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第46章 ドリュオペス人の系譜

Create:2025.10.30, Update:2026.2.16

1 はじめに

BC1750年、パルナッソス山の北を流れるケピソス川の上流で大洪水が発生した。

オギュゴスに率いられたエクテネスは、ケピソス川の下流へ移住して、コパイス湖の南東に定住した。[1]

BC1580年、ヘレンの父デウカリオーンの祖父に率いられたエクテネスの一部は、ヒュアンテスなどの他の部族によって圧迫されて、ボイオティア地方から北へ移動した。デウカリオーンは、テッサリア地方北部を流れるペネイオス川に南から流れ込むエニペウス川の源流付近に、ピュラ (後のメリタイア)の町を創建した。[2]

デウカリオーンには、2人の息子たち、ヘレンとアンピクテュオンがいた。[3]

ヘレンは、プティオティス地方を治め、その地方の人々はヘレネス、または、ヘラスと呼ばれた。[4]

ヘレンには、3人の息子たち、アイオロス、クストス、ドロスがいた。[5]

BC1460年、ドロスは、メリタイアの町からエニペウス川沿いに下って、ペネイオス川との合流地点の北側へ移住した。その地方は、ドーリス地方と呼ばれ、住人は、ドーリス人と呼ばれるようになった。[6]

BC1420年、カドモス率いる大集団がトラキア地方から南下して、テッサリア地方に侵入した。ドーリス地方に住んでいたドロスは、ドーリス人を率いて南へ移動し、オイタ山とパルナッソス山の間に定住した。[7]

その地方は、ドーリス地方と呼ばれるようになった。[8]

 

2 始祖ドリュオプス

2.1 ペネイオス河神の子ドリュオプス

ドリュオプス人 (または、ドリュオペス)の始祖は、ペネイオス河神とダナオスの娘ポリュドレの息子ドリュオプスであり、スペルケイオス川の近くに住んでいた。[9]

ダナオスの娘ポリュドレが結婚適齢期になった頃、テッサリア地方のペネイオス川近くに住んでいたのは、ヘレンの子ドロスを始祖とするドーリス人であった。

ドロスには、娘イプチメがおり、イプチメには、3人の息子たち、フェレスポンドス、リュコス、プロノモスがいた。[10]

系図を作成すると、イプチメの息子たちは、ポリュドレと同世代である。イプチメの息子たちの一人が、ポリュドレと結婚したペネイオス河神であったと思われる。

ポリュドレの結婚は、ヘレンの子ドロスがパルナッソス山近くへ移住した後であり、ドロスの娘イプチメは、父の移住に参加せずにペネイオス川近くに残っていたと推定される。

 

2.2 ポリュドレの遠距離婚

BC1407年、イプチメの息子とダナオスの娘ポリュドレが結婚した。彼らには息子ドリュオプスが生まれた。[11]

テッサリア地方の北部に住むイプチメの息子と、アルゴスの町に住むポリュドレの遠距離婚を可能にしたのは、つぎのような事情であったと推定される。

BC1435年、クストスの子アカイオスは、ペロポネソス北部のアイギアロス地方から、父が追放されたテッサリア地方のメリタイアの町へ帰還した。[12]

BC1420年、カドモスに率いられた大集団の移動に圧迫されて、アカイオスの2人の息子たち、アルカンドロスとアルキテレスはアイギアロス地方へ帰還した。その後、アルカンドロスとアルキテレスは、アルゴスの町のダナオスの娘たち、スカイアとアウトマテと結婚した。[13]

彼らの結婚が、スカイアの姉妹ポリュドレと、テッサリア地方に住むイプチメの息子を結び付けたものと推定される。

 

2.3 スペルケイオス近くへの移住

BC1390年、テッサリア地方に住んでいたペラスゴイ人は、ドロスの子デウカリオーンの息子たちに追われて各地へ移住した。ポリュドレの子ドリュオプスは、彼の祖母イプチメの父ドロスが移住したパルナッソス山近くのスペルケイオス川付近へ移住した。[14]

その後、スペルケイオス川近くに住む人々は、ドリュオプスの名前に因んで、ドリュオプス人 (または、ドリュオペス)と呼ばれるようになった。[15]

 

3 ドリュオプスの娘ドリュオペ

ドリュオプスには、娘ドリュオペがいた。[16]

BC1362年、ドリュオペは、アンドライモンと結婚した。彼らには息子アンピッソスが生まれた。[17]

アンドライモンは、ロクリス・オゾリス地方のアンピッサの町に住むオレステウス (または、Oreius)の子ピュティオス (または、オクシュロス)の息子であった。[18]

オレステウスは、ヘレンの子ドロスの子デウカリオーンの息子であった。[19]

つまり、ドリュオペとアンドライモンは、ヘレンの子ドロスを共通の祖とする、3従兄妹同士であった。

 

4 ドリュオペの子アンピッソス

BC1340年、アンピッソスは、オイタ山の近くにオイタの町を創建した。[20]

オイタの町の建設には、スペルケイオス川近くに住んでいたドリュオプス人が参加した。

 

5 マリア人との戦い

BC1230年、ドリュオプス人は、ヘラクレス率いるマリア人との戦いに敗れて、ドリュオピス地方から各地へ移住した。[21]

ドリュオプス人を率いたのは、アンピッソスの子ドリュオプスの子クラガレウスの子ピュラスであった。[22]

 

5.1 戦いの原因

ディオドロスは、ドリュオプス人がデルポイの神殿に不敬を働いたことが戦いの原因だと記している。[23]

しかし、次のことから、この戦いは、ドリュオプス人とマリア人との間の戦いであったと推定される。

1) ドリュオプス人との戦いの伝承に、デルポイの神域を守っていたデルポイ人やポキス人が登場していない。

2) ドリュオプス人が追い出された後の土地を、マリア人が獲得した。[24]

 

5.2 戦いの結果

この戦いで、ピュラスは戦死して、彼の2人の娘たち、メダとポリュメレは捕虜になった。[25]

メダは、ヘラクレスとの間に息子アンティオコスを産んだ。[26]

アンティオコスは、アテナイの町の名祖たちの一人になり、彼の子孫アレテスは、ドーリス人の町コリントスの初代の王になった。[27]

また、ポリュメレは、アクトールの子エケクレスとの間に息子エウドロスを産んだ。[28]

この戦いには、ヘラクレスの友人アクトールの子メノイティウスもオプスの町から参加したと思われる。[29]

エケクレスは、メノイティウスの兄弟であり、エケクレスもプティアの町から、この戦いに参加して、ヘラクレスに加勢したと思われる。

 

5.3 ドリュオプス人の移住先

ドリュオプス人の一部は、キュトノス島やキュプロス島へ移住した。[30]

ドリュオプス人の一部は、ミュケナイの町のエウリュステウスのもとへ逃れて、土地を分けてもらい、アルゴス地方に、アシネ、ヘルミオネ、エイオンの町を創建した。[31]

ドリュオプス人の一部は、エウボイア島のステュラの町へ移住した。[32]

ドリュオプス人の一部は、エウボイア島のカリュストスの町へ移住した。[33]

ポキス地方のキッラの町の近くへ移住したドリュオプス人もいて、クラガリダイと呼ばれた。[34]

クラガリダイは、アンピッソスの子ドリュオプスの子クラガレウスの後裔と推定される。[35]

 

5.3.1 レムノスのドリュオプス人

また、ドリュオプス人の一部は、レムノス島へ移住した。[36]

彼らの中には、BC630年にテラ島からリビュア地方へ移住して、キュレネの町を創建するバットスの先祖エウペモスも含まれていた。[37]

レムノス島に住んでいたドリュオプス人は、ラコニア地方を経由して、BC1099年、テラ島へ移住した。

 

5.3.2 アシネのドリュオプス人

BC745年、アルゴス地方のアシネの町に住んでいたドリュオプス人は、アルゴス王エラトスに攻められて、町は、破壊された。[38]

アルゴス人とスパルタ人との戦いに、ドリュオプス人がスパルタ人に加勢した結果であった。[39]

アルゴス地方のアシネの町に住んでいたドリュオプス人は、ラケダイモンの町へ逃れた。[40]

BC724年、メッセニア人との戦いに勝利したスパルタ人は、ドリュオプス人にメッセニア地方の沿海の土地を与えた。[41]

ドリュオプス人は、メッセニア湾入口の西側にアシネの町を創建した。[42]

 

6 ドリュオピスの位置

6.1 ヘロドトスの記述

ヘロドトスは、次のように記している。

ドーリス人は、ピンドスからドリュオピスへ移り、ドリュオピスからペロポネソスへ移動した。[43]

ドーリス人の発祥の地ドーリスは、マリスとポキスの間にあり、昔はドリュオピスと呼ばれていた。[44]

ドーリス人は、エリネオス、ピンドス、ドリュオピスからペロポネソスへ移住した。[45]

つまり、ヘロドトスは、ドリュオピスとドーリスが同じ地方であり、ピンドスは、その地方の町ではないと認識していた。

しかし、ピンドスは、ドーリス人の母市テトラポリスの中の一つの町であり、ヘロドトスは、ドリュオピスについて誤って認識していた。[46]

 

6.2 ヘロドトス以外の記述

ストラボンは、ドリュオピスをヘラクレイアと共にオイタ地方の14の区の一つだと記している。[47]

アントニヌス・リベラリスは、ドリュオピスがヘラクレスの浴場の近くにあったと伝えている。[48]

ストラボンによれば、ヘラクレスの浴場は、テルモピュライの近くにあった。[49]

アントニヌス・リベラリスは、オイタ山周辺を支配していたダナオスの娘ポリュドレの子ドリュオプスがドリュオピスにアポロの神域を創建したと記している。[50]

 

6.3 ドリュオピスの位置の推定

以上の記述から、ドリュオピス地方は、トラキス地方とドーリス地方の間にあったと推定される。

ドリュオピス地方は、ドーリス地方と同じくテトラポリスから成り立っていた。[51]

 

7 オイタとパルナッソスの間の地域

7.1 年表

BC1420年、ヘレンの子ドロスは、オリュンポス山の近くのヒスティアイオティス地方からオイタ山とパルナッソス山の間へ移住して、ピンドスの町を創建した。[52]

その頃、ヒスティアイオティス地方は、ドーリス地方と呼ばれていた。[53]

BC1390年、ポリュドレの子ドリュオプスは、ペネイオス川近くからパルナッソス山近くのスペルケイオス川付近へ移住した。[54]

BC1250年、アクトールの子ケユクスは、プティアの町からオイタ山麓へ移住して、トラキスの町を創建した。[55]

BC1246年、アイニアネスは、イクシオンや彼の息子ペイリトウスが率いるラピタイによって、テッサリア地方のドティオンから追われた。[56]

アイニアネスの大部分は、オイタ山麓へ移住した。[57]

BC1230年、ドリュオプス人は、マリア人との戦いに敗れて、ドリュオピス地方から各地へ移住した。[58]

 

7.2 歴史

ヘロドトスは、ドリュオピスをドーリスの古い名称だと記している。[59]

しかし、両者は、別々の地方であり、ドーリスがドリュオピスより古い名称だと思われる。

つまり、オイタ山とパルナッソス山の間には、ドーリス人が先着して、その後、ドリュオプス人が遅れて移住して来た。

BC1250年、アクトールの子ケユクスが率いるドーリス人の支族ミュルミドン族が、プティアの町からオイタ山麓へ移住して、トラキスの町を創建した。[60]

ケユクスは、彼より遅れて、ドティオンからオイタ山の近くへ移住して来たアイニアネスの支族マリア人の首領の娘と結婚して、トラキスの町には多くのマリア人が住んだ。[61]

マリア人は、ヘラクレスの助けを借りて、ドリュオピス地方に住むドリュオプス人と戦った。

少し前に、ヘラクレスは、アイトリア地方のカリュドンの町から移住して来て、トラキスの町に住んでいた。

ドリュオプス人は、居住地から追い出されて、オイタ山とパルナッソス山の間の土地は、アイニアネス、マリア人、ドーリス人のものになった。

 

8 ドリュオプス人の出自

ドリュオプス人の名祖ドリュオプスの母は、ダナオスの娘ポリュドレであり、ポリュドレの婚姻に伴って、多くのペラスゴイ人がアルゴスの町からペネイオス川近くへ移住した。

 

8.1 ドリュオプスの父方の祖父の種族

ドリュオプスの父の母イプチメは、ドーリス人であったが、イプチメの夫の種族は不明である。

イプチメの夫の種族については、ドーリス人とペラスゴイ人の2通り考えられる。

1) ドーリス人

イプチメの夫がドーリス人であったとすれば、ドリュオプスは、ペネイオス川近くからオイタ山とパルナッソス山の間へ移住したとき、そこに先住していたドーリス人に合流したはずである。

しかし、ドリュオプスと共に移住した人々の中に、彼の父方のドーリス人より彼の母方のペラスゴイ人が多くいたため、先住していたドーリス人に合流できなかったのかもしれない。

2) ペラスゴイ人

イプチメの夫がペラスゴイ人であったとすれば、同じペラスゴイ人であるダナオスの娘ポリュドレとの結婚も理解できる。

しかし、ドロスの子デウカリオーンの息子たちに追われたペラスゴイ人が、ドロスの後裔が住んでいたオイタ山とパルナッソス山の近くへ移住するとは思われない。

 

8.2 ドーリス人の支族ドリュオプス人

ドリュオプスの娘ドリュオペがドロスの後裔アンドライモンと結婚していることから、イプチメの夫は、ドーリス人であり、ドリュオプス人は、ドーリス人から派生した種族であったと推定される。

 

9 ドリュオプス人の居住地の広がり

BC1390年、ドリュオプス人は、テッサリア地方南部のスペルケイオス川の近くで誕生した。

BC1230年、スペルケイオス川の近くに住んでいたドリュオプス人は、アルゴス地方、ポキス地方、エウボイア島、キュプロス島、レムノス島へ移住した。

 

10 ギリシア暗黒時代

ドリュオプス人は、アルゴス地方のアシネの町、エウボイア島のステュラの町、ポキス地方のキッラの町の近くに住んでいた。

 

おわり

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