top of page
  • Grey Twitter Icon
  • Grey LinkedIn Icon
  • Grey Facebook Icon
  • Grey Pinterest Icon
  • Grey Instagram Icon

第42章 ミニュアス人の系譜

Create:2025.10.30, Update:2025.10.30

1 はじめに

BC1750年、Parnassus山の北を流れるCephisus川の上流で大洪水が発生した。

Ogygusに率いられたEctenesは、Cephisus川の下流へ移住して、Copais湖の南東に定住した。[1]

BC1580年、Hellenの父Deucalionの祖父に率いられたEctenesの一部は、Hyantesなどの他の部族によって圧迫されて、Boeotia地方から北へ移動した。Deucalionは、Thessaly地方北部を流れるPeneius川に南から流れ込むEnipeus川の源流付近に、Pyrrha (後のMelitaea)の町を創建した。[2]

Deucalionには2人の息子たち、HellenとAmphictyonがいた。[3]

Hellenは、Phthiotis地方を治め、その地方の人々はHellenes、またはHellasと呼ばれた。[4]

Hellenには3人の息子たち、Aeolus、Xuthus、Dorusがいた。[5]

Aeolusは父の跡を継いでMelitaeaの町に住み、Phthiotis地方を治めた。[6]

Aeolusには5人の息子たち、Mimas、Cretheus、Hypseus、Sisyphus、Athamasが生まれた。[7]

Aeolusの後裔は、Aeolians (or Aeolis)と呼ばれるようになった。[8]

BC1420年、Sisyphusは、従兄弟Achaeusの息子たちと共に、Melitaeaの町からPeloponnesus北部のAegialus地方へ移住した。[9]

BC1407年、Sisyphusは、Aegialus地方からSicyonの町の東側へ移住して、Ephyra(後のCorinth)の町を創建した。[10]

 

2 Boeotiaへの移住

2.1 Sisyphusの子Almus

BC1365年、Almusは、Ephyraの町からBoeotia地方のCopais湖の北側へ移住して、Olmonesの町を創建した。[11]

Pausaniasは、Andreusの子EteoclesがAlmusに土地を与えたと伝えている。[12]

しかし、実際は、Eteoclesではなく、AthamasがAlmusに土地を分け与えたと思われる。

Eteoclesは、Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの子Andreusの息子であり、Almusは、Hellenの子Aeolusの子Sisyphusの息子であった。つまり、Almusは、Eteoclesの曾祖父Hippotesの従兄弟であった。

一方、Athamasは、Hellenの子Aeolusの息子であり、Almusの叔父であった。

Almusは、Eteoclesではなく、叔父Athamasを頼って移住してきたと考えた方が妥当である。

 

2.2 Copais周辺の状況

BC1390年、Aeolusの子Athamasは、Thessaly地方のHalusの町からCopais湖の東側へ移住して、Acraephniumの町を創建した。[13]

Athamasの子Phrixusは、Ephyraea (後のCorinth)の町のSisyphusの子Aeetesと共に、黒海東岸のColchis地方へ移住した。[14]

BC1380年、Aeolusの子Andreusは、Thessaly地方のArneの町からBoeotia地方へ移住して来て、Andreis (後のOrchomenus)の町を創建した。[15]

BC1370年、Phrixusの子Presbonは、Colchis地方から祖父Athamasが住むBoeotia地方のAcraephniumの町へ移住して来た。[16]

この時から、Boeotia地方とColchis地方との交易が始まり、航海術に優れた集団が誕生したと推定される。

 

2.3 Andreisの継承

Almusには2人の娘たち、ChrysogeneiaとChryseがいた。[17]

Chryseの子Phlegyasは、Andreusの子EteoclesからAndreisの町を継承した。[18]

Andreusは、初代Orchomenus王であり、Andreisの町の創建者であった。[19]

Phlegyasの跡を、Chrysogeneiaの子Chrysesが継いだ。[20]

Chrysesの時代にCopais湖の水位が上がってAndreisの町は人が住めなくなった。

BC1350年、Chrysesは、Copais湖西側のAcontius山の近くに新しいAndreis (後のOrchomenus)の町を建設した。[21]

Chrysesには、息子Minyasがいた。[22]

Chrysesには、Iasiusという名前の息子もいたと推定される。[23]

 

3 名祖Minyas

BC1335年、Chrysesの跡を、彼の息子Minyasが継いだ。[24]

Minyasには2人の息子たち、OrchomenusとCyparissusがいた。[25]

Minyasの跡を、彼の息子Orchomenusが継いだ。彼の時代に、Andreisの町は、Orchomenusの町と呼ばれるようになった。[26]

BC1305年、Minyasの子Cyparissusは、Delphiの近くへ移住して、Cyparissusの町を創建した。[27]

Minyasには娘たち、Clymene、Periclymene、Alcathoe、Arsinoe、Leucippeがいた。[28]

Minyas統治下の人々は、Minyasの名前に因んで、Minyansと呼ばれるようになった。[29]

 

3.1 Minyansの種族

Minyasの父Chrysesの父の種族は、不明である。

しかし、AeolianであるAndreusの子Eteoclesの跡を、Phlegyasが継ぎ、Phlegyasの跡を、Chrysesが継いでいることから、Chrysesの父もAeoliansに属していたと推定される。

つまり、Minyansは、Aeoliansの支族であった。

 

3.2 Minyansの富

Minyas王は、莫大な収入を受け取り、初めて宝庫が建てられた。[30]

Minyansの富の源泉について、伝承は明示していないが、Cephisus川が流入するCopais湖周辺の肥沃な土地から得られたと思われる。

また、黒海方面との交易活動で得られる収入も大きかった。

その交易活動は、Phrixusの子Presbonが黒海東岸のColchis地方からBoeotia地方へ移住して来てから、本格的に始まった。

 

4 婚姻に伴う移住

Minyasの時代、Minyansの富は広く知れ渡り、各地の有力者の息子たちが、Minyansの町から妻を迎えるようになった。[42]

花嫁には、大勢のMinyansが同行して、Minyansの居住地は、各地へ広がった。

 

4.1 Thessalyへの移住

BC1317年、Minyasの娘Clymeneは、Thessaly地方のPhylaceの町に住むPhylacusに嫁いだ。[43]

BC1301年、Minyasの娘Periclymeneは、Thessaly地方のPheraeの町に住むPheresに嫁いだ。[44]

BC1299年、Iasiusの子Amphionの娘Phylomacheは、Thessaly地方のIolcusの町に住むCretheusの子Peliasに嫁いだ。[45]

BC1291年、Minyasの娘Clymeneの娘Alcimedeは、Thessaly地方にAesonis (or Aeson)の町を創建したAesonに嫁いだ。[46]

以上の結婚によって、Thessaly地方のPagasetic Gulf周辺の町には、多くのMinyansが居住するようになった。

 

4.1.1 Iolcusの発展

Minyansは、黒海方面との交易を行い、Pagasetic Gulf北岸のIolcusの町は、急速に発展した。Iolcusの町は、Cretheusの子Peliasの時代に黄金期を迎え、Argonautsの遠征物語の舞台の一つとして登場するほどになった。[47]

 

4.1.2 Jasonの遠征

BC1268年、Aesonの子Jasonは、Aesonisの町に住むMinyansと共にColchis地方へ遠征した。[48]

Jasonの母Alcimedeは、Minyasの娘Clymeneの娘であり、Alcimedeの嫁入りに際して、多くのMinyansが移住して来て、Aesonisの町に住んでいた。

この遠征で、Jasonは、Colchis地方に住んでいたAeetesの娘Medeaと結婚した。[49]

 

4.1.3 Lemnosへの移住

BC1236年、Iolcusの町やPheraeの町に居住していたMinyansが反乱を起こした。[50]

Minyansは、Aeacusの子Peleusによって、Thessaly地方から追放されて、Lemnos島やImbros島へ移住した。[51]

Lemnos島は、Pagasetic GulfとColchis地方を結ぶ航路の中継地であり、既に、Minyansが住んでいた。

 

4.1.4 Lemnosからの退去

BC1115年、Lemnos島やImbros島に住んでいたMinyansは、Athensの町から移住して来たPelasgiansによって、島から追放された。[52]

 

4.1.4.1 Lacedaemonへの移住

Lemnos島やImbros島から追放されたMinyansの大部分は、Lacedaemonの町へ移住した。[53]

BC1099年、Minyansの一部は、Autesionの子Therasと共に、Thera島へ移住した。[54]

BC630年、Thera島に住んでいたMinyansの一部は、Polymnestusの子Battusに率いられて、Libyaへ移住して、Cyreneの町を創建した。[55]

BC780年、Laconia地方のAmyclaeの町に住み続けていたMinyansは、Doriansとの戦いに敗れて、Peloponnesusから退去した。[56]

 

4.1.4.2 Cyzicusへの移住

Lemnos島やImbros島から追放されたMinyansの一部は、Cyzicusの町へ移住した。[57]

Cyzicusの住人は、Pelasgiansから名前を変えたDolioniansであった。[58]

Dolioniansは、Ida山南のAntandrosの町へ移住した。[59]

 

4.2 Eleiaへの移住

BC1277年、Iasiusの子Amphionの娘Chlorisは、Orchomenusの町からEleia地方のPylusの町に住むCretheusの子Neleusに嫁いだ。[60]

Chlorisには、多くのMinyansが同行して、Pylusの町へ移住した。[61]

BC1270年、Minyansは、Pylusの町からEleia地方南部のTriphylia地方のAreneの町へ移住した。[62]

BC1250年、Triphylia地方のAreneの町のAreithousは土地の問題で、Tegeaの町のAleusの子Lycurgusと戦って討ち取られた。[63]

Areithousは、Neleusのもとへ嫁いだChlorisに同行してBoeotia地方のOrchomenusの町からEleia地方へ移住して来たMinyanであった。[64]

Areithousの子Menesthiusは、Minyansを率いて、Troyへ遠征した。[65]

 

5 Minyansの盛衰

5.1 Minyasの後裔

Minyasの跡を、彼の息子Orchomenusが継ぎ、Andreisの町は、Orchomenusの町と呼ばれるようになった。[66]

Orchomenusには、息子がいなかったため、Acraephiumの町に住むAthamasの子Phrixusの子Presbonの子Clymenusが、Orchomenusの跡を継いだ。[67]

Clymenusは、初代Orchomenus王Andreusの妻Euippeの従兄Presbonの息子であった。[68]

Athamasの後裔がOrchomenus王になったことで、Boeotia地方の西半分がMinyansの勢力範囲になり、東半分を勢力下に置くThebansと争うことになった。

 

5.2 Thebansとの戦い

BC1256年、Clymenusは、Onchestusの町で、Thebesの町の支配者Creonの息子Menoeceusの御者Perieresに殺された。[69]

Clymenusの子Erginusは、Thebesの町を攻めて、Thebansに勝利した。[70]

その後、Thebansは、Minyansを攻めて、Erginusに勝利した。[71]

この戦いの後、Boeotia地方のMinyansは、勢力を失った。

 

5.3 Thraciansによる占拠と奪還

BC1188年、Minyansが住んでいたOrchomenusの町がThraciansによって占拠された。

Minyansは、Aeolusの子Athamasの後裔Athamasに率いられて、Asia MinorのIonia地方へ移住して、Teosの町を創建した。[72]

また、Minyansの一部は、Athensの町のMunychiaへ逃れた。[73]

BC1126年、Munychiaに住んでいたMinyansは、Boeotiansの助けを借りて、Orchomenusの町を占拠していたThraciansを追い出して、町へ帰還した。

しかし、この時から、Orchomenusの町のMinyansは、Boeotiansの支配下に入ることになった。

その後、Orchomenusの町のMinyansの一部は、Theroの子Chaeronに率いられて、Boeotia地方西部のArne (後のChaeroneia)の町へ移住した。

 

5.4 Sauromataeの地への移住

BC1186年、Troyへ遠征したAchaeansは、Iliumの町との戦いに敗れて、各地へ逃れた。

Minyansは、Astyoche (or Pernis)の子Ialmenusに率いられて、黒海の北のSauromataeの地へ移住した。[74]

Ialmenusの先祖Phrixusの孫娘Perseis (or Perse)の子Persesは、Tauric Chersonese (現在のCrimea)の支配者であった。[75]

また、Persesの娘Hecate (or Idyia)の娘Circeは、Sauromatiansの王に嫁いでいた。[76]

つまり、古い時代から、Minyansは、黒海方面と、活発に交易していたと推定される。

 

6 Minyansの居住地の広がり

BC1335年、Minyansは、Boeotia地方のAndreis (後のOrchomenus)の町で誕生した。

BC1317年、Orchomenusの町に住んでいたMinyansは、Thessaly地方のPhylaceの町へ移住した。

BC1301年、Orchomenusの町に住んでいたMinyansは、Thessaly地方のPheraeの町へ移住した。

BC1299年、Orchomenusの町に住んでいたMinyansは、Thessaly地方のIolcusの町へ移住した。

BC1277年、Orchomenusの町に住んでいたMinyansは、Eleia地方のPylusの町へ移住した。

BC1270年、Pylusの町に住んでいたMinyansは、Triphylia地方のAreneの町へ移住した。

BC1236年、Thessaly地方に住んでいたMinyansは、Lemnos島やImbros島へ移住した。

BC1188年、Orchomenusの町に住んでいたMinyansは、Athensの町やIonia地方のTeosの町へ移住した。

BC1186年、Troyへ遠征したMinyansは、Sauromataeの地へ移住した。

BC1126年、Athensの町に住んでいたMinyansは、Orchomenusの町へ帰還した。

この時、Minyansの一部は、Arne (後のChaeroneia)の町へ移住した。

BC1115年、Lemnos島やImbros島に住んでいたMinyansは、Laconia地方へ移住した。

BC1115年、Lemnos島に住んでいたMinyansは、Cyzicusの町へ移住した。

BC1099年、Laconia地方に住んでいたMinyansは、Thera島へ移住した。

た。

 

7 ギリシア暗黒時代

Minyansの大部分は、Boeotia地方西部に住んでいた。

Minyansは、Cyzicusの町、Eleia地方、Ionia地方、Sauromataeの地、Thera島にも住んでいた。

 

おわり

bottom of page