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第43章 ラピテス人の系譜

Create:2025.10.30, Update:2026.2.16

1 始祖ラピテス (または、ラピトス)

BC1387年、アイオロスとスティルベとの間に、息子ラピテスが生まれた。[1]

アイオロスは、デウカリオーンの子ヘレンの子アイオロスの子ミマスの子ヒッポテスの息子であり、テッサリア地方のアルネの町に住んでいた。[2]

スティルベは、デウカリオーンの子ヘレンの子ドロスの子テクタモスの子ペネイオスの娘であり、ペネイオス川の北側のドーリス地方に住んでいた。[3]

つまり、ラピテスは、アイオリスの父とドーリス人の母との間に生まれた。

BC1365年、ラピテスはアイオリス人を率いて、アルネの町からペネイオス川の北側へ移住した。[4]

ラピテスに率いられたアイオリス人は、ラピタイに名前を変えた。

ラピテスは、エウリュノモスの娘オルシノメと結婚して、3人の息子たち、ペリパス、レスボス、ポルバスと娘ディオメデが生まれた。[5]

エウリュノモスの系譜については不明であるが、ラピテスの母スティルベがドーリス人であったことから、エウリュノモスもドーリス人であったと思われる。

ラピテスには、その他にアイオロスという息子もいたと思われる。

 

2 ラピタイ誕生の地

ラピテスの定住地は、ヘラクレス時代にドーリス人とラピタイが争った土地、つまり、ギュルトンの町より西側の土地であったと推定される。[6]

その土地の西側は、デウカリオーンの子ヘレンの子ドロスを始祖とするドーリス人が住むドーリス地方であった。

つまり、ラピテスは、彼の母の故郷ドーリス地方と、その東側のアイニアネス人やペッライボイ人が住んでいた土地の間に定住した。

 

3 ラピテスの子ペリパス

BC1331年、ペリパスは、ドーリス地方からペネイオスの子ヒュプセウスの娘アステュアグイアを妻に迎えた。ペリパスとアステュアグイアには、8人の息子たちが生まれた。ペリパスの後裔は勢力を増してラピタイと呼ばれるようになった。[7]

8人の息子たちのうちで、史料に名前が記されているのは、アンティオンのみである。[8]

アンティオンの他に、エラトス、アンドライモンという息子もいたと思われる。

 

3.1 ペリパスの子アンティオン

BC1301年、アンティオンは、テッサリア地方のピュッロスの町に住むアミュタオンの娘ペリメラを妻に迎えた。アンティオンとペリメラには、息子イクシオンが生まれた。[9]

また、イクシオンには、異母兄弟プレギュアスがいた。[10]

 

3.1.1 アンティオンの子イクシオン (または、ギュルトン)

BC1276年、イクシオンは、オリュンポス山近くに住むマグネスの子エイオネオス (または、デイオネオス)の娘ディアを妻に迎えた。イクシオンとディアには、息子ペイリトウス (または、ピリトウス, ペリトウス)が生まれた。[11]

イクシオンとプレギュアスは、ラピタイを率いて、ペネイオス川流域に住んでいたペッライボイ人を追い出した。[12]

イクシオンとディアは、アルネの町のヒッポテスの子アイオロスを共通の先祖としていた。

イクシオンには、もう一人の妻ネフェレがいた。[13]

ネフェレは、ケンタウロスの女性で、イクシオンとの間に2人の息子たち、エウリュティオンとインブロスが生まれた。[14]

 

3.1.1.1 イクシオンの子ペイリトウス

ペイリトウスの時代には、彼が率いるラピタイは、ペネイオス川流域に広く居住し、アイニアネス人、ペッライボイ人、ケンタウロスを他へ追い出して、居住地を広げた。[15]

イクシオンとネフェレの間には、ケンタウロスと呼ばれる半身半獣の種族が生まれたと伝えられている。[16]

ケンタウロスは、裸馬を乗りこなす人々で、ラピタイによって、テッサリア地方から追い出された。[17]

ペイリトウスは、第8代アテナイ王パンディオンの子テレオンの子ブテスの娘ヒッポダメイアと結婚した。彼らの祝宴には第9代アテナイ王アイゲウスの息子テセウスも招かれた。[18]

ペイリトウスの妻ヒッポダメイアは、テセウスの父方の従兄弟の娘であった。

また、ペイリトウスとテセウスは、親友であった。[19]

BC1186年、ペイリトウスの後裔がテッサリア地方から追放されたとき、かつての先祖の友好関係によって、アテナイ人は、彼らを受け入れた。ペイリトウスの後裔は、アテナイの10部族の一つ、オイネイス部族となった。[20]

 

3.1.1.2 イクシオンの子エウリュティオン

エウリュティオンは、ケンタウロスの指導者であり、ラピタイと戦った。[21]

 

3.1.2 アンティオンの子プレギュアス

BC1280年、プレギュアスとイクシオンは、ラピタイを率いて、ペッライボイ人を追い出して、ギュルトンの町を創建した。[22]

ギュルトンの町に住んでいたラピタイは、プレギュアスの名前に因んでプレギュアイと呼ばれていたが、ギュルトン人と呼ばれるようになった。[23]

ギュルトンの町の名前は、プレギュアスの兄弟ギュルトンに因んで名付けられたとも伝えられている。[24]

しかし、イクシオンと、彼の息子ペイリトウスが、ギュルトンの町を支配していたことから、ギュルトンは、イクシオンの別名であったと思われる。[25]

つまり、プレギュアスの時代は、町はプレギュアスと呼ばれていたが、イクシオンがプレギュアスの跡を継いで、町はギュルトンという名前で呼ばれるようになった。

プレギュアスには、息子エイラティダスと娘コロニスがいた。[26]

 

3.1.2.1 プレギュアスの子エイラティダス

エイラティダスの娘コロニス (または、エピオネ)は、トリッカの町のアスクレピオスに嫁いだ。[27]

エイラティダスが父プレギュアスの跡を継がず、イクシオンがプレギュアスの跡を継いでいることから、エイラティダスは父より先に死んだと推定される。

 

3.2 ペリパスの息子と思われるエラトス

エラトスの子ポリュペモスはラピタイであり、エラトスの後裔は、ラリッサの町やギュルトンの町に住んでいた。[28]

したがって、エラトスは、ラピテスの子ペリパスの息子であったと推定される。[29]

エラトスには、4人の息子たち、カイネウス、アンピュコス、ポリュペモス、イスキュス、それに、2人の娘たち、ドティア、カイニスがいた。

 

3.2.1 エラトスの子カイネウス

カイネウスの子コロノスは、ラピタイを率いて、ドーリス人と戦って、ヘラクレスによって殺された。[30]

カイネウスの後裔リュシディケは、テラモンの子アイアス (または、アイアス)と結婚して、ピライオス (または、ピリウス)が生まれた。[31]

ヘロドトスは、コリントスの町のエイティオンの子キュプセロスがピライオスの後裔だと2か所で記しているが間違っている。[32]

コリントスの町のキュプセロスの父方の先祖は、アンタソスの子メラスであった。[33]

また、キュプセロスの母方の先祖は、ドーリス人のコリントスの町の最初の支配者アレテスであった。[34]

ヘロドトスは、アテナイの町のミルティアデスの父キュプセロスをピライオスの後裔だと記しており、アテナイの町のキュプセロスとコリントスの町のキュプセロスとを混同している。[35]

 

3.2.2 エラトスの子アンピュコス

BC1264年、アンピュコスは、従兄弟アイオロスの子メラネオスが創建したオイカリアの町へ移住した。[36]

BC1305年にメラネオスがメッセニア地方へ移住した後で、住人が少なくなったオイカリアの町へアンピュコスが移住して、町を再建したと思われる。[37]

アンピュコスは、息子モプソスと共に予言者であった。彼に予言術を伝授したのは、彼の叔父アンティオンの妻ペリメラの兄弟メランプスであったと推定される。[38]

 

3.2.2.1 アンピュコスの子モプソス

BC1243年、モプソスは、オイカリアの町からギュルトンの町の北北東へ移住して、モプシオンの町を創建した。[39]

モプソスは、アルゴ船の遠征の物語に登場する。[40]

 

3.2.3 エラトスの子ポリュペモス

ポリュペモスはラリッサの町に住み、アルゴ船の遠征の物語に登場する。[41]

 

3.2.4 エラトスの子イスキュス

イスキュスは、ギュルトンの町からプレギュアスの娘コロニスを妻に迎え、息子アスクレピオス (または、アイスクラピオス)が生まれた。[42]

コロニスは、ドティオン平原のボイベイス湖のほとりのアミュロスの町で育った。[43]

BC1260年、イスキュスは、トリッカの町へ移住した。

トリッカの町は、ドロスの子テクタモスの子ペネイオスの娘トリッカの名前に因んで名付けられた町であり、ドーリス人が住んでいた。[44]

そして、イスキュスがトリッカの町へ移住した頃、それまで町に住んでいたデイマコスの子アウトリュコスが黒海南岸のシノペの町へ移住した。[45]

ドーリス人のアウトリュコスが去った後、ラピタイのイスキュスがトリッカの町に住んだが、町の住人の多くはドーリス人であったと思われる。後のヘラクレスとラピタイとの戦いに、トリッカの町は登場しない。

 

3.2.4.1 イスキュスの息子アスクレピオス

アスクレピオスは、アルゴス地方のエピダウロスの町で生まれたという伝承がある。[46]

アスクレピオスの祖父プレギュアスの母が、エピダウロスの町の出身であった。[47]

エピダウロスの町の人々が、町に縁のあるアスクレピオスを信仰して、アスクレピオスがその町で生まれたという伝承が生まれたと考えられる。

ストラボンは、アスクレピオスがテッサリア地方のトリッカの町を流れるレタイウス川の畔で生まれたと伝えている。[48]

トリッカの町には、アスクレピオスの最古の神域があった。[49]

 

3.2.4.1.1 アスクレピオスと医術

ギリシアに医学をもたらしたのは、エジプト人のアピスであった。[50]

アピスは、エジプトからアルゴスの町のアクリシオスに同行して、アルゴスの町の近くのナウプリアの町へ移住して来た。[51]

アクリシオスの妻エウリュディケの兄弟アミュクラスの妻は、ラピテスの娘ディオメデであった。[52]

つまり、エジプトから伝来した医術を最初に習得したのは、ラピタイであった。

そして、アスクレピオスは、その医術をさらに進化させた。[53]

 

3.2.4.1.2 アスクレピオスの息子マカオン

3.2.4.1.2.1 マカオンの妻アンティクレイア

BC1200年、マカオンは、メッセニア地方のパライの町に住んでいたディオクレスの娘アンティクレイアを妻に迎えた。[54]

マカオンが住むテッサリア地方北部トリッカの町と、アンティクレイアが住むメッセニア地方のパライの町は、直線距離で280km以上離れていた。

マカオンとアンティクレイアとの婚姻は、つぎのようにして成立したと推定される。

アパレウスの子イダスの死後、ネレウスの子ネストルがメッセニア地方を継承したとき、彼に従おうとしない住人がいた。[55]

その住人とは、アイオロスの子ペリエレスがメッセニア地方のアンダニアの町から、統治者として迎えられたとき、テッサリア地方からアンダニアの町へ移住したラピタイと思われる。[56]

ラピタイは、ペリエレスの子アパレウスがメッセニア地方の西海岸に創建したアレネの町にも住んでいた。[57]

アレネの町の近くに、ピュロスの町を創建したネストルは、ラピタイを従わせるために、テッサリア地方に住むラピタイの有力者の影響力を利用しようとした。

このとき、メッセニア地方のパライの町のオルティロコスの子ディオクレスも、スパルタの町のテュンダレオスに脅威を感じていた。[58]

そのため、メッセニア地方の盟主ネストルは、ディオクレスの娘アンティクレイアをラピタイの有力者と結婚させ、その仲介をすることで、ラピタイの支持を得ようとした。

これより少し前に、テッサリア地方のほとんどのラピタイは、ヘラクレスとの戦いに敗れて、勢力を失い、トリッカの町のアスクレピオスのみが勢力を保持していた。[59]

BC1208年、ネストルは、トリッカの町を訪問し、アスクレピオスから歓待された。[60]

アスクレピオスには、2人の息子たち、マカオンとポダリロスがいたが、ポダリロスは結婚適齢期に達していなかった。マカオンには既に3人の息子がいたが、アンティクレイアを嫁に迎えることに決まった。[61]

 

3.2.4.1.2.2 マカオンの後裔

マカオンと最初の妻との息子たち、ポレモクラテス、アレクノル、スピュロスは、アルゴス地方に住んだ。アンティクレイアの2人の息子たち、ニコマコスとゴルガソスは、祖父ディオクレスの跡を継いで、メッセニア地方のパライの町に住んだ。[63]

ニコマコスの後裔ニコマコスは、エウボイア島のカルキスの町からカルキディケ半島近くのスタゲイラの町に植民団を導いた指導者たちの一人の子孫パイスティスと結婚した。

BC384年、ニコマコスとパイスティスには、息子アリストテレスが生まれた。[64]

 

3.2.4.1.3 アスクレピオスの子ポダリロス (または、ポダリリオス、または、ポダレイリオス)

3.2.4.1.3.1 シュルノスの創建

ポダリロスは、トロイへ遠征して、アカイア人が戦いに敗れた後、予言者カルカス、ペイリトウスの子ポリュポイテス、コロノスの子レオンテオスと共に小アジアを放浪した。[65]

ポリュポイテスやレオンテオスは、コロポンの町に定住した。[66]

ポダリロスは、カリア地方のビュバストスの町で、ダマイトスの娘シュルナと結婚した。ダマイトスは、ミノスの娘アリアドネの子スタピュロスの息子と推定される。

その後、ポダリロスは、カリア地方にシュルノスの町を創建した。[67]

 

3.2.4.1.3.2 ポダリロスの後裔

アスクレピオスの子ポダリロスの医術を伝える子孫は、シュルノスの町の近くのコス島で生き続けた。医学の父と呼ばれたBC4世紀初頭のヒッポクラテスは、ヘラクレスから20代目、アスクレピオスから19代目の子孫であった。[68]

コス島には、ヘラクレスの子テッサロス (または、テッタロス)の後裔が住んでいたが、彼らとシュルノスの町に住むポダリロスの後裔と姻戚関係が生じたと思われる。

ヒッポクラテスは、マケドニア王ペルディッカスと交友があった。[69]

ヒッポクラテスの子ドラコの子ヒッポクラテスは、アレクサンドロス大王の死後、アンピポリスの町に幽閉されたロクサネを治療して、アンティパトロスの子カッサンドロスに殺された。[70]

 

4 ラピテスの子レスボス

BC1340年、レスボスは、彼の伯父マカレウスが既に入植していたペラスギア島へラピタイを率いて移住し、マカレウスの娘メテュマと結婚した。[71]

ペラスギア島は、マカレウス入植後、マカレウスの家とも呼ばれていたが、レスボスの名前に因んでレスボス島と呼ばれるようになった。[72]

 

5 ラピテスの子ポルバス

BC1320年、ラピテスの子ポルバスは、テッサリア地方からロドス島へ移住した。[73]

ポルバスをロドス島へ呼び寄せたのは、マカレウスの子レウキッポスであったと推定される。ポルバスは、レウキッポスの父マカレウスの兄弟ラピテスの息子であり、ポルバスとレウキッポスは、従兄弟同士であった。

ポルバスは、フェニキア人との争いに苦しめられていたレウキッポス率いるアイオリス人に加勢するために、ロドス島へ渡ったと推定される。

BC1306年、ポルバスは、ロドス島からペロポネソス北西部のオレノスの町へ移住した。[74]

ディオドロスは、エリス王アレクトールがポルバスを呼び寄せたと伝えている。[75]

しかし、ポルバスは、ヘリアダイやアイオリス人と共に、フェニキア人と戦ったが、戦いに敗れて、島から追放されたと推定される。

レウキッポスと共にレスボス島からロドス島へ移住したアイオリス人の中には、アイオロスの子マカレウスと共にオレノスの町からレスボス島へ移住したアイオリス人がいた。[76]

ポルバスは、アイオリス人と共に、オレノスの町へ移住したと考えられる。

ポルバスは、ロドス島へ移住する前に、娘プロノエをもうけていた。

ポルバスは、オレノスの町へ移住後、エリスの町のエペイオスの娘ヒュルミナを妻に迎えて、息子アクトール、娘アステュダメイアが生まれた。また、デクサメノスもポルバスの息子と思われる。[77]

 

5.1 ポルバスの子アクトール

BC1285年、アクトールは、オレノスの町からエリスの町の西の海の近くへ移住して母の名前に因んだヒュルミナの町を創建した。[78]

アクトールは、プレウロンの町からモロスの娘モリオネを妻に迎え、双子の息子たち、クテアトスとエウリュトスが生まれた。[79]

BC1265年、アクトールの兄弟デクサメノスの子ヒッポノウスは、アイトリア地方のプレウロンの町とカリュドンの町の間に、オレノスの町を創建した。

ヒッポノウスがアイトリア地方に町を建設できたのは、彼の叔父アクトールの妻モリオネがプレウロンの町の出身であったからであった。[80]

 

5.1.1 アクトールの双子の息子たち

アクトールの双子の息子たちは、オレノスの町からデクサメノスの双子の娘たち、テロニケとテライポネをそれぞれ妻に迎えた。クテアトスとテロニケからは息子アンピマコス、エウリュトスとテライポネからは息子タルピオスが生まれた。[81]

クテアトスとエウリュトスは、ヘラクレスがエリスの町を攻める準備をしていると知ったエリスの町のアウゲアスによって、将に任命された。[82]

兄弟は勇猛な戦士であり、ヘラクレスはエリスの町を攻めたが敗北を重ね、勝敗がつかぬままに休戦した。[83]

兄弟は、ヘラクレスが病気であることを知って攻撃を仕掛けて、多くの者を殺した。 [84]

その中には、ヘラクレスの異母兄イピクレスも含まれていた。[85]

休戦中に身内を殺されたヘラクレスは、エレイア地方のヒュルミナの町からイストモスの町へ向かう途中の兄弟をアルゴス地方のクレオナイの町で襲撃して殺した。[86]

この襲撃で、ヘラクレスに加勢したクレオナイ人 360人が戦死したと伝えられている。

しかし、兄弟の母モリオネが犯人捜しをしたという伝承があることから、少人数による襲撃であったと思われる。[87]

当時、クレオナイの町には、その町の創建者ペロプスの子アトレウスが住んでいた。

ペロプスの娘エウリュディケ (または、リュシディケ)の娘アルクメナの子ヘラクレスに、アトレウスが加勢したと推定される。[88]

 

5.2 ポルバスの息子と思われるデクサメノス

デクサメノスがポルバスの息子であったという伝承はない。しかし、次のことからデクサメノスはポルバスの息子であったと推定される。

1) ポルバスの子アクトールの双子の息子たちが、デクサメノスの双子の娘たちと結婚した。[89]

つまり、デクサメノスは、ポルバスより1世代後の人物であった。

2) デクサメノスは、ポルバスと同じくオレノスの町を治めていた。[90]

 

5.2.1 デクサメノスの子エウリュピロス

エウリュピロスは、ヘラクレスのイリオン遠征物語に登場する。[91]

 

5.2.2 デクサメノスの息子と思われるヒッポノウス

AD2世紀の神話作家アポロドロスは、カリュドンの町のオイネウスが、オレノスの町を攻め落として、ヒッポノウスの娘ペリボイアを戦利品として得たと伝えている。[92]

この戦いは、カリュドンの町とプレウロンの町との戦いの一つと思われるが、海を越えてアカイア地方のオレノスの町がプレウロンの町に味方したとは考えられない。このオレノスの町は、カリュドンの町とプレウロンの町の間にあったアイトリア地方のオレノスの町であった。[93]

BC1265年、ヒッポノウスは、アカイア地方のオレノスの町からアイトリア地方へ移住して、オレノスの町を創建した。[94]

ヒッポノウスは、彼の義理の叔母モリオネとの関係で、プレウロンの町の近くに町を建設することができた。[95]

モリオネは、プレウロンの町に住むモロスの娘であった。[96]

 

6 ラピテスの息子と思われるアイオロス

アイオロスは、次の理由で、ラピテスの息子と推定される。

1) アイオロスの子ケルカポスの子オルメノスと、彼の息子アミュントルは、ヘラクレスに攻められて殺された。[97]

オルメノスとの戦いは、ヘラクレスとラピタイとの戦いの中での出来事であり、オルメノスはラピタイの一員であったと思われる。

2) 系図を作成するとアイオロスとラピタイの始祖ラピテスとの生年は、20年しかない。

つまり、アイオロスはラピテスの息子であったと推定される。

アイオロスは、ペネイオス川付近に住み、2人の息子たち、ケルカポスとペリエレス、それに2人の娘たち、ペリメデとピシディケをもうけた。[98]

また、アイオロスには、メラネオスという息子もいたと推定される。[99]

 

6.1 アイオロスの子ケルカポス

BC1293年、ケルカポスは、ペネイオス川付近からイトノスの町へ移住して、プティア地方からミュルミドンの娘エウポレメイアを妻に迎えた。ケルカポスとエウポレメイアには、息子オルメノスが生まれた。[100]

ケルカポスは、彼の姉ピシディケとミュルミドンの結婚が縁で、プティア地方へ進出した。[101]

ミュルミドンの娘エウポレメイアの子アイタリデスは、プティア地方のアンピュリュソス川近くからアルゴ船の遠征に参加した。

アイタリデスが住んでいたのはイトノスの町であり、彼はケルカポスの後継者であった。[102]

 

6.1.1 ケルカポスの息子と思われるアイタリデス

BC1268年、アイタリデスは、父からイトノスの町を継ぎ、イオルコスの町のペリアスの娘ペロピアを妻に迎えた。アイタリデスとペロピアには、息子キュクノス (または、キュグノス)が生まれた。[103]

BC1227年、キュクノスは、ヘラクレスに攻められて討ち取られた。[104]

 

6.1.2 ケルカポスの子オルメノス (または、オルメニオス)

BC1236年、イオルコスの町のミニュアス人が反乱を起こして、町を破壊した。[105]

BC1235年、オルメノスは、イトノスの町からイオルコスの町の東側へ移住して、オルメニオンの町を創建した。[106]

BC1227年、オルメノスは、ヘラクレスに攻められて、息子アミュントルと共に殺された。[107]

オルメノスには、2人の息子たち、アミュントルとエウアイモン、娘アステュダメイア (または、アステュダミア)がいた。

 

6.1.2.1 オルメノスの子アミュントル

BC1230年、アミュントルの子ポイニクスは、父子の争いが原因で、プティア地方を治めるペレウスのもとへ亡命し、ドロピア地方を与えられた。[108]

ペレウスは、ポイニクスの父アミュントルの父オルメノスの母エウポレメイアの兄弟アクトールの子アイアコスの息子であった。つまり、ペレウスは、ポイニクスの父アミュントルの又従兄弟であった。

BC1227年、アミュントルは、オルメニオンの町を攻めたヘラクレスと戦って、父オルメニオスと共に殺された。[109]

ポイニクスは、トロイへ遠征し、アキレスの配下の5人の将の一人として、第4隊を指揮した。[110]

トロイから帰還したポイニクスは、アキレスの子ネオプトレモスと行動を共にし、新天地へ向かう途中、テルモピュライ付近で客死した。[111]

 

6.1.2.2 オルメノスの子エウアイモン

エウアイモンと彼の息子エウリュピロスは、オルメニオンの町に住み、エウリュピロスは、伯父アミュントルが死に、彼の息子ポイニクスが町を出て行った後で、オルメニオンの町を継承した。[112]

BC1186年、エウリュピロスは、トロイに遠征したが、故郷をテスプロティア人に奪われ、アカイア地方のパトライの町に住み着いた。エウリュピロスとパトライの町を結びつけるものはなく、伝承通り、デルポイの神託に従って、その地を決めたのかもしれない。[113]

 

6.2 アイオロスの子ペリエレス

BC1310年、ペリエレスは、跡継ぎが絶えたメッセニア地方のアンダニアの町から招かれて、ペネイオス川付近からアンダニアの町へ移住した。[114]

ラケダイモンのレレクスの子ポリュカオンは、彼の妻メッセネの出身地アルゴスの町から大勢の人々を参加させて、アンダニアの町を創建した。[115]

アンダニアの町の住人は、少し前にアカイオスの息子たちと共にテッサリア地方からアルゴス周辺へ移住したアカイア人であった。[116]

アンダニアの町は、ラケダイモンの分家であった。しかし、住民は自分たちの住む地方をラケダイモンではなく、ポリュカオンの妻メッセネに因んでメッセニアと呼ぶようになった。ポリュカオンの後裔が絶えたとき、住民は跡継ぎをラケダイモンからではなく、テッサリア地方から求めた。[117]

ペリエレスは、ペルセウスの娘ゴルゴホネを娶って、2人の息子たち、アパレウスとレウキッポスが生まれた。[118]

 

6.2.1 ペリエレスの子アパレウス

BC1280年、アパレウスは、アンダニアの町から西海岸へ移住して、アレネの町を創建した。アレネはアパレウスの母ゴルゴホネが再婚して生まれた娘であり、アパレウスの妻の名前であった。[119]

パウサニアスは、アパレウスのもとへテッサリア地方のイオルコスの町から、彼の従兄弟ネレウスが逃れて来て、ピュロスの町を含む海沿いの土地を分け与えたと伝えている。[120]

しかし、パウサニアスは別な箇所で、ネレウスが住んでいたピュロスの町は、メッセニア地方ではなく、エレイア地方のエリスの町の近くにあったと記している。[121]

また、パウサニアスは、ペリエレスをヒッポテスの子アイオロスの息子であったと誤って認識している。アパレウスとネレウスは同時代人ではあったが、会うことはなかったと思われる。

アパレウスとアレネとの間には、2人の息子たち、イダスとリュンケウスが生まれた。[122]

 

6.2.1.1 アパレウスの子イダス

イダスが成人した頃、スパルタの町のテュンダレオスが、異父兄弟であるアパレウスを頼って、アレネの町を訪れた。[123]

その後、テュンダレオスは、アイトリア地方のプレウロンの町のテスティオスのもとへ移住することになり、イダスも一緒に移住した。[124]

プレウロンの町で、テュンダレオスは、テスティオスの娘レダと結婚し、イダスはエウイノスの娘マルペッサと結婚した。[125]

イダスは、娘クレオパトラ (または、ハルキュオネ)が、カリュドンの町のオイネウスの子メレアグロスと結婚するまで、アイトリア地方に住んでいた。その間、プレウロンの町とカリュドンの町との争いが起こり、テュンダレオスはプレウロンの町、イダスはカリュドンの町に分かれて戦った。

アパレウスの死後、イダスは父の跡を継ぐために、アレネの町へ戻った。[126]

その後、テュンダレオスは、彼の2人の息子たち、カストールとポリュデウケス (または、ポラックス)と共にスパルタの町へ帰還した。[127]

テュンダレオスとイダスは、プレウロンの町とカリュドンの町の敵対関係をそのままペロポネソスへ持ち込み、ラコニア地方とメッセニア地方との争いとなった。[128]

まず、テュンダレオスは、アンダニアの町のレウキッポスを攻めた。テュンダレオスの2人の息子たち、カストールとポリュデウケスは、捕虜になったレウキッポスの2人の娘たちを妻にした。[129]

アンダニアの町への攻撃は、その町がラケダイモンのレレクスの子ポリュカオンにより創建されたからという大義を掲げて行われたと思われる。[130]

つぎに、テュンダレオスは、アンダニアの町の近くのオイカリアの町を攻め、メラネオスの子エウリュトスを町から追い出した。[131]

徐々にメッセニア地方に勢力を拡大するテュンダレオスに対して、イダスは、テュンダレオスの娘ヘレネを誘拐して、アテナイの町のテセウスに預けた。[132]

イダスとテセウスの友ペイリトウスとは、ラピタイの始祖アイオロスの子ラピテスを共通の祖とする同族であり、イダスとテセウスにも親交があったと推定される。[133]

テュンダレオスの2人の息子たちは、ヘレネを奪い返した。この事件は、イダス兄弟と、テュンダレオスや息子たちとの間での直接対決に発展して、彼らは死に絶えた。[134]

 

6.2.1.2 アパレウスの子リュンケウス

リュンケウスの妻子については、伝えられておらず、テュンダレオスの息子たちとの戦いで、リュンケウスはポリュデウケスに殺された。[135]

 

6.2.2 ペリエレスの子レウキッポス

レウキッポスは、兄弟アパレウスが沿岸部へ移住してアレネの町を創建した後で、アンダニアの町を継承した。[137]

レウキッポスには、3人の娘たち、ヒライラ(または、ヒラエイラ)、ポイベ、アルシノエが生まれた。[138]

アンダニアの町のレウキッポスは、テュンダレオスに攻められて、ヒライラとポイベは捕虜となり、テュンダレオスの2人の息子たち、カストールとポリュデウケスの妻になった。[139]

 

6.3 アイオロスの息子と思われるメラネオス

BC6世紀の思想家フェレキュデスは、メラネオスの父をアルケシラオスとしている。しかし、一緒に記されている内容が他の史料との相違点が多く、信用できない。[140]

メラネオスは、ラピテスの子アイオロスの息子と思われ、つぎのように居住地を変えたものと思われる。

BC1310年、メラネオスは、トリッカの町の近くにオイカリアの町を創建した。

BC1305年、メラネオスは、アンダニアの町に住むペリエレスから招かれてメッセニア地方へ移住し、アンダニアの町の近くにオイカリアの町を創建した。

ペリエレスとメラネオスは、兄弟であったと思われる。[141]

メラネオスには、妻オイカリア (または、ストラトニカ)との間に、息子エウリュトスが生まれた。[142]

メラネオスがアイオロスの息子と推定される理由は、つぎのとおりである。

1) メラネオスの子エウリュトスは、ヘラクレスに攻められて殺された。[143]

ヘラクレスとエウリュトスの戦いは、ヘラクレスとラピタイとの一連の戦いの中の最後の戦いであった。つまり、メラネオスは、ラピタイの一員であった。

2) 系図を作成すると、メラネオスとラピタイの始祖ラピテスとの生年差は、2世代分である。つまり、メラネオスは、ラピテスの孫であったと推定される。

3) メラネオスは、ラピテスの子アイオロスの子ペリエレスに頼られていたことから、ペリエレスの兄弟と思われる。

つまり、メラネオスは、ラピテスの子アイオロスの息子と推定される。

 

6.3.1 メラネオスの子エウリュトス

エウリュトスは、メッセニア地方のオイカリアの町で生まれた。彼は、アルゴス地方のナウプリアの町からピュロの娘アンティオペを妻に迎えて、6人の息子たち、イピトス、クリュティウス、デイオネオス (または、ディダイオン)、ヒッパソス、トクセオス、モリオン、それに娘のイオレ (または、イオレア)が生まれた。

BC1237年、エウリュトスは、アイトリア地方からスパルタの町に戻ったテュンダレオスに追われてエウボイア島へ移住して、オイカリアの町を創建した。[144]

エウボイア島のエレトリアの町の古い名前は、メラネイスであり、エウリュトスの父メラネオスに因む名前であったと伝えられる。[145]

エウボイア島へ移住したエウリュトスは、メラネイスの町を創建した後で、東北東へ移住して、オイカリアの町を創建したと推定される。

その後、テッサリア地方で、ラピタイはペネイオス川近くから勢力を伸ばして、ドティオン平原からアイニアネス人を追い出した。さらに、ラピタイはギュルトンの町やラリッサの町にいたペッライボイ人を追い出した。ラピタイはドーリス人が古くから住み、古くはドーリス地方と呼ばれたヒスティアイオティス地方をも圧迫した。そして、ヘラクレスがドーリス人を助けて、ラピタイとの戦いが始まった。[146]

テッサリア地方でヘラクレスに敗れて、居住地を追われて、エウボイア島のオイカリアの町のエウリュトスのもとへ逃げ込んだラピタイは、相当な数であった。エウボイア島では、ヘラクレスとラピタイの最後の戦いとなり、双方ともに多くの犠牲者を出した。エウリュトス本人もその中のひとりであり、3人の息子たちも戦死した。[147]

 

6.3.1.1 エウリュトスの子イピトス

イピトスは、偶発的な出来事により、テュリンスの町でヘラクレスに殺されたと伝えられる。[148]

当時、イピトスの父エウリュトスは、メッセニア地方のオイカリアの町にいたが、イピトス本人は、母の生地であるアルゴス地方のナウプリアの町にいたと思われる。[149]

一方、ヘラクレスは、ナウプリアの町のすぐ近くのテュリンスの町に住んでいて、イピトスとは親交があったと推定される。ヘラクレスは罪を悔い、リュディアのオンパレの下で3年間奉仕した。[150]

当時、誤って人を殺した者は、他人の家庭に入って、一定期間奉仕するという決まり事があった。[151]

 

6.3.1.2 エウリュトスの子クリュティウス

クリュティウスは、メッセニア地方のオイカリアの町からアルゴ船の遠征に参加し、アイイテスに殺されたとも伝えられる。[152]

しかし、エウボイア島のオイカリアの町でのヘラクレスとの戦いで死んだとする伝承もあり、こちらの方が信用できる。[153]

 

6.3.1.3 エウリュトスの子デイオネオス(または、ディダイオン)

デイオネオスは、アテナイの町のテセウスの妻であったイストモスの町のシニスの娘ペリグネを譲り受けて妻とした。[154]

この結婚の当時、デイオネオスは、メッセニア地方のオイカリアの町に住んでいたと思われるが、デイオネオスとテセウスの関係は不明である。

 

6.3.1.4 エウリュトスの子ヒッパソス

ヒッパソスは、イオルコスの町のペリアスの娘アルケスティスを妻に迎え、息子テセウスが生まれた。[155]

ヒッパソスの死後、彼の妻アルケスティスは、彼女の息子テセウスを連れて、フェライの町のフェレスの子アドメトスと再婚した。[156]

テセウスはアドメトスのもとで育てられたが、後に、エウボイア島の祖父エウリュトスの近くで暮らした。[157]

 

6.3.1.5 エウリュトスの2人の息子たち、トクセオスとモリオン

トクセオスとモリオンは、ヘラクレスに攻められたエウボイア島のオイカリアの町を守って、父や兄弟と共に戦死した。[158]

 

7 ラピタイの居住地の広がり

BC1365年、ラピタイは、テッサリア地方北部のペネイオス川の北側で誕生した。

BC1340年、ペネイオス川の北側に住んでいたラピタイは、レスボス島へ移住した。

BC1320年、ペネイオス川の北側に住んでいたラピタイは、ロドス島へ移住した。

BC1310年、ペネイオス川の北側に住んでいたラピタイは、メッセニア地方のアンダニアの町へ移住した。

BC1310年、ペネイオス川の北側に住んでいたラピタイは、ペネイオス川の上流へ移住して、オイカリアの町を創建した。

BC1306年、ロドス島に住んでいたラピタイは、アカイア地方のオレノスの町へ移住した。

BC1305年、オイカリアの町に住んでいたラピタイは、メッセニア地方へ移住して、オイカリアの町を創建した。

BC1293年、ペネイオス川の北側に住んでいたラピタイは、パガサイ湾西岸のイトノスの町へ移住した。

BC1285年、アカイア地方のオレノスの町に住んでいたラピタイは、エレイア地方へ移住して、ヒュルミナの町を創建した。

BC1280年、アンダニアの町に住んでいたラピタイは、メッセニア地方の西海岸へ移住して、アレネの町を創建した。

BC1280年、ペネイオス川の北側に住んでいたラピタイは、ペネイオス川の東側へ移住して、ギュルトンの町を創建した。

BC1265年、アカイア地方のオレノスの町に住んでいたラピタイは、アイトリア地方へ移住して、オレノスの町を創建した。

BC1260年、ペネイオス川の北側に住んでいたラピタイは、ペネイオス川の上流のトリッカの町へ移住した。

BC1246年、ラピタイは、ペリオン山周辺へ居住地を広げた。

BC1243年、オイカリアの町に住んでいたラピタイは、ギュルトンの町の近くへ移住して、モプシオンの町を創建した。

BC1237年、メッセニア地方のオイカリアの町に住んでいたラピタイは、エウボイア島へ移住して、オイカリアの町を創建した。

BC1235年、イトノスの町に住んでいたラピタイは、イオルコスの町の東側へ移住して、オルメニオンの町を創建した。

BC1186年、テッサリア地方に住んでいたラピタイは、アルゴス地方、メッセニア地方のパライの町、アカイア地方のパトライの町、カリア地方、イオニア地方のコロポンの町へ移住した。

BC1111年、テッサリア地方に住んでいたラピタイは、アテナイの町へ移住した。

 

8 ギリシア暗黒時代

ラピタイは、アテナイの町、アルゴス地方、メッセニア地方、イオニア地方のコロポンの町、コス島に住んでいた。

 

おわり

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