251]

 

24 Samosの歴史

24.1 島の名前

Aristotleは、Samos島は、初め、Parthenia、その後、Dryussa、Anthemussaと呼ばれたと伝えている。Samos島は、他にMelamphllus、Cyparissia、Parthenoarussa、Stephaneとも呼ばれていた。[252]

Straboは、Samos島は、初め、Parthenia、その後、Anthemus、Melamphyllus、それから、Samosと呼ばれたと伝えている。[253]

Straboは、Samosの名前は、地元の英雄の名前だと伝えている。[254]

その英雄とは、Phoenixの娘Astypalaeaの子Ancaeusの子Samusと推定される。[255]

Ancaeusは、Caria地方のLelegesの王であった。[256]

 

24.2 Lesbosからの移住

BC1365年、Macareusの子Cydrolausは、Lesbos島からSamos島へ移住して来た。[257]

 

24.3 Hittiteとの戦い

Samos島は、Ephesusの町とMiletusの町の間にあるMycale半島の沖にある。

Ephesusの町はApasa、Miletusの町はMillawandaと呼ばれ、Hittiteに対する抵抗拠点であった。

BC1318年、Mursili II率いるHittite軍にApasaを攻められたTantalus (Uhha-Ziti)やPelops (Tapalazunauli)は、島へ逃れた。[258]

次のことから、その島とは、Samos島と推定される。

1) Tantalusの祖母の兄弟Ancaeus (Attarisiya)は、Lelegesの王であった。[259]

Samos島は、Lelegesの島であった。[260]

2) Samos島は、Tantalusが拠点にしたApasa (Ephesus)の近くにあった。

3) Samos島には、奴隷1,000人を所有できるほど多くの住人がいた。

その奴隷たちが、最初にEphesusの町を建設したと伝えられている。[261]

4) Mycenae王Eurystheusが死んだ後で、彼の娘AdmeteがSamos島へ逃れて来た。[262]

Admeteは、Tantalusの子Pelopsの娘Nicippeの子Eurystheusの娘であった。[263]

 

24.4 Astypalaeaの子Ancaeus

Argonautsの遠征物語に、Samos島のAstypalaeaの子Ancaeusが登場する。[264]

BC1248年当時、AncaeusがSamos島を治めていたと思われる。

 

24.5 Argolisからの移住

BC1213年、Heraclesの子Tlepolemusは移民団を率いて、Argolis地方からRhodes島へ移住した。[265]

その移民団の中には、MycenaeanのLebesやEurystheusの娘Admeteが含まれていた。[266]

彼らは、Rhodes島まで行かずに、Crete島に定住した。[267]

BC1200年、Lebesの子Rhaciusは、Crete島からAsia Minorへ渡ってColophonの町を創建した。[268]

このとき、Admeteも、Crete島からSamos島へ移住した。[269]

Admeteは、ArgosのHera神殿の巫女であった。[270]

 

24.6 Epidaurusからの移住

BC1102年、Xuthusの子Ionの後裔Pityreusは、HeracleidaeによってEpidaurusの町から追われて、Athensの町へ移住した。[271]

BC1095年、Pityreusの子Proclesは、元のEpidaurusの住人を率いて、Athensの町からSamos島へ移住して、Samosの町を創建した。[272]

これより前に、Samosの町は、Tembrionによって創建されていた。[273]

 

24.7 Phliusからの移住

BC1087年、Heracleidaeに追われたArgolis地方のPhliusの町の指導者Hippasusが、Samos島へ移住して来た。Hippasusは、有名なPythagorasの先祖であった。[274]

 

24.8 Ephesiansとの戦い

BC1065年、Proclesの子LeogorusがCariansと組んで、Ioniansに対して陰謀を企んでいるという理由で、Codrusの子Androclus率いるEphesiansがSamos島に攻め込んだ。[275]

Samiansの一部は、Samothrace島へ移住し、残りのSamiansは、Leogorusと共にMycale半島に定住した。[276]

Samothrace島に移住したSamiansの一部は、Propontis海の北岸にPerintusの町を創建した。[277]

 

24.9 Samosへの帰還

BC1055年、Samos島から追い出された人々は、島からEphesiansを追い出して、島を奪還した。[278]

その後、AndroclusがCariansとの戦いで死に、Samos島は、Ionian Leagueに加盟した。[279]

Herodotusは、Ionia地方の4つの方言のうち、Samiansだけが独特な方言を話していたと記している。[280]

恐らく、Cariansと良好な関係であったSamiansの構成員の大部分は、GreeksとCariansが混血したLelegesであったと推定される。

 

25 Samothraceの歴史

25.1 Troadからの移住

BC1435年、Idaea (or Ida, Idothea)の子Teucrus (or Teucer)率いる移民団は、Crete島からTroad地方へ移住して、Hellespont近くにTeucrus (後のDardanus)の町を創建した。[281]

Teucrusの移民団の中には、探鉱活動をしていたIdaean DactylsやCabeiriが含まれていた。[282]

BC1431年、Cabeiriの一人Cybeleは、Idaean Dactylsと共に、Troad地方からSamothrace島へ渡った。[283]

 

25.2 Arcadiaからの移住

BC1430年、Arcadia地方中央部に長期的な洪水が発生し、Lycaonの子Orchomenusの娘Electraの子Dardanusも被災した。Dardanusは、祖父Orchomenusが創建したMethydriumの町に住んでいた。Methydriumの町は、標高1,000m程の高地を流れるMaloetas川とMylaon川の間の小高い丘の上にあった。[284]

Dardanusは、Aegean Seaを北上して、Hellespontos海峡手前のSamothrace島へ移住した。[285]

Dardanusの母の姉妹Alcyoneは、彼女の夫Megassaresや2人の息子たち、HyperenorやHyrieus、それに娘Pharnaceと共に、Dardanusの移民団に参加した。[286]

Dardanusの兄弟Iasion (or Iasus)は、Cybeleと結婚した。[287]

 

25.3 Cadmusの訪問

BC1425年、Agenorの子Cadmusは移民団を率いてSamothrace島に立ち寄り、Dardanusの姉妹Harmoniaと結婚した。[288]

Megassaresは、Cadmusの移民団に参加して、Boeotia地方へ移住して、Hyriaの町を創建した。[289]

Megassaresの2人の息子たち、HyrieusとHyperenorは、Cadmusに次ぐ実力者Spartiになった。[290]

 

25.4 Troadへの移住

BC1420年、Samothrace島を大津波が襲い、Dardanusの妻Chryseと彼の兄弟Iasionは死んだ。[291]

Dardanusは、Cybeleと彼女の息子Corybasを連れて、島からTroad地方のIda山の近くへ移住した。[292]

DardanusがTroad地方に渡ったとき、その地には、少し前にCrete島から移住して来ていたTeucrians (or Gergis)の王Teucrusがいた。Dardanusは、Teucrusの娘Bateiaと再婚してTeucrusの後継者となり、Troy王国の始祖となった。[293]

DardanusをSamothrace島からTroad地方へ導いたのは、Cybeleであった。Cybeleと一緒にCrete島から移住して来た人々がその地に住んでいた。CybeleとCorybasはIda山に住み、Cybeleは女神として崇められ、Corybasは母の儀式を祝う者たちをCorybantesと呼んで踊りを伝えた。[294]

 

25.5 Samosからの移住

BC1065年、SamiansがIoniansに対して陰謀を企んでいるという理由で、Codrusの子Androclus率いるEphesiansがSamos島に攻め込んだ。Samiansの一部は、Samothrace島へ移住した。[295]

 

25.6 Thraciaへの移住

BC1060年、Samothrace島に住んでいたSamiansの一部は、Propontis海の北岸へ移住して、Perinthusの町を創建した。[296]

その後、Darius Iの時代までの間に、Perinthusの町は、Strymon流域に住むPaeoniansによって占領された。[297]

 

25.7 Samosへの移住

BC1055年、Samothrace島に住んでいたSamiansは、Samos島からEphesiansを追い出して、島を奪い返した。[298]

 

26 Sciathosの歴史

Thracia地方に住んでいたPelasgiansが、Scyros島やSciathos島へ渡って定住したという伝承がある。[299]

BC495年、Lemnos島のPelasgiansは、Cimonの子Miltiadesに追われて、Chalcidice半島へ移住した。[300]

その後まもなく、Pelasgiansは、Chalcidice半島からSciathos島へ渡ったと推定される。[301]

 

27 Scyrosの歴史

Phocis地方からBoeotia地方へ流れるCephisus川は、古代ギリシア人発祥の地であった。古代ギリシア人の居住地の広がりと共に、各地の川に、同じ、Cephisusという名前が付けられた。古代ギリシア世界に少なくとも8つあったCephisus川のうちの一つが、Scyros島にあった。[302]

 

27.1 Athensからの移住

BC1320年、Athensの町に内紛が起こり、第7代Athens王Cecropsは、Euboea島へ移住した。[303]

この時、Cecropsの子Scyrius (or Sciron, Chiron, Scirus)は、Scyros島へ移住した。[304]

Scyriusは、Cychreusの娘Charicloの夫であり、彼らの娘Endeis(or Endais)は、Aeacusの妻であった。[305]

Scyros島のCephisus川に名前を付けたのは、Scyriusと共に移住したAtheniansであった。

 

27.2 Salamisからの嫁入り

BC1305年、Cychreusの娘Charicloは、Salamis島からScyros島に住むCecropsの子Scyriusのもとへ嫁いだ。[306]

Scyriusは、Charicloの父Cychreusの兄弟であった。[307]

 

27.3 Salamisへの移住

BC1295年、Salamis島のCychreusが跡継ぎを残さないで死ぬと、Scyriusは彼の息子にScyros島を任せて、Salamis島へ移住した。[308]

Cychreusは、Scyriusの妻Charicloの父であった。[309]

 

27.4 Thessalyへの嫁入り

BC1213年、Lycomedesの娘Deidamiaは、Thessaly地方のPhthiaの町のAchillesのもとへ嫁入りした。[310]

Lycomedesは、ScyriusがScyros島を任せた彼の息子の息子であった。[311]

Achillesの母Thetisは、Scyriusの娘であり、Deidamiaは、Achillesの従兄弟の娘であった。[312]

 

27.5 Athensからの移住

BC1209年、Aegeusの子Theseusは、Peteus (or Peteos)の子Menestheusに追われて、Scyros島のLycomedesのもとへ亡命して来た。[313]

Scyros島には、Theseusの父Aegeusの領地があった。[314]

Aegeusは、Pandionの養子であったが、実の父は、Scyriusであった。[315]

恐らく、Aegeusは、Lycomedesの父の年長の兄弟であり、LycomedesはTheseusに地位を奪われると思って、Theseusを殺したと推定される。[316]

Lycomedesは、Theseusの従兄弟であった。[317]

 

27.6 Lycomedesの死

BC1186年、Theseusの2人の息子たち、DemophonとAcamasは、Euboea島のChalcisの町からAthensの町へ帰還した。[318]

彼らは、父の消息を突き止め、Scyros島にAtheniansを派遣してLycomedesを殺させ、Theseusの遺骨を持ち帰らせた。[319]

 

27.7 Thessalyからの移住

BC1186年、Thessaly地方にThesprotiansが侵入して、各地を占領した。[320]

Phthiaの町の支配下にあったDolopiansの一部は、Scyros島へ移住した。[321]

 

27.8 Thraciaからの移住

BC495年、Lemnos島に住んでいたPelasgiansは、Cimonの子Miltiadesに追われて、Chalcidice半島へ移住した。[322]

その後まもなく、Pelasgiansの一部は、Chalcidice半島からScyros島へ移住した。[323]

 

27.9 Athensによる攻略

BC470年、Athensの町のMiltiadesの子Cimonは、Scyros島を攻略した。[324]

その時、Scyros島には、PelasgiansとDolopiansが住んでいたが、Dolopiansは奴隷にされ、彼らの土地はAtheniansに分配された。[325]

 

28 Seriphusの歴史

28.1 最初の入植者

Apollodrosは、Aeolusの子Magnesの2人の息子たち、DictysとPolydectesがSeriphus島に住んでいたと伝えている。[326]

Magnesは、Macedonia地方のOlympus山の近くに住んでいた。[327]

しかし、BC5世紀の歴史家Pherecydesは、DictysとPolydectesは、Danausの娘Amymoneの子Naupliusの子Damastorの子Peristhenesの息子たちだと伝えている。[328]

Naupliusは、Argolis地方のNaupliaの町の創建者であった。[329]

次のことから、DictysとPolydectesの父は、Peristhenesだと推定される。

1) Seriphus島は、Macedonia地方からは遠く、Naupliaの町のすぐ近くにあった。

2) Naupliusの父は、Danausと共にEgyptからArgolis地方へ移住して来た。[330]

Naupliusの後裔とDanausの後裔とは、親交があったと推定される。

Perseusは、Danausの娘Hypermnestraの子Abasの子Acrisiusの娘Danaeの息子であった。

DictysとPolydectesがSeriphus島への最初の入植者であるとすれば、彼らの入植は、BC1340年頃であった。

 

28.2 Argosからの移住

BC1343年、Danaeの子Perseusは、祖父の兄弟Proetusを殺して、Seriphus島へ逃れて、Dictysと彼の妻Clymeneの庇護を受けた。[331]

BC1332年、Perseusは、Peloponnesusへ帰還して、Tirynsの町を奪取した。 [332]

Perseusは、各地で英雄として祀られていたが、Seriphus島で一番盛大に祀られていた。[333]

 

29 Symeの歴史

29.1 最初の入植者

BC1380年、Ialysusの娘Symeの子Chthoniusは、Erysichthonの子Triopasの支援を受けて、Metapontis島へ入植し、島は、Symeと呼ばれるようになった。[334]

Chthoniusは、Triopasの従兄弟で、Triopasと共にRhodes島からCaria地方のCherronesusへ移住して、そこからSyme島に入植したと推定される。[335]

 

29.2 Trojan War時代

Chthoniusの後裔である、CharopsとAglaiaとの間の息子Nireusは、3隻の船を率いて、Troy遠征物語に登場する。Syme島から遠征した船の数は、Homerの軍船目録の中で、最少であった。[336]

Nireusは、Troyで戦死した。[337]

 

29.3 Trojan War以後

Trojan Warの後、Syme島は、Cariansによって占拠された。その後、Syme島は干ばつに襲われて、Cariansは島を去った。[338]

LacedaemoniansとArgivesが入植するまで、Syme島は無人であった。[339]

 

30 Taphosの歴史

Leucas半島や、その近くの島には、Teleboansが住んでいた。[340]

BC1237年、HeraclesはJasonと共に、Greece北西部へ遠征して、Jasonは、Corcyra島へ入植した。[341]

このとき、Heliusの子TaphiusもHeraclesの遠征に参加して、Echinades諸島からLeucas半島近くの島へ移住した。Taphiusは、島にTaphosの町を創建し、島は、Taphosと呼ばれるようになった。[342]

Taphiusの父Heliusは、Heraclesの父Amphitryonの父Alcaeusの兄弟であった。

BC1277年、Heliusは、Amphitryonと共に遠征して、Echinades諸島に入植していた。[343]

Taphosの町は、Taphiusの子Anchialusの子Mentesに継承された。[344]

 

31 Tenedosの歴史

BC4世紀の歴史家Nymphodorusは、『アジア周航記』の中で、Tenedos島を美女の島だと記している。[345]

 

31.1 Colonaeからの移住

BC1200年、Cycnus (or Cygnus)の子Tenes (or Tennes)は、Troad地方の沖に浮かぶLeucophrys島へ移住して、島の名前をTenedosに変えた。Cycnusは、Hecatoの娘Calyceの息子で、Iliumの町の南にあるColonaeの町に住んでいた。[346]

 

31.2 Argolisへの移住

BC1188年、Antenorの息子たちがPriamの子Hectorを追い出して、Iliumの町を占領した。Hectorに味方して、AchaeansはTroyへ遠征した。

Tenesも、Hectorに味方して、Antenorの息子たちと戦った。

BC1186年、HectorやTenesは戦死して、Achaeansは、Troad地方から各地へ移住した。

Tenedos島の住人は、島からArgolis地方のTenea (or Genea)の町へ移住した。[347]

BC750年、Corinthの町のHeracleidaeの一人Archiasは、移民団を率いて、Sicily島へ移住して、Syracuseの町を創建した。その移民のほとんどはTeneaの町の住人であった。[348]

つまり、建設当初のSyracuseの町の住人は、Trojansであった。

 

31.3 Peloponnesusからの移住

BC1170年、Hectorの息子たちがAntenorの息子たちを追い出して、Iliumの町を奪還した。[349]

Hectorの息子たちには、Achillesの子Neoptolemusに率いられて、Molossiansの地へ移住したAchaeansも味方した。[350]

この戦いに、Agamemnonの子Orestesも参加したと思われる。

OrestesはTroad地方へ遠征して、Amyclaeの町のPeisanderをTenedos島に入植させた。[351]

Peisanderの母方の祖父は、Thebes攻めの守将Melanippusであった。[352]

恐らく、Orestesの遠征には、Teneaの町の住人も参加していたと思われる。

 

32 Thasusの歴史

32.1 Ciliciaからの移住

BC1400年、Agenorの子Cilixの子Thasusは、Ida山近くのCilicia地方のThebeの町からThasus島へ移住した。[353]

Thasusの移住の原因は、当時、Anatolia半島西部に影響力を強めていたHittiteとの戦いであったと思われる。[354]

Thasusには、Idaean Dactyls (Telchines)が同行して、Thasus島で金鉱を発見した。[355]

 

32.2 Thraciaへの移住

BC1375年、Thasusの子Galepsusは、Thasus島からThracia地方へ移住して、Galepsusの町を創建した。[356]

Galepsusの目的は、Scapte-Hyleでの金の採掘であった。[357]

BC5世紀の歴史家Thucydidesは、Scapte-Hyleの金の採掘権を持っていたが、そこで暗殺された。[358]

 

32.3 Parosからの移住

BC1244年、Minosの子Androgeusの息子たち、AlcaeusとSthenelusは、Paros島からThasus島へ移住した。[359]

 

33 Theraの歴史

33.1 Phoeniciaからの移住

BC1425年、Agenorの子Cadmusが率いる移民団は、Calliste (後のThera)島に立ち寄り、Poecilesの子Membliarusを指導者とする人々を島に定住させた。[360]

Membliarusは、Phoenicianであった。[361]

 

33.2 大噴火

BC1420年とBC1390年、Thera島とすぐ北西にあるTherasia島との間で大噴火があった。大噴火は、4日間続き、噴出した溶岩が周囲約2kmの島を形成した。[362]

噴火が収まった後で、Rhodes島から人々がThera島に駆け付けた。[363]

彼らは、Cadmusの移民団の中にいて、Rhodes島に入植したPhoeniciansであった。[364]

 

33.3 Spartaからの移住

BC1099年、Autesionの子Therasは、移民団を率いてSpartaの町からCalliste島へ移住した。[365]

当時、島には、Cadmusの移民団から離れて、島に定住した人々の後裔が住んでいた。[366]

Therasは、彼らに指導者として受け入れられ、島はTheraと呼ばれるようになった。[367]

Therasの移民団は、LacedaemoniansとLemnos島からPelasgiansに追われてLaconia地方へ逃げ込んだMinyansとで構成されていた。[368]

2人のSparta王EurysthenesとProclesは、お互いに対立していたが、Therasの植民に関しては、協力して支援した。[369]

Therasは、彼らの叔父であり、後見人であった。[370]

 

33.3 Libyaへの移住

33.3.1 Cyreneの創建

BC630年、Polymnestusの子Battusは、Thera島から移民団を率いてLibyaへ移住して、Cyreneの町を創建した。[371]

Olympiadの優勝者LacedaemonianのChionisは、Cyreneの町の建設に協力した。[372]

Rhodes島のLindusの町に住んでいたPancisの子供たちもCyreneの町への植民に参加した。[373]

 

33.3.2 移住先の決定

Battusは、神託によってLibyaへ移住するように指示されたと伝えられている。[374]

次のことから、Battusが神託によって移住先を決めたという逸話は、作り話と思われる。

Battusの母Phronimaの父Etearchusは、Crete島のOaxos (or Axus)の町の支配者であった。[375]

Oaxosの町の創建者は、Minosの娘Acacallisの子Oaxosであった。[376]

Oaxosの兄弟Amphithemisは、Crete島からLibyaへ移住した。[377]

つまり、Crete島のOaxosの町とLibyaとの間には、古い時代から交流があった。

Battusの母Phronimaの結婚に随行して、Oaxosの町からThera島へ移住した人々の中に、BattusにLibyaを移住先にするように勧めた者がいたと推定される。

 

34 Zacynthusの歴史

34.1 Arcadiaからの移住

Dardanusの子Zacynthusは、Arcadia地方のPsophisの町からCephallenia島の近くの島へ移住した。[378]

島は、Zacynthusの名前に因んで、Zacynthusと呼ばれるようになった。[379]

また、島のacropolisの名前は、Zacynthusの出身地に因んで、Psophisと呼ばれた。[380]

 

34.2 Zacynthusの出自

Dionysius of Halicarnassusは、Zacynthusが、Electraの子DardanusとBateiaの息子で、Aeneasの先祖だと伝えている。[381]

Dionysius は、Troy王国の始祖DardanusがZacynthusの父だと勘違いしているようだ。

Bateiaは、Teucrusの娘で、DardanusがTroad地方で結婚した女性であり、彼女から生まれた息子は、Arcadia地方出身ではない。

したがって、Dardanusの子Zacynthusの出自は、不明である。

 

34.3 Zacynthusの入植時期

Thucydidesは、BC5世紀のZacynthus島の住人は、Peloponnesusから入植したAchaeansだと記している。[382]

もしも、このAchaeansがDardanusの子Zacynthusと共にArcadia地方のPsophisの町の出身であるとすれば、Zacynthusの入植は、BC1173年以降と思われる。

BC1173年、Agamemnonの子Orestesは、Mycenaeの町からArcadia地方へ移住した。[383]

Orestesは、Arcadia地方の大半を自分の領土とした。[384]

この時、多くのAchaeansがArcadia地方に住むことになった。

 

おわり

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