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第48章 ミュルミドン人の系譜

Create:2025.10.30, Update:2026.2.16

1 はじめに

ミュルミドン族の名前の由来については、蟻に因んだ説があるが、名前に因んだ作り話である。

ストラボンは、島の住人が蟻のように土を掘っていたから、そのような名前で呼ばれたと記している。[1]

しかし、ミュルミドン族は、エウリュメドーサの子ミュルミドンの子孫の総称である。

ミュルミドンの本名は、トリオパスであった。[2]

ホメロスは、イリアスの中で、ペレウスの子アキレスに率いられた人々をミュルミドン族と呼んでいる。[3]

アキレス配下の5人の将は、すべてミュルミドンの後裔であった。

アキレス指揮下の第4隊を率いたアキレスの育ての親ポイニクスは、種族としてはラピタイであった。[4]

しかし、ポイニクスの父アミュントル (または、アルメニオス)の父オルメノス (または、オルメニオス)の母エウポレメイアは、ミュルミドンの娘であった。[5]

 

2 始祖ミュルミドン

2.1 ミュルミドンの母の故郷

ミュルミドンの母は、アケロイオス河神の娘エウリュメドーサと伝えられる。[6]

アケロイオス河神とは、クレトール (または、クリトール)であった。[7]

次の事から、このアケロイオス川は、アカルナニア地方とアイトリア地方の境になっている川ではない。[8]

1) ミュルミドンは、アイオロスの娘ピシディケと結婚して、アンティパスとアクトールが生まれた。[9]

2) アクトールの子エウリュティオンは、プティアの町からカリュドンの猪狩りに参加した。[10]

3) エウリュティオンの娘アンティゴネは、アイアコスの子ペレウスの妻であった。[11]

つまり、ミュルミドンの母の故郷は、テッサリア地方南部のラミアの町の近くのパラケロイタイと呼ばれる土地を流れて、スペルケイオス川に合流するアケロイオス川付近と推定される。[12]

パラケロイタイは、プティア地方にあった。[13]

 

2.2 プティアの歴史

プティア、あるいは、プティオティスは地方名と町の名前、両方で使用されている。

BC1560年、トリオパスの子ペラスゴスの娘ラリッサ一家がアルゴスの町のペラスゴイ人を率いて、テッサリア地方北東部のドティオン平原周辺に入植した。[14]

ラリッサの息子たちの一人プティオスが居住した地方は、プティオティスと呼ばれた。[15]

BC1390年、ラリッサの後裔たちに率いられたペラスゴイ人は、デウカリオーンの息子たちによって、テッサリア地方から追放された。[16]

デウカリオーンには4人の息子たち、アンピクテュオン、オレステウス、マラトニウス、プロノオスがいた。[17]

アンピクテュオンは、ロクリス地方のテルモピュライ付近にアンテイアの町を創建した。[18]

オレステウス (または、オレイオス)は、ロクリス・オゾリス地方へ移住した。[19]

マラトニウスは、シキュオンの町へ移住した。[20]

プロノオスは、ペラスゴイ人がいなくなったテッサリア地方のドティオン平原周辺へ移住した。[21]

テッサリア地方のドティオン平原に名前を与えたのは、ヘレンの子ネオノスの子ドトスであると伝えられる。このヘレンは、プロノオスの息子と推定される。[22]

 

2.3 ミュルミドンの父

ミュルミドンの子アクトールの子エウリュティオンの娘アンティゴネの夫ペレウスから系図で逆算すると、ミュルミドンが生まれたのは、BC1345年である。

また、系図を作成すると、ヘレンの子ネオノスはBC1370年生まれである。

テッサリア地方南部のパラケロイタイに住むクレトールの娘エウリュメドーサは、ドティオン平原近く、恐らく、プティアの町に住むヘレンの子ネオノスに嫁いだと推定される。[23]

したがって、ミュルミドンの父は、ヘレンの子ネオノスと推定される。

 

2.4 クレトールの母

系図を作成すると、エウリュメドーサの父クレトールはBC1405年生まれである。

その頃、クレトールが住むパラケロイタイの近くのスペルケイオス川付近にはドリュオペス (または、ドリュオプス人)の先祖が住んでいた。[24]

ペネイオス河神とダナオスの娘ポリュドレとの間の息子ドリュオプスであった。[25]

系図を作成すると、ポリュドレの子ドリュオプスはBC1410年生まれになる。

ドリュオプスとクレトールは兄弟で、クレトールは父のもとからパラケロイタイへ移住したと思われる。

したがって、クレトールの母は、ダナオスの娘ポリュドレと推定される。

 

2.5 クレトールの父

クレトールの父を推定するための手掛かりが2つある。

1) 1つ目の手掛かり

クレトールの父が、ダナオスの娘ポリュドレの夫ペネイオス河神だと伝えられていることである。[26]

ペネイオス川はテッサリア地方とエレイア地方にあった。

エレイア地方のペネイオス川は、アイオロスの子アイトリオスがテッサリア地方から移住して、エリスの町を創建した後で名付けられ、それは、BC1385年以降であった。[27]

クレトールの父の時代には、テッサリア地方にのみ、ペネイオス川があった。

したがって、クレトールの父は、テッサリア地方北部のペネイオス川近くに住んでいたと推定される。

2) 2つ目の手掛かり

テッサリア地方北部のペネイオス川近くに住む者とアルゴスの町に住む者の遠距離婚がどのようにして実現したかである。

BC1420年、ペネイオス川付近に居住していたヘレンの子ドロスは、トラキア地方から南下して来たカドモスやトラキア人の大集団に圧迫されて、パルナッソス山近くへ移住した。[28]

このとき、ドロスと共へ移住しないで、ペネイオス川付近に残留した人々もいた。

その中には、ドロスの娘イプチメ一家もいた。[29]

イプチメには、3人の息子たち、フェレスポンドス、リュコス、プロノモスがいたが、その中の一人がダナオスの娘ポリュドレの夫となり、息子ドリュオプスが生まれた。[30]

クレトールの両親の遠距離婚を可能にしたのは、ポリュドレの姉妹スカイアとアウトマテと、アカイオスの息子たちとの結婚であったと推定される。[31]

BC1435年、クストスの子アカイオスは、ペロポネソス北部のアイギアロス地方からテッサリア地方のメリタイアの町へ移住した。[32]

BC1420年、アカイオスは、カドモスやトラキア人の大集団に圧迫されて、アイギアロス地方へ帰還した。その後、アカイオスの2人の息子たち、アルカンドロスとアルキテレスは、アルゴスの町のダナオスの娘たちを妻に迎えた。[33]

彼らの結婚が、ポリュドレとイプチメの息子を結び付けたものと思われる。

ポリュドレは、テッサリア地方のペネイオス川付近に住むイプチメの息子のもとへ嫁ぎ、2人の息子たち、ドリュオプスとクレトールが生まれた。

BC1390、テッサリア地方に住んでいたペラスゴイ人は、デウカリオーンの息子たちに追われて各地へ移住した。

イプチメの一家は、イプチメの父ドロスの移住先の近くであるスペルケイオス川の近くへ移住した。[34]

したがって、クレトールの父は、イプチメの3人の息子たち、フェレスポンドス、リュコス、プロノモスの中のいずれかと推定される。

 

3 ミュルミドンの後裔

ミュルミドンの父ネオノスの父ヘレンの父プロノオスの父デウカリオーンの父は、ヘレンの子ドロスであることから、ミュルミドンはドーリス人の支族であった。

ミュルミドンの母エウリュメドーサの父クレトールの父の母イプチメの父は、ドーリス人の始祖ドロスであった。[35]

ミュルミドンは、アイオロスの娘ピシディケと結婚した。[36]

アイオロスは、ラピトスの息子であり、ミュルミドンの妻は、ラピタイであった。[37]

ミュルミドンには3人の息子たち、アクトール、アンティパス、エリュシクトン、そして、娘エウポレメイアがいた。[38]

BC1300年、ミュルミドンの子アクトールが父からプティアの町を継承した頃には、彼らの種族は、ミュルミドン族と呼ばれるようになっていた。

 

3.1 ミュルミドンの子アンティパス (または、アンティッポス)

アンティパスには、娘ヒッペアがいた。[39]

ヒッペアは、ペネイオス川近くに住むラピトスの子ペリパスの子エラトスに嫁いだ。[40]

 

3.2 ミュルミドンの子アクトール

アクトールには2人の妻たち、シキュオンの娘アイギナと、ダモクラテイアがいた。[41]

アクトールには、多くの子供たちが生まれた。

 

3.2.1 アクトールの娘アロペ

アロペは、叔母エウポレメイアの義理の息子エリュトス (または、エキオン)と結婚した。[42]

 

3.2.2 アクトールの子アイアコス

3.2.2.1 アイアコスの妻たち

アイアコスには2人の妻たち、プサマテと、エンデイス (または、エンダイス)がいた。[43]

プサマテとエンデイスは姉妹であり、彼女たちの父は、アテナイ王アイゲウスの実父スキュリオス (または、スキロン, キロン, スキロス)であった。[44]

つまり、アイアコスとアイゲウスは、義兄弟であった。

アイアコスは、パンディオンの死後、パンディオンの子ニソスとパンディオンの娘婿スキロンとがメガラの継承権を争ったときに、争いを仲裁した。[45]

アイアコス、ニソス、それに、スキロンが、アイゲウスを通して、義兄弟であったからであった。

当時、アイアコスは敬虔な人物として有名であった。[46]

 

3.2.2.2 アイギナ島への移住

BC1287年、アイアコスは、テッサリア地方からサロニコス湾に浮かぶオイノネ島へ移住し、後に島は彼の母の名前に因んでアイギナ島と呼ばれるようになった。

アイアコスが生まれたプティアの町から遠く離れたアイギナ島を結び付けたのは、つぎのように推定される。

アイアコスの母アイギナの姉妹サラミスは、サラミス島に住むスキュリオスに嫁いだ。[47]

アイアコスは、彼の叔母サラミスの嫁ぎ先近くのアイギナ島に入植したと思われる。

アイアコスは、アイギナ島へ移住する前に、ディアの町を創建していた。[48]

アイアコスは、ディアの町からミュルミドン族を率いて島へ移住し、島はミュルミドニアとも呼ばれた。[49]

アイアコスの2人の妻たちは、サラミス島のスキュリオスの最初の妻から生まれた娘たちであり、アイアコスの叔母サラミスの義理の娘たちであった。

つまり、アイアコスの2人の妻たちは、アイアコスの義理の従兄妹であった。

アイアコスとプサマテの間には、息子ポコス (または、ポイオス)が生まれた。[50]

また、アイアコスとエンデイスの間には、2人の息子たち、ペレウスとテラモンが生まれた。[51]

 

3.2.2.3 アイアコスの後裔

アイアコスの息子たちと、彼らの後裔については後述する。

 

3.2.3 アクトールの子エケクレス

エケクレスは、ドリュオピア地方に住むピュラスの娘ポリュメレと結婚して、息子エウドロスが生まれた。[52]

エウドロスは、アキレス指揮下の第2隊を率いた。[53]

 

3.2.4 アクトールの子メノイティウス

BC1262年、メノイティウスは、プティアの町からロクリス地方のオプスの町へ移住した。ロクルスの子オプスが、テルモピュライとエウリポス海峡の中ほどの地に町を建設する際に、メノイティウスが参加したものであった。オプスは、メノイティウスが気に入り、自分の息子キュノスに町を譲らず、メノイティウスに町を継がせた。オプスの子キュノスは、オプスの町の近くに、キュノスの町を創建した。[54]

BC1224年、メノイティウスは、ヘラクレスのエウリュトス攻めに参加した。[55]

メラネオスの子エウリュトスは、エウボイア島のオイカリアの町に住んでいた。[56]

 

3.2.4.1 メノイティウスの子アブデロス

アブデロスは、ヘラクレスのお気に入り(寵臣)であった。[57]

 

3.2.4.2 メノイティウスの子パトロクロス

メノイティウスは、プティアの町からペレウスの娘ピロメラ(または、ポリュメレ)を娶って、息子パトロクロスが生まれた。[58]

パトロクロスは、アンピダマスの子クリトニュモスを殺害して、オプスの町からプティアの町の彼の母方の祖父ペレウスのもとへ亡命した。[59]

プティアの町には、ペレウスの子アキレスがいた。アキレスはパトロクロスより少し年下であったが、パトロクロスの叔父であった。[60]

パトロクロスは、アキレスと共にトロイへ遠征して、戦死した。[61]

 

3.2.4.3 メノイティウスの娘ミュルト

メノイティウスの娘ミュルトがヘラクレスと結婚して、娘エウクレイアが生まれたという伝承がある。[62]

メノイティウスはヘラクレスの友人であったが、ヘラクレスの義父であったとする伝承はない。[63]

 

3.2.5 アクトールの子ケユクス

BC1250年、ケユクスは、プティアの町からスペルケイオス川をドリュオピア地方の方へ越えたオイタ山の麓へ移住し、トラキスの町を創建した。[64]

BC1246年、テッサリア地方北東部のドティオン平原に古くから住んでいたアイニアネス人が、イクシオンと彼の息子ペイリトウス率いるラピタイに追われて、オイタ山周辺に逃げ込んで来た。[65]

後に、ヘラクレスがトラキスの町へ移住して来たとき、ケユクス支配下のトラキスの町の住人は、マリア人 (または、メリス人)であった。[66]

恐らく、マリア人の首領の娘がケユクスに嫁ぎ、ケユクスがマリア人を率いることになったものと推定される。[67]

次の事から、マリア人は、アイニアネス人の支族であったと推定される。

1) マリア人は、マリア湾北側のオトリュス山麓のエキノスの町にも住むようになった。[68]

2) アイニアネス人がオイタ山付近からオトリュス山麓のエキノスの町まで居住範囲を広げた。[69]

ケユクスには、息子ヒッパソスと娘テミスティオネがいた。[70]

ケユクスにプティアの町から同行したミュルミドン族は、アイニアネス人の支族マリア人と混血して、マリア人に名前を変えた。

マリア人は、トラキスの町から東側のマリア湾周辺へ居住地を広げた。

 

3.2.5.1 ケユクスの息子ヒッパソス

ヒッパソスは、ヘラクレスと共にエウボイア島のオイカリアの町の支配者エウリュトスとの戦いに参加して、戦死した。[71]

ヒッパソスの子ヒュプセノールは、トロイ遠征に参加した。[72]

 

3.2.5.2 ケユクスの娘テミスティオネ

テミスティオネは、パガサイ湾北西にあるイトノスの町のキュクノス (または、キュグノス)の妻であったとする伝承もあるが、作り話と思われる。[73]

キュクノスは、テミスティオネの母の一族を追い出したラピタイの一員であった。キュクノスは、ヘラクレスと戦って、戦死した。[74]

 

3.2.6 アクトールの子ダイダリオン

AD1世紀の詩人オウィディウスは、ダイダリオンがトラキスの町のケユクスの兄弟だと伝えており、ダイダリオンもアクトールの息子であったと思われる。[75]

 

3.2.6.1 ダイダリオンの息子たち

BC5世紀の歴史家フェレキュデスは、デイオンの娘ピロニスには、ピラモンとアウトリュコスがいたと伝えている。[76]

BC1世紀の神学者コノンは、ピラモンが、アッティカ地方のトリコスの町に住んでいたヘオスポロスとクレオボイアの娘ピロニスの息子であったと伝えている。[77]

ヘオスポロス(または、エオスポロス)は、夜明けの明星のことで、人間としての名前は、フェレキュデスが伝えているデイオンと思われる。[78]

オウィディウスとヒュギーヌスは、ピラモンとアウトリュコスをダイダリオンの娘キオネの息子たちだと伝えている。[79]

しかし、パウサニアスは、アウトリュコスをダイダリオンの息子だと伝えている。[80]

系図を作成すると、ピラモンとアウトリュコスは、ダイダリオンの娘の息子たちではなく、ダイダリオン本人の息子たちとする方が妥当である。

 

3.2.6.2 ダイダリオンの妻

以上のことから、ダイダリオンの妻ピロニス (または、キオネ)は、トリコスの町に住むデイオンの娘であった。

つぎのことから、トリコスの町に住むデイオンは、第8代アテナイ王パンディオンであったと推定される。

1) デイオンの子ケパロスは、アテナイ人の王であった。[81]

2) デイオネオスの子ケパロスは、トリコスの町に住んでいた。[82]

3) デイオンの子ケパロスは、アッティカ地方のトリコスの町で、エレクテウスの娘プロクリスと結婚した。[83]

4) ヒュギーヌスは、多くの伝承がパンディオンの息子だと伝えているメガラ王ニソスをデイオンの息子だと伝えている。[84]

つまり、ケパロスは、デイオン (または、デイオネオス)という別名を持つアテナイ王パンディオンの息子であったと推定される。

つまり、ダイダリオンの妻は、アテナイ王パンディオンの娘であった。

 

3.2.6.3 ダイダリオンの子アウトリュコス

アウトリュコスは、パルナッソス山の近くに住んでいた。[85]

アウトリュコスは、アンピュテアと結婚して、息子アイシモスと娘アンティクリアが生まれた。[86]

 

3.2.6.3.1 アウトリュコスの子アイシモス

アイシモスは、アンティクリアの兄弟で、アイシモスの子シノンは、オデュッセウスの従兄弟であった。[87]

シノンはアルゴスの町に住み、トロイ遠征に参加した。[88]

ホメロスの物語では、シノンは、アカイア人が去った後、木馬と一緒にイリオンの町に残され、トロイ人を欺く役目を果たした。[89]

 

3.2.6.3.2 アウトリュコスの娘アンティクリア

アンティクリアは、イタカ島に住むアルケシオスの子ラエルテスと結婚した。[90]

アンティクリアとラエルテスの遠距離婚を可能にしたのは、血縁関係であった。

ラエルテスは、パンディオンの子ケパロスの子アルケシオスの息子であり、アンティクリアは、ラエルテスの又従兄妹であった。

 

3.2.6.4 ダイダリオンの子ピラモン

ピラモンは、カロプスの娘アルギオペと結婚して、息子タミュリスが生まれた。[91]

ピラモンと彼の息子タミュリスは詩人であり、ピュティア祭で賛歌を歌う競技会で勝利した。[92]

 

3.2.7 アクトールの子ハイモン

ハイモンの子ラエルケスの子アルキメドンは、アキレス指揮下の第5隊を指揮した。また、第3隊を指揮したペイサンドロスの父マイマロスも、ハイモンの息子であったと思われる。[93]

 

3.2.8 アクトールの子ピュッティウス

BC1280年、ピュッティウスは、プティアの町からペロポネソス半島のエレイア地方へ移住して、エニペウス川近くのサルモネの町の近くにブプラシオンの町を創建した。[94]

ピュッティウスの子アマリュンケスの子ディオレスの子アウトメドンはトロイ遠征に参加して、アキレスの戦車の御者をした。このことから、ピュッティウスもミュルミドンの系譜につながる者で、アクトールの息子であったと推定される。[95]

 

3.2.8.1 ピュッティウスの子アマリュンケス

アマリュンケスは父の跡を継いで、エリスの町の支配下にあったブプラシオンの町を治め、ヘラクレスのエリス攻めのときは、エリス王アウゲアスから将に任命された。[96]

アマリュンケスには2人の息子たち、ヒッポストラトスとディオレスがいた。[97]

ヒッポストラトスは、父の跡を継いだ。[98]

ディオレスは、エレイア地方の軍勢の一部を率いて、トロイ遠征に参加した。[99]

ディオレスの子アウトメドンは、アキレスの戦車の御者をした。[100]

 

3.2.9 アクトールの子エウリュティオン

エウリュティオンは、父の跡を継いでプティアの町を治め、娘アンティゴネをもうけた。

BC1256年、エウリュティオンは、アイアコスの子ペレウスをアンティゴネの婿に迎えた。

ペレウスは、エウリュティオンの甥であった。[101]

アンティゴネは、従兄ペレウスと結婚し、娘ポリュドラが生まれた。[102]

ポリュドラは、プティアの町からスペルケイオス川の近くに住んでいたペリエレスの子ボロスのもとへ嫁いだ。[103]

 

3.2.10 アクトールの子クティメノス (または、イロス)

BC1275年、クティメノスは、プティアの町からドロピア地方のクシュニアン湖近くへ移住し、クティメネの町を創建した。[104]

クティメノスとデモナッサの間の2人の息子たち、エウリュダマスとエウリュティオンは、アルゴ船の遠征の物語に登場する。[105]

ドロピア人のアミュントルとペレウスが戦ったと伝えられるが、そのアミュントルもクティメノスの息子と思われる。ペレウスは、アミュントルの子クラントールを人質として預かり、彼の盾持ちにした。[106]

しかし、アミュントルはペレウスの従兄弟と思われ、彼らの間に戦いがあったかは疑問である。

 

3.3 ミュルミドンの子エリュシクトン

エリュシクトン (または、アイトン)には、娘メストラがいた。[107]

エリュシクトンは、ドティオンの近くに住んでいた。[108]

BC1272年、メストラは、トリッカの町に住むデイマコスの子アウトリュコスに嫁いだ。[109]

BC1260年、アウトリュコスは、トリッカの町から黒海南岸のシノペの町へ移住した。[110]

メストラと共にドティオンの近くからトリッカの町へ移住したミュルミドン族もシノペの町への移住に参加した。[111]

 

3.4 ミュルミドンの娘エウポレメイア (または、エウポレミア)

エウポレメイアは、彼女の母ピシディケの弟ケルカポスと結婚した。ケルカポスは、イトノスの町に住んでいた。[112]

 

4 アイアコスの子ポコス

ポコスは、義兄弟のペレウスとテラモンに殺されたという伝承があるが、作り話である。[113]

BC1264年、ミノスがメガラ地方を攻めたときに、アイギナ島も巻き込まれた。[114]

戦いは、ミノスが勝利して、アイギナ島にはクレタ人が移住して、アイアコス一族と共住した。[115]

BC1256年、アイアコスの子ポコスは、ミュルミドン族を率いて、アイギナ島からポキス地方北部のナウボロレンセス (後のドリュメイア)の町の近くへ移住した。[116]

その町は、リュンケウスの子アバスの子デウカリオーンの子リュンケウスの子オルニュトスの子ナウボロスによって、少し前に創建されていた。[117]

ポコスには2人の息子たち、パノペウスとクリソスがいた。[118]

 

4.1 ポコスの子パノペウス

パノペウスは、父のもとからボイオティア地方との境近くへ移住して、パノペウスの町を創建した。[119]

パノペウスには、息子エペイオス (または、エペオス)と娘アイグレがいた。[120]

エペイオスは、トロイ遠征物語に木馬の製作者として登場する。[121]

アイグレは、アテナイ王テセウスと結婚した。[122]

 

4.2 ポコスの子クリソス

BC1240年、クリソスは、ナウボロレンセスの町の近くからデルポイの西側へ移住して、キッラ(後のクリサ)の町を創建した。[123]

クリソスは、ナウボロスの娘アンティパテイアと結婚して、息子ストロピオスが生まれた。[124]

ストロピオスは、アガメムノンの姉妹キュドラゴラと結婚して、息子ピュラデスと娘アステュダメイアが生まれた。[125]

 

5 アイアコスの子テラモン

BC1256年、テラモンはアイギナ島からサラミス島へ移住して、キュクレウスの娘グラウケと結婚した。[126]

その後、テラモンは、アルカトオスの娘エリボイア (または、ペリボイア)と結婚した。[127]

テラモンには2人の息子たち、アイアス (または、アイアス)とテウクロスがいた。[128]

 

5.1 テラモンの子アイアス

アイアスは、リュシディケと結婚して、ピライオス (または、ピリウス)が生まれた。[129]

リュシディケは、ラピタイのエラトスの子カイネウスの後裔であった。[130]

アイアスは、彼の母エリボイアの父アルカトオスが死ぬと、メガラ地方を継承した。[131]

アイアスは、トロイ遠征中に死去し、アキレスの子ネオプトレモスによって埋葬された。[132]

アイアスには、トロイ遠征中に2人の息子たち、アイアンティデスとエウリュサケスが生まれた。

 

5.1.1 アイアスの子ピライオス

ピライオスの妻は、アガメムノンの娘イピゲニアであったと推定される。

その理由は、つぎのとおりである。

1) ピライオスがメガラ王である父アイアスと共に住んでいたと思われるメガラの町にイピゲニアの英雄廟があった。[133]

2) ピライオスは、アッティカ地方のブラウロンの町へ移住した。[134]

3) イピゲニアは、アルテミスに仕える巫女となり、ブラウロンの町で死んだと推定される。[135]

4) イピゲニアの兄弟ヒュペリオンは、メガラ王を継承した。[136]

ピライオスの子孫には、BC6世紀にケルソネセに城壁を築いたキュプセロスの子ミルティアデスがいた。[137]

パウサニアスは、このミルティアデスをマラトンの将軍だと記しているが、ヘロドトスやフェレキュデスは、キュプセロスの息子だと伝えている。[138]

 

5.1.2 アイアスの子アイアンティデス

アイアンティデスは、アイアスがイリオンの町の南にあるコロナイの町のキュクノス (または、キュグノス)との戦いで捕虜にしたキュクノスの娘グラウケに産ませた息子であった。[139]

アイアンティデスは、アイアンティスの名祖で、マラトン近くに住んでいたと思われる。[140]

BC479年のプラタイアの戦いでは、ギリシア側の死者1360人のうち、アテナイ人は52人であったが、そのすべてが、アイアンティス出身者であった。[141]

 

5.1.3 アイアスの子エウリュサケス

アイアスは、ケルソネセの町からヘレスポントを越えたプリュギア地方を襲い、テウトラスと戦って殺し、彼の娘テクメッサを捕虜とした。[142]

エウリュサケスは、アイアスとテクメッサとの間に生まれた息子であった。[143]

エウリュサケスは、アッティカ地方のメリテの町に住み、そこには、エウリュサケスの聖域があった。[144]

 

5.2 テラモンの子テウクロス

5.2.1 キュプロスへの移住

BC1225年、テウクロスは、サラミス島からキュプロス島へ移住して、キニュラスの娘エウネと結婚した。[145]

キニュラスは、キュプロス島のパライパポスの町の創建者キニュラスの後裔であった。[146]

キニュラスの母は、キュプロス島の銅の産地アマトスの町の名付け親であった。テウクロスの移住の目的は、アマトスの町で産出される貴重な鉱石の交易のためであった。[147]

キニュラスは、ミダス王と共に、富豪の代名詞とされる人物であった。[148]

 

5.2.2 サラミスの創建

BC1186年、テウクロスは、トロイへ遠征中の彼の兄弟アイアスに加勢するために、キュプロス島からイリオンの町へ駆け付けた。テウクロスがイリオンの町に着いたとき、アイアスは戦死して、アカイア人が戦いに敗れた後であった。[149]

テウクロスは、移住を希望したトロイ人を連れて、キュプロス島へ帰還して、サラミスの町を創建した。[150]

 

5.2.3 テウクロスの子アイアス

BC1170年、テウクロスの子アイアスは、キュプロス島の北側の山地キリキアへ移住して、オルベの町周辺を支配した。[151]

BC6世紀、アテナイの町のソロンは、キリキア地方のアイペイアの町に住むピロキュプロスを説得して、町の下方の平原にソリの町を建設するのに協力した。そのピロキュプロスは、テウクロスの子アイアスの後裔と思われる。[152]

アイペイアの町は、堅固なばかりで、痩せた土地であったと伝えられ、アレクサンドロス大王が財貨保管場所にしたキュインダ (または、クィンダ)であったと推定される。[153]

 

6 アイアコスの子ペレウス

6.1 プティアへの移住

BC1256年、ペレウスはアイギナ島からプティアの町のアクトールの子エウリュティオンのもとへ移住した。ペレウスは、エウリュティオンの娘アンティゴネと結婚して、娘ポリュドラが生まれた。[154]

アンティゴネの父エウリュティオンの父アクトールは、ペレウスの父アイアコスの父であり、アンティゴネは、ペレウスの従妹であった。

エウリュティオンの死後、ペレウスがエウリュティオンの跡を継いだ。[155]

 

6.2 プティアの所在

BC5世紀の歴史家フェレキュデスは、ペレウスがパルサロスの町とテティデイオンの町に住んでいたと伝えている。[156]

そのパルサロスの町は、ストラボンが古いパルサロスの町と記している古い町であると思われる。ストラボンは、ペレウスの妻テティスに因んで名づけられたテティデイオンの町は、パルサロスの町と古いパルサロスの町の近くにあったと述べている。[157]

19世紀の英国王立協会員リークは、古いパルサロスの町がパルサロスの町のアクロポリスから東へ半マイルの距離にあったと推定している。[158]

パルサロスの町の東側をエニペウス川が流れている。古いパルサロスの町、つまり、プティアの町は、パルサロスの町の東側のエニペウス川の近くにあったと推定される。

 

6.3 ケンタウロスとの戦い

AD1世紀の詩人オウィディウスは、ペレウスは、プティアの町の西側のドロピア地方のクティメノスの子アミュントルと戦って征服したと伝えている。[159]

しかし、アミュントルはペレウスの従兄弟と思われ、戦いがあったかは疑問である。

BC1247年、ペレウスはアミュントルから彼の息子クラントールを預かって、彼の盾持ちにした。[160]

BC1246年、ラピタイとケンタウロスの戦いが起きると、ペレウスは、ラピタイに味方して、ケンタウロスと戦った。[161]

ペレウスの父アイアコスの父アクトールの母ピシディケは、ラピタイであった。[162]

 

6.4 イオルコスの内乱

BC1236年、イオルコスの町で内乱が発生して、ペリアスの子アカストスが殺害された。ペレウスは反乱を起こしたミニュアス人をテッサリア地方から追放した。[163]

この戦いで、ペレウスは、テティスを助け出して、プティアの町へ連れ帰った。テティスは、アカストスの息子の妻であったと推定される。[164]

ペレウスは、テティスと結婚して、息子アキレスが生まれた。[165]

 

6.5 ポイニクス

BC1230年、アミュントルの子ポイニクスは、オルメニオンの町からプティアの町のペレウスのもとへ亡命した。ペレウスは、ポイニクスにドロピア地方を与えた。[166]

ポイニクスは、彼の父アミュントルの又従兄弟ペレウスを頼って亡命した。

 

6.6 テティスの家系

6.6.1 テティスについての伝承

テティスの家系を推測するための伝承は、つぎの2つである。

1) パウサニアスは、ペレウスの異母兄弟ポコスの母は、テティスの姉妹であったと伝えている。[167]

パウサニアスは、ポコスの母がネレウスの娘プサマテだとも伝えている。彼は、海神ネレウスを介して、彼女たちが姉妹だと述べているようにも思われる。[168]

2) クレタ島のディクテュスは、テティスの父はキロンであったと伝えている。

ディクテュスは、そのキロンはケンタウロスとは記しておらず、ネレウスと同じであるように記している。[169]

 

6.6.2 ケンタウロスのキロン

テティスがケンタウロスのキロンの娘であったと記している史料はない。

それにもかかわらず、テティスの父キロンが、ケンタウロスと結び付けられたのは、BC5世紀の抒情詩人ピンダロスとBC3世紀の叙事詩人ロドス島のアポロニオスの影響と思われる。

ピンダロスは、ペレウスとテティスの祝いの宴がペリオン山であったように記している。[170]

アポロニウスは、ペリオン山のピリュラの子キロンの妻が、ペレウスの子アキレスを抱いていたと伝え、ケンタウロスのキロンがアキレスの祖父であるかのように記している。[171]

しかし、ラピタイによって、ケンタウロスがテッサリア地方から追い出されたのは、BC1246年であり、イオルコスの町が破壊され、ペレウスとテティスが結婚したのは、BC1236年である。

ピンダロスやアポロニウスが伝えている出来事の頃、ケンタウロスはペリオン山に住んでいなかった。

 

6.6.3 テティスの父

テティスは、「海の老人」あるいは「海神ネレウス」の娘だと伝えられている。[172]

ディクテュスがテティスの父であると伝えているキロンがペリオン山に住むケンタウロスであるとすれば、「海」とは関係がない。

ヒュギーヌスは、ペレウスとテラモンの母エンデイスの父がキロンであったと伝えている。[173]

アポロドロスやパウサニアスやプルタルコスは、「キロン」を「スキロン」と伝えている。[174]

 

6.6.4 海神ネレウス

プルタルコスは、アイゲウスの子テセウスと同じ世代に、サラミス島のスキロスの娘の子メネステスがいたと伝えている。[175]

つまり、アルゴ船の一員であるペレウスやテセウスは同世代であり、彼らの祖父の代にスキロスという名前の人物がサラミス島にいたことになる。

この人物は、アイゲウスの実の父であり、エウボイア島の北に浮かぶスキュロス島に名前を与えたスキュリオスと同一人物と推定される。[176]

アイゲウスの時代のアテナイ人には船の舵取りをする技術がなかったので、サラミス人が舵取りをしたと伝えられ、当時のサラミス人は海の民であった。[177]

したがって、サラミス島のスキュリオスがテティスの父であり、海神ネレウスであったと推定される。

つまり、テティスの父キロンは、アイゲウスの父であり、ペレウスやテラモンの母方の祖父スキュリオスであった。

 

6.6.5 スキュリオスの父

ケクロプスの子パンディオンが、スキュリオスの子アイゲウスを養子にして、アイゲウスがパンディオンの跡を継いで、アテナイ王になっていることから、つぎのように推定される。[178]

ケクロプスには、パンディオンの他に、キュクレウスとスキュリオス (または、スキロン, キロン, スキロス)という息子たちがいた。

ケクロプスと彼の息子たちは、異母兄弟メティオンとの争いによって、アテナイの町から追放された。[179]

キュクレウスは、サラミス島へ移住した。[180]

キュクレウスは、アテナイの町で神々と同等の尊敬を受けた人物であった。[181]

スキュリオスは、アテナイの町からスキュロス島へ移住した。[182]

スキュリオスは、キュクレウスの娘カリクロの婿であり、彼らの娘エンデイス (または、エンダイス)は、アイアコスの妻であった。[183]

サラミス島のキュクレウスが跡継ぎを残さないで死ぬと、スキュリオスは彼の息子にスキュロス島を任せて、サラミス島へ移住した。[184]

スキュリオスの息子にはアイゲウスもいたが、パンディオンの養子になった。[185]

スキュロス島には、アイゲウスの領地があった。[186]

 

6.7 ペレウスの死

ペレウスがトロイ戦争の後で、アカストスによって、テッサリア地方から追い出されたという伝承がある。その時、ペレウスやアカストスが生きていれば、100歳くらいの年齢になる。[187]

BC1230年に、アミュントルの子ポイニクスがペレウスのもとへ移住して、ペレウスがポイニクスにドロピア地方を与えた。[188]

恐らく、この出来事が信頼できるペレウスの最後の消息である。

BC1227年、ヘラクレスはアイギミオスからの要請でラピタイとの戦いを開始する。

この戦いに、当時、53歳と推定されるペレウスは登場しない。ペレウスは、ポイニクスを受け入れた後、しばらくして、彼は死んだと推定される。[189]

ペレウスが死んだ時、彼の息子アキレスは7歳くらいであり、ポイニクスに育てられた。[190]

アキレスは、ポイニクスの3従兄弟であった。

 

6.8 ペレウスの娘ピロメラ (または、ポリュメレ)

ペレウスとペリエレスの娘ポリュドラとの娘ピロメラは、オプスの町のアクトールの子メノイティウスへ嫁いで、息子パトロクロスが生まれた。[191]

パトロクロスは、アキレスより年上であったが、アキレスの甥であった。[192]

 

6.9 ペレウスの娘ポリュドラ

ペレウスとエウリュティオンの娘アンティゴネとの娘ポリュドラは、スペルケイオス川近くに住むペリエレスの子ボロスと結婚して、息子メネスチオスが生まれた。[193]

メネスチオスは、アキレス配下の第1隊を率いた。[194]

 

6.10 ペレウスの子アキレス

アキレスは、ペレウスとテティスの息子としてプティアの町で生まれた。[195]

アキレスは、トロイで戦死した時、47歳であったと推定される。

テルモピュライの英雄レオニダスや、アレクサンドロス大王の最強部隊アルギュラスピデスのように、60歳以上でも戦士であったことを考慮すると、アキレスは若い戦士であった。

アキレスは、スキュロス島のリュコメデスの娘デイダミアと結婚した。[196]

アキレスには、2人の息子たち、ネオプトレモス (または、ピュッロス)とオネイロスがいた。[197]

 

6.10.1 アキレスの子オネイロス

オネイロスは、ポキス地方でアガメムノンの子オレステスに殺された。[198]

恐らく、ネオプトレモスがデルポイ人と戦って死んだときに、オネイロスも戦死したと思われる。オレステスの親友ピュラデスは、デルポイの近くのキッラの町に住んでいた。[199]

 

6.10.2 アキレスの子ネオプトレモス

6.10.2.1 トロイ戦争時代

ネオプトレモスは、アキレスとリュコメデスの娘デイダミアの息子として生まれた。[200]

アキレスの死後、ネオプトレモスは神託によって、トロイの戦場へ招致されたと伝えられている。[201]

しかし、系図を作成すると、アキレスがトロイへ遠征した時、ネオプトレモスは26歳であった。

ネオプトレモスは、父アキレスと共に、プリアモスの子ヘクトールに味方するために、アカイア人を率いてトロイへ遠征した。アキレスやヘクトールが戦死すると、アカイア人は、トロアス地方から各地へ移住した。ネオプトレモスは、ヘクトールの兄弟ヘレノスとヘクトールの妻アンドロマケを連れて、モロッソス人の地へ移住した。[202]

ミュルミドン族は、モロッソス人に名前を変えた。

 

6.10.2.2 ネオプトレモスの定住地

ネオプトレモスがモロッソス人の地へ行って定住したのは、ドドナの北にある現在のパンブォティス湖近くのイオアッニナ平原であった。[203]

トゥキュディデスの「ペロポネソス戦争史」やアッリアノス の「アレクサンドロスのアナバシス」にエペイロスの王宮があった具体的な町の名は登場しない。

恐らく、知名度のない集落が数多く散在していたものと思われる。

 

6.10.2.3 ネオプトレモスの最期

BC1175年、ネオプトレモスは、デルポイを略奪しデルポイ人のダイタスの子マカイレウスとの戦いで戦死した。[204]

ネオプトレモスは、オレステスに殺されたとも伝えられる。オレステスは、キッラの町に住んでいたピュラデスと共にデルポイ人に味方してネオプトレモスと戦ったと思われる。[205]

 

7 エペイロス 王国

7.1 エペイロスの継承

ヘレノスは、ドドナの西方の海岸近くにブトロトンの町を創建した。[206]

リークは、ネオプトレモスがブトロトンの町に住んでいたと考えていた。[207]

しかし、ネオプトレモスはヘロピア地方に住み、ヘレノスがブトロトンの町に住んでいたと推定される。

ネオプトレモスの死後、エペイロスの王権はヘレノスが引き継いだ。[208]

その後、ヘレノスは、ネオプトレモスの子モロッソスをブトロトンの町に呼び寄せて、後を継がせた。[209]

ヘレノスとアンドロマケとの間の息子ケストリノスは、ブトロトンの町から少しアンブラキア湾寄りの土地へ移住して、ケストリアの町を創建した。[210]

モロッソスの死後、エペイロス の王統は、ヘロピア地方に住むネオプトレモスの子ピエロスに継承され、彼の後裔が代々エペイロス を支配した。[211]

 

7.2 モロッソス人の最期

BC2世紀、ミュルミドン族の後裔が住むエペイロスは、ローマとマケドニアとの戦いで、マケドニアに味方した。

BC167年、執政官アエミリウス・パウッルス率いるローマ軍によって、エペイロスの70の町は、略奪され、住民15万人が奴隷として売られた。それらの町のほとんどはモロッソス人の町であった。[212]

 

8 ミュルミドン族の居住地の広がり

BC1300年、ミュルミドン族は、テッサリア地方のプティアの町で誕生した。

BC1287年、プティアの町に住んでいたミュルミドン族は、アイギナ島へ移住した。

BC1280年、プティアの町に住んでいたミュルミドン族は、エレイア地方へ移住した。

BC1275年、プティアの町に住んでいたミュルミドン族は、ドロピア地方へ移住した。

BC1262年、プティアの町に住んでいたミュルミドン族は、ロクリス地方へ移住した。

BC1260年、プティアの町に住んでいたミュルミドン族は、トリッカの町を経由して、黒海南岸のシノペの町へ移住した。

BC1256年、アイギナ島に住んでいたミュルミドン族は、ポキス地方、プティアの町、サラミス島へ移住した。

BC1250年、プティアの町に住んでいたミュルミドン族は、テッサリア地方南部のトラキスの町へ移住して、マリア人に名前を変えた。

その後、トラキスの町に住んでいたマリア人は、マリア湾北側のオトリュス山麓のエキノスの町へ居住地を広げた。

BC1225年、サラミス島に住んでいたミュルミドン族は、キュプロス島へ移住した。

BC1186年、プティアの町に住んでいたミュルミドン族は、ドドナの近くへ移住して、モロッソス人に名前を変えた。

BC1170年、キュプロス島に住んでいたミュルミドン族は、山地キリキアへ移住した。

 

9 ギリシア暗黒時代

ミュルミドン族から名前を変えたモロッソス人は、エペイロス地方に住んでいた。

ミュルミドン族から名前を変えたマリア人は、マリア湾周辺に住んでいた。

また、ミュルミドン族は、黒海南岸のシノペの町、キュプロス島のサラミスの町、山地キリキアにも住んでいた。

 

おわり

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