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第40章 アカイア人の系譜

Create:2025.10.30, Update:2025.10.30

1 はじめに

BC1750年、Parnassus山の北を流れるCephisus川の上流で大洪水が発生した。

Ogygusに率いられたEctenesは、Cephisus川の下流へ移住して、Copais湖の南側に定住した。[1]

BC1580年、Hellenの父Deucalionの祖父に率いられたEctenesの一部は、Hyantesなどの他の部族によって圧迫されて、Boeotia地方から北へ移動した。DeucalionはThessaly地方北部を流れるPeneius川に南から流れ込むEnipeus川の源流付近に、Pyrrha (後のMelitaea)の町を創建した。[2]

Deucalionには、2人の息子たち、HellenとAmphictyonがいた。[3]

Hellenには、3人の息子たち、Aeolus、Xuthus、Dorusがいた。[4]

Hellenの後裔は勢力を伸ばし、AeolusはAeolis、DorusはDoriansの始祖になった。Xuthusには、2人の息子たち、AchaeusとIonがいた。AchaeusはAchaeansの始祖になり、IonはIoniansの始祖になった。[5]

Hellenが死去すると、AeolusとDorusは、彼らの兄弟Xuthusを追放した。[6]

BC1470年、Xuthusは、叔父Amphictyonがかつて王として統治したAthensの町へ逃れた。[7]

Xuthusは、第4代Athens王Erichthoniusの娘Creusaと結婚した。[8]

BC1465年、Xuthusは、Attica地方の北東部に周辺から住人を集めて、Oenoe、Marathon、Probalinthus、そしてTricorynthusという4つの町を建設した。[9]

BC1442年、Xuthusは、Peloponnesus半島北部のAegialus (後のAchaia)地方へ移住した。[10]

 

2 始祖Achaeus

Achaeusは、Hellenの子Xuthusと第4代Athens王Erechtheusの娘Creusaの長男として生まれた。[11]

Achaeusは、父と共に、Athensの町からAegialus地方へ移住し、父の跡を継いだ。[12]

BC1435年、Achaeusは、Achaeansを率いて、Thessaly地方へ攻め入り、父の故郷Melitaeaの町へ帰還した。[13]

BC1420年、Cadmus率いる大集団がThessaly地方を通過し、その混乱によって、Achaeusは、Melitaeaの町からAegialus地方へ再び移住した。[14]

このとき、Achaeansの一部は、Thessaly地方に残留したと思われる。

Persian War時代、Phthiotis地方にAchaeansが住んでいた。[15]

Achaeusには、2人の息子ArchanderとArchitelesがいた。[16]

 

2.1 Achaeusの息子Architeles

Architelesは、Danausの娘Automateと結婚した。[17]

Architelesは、彼の兄弟Archanderと共に、Sicyoniansと戦ったが、その後の消息は不明である。[18]

 

2.2 Achaeusの子Archander

BC1425年、Archanderは、Thessaly地方東部のPelion山近くに住むHypseusの娘Cyreneと結婚した。[19]

ArchanderとCyreneには、4人の息子たち、Nomius, Aristaeus, Authocus, Argaeusが生まれた。[20]

BC1420年、Archanderは、Melitaeaの町からAegialusへ移住した。[21]

Archanderは、Argosの町からDanausの娘Scaeaを2人目の妻に迎えて、息子Metanastesが生まれた。[22]

BC1413年、Danausの跡を継いだLynceusが死んで、まだ幼いLynceusの子AbasがArgosの町を継承した。[23]

BC1408年、DanausによってArgosの町を追われたSthenelasの子Gelanorの子Lamedonは、Sicyoniansを率いて、Argosの町を占領した。[24]

Argosの町を追われたLynceusの子Abasは、Phocis地方へ逃れてAbaeの町を創建した。[25]

BC1407年、Archanderは、Lamedonと戦って、Argosの町を奪還してAbasを呼び戻した。

Archanderは、Abasの後見人となってArgosの町へ移り住んだ。[26]

Archanderの妻Scaeaは、Abasの母の姉妹であり、Archanderは、Abasの義理の叔父であった。

BC1402年、Archanderは、Abasが成人するとEgyptのNileDeltaへ移住し、Cyrene (別名Archandropolis)の町を創建した。Archanderには、妻Scaeaばかりでなく、最初の妻Cyreneと彼女の息子Aristaeusも同行した。[27]

 

2.2.1 Archanderの子Aristaeus

多くの伝承は、Aristaeusの母が、Hypseusの娘Cyreneであったと伝えている。[28]

しかし、Aristaeusの父の名前は、伝承に記されていない。

次のことから、Aristaeusの父であり、Cyreneの夫は、Achaeusの子Archanderと推定される。

1) 系図を作成すると、CyreneとArchanderは、夫婦として矛盾しない。

2) 結婚適齢期に、CyreneとArchanderは、Thessaly地方に住んでいた。

3) CyreneもArchanderもLibyaへ移住した。[29]

4) Cyreneは、Archanderの父Achaeusの父Xuthusの兄弟Aeolusの子Hypseusの娘であった。つまり、Cyreneは、Archanderの又従妹であった。

BC1420年、Aristaeusは、父に連れられて、Melitaeaの町からAegialus地方へ移住した。[30]

BC1402年、Aristaeusは、父と共に、EgyptのNileDeltaへ移住して、Cyrene (別名Archandropolis)の町を創建した。[31]

BC1390年、Aristaeusは、Ceos島へ移住した。[32]

その移住には、Lycaonの後裔のParrhasiansが参加していた。[33]

Aristaeusは、Arcadia地方の王であったという伝承があるが、AristaeusとArcadia地方との繋がりは不明である。[34]

 

2.2.1.4 Sardiniaへの移住

BC1372年、Aristaeusは、Ceos島からEgyptへ帰り、再び移民団を率いてItaly半島西側のSardinia島へ移住した。[35]

Aristaeusより前に、EgyptのCanopusの町からMacerisの息子SardusがSardinia島へ移民団を率いていた。[36]

 

2.2.2 Archanderの息子たち、NomiusとArgaeus

NomiusとArgaeusは、Thessaly地方のPelion山近くにある、彼らの祖父Hypseusの領地を継承した。[37]

 

2.2.3 Archanderの子Authocus (or Belus)

2.2.3.1 別名Belus

Authocusには、Belusという別名があったと思われる。

つまり、CepheusとPhineusの父Belusである。[38]

Belusは、Egyptに住んでいた。[39]

Belusの子Phineusは、Troy王国の始祖Dardanusの娘Idaeaと結婚した。[40]

Belusの子Cepheusの娘Andromedaは、Acrisiusの娘Danaeの息子Perseusと結婚した。[41]

Belusの子PhineusやBelusの孫娘Andromedaの結婚相手を考慮すると、Belusは、Egyptへ移住したGreeksの子孫と思われる。

Archanderの妻は、Danausの娘Scaeaであり、Belusの時代、Egyptには、DanausやCadmusの子孫は住んでいなかった。Egyptに住んでいたGreeksは、Argosの町からEgyptのNileDeltaへ移住して、Archandropolisの町を創建したArchanderの家族だけであった。[42]

つまり、Belusは、Archanderの子Authocusの別名であったと推定される。

 

2.2.3.2 Ethiopiaへの移住

BC1390年、Belusは、津波の被害に遭った人々を率いて、EgyptからGreeceへ航海し、Corinthの町のSisyphusの子Aeetesの移民団と合流した。[43]

Aeolusの子Sisyphusが創建したばかりのCorinthの町も津波に襲われていた。AeetesとBelusは、Deucalionの子Hellenを共通の先祖とする同族であった。

彼らの移民団はAegean Seaを北上してHellespontos海峡を抜けて、Propontis海に入った。

Belusは、Cyzicus手前のAesepus川の河口付近に適地を見つけて入植した。

Belusの入植地は、Ethiopiaと呼ばれるようになった。

Belusを始祖とするEthiopiansは、体躯や容貌がEgyptの南に住むEthiopiansに似ていたために、そのように呼ばれていたものと思われる。

 

2.2.3.3 Belusの子Cepheus

Cepheusには跡を継ぐ息子がおらず、彼の孫PersesがCepheusの跡を継いだ。[44]

Ethiopiansは、Troyの支配下になったと思われ、Persesより後の系譜は不明である。

Trojan War時代、Ethiopiansは、Laomedonの子Tithonusの子Memnonに支配されていた。

 

2.2.3.4 Belusの子Phineus

Phineusは、Dardanusの娘Idaeaを妻に迎えた。[45]

BC1380年、Phineusは、黒海南西岸へ移住して、Salmydessusの町を創建した。[46]

BC1350年、Salmydessusの町に住んでいたAchaeansは、Phineusの息子たち、Mariandynus、Bithynus、Paphlagon (or Paphlagonus)、Thynusに率いられて、Bosporos海峡を越えて、東方へ移住した。[47]

Achaeansは、Mariandynians、Bithynians、Paphlagonians、Thyniansに名前を変えた。[48]

BC1345年、Phineusの息子たち、Clytius、Polymedes (or Plexippus, Pandion)は、Salmydessusの町からTauric Chersonese (現在のCrimea)へ移住した。[49]

 

2.2.4 Archanderの子Metanastes

Metanastesは、父Archanderに連れられて、Argosの町からEgyptのNileDeltaへ移住した。

 

2.2.4.1 Metanastesの子Pilumnus

Metanastesには、息子Pilumnusが生まれ、Pilumnusは、Acrisiusの娘Danaeと結婚した。[50]

BC1341年、Danaeの移民団を乗せた船は、Sardinia島へ向かう途中、南からの強風に流されて、Italy半島中部の西海岸に漂着した。[51]

Danaeの夫Pilumnusは死に、Argos王の娘であるDanaeが中心になって、Romeの南東約30kmの土地にArdeaの町を創建した。[52]

当時、Danaeが町を建設したLatium地方には、Sicelsが散住していた。その後、間もなくして、Sabusの後裔が山地から進出して来て、Saturniaの町やJaniculumの町を創建した。[53]

Danaeの移民団の構成員は、Argosの町からEgyptへ移住したAchaeansやPelasgiansであった。彼らと、Sabusの後裔とは、言葉や習慣が近かった。

Saturniaの町のSaturnusに小麦栽培を伝授したのは、EgyptからDanaeと共に移住した人々であった。[54]

Danaeの子DaunusがArdeaの町を継承した。[55]

Danaeと共にItaly半島へ移住したAchaeansは、Rutuliansに名前を変えた。[56]

Aeneasと戦って死んだRutuliansの首領Turnusは、Daunusの後裔であった。[57]

Danaeには、息子Perseusがいた。

 

2.2.5 ArgosからMesseniaへの移住

BC1405年、Archanderと共に、Argosの町へ移住したAchaeansは、Messenia地方のAndaniaの町の建設に参加した。[58]

Andaniaの町の創建者は、Lacedaemonの町のLelexの子Polycaonであったが、彼の妻Messeneは、Argosの町の出身であった。

BC1310年、Polycaonの跡継ぎが絶えたとき、Andaniaの町の住人は、Thessaly地方からAeolusの子Perieresを継承者を迎えた。[59]

Aeolusは、Hippotesの子Aeolusの子Lapithesの息子であり、PerieresはLapithsであった。

BC1280年、Perieresの子Aphareusは、Messenia地方の西海岸へ移住して、Areneの町を創建した。[60]

Areneの町の住民構成は、Achaeans、Lapiths、Lacedaemoniansであった。

 

3 Pilumnusの子Perseus

BC1360年、Perseusは、PilumnusとDanaeの息子として、EgyptのNileDeltaのChemmisの町で生まれた。[61]

 

3.1 Argosへの移住

BC1349年、Perseusは、祖父Acrisiusの跡を継ぐために、EgyptからArgosの町へ移住した。[62]

BC1343年、Perseusは、Acrisiusの兄弟Proetusを殺して、Argosの町を去った。[63]

 

3.2 Perseusの結婚

BC1342年、Perseusは、Ethiopiansの地に住むBelusの子Cepheusのもとへ行き、彼の娘Andromedaと結婚した。[64]

Andromedaの生まれ故郷EthiopiaはEgyptの南ではなく、Anatolia半島北西部のAesepus川の河口付近にあった。[65]

そのEthiopiaは、Adrasteia平原にあり、PerseusがAndromedaと結婚した当時、そこは、Pelopsの父Tantalusの領地であった。[66]

Perseusの息子たちとPelopsの娘たちの婚姻は、Pelopsの父TantalusとPerseusとの交友関係によるものであった。

また、Perseusの母Danaeと、Pelopsの妻Hippodamiaの母Evareteは姉妹であり、Perseusの息子たちとPelopsの娘たちは、又従兄妹同士であった。[67]

 

3.3 Perseusの遠征

PerseusがLycaonia地方のIconium (Konya)の町まで遠征したと伝えている史料がある。[68]

Perseusの結婚からPeloponnesus帰還までの10年間のPerseusの動向は不明であり、遠征は、この時期の出来事と推定される。

Hittite文書によれば、Arzawa王TarhuntaraduがHittite領の奥深くまで侵入して、Tuwanuwa (Tyana)の町を占領していた。[69]

Iconiumの町は、Tuwanuwaの町の西方約185kmにある。

Tarhuntaraduは、Perseusの母Danaeと同世代であり、Perseusは、Ahhiyawa軍と共に、Tarhuntaraduの遠征に参加していたと思われる。

Perseusが創建したMycenaeの城塞の神殿には、EgyptのAmenhotep IIIの妻TiyeのScarabが置かれていた。[70]

そのScarabは、Amenhotep IIIと交流があったTarhuntaraduからPerseusに与えられ、Perseusが神殿に安置したと推定される。

 

3.4 Mycenaeの創建

Abasの子Acrisiusが死ぬと、Tirynsの町に住むProetusの子MegapenthesがArgosの町へ移り住んだ。[71]

BC1332年、Perseusは、Ethiopiansの地からPeloponnesusへ帰還し、Argosの町から追い出されたAchaeansと共にTirynsの町を占拠した。[72]

BC1330年、Perseusは、Mycenaeの町を創建して、堅固な城壁で囲んだ。[73]

Mycenaeの町に住んでいたAchaeansは、Mycenaeansに名前を変えた。

 

3.5 Perseusの息子たち

PersesとAndromedaには、息子たち、Perses、Electryon、Alcaeus、Sthenelus、Cynurus、Mestor、Helius (or Heleus)が生まれた。

Persesは、Ethiopiaで生まれ、母Andromedaの父Cepheusの跡を継ぐためにその地に残された。[74]

Alcaeusは、Thebesの町のMenoeceusの娘Hipponomeと結婚して、後にHeraclesの父になる、息子Amphitryonが生まれた。[75]

Alcaeusは、Tirynsの町に住み、Achaeansは、Tirynthiansに名前を変えた。

Sthenelusは、父PerseusからMycenaeの町を継承した。[76]

BC1300年、Cynurusは新天地を求めて、Laconia地方との境付近へ移住してCynuriaの町を創建した。[77]

Cynuriaの町に住んでいたAchaeansは、Cynuriansに名前を変えた。

Mestorは、Pelopsの娘Lysidiceを妻に迎えて、娘Hippothoeが生まれた。[78]

BC1290年、HeliusはLaconia湾岸にHelosの町を創建した。[79]

Heliusは、Mestorの娘Hippothoeと結婚して、息子Taphiusが生まれた。[80]

BC1277年、Heliusは、兄弟たちと共にGreece北西部へ遠征して、Echinadesに定住した。[81]

Electryonは、この遠征で、彼の息子たちと共に死に、彼の末の息子Licymniusと彼の娘AlcmenaがMideiaの町に残された。[82]

 

3.6 Eurystheus死後の移住

Sthenelusの子Eurystheusが父からMycenaeの町を継承した。[83]

BC1217年、Eurystheusは、Heraclesの死後、Heraclesの息子たちとの戦いに敗れて、死んだ。[84]

BC1213年、Tirynthiansは、Heraclesの子Tlepolemusの移民団に参加して、Rhodes島へ移住した。[85]

Tlepolemusの移民団の中には、Eurystheusの娘AdmeteやMycenaeanのLebesがいた。[86]

Lebesは、Crete島に定住した。[87]

BC1200年、Lebesの子Rhaciusは、Crete島からAsia Minorへ渡ってColophonの町を創建した。[88]

Admeteは、Rhaciusの移民団に参加して、Crete島からSamos島へ移住した。[89]

 

4 Mycenaeの繁栄

Eurystheusの死後、Pelopsの子Atreusが、Mycenaeの町を継承した。[90]

Atreusの孫Agamemnonの時代、Mycenaeの町は、BC16世紀中期のArgusの子Messapusの時代に次ぐ、第二の黄金期を迎えた。

BC1200年、Agamemnonは、Laconia地方をMycenaeの町に併合して、Agamemnonの兄弟MenelausがLaconia地方を領有した。[91]

Agamemnonは、Laconia地方のMaleae岬近くのOnugnathus半島にAthenaの神域を造営した。[92]

BC1190年、Agamemnonの子Halaesusは、Mycenaeの町からItaly半島中部のFaleriiの町へ移住した。[93]

BC1341年、Mycenaeの町の創建者Perseusの母Danaeは、Italy半島へ移住して、Romeの南東約30kmの土地にArdeaの町を創建していた。[94]

Faleriiの町の周辺は、Latium地方のArdeaの町を本拠地とするRutuliansが領していたが、Rutuliansの王Turnusは、Danaeの後裔であった。[95]

Rutuliansは、周辺の敵対する勢力に対抗して、味方を得るために、Halaesusを招いたと推定される。

BC1182年、Anchisesの子AeneasとRutuliansとの戦いが起き、Halaesusは、Rutuliansに味方して戦いに参加して、Evanderの子Pallasに討ち取られた。[96]

Halaesusの死後、Faleriiの町に住んでいたMycenaeansは、Mycenaeの町へ帰還したと思われる。最近の考古学調査で、BC12世紀にMycenaeの町とItalyとの間に交易があったことを示す出土品が発掘されている。

 

5 Doriansの侵入

5.1 Cleodaeusとの戦い

BC1173年、Hyllusの子CleodaeusはDoriansを率いて、Mycenaeの町を攻めて、町を破壊した。[97]

近年の考古学調査で、BC12世紀のMycenaeの町に破壊された痕跡が確認されている。[98]

Achaeansは、DoriansをPeloponnesusから追い出したが、土地は荒廃した。

Agamemnonの子Orestesの子Penthilusは、土地を失った人々を率いて、Lesbos島へ遠征して、植民した。[99]

Amyclaeの町に住んでいたAchaeansは、Peisanderに率いられて、Tenedos島へ植民した。[100]

Epidaurusの町に住んでいたAchaeansは、Perinthusに率いられて、他へ移住した。[101]

 

5.2 Temenusとの戦い

BC1112年、Aristomachusの子Temenus率いるDoriansが、Peloponnesusに侵入した。[102]

Orestesの子Tisamenus率いるAchaeansは、Doriansに攻められて、Argosの町を明け渡して、Spartaの町へ移住した。[103]

BC1104年、Spartaの町に籠城していたAchaeansは、町をDoriansに明け渡して、Achaia地方へ移住した。[104]

このとき、Laconia地方に残留したAchaeansもいた。

BC1101年、Elisの町のOxylusは、Achaia地方のHeliceの町からOrestesの曾孫Agoriusを呼び寄せて、共同統治者にした。[105]

BC930年、Pharisの町に住んでいたAchaeansの大部分は、Preugenesの子Patreusに率いられて、Achaia地方へ移住して、Patraeの町を創建した。[106]

BC780年、Amyclae、Pharis、 Geranthraeの町に住んでいたAchaeansは、Doriansに攻められて、Peloponnesusから移住した。[107]

 

6 Aeolis植民

BC1100年、Penthilusの子Archelaus(or Echelas)は、Achaeansの移民団を率いて、Anatolia半島北西部のDascyliumの町の周辺へ移住した。[108]

BC1055年、Archelausの子Grasは、Granicus川まで遠征し、Lesbos島を再占領して、Mysia地方とIonia地方の間のAeolis地方を領有した。[109]

 

7 LaconiaからEleiaへの移住

BC1070年、Lemnos島に住んでいたPelasgiansは、Laconia地方に移住して来て、Doriansに受け入れられたが、その後、両者は対立した。Pelasgiansは、Laconia地方に住んでいたAchaeansを教唆して、Doriansに対して反乱を起こした。Doriansは、彼らと条約を締結して、Laconia地方から彼らを立ち去らせた。[110]

PelasgiansとAchaeansは、各地へ移住した。

Herodotusは、Therasの移民団に参加しなかったMinyansが、LacedaemonからEleia地方南部へ移住して、Lepreum, Macistus, Phryxae, Pyrgus, Epium, Nudiumの町を創建したと記している。[111]

しかし、そのMinyansをLemnos島から追い出したのは、Athensの町から追放されたPelasgiansであった。[112]

Pelasgiansより数の少ないMinyansが、6つの町を創建できたとは思われない。

それらの町の創建者は、反乱を起こして、Laconia地方から追放された人々であり、その大部分は、Doriansに敵対しながらLaconia地方に住んでいたAchaeansであったと思われる。

 

8 Hittite文書のAhhiyawa

Hittite文書に記されたAhhiyawaは、Achaeansを意味していると解釈するのが通説のようである。[113]

Ahhiyawaは、Arnuwanda I (BC1390-80)の治世中に書かれたthe Indictment of Madduwatta (CTH 147)という文書の中で最初に言及されている。[114]

その文書には、Madduwattaが、AhhiyawaのAttarsiyaに攻撃されて、Hittite王Tudhaliya Iのもとへ亡命したと記されている。[115]

その文書が作成されたときには、Ahhiyawaが存在していたことになる。

BC1380年当時、Achaeans (Xuthusの子Achaeusの子孫)は、Argolis地方、EgyptのNileDelta、そして、Anatolia半島北西部に居住していた。

しかし、それらの居住範囲で、Madduwattaとの接点は見つからない。

Hittite文書に現れるAhhiyawaは、Achaeansではないと思われる。

 

9 Achaeansの居住地の広がり

BC1435年、Achaeansは、Peloponnesus北部のAegialus地方で誕生した。

BC1435年、Aegialus地方に住んでいたAchaeansは、Thessaly地方へ移住した。

BC1420年、Thessaly地方に住んでいたAchaeansは、Aegialus地方へ移住した。

BC1407年、Aegialus地方に住んでいたAchaeansは、Argosの町へ移住した。

BC1405年、Argosの町に住んでいたAchaeansは、Messenia地方のAndaniaの町へ移住した。

BC1402年、Argosの町に住んでいたAchaeansは、EgyptのNileDeltaへ移住した。

BC1390年、Egyptに住んでいたAchaeansは、Anatolia半島北西部のAesepus川河口付近へ移住して、Ethiopiansに名前を変えた。

BC1380年、Ethiopiaに住んでいたAchaeansは、黒海南西岸へ移住して、Salmydessusの町を創建した。

BC1350年、Salmydessusの町に住んでいたAchaeansは、黒海南岸へ移住して、Mariandynians、Bithynians、Paphlagonians、Thyniansに名前を変えた。

BC1345年、Salmydessusの町に住んでいたAchaeansは、Tauric Chersoneseへ移住した。

BC1341年、Egyptに住んでいたAchaeansは、Italy半島へ移住して、Ardeaの町を創建した。

BC1330年、Ethiopiaに住んでいたAchaeansは、Peloponnesusへ移住して、Mycenaeの町を創建した。

BC1280年、Andaniaの町に住んでいたAchaeansは、Messenia地方のAreneの町へ移住した。

BC1213年、Tirynsの町やMycenaeの町に住んでいたAchaeansは、Rhodes島やCrete島へ移住した。

BC1200年、Crete島に住んでいたAchaeansは、Samos島やIonia地方のColophonの町へ移住した。

BC1200年、Mycenaeの町に住んでいたAchaeansは、Laconia地方を併合した。その後、Achaeansは、Messenia地方をも支配下に置いた。

BC1190年、Mycenaeの町に住んでいたAchaeansは、Italy半島へ移住した。

BC1173年、PeloponnesusへDoriansが侵入して、土地が荒廃したため、Achaeansは、Tenedos島やLesbos島へ移住した。

BC1104年、Argolis地方やLaconia地方に住んでいたAchaeansは、Peloponnesus北部のAchaia地方へ移住した。

BC1100年、Achaia地方に住んでいたAchaeansは、Anatolia半島北西部のDascyliumの町の周辺へ移住した。

BC1070年、Laconia地方に残留していたAchaeansも、Eleia地方へ移住して、6つの町を創建した。

BC1055年、Anatolia半島北西部に住んでいたAchaeansは、Lesbos島へ移住した。

 

10 ギリシア暗黒時代

Achaeansの大部分は、Peloponnesus北部のAchaia地方に居住していた。

また、Eleia地方、Thessaly地方、Mycenae、Tiryns、Cynuriaの町にもAchaeansが居住していた。

Italy半島のArdeaの町には、Achaeansから名前を変えたRutuliansが居住していた。

Anatolia半島のDascyliumの町周辺、Tenedos島、Lesbos島にもAchaeansが居住していた。

黒海南岸には、Achaeansから名前を変えたMariandynians、Bithynians、Paphlagonians、Thyniansが居住していた。

 

おわり

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